ムッシュの読書紀行
人生は旅のようだと言いますが、旅が人生かも知れません。 ぼくは活字中毒気味でもあり、旅はまだまだ続くでしょう。
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旅のおわり
旅の記憶というのは不思議なもので、唐突によみがってきたりする。
忘れていたのではなかったのだ、というようなことも多々ある。
思い違いというのも散々経験してきた。
なぜ思い違いだとわかったのか。
日記というほどのものではないがメモが残っていたりする。
記憶とメモ、どちらが信用できるのか。
そうなんだよな、記憶ってあまりあてにはならないな。
世のなかの争いで記憶を根拠にしているものは、ほぼ疑ってかかるのがいい。
もちろん、意識的であろうが無意識であろうが、記憶は書き換えられる。
おまけに嘘も三度言えば、真実(事実)になるともいう。

それはさておき、頼りにならない記憶をたどってこれを書いている(笑)。
だから、ある意味書かれている出来事はフィクションである。
あるいは妄想の産物といってもそう的外れではない。
ただ、しばしば事実が混じるのが面倒なのだ。

そんななか思いだすのはなんだろうか。
寒い朝にでかけて、手に息を吹きかけながら暖をとった。
列車の窓が内外の温度差のためか、雪の結晶のように白く輝いていた。
聞こえてくるのはレールが線路とこすれてたてる音ばかりだ。
ふうーと吐いた息が白い煙のように一瞬あたりに立ちこめる。
すこしづつ暖房がきいてきてホッとする。
真冬の列車での旅だった。

季節はすぎて、車窓の景色は一変する。
水はぬるみ蓮華の花が田を埋めつくすなかを列車は走る。
ところどころ黒い土のままのところもある。
暖かな風とともに旅すればこころも軽やかになる。
人はなぜ生きるのだろうかと考えることもある。
潮風に乗って飛ぶ海鳥たちの姿がまばゆい。
自由の意味も知らないで旅する春は気楽だった。

旅慣れてくるにしたがって荷物はちいさくなる。
その日の夜に洗濯すれば着替えも必要ない。
もくもくとたちのぼる積乱雲のもと、屹立する針葉樹の森をぬけた。
林道をたどって足元をみつめながら歩くのは嫌いではない。
地面にはちいさな花が咲いているし、蟻たちが石ころを乗り越えていた。
俺はいったいなにをやっているのだろうか。
だれもいない湖では、青緑のさざなみがたっていた。

いつのまにか風はさわやかになっている。
いろんなところで植物には実がなる季節に変化していた。
花から実へと、つまり個体発生は系統発生を繰り返すということなのか。
どこからともなくいいにおいがしてきて食欲をくすぐる。
もうそんな時間になっていたのだ。
暮れてゆく空をながめていると、いろんな記憶がにじんでくる。
あったかくて薫り高いお茶がのみたいなあ、という匂いの記憶なのだった。

過ぎ去ったことは、すべて懐かしいということでもない。
旅の記憶も楽しいことばかりではない。
喧嘩別れのようなことも多々ある。
あとからあのときこうしていたら、と悔やむこともあった。
しかし、時はとまることなくすぎさっていった。
それでも旅していろんな自然、町、人と出会えてよかった。

だけどやはり思う、「サヨナラダケガ人生ダ」なのだ。

N8305女性


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旅のこころ
クライド・クラックホーンの著書に「人間の鏡」がある。
アメリカ人だから、人類学ではなく文化人類学である。
他人を見るとき、そこにはある意味自己が投影されているといわれる。
「ひとの振り見て我が振り直せ」ということである。
あなたが誰かを嫌うと、相手もあなたを嫌う。
そのまた逆も真なり、という。
もちろん、なんにでも例外はあるということを忘れてはいけない。

文明と文化はちがう。
なにがちがうのか、案外よくわかっていなかったりする。
エジプト文明、インダス文明などある。
アメリカ文化、ヨーロッパ文化などという使い方をする。
文化には高尚なものという意味はない。
文化は行動様式のことだと社会学で習った記憶がある。
文化は多様で正しいとかはないと、いまでもなぜかよく憶えている。
キモノを着る、下駄をはく、箸をつかう、トイレの後紙でふく、これらすべてが文化である。

横道にそれるが、文化住宅というものがあった。
つまりアパートメント、集合住宅なのだがちょっと高級感をあたえていた。
フランス語ならアパルトマンになる。

ことばはすぐに錆びる。
で、別のもっと活きのいいものに取り替える。
これでしばらくは安泰だ。

そういえば、「旅行」と「旅」ということばがある。
どちらもおなじような意味だと思うが、ニュアンスが異なるらしい。
団体であるいはパックツアーは「旅行」。
ひとりで、あるいは少人数で予定も決めないでするのが「旅」だとか。
だから、「団体旅行」はあるが「団体旅」はない。
「ひとり旅」とはいうが「ひとり旅行」とは言わない。
どちらでもいいと思うが、こだわってもかまわないんじゃないか。
考えているうちに、なにか閃くものがあるかもしれない。

「ひとり旅行」って、なかなかいい感じがする。
これからの時代「ふたり旅」なんてのもあるのかなあと夢想する。
「ことば」は時代とともに変遷する。
移ろいやすいのは人の世の常でもある。

N8009西門紅楼

ひとりとふたり、ヒトはいつも交差する。

  二人デ居タレドマダ淋シ、
  一人ニナツタラナホ淋シ、
  シンジツ二人ハ遣瀬(やるせ)ナシ、
  シンジツ一人ハ堪ヘガタシ。

詩集「白金之獨樂」の最後のほうにある「他ト我」である。
旅をするなかで、ひとり空を山を島をながめているときがある。
するとこの白秋の詩がうかんでくる。
ときどき、この二人と一人がどっちがどうだったかわからなくなる。

わたしの感覚は、一人より二人のほうが遣瀬ないし堪えがたいのではないかという。
それがまたわたしの孤独をきわだたせている。

一人という概念は、二人以上いなければ成り立たない。
つまり、一人しかいなければ「ひとりっきり」なんて意味がないのだ。


旅のしくみ
サルの実験である動作をしているときに興奮する神経細胞があった。
ところが、この動作を見ているだけのサルもおなじ神経細胞が興奮した。
これはミラーニューロンと名づけられている。
この発見は非常に重要なことだと考えられている。
人が共感するということは、このミラーニューロンのせいだ。
もし、このミラーニューロンに欠陥があればどうなるか。
他人の感情が理解できない人というのは、そのためではないか。
自閉症との関連も当然考えられる。

ヒトは複雑である。
もちろん、微生物だって十分に複雑なのだ。

いろんな形の生命がありそれらすべてで地球生態系を構成している。
そう思えば、自分という存在がいかにちっぽけなものなのかがわかる。
しかしながら、ちいさいと重要とは比例関係にはない。
おおきいと大切も正比例しない。
「人の命は地球よりも重い」という比喩は偏っている。
もちろん、他の生命体を軽んじているのではないのだろう。
だから「すべての生物の命は地球よりも重い」の含意があるのだろう。

3099赤トンボ

ヒトもクジラもウシもゴキブリもおなじように生物である。
好きだとか嫌いだとかとはちがう物差しをもちたい。
しかし、ものごとはそう単純には割り切れない。
ヒトの行動原則の根本にあるのは、好きか嫌いかだという。
嫌うことを嫌ってはいけない。
好きだということのすべては生きるための指針だ。
単純化すれば、食べられるものは好きで、毒は嫌いだということになる。

しかしである、人は嫌いな理由をいろいろと考えだす。
その最たるものは、生理的に受けつけない。
なるほど、差別しているのではないといいたいのだろう。
どういう生理学的な変化によるという説明はない。
生理的つまり生得的なものなのだからしかたがない。
主義や心情ではないですよ、アプリオリなんだからということらしい。

そう考えることにより自己防御のバリアをきずく。
うすうす、根拠が弱いなとも感じているのかもしれない。
嫌いだから嫌いだ、という人を軽蔑している。
軽蔑しながら、羨ましい気持ちが捨てきれない。
好きだから好きだ、ならいえそうな気がする。
嫌いはなぜ言えないんだろう。

「他人を嫌ってはいけません」と教えられた。
これはドグマ(教条)としてこころの底に潜んでいる。
だから嫌ってはいないんだ。
生理的だからしかたがないでしょ、ということになるらしい。
人生(哲学)は疑うことからはじまる。
疑うことをおそれてはいけない。
なにかをしないでいるということを恐れなければならない。

ドグマが蔓延すれば教条主義になる。
そのドグマを疑え、と学んだ。
疑うというのが嫌なら、それが正しいのか道筋をたどりながら考える。
やっぱり正しいとなれば、どれだけすっきりすることだろう。
こころが清々するのではないか。
そんなところから人生の旅をはじめてみる、のはどうか。


旅のかたち
人生はひとの数だけあり、まったくおなじ人生というのはない。
旅も同様に旅人の数だけあり、おなじ旅をすることはできない。
だが、他人はどんな旅をしているのかとは興味のわくところだ。
そういう意味では、他人の旅の話をきくのはおもしろいことでもある。

旅は非日常といわれ、ふだんの暮らしとはちがう。
ハレとケの関係といってもいい。
一昔前の旅行にはかならず新調の服を着たりしたのはそのせいだろうか。
また、旅は日常からの逃避だといわれたりもする。
しかしながら、いつかは日常にもどってくるという前提もある。
日常から旅へ、また旅から日常への循環というとらえ方もできる。

旅は人生のようだとも、人生は旅であるともいわれる。
つぎつぎと思いがけない出来事に遭遇していく旅もあるのだ。
かと思うと流れるようにすぎていったこともある。

美しい風景よりは人との出会いのほうが印象には残る。
なぜなんだろうか。
ヒトが社会性をおびた生物であるからなんだろうか。
こうして書いていてもつぎつぎと想い出はうかんでは消える。

いろんな顔が、そして島での別れの情景がよみがえる。
ちぎれんばかりにふられていた白いタオルが空に弧をえがく。
連絡船に乗るわたしは言葉を発することさえ忘れていた。
じっとその動きを光景をみつめているだけだった。
気がつけば、隣で女性が涙をうかべていた。
出会うということは、別れることを意味するのだと知った。

ずるずると滞在を続けるのは別れがこわいからだ。
笑って話したあとでひとりになると考えこんでしまう。
だれかを愛したということではない。
なにも約束することはなかった。
「流れ者に女はいらない」という映画のセリフ。
陳腐だと思っていたが、唐突にうかんでくる。
なんの関係があるというのだろうか。
それでも知らずしらずに視界がかすんでくるのだ。

3520天体観測台

こうした経験がいろいろと人生を教えてくれたのだといまでは思う。

人生は出会いと別れのくりかえしだと歌う。
メロディはこころのひだをふるわせるように響く。
いくつ越えればいいのだろうか。
どれだけ眠れぬ夜をすごせばいいというのか。
自問ともとれるなげかけに静寂だけがおしかえしてくる。
酒でも飲んで眠るがいい。
人間は忘れる動物なんだよ。
そう思っていたが、いまだに忘れないことがある。

悲しいから泣くのではない。
泣くから悲しいのだ、という。
では、なぜ泣くのだろうか。
こころのなかの無意識でニューロンが発火しているのか。

泣く人を見ていると泣けてきたりする。
もらい泣きするという。
こころも同時になにかをもらっているのだろうか。


旅のはじめ
あれは旅といえるのかどうかわからない。
小学校にあがる前のことだった。
夏になると、淡路島にある親戚の家にあずけられた。
なぜそのようなことになっていたのか、いまはもう知るすべもない。
とにかく、行きと帰りだけ親がいっしょだった。

親戚の子(もちろん年上、たぶん小学生)たちと池や小川にでかけた。
池でイモリを釣った(?)し、川でメダカをすくったりもした。
トンボやカナブン、クワガタもつかまえた。
早朝には、じいちゃんといっしょに伝馬船に乗って、蛸突きにもつきあった。
朝食にでる蛸のてんぷら、うまかったなあ。
家に帰りたいと思ったことはいちどもなかった。
どこか変わった子だったのだろうか。

そんな経験があるからなのか、知らないところに行くということに抵抗はない。
どちらかというと、未知なる地に行きたい願望のほうがつよい。
決して観光地に行きたいというのではない。
遊園地などは行きたくないほうだ。
ありふれた町を歩いて、どこにでもある店先をのぞき、いきあう人々をながめる。
それのなにがおもしろいの、とよく聞かれる。
べつにおもしろくはないよ、でもいつもとはちがう感じがするんだ。
逆に巨大な遊園地、テーマパークには興味がなかった。
なにが楽しいんだろう、といつも疑問だった。

その感覚がなにかを考えるきっかけになるような、ならないような。
よくわからんけど、知らない土地の知らない人たちの会話を聞いているのが好きだ。
食堂や居酒屋でどこからともなく聞こえてくる会話が新鮮だ。
土地の言葉がよくわからなくても前後の関係でなんとなくわかるのだ。
わからなければ、それはそれでもいい。
じっと聴いていれば、イントネーションが感情を含んでいるのがわかる。
抑揚だけで思いを伝えることも可能だったりする。
いろんな人がいて、いろんな人生を送っているんだなあ。
そう感じるだけで、なんだか生きているのが楽しいと思えたりする。

F0048西桟橋

旅しているとき、列車からすぎていく景色をながめるとき。
いつもなにかを考えていたのかもしれない。
あるとき、旅をするって考えることなんだと知った。
考えるためにはよく観なくてはならない。
それ以来、いつもなにかを見ているのだ、じっと、ときにはぼんやりと。
見るといったが、聴くもあるし、さわるもあるし、においすらも関係するんだと。
五感すべて(いや第六感さえも)がなにかを感じるのを知る。
そこからおのずとなにかが考えられる、というのかな。
息をするようなことなんだと思う。
だれもがそうしているんだが、意識にのぼるかどうかはひとそれぞれのようだ。

感じる考えることがすべてことばになるかといったら、どうかな。
あえて、それは関係がないといえる。
あとから言葉で理解しようとすると齟齬が生じる。
ことば以前の最初に観る、感じる、考えることが大切なんだと思う。
といいつつ、こうして文章に書いていることがもどかしい。

だれでも経験があるだろうけど、夕焼けが美しいと感じたこと。
城や塔や建造物から荘厳なものを受けたことが。
ありふれたものなんだが、それがなぜか輝いてみえたことなど。
おなじ食べ物でもなんだかとてもおいしく感じたりする。
それらが旅の魅力の一部を構成しているのだろうな。




プロフィール

ムッシュ

Author:ムッシュ
島を旅するときが楽しいですね。
遠くに眺めるのも好きです。
楽園なんてないんですけどね。

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