ムッシュの読書紀行
人生は旅のようだと言いますが、旅が人生かも知れません。 ぼくは活字中毒気味でもあり、旅はまだまだ続くでしょう。
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校庭で読書
放課後の藤棚の下で友を待つ。なかなかやって来ない。空を見上げる。天は高い。鞄から本をとりだ
して読みはじめる。ときどき読むのをやめて考える。なにをかって。いろんなことをだ。いろんな人
のこともだ。どうしても思いは特定の人物に収斂しそうになる。そこをぐっとふんばる。なぜ踏ん張
るんだろうか。でないと、想いが突きぬけて空に飛散してしまう気がするからだ。だからぐっとこら
える。また本のページにもどる。活字のインクの黒がくっきりと見える。だが意味は読みとれない。
この字はなんて読むのかわからない。すこし焦る。どうしてしまったのだろうか。こんなこと、いま
までに経験したことがない。ひたすら目を凝らして見るが読み方も意味も浮かんではこなかった。ど
うしたものだろう。そのとき肩をたたかれた。ごめんごめん、先生に呼びだされて遅くなってしまっ
た。どうしたんだ。いや、この字なんだったかなあって。えっどういうこと、それは「愛」だけど。

N9881メダカぼっこ

「そこへ行くな」 井上荒野 集英社 ★★★★
「そこへ行くな」という書名を見て、まずどういうことなんだろうと思う。遊園地、ガラスの学校、
サークル、団地、野球場などいろんな場所が登場して、さまざまな出来事があり、世のなかはまわっ
ていく。ありえないと思えるようなことの連続で、逆にこうしたことが世間ではあり得るのかもしれ
ないと納得する。最後の病院は哀しいような複雑な気分になる。龍は中学生である。クラスに都心部
から転校してきた有栖川泉は僻地といわれる仲間関係にいる。つまり人ととの距離が遠いのである。
だからでもあったのか学校でいじめから足を骨折して入院している。たまたま龍の母親が入院して病
院とおなじだった。そこですこしずつ話すようになった。
『僕自身はそうしたいじめには加わらなかった。でも、その代りにべつのことをしたわけでもない。
僕は何もしなかった。どうしようもないことだった。どうしようもないことがこの世には起こるのだ、
と考えた。』
こどもは純真無垢である。こどもは残酷である。こどもはなにも知らない。こどもは世知に長けてい
る。すべては一面の真理だ。ものごとをすっぱり切ろうとする卑怯さ、まちがいに気づかない。気づ
くのが恐いのかもしれない。気づいてしまえば、その後の人生の苦難はいくばかりか。しかしヒトは
知りたいという衝動を抑えることができない。恐いもの見たさ、といえばいいのか。人は社会的な動
物である。ではその社会性とはどんなものだろう。これが多様性に富むのである。多くの人たちはそ
れを深く考えないで生活している。いやそうではない。うすうすは知っているだが知らぬふりを決め
こんで暮らしているのだ。無意識のうちにどうにもならないという諦観をいだいているのか。言葉に
できないことを考え続けるのには精神の強靭さが必要だ。ときに忘れたり、ふと思いだしたりしなが
ら生きている。だが、すぐれた小説家はそれを言葉で目の前に提示してくれるのだ。具体的な生活の
シーンを通じて表現してくれる。読むほうはときにそれをわが身の事情に変換・翻訳して読む。そし
てわが生活を家族をふりかえるのだ。家族の数だけの家族の形がある。どれが正しいとかということ
ではないと思う。だがなにが正しいかをも求めてしまうのが人なのかもしれない。

「騙し合いの法則 生き抜くための「自己防衛術」」 竹内久美子 講談社 ★★★
ヒト以外の生き物、哺乳類や鳥類・昆虫の生態を知るとなにか妙な感慨をおぼえる。虫嫌いな女性を
見ると、なんだか不思議な感覚に襲われる。どんな暮らしのなかで育ったのだろうか。ご両親はどん
な性格なんだろうか。その性格は遺伝的要素がおおきいのか。おおきなお世話であることはよくわか
っているのだが。地球という環境のなかにはそれこそ多様な生物がいる。戦略といっていいのかわか
らないがヒトから見て特殊な生態を示すものもいる。おもしろいと思うのだ。そういったことも含め
て毛嫌いする人がいることも知っている。いつも不思議な人だと感じる。生物多様性については理解
があるのだろう。でも、虫は嫌いと言うだろうな。残念である(笑)。すべての生き物は進化論的に
はつながっている。だから当然ながら、すべてのイギリス国民が英国王室とどこかでつながっている
ようにということでもある。だが王室などはけしからんというどこかの政党の意見もある。人はすべ
て自由で平等であるという。現実にそうなっていなくても理想としてそうあるべきと。それはさてお
き、多くの動物には序列、順位制がある。メンドリはきれいな一直線の序列をつくる。最下位の者な
どはエサにありつけるのが一番後回しだし、ほとんど残っていない場合さえある。それでもちゃんと
序列を守る。それは序列をつくっていたほうが皆が得をするから。いちいち争うと全員がくたくたに
なってしまう。最下位の者でも、ひとりでいるよりはエサにありつける点でも、捕食者から身を守る
点においても、はるかにましだからなのだ。人間がえてして考えるようにトップがすべて総取りとい
うようなことは起こっていない。序列を作らないものでも群れでいることはよくある。群れでいるこ
とで捕食者に対して皆で警戒できるし食べられる確率も下がるからだ。スズメはエサが塊だと黙って
ひとりで食べ、エサがバラバラにあるとチュンチュン鳴いて仲間を呼び、警戒のための要員とする。
『順位や序列というものには、結局のところ、優位がいいのか、劣位のほうがいいのか、よくわから
なくなってしまいます。
 ただ、ひとつ言えるのは、皆が同じように権利や自由を主張しあうと、社会は何かと効率が悪くな
る。しかし順位、あるいは秩序がある社会では、何かと効率がよく、皆が得をするということ。
 こうして順位や秩序をつくっていたほうが、むしろ極端な不公平のない、穏やかな社会が実現する
ようだという逆説的な結論に至るのです。』
なんだか人社会のほうが進化していないのではと思わせる。高度な社会性をもつアリだが、人間との
共通点がある。それは戦争をするということだ。
『ミツツボアリの隣りあうコロニーどうしは、兵力に大いに差があるな、とわかったときに、優勢な
ほうが劣勢なほうに、戦争を仕掛けます。
 結局、人間の社会でも、隣りあう国どうしの軍事力のバランスのとれた状態になっていることが重
要で、睨みあいによる膠着状態をつくることが戦争を防ぐための、一番有力な手段ではないかという
ことになるのです。』
常識的に考えればそういうことである。しかし、世界にはしばしば常識の通じない方々もいる。日本
も例外ではない。これも悲しいことにまた事実である。


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立ち飲みで読書
若いころは酒を飲むといっても、ほとんどひとりだった。安くて気楽に飲める立ち飲みがよかった。
その店は間口ばかりが広くて奥行きはない。入るとすぐにカウンターがあった。目の前には、おばさ
ん、いやお姐さんがいて注文をとってくれる。酒も徳利ではなく一合壜の栓を抜いて燗する方式だ。
サラリーマンが帰る時間にはまだ早いから客もまばらだ。すこし前のめり気味に立つ。隣では赤鉛筆
を耳にはさんだおじさんが熱心にスポーツ新聞を読みながらビールを飲んでいる。熱燗とポテトサラ
ダ。あいよ、とお姐さんは元気がいい。おにいさん学生さんなの。はい。こんなところで飲んでいて
いいの。こういうところが好きなんです。そうかい。はいよ、熱燗とポテサラ。こんもりとなったポ
テサラだった。上目遣いに見ると頷いた。文庫本を読みながら、三本ほどで勘定をして縄暖簾をあげ
て表へでる。そのとき背後から、「学生さん、またいらっしゃいね」と明るい声が飛んできたのだ。

N9747水の玉

「ゲノムが語る23の物語」 マット・リドレー 中村桂子・斎藤隆央訳 紀伊國屋書店 ★★★★
ゲノムとはなにか。DNAの上位概念ということになる。ヒトには23対の染色体がある。染色体は
DNAで構成されている。この23対の染色体を総称してヒトのゲノムと呼ぶのだ。DNAはすべて
四つの塩基A(アデニン)、G(グアニン)、C(シトシン)、T(チミン)からなる。この四種類
の組み合わせつまり塩基配列が遺伝情報をもたらしている。ヒトは60兆の細胞で成り立っている。
この細胞ひとつひとつに23対の染色体が存在するのだ。この約三〇億の塩基対のDNAからなって
いるヒトゲノムの配列は2003年にすべて解読された。このことは一般にもよく知られている。し
かしその配列がなにを意味しているか。いまだ研究途上である。すべて知ることができるのか、別の
アルゴリズムが潜んでいるのか。いまでは遺伝子の欠陥や余分にもつことによってある種の症状がひ
き起されることがわかってきている。すると当然のように欠陥のある遺伝子を取り出して正常なもの
と置き換えようとする。遺伝子操作だ。さらに生まれる前に遺伝子の異常がわかれば生まないという
選択は許されるのか。宗教的な倫理的な問題をも含んでくる。優生学が思い起こされる。決してドイ
ツだけのことではなかったということを知っていなければならない。
『アメリカで始まった断種措置は、ほかの国でも採用されていった。スウェーデンでは六万人に断種
手術が施された。カナダやノルウェー、フィンランド、エストニア、アイスランドでも、断種強制法
が制定され、実際に適用された。最も悪名の高いドイツでは、四〇万人が断種され、その多くがのち
に殺されている。第二次世界大戦中の十八か月だけで、すでに断種されていた精神障害者七万人が、
傷病兵のために病院のベッドを空けるというだけの理由でガス室に送られたのだ。』
遺伝子の多くは、糖、脂肪、タンパク質などを分解したり合成したりして、体を組み立てる素材やエ
ネルギーを生産するために働いている酵素のためのものであるとわかってきた。しかし残りの遺伝子
のうちのいくつかがヒトをヒトらしくしているのである。だがそれぞれがそのものだけで存在してい
るわけではない。どう影響しあっているのかわからないことも多い。遺伝子ですべてがわかるわけで
はない。しかし遺伝子のことをわからないでいるよりわかった方が人間の本質を知りことにより近づ
けるのではないかとも思うのがヒトの特徴でもあるのだ。すこしやわらかい話もご紹介しておこう。
どうもヒトは自分とは違う遺伝子をもつ異性に惹かれるらしい。ではどうやってそれを知るのか。詳
しく知りたい方は本書の第9染色体の章を読んでいただきたい。男性も女性も、自分と最もかけ離れ
た遺伝子をもつ異性の体臭に最も強く惹かれるという事実があるのだ。だだし、いいにおいといって
も万能のチャンピオンのにおいというのは残念ながらない。
『「だれもがいいにおいと感じる人間はいない。いいにおいかどうかは、だれがだれのにおいを嗅ぐ
かによるのだ」』
つまり相性があうとは、こういうことでもある。

「私はいったい、何と闘っているのか」 つぶやきシロー 小学館 ★★★
ふとしたときにインターネットで、つぶやきシロー氏が小説を書いていると知った。世間ではお笑い
コンビのひとりが芥川賞をとったりしていた。まあ、餅は餅屋というが、生まれたときから餅屋だと
いう方はいない。小説家もそうだ。とくに問題はない。問題はその小説がおもしろいかだ。いや、お
もしろくなくても特段問題ではない。ただ売れないというだけだ。しかし、売れるとおもしろいは連
動しているかというと一概にそうはならなかったりする。世のなかは理不尽でもある。それらを含め
て考えないといけない。そうしたことには気をつける必要がある。そんなことを気にしない人がいて
もこれも問題なしである。まずは読まないとなにも申しあげられない。図書館の貸し出しだからすぐ
というわけにはいかない。もちろんすぐ読みたいという希望もない。予約本は忘れた頃にやってくる。
これがちょうど塩梅がいい。本作品の主人公であり語り手は伊澤春男、四十五歳。東京近郊スーパー
に勤務し肩書きは主任だ。スーパーはだれもがよく知っているようで知らないことも多い。ましてや
その裏となると、ということになるのだろうか。もちろん人間関係、昇進問題、内部の不祥事などあ
るのは当然である。彼は妻帯者でもある。娘、娘、息子の三人のお父さんでもある。その家庭の事情
も読んでいるうちにわかってくるのだ。ところどころで笑えるのだが、その構造がすこし特殊である。
彼の芸風が文章に滲みでているといえばいいのだろうか。文章というより彼の漫談を聴いているよう
な感じでおかしみを感じるのだ。
『店長になれなかったからといって、慰められるほどのことではない。家族みんなは知っている。私
がスーパーうめや大原店を愛していることを。そうなのだ、私はお店に来てくれるお客さん第一主義
なのだ。自分の事はどうでもいい。店長になりたかったわけではない。そう、店長になりたかったわ
けではない。今のままでいい。何てったって、「春男は、この店の司令塔だもんな」だからだ。店長
なんかになる必要がないのだ。』
勤め人のペーソスがでている。つぶやきシローさんらしい店長のつぶやきである。


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床屋で読書
思いたってそれまでの肩まであった長髪を切ることにした。ちょうど通りにあった床屋にはいった。
客が立て込んでいたので時間がかかりそうだがかまわない。ラックにあった旅の雑誌を手にとる。特
集は離島だ。離島か。この離とはどういう意味なのだろうか。しばし考えながらページを繰った。離
隔、距離、離島とことばがうかんでは消える。二点間の距離の最小は直線である。ユークリッド平面
ではという限定付きだ。空間のゆがみを考えなければ、と読んだことを思いだした。どういうことな
んだ。うまく想像できない。二次元平面、三次元立体、そして時空四次元。ああ、なにも考えること
ができなかった。思考をどこかへ放り投げたい気分だ。そのとき、お客さんと呼ばれた。散髪台に座
る。どうしますか。スポーツ刈りでお願いします。えっ、いいんですか。はい、バリカンでやってく
ださい。ブーンとうなる音とともにジョリジョリと髪が落ちていく。思いも同時に形をなくしていく。

N9609琵琶湖

「霜の降りる前に」 上 下 ヘニング・マンケル 柳沢由美子 創元推理文庫 ★★★★
2015年10月にヘニング・マンケルは亡くなっています。享年67歳でした。残念ですがしかた
ありません。警部クルト・ヴァランダーのシリーズ作品は世界的にも人気がある。マンケルの作品は
他のものもあわせて四〇〇〇万部以上が刊行され、四〇ヵ国語に翻訳されて読まれている。読んでみ
ればそのわけがわかります。さて本作だが、スウェーデン南部の町イースタの警察署に彼の娘である
リンダ・ヴァランダーが警察学校を卒業して勤務するが決まった。正式な勤務がはじまるまでは父の
アパートに同居することになった。そんな時期に友人アンナが行方不明となった。心配になったリン
ダはアンナの住んでいたアパートに入りこみ失踪した手がかりを探したりした。そのころ、イースタ
では動物たち、白鳥が子牛がそしてペットショップが焼かれる事件が連続して起こっていた。さらに
古い小道を研究している女性が失踪し、森のなかの小屋で惨殺されている姿が発見された。祈るよう
に組んだ手がそこには残されていた。胴体などはどこにもない異様な殺人である。なにか宗教的な意
味がうかがえたが詳しいことはわからない。まだ正式に警察官にもなっていないリンダだが知らず知
らすのうちに深く事件とかかわっていくのだ。そしてまた教会のなかで殺されている女性が発見され
る。彼女はなんとアメリカ人であった。数年前に失踪届けがだされていた。父親は彼女に言った。
『「警察学校で習わなかったか? 警察官はいろいろ思ってはだめなんだ。人伝てに聞いた話を信じ
たり、あり得ないと決めつけたりしてもいけない。警察官は真実を求める。だが、同時に、なんでも
あり得るという想定がなければならない。その中には燃える白鳥を見たという電話も含まれる。そし
て、それは真実であり得るということも」』
やがてリンダはあることに気がついた。事件にかかわっている女性はすべて中絶経験者だったという
ことだ。それがなにを意味するのかはわからない。宗教的なものなのだろうか。ここからは読んでい
ただくしかない。人はなにかに頼って生きるしかないのか。それが宗教の本質なのか。宗教的な狂信
に支えられた犯罪はときに世界を震撼させる。そんなとき、神は存在するのかと自問するのである。
ミステリは世相を映すものでもある。今後リンダを中心としたシリーズがと思うのだが、マンケルは
もういない。まことに残念である。

「骸骨考 イタリア・ポルトガル・フランスを歩く」 養老孟司 新潮社 ★★★★★
ヒトは亡くなると骸骨になる。その骸骨の扱いは日本と欧米ではかなりちがうようだ。前回の東欧の
旅におけるお墓や骸骨の話も興味深かった。さて、今回はフランス・イタリア・ポルトガルである。
カラー写真でみるヨーロッパの納骨堂や教会は迫力がある。骸骨を装飾(?)につかうのである。お
国柄なのだろうか。だがこれも案外身近でいいと思えるのである。日本では気味が悪いと思われる方
が多いかもしれないが、これはこれで趣がある。
『身体の一部である脳、そこから生じる多くの働きのうちの一つが意識で、その意識が母体である身
体を考えるのだから、「それで十分」のはずがない。でも現代社会は意識の世界だから、身体も意識
の中にあくまでも取り込もうとする。それが健康志向の根本にあって、だからサプリメントであり、
ジョギングであり、禁煙であり、ダイエットなのだろう。そういうことなら、まさに「意識的に可能」
だからである。意識的に可能であって、論理的かつ合理的なら、それが正しいことである。意識はそ
う主張するであろう。では身体はどうか。身体はなにを主張するのか。黙って生まれ、黙って育ち、
黙って死ぬ。その身体が意識を根本的に左右している。現代人はそこをどう思っているのか。という
より、歴史的にも、昔から、それをヒトはどう思ってきたのだろうか。そういう問題意識があって、
相変わらずの墓参りなのである。意識が身体をどこまで、どう把握できるのか、それはわからない。
だから実地に当たってみるしかない。身体の研究はつねに実地に戻ってしまう。身体は意識ではない
のだから、それで当然であろう。』
いつも養老先生の文章を読むと腑に落ちる。わかりやすいというと語弊があるが、理解にひっかかり
がないのだ。世のなかのことを理論式で理解したいという科学者の気持ちはよくわかる。わかるがで
きるではないとも思う。理解したいが理解できるに、理解できたに、変化・変形していくさまは理解
できないことではない。ちょっと笑ってしまう文章になってしまった。ことばは繰り返しを避ける場
合と、あえて少し変化させながら反復するおもしろさ楽しさがある。単純にこころよい響きを楽しむ
のである。それが実践できればいいのだがなかなかにむずかしい。ことばのリフレインは麻薬のよう
な効果をもつ。リズムもおなじ構造を持つのだろう。ヒトは快を求める。快は心的負荷低減をもたら
すから快なのだろうと思う。つまり、こころが楽な状態、ストレスを感じないということだ。養老先
生の文章はそんな快をわたしには与えてくれるのだ。
『現代の日本では、死に関する態度が混迷しているように見える。七十年前までは、そこには少なく
とも暗黙の了解があった。人生は自分のためではなかったのである。だから神風特別攻撃隊だった。
戦後はむろんそれが逆転した。自己実現、本当の自分、個性を追求するようになった。その典型はア
メリカの文化であろう。そのアメリカの脳科学がなにを見つけたか。ヒトの脳のデフォルト設定は社
会脳なのである。つまり一人でものを考えたり、集中して作業をする時の設定ではなく、だれか他人
の相手をするときに働く部分がはじめから活性化している。それは日常でもわかるはずである。もの
を考えている、あるいは集中してなにかをしているときには、話しかけられたら迷惑である。でもな
にもしておらず、ボンヤリしているときに話しかけられたら、「待ってました」であろう。新生児の
脳では生後二日目にはもはや社会脳の設定が見られるという。新生児にとって重要なのは母親以外に
ない。それなら脳ミソがはじめから社会的設定になっていて不思議はない。ものを考える能力は、お
そらくそれに伴って、偶然に、あるいはやむを得ず、発達してきたのであろう。その証拠に、霊長類
では大きな社会集団を作る種ほど、脳の発達がいいことが以前から知られている。
 その人独特の思想などというものはない。それは以前から指摘してきた。他人が理解しない限り、
どのような思想も定義により意味を持たない。社会脳がヒトの脳の前提だとすれば、それで当然だと
いうことになる。ヒトに伝えるために考えている。』
個性とはなにを言わんとしているのか。いまいちどじっくり考えてみる必要がありそうだ。そうすれ
ば個性を伸ばすなどという意見などでてこないかもしれない。


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ホールで読書
ひとしきり歩いた後にベンチに腰かけて空をながめる。汗腺からなにかがほのかに立ちのぼるような
気がした。風が肌をなだめるようにすぎてゆく。いま思いだしてもなんだか不思議な感情がすてきれ
ない。あれはほんとうに起こったことなのだろうか。朝食のあと、ホールのソファでガイドブックを
ながめていた。どこに行こうかと迷っていたわけではない。ただ日本アルプスの山岳写真を見ていた
だけなのだ。なにも思わなかった。こころはからっぽだった。斜め前に座っていた女性が声をかけて
きた。唐突に、今日は雨が降るでしょうかと。えっと一瞬つまったが、降るかもしれないし、降らな
いかもしれないですね。と答えになるようなならないような返事をした。そうですよね、ふるかふら
ないか。生きるか死ぬか、なるようにしかならないんでしょうね。そう言って彼女は長い髪を指で梳
いた。不可解な思いで本をザックにしまって顔をあげたら、すでにドアから出てゆくばかりだった。

N9695白象

「文士の遺言」 半藤一利 講談社 ★★★
長年編集者として暮らしてきた半藤氏である。そのなかでさまざまな作家と交流があっただろう。作
品ではなく生の生活も垣間見てきたのではないか、と読者は思うのだ。編集者ならではの視点から折
りにつけ書かれたものをまとめたのが本書である。永井荷風、坂口安吾、司馬遼太郎、松本清張など
とそうそうたる作家が登場するのだ。作家についてその作品のみに興味があるという方は残念ながら
少数である。やはりそこは人情、ふだんのエピソードなども知りたい。その作家がお気に入りであれ
ばなおさらである。しかし、その逸話が読者に満足をもたらすかはわからない。そのあたり、編集者
としての気配りも必要かもしれない。ちなみにわたしは作品は作品という立場である。作家の私生活
は心理学的な観点からならば、興味がわくというぐらいだ。で読んでいたら、こんな文章があった。
『いまは亡き大学の同級生磯田光一君の永井荷風評伝をひもといたりして、まことに興味深いことを
知った。荷風が生前に公刊した日記『荷風日暦』や『羅災日録』などと、死後刊行の岩波刊『日乗』
とが、削除があったり書き改められたり、微妙に違っているという事実であった。短いが、その顕著
な一例。
「五月三日。雨。日本新憲法今日より実施の由なり」
 この生前の、荷風の意志のもと発表された記述にたいし、死後の岩波刊のそれは、
「五月初三。雨。米人の作りし日本新憲法今日より実施の由。笑ふ可し」
 となっている。』
永井荷風、反骨の人ですね。最近は正しい歴史認観などということばが新聞に書かれていたりする。
ふーん、いつからそんなことがいわれるようになったのだろう。不思議な気がする。
『歴史を叙述することはまことに恐ろしいことなのである。わたくしなども長いこと、「ジャーナリ
ストは現代史の生き証人」などという言葉に踊っていたのが、恥ずかしくさえ思えることがある。
 それにつけても、資料とは何なのか。歴史を書くとは、過去または現代の人間が残した“生活と意
見”の残りかすともいえる史料を利用し、それらをずらりと並べて組み合わせ、検索して、事実(ま
たは事実と思われるもの)を再現する。そしてその先にある「真実」をつきとめることであろう。そ
れがはたして可能なのだろうか。よくいわれるように「史料は歴史を語らない」。だから歴史を書く
ということは、史料をしてみずから語らせればよい、と史料に乗っかってあぐらをかいてすませられ
る仕事ではないのではないか、と近ごろは考えている。』
正直な方だなと思う。こういう思考の人が最近は少なくなってきました。戦後というは敗戦後すぐと
思いがちだがそうではない。そのことを知らない人がこんどは多すぎるのである。
『昭和二十年(一九四五年)八月のポツダム宣言の受諾による敗戦から、昭和二十六年(一九五一年)
九月のサンフランシスコ講和条約の調印まで、アメリカ軍による日本占領の時代が続いた。この長い
間、独立国家としての主権はなく、政治・経済から教育や農業や文化の諸政策に至るまですべてGH
Q(連合国軍総司令部)の支配下にあり、その指示にしたがって、日本政府は右往左往しつつも実行
せざるをえなかった。』
この「占領の時代」にできたのが日本新憲法だということですね。丸谷氏の対談の話がおもしろい。
山崎正和さんとの司会をしたときのことだという。場所は金沢であった。丸谷さんがいきなり前田利
家は片目であったという話をはじめ、山崎さんともども思わずひっくり返った。山崎さんが、片目な
ら伊達政宗だと応じると、丸谷氏は即答する。
『丸谷 ええ、二人とも片目なのに、一人は片目を売り物にする。もう一人はそれを隠す。そういう
前田利家の心の配り方になにかみやびなものを感じるんですよ。』
読むのがやめられなくなります。

「向田理髪店」 奥田英朗 光文社 ★★★
北海道の中央部に位置する苫沢町。往時には炭鉱で栄えたのだが時代の流れには逆らえない。メロン
が特産であるとは書かれていない。その苫沢町にあるのが向田理髪店である。主人の向田康彦、五十
三歳には娘と息子がいる。長男は札幌に行っていたのだが、突然店を継ぐといって帰ってきた。喜ん
でいいいのか、それともなにかほかに理由があるのか。そんな平和な田舎町苫沢町だが、いろいろと
事件(?)は起きるのだ。暮らすにはなにを基準に考えればいいのだろうか。都会がいいのか田舎が
いいのか、生活に便利がいいのか不便でもいいのか、喧騒が好まれるのか静寂が落ち着くのか。それ
ともゲゼルシャフト的世界かゲマインシャフト的社会か、となかなか判断はつかないものなのだ。康
彦は思うのである。
『まったく、どうしてこんな町に生まれたのか――。若い頃から何度もつぶやいた言葉である。
 康彦はソファに寝転がった。外では今夜も鈴虫が賑やかに鳴いている。』
しかしながら、現代日本社会の縮図ともいえるものが苫沢町にはある。町おこし、世代交代、後継問
題、嫁不足、女性をめぐる鞘当てなどもある。市井のなにげないような暮らしのなかにもドラマがあ
るのだとわかる。これらのドラマはある意味娯楽でもある。楽しみのない生活は人々を無気力にする。
だからかこの過疎地に映画のロケ隊を誘致することに成功した。町は大騒ぎである。てんやわんやの
騒動は老若男女を巻きこんで巨大なエネルギーを発するのだ。
『康彦は娯楽の力をあらためて痛感した。過疎地に必要なのは娯楽なのである。』
ヒトは笑う動物なのだということを忘れてはいけない。笑いはなにものにもかえがたい。ギリシャ時
代から喜劇は存在するのである。過疎地や田舎に必要なものは立派な建物ではない。


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ふたりで読書
公共図書館のおおきなテーブルに向かいあってすわる。おたがいに自分の好きな本を選んできていた。
静かだなあ。家とは全然ちがっている。まわりを見回す。みんないかにも真剣そうな顔して本を読ん
でいた。そのとき向かいの席のあいつと眼があった。おたがいにすこし笑う。声は出さないように気
をつけた。あいつもぼくとおなじなんだ。ちょっと落ち着かないのだと気づく。ぼくはとくに勉強が
好きではない。本を読むのは、まあ好きだ。でも彼のように小説は読まない。図鑑や理科の本がおも
しろい。本のなかにでてくる実験を頭のなかで想像する。ぼくはいつのまにか白い上着の科学者にな
っている。フラスコからは白い煙だか蒸気だかが立ちのぼる。助手に指示をだす。ポワロのように生
やした髭の先をつまんではなす。すこし考えるしぐさも必要だろう。なにを合成しているのか。そん
なことはどうでもいいだろう。地球の存亡がわたしの肩にかかっているのだ。彼もかすかに頷いた。

N9545シュウメイギク

「鳥類学者無謀にも恐竜を語る」 川上和人 技術評論社 ★★★★
鳥の祖先は恐竜だということはおぼろげに記憶している。ということで、鳥類学者が恐竜学者を名乗
ってなんの不都合があるのだろうか、となるロジックだ。なかなか目を引く書名だと思う。敏腕編集
者のなせるわざなんだろうか。それとも著者が自身でつけたのか。興味がわく。
『恐竜化石が歴史に現れるのは、1824年のことである。世界ではじめて学名が与えられた恐竜は、
メガロサウルスだ。ただし、この時点ではまだ、巨大な爬虫類という認識であり、恐竜という概念は
成立していなかった。メガロサウルスとは、「巨大なトカゲ」という意味である。』
イギリスのストーンズフィールドで見つかったのが最初だ。しかし恐竜にも分類があるんだろうなと
は予想もする。読んでいくうちにそれもわかってくるだろう。男子は恐竜が好きだ。子どもたちも恐
竜や怪獣が好きだ。よって男はみんな子どもだ、とはならない。読んでいるといろいろと知らなかっ
たり忘れていたことがでてくる。こういう視点があったのか、なるほどなと。しかし進化をどう考え
るかでその意味はちがってもくるのだ。恐竜から鳥へと進化したのだが。
『ここで、敬意をこめて今までの認識を改めたい。鳥は「歯を失った」「腕を失った「尾を失った」
のではない。空を飛ぶために、むしろ「歯や腕、尾を捨てた」と表現されるべきである。鳥の体には、
進化の歴史がぎゅうぎゅうにつまっている。』
ときおり滑りこんでくるユーモアもいい。小島毅氏ばりのゴーイングマイウェイ的な文章がわたしに
は笑えるのだ。本は読んでおもしろいのが一番だ。小難しいと感じる本は論旨が不明確なものが多か
ったりするものだ。論理的と空想的は対立するのかな、などと考えた。「空想から科学へ」などとい
う本もあったしな。論理は必ずしも積み上げ方式でなされるわけではないということはいろんな方が
おっしゃっている。創造性は想像も含んでいるのだろう。いや想像のかけらも思わせないものには創
造性を感じないのだ。
『しかし、改めて考えると、恐竜の化石がなんの役に立つのだろう。なぜ私たちは、こんなに恐竜に
熱狂してきたのだろうか。恐竜化石でダイエットに成功する。否。恐竜化石で病気が治る。否。恐竜
化石で女性にモテる。否。恐竜化石でクリーンエネルギーができる。否。正直なところ、恐竜化石は
実利的にはなんの役にも立たない。』
それでも恐竜が好きだし、平和な世のなかなればこその恐竜学なのである。
『オヴィラプトサウスル類やトロオドンなどでは、抱卵の習性をもっていた可能性が指摘されている。
卵を産みっぱなしではなく、親子としての関係がはじまるわけだ。そういえば、親子丼って、どう考
えても実際は親子じゃないよね。私が世界征服を成し遂げたおりには、二世代丼に名前を改めようと
思っている。』
恐竜は1億5千万年の長きにわたって地球上で生きてきた。私たちホモ・サピエンスの歴史はせいぜ
い20万年でしかない。敬意をもって恐竜のことを学ぼうと思うのだ。

「理系に学ぶ」 川村元気 ダイヤモンド社 ★★★★
川村氏(上智大学文学部新聞学科卒業)が理系の方々とのインタビューをまとめた一冊である。十五
人の方が登場するのだが、強く印象に残ったのは三人の方。まず養老孟司氏はいつも卓見をさらりと
述べてくださる。なんども何冊も読んでいて、それでもハッとするのが不思議だ。わたしの物忘れが
激しくなっただけかもしれないが。日本と西洋のちがいも養老先生だとこうなる。
『僕はよく「日本人は社会の中で他者性が強い」って言うんだけど、西洋は言語を見ても、ルネッサ
ンス以降は必ず主語が入るようになって、「I am a boy」っていう表現も、amの前にはIしかこな
いのに、彼らは絶対に省略しないんです。
 ……
 でも、ルネッサンス以前に盛んだったラテン語は、動詞が全部変化して、強調するとき以外は人称
代名詞が要らなかった。デカルトの「我、思う」も「cogito」の一語です。つまり、「I」を
省略できない現代の西洋人は、常に行動と主体というのが存在すると思っている。』(養老)
『データの検証という点では、1996年にイギリスの研究所が世界で初めてのクローン羊「ドリー」
を作りましたけど、あれは1000回目でやっと成功したんです。でも、999回はなぜだめっだた
のかは、一切証明しないんですよ。生物化学というのは昔から特殊領域で、「成功さえすればいい」
みたいなところがある。株で儲かったとかに近い話でもあって、科学じゃないんです。』(養老)
つぎに、「バザールで、ござーる」のCMで有名な現在、東京藝術大学大学院 映像研究科教授の佐
藤氏である。すごいなという人は思考の様式、方向性がちがうということがよくわかる。テレビや新
聞など表に出ることはほとんど断っているという。
『無名でいると、相手もストレスなく素直に意見をしてくれます。教室でも仕事場でも学生や若い人
が「『先生』、それは違いますよ」と平気で言ってくるし、全否定されることも多いんです。その環
境がなくなったら、もう終わりですよ。』(佐藤)
これと真逆の世界に住む住人たちはなにを考えて日々生きているんだろうな、などと思いますね。
『もちろん現実から離れて概念の世界に行けることが人間の素晴らしいところだと思っています。た
だ、そこに行く足がかりとして、現実にしっかりと足を付けることが大切ではないでしょうか。実は
現実が、概念の世界を超えてたりもします。僕たちにはまだ見えていないだけなんです。』(佐藤)
やはりバランス感覚というのは必要なようです。
もう一人は理論物理学者の村山斉氏である。暗黒物質は宇宙の何%なのかという質問には。
『全体の27%と考えられています。その他に暗黒エネルギーは68%で、普通の原子でできた物質
はたった5%です。』(村山)
えっ、たった5%なのかとだれでも驚く。それくらい宇宙は大きいのか。
『物理学者も何かを理解して説明したいと思ったとき、あるところで言葉を失う瞬間があります。I
PMU(東京大学国際高等研究所 カブリ数物連携宇宙研究機構)内でのやりとりでも、自分の持っ
ている言葉ではどうしても表現できないから新しい言葉が欲しい。だから共通の言語を学ぶわけです
が、それが数学です。数学者が言葉を作る専門家で作家みたいなもの。僕ら物理学者は作家からもら
ってきた言葉を使って仮説のストーリーを作る。』(村山)
つまり物理学者は数式で世界を表現する。表現できるのが世界だということになるのかな。川村氏も
最後に言っている。「理系と文系は同じ山を違う道から登っているだけだった」いうことに気づきま
した、と。さて、もう山の頂は見えているんだろうか。霧がかかっているのだろうか。


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遠くに眺めるのも好きです。
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