ムッシュの読書紀行
人生は旅のようだと言いますが、旅が人生かも知れません。 ぼくは活字中毒気味でもあり、旅はまだまだ続くでしょう。
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深夜急行で読書
青森駅は深夜のなかでうずくまっていた。そんななかプラットホームを駆けぬけていく足音だけが高
く響く。硬直した背もたれの四人掛けのいっかくになんとか座れた。ほぼ満席である。どこにこれだ
けの人間がいたのやらと思う。やがて喧騒も鎮まり密やかに列車は走りだす。「北国」はこれから二
〇時間をかけて終着の大阪駅まで日本海の沿岸を走るのだ。列車のなかでは興奮さめやらぬ若者たち
が歌をうたう。まるで歌声喫茶のようだが、表立っての文句はでなかった。そのうちだんだんと静か
になっていった。読んでいた本を伏せ窓の外をながめる。真っ暗な闇だけがひろがっている。横では
友がやすらかな寝息をたてている。その顔を見ていたらなんだかやさしいような気持ちになった。疲
れているんだろうな。なんでも率先してやる頑張りやだからなあ。そろそろ空があかるくなろうとす
る時刻にちかづいてきた。またもやぎらぎらと輝き照りつける夏が、むくむくと起きあがってくる。

9327白夜

「医療が病いをつくる」 安保徹 岩波書店 ★★★★
現代の最先端医学は一般人には理解しがたいところがある。また医療における検査数値というのも微
妙なものが多い。薬が病気を治すというのは正確ではない。薬にはかならず副作用がある。これがよ
くわかっていない人が多い。なんでも、どんなささいなことでもすぐに薬に頼る。だが、副作用があ
ることは処方箋でよくわかる。この胃薬を飲むと胃が荒れる可能性があるので、その荒れを抑えるた
めの薬ですなどと説明される。この薬を飲むためにはこの薬を飲む必要があるのか。だからやたらに
薬の種類が多くなってくる。こんなことでいいのだろうか。製薬会社救済キャンペーンみたいだ。そ
こで本書ではこんな紹介文章を見つけた。みなさん自分で判断してください(笑)。
『ここで、アメリカで評判の医師用教科書『ドクターズルール四二五』(邦訳『医師の心得集』の一文
を紹介する。
  「可能ならすべての薬を中止せよ。不可能なら、できるだけ多くの薬を中止せよ」「薬の数が増
  えれば副作用の可能性はネズミ算的に増える」「四種類以上の薬を飲んでいる患者は医学知識の
  及ばぬ危険な領域にいる」「高齢者のほとんどは薬を中止すると体調がよくなる」』
しかし最後は本人の免疫力が体を正常にもどすのだ。もちろんヒトには免疫力という自己修復機能が
ある。その観点からガンを見直すとこういうことになるのだそうだ。
『弘前大学医学部生化学の佐藤公彦氏によって、「癌自体が生体防御反応の一つ」という考え方が最
近提起されている。癌細胞が、激しい交感神経緊張状態によって産生された体内毒物(代謝産物)を
排除するという考え方である。もしそうなら、交感神経緊張を止めると癌の存在意義がなくなり、癌
が自然退縮してしまうこととつながってくる。
 なぜ癌細胞が毒物を排除できるのであろうか。その理由は、癌細胞は増殖能も高いがアポトーシス
で死ぬ力も強いからであろう。』
最後は自己責任である。そのためには知ることは大切である。人の意見は人の数だけある。確かなセ
オリーだといわれていてもひっくり返ったことは過去にいくらでもある。これからもあるだろう。人
は誤るのだ。医者の言いなりになって過ごすか、自分で決断して生きるか。医療機関はあくまでも助
言者であると肝に銘じなければいけないんでしょうね。コレステロールについてもひとこと。
『コレステロールはすべての細胞の構成成分であり、また、ステロイドホルモンや性ホルモンそして
ビタミンDの原料となっている。極めてからだに必要なものである。
 血管に付いて動脈硬化を引き起こす以前のその大切さを知らなければならない。』
ヒトの身体を構成するものに不必要なものなんてあるのだろうか。すべてはバランスのうえで成り立
っているのか。そこで思いだすのだ。腹八文目、これはなにを意味しているのだろうか。

「身体から革命を起こす」 甲野善紀 田中聡 新潮社 ★★★★
甲野さんのことは養老先生との共著で知りました。人間の動きを分析する西洋的観点からではなく、
日本の武術につながる動作から読み解いていく。なかなかおもしろいですね。剛よく柔を制す、など
ともいいます。この剛は直線的、柔は円環的とわたしは理解しています。筋肉の使い方も、まったく
考え方がちがっているようです。そこがまた興味深いです。実践している姿が美しいですね。よくス
ポーツ選手などでボディビルダーのように筋肉を鍛えている方がいます。なにか可笑しさを誘います。
なにが目的なんだ、と思ってしまいます。思い込みというのはどんな世界にもあるようです。超一流
になるとさすがにそういう人はすくないようですが。
『甲野は、「小成は大成を妨げる最大の要素である。そこそこの成功は、それ以上のものを追求させ
ないための強力な目かくしとなる」と言う。
 人は、自分の「実感」を否定することは難しい。まして、それまでにしてきた苦労を愛さずにはい
られない。苦労して上位に上ってきたシステムを愛し、利権を守ろうとする官僚的な発想に、「実感」
も冒されている。
 だから「実感」と思うなかにひそむ観念性を見抜き、生きているものとしての身体を見出さなけれ
ば、いくら身体や感覚が大切だといっても、結局は観念を見ているだけに終わりかねないのだ。』
また甲野はこんなことを言う。スキーや自動車レースは相当技術が発達している。それは死の危険が
隣り合わせにあるからだろう。だが、ゴルフはそういうことがない。だからこう感じるのだ。
『ゴルフには、およそ身の安全にかかわるような事態はないわけです。それで動きの転換も生まれな
かったのでしょうね。そもそも私がゴルフを見ていておかしいと思うのは、ボールを見て打つという
ことです。これから打つ先を、なぜ見ないのか。
 ボールを見て打つのは、ボールを見ないとうまく当たらないとか、軸をブラさないとかいう理由で、
ほとんどのゴルファーはボールを見て打っていますね。有名選手では、わずかにデュバルとか女子の
ソレンスタムが比較的早く顔を上げていますけれど、まだまだその程度です。
 しかし、、もし敵が攻めてきたときにゴルフ用具を武器にして対抗するしかないという状況になっ
たとすれば、絶対に、ワーッと攻めて来る相手を見てその位置を確認しながら打つでしょう。攻めて
くる相手を見ないで、ボールを見ているわけがありません。心理的な面から考えてもそうでしょう。
 これは開拓時代のアメリカで腰に下げたホルスターから拳銃を抜いて撃ち合うのに、相手を見ずに
自分の腰に下げた銃を見て撃つ人がいないのと同じです。』
なるほど、その視点にはおそれいるのである。だれか有名ゴルファー反論してください。


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深夜フェリーで読書
名残惜しいが夏の北海道を去る。お金に余裕はない。札幌を夜の普通列車で発ち、函館をめざす。満
員状態で立ち通しであった。八時間ほどかかったのだろうか、はっきりとは記憶していない。だが長
かったと感じたことだけはたしかだ。函館駅に着くと同時に連絡フェリーへと人々は駆け出す。する
と、歩いていた人たちまで駆け出したくなるようだ。フェリーのなかは席にまだ余裕があった。それ
ほどおおきな連絡船だった。岸壁を離れると、街の灯かりがきらめいて見えた。席にもどって文庫本
を開いたが、すぐに読むのをやめた。このひと月半ほどの北海道での暮らしを思いだす。いろいろと
事件にも遭遇した。おおくの人たちに出会った。みんなそれぞれの人生を歩んでいるようだった。ヒ
トは環境に影響される。順応できる者もいれば、なじめない者もいる。どちらが幸せなのか、などと
考えもした。森のなかの静まりかえる湖でもぼんやりと考えていた。生きるとは考えることなんだと。

9298ゴーヤ

「ゴシップ的日本語論」 丸谷才一 文春文庫 ★★★★
丸谷さんが亡くなってもう五年ちかくになる。多くの著作を残しておられます。それらの本でいろい
ろと教えていただいたなあと思いつつ読んでいた。小説もお書きになられましたが、評論は切れ味鋭
くて読んでいて爽快でありました。エッセイもまさに小論文という本来の意味でのものでした。未読
本がどんどんと少なくなっていくのは残念な気がします。だからというわけではないですが、酒をの
むようにちびちびと読もうかなと思ったりもします。人は褒めて育てよ、という。しかし、ただ褒め
るだけではむしろ害になるかもしれない。増上させることもあるだろう。しかし、これも相手により
けりですからね。相対性ですね、相性と字面が似ています。
『戦後、日本人全体が多弁になつた。それから早口になつた。よくしやべるやうになつたせいで泣か
なくなつた。
 昔は無口で言語表現がうまくできないから、無念の思ひが心の中にわだかまつて泣いた。そのこと
については柳田國男が書いてゐます。赤ん坊は言葉がないから泣くんです。ところが、今やみんな言
葉によつて一所懸命表現するやうになつたために、泣くといふ風俗がなくなつた。』
なるほど、おもしろいですね。ちょっと引っかかるところはありますが。
『「活版印刷による出版資本主義が国民国家をつくつた」と、ベネディクト・アンダーソンが『想像
の共同体』ではつきり指摘してゐます。日本の場合、この活版印刷による出版資本主義を可能にする
ためには、機能的=能率的な言葉がなければならかつた。その機能的=能率的な言葉を成立させたのは、
西洋的概念の漢字による訳語だつたわけです。』
こういうことを読むと、志賀直哉を思いだしつつ苦笑するわけです。すこしずれているんですけど。
テクストの理解についてもおもしろいですね。
『文章とは、抽象的な、中立的な読者を想定して書かれるものだし、また、そのやうにして書かなけ
ればならない。ところが、テレビ時代にはいつて成長した人々には、テクストがさういふものだとい
ふことを知らない人が多いから、さういつた文章を書きにくくなつた。
 もう一つ、ここでつけ加えなければならないのは、携帯電話の大流行です。すぐに推測できるやう
に、携帯電話といふのは、テレビ以上にコンテクストに寄りかかつてゐる表現なんです。テクストな
し、コンテクストだけがあると言つてもいいかもしれません。』
コンテクスト(文脈)は第三者には共有されていない。このことを肝に銘じてゐなければいけません。
教育の場でこういうことを具体的にわかりやすく教える必要があるでしょうね。でないと、社会に出
て困りますから。そしてなぜ通じないのか、ということも分からないということになる

「潤一」 井上荒野 マガジンハウス ★★★★
井上荒野さんはやはりすごいと思う。いや、その前に小説がとてもおもしろい。あたりまえですが、
やはり作品には作家の人生観がでるものなんだと再認識した。小説の書き方にもいろいろとあるのだ
が、読者にどう伝えるかだと思う。この伊月潤一という人物の造型をどう描くのか。彼にまつわる女
性たちを通してというのはまあよくある試みである。だが、最後に潤一の独白という章をもってきた
ところがいいですね。ストーリーに深みができました。この小説全十章からなっている。九人の女性
がいろんな場面で潤一と出会う。それが自然に感じられるというのが、荒野さんの筆力なんでしょう。
『1―映子(三十歳)
 私が潤一と会ったのは、太極拳教室だった。

 2―環(二十八歳)
 わたしが潤一に会ったのは「耳」だった。

 3―あゆ子(六十二歳)
 私が潤一に会ったのは、夫の蔵書を処分したときだった。』
あゆ子のこんなこころの描写がじんわりとしみこんでくる。こういう視点もうまいと思う。
『葬儀が終わり、納骨もすんで、身辺が落ち着きはじめた頃から、私は夫の書斎で過ごすことが多く
なった。
 台所や居間や寝室にいると、かつてそこでともに食事をしていたり、くつろいでいたり、傍らで眠
っていたりする夫の不在を感じずにはいられなかった。それで私は、書斎に逃げ込んだのだ。夫は書
斎にいるときはいつも一人だったし、書斎にいる夫に私が呼びかけるときには、細目に開けたドアの
隙間から、いつも夫の背中を見るだけだったから。
 考えようによっては、それは奇妙なことだった。書斎は、夫にもっとも近しい場所だったはずなの
に、私にとっては、夫を思い出さずにすむ唯一の場所だったのだから。』
男と女が出会う。そしてセックスしたりしなかったり。このセックスなんだが、この小説を読んでい
るとボノボの「ホカホカ」が思い起こされる。ヒトの不安や不安定な心情をおだやかにする効果があ
るのかな。恋愛至上主義は現代では死語になったかもしれない。もともと、そんなことは絵空事であ
るとだれもが感じていた。でもなにか理想がイデアがあったほうがいい。ものごとはいつも揺れもど
る軌跡をえがいたりするものだ。ゴーギャンではないが、人はどこから来てどこへ行くんだろう、な
どと考えさせられる結末部分でありましたね。荒野さん、お見事というしかないですな。


テーマ:最近読んだ本 - ジャンル:本・雑誌

地下道で読書
改札口をでたところちかくに連絡地下道がある。まだ日中は暑いので、そこの壁に持たれて待つこと
にした。本でも読んでいようかとザックから取りだす。しばらく読んでいると、ブーンとなにかが飛
んできた。地下道内に響きわたるのはミーンミーンという蝉の声だ。反響をともなってすごい音だ。
どこにいるんだろうと目を凝らすがわからない。まいったなあと思いながら中へと進んだ。また、ブ
ーンという羽音とともに向こう側の明るい方向へと飛び去った。やれやれ、無事脱出できてよかった。
また元のところまでもどって、壁に背をあずける。冷気がシャツをとおして伝わってくるようだ。ど
こからかわからないがカーンカーンと踏み切りの音が聞こえてくる。まもなく電車が着いたら、彼女
はやってくるのだろうか。それとも、もうやってこないのか。あるいは、彼女とそんな約束をしてい
たのか。すべてが夢のように感じるのだが、これも夢のなかでのことなのだろうか。

N9378昼間の月

「昆虫の哲学」 ジャン=マルク・ドルーアン 辻由美訳 みすず書房 ★★★
書名から直截的にわいてくる印象、あるいは期待がある。それがときとして空振りに終わる。がっか
りするわけではない。だけどなんだか口惜しい気がする。もちろん出版社は売れそうな書名をつけた
いと思っているだろう。とくに翻訳ものはその傾向が強くなる。原題とかけはなれたものも多い。内
容を反映したものというのだろうか。などと考えていたときに本書にであった。原題を見る。このと
おりである。おまけに訳者も辻由美さん、まちがいなどあろうはずもないと苦笑する。昆虫はある人
たちには忌み嫌われている。「虫嫌い」は教育上よくないとは知りつつ乗り越えられないお母さん方
も多いときく。虫の立場も微妙である。
『恒温脊椎動物(哺乳類や鳥類)ほど私たちに近くはなく、かといって、植物のように私たちと根本
的に異なっているわけでもなく、昆虫は、科学的研究や、芸術的創造や、哲学的思考へといざなうの
である。』
日本では超がつくほど有名なファーブルの「昆虫記」があるが、ほとんどの人は全巻を読んだことが
ないだろう。とにかく大部であるからそれも仕方がないかとも思う。しかし地球上の動物種のなかで
昆虫は約80%を占めている。虫の惑星とよばれるゆえんでもある。ただクモやムカデは昆虫の枠に
は入っていないので注意していただきたい。アリは童話でも働き者として描かれ、自分の体の何倍も
の大きさのものを運ぶことができる。これをみてもしアリの体が大きくなったらどんな怪力をもつ怪
物となるのかと想像したりするが、そうはならない。アリの体重はその体長の三乗に比例するが、筋
力は体長の二乗に比例するからである。アリが力持ちに見えるのは物理学でいうところの「スケール
効果」の恩恵をうけているからだ。でも昆虫を無視して生きることはできない。
『自然の現実を記述し、社会的価値をあたえるのに、ふたつの方向がみえてくる。エコロジカルサー
ビスという概念と、共通の遺産という概念である。いっぽうは経済の分野から借用したもので、もう
いっぽうは文化遺産の領域からきている。両方とも昆虫に非常によくあてはまるのだから、昆虫と人
間とのあいだには戦いとは別の言語が可能なはずだ。こうした表現のうえでの言い換えは、ある種の
昆虫によってひきおこされる飢饉や病気、あるいは、他の種の絶滅をまねきかねない種の繁殖を考慮
それば、無意味にみえるかもしれない。実際、昆虫とともに生きようと模索することは、蚊の命に人
間の命と同等の価値をあたえるということではない。それはただ最適な共存の条件を追求することで
あり、同時に、人間の歴史において、昆虫が、直接的または間接的に、ひそかにまたは劇的に、よい
意味でまたは悪い意味で、はたしてきた役割、そして昆虫がもたらした新しい概念がはたした役割を
考察の対象とすることである。』
生物の進化の歴史のなかでは昆虫はヒトのずっと先輩である。なんとかもっと虫と仲良く生きていけ
る世のなかがこないかなあなどと思うのは詮無いことなのだろうか。

「響きと怒り」 ウィリヤム・フォークナー 高橋正雄訳 三笠書房 ★★★★
まずは訳者解題のから引用しよう。
『夫婦はたえず互いを蔑視し合って生活している。そしてこの夫婦の間に、クェンティン、キャディ、
ジェイスン四世、ベンジャミン(幼名はキャロラインの弟と同じくモーリーと云う)の三男一女があ
る。このうち、クェンティンとキャディは幼時より仲が良く、キャディはまた生まれながらの白痴ベ
ンジャミンをも大変愛し、ベンジャミンの方でもキャディを慕っている。そして兄弟のなかで、次男
のジェイスン一人がいつも仲間はずれにされながら生長する。ところが、長ずるにつれてクェンティ
ンとキャディの仲はますます密接になり、やがてクェンティン自身はキャディとの間に近親相姦の罪
を犯したものと妄想する。』
これは哀しい物語なのかと思う。あるいはこっけいなストーリーなのか。難解といえば難解である。
途中までなにを読んでいるのかさっぱりわからないと思うばかりだった。しかし、物語りはしだいに
輪郭をくっきりとさせてくる。生きるとはなんなんだ。幸せなどどうでもいい。悪と善は対立するも
のではない。差別と共生か。だが、時代の視点が欠落した批判ほど的はずれで独りよがりなものはな
い。その時代に生きる人の気持ちを想像するのだ。すべて人の考え方ものの見方は時代の制約をうけ
る。それはそれで仕方がないことだ。しかしそれでも批判的であることは必要ではないか。否、批判
的ではなく懐疑的だろうか。人の生きている気配がそれでも感じられるのだ。日常のありふれた光景
でもあるのだろう。ふだんならだれも気にも留めないいつもながらの風景なのだ。それでも小説のな
かのこんな文章がこころに残るのだ。
『人間とはその人の不幸の総和だと父はいつた。がいずれは不幸の方がくたびれるかも知れないと人
は思うかも知れない、だがそうなると今度は時間がお前の不幸となるのだと父はいつた。』
またときとして思考は途切れることなく流れながれてもいくのだと知らなければならない。
『すると父は人間は誰でも自身の価値の裁決者なんだがしかし誰だつて他人の幸福に口出しすること
はならないんだといいわたしはそうかも知れませんといいすると父の言葉はあらゆる言葉のなかで一
番悲しい言葉となつたこの世にはそれ以外なにもないそれは時が来るまでは絶望とはいえないしそれ
がそうだといえるまでは時間でさえもない』


テーマ:最近読んだ本 - ジャンル:本・雑誌

夕涼みで読書
大木といっていいほどの樹の下で待っていた。すぐ近くには縁台があり将棋を指している男がふたり。
パチリ、パチリと音がする。兄さん、人を待っているんならここの端っこにでも座って待ってなよ。
片方の年配のおやじさんが言う。ありがとうございます、でも立ってるほうがいいんです。そうかい、
好きにするさね。すみません、とおじぎをしてから樹にもたれつつ本を読んでいた。すこしづつ陽は
傾きはじめている。空が色を変えていく。赤とんぼが飛び交いはじめている。風はやんだ。いつのま
にか外灯が点いていた。青白い光があたりにひろがる。時計を見た。来ないかもしれないな。そう思
うとなんだか疲れがどっとおしよせてきた。あのう。なんだい。座らせてもらっていいですか。いい
ぜ、疲れたかい。ええ、すこし。待ち人来たらずってことか。そのとき、カッカッカッと下駄の音が
響いた。おう、よかったじゃねえか、若いってやっぱりいいやね。対局の男は、黙って笑っていた。

N9478きゅうりの花

「余波」(上)(下) ピーター・ロビンスン 野の水生訳 講談社文庫 ★★★★
舞台はイギリスのヨークシャー。その地の主席警部アラン・バンクス、今回は警視代行で事件捜査に
あたる。地理的にはロンドンから北へ200km以上離れた北海に面した地方である。とある夜、ひ
とりの住人が隣家からの不審な物音を聞いた。不安になって警察に通報した。駆けつけた警官二人が
目撃したのは血を流して倒れているその家の妻だった。夫はどこにいるのか。地下室へとつづく扉に
不吉なポスターが掲げられていた。その扉を開いてなかに入った途端、男性警察官モリシーが鉈をも
った男に襲われた。先に入っていた女性警察官のテイラー巡査はパニックになりながらも男に立ち向
かった。モリシーは血を流しながら横たわっている。彼女は男に反撃しなんとか手錠につないだ。同
僚警官の出血はとまらない。地下室には若い女性の死体もあった。ちょうどそのころ、若い女性の行
方不明事件が多数起きていた。ケリー・マシューズ、サマンサ・フォスター、リアン・レイ、メリッ
サ・ホロックス、キンバリー・マイヤーズ、すべて十五歳から十八歳の魅力的な金髪昇叙だ。関連は
あるのだろうか。応援が到着し、付近を捜索すると女性の死体がつぎつぎに発見された。この男が犯
人なのだろうか。単独犯かそれとも共犯はいるのか。妻ルーシーの回復をまって事情聴取をおこなう
ことになった。しかし、どうも不可解なことがおおい。そこで、この男の妻であるルーシーの過去を
調べていくと不可解な事実が浮かびあがってきた。彼女はある事件の被害者だったのだ。そして事件
後、里親のもとで暮らしはじめた。その後彼女はなんども名前を変えていた。
『リンダ・ゴドウィン<神の勝利>からルーシー・リヴァーズエッジ(崖っぷち人生)、そしてルー
シー・ペイン<苦しみ>へ。ふむ、おもしろい、とバンクスはひとり思った。』
事件は真犯人の追求だけではなく、犯人の男に重傷を負わせその後死に至らしめた女性警官テイラー
の身の上にも過剰防衛ではないかとの疑いがかけられた。殺人事件と警察、単純にはできていない問
題がまわりの人間を巻きこみながらも進行していくのであった。

「水の家族」 丸山健二 求龍堂 ★★★
三浦しをん氏が激賞していたので読んでみた。なんなんだろうこの感じ。おもしろいとか、おもしろ
くないとかとはちがう。難解というのでもない。はっきりといって、作者の意図していることがわか
らない。途方にくれてしまった。ことばのリズムにもなじめない。水の象徴的意味にも共感できなか
った。草葉町か、なんだか笑ってしまいそうな町の名だな。困った、書くことが思いつかない。とい
うことで、三浦しをんファンには好まれるのかなとは思います。ちょっと読んで疲れましたね。でも
こんな文章なんかはいいなとは思いますよ。
『 鯉のぼりが浮き世の光をかき混ぜている 』
読書から読み取れるものってなんだろうかな、と考える。そりゃあ人生観でしょう。ということなの
だと思う。いいとか悪いとかではない、共感できるのかどうかだ。


テーマ:最近読んだ本 - ジャンル:本・雑誌

食卓で読書
小学生のころ、机もなかったので食卓で宿題をしていた。それ以外家で勉強をすることなどほとんど
なかった。勉強は学校でするもの、という意識だったのだろう。それでとくに問題はなかった。予習
や復習ということばは知っていたが、なぜか他人事であった。夏休みの宿題などどうしていたのだろ
うか。ほとんど記憶にないのである。夏休みのドリルのなかにあった蝉の鳴き声を書くページだけが
思いだされる。日記も書くことがなかった。それでもときおり、板張りの台所兼食事室にあったテー
ブルで本を読んだりした。といっても雑誌の付録やなにかでほとんど内容など憶えていない。そんな
小学生時代だったなあと追想しながらダイニングのテーブルで本を読む。どうして机があるのにここ
で読むんだろうか。机だと落ち着かない。いかにも本を読んでるって感じがして。なんか大げさなの
が嫌なんだろうか。それとも、貧乏性の症状があらわれているのか。どちらでもいいんだけど。

N9474ガクアジサイ

「グレート・ギャッツビー」 スコット・フィッツジェラルド
                       村上春樹訳 中央公論新社 ★★★★

この本のことはずいぶん前から知っていた。ただ有名な書名だけでストーリーは知らなかった。この
たび読んでみて、若いころであればわかない感慨もあると思った。人の数だけ人生があり、それぞれ
が劇的といえば劇的なのだ。平凡と非凡。なにをもって判じるかはいまもってわからない。希少価値
というのもあるが、つまりは相対的だということになる。世界にひとつだけの花、という言い方もあ
る。はじめて聞いたときは当たり前じゃないかと思ったが世間の受け取り方はちがった。すべてはひ
とつしかないではないか。逆におなじものというのはヒトの脳内にのみ存在するからだ。だが、そう
いう意味ではないのだということがすこしづつ分かってきた。個性をのばそうという風潮とすこし似
ているように思う。個性は自分で判断するものではない。他人の評価である。もっといえば、個性の
ことなんか考えて個性など伸ばせるわけがない。それで伸ばせることができるものは「奇をてらう」
ぐらいのことだ。個性をのばしたいと思うなら、個性のことなど忘れるしかない。この逆説がわから
ないなら、問題外だ。個性個性という人間に個性的なやつなどいない。個性は価値ではない。変なや
つ、偏執的性格、ストーカー気質、天才肌、従順、ひきこもり、すべて個性的ではないか。とりわけ
個性的だと判断されるようになれば、入院するしかないかもしれない。その手の病院には個性的過ぎ
る人たちばかりが暮らしている。なかには天才がいるかもしれない。しかし、凡才にはその天才が見
抜けない。時代がくだって、やっと彼らは天才であったと評価されるのかもしれない。そういう人に
あなたはなりたいのか。否、なりたいと思ってなれるものは天才とはよばないと思うのだが。
『ギャッツビーは緑の灯火を信じていた。年を追うごとに我々の前からどんどん遠のいていく、陶酔
に満ちた未来を。それはあのとき我々の手からすり抜けていった。でもまだ大丈夫。明日はもっと速
く走ろう。両腕をもっと先まで差し出そう。……そうすればある晴れた朝に――』
ここで物語りのあらすじを書こうという気が起きない。うまく書けそうにもない。読んだ人それぞれ
が描く「グレート・ギャッツビー」がありそうに思うのだ。村上春樹氏が訳者あとがきで書く。
『もし「これまでの人生で巡り会ったもっとも重要な本を三冊あげろ」と言われたら、考えるまでも
なく答えは決まっている。この『グレート・ギャッツビー』と、ドストエフスキー『カラマーゾフの
兄弟』と、レイモンド・チャンドラー『ロング・グッドバイ』である。』
そして一冊なら、この「グレート・ギャッツビー」を選ぶというのである。人さまざまでもある。

「脳はなにかと言い訳する」 池谷裕二 祥伝社 ★★★★
脳はいろんな立場・分野の人たちが研究している。それらの人たちは脳科学者とよばれることもある。
わたしが思うに、その中では養老先生がいちばんである。だが、もう高齢でもあられる。次なる若手
はと考えるとき、まっさきにうかんでくるのは池谷さんだ。語り口はやさしい。文章も平易だ。おま
けに論旨にまざりけがない。変な用語を頻発することもなく謙虚な姿勢がいい。学究肌らしく研究に
あけくれている様子がうかがえる。諸外国の論文にも精通しておられるようだ。ところで本書の書名
にあるように脳はつねに論理をつなごうとするようだ。それが多少の無理矢理感があったとしても、
なんとか道筋をみつける。ことわざにもある。「幽霊の正体見たり枯れ尾花」などと。それはさてお
いて、こんな文章を発見(?)いたしました。
『神経細胞は、生まれたときがいちばん多く、加齢とともに減っていく、と言われていました。厳密
に言えば、これは正確ではありません。神経細胞の数は、確かに生まれたときがいちばん多いのです
が、二歳ぐらいまでに、七割ぐらいが消えてなくなり、その後は一生の間ほとんど変わりません。一
秒に一個ずつ神経細胞の数が減る、とよく言われるのは、生まれたときと死ぬときの神経細胞の数を
直線で結ぶと、徐々に減っていくように見えるからでしょう。しかし、実際には、そういうことはあ
りません。
 神経細胞に限らず、生命体は、とりあえずたくさん作っておいて、優れたものだけを生命の維持や
子孫繁栄に使い、それ以外は不要なものとして、捨てたり殺したりすることをやっています。精子や
卵子もそうですし、免疫細胞もそうです。脳もご多分に漏れず、ネットワークを作りそこなった神経
細胞や性能の悪い細胞は不要なので、排除してしまうようなのです。』
なるほどね。勘違いしておられた方は多いのではないでしょうか。たとえばヒトの指は徐々にのびて
手の形になるのではなく、ミトンのような形状がまずあって指の間の細胞が自死していって手の形に
なるわけですね。この細胞死はアポトーシスとよばれています。ヒトはそういうやり方をよくするよ
うです。もうひとつこれはおもしろいなと思いました。
『とりわけ私が注目に値すると考えているのが「血液型」である。A型、B型などの血液型は遺伝子
は遺伝子そのものが違うからである。この遺伝子は赤血球の表面のタンパク質に糖鎖を付ける酵素を
コードしている。つまり、赤血球の表面のザラツキ具合が血液型によって異なるのである。となれば
当然、毛細血管の血球の流れやすさが異なり、酸素供給率に影響があることは想像に難くない。実際、
癌の発症率など、血液型によって差があるものがいくつか知られている。
 さて、血液型によって「人格」は異なるであろうか。A型は几帳面で、O型はおおらかで、B型は
個性的などという分類はしばしば耳にするが、いずれも根拠は不明瞭である。ただし、血の巡り具合
が違うのであれば、脳の生理作用に差があっても不思議ではないと考える人もいるだろう。』
科学も切り口ひとつでちがった面を見せてくれるんですね。斬新な理論を期待しましょう。


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島を旅するときが楽しいですね。
遠くに眺めるのも好きです。
楽園なんてないんですけどね。

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