ムッシュの読書紀行
人生は旅のようだと言いますが、旅が人生かも知れません。 ぼくは活字中毒気味でもあり、旅はまだまだ続くでしょう。
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美しいヒト
美しいなあって思う女性がいますね。
そうだね。

この美しいって感情はなんなんでしょうね。
なぜ美しいと思うのかということだよな。

そうなんですよ美の基準ってどこにあるでしょう。
ときどき考えていたんだけど、これかなってものに出会った。

N0502リボンの騎士

だれかが言ってたんだ。
養老先生がね。

「バカの壁」で有名ですよね。
問いを知らないのに、答えを知っている。

なぜだかそう思うときがあります。
そういうときに、われわれはそれを「美しい」というのかもしれない、と。

ふーん。
理屈にするなら、多次元空間の安定平衡点を見ているのかもしれない。

安定しているんだ。
そのとき、脳はおそらく余分なエネルギーを使う必要がない。

精神的にも省エネですよね。
つまり「疲れない」はずである。

わかる気がする。
だからこそ美しいものなら、人は「喜んで見ている」のである。

そうか、そういうことなのかもしれないです。
美しい人は見ているだけで楽になれるから、だれもが好んで見るというわけ。


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夢をみるヒト
夢も希望もないではなく、眠っているときに見る夢だ。
わたしは見ないですね。

そういうけど、たいていは見ているらしい。
そうなんですか。

見ないという人は起きたときに忘れているんだそうだ。
そうかなあ。

実験でも証明されている。
どんなふうに。

眠るときに脳波計を装着し、夢を見ているときの脳波が現われたとき起こす。
するとどうなるんですか。

たしかに夢を見ていたという。
そうなのか。

ほぼまちがいない。
そうなんだ。

夢も状況に影響を受ける。
どんなふうに。

眠っている人の横でマッチをする。
火薬のにおいをさせるんだ。

そうすると爆薬が破裂した夢とかを見るんだ。
夢占いとかってあるじゃないですか。

フロイトにも「夢判断」という本があるね。
どうなんですかね。

どうなんだろうな。
予知夢なんかどう思いますか。

こじつけの解釈が多いかな。
じゃあ、潜在的な欲望や願望が変形されて夢に現われているというのは。

あるかも。
ほんとうに。

夢のなかならすべて叶うかもな。

N0529ハンモック


波止場で読書
船が出てしまうと、やがてだれもいなくなる。さっきまでの喧騒はどこへ消えたのか。ひとり残って
海を見ていた。出会いと別離は裏表の関係がある。出会いがあるから別離がやってくる。別離のあと
に出会いが潜んでいる。そんなことをいっても別離の感情が慰められはしない。行ってしまったな、
と思う。なぜいっしょに行かなかったのか。答えははっきりしている。いつまでもいっしょという訳
にはいかないからだ。別れは早いほうがいい。そんな考えを忘れるためにベンチに座って本を開いた。
世界はどこにでもある。微生物は快か不快で行動を決定する。酸は不快だから避ける。糖は快だから
近づき取りこむ。単純だ。ヒトはどうして単純に生きることができないのか。理想があるからなんじ
ゃないの。比較するのよね、現実と。いつまでも旅する人って哀しいよね。そういうものかね。そう
は思わないの。わからん。再び本の活字を追いはじめた。答えなんかないわよ。行動あるのみか。

N0573本浦港

「『コーラン』を読む」 井筒俊彦 岩波現代文庫 ★★★★
世界にはいろんな宗教がある。そのなかでもユダヤ教、キリスト教、イスラム教は淵源を同じくして
いる。もっとも後発であるイスラム教とはどのようなものなのか。経典である「コーラン」をもとに
しての勉強をしたいと思った。日本での碩学の代表でもある井筒氏の著作を読んでみることにした。
公開講義の書籍化ということで語り口調の文が読み易い。しかし砂漠の地で誕生したのは思ったより
もちがいが大きいものだと感じる。ムハンマド(マホメット)はいったいどういう人物なのか。そこ
から読み解いていかなければならない。彼は神ではない。預言者なのだ。モーセもアブラハムもキリ
ストさえもイスラームの考えでは預言者なのだ。余談だが、預言と予言はちがうのでご注意を。預言
とは神がある特別な人にコトバを預けるということなのだ。その預言を集めたものが「コーラン」に
なる。ではそれを翻訳したものを読めばいいのかというとそうではないと井筒氏はいう。
『『コーラン』は遥か彼方のアラビアの、遠い昔の本。我々とのあいだには大きな距離がある。第一
に時間的な距離。もう一つは空間的な距離がある。今のコトバでいいますと、ライフ・コンテクスト
がまるで違う。『コーラン』が成立した頃のアラビアの人たちと我々とでは、生きる世界が違うので
す。七世紀のアラビア砂漠に生まれた言語テクストとしての『コーラン』を、現在の日本人である我
々には、そのまま読んでそのまま理解するということはできない。ライフ・コンテクスト、つまりフ
ッサールがいう「生活世界」がまるで違っているのですから。『コーラン』と我々との間を空間的時
間的疎隔がへだてている。その疎隔を越えて我々はこの言語テクストを読まなくてはならない。』
このライフ・コンテクストについての考えはわたしたちが忘れやすいことだ。注意しなければならな
いとわかっていてもつい忘れがちになる。それとキリスト教で有名な「はじめにことばありき」。こ
れはなにを意味しているのか。ときに考えていた。井筒氏はこう書く。
『イスラームばかりではなくて、広く『旧約』なども含めて、セム民族的な宗教感覚では――古代社
会では、どこでもそうかも知れませんが――名があるということは存在するということなのです。何
かが特定の名をもっているということは、そのものが存在するということ。従って、ものの名を知る
ことは、そのものを自由に処理する力をもつことです。』
名づけ、つまりことばにする。ことばが存在することをどう受け取ればいいのか。そこには一つの重
大な言語哲学的思想の萌芽を含んでいるというのだ。
『ものに名前があるということは、ものが存在するということ――それがこの思想の中心軸です。い
かなるものも、名づけられてはじめて存在する。名のないものは存在しないと同じ。『コーラン』だ
けの考え方ではありません。例えば、古代バビロニアの宇宙創造神話のなかでも、天地創造以前とい
うかわりに、「天地がまだ名づけられていなかった頃」という表現が使われています。「天地がまだ
名づけられていなかった頃」、すなわち天地が創造される以前ということなのです。明らかに、「名
づけられる」ということと「創造」ということとが同義的になっている。』
またイスラム教では、人が存在することすなわち神を讃美することであるという。どういうことなの
か。だれもが不可解と思うかも知れないがこうである。
『では、なぜ存在することが神を讃美するかというと、なによりもまず、何かが存在するということ
は、それが神に創造されたということだからであって、それゆえに、すべての存在者は己れの存在の
事実そのものによって神の創造の業を讃えることになるのです。そしてそれはさらに、神の創造行為
の底にある神の意図を讃えることでもある。』
なるほどね、とはならないが興味深い。大学生のころ、バートランド・ラッセルの「宗教は必要か」
「宗教から科学へ」を読んだ。だが内容をほとんど憶えていない。本棚のどこかにある。また読んで
みようかと思う。記憶のどこかになんらかの痕跡があるだろう。また掘り起こして考えてみたい。読
書はこうして自己のなかにたたみこまれていくのだ。

「ミスター・メルセデス」上 下 スティーヴン・キング 白石朗訳 文藝春秋 ★★★★
早朝の薄靄がたちこめる市民センターには職を求めて多くの人々が集まっている。その群集めがけて
メルセデス・ベンツが突っこんできて多数の死傷者がでた。犯人は逃亡し事件は未解決のまま残され
る。彼はミスター・メルセデスと名づけられることになる。事件の担当だったホッジス刑事はやがて
定年退職をむかえた。そんなある日彼のもとに犯人からだという挑発の手紙が届く。彼はなにが目的
でこうした事件を起こしたのか。車は盗難車だった。車の持ち主オリヴィア・トレローニーは責任を
感じてか自ら命を絶った。オリヴィアが亡くなったあと、彼女の妹のジャネルから真相究明の依頼を
うける。そしてホッジスは独自に事件を再度洗いなおすべく動きだす。近くに住む黒人の高校生であ
るジェロームとジャネルの従姉妹で中年のコンピュータおたくのホリーとの協力を得ながら犯人をさ
がしはじめる。一方、犯人フレイディ・ハーツフィールドはアルコール依存症の母親とふたりで暮ら
していた。彼は家電量販店と移動販売車でのダブルワークをこなしていた。その仕事の傍らホッジス
の動向に注意をむけてもいたのだ。彼の生い立ちもある意味不幸で複雑な家庭環境なのだった。そん
なある日冷蔵庫に隠していた毒入りの挽肉を母親が知らずに調理し食べ死亡する。事故ともいえるこ
のことに彼はいらだつのだ。ついに彼は最後の大量殺人計画を実行する決断をする。その顛末はどう
なるかは読んでいただくしかない。またこのホッジス、ジェローム、ホリーのトリオで続編があると
いうことなので楽しみにしたい。


テーマ:最近読んだ本 - ジャンル:本・雑誌

桜を求めて
島を後にしてそのまま帰るのもと思い湯原温泉で一泊することに。
事前の天気予報では晴れのはずだったのだが、なぜか雨が降る。

岡山県新庄村の桜を観にいく。
近くのリニューアルされた道の駅「がいせん桜 新庄宿」に車をとめる。
平日だがすでに満車にちかい。

しとしとと雨が落ちてくる。
これはこれで風情があるものだ。
天気がよければたいへんな人出になっていたことだろう。

N0582がいせん桜

N0595新庄宿

空の青さがないので桜の淡い色が際立たない。
人生晴ればかりではないということだろう。

N0585雨と桜

ここは古くからの宿場町である。
がいせん桜通りを歩く。

途中にある脇本陣を見学する。
住居のそこここに年輪を感じる。
どんな暮らしをしていたんだろう。
この格子越しに桜をながめていたんだろうな。

N0591街道を見る

中庭には数日前に降ったという雪が残っていた。
ずいぶんと寒い地方なんだとわかる。

これから土手沿いにある枝垂桜が開花していくのだという。

桜の花がハラハラと散りゆく。
また次なる季節へ、すべて世はこともなし。

N0598枝垂桜


テーマ:真鍋島の愉快な仲間 - ジャンル:旅行

真鍋島を歩く
周囲7.6キロのちいさな島を歩く。
道というのか雨の降ったときの溝というのか判然としないような小径をいく。

ウグイスが鳴いている。
まだ初心者の鳴き方だ。

四国八十八箇所を模した石仏になぜかこころ安らぐ。
人はなにかに拠りどころを求める。

N0542石仏

昔、昭和四十五年ころだったという。
島を訪れる青年たちが「野鳥の森」と名づけた場所に桜の苗木を植えはじめた。

やがて成長した桜は春になると花を咲かせる。
そんな楽天的な夢をいだいた。
だが自然はそうあまくはない。
雑草が生い茂り蔓草が巻きつく。

それでもいくらかの桜の樹は残った。
その花びらが地を覆う。
すでに満開の時期は過ぎ去ったのだ。
わずかにひこばえの花が残る。

N0547散りし桜

N0549ひこばえ

島を稜線をつたって歩くと左右に海が見える。
暑からず寒からず絶好の日和だ。
若いころに乙女たちと歩いた。
彼女らはいまも元気だ。
おたがい元気で暮らせますように。

N0559八幡宮

なぜか島の石仏たちも微笑んでいるかのようだ。
人のこころは対象に映しだされる。

N0543千手観音


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島を旅するときが楽しいですね。
遠くに眺めるのも好きです。
楽園なんてないんですけどね。

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