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梅園で読書

2024-02-18 | 20:00

ゆるやかに風が吹いていた。すこし匂うような花の香がする。はてさて近くになにかあるのかなと見
渡してみた。まだ寒さは去ってはいないのだが、ほんのすこし春の気配も感じられる。人よりも植物
のほうが先に季節を感じるのだろうか。ちらほらと梅の花が咲いているのが見える。見物に訪れてい
る人たちもいるようだ。まだ満開には至らないがすこし暖かくなってきたのだろうか。こうして季節
はめぐってゆくのを感じるわけだな。すこし立ちどまって梅の花をながめてみた。日本では断然桜が
人気だが、中国では古くから花といえば梅だと聞いたことがある。どちらも似たような花を咲かせる。
東屋があったのですこし休憩することにした。花をながめているといろんなことが脳裏をかすめてい
く。人は記憶で成立しているという。記憶をなくした人を思ってみる。記憶喪失した人は自分を自分
と認識できなくなる。これからもいろんな記憶を積み上げていくんだろうな、と思いつつ本を読む。

N7844紅梅

「イスラム教入門」中村廣治郎 岩波新書 ★★★
イスラム教の聖典といえばコーランであることはだれもが知っているだろう。ではそのコーランとは
どのように成立したものなのか。

『コーラン(厳密には、アル=クルアーン)とは、アラビア語で書かれたイスラム教の根本聖典のこ
とである。それは、預言者ムハンマドが最初の啓示を受けた六一〇年から死の六三二年の間の折々に
下された啓示を、預言者や周囲の人々が記憶しメモしていたものを、預言者の死後に集め記録したも
のである。
 コーランはその本来の意味(「読誦」)からもわかるように、もともと、記憶した者が周りの人々
に声に出して朗誦するものであった。』

はじめから書物に書かれたものではないということだ。イスラム世界ではいろんなところで朗誦のコ
ンテストも行われているという。またムスリムが信仰者として何を実践すべきかを明らかにしたのが
シャリーア(イスラム法)であるという。では国家の憲法との関係はどうなるのだろうか。

『イスラム法(シャリーア)とは不思議な法である。ムスリムの信仰や儀礼のみならず、広く日常生
活に関わる包括的な規範と考えられながら、今日ではほとんどのムスリム諸国でシャリーア裁判所は
なくなり、近代法体系にとって代わられている。にもかかわらず、イスラム法は各種の高等教育機関
で研究され教育もされているし、年々多くの著作も刊行されている。
 このことは、シャリーアの性格をよく物語っている。シャリーアはイスラム法とはいえ、けっして
近代的な意味での法律・実定法ではなく、むしろよくいわれるように道徳的義務論である。それは、
社会の必要に応じて人間がいつでも随意に変えられるルールではなく、時代の変化をこえて普遍的に
妥当する超越的規範とも考えられるのである。』

イスラム教徒は日々の行動を近代法ではなくイスラム法に従っておこなう。憲法よりイスラム法が優
先するということ。中国でいえば憲法より中国共産党が上位にあるということと似ているのかもしれ
ない。ただイスラム国ではあっても、すべてがイスラム教徒ではない。そうしたときどういった対処
がなされるのかについてこう述べてある。

『イスラム法はその本性上、原則としてムスリムにしか適用されない。しかし、ムスリムはムスリム
だけで孤立しては生きていけない。そこで法学者たちは、ムスリムがいかに異教徒とつき合うべきか
について規範を求めた。これは大きく二つに分かれる。一つはイスラム国家内の異教徒に対して、他
は外国の異教徒およびその国家との対応である。
 まず一についてであるが、イスラム法では世界を二つの地域に大別する。一つは「イスラムの地」
(ダール・ル・イスラム)で、他は「戦争の地」(ダール・ル・ハルブ)である。前者は、イスラム
的秩序が実効支配している領域のことである。必ずしも単一のイスラム国家が支配している必要はな
い。それ以外の地域が「戦争の地」である。とはいえ、両地域が常に戦争をしているわけではなく、
すべてが「イスラムの地」になるまでは潜在的にそうだということである。』

このようにイスラム教ではその信仰と共同体を守り発展させるために積極的に行動し戦うことが説か
れているのだ。こうした行動をとることはムスリムの宗教的義務なのである。しかし国際社会のなか
では軋轢を避けるために一定の規範があった。それらを前例として、「正しい戦争」(聖戦)の定義
・条件、停戦、捕虜などに関することがイスラムの「国際法」として細かく規定されてくる。ではあ
るが今日ではさまざまな法改革によってそのままの形ではほとんど適用されていない。それだけに原
理主義者の間ではイスラム法の再導入を求める声が出てくるわけだ。他の宗教と同様に、イスラム教
においてもいろんな分派が生まれている。分派発生の母体はスンニー派である。現代まで続いている
主な分派は、ハワーリジュ派とスンニー派の小分派であるザイド派、一二イマーム派、イスマーイー
ル派、およびドゥルーズ派、ヌサイリー派、アフマディー派などがあるという。ニュースなどでも聞
いたことのある派もあるがいまひとつそれぞれの特徴はとらえきれないのだ。まだまだいろんな関連
する本を読んで勉強していくしかないのかもしれない。しかしイスラム教は現代において無視するこ
とができないおおきな宗教であることはたしかだ。

「夏目漱石と西田幾多郎――共鳴する明治の精神」小林敏明 岩波新書 ★★★
夏目漱石と哲学者の西田幾多郎には共通項がある。漱石は一八九〇年に帝国大学文科大学英文科に入
学し、三年後には大学院に進んでいる。一方、西田幾多郎は一八九〇年に四高を中退して、そのまま
一八九一年に帝国大学文科大学哲学科選科に入学し一八九四年にそれを修了している。ということで、
漱石と西田が直接顔を合わせたのは、西田が大学に在学していた一八九一年から一八九四年七月まで
の三年間ということになる。しかし同じ帝大とはいえ、漱石は本科生、西田は選科生という事実があ
る。西田は高等中学を正式に卒業していないので本科生の試験を受ける資格がなかった。選科生とい
うのは今日でいえば、聴講生のようなもの、この課程を修了しても学士の資格は得られない。だから
東京大学の卒業者名簿にも西田の名前は載っていない。「かかる不満な学校をやめても、独学でやっ
ていける」と四高を蹴って意気揚々と上京してきた西田だった。だがこの待遇のちがいに西田はしば
しば落ち込むことがあったという。ところで、漱石の文名を一躍高めたのが、一九〇五年一月から俳
誌『ホトトギス』に連載された『吾輩は猫である』であることはよく知られている。この『ホトトギ
ス』を創刊したのは漱石の親友正岡子規だ。だが漱石を国民的レベルの流行作家にまで仕立て上げた
のはマス・メディア、すなわち新聞の力だったのだ。まさに時代とともに変化しているのを感じざる
を得ない。漱石が権威のブランド東京帝大と一高のポストをなげうって朝日新聞専属の職業作家とな
ったのは一九〇七年の春ことだ。まさに出版資本主義に時代がやってきていたのだ。それ以前には、
作家は筆だけでは食べていけなかった。だが明治末には資本に支えられたプリント・メディアが急激
に勢いを増してきていた。

『ナショナリズム研究で知られるベネディクト・アンダーソンは、「国民(ネーション)」の形成に
は「出版資本主義(プリントキャピタリズム)」が一役買うことを指摘しているが(『想像の共同体』
)、漱石を「国民」作家にまで仕立て上げるきっかけとなった朝日入社は、まさに日本における「出
版資本主義」の勃興と軌を一にしているのである。』

こういう観点から西田を見るとどうなるだろうか、と筆者はいう。西田のベストセラーは、いうまで
もなく「善の研究」である。当時「哲学雑誌」の出版を請け負っていた弘道館から出版される。しか
しベストセラーとまではいかない。だが一部の若い熱狂的読者を生み出した。それを全国的なレベル
にまで引き上げたのは「出版資本主義」の業者による演出が一役買ったのだ。その業者とは岩波書店
だ。一九一三年、かつて一高で漱石に習ったこともある岩波茂雄が神田神保町に古書店を開業する。
その彼が旧師漱石に再会して出版したのが「こころ」(一九一四年)であった。これが岩波の出版事
業開始のきっかとなったといわれる。つづいて同じ年に岩波は親友阿部次郎の「三太郎の日記」を出
版する。これが若い読者の間で人気を博するのだ。だがこの阿部もまた漱石の教え子だった。その三
年後、まだ無名の新人だった倉田百三の戯曲「出家とその弟子」を出版、ベストセラーとなる。さら
に一九二一年に西田の「善の研究」の再版と倉田のエッセイ集「愛と認識との出発」で相乗効果によ
り再びセンセーションを巻き起こしたのだ。こうした岩波書店による「哲学ブーム」の演出に数年先
立って、最初の漱石全集が創業わずか四年の岩波から出ている、出すことができたのである。のちに
西田が亡くなった直後に出版された西田全集ともども二人の全集が岩波から出たことは象徴的である。
個人的にはほとんど直接交流のなかった漱石と西田が、図らずも岩波書店というプリント・メディア
の場で出会っていたということだ。漱石はいうまでもない。しかし西田は構造化できるような哲学体
系を作ろうとしたことは一度もない。だからか西田の哲学は難解だといわれる。

『こういう「不可解」な西田の文章が今日依然として読まれつづけるのはなぜだろうか。私は、そこ
に既成の思索を破ったり、超えたりするような新たな思考の可能性があるかもしれないという予兆め
いた期待が、読者の側にはたらくからだと考える。』

しかしこうも難解な不可解な文章がもちあげられるのか。とくに哲学などでは難解ゆえに高尚だと思
う向きがある。なんなんだろうか。哲学はむずかしいもの、むずかしい文章はむずかしいことを表記
するものだからしかたがない。というような理解構造になっているのだろうかと疑問に思う。むずか
しい文章だからありがたいだけでは理解はすすまないんだけども、と思うのだが。加えて時代は変化
してきていた。漱石と西田が必要とした「新しい革袋」が登場してきていたのだ。文語体ではない「
言文一致」の運動である。これについて筆者はなかなかの見解を示している。

『この「言文一致」という標語は事態を正確には伝えていないことを知っておく必要がある。これは、
よく誤解されているように、たんに「文」=書き言葉を「言」=話し言葉に一致させることではない
からである。実際にそのような試みもないではなかった。また大雑把に見れば、「文」が「言」の方
向に歩み寄ったことも確かである。
 しかし、実際に起こったことは、たんなる話し言葉への接近というより、むしろ話し言葉に近い「
新しい書き言葉」の創出というべきである。たとえば、今日われわれが普通に使っている言葉の末尾
「である」は、「です」「ます」と並んで、このときの産物であるが、「である」を日常の話し言葉
として使う人は今日でもいない。それは新しい「書き言葉」として定着した言葉だからである。』

なるほど、そういうことなのか。そんな明治時代の漱石と西田に興味がまた湧いてきた。

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Theme : 最近読んだ本
Genre : 本・雑誌

メジロとウグイス色

2024-02-14 | 20:00

ウグイス色とは鶯の羽のような暗くくすんだ黄緑色のことなのだ。
これは江戸時代からの色名だそうだ。

だが当時は茶系が流行色であったため鶯色を茶色がからせた『鶯茶(うぐいすちゃ)』のほうが粋な
色として人気があった。
当時「ウグイス」といえば『鶯茶』を指していたのだ。
イメージとしては茶道の師匠が着ている羽織の色が想像される。

その色名となったウグイスだが、実際に見かけることは少ない。
以前ならウグイスは自宅で飼われる人気の鳥だった。

だがいまは法律が変わって飼うことができない。
それに引き換えメジロは住宅地でも見かける鳥なのだ。

庭にミカンなどを置いておくとすぐにやってくる。
甘いものが好きな鳥なのだ。

可愛い容姿は見ているだけでなんとなく楽しくなる。
その色もウグイス色に似ている。

だからよく知らない人はこの鳥を色名との連想でウグイスと思ったりすることがある。
でもちがいますよ、目の周りが白いでしょ。

N7865メジロとミカン

だから目白っていうんですがね。

はるかなる読書

2024-02-05 | 20:00

ものごとの真理はどこにあるのか。そもそも真理というものは存在するのか。はたまた存在すると仮
定して、人はそこに到達することができるのか。などとぼんやり考えたりしながら旅をしていた。だ
からか土地土地にある自然の造形物にもなんらかの意志が働いているのだろうかと思ったりもした。
ダーウィンはそれらの観察から神ではなく進化という概念に到達したのだろう。人がときに比喩的に
進化とよぶものは進化ではない。ときには進歩でもなかったりする。地球誕生以来の悠久の時間のな
かで変化してきたものがあるのだろう。まさにある意味、輪廻転生するのだ。科学の言葉でいえば、
質量保存の法則ということになるだろうか。たとえば、紙が燃えてなくなったという。紙という状態
のものはなくなったかもしれないが紙を構成していた原子は消えてはいない。ちがった結合の分子状
態になっただけだ。科学はそうしたことを解き明かしてきた。しかし解けない問題は常にあるのだ。

N7794パイロット船

「光合成とはなにか ――生命システムを支える力」園池公毅 ブルーバックス ★★★
光合成ってたしか学校で習ったなあと思いだす人が多いと思う。植物が光のエネルギーを使って水を
分解して酸素を発生させ、空気中の二酸化炭素が固定されてデンプンなどの有機物になるというのが
光合成反応だ。ということで光合成の原動力は太陽からの光なのだ。太陽光のありがたさを感じるば
かりなのだ。では太陽光エネルギーというのはどれほどのものなのか。太陽の光は四方八方に拡散し
ていくから、地球に届くエネルギーは1.8×10の17乗Wになるという。これでも元の約20億分
の1になるという。これを人類のエネルギー消費と比較してみると、太陽光1時間分で、人類のエネ
ルギー消費をまるまる一年間まかなえる計算になるというのだ。つまり地球に降り注ぐ太陽エネルギ
ーを100%利用することができたら、人類のエネルギー問題は即座に解決するというわけだな。し
かし問題点がある。それは光のエネルギーとしての「薄さ」だという。地球に降り注ぐ太陽光エネル
ギーを単位面積当たりでみると、1平方メートルあたり1.4kwにしかならない。家庭で使うような
単位でしかないのだ。面積が必要なのだが、その点では植物も同じである。そのために作りあげた装
置が薄く平べったい「葉」ということになるのだ。さてこのような光合成だがその研究の歴史はすく
なくとも17世紀にまでさかのぼる。

『アリストテレスの時代には、植物は「自然に」大きくなると考えられていました。しかし、17世
紀になってベルギーのファン・ヘルモントが植物の成長には水が必要であることを示しました。』

鉢植えの柳の木に毎日水だけをやって、5年後に重さを量ってみると、柳の木の重さは大きく増えて
いたのに、土の重さの減少はほんのわずかであったという実験だった。ではその増えた重量はどこか
らやってきたのかということになる。次いで、フランスのマリオットとイギリスのヘールズが17世
紀末にから18世紀の初めにかけて植物が二酸化炭素を吸収することを見いだした。そして18世紀
の後半にイギリスのプリーストリーが植物による酸素の発生を発見する。その後植物による酸素の発
生には光が必要なことがわかったわけだ。つまり、二酸化炭素と水と光から有機物(デンプン等)が
作られて酸素が発生するというわけだ。ノーベル賞は1901年から授賞が始まっている。そのなか
で光合成関連の研究に与えられたノーベル賞は10個もあるのだ。ノーベル賞には生物学賞というの
はないので、すべて化学賞なのがすこし興味を引く。ノーベル賞も時代とともに変化するべきなのか
どうかはわからないけど。しかしまだまだ光合成についての研究は続いているようなのだ。最後に筆
者はこう述べている。

『「光合成とは、光のエネルギーによって環境中の物質から還元力を取り出し、その還元力とエネル
ギーを用いて行う代謝系を全て含む反応」ということになります。このように定義した場合、事実上、
光合成生物の細胞の中のほとんどの反応は、窒素同化であれ、イオウ同化であれ、全て光合成と考え
るべきであるということになります。光合成生物が「光のエネルギーを使って生きる」という選択を
した時に、細胞内のほとんどの反応は、光合成として位置づけられることになったのでしょう。光合
成とは「植物の生き方」そのものなのです。』

光合成によって地球のほとんどの生物が養われている。だから光合成を知るということは、生命を理
解するということにつながる。逆に光合成がなければ地球上の生物は立ちゆかないということだ。

「宿敵 (上)(下)」リー・チャイルド 青木創訳 講談社文庫 ★★★★
ジャック・リーチャーは大学のキャンパス内で男子学生が怪しい男たちに拉致されようとする現場に
居合わせる。リーチャーはその男たちを射殺する。そのうえ、現場にいた警察官をも誤って射殺して
しまう。なんとか男子学生を救出して現場から逃走する事態になってしまうのだ。警察官殺しは重大
な犯罪だ。ここからふたりの逃亡劇がはじまる。だがこれは仕組まれたものだったのだ。じつはその
前にリーチャーが十年前に息の根を止めたはずの宿敵クインをボストンで目撃していた。忘れもしな
いその顔に当時の光景がよみがえってくる。司法省の麻薬取締局の捜査官スーザン・ダフィーから非
公式の協力を求められてのことだったのだ。オリエンタルラグの輸入商のベックの大邸宅への潜入捜
査を引き受けた。これも忘れもしない悪党を見つけだすためのことだった。救出されたザカリー・ベ
ックの息子リチャードはリーチャーに自宅まで送ってほしいと頼む。リーチャーはこれを了承する。
なにせ彼は警察官殺しの重罪人なのだから、どこかに身を隠す必要がある。潜入捜査の内容というの
はベック邸に潜入していた女性捜査官が消息を絶っていたからだ。なんとかして手がかりをつかまな
ければならない。リーチャーは限られた期間のなかで捜査を続けていく。麻薬取締官たちはベックに
は裏の顔があるとにらんでいた。ラグの輸入ではなく麻薬の取引に関係しているのではないかと。事
実がすこしづつ明らかになってゆくと意外なことが起こった。ベック邸にはアルコール・タバコ・火
器及び爆発物取締局(ATF)の捜査官も潜入していたのだ。捜査官同士の間での連絡はない。おま
けにダフィーは上から捜査の許可を取っていない状態でだったのだ。息をつかせないほどの迫力で繰
り広げられるリーチャーとベック邸のボディガードたちとの争い。おまけにベックには頭のあがらな
い黒幕がいる。それがクインなのか。人間業とも思えないリーチャーの行動にはらはらさせられる。
物語は思ってもいなかった方向へと進展していく。しかし読みながらしばしば混乱をきたすだ。アメ
リカの警察組織は日本人には分かりづらいところがある。ミステリを読んでいると市警とは別に保安
官が登場したりする。たとえばニューヨーク市警とかロス市警など都会の警察官や刑事である。また
郡部では保安官が警察の仕事をしているのだ。日本でいえば各地の県警と警視庁のような関係になる
のだろうか。それに司法省管轄の、アルコール・タバコ・火器及び爆発物取締局(ATF)や麻薬取
締局(DEA)というのもよく出てくる。さらに有名なのが連邦捜査局(FBI)だ。やはりアメリ
カ合衆国という国家の成り立ちのせいもあるのだろう。おまけに主人公のリーチャーは元陸軍憲兵隊
の少佐だった経歴を持つ放浪者なのだ。このシリーズは映画でも人気がある。原作のリーチャーは身
長2m近くもある大男なのだが、映画ではトム・クルーズが演じている。まあ、映画だからいいかと
いう感じなのだろう。

Theme : 最近読んだ本
Genre : 本・雑誌

風邪ひき読書

2024-01-31 | 20:00

いくら本を読むのが好きだからといって、いつも読んでいるわけではない。あたりまえだ。ケーキが
好きだからといってつねにケーキを食べていられるわけがない。そういうことなのだが、時間があれ
ば余裕がもてれば本を読んでいたいなと思う。しかし人とは脆弱な生物でもある。いったん風邪でも
ひいて寝込んだりしたならどうだろう。身体は全力で侵入してきた風邪ウイルスに対抗しようとする
だろう。免疫機構も全精力をかたむけて対処する。体温を限度まであげてウイルスを無力化しようと
するだろう。もう意識が本を読みたいなどと思う余地はないのだ。体力はすべてウイルスとの戦いへ
と向かっているのだから。それでも一応の小康状態が訪れれば、意識はやっと他の方向へとむけられ
もするだろう。なんだか本でも読みたい。たしか読みかけていた本があったのではないかと。そんな
ときに身近に本があるとホッとする。表紙をつくづくながめて、こんな本を読もうとしていたのだと。

N7789ビルヂング

「ダーク・アワーズ (上)(下)」マイクル・コナリー 古沢嘉通訳 講談社文庫 ★★★★
レネイ・バラードはロス市警ハリウッド分署深夜勤務担当刑事だ。ブラック・ライヴズ・マター運動
がロス市警にも逆風となっていた2020年のころである。二人組のレイプ犯(ミッドナイト・メン)
を追って大晦日の警戒態勢のなか、年越しの瞬間の騒ぎにまぎれて銃による殺人事件が発生する。被
害者は元ギャングだったがいまは完全に足を洗っていた。そんな彼がなぜ殺されたのか。現場にたま
たま残されていた薬莢は10年前の未解決事件で使われてたものだった。その事件担当は、ハリー・
ボッシュだったのだ。いまやダーク・アワーズの完全なる住人となったレネイ・バラードの相棒は、
いまひとつ仕事に集中する気がないリサなのだ。バラードはボッシュと連絡を取りふたつの事件の捜
査に乗りだすのだった。ロスといえばいはや、MLBのドジャースの本拠地として日本での知名度は
曝上がりだろう。観光がてら大谷や山本のゲーム観戦に訪れようとする日本人も多いだろう。さて、
ロスとはどういう土地柄なのだろうか。本編ではこのように説明されているのだ。

『ロサンジェルスを知りたければ、サンセット大通りをはじまりからビーチまで車で通ればいいと言
われている。それは旅行者がLAのすべてを知ることになるルートだった――その文化や栄光だけで
なく、その数多くの亀裂と欠点を。三十年まえに、組合運動と市民権運動の指導者を記念して、いく
つかのブロックがセザール・E・チャベス・アヴェニューという名に改められたダウンタウンからは
じまり、ルートは旅行者たちを、チャイナタウン、エコー・パーク、シルヴァー・レイク、ロス・フ
ェリズへ運び、そこから西に曲がって、ハリウッドとビヴァリー・ヒルズ、ブレントウッド、パリセ
ーズを横切り、最終的に太平洋にぶつかる。その過程で、四車線道路は貧困地区と裕福な地区のなか
を通り抜ける。ホームレスのキャンプがあり、大邸宅があり、エンターテインメントと教育、カルト・
フード、カルト宗教のイコン的な施設を通過する。百の都市がありながらもひとつの都市である通り
だった。』

決して平穏な大都市ではないようだ。だからギャングもいるし卑劣な事件も発生する。それでも人び
とは暮らしているのだ。科学技術の進歩がかならずしも人類の平和へとはつながらない。それはノー
ベルが発明したダイナマイトが証明している。発明・発見はどちらへでも転ぶということを人は経験
的に知ってはいるのだが。そう悲観的にばかりなる必要はないのかもしれない。バラードとボッシュ
のコンビがいる限りと思わせてくれるミステリの読後感はすこし安らかない気持ちになれるかもしれ
ないのだ。というようなことで次作にまた期待したいと思うのだ。

「SDGsの大嘘」池田清彦 宝島社新書 ★★★★
世はまさにSDGsブームの感がある。で、SDGsってなにか。日本語訳は「持続可能な開発目標」
という。持続可能な開発ってどういうことなのか。持続可能であるためにはある時点で開発はやめる
べきではないか、と考えるのがふつうだろう。持続可能な開発ってありえないと思うけどね。しかし
だれもがそんなことは考えない。そこに問題はある。なんとなくイメージで生きているとそういうこ
とになる。SDGsには17の目標がある。そんななかでも、これってどうなんだと池田氏はいう。

『「1.貧困をなくそう」「2.飢餓をゼロに」「6.安全な水とトイレを世界中に」「7.エネル
ギーをみんなに そしてクリーンに」という目標を達成するためには、現在の世界人口にあたる79
億人に見合うような食料や水、そしてエネルギーというリソースが必要だが、現時点で、すでに供給
量が必要量を下回っていると思う。』

地球上のエネルギーには上限があると思う。それをあたかもないかのように目標を立てる。はなから
実現可能だなんて思っていないのだろう。そこになんとか儲けを見出そうとする輩ばかりである。も
ちろんテレビやメディアはそのおこぼれ頂戴に奔走する。池田氏はいう。世界の人口は79億人まで
膨れ上がり、さらに増加する勢いなのだ。本気で「貧困をなくそう「「飢餓をゼロに」という目標を
達成しようと思ったら、陸や海の豊かさを守ることは不可能だ。やはり究極的には、世界中で「みん
なで協力して人口増加を抑制していきましょう」と呼びかけるしかないだろう。ヒトは二十世紀初頭
には約16億5000万人の人口だったのだ。いまや79億人、いくらなんでも増えすぎだと思うん
だけど。生物学的な見地からでも、未来の世代のことを考えれば人口を抑制するしかない。食糧もエ
ネルギーも上限はある。手遅れにならないうちに手を打たないとと思う。しかし世界はそういう方向
へはむかわない。それではうまみがないからなのだ。つまり儲からないということ。「エコ」や「脱
炭素」もそのほんとうの目的はどこにあるのだろうかと考えてみればいいのだ。

『EUやイギリスが近年になって「エコ」や「脱炭素社会の実現」と叫んで、ガソリン車を規制して
電気自動車の普及に力を入れているのは、純粋に「地球環境のため」というよりも、「自分たちのた
め」という側面が大きい。
 国際社会で「脱炭素」の主導権を握ってこれを推進して世界中に広めていけば、化石燃料をあまり
持っていない自分たちの弱さは軽減できる。ロシア、アメリカという資源を山ほど持っている大国と
優劣の差を埋めることができる。そういう戦略をずっと進めてきているわけだ。
 これをさらに後押しするのが、SDGsだ。』

「人為的地球温暖化」というのも、いまになってみると説得力ゼロである。2020年までに人為的
地球温暖化で甚大な影響が出る、という予測がたくさんでた。しかし、ほとんどがハズレだったのだ。
21世紀初めにキリマンジャロの雪は2020年には消滅するという有名な予測がアル・ゴアたちか
ら出た。もう忘れてしまったのかもしれないが今に至るまで雪は消滅していないのだ。それを報じる
メディアはない。なんということだろう(笑)。池田氏のいうように、なにもしないのがいいのかも
しれないなと思ってきた。余計なことはしない。これがあんがい正解だったりして。世のなかの科学
者も細分化された専門分野に閉じこもってしまっているので大局観がないのだろう。気になる方々は
本書を読んでいちど自分の頭で考えることをおすすめする。しかし、世のなか金ばかりに目の色を変
える奴ばかり、というのはいつの世も変わらないのか。

Theme : 最近読んだ本
Genre : 本・雑誌

孤独になれないヒト

2024-01-26 | 20:00

ひとりになるのがなにか恐いです。
あっ、いわゆるいつも繋がっていないと不安になるというやつかな。

そうかもしれないです。
他人の評価が気になってしかたがないことの裏返しかもしれん。

メールやLINEの返事がすぐに返ってこなかったりすると。
もしや怒っているんじゃないかと。

もしかしてなにか失礼なことをしたのかもって思ってしまうんです。
考え過ぎのような気がするけどね。

でも、そんなことないですか。
気にしたことないような気がする。

強いんですね。
それより、だれだって忙しいときやのんびりゆったりしたいときだってあるだろう。

そういう考えが思いうかばないんですよね。
疲れているんじゃないの。

そういわれれば、そうかな。
他人のことを必要以上に気にしているんだ。

でも気になりませんか。
思っているほど他人はあなたのことを思っていない。

そういうことなんですよね。
でもどこかで気にはかけている。

そうか。
人って最後はひとりなんだから。

そうですね。

N7837目出鯛