ムッシュの読書紀行
人生は旅のようだと言いますが、旅が人生かも知れません。 ぼくは活字中毒気味でもあり、旅はまだまだ続くでしょう。
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鼻歌で読書
気分がいいと自然にでるものらしい。♪フンフンフーン、フフフーン♪ これに対する周りの反応は
いかに。彼あるいは彼女がどう思われているかによっておおいにちがう。好かれているだろう場合は
機嫌がいいんだろうな、よろこばしいことだ。その鼻歌もBGMになる。だが、若輩あるいは嫌われ
ていると、うるさい奴だ常識もない、静かにしろ。と一喝されるがオチである。そんなはるかかなた
のことを思いだすのである。ならばひとりのときならどうだ。これは、どうぞ自由にとなる。なんな
らアカペラで歌ってもよござんすよ。そこまではちょっとね。でも気分がいいのだ。そんなときには
どんな本を読むがいいか。経験上、食関係の本などいかがかと思う。「料理の起源」中尾佐助、NH
Kブックス。あるいは「保存食品開発物語」スー・シェパード、文春文庫。ヒトは生きるために食べ
なければならない。あるいは読むために食べなければならない。分子は宇宙を駆けめぐるのである。

9436紅の花

「あらゆる小説は模倣である。」清水良典 幻冬舎新書 ★★★★
芸術は模倣からはじまる。これはよく言われることである。だから、書名からいいたいであろうこと
はわかる気がする。独創性などと声高にいう人には違和感さえおぼえるのだ。なにをもって独創とい
えるのかと。小説であれば言語で構成されている。所詮はことばの順列組み合わせではないか。そこ
に創作か模倣(パクリ)かの差別化は可能なのか、という話になる。過去におきた事件など参照しつ
つこの問題を考えるというのが趣旨だと理解した。模倣か模倣でないかというのは判断がむずかしい。
基準が決めにくい。まったく同じであれば模倣だといえる。しかし似ているという場合はどうか。難
しい問題である。しかし近年は「模倣」「パクリ」といわれたとき、そのことによって受けるダメー
ジははかりしれない。イメージ悪化や信用の低下を招くのだ。駆けだしの作家だけではない。
『竹山哲の『現代日本文学「盗作疑惑」の研究』には、田山花袋、森鴎外、徳富蘆花、井伏鱒二、太
宰治などの「盗作疑惑」が検証されている。』
最近では田口ランディなどがいるが、パクリの名人というべき例もある。ここで寺山修司が紹介され
ている。寺山の短歌が他の作家の俳句と似ているというのだ。
『 向日葵の下に饒舌高きかな人を訪わずば自己なき男
    → 人を訪はずば自己なき男月見草(中村草田男)』
これを糾弾された当時、寺山はうなだれて「時間がなかった」というばかりだったとのこと。だがよ
くよく読んでみると、だれもが寺山修司のほうが断然いいと思うのではなかろうか。
『 マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや
    → 夜の湖あゝ白い手に燐寸の火(西東三鬼)
    → 一本のマッチをすれば湖は霧(富澤赤黄男)
    → めつむれば祖国は蒼き海の上(同)』
並べられると、たしかにとは思うが寺山のほうが上なのは文句がない。こういう例は枚挙にいとまが
ない。このパクリと密接に関係するのが著作権である。しかし、著作権の問題は考え方のちがいでも
ある。またある意味文化の差であったりする。
『純粋無難な100パーセントのオリジナリティを誇れる小説など、この世にはありえないのだ。そ
の対極に「パクリ」という蔑称が置かれるとすれば、ヒントをもらうことも、影響を受けることも、
あるいはそうした事実を都合よく忘れてしまった産物も、もちろん確信犯の二次創作も、全てパクリ
の一種であることを免れない。
 すなわちあらゆる小説は、部分や無自覚も含めて、多かれ少なかれ何ものかからの模倣あるいはパ
クリなのである。
 だとすれば、パクリを忌避するよりも、むしろ密猟者の自覚と技術の錬磨をこそ、書き手は目指す
べきだろう。』
現代はパソコンツール全盛の時代である。音楽などにその技術が駆使されている。サンプリング、カ
ットアップ、リミックス。そのあたりのことも興味深い。だからオリジナリティと後生大事にするも
のなどはたしてあるのだろうかとも思う。時代は変化しているのである。変化せざるを得ないのでも
ある。最後にこんな警句に笑った。
『空っぽの頭は、実際は空ではない。ゴミで一杯になっているのだ。空っぽの頭に何かを詰め込むの
がむずかしいのは、このためである。  (エリック・ホッファー/中本義彦訳『魂の錬金術』)』

「信仰が人を殺すとき」ジョン・クラカワー 佐宗鈴夫訳 河出書房新社 ★★★★
末日聖徒イエス・キリスト教、通称モルモン教という。1830年にアメリカ合衆国でジョセフ・ス
ミスによって創始された。多くの派に分かれているが、信徒数は全世界で千百万人いるといわれてお
り、アメリカ合衆国だけでも五百二十万人で人口の二・八パーセントにあたる。
『モルモン教は妊娠中絶を禁止し、避妊を認めていない。モルモン教徒の夫婦には、養えるかぎりで
きるだけ多くの子どもを産む神聖な義務があると指導している。合衆国のなかでも、ユタ郡が出生率
のもっとも高い理由は、これでほぼ説明がつく。事実、バングラディシュよりも出生率は高いのだ。』
モルモン教のなかでも分裂していろんな宗派にわかれている。これは仏教でもイスラム教でもおなじ
状況だ。モルモン教のなかでも原理主義は過激である。暴力も否定しない。神が命じられたというの
だが、これは神への責任転嫁なのだろうか。また教義で有名なのは一夫多妻制をおしすすめているこ
とだ。モルモン教徒のこどもはモルモン教徒になるだろう。一夫多妻制の行く末はこの世を人口にお
いてもモルモン教徒で埋め尽くすことなのだ。この教義がしばしば地域社会との軋轢を生む。
『宗教は人々を品行方正にしているのだから、宗教を非難するのはとんでもないことだ、とよく言わ
れる。そのように、私は聞かされてきた。だが、私はそれを認めない……
 世界を見まわせば、わかることだけれども、人間の意識のわずかな個々の進歩、刑法の改良、戦争
をなくそうとする歩み、人種問題改善への前進、あるいは、奴隷制度の軽減、世界中でつづけられて
きた倫理上の進歩、そうしたものにたいして、世界の組織化された教会は終始一貫ことごとく反対し
てきたのである……            バートランド・ラッセル』
いまこの時点でも世界のどこかでわたしは預言者であると述べられている方がおられるのだろうなと
思うのである。預言者はもちろん神ではない。ひらたくいえばメッセンジャーなのだ。だが預言者は
なぜかえらい。神から選ばれし人なのだからといことなのだろう。世界は預言者で満ちている、のだ
ろうか。もちろんこれはキリスト教に限らない。最後に筆者は書く。
『神とはなんであるのか、あるいは宇宙が動きだしたとき、神はなにを考えておられたのか、私には
わからない。神が存在するかどうか、それすらもわかっていないのだ。ただ、たいへんな恐怖を感じ
たり、絶望におちいったり、思いがけない美の表現におどろいたりして、気がつくと、ときには私も
祈りをささげているときがある。』
だからこそ神を人びとは必要としている、といえるのだろうか。ヒトと宗教、あるいは科学の問題は
これからも人類を悩ませ、導いていくのかもしれない。


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食べながら読書
行儀が悪いことはなはだしいと批判をうけるだろうか。食事中にということではなく、菓子などつま
みながらなんですが。それにしても手がべとついて本が汚れるだろう。いえ、手元に濡れ布巾を用意
してそのつど拭きながら。用意万端ぬかりなし。すこしも信用ならないがまあいいだろう。許しがで
たところでおもむろにお茶ではなくビールを冷蔵庫からとりだす。やっぱり飲むのか。いえ水分補給
は必須でありますから。つまみはいいのか。海苔巻きせんべいがいいですな。なかなかに渋い好みだ。
ただ歳とっただけですがね。ぽりぽりとかじりつつ本を読む。そしてぐびりと飲む。なかなかに忙し
いのだ。だがこのリズムをつかむと後はスイスイと進む。しかし視覚と味覚を平行しておこなうのは
どうしても一方に偏りがちになるきらいがある。ヒトの本能は食欲が優先である。したがって食う飲
むがどうしても優先される。おきざりにされた読書欲はどこへむかう。午睡のなかに埋没するのか。

9440メダカ乱舞

「生きものの流儀」日高敏隆 岩波書店 ★★★★
日高敏隆さんの本をはじめて読んだのはいつだったか。調べてみたら、「人間についての寓話」平凡
社ライブラリー、のようだ。これまでに本書を加えて十九冊になる。なんとなく考え方など好きなの
だ。いまではすっかり女史の風格のある竹内久美子さんの大学時代の指導教官だった。たしか京都大
学だったと思う。共著もなかなかおもしろかった。人はイリュージョンのなかに生きていると日高氏
はつねづねおっしゃっている。思いこみ、偏見、人生観、価値観、いろんな癖をもって生きているの
が人である。本文にも書かれているが、岸田秀の唯幻論に似ているかもしれない。ある意味人はいろ
んなイリュージョン(幻影、幻想、錯覚)のなかで暮らしているのだということがわかる。これはな
にも否定的な意味ではない。そう理解することで、原理主義に陥らないでいられるのだと思う。
『ユクスキュルが『生物から見た世界』で述べているとおり、「環境」と「環世界」をしっかり区別
して考えることはきわめて重要である。動物はたしかに環境の中で生きているが、実際にはその中に
自分が構築した「環世界」の中で生きているのである。その環世界は客観ではなく完全な主観であり、
いうなればその主体のイリュージョンのよって成り立っているものだ。』
この意味で世界を考えるとき、われわれがいうことばの意味もすこしづつ違ってくるのだ。
『生物多様性というとき重要なのは、種の多様性ではなくて「生きる論理」の多様性であると思う。』
それぞれの生物はそれぞれの生物の論理にしたがって生きているのだ。どの論理がただしいというこ
とではない。そう考えると真理とか事実というのもあやしくなってくる。
『「理学部は真理を探究する」と皆おっしゃる。けれど、世の中に「真理」などというものがあるの
だろうか? 「大切なのは科学的事実の発見だ」ともよく言われる。では「科学的事実」とは何なの
か? そもそも「事実」とは何なのか? 世の中に「事実」なんていうものがあるのだろうか?』
そこで人はそれらをその人の立場で説明する。いや、説明が必要と感じる動物でもあるらしいのだ。
『しかしその説明とは、その現実に対して人間がもつイリュージョンにすぎないのではないか? け
れどそのようなイリュージョンがなかったら、人間は「現実」を認識できないのではないか?』
なにごともそうスッパリとは切れないものだということがわかってくる。まあ、あまたあるそのなか
でどれがお好きですか、ということなのかな。

「その女アレックス」ピエール・ルメートル 橘明美訳 文春文庫 ★★★★★
その女アレックスというタイトルが内容を暗示しているかのようだ。だが彼女の名前はひとつではな
かった。適宜使いわけているというよりそのときどきで思いついた名をつかう。アレックスは歩いて
の帰宅途中で何者かに拉致される。彼女が拉致された現場を遠くから目撃した者により警察に通報が
あった。そこから捜査がはじまる。誘拐は計画的なものだろうか。
『路上で誘拐するとなれば方法は二つしかない。女のあとをつけるか、待ち伏せするかだ。だがバン
であとをつけられるだろうか? 女はバスに乗らずに歩いていた。それをバンでつけるとなると、最
徐行で車を走らせながら機会をうかがうことになるが……。ありえない。
 待ち伏せしかない。』
ということは計画的な犯行である。身代金の要求はない。恨みによるものか。アレックスは連れてこ
られた場所で全裸になるように命令され、木の檻にいれられる。ささくれだった木でできた檻はかが
んだ姿勢で座ることも横になることもできない。おまけに天井から吊るされちかくにネズミが寄って
くるようにエサも用意されている。そのエサがなくなればネズミの注意は彼女に向くだろう。どれほ
どの恐怖があるのか。想像するだけでもゾッとするのだ。やっと突きとめた現場に警察がやってくる
とそこに彼女の姿はなかった。天井から落ちて壊れた檻だけが残されていた。
『「ルイ十一世の時代のもので、確かヴェルダンの司教を閉じ込めるために考案されたんだったと思
います。十年以上も閉じ込められたそうですよ。直接には力を加えない種類の拷問ですが、効果は確
実です。関節が固まって、筋肉が委縮し……じきに発狂します」』
だが捜査を続けるなかで被害者だと思われていたアレックスがじつは加害者であったということがわ
かってくる。いく人かの男が彼女に殺されているようなのだ。それも喉に硫酸を流しこまれるという
凄惨なやり方で。彼女の捜索はなおも続く。その間にもつぎつぎと殺されていく男が増えていく。ど
こまで人を殺せばすむのだろうか。焦る警部らを尻目に彼女は逃走をつづける。だが、やがてホテル
の一室でアレックスは自ら命を絶ってしまっていた。しかし話はここで終わらないのだ。なんともい
えない結末に読んだ人のこころはゆれにゆれるだろう。訳者あとがきにもこうある。
『著名なミステリ評論家のオットー・ペンズラーが、この作品は「私たちがサスペンス小説について
知っていると思っていたことのすべてをひっくり返す。これは、近年でもっとも独創的な犯罪小説で、
巧みな離れわざに私は繰り返し翻弄された。次に何が起ころうとしているのかやっと理解できた、と
思ったとたん、足をすくわれるということが二度も三度もあった」』
そんな体験をぜひしてみたい思わないだろうか。本書は三部作の第二部である。まだあとひとつ残っ
ている。なんとも楽しみであるのだ。


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飲みながら読書
酒をのみながらする読書ではどういったジャンルがいいか。哲学はいいが論理学は無理だ。恋愛小説
は肴になるがミステリは酒がまずくなるおそれがある。動物行動学、行動経済学、文化人類学おしな
べていいのじゃないか。しかし嗜好は個人差がおおきい。それぞれが好きな肴、もとい分野のものを
選べばいいのだ。飲みものについてもノンアルコールでもいいではないか。お茶や紅茶、コーヒーに
はカフェインというアルカロイドの一種が含まれている。だから中枢神経を興奮させる覚醒作用がも
たらされる。読書に最適ではないか。しかしだ、集中すると焦点がしぼられるのではないか。となる
と視野狭窄をおこすかもしれない。もちろん比喩的言辞なのだが。ゆるりと読めばいい。ときどき眠
って夢のなかでも読んでみる。不思議な解釈がわきおこることだろう。すばらしい思いつきだ。おれ
って天才かもしれないと思う。だが目覚めてみればなんのことはない、さっぱり思いだせないのだ。

9437白いクレマチス

「<心>はなぜ進化するのか」A・G・ケアンズ―スミス 北村美都穂訳 青土社 ★★★
まず最初に、生命の起源と意識ある心の起源とは、科学の二つの最重要課題である。とこう筆者は述
べるのである。この二つは分子生物学では解き明かすことはできないだろうともいう。
『脳は標準型の生物化学分子で、今日のすべての生き物に見られるのと本質的に同じ材料で、できて
いる。そして、脳の中で起こっていることのきわめて多くは、これらの種類の分子の活性として(究
極には)よく理解することができる。しかし、起こっていることのほとんどすべては無意識的である。
意識は依然として神秘のままだ。今日の分子生物学が提示することができないでいるのは、現象とし
ての意識の起源の理解、意識とは何であるかについての、物理学の言葉による妥当な理解である。』
こころあるいは意識は物理学の対象になるのか。すこし前までは無理だと思われていた。だからここ
ろではなく行動を解明しようと行動主義心理学が生まれた。しかし時代変わってきているのだ。では
意識と無意識とはどういうものか感覚としてはどう捉えられるのか。
『多くの人は、自覚は意識の同義語とみなしていることを、私は知っている。だが私は、それがまっ
たく正しいとは思わない。考えと同じように、自覚には意識的な型と無意識的な型のものがある。わ
れわれの、まわりに何があるかという通常の自覚は、概して、たぶんおもに、無意識的なものである。
見なれた部屋の中にある目に見える事物については意識的に自覚していないかもしれないが、それで
十分自覚しているのだ。』
人の行動は自覚的あるいは意識してなされていると多くの人は思っている。だが振り返ってみると、
そうではないことがわかる。うわの空でも駅に行けるし、意識しないでも電車に乗って家に帰りつい
ているのだ。意識することが必要なのではなく無意識が行動を律している。水を飲むとき、水が飲み
たいと思う前に行動は始まっているということが実験の結果として知られている。意識とはいったい
なんだろうか。まだまだ結論をだすには早いということなのかもしれない。

「イングリッシュネス」ケイト・フォックス 北條文緒・香川由紀子訳 みすず書房 ★★★
第一版刊行より10年来のベストセラーなんだそうだ。ただし、本書はその前半の大部分だけという
抄訳なのだとことわっている。原著は566頁もあります。だから導入部分だけで本論の部分は割愛
されているわけだ。たしかに文章展開が中途半端な感じがしました。まあ、それはさておきです。ま
ずイギリス社会というと階級社会というのが最初に頭にうかぶ。といってもインドなどとはかなり意
味あいがちがう。たとえばイギリスあたりのセレブ階級というともう桁違いなんです。このセレブと
いうことば、日本では富豪や超金持ちというがじつは根本的にちがう。まず階級がちがうのである。
おいそれとそちらへはいけないわけです。このあたりが日本人には感覚的にピンとこない。逆に日本
は平等な社会で、ある意味中国よりも共産主義的なのかもしれません。で、その階級ですがどこで見
分けるのか。まず発音のアクセントがちがう。オックスフォード訛りなどという表現もあります。そ
れに使う語彙が階級によってちがう。そんなことが読んでいるとわかるのがおもしろいです。確実に
階級を識別できることばがあるという。その七つは、「パードン」「トイレット」「セルヴィエット」
「ディナー」「セティ」「ラウンジ」「スイーツ」だ。興味のある方は本書をお読みいただきたい。
そのなかで「ディナー」に関連してティーということばはこういうことらしい。
『高い階級の人たちにとって「ティー」は、四時ごろにとるお茶とケーキ、スコン(「スコーン」と
伸ばさない)、または軽いサンウィジュ(「サンドウィッチ」とは発音しない)のことである。低い
階級の人たちはこれを「アフタヌーン・ティー」と言い、「ティー」は夕食を指す。このことは外国
人客の混乱を招く。「ディナー」に招かれたら、昼と夜のどちらに訪問すればよいのか、「ティーに
おいでください」と言われたら四時なのか七時なのかを尋ねたほうがよい。答えによってあなたをも
てなす家の階級を見分けることができるだろう。』
しかしことばは時代とともに変化していくものである。ジョージ・オーウェルはイギリスを「この世
で最も階級に支配されている国」と表現した。このことをイギリス人は強く意識している。そのうえ
で礼儀正しく振る舞うことを是とする国民である。これは偽善ではないかといわれる。
『偽善かと言えば答えはイエスである。礼儀正しさとは、見せかけ、ふり、偽り――つまり、さまざ
まな社会的現実を覆い隠す、人為的なうわべの調和と対等性なのだから。しかし、わたしは「偽善」
とは相手を思いやって意図的に欺くことだと解釈している。一方、イギリス人の礼儀正しさに装われ
た対等主義は、集団的、いや協同的自己欺瞞でもある。礼儀正しさは、確かに偽りのない心情を反映
するものではないが、利己的、打算的に欺こうとするものでもない。おそらく礼儀正しく対等を装う
ことは、イギリス人がお互いの面子を守るために、そして強い階級意識を好ましくないやり方でさら
すのを防ぐために必要なのだろう。』


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昼ビールで読書
昼間に飲むビールはうまい。なぜなんだろうか。たぶんルーティンになっていない行動だからだ。日
常からの逸脱はゆかいだ。睥睨する気分に導かれる。アルコールは自立神経系の弛緩をうながす。つ
まりリラックスできるわけだ。故に自己が世界となり世界が自己となる。極端に走れば、矢でも鉄砲
でももってこいとなる。その量については個人差がおおきい。それを知ることができ実践できれば粋
な人になれる。しかし現実はそうころがらない。どうしてもつい度を越す。楽しい酒ならばなおさら
である。だからというわけではないが、ひとりで飲む。これはこれでまあいい。よほどのことがない
限り深酒にはならない。よほどのこととはなにか。それを書きだすと長くなるのでよす。ビールを飲
んで寝ころんで本を読む。高く掲げた本は重力の作用で下方に移動しようとする。はて、どちらが下
方なのだ。上と下なにが基準になっているのか。急におかしくなってくる。平和な昼下がりである。

N0867睡蓮とメダカ

「悲しみのイレーヌ」ピエール・ルメートル 橘明美訳 文春文庫 ★★★★
本作はフランスのミステリである。エスプリがきいている。主人公のパリ警視庁犯罪捜査部のカミー
ユ・ヴェルーヴェン警部は身長145センチという小柄な男である。彼の相棒となるルイ・マリアー
ニは富豪一家の息子で育ちがよく教養もあり身だしなみも非のうちどころがない。なかなかユニーク
なコンビというわけだ。ある朝匿名の通報がありルイがかけつけるが、凄惨な現場だった。百戦錬磨
の刑事でも直視できずおもわず吐いてしまうような事件である。
『犯罪現場に足を踏み入れるとき、若手は無意識に“死”の痕跡を探すが、ベテランは“生”の気配
がないか探す。だがここではそのどちらも意味をなさないとカミーユは直感した。』
被害者の身元がわかった。ふたりとも若い売春婦であった。顔は切り裂かれ胴は切断されている。し
かし不思議なことに被害者の髪はきれいにシャンプーされていた。それも死後と考えられる。調べて
いるうちに、これは犯罪小説の再現ではないか。ジェイムズ・エルロイの「ブラック・ダリア」に似
ているのだ。さらに捜査をするうちにおなじような事件がつぎつぎとみつかった。アメリカの作家ブ
レット・イーストン・エリスの「アメリカン・サイコ」だ(これらに二作は読んだことがある)。さ
らにスコットランドの作家ウィリアム・マッキルヴァーニの「夜を深く葬れ」と続く。まだあるのか。
『「犯行が計画的なのは明らかだが、特徴はそれを隠そうともしていないところにある。むしろなに
もかもが目立つようにしてある。それもやりすぎぐらいに」』
そこでカミーユは推理小説専門の週刊誌に三行広告をだした。すると犯人かと思われる人物から返事
の手紙が届いたのである。解説の杉江松恋氏がいうように『脳がざわざわするミステリー』なのだ。
これは三部作の第一部である。なかなか興奮させる作品だといえよう。

「スナック研究序説 日本の夜の公共圏」谷口功一・スナック研究会編著 白水社 ★★★★
世のなかにはいろんなことに興味をもったり、さらに研究したりする人たちがいる。世間にはなにか
を研究、調べつくさなければ納得できない性向をもつ一部の人たちがいる。彼らが歴史を作ったりあ
るいは作らなかったり。そんなことを考えもしなかったりする。でも知りたい調べたい研究したい気
もちは止めることができない。またそれが許される境遇、社会に暮らす幸せを噛みしめたりもしてい
るだろう。で、スナックである。「小さなスナック」という曲が流行したことを覚えている。スナッ
クは小さくなければいけない。大きくなるとキャバレーやクラブになってしまう。また法的規制にお
いてはスナックは対面の接待でなければならない。横に座ったりしてはいけない。でないと法律違反
となり摘発検挙もありえる。なにごとも始まりがある。スナックの系譜はどうなっているのか。
『女性が主体で酒類のサービスを行う。多くは西洋的な内装で、個室がない。誰でも入れるという視
点に立つと、スナックの先祖はカフェーである。』
カフェーといえば永井荷風である。そのころのカフェーとはどんなところだったのか。
『荷風が頻繁に通ったこのカフェー・タイガーでは女給の人気投票があった。ビール一本を買うと投
票券一枚がくるというどこかで聞いたことのあるようなシステムである。菊池寛はお気に入りの女給
に投票するためにビールを一五〇本(一本六〇銭)も購入し、飲み切れるわけがないので車で持って
帰った。』
これについては荷風は「田舎者の本性を露したり」と書き公共圏におけるはしたない振る舞いを嗤っ
ている。現代のAKBなんちゃら選挙もこれに端を発しているのかどうかは知らない。ではスナック
の数はどうなっているのか。都会に多いのは当たり前である。
『しかし、これが総軒数ではなく人口あたりの軒数となると、様相が一変することになる。対人口比
でのスナック軒数は、上から順に①宮崎県、②青森県、③沖縄県、④長崎県、⑤高知県、⑥大分県、
⑦鳥取県、⑧秋田県、⑨山口県、⑩佐賀県となっている。九州方面が圧倒的なのには目をみはるが、
人口規模から見ると決して都市部ではない地域にこそスナックが多く、また西高東低の傾向が強いこ
とが見て取れるだろう。』
表題にもあるようにスナックは昼間の公共圏である図書館、公民館などと対比される夜の公共圏と考
えるほうが理解できるのではないかというのだ。たしかに人はだれかと忌憚のない話がしたい。それ
もお堅い場ではなくくだけてすこしお酒もはいったりしての場がいい。そういうことを無意識に思っ
ているのかもしれない。スナック、なかなか奥深い文化ではないですか。


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月夜に読書
月をながめていると、かぐや姫というお伽噺がうかぶ。かなたの惑星にもヒトに似た生物が棲んでい
るのだろうか。棲んでいるとしてもヒトのような形態はしていないだろうな。もちろんタコのように
描かれた火星人ともちがうだろう。もしかしたらヒトの眼では捉えられないようなものかも。などと
考えるというか夢想しているといつしか夜も更けてくる。宮沢賢治の童話に「よだかの星」というの
がある。よだかは実にみにくい鳥だというのだ。名前がまぎらわしいので市蔵に変えろと鷹に迫られ
る。どうすればいいのだろうか。もう死んでしまおうか。最後にと思って弟のカワセミに会いにゆく。
弟が色鮮やかなカワセミとは皮肉である。異母兄弟なのだろうか。まあ寓話だからしかたがない。夜
空のどこかによだかの星があるのだろうか、と探したりしてみた。星になるということはそういうこ
とではないんだろうな。よだかの星はやさしい人のこころ奥深き空間でまたたいているのだろうか。

9412クレマチス

「広辞苑の嘘」谷沢永一・渡部昇一 光文社 ★★★★
谷沢氏の発言はここちよい。批判の舌鋒は鋭い。容赦や遠慮はない。反論はいつでも受けて立つ。だ
が悲しいかな反論するものがいない。いや、できないのだろう。図星だからか。議論は慮っていては
成り立たない。議論のなかで自分がまちがっているとわかれば非を認めればいい。中途半端な知識人、
ジャーナリストはそれができない。プライドが許さないとかわけがわからないことをいう。そんなも
のプライドでもなんでもない。逆にプライドがあるなら素直に認める。自己の向上はそのようにして
なされるのではないか。まちがったことのない人など存在しないのだから。こう宣言している。
『本書は全国の読書人の皆さんに、仮面を被った『広辞苑』の正体を改めて知っていただくための御
案内である。編集能力の問題ではない。頭から読者を嘗めてかかっている姿勢が問われるべきである。
固定観念にへたりこんで資料を調べもせず、読者を軽蔑して反りかえっているのを、私どもは以下に
煌々と暴露するつもりである。     平成十三年九月五日     谷沢永一 』
なかなか勇ましい。そもそも学者やジャーナリストなどが文章を書くにあたってあたる辞書が一冊で
あるわけがない。わたしはそう理解していた。しかし、世のなかの状況はそうではないらしい。なぜ
なら「広辞苑によると」という文言をよく目にする。当然、他の辞書もあたっての上でのことだと思
っていた。だがそうではないらしいと気がついた。広辞苑が権威なのだ。それもなんの根拠も実績も
ない。しかも国文学者までもが。まあ新聞記者が書く程度のものはしかたがない。時間との勝負とい
うような事情があるだろうし。なにもそこまでは考えていないだろうから。だから広辞苑によるとと
書いてあると、ああ流れ作業的にやっているんだろうなと反射的に思う。だが、エッセイストという
ほどの人であればそれでは恥ずかしい。まあ、どのような嘘がの実例は本書を読んでいただきたい。
けっこう笑えるのである。嘘というより思想教育、洗脳というほうが近いかもしれない。意図的に書
かないでほうかむりともいえる。それは読者が判断することである。ただ、渡部氏のこの文章はなか
なかに興味をひかれた。「広辞苑と朝日新聞は実は右翼である」 なかなか煽情的な見出しだ。「隷
従への道」というハイエクの名著がある。知ってはいますが未読です。彼は元来オーストリアで名を
成し、ロンドンで教えていた。当時はヒトラーに追われてロンドンへきた連中も多くいた。しかし、
ヒトラーに追われてきたからヒトラーの反対を言っているのではない。思想の根は同じだとハイエク
は喝破する。同じく全体主義なんだと言うわけです。
『だから、右翼も左翼も同じ、これが現実を透察するキーなのです。たとえばムッソリーニを見れば
分かるように彼は極左です。同じくヒットラーは社会主義運動家でした。これを言うと左翼系の人た
ちは嫌な顔をします。とくに朝日新聞の人たちに言うと、それは嫌な表情で、聞かなかったふりまで
します。きっと図星なのでしょう。』
攻撃的な政治家などはレッテル貼りが得意です。なぜか、それは効果があるからです。一般の素朴な
人たちはそれでなんとなくわかった気分になるからです。まあ、ときどきブーメラン現象が起きてい
るようですが。こころしないといけないと常々思うのですが、忘れやすいのも事実なのです。ヒトは
易き省エネ思考に傾きやすい生物でもありますから。

「ことばの起源 猿の毛づくろい、人のゴシップ」ロビン・ダンバー
                       松浦俊輔・服部清美訳 青土社 ★★★★

ヒトはことばを持つ。ではどうして言葉を獲得するに至ったのか。これまでにいろんな説が提出され
た。だが、集団で社会を形成して生活することがおおきな要因だと筆者は指摘するのだ。集団を維持
していくにはコミュニケーションが大切である。そのためにも仲間のことをよく知っておかなければ
ならない。その手段としてのことばが必要になった。つまりゴシップを話すためにことばが発達した。
いままでいわれていたように意思疎通とか思考の道具とかはあとからついてきたものだ。まずはゴシ
ップ、噂話をするためにことばが必要だったのだ、というのだ。なかなかおもしろい説だと思う。
『従来の見解によると、言語は、共同の狩猟などの行為を男性がより効果的に行えるために進化した。
これは言語に関して、「湖のほとりに野牛の群れがいる」的な見方をしている。これに代わる見解は、
言語は、超自然的存在や種族の起源に関する壮大な物語を、伝えあうことができるようにするために
進化したというものだ。私が提唱する仮説は、公式または非公式に、人類学から言語学および古生物
学までの学問分野のあるゆる人の思考を支配してきた、このような考え方とはまったく正反対だ。簡
単に言えば、言語は、我々にうわさ話をさせるために進化したのだと、提唱するのである。』
実際に人びとの会話を調査してみると、約六〇~70パーセントが社交的な話題に費やされているこ
とがわかっている。そしてゴシップが可能にしてくれるうちで最も重要なことがらの一つは、絶えず
他人の評判と自分自身の評判を知っておくこと。そして、もちろん影響を与えることだろうと結論づ
けられているのだ。サルはグルーミングでコミュニケーションをはかる。ヒトはゴシップ(噂話)が
グルーミングの役を果たしているということになる。
『毛づくろいは、猿の時間を大幅に占めている。社会的傾向の大きい種のほとんどにおいて、他の個
体を毛づくろいすることが、一頭の動物の一日のおよそ一〇パーセントを占めている。ところが、い
くつかの種では、その動物の二〇パーセントもの時間を占めることもある。これは、どう見ても食物
探しが最も時間のかかる行為であることを考えると、途方もない時間を費やしていることになる。』
もちろん言語と脳は密接な関係にある。脳の発達なくしてことばの誕生はなかっただろう。それに、
脳はどのぐらい重要な器官かはヒトのエネルギー消費からもわかる。
『人の脳は体重のわずか二パーセントを占めるにすぎないが、食事から得られる全エネルギーの二〇
パーセントを消費している。言いかえれば、同じ体重で考えた場合、脳は働き続けるために、体の残
りの部分の一〇倍のエネルギーを使うのである。この状況は、脳が単に普通の働きをしているのでは
なくて活発に成長している幼い子供たちでは、さらに極端になる。』
この説からいえば、なぜ現代人が異様におもえるほど芸能人や他人のうわさ話が好きなのか。その答
えがここにある。ゴシップが好きなのはヒトの進化ゆえなのだ。


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