ムッシュの読書紀行
人生は旅のようだと言いますが、旅が人生かも知れません。 ぼくは活字中毒気味でもあり、旅はまだまだ続くでしょう。
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夢みるとき
だれでも毎日夢をみているんだよと話していた。
そしたら、わたしは夢はみないとおっしゃる方がいた。
そうなんですか。
どうしてそう思われるんですか。
だって、見ないから見ないと言ってるの。
でもね、普通は目覚めると忘れてしまうらしいですよ。
そんな経験もないですか。
ないわよ、夢なんていいことないし。
(えっ、みてるんじゃないの)
(まあ、そういうことにしておきましょう)

こういう方は自意識万能である。
わたしが認識しないものは存在しないも同様だ。
ある意味、唯我論といえるかもしれない。
カエサルの言う、「人はみな自分の見たいものしか見ない」に似ている。

慣れてくると夢のなかで、あっ、いま夢を見ているんだなとわかることがある。
だから白黒かカラーかは意識していると記憶することができる。
どちらの場合もある。
さらに夢の続きを見ることもできたことがある。

ただそれがすべて夢だったのでは、という疑問は残る。
そこが人生は夢幻のごときものという所以なのだ。

夢みない人生なんて、あるのだろうか。

N8674ツリー


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夢のなかへ
夢といえば、井上陽水の歌が聞こえてくる。
♪ 夢のなかへ行ってみたいと思いませんか、というフレーズが印象的だ。
夢はだれでも毎日のように見ているというのが通説だ。
しかし、ほとんど目覚めたときあるいはしばらくすると忘れてしまうのだという。

記憶に残る夢はすくない。
だがひさしぶりに刻印されるかのような夢を見た。

若いころの仲間たちと集まっていた。
なんだか銭湯にいるような気がする。

そのうちみんなはいなくなって、彼女とふたりになった。
なぜか路面電車のホームに立っていたが、はやくどこかへ行かないとと気が焦った。
ふたりきりになったし腕を組みたいが、誰かにみつかると嫌だなあと思いふみとどまる。

さてどこへ向かえばいいものか。
どうも東京の銀座あたりのようだが、下町のようでもある。
どっちへ行けばいいか彼女に聞くが知らないという。
東京に住んでいるだろうにどうしてなんだと疑問に感じた。

しかたがないないなあ。
そのとき、通りの向こうのガラス窓にふたりが映っていた。
それを写真に撮ろうとするが、なんどやってもなぜかシャッターがおりない。

そうこうしているうちにカメラフリークらしき女が近寄ってきた。
これはコンデジだから、そんな専門的な話はできないというのになおも近寄ってくる。
ふたりのあいだに割り込んで邪魔をしようというかのようだ。
とにかく写真を撮ろう。
ああ、シャッターがおりないと格闘しているうちに目が覚めた。

もっと夢のなかにいたかった。
で、彼女って誰なんだ。
それがわからないのだった。

夢って理不尽でもある。

N8651サンタ


記憶は反芻する
なんども書いているが、記憶は写真とはちがう。
上書き可能なパソコンデータのようなものだ。
そうだ、化粧にたとえられるかもしれない。
厚化粧、薄化粧、ナチュラル化粧(やや意味不分明)。

地顔(記憶)の上に何層もの化粧がほどこされていく。
いつのまにか別人のようになっていく。
(このあたりのテクニックはすごい)
化粧にも流行があるようで時代とともに変化していく。
古い映画をみるとその様子がよくわかる。

アフリカの部族における戦のためにする化粧は圧巻である。
化粧は興奮と同時進行である。
人格が変化するのだ。
戦闘モードへの儀礼といってもいい。
化粧は戦場に赴くための準備だ。

N8159蓮の葉

顔と記憶は密接に結びついている。
青春時代に会った人とひさしぶりに再会する。
容貌は確実に変化している。
他人からみれば面影が残っているのかどうかもあやしい。
だが、かすかな記憶から同一人だとわかる。

その時点から、目の前にいるあなたは今だけのあなたではない。
眼前のあなたに、青春時代のあなたを重ね見ている。
なんどもなんども重ねて修正してあなたを認識するのだ。

記憶がいつも美しいのはそのためだろうか。


記憶の意味
記憶をなくすと自分というものもなくなってしまう。
想像してみればいい。
自分が誰だかわからないのだ。
もしかすると、誰かであるということすら考えられない。

「あれっ、なにも思いだせない」
「いままで、なにをやっていたのだろう」
「うーん、わからない」
「ここはどこなんだ」
「どうしてここにいるんだろう」
「わたしって、だれなんだ」
「だれか、わたしのことを知らないか」
「絶海の孤島にひとり生きているような感じがする」
「群衆のなかにいるのに、ひとりぼっちだ」

記憶とはアイデンティティのことだといってもいい。

個人は、だれかが誰誰くんなどと呼んでくれることにより存在する。
絶海の孤島にひとりでいるなら、自分という概念は不要だ。
たぶん、鳥や魚が仲間だという認識に達するかもしれない。
(ペットは自分が人の仲間だと思っているのではないか)

なぜこんなことを考えるかというと、
ある朝起きたときにそんな感覚を経験したことがあったからだ。
とてもうろたえるというか、混乱したことを思いだす。

ある種の宗教体験にそのようなことがあると読んだことがある。
記憶がなくなると自己というものが希釈されていくだろう。
自己拡散というのか、自己と他者のというより宇宙との境界がなくなっていく。
一体になるといったほうがいいのだろうか。
つまりは死という概念もそこには成立しないのだろう。
だから多幸感にみたされるのだという。
(逆説としての死はあると思うのだが)

N8228あじさい等


オンリーワン
ときどき、オンリーワンになりたいなどという発言を聞く。
たぶんこの歌詞だな。
♪ナンバーワンにならなくてもいい
 もともと特別なオンリーワン♪

よく読んでごらん、と言いたい。
もともと(特別かどうかは知らないけど)オンリーワンなんだ、と。
身も蓋もない言いかたをすれば、なるもならないもオンリーワンなんだから。
逆に、オンリーワンでなかったら見分けがつかない(笑)。
あなたはクローンか、ってことになってしまう。

だが、そういうことをいいたのじゃないことはわかっている。
個性的でありたい、というのとおなじ意識構造なんだろうと思う。
個性的であろうとすることの無意味さがわかっていない。
個性的な事象とか、物があるわけではない。
個性的なというのは第三者の評価だということだ。
人の口に戸は立てられない、というではないか。
コントロールできないことは一目瞭然である。

なんというのか、方向がまちがっているのではないか。
自分を探すなどという犬の尾っぽを追いかけるようなことしてどうするの。
自分に向いた道なんてあるわけがない。
なにかを一生懸命やっているうちにわかってくるものじゃないかな。
はっきりいって、あなたのことなどだれも(大自然も含めて)気にしてないんだから。
でもねえ、どこかで気にしているヒトはいるかもしれない。
言い訳ばかり言ってるヒマなんかないんじゃないの。

と夢のなかで説教したりしていて、おどろいて目が覚めた。

N5308若いふたり




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島を旅するときが楽しいですね。
遠くに眺めるのも好きです。
楽園なんてないんですけどね。

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