ムッシュの読書紀行
人生は旅のようだと言いますが、旅が人生かも知れません。 ぼくは活字中毒気味でもあり、旅はまだまだ続くでしょう。
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やさしさが、こわい?
「神田川」ってフォーク・ソング、知ってますか?
確か、歌ってたグループは、かぐや姫だったな。
そのなかの歌詞で、いつも違うなって思ってた箇所がある。
で、その歌詞は次のところ。

♪ 若かったあの頃 なにもこわくなかった
ただ あなたの優しさが こわかった ♪


なにを寝ぼけたこと言ってるんだ。
それは、男の手練手管って言うんだよ。
そんなことだから、男にだまされるんだよ。
優しさは、そういうことじゃないだろう。
なんて、思わず叫んだりして…
(いまの若い子の言う優しさにも、同じ思いだろうな)

それは、優しさとは言わないんじゃないのかな。
優しさと、厳しさは反対語と思ってるのかな。
厳しさ⇔優しさ、みたいに。
ぼくは、厳しさのなかにこそ、やさしさがある。
そう思ってるんだけど、ちがいますか?


そう断じてみても、かわい子ちゃんの微笑みの前には、
つい腰砕けになってしまうのは、男のDNAのなせる業か。
(こういうところで、DNAとかゲノムとかって使っては駄目)
(分かってるんだけど、つい自己弁護が…)

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読書と連想
週末は、考えることがいっぱいありますね。
それだけふだんは、いろんなことに追われているということか。
11月2日の夜から出かけるので、あわてて図書館へ。
その途中で読み終えたのが、この本。

「ディアスポラ紀行」徐京植(ソ キヨン シク) 岩波新書 ★★★
Diaspora 離散を意味するギリシャ語だとか。
また、パレスチナを去って世界各地に居住する<離散ユダヤ人>
とそのコミュニティを指す、ということらしい。
彼は在日の韓国人だから、それに擬して書名がつけられた。
本の内容は、別にして、いろんなことが次々と思い出される。

ぼくが通ってた中学校には、たくさんの在日朝鮮人がいた。
時代は、北朝鮮への帰還が始まった頃だった。
ある日、ぼくの家に同級生が突然やってきた。
彼の名はいまもはっきりと憶えている、といっても日本名だ。
「松原秀明」、ちょっと変わった奴、すぐに議論をする奴。
そんな評判で、とくにぼくと親しかったというわけではない。
でも、ぼくは彼と並んで道を歩きながら、いろんな話をした。
こんなことをなぜか脈略もなく、記憶しているのだ。
「おまえはな、嘘つくとすぐに分かるよ」
「どうして」
「はっはっは、すぐに小鼻がピクピクするんだよ」
と言って、愉快そうに笑った。
ぼくも笑ったけど、なぜ来たのかは、聞こうとはしなかった。
最後に、彼はぼくの目をじっと見て、じゃあな、と言った。
振り返りもせずに、ずんずんと歩いて帰っていった。
いまでも、その頃の彼の顔をはっきりと思い出せる。


どうしているのかな、松原。
頑固親父になっていて欲しいな。

テーマ:読んだ本。 - ジャンル:本・雑誌

読書って楽しい
11月はじめの飛び石連休を利用してに九州へ行くので、
図書館への返却ができないのに気がつき、急遽予定変更です。
(またまた美人軍団との旅行です。M島のおじさんも参加の予定)
で、間隔があいて忘れてしまうので、読後感を書いておきます。

「ココス島奇譚」鶴見良行 みすず書房 ★★★★
鶴見俊輔氏なら知ってるかな、彼の親類筋にあたるそうです。
1994年に亡くなりましたが、なんだか残念でしかたがない。
「バナナと日本人」岩波新書 ★★★★★
この本の著者で、有名かもしれませんね。
なにかを批判しようと思ったら、徹底的に調べなければならない。
ただ、感情にまかせて声高に叫んでみても、むなしいだけだ。
実際にその地を歩いて考えるを実践した人でした。
スラウェシ島、ウジュン・パンダン、ダブル・アウトリガーなど、
旅情に誘う場所であり、いつか目にしたい光景でもある。
マングローブは植物名ではない、と彼の著作を読んで知った。
学者ぶらない、旅人みたいな人だったんだ、と想像してます。
興味があれば、「ナマコの眼」筑摩書房、ちくま文庫 ★★★★★
は是非読んで、いろいろと考えて欲しいな、と思います。

「芭蕉のガールフレンド」高島俊男 文藝春秋 ★★★★
この本で「お言葉ですが…」シリーズも9冊目になります。
週刊文春に連載のエッセイですが、いつも感心して読んでます。
なるほど、そうだったのか、そう云われればそうだな、などと。
その博識もさることながら、ぼくは彼のこんなところが好き。
まず、なにごとも鵜呑みにしないこと、懐疑的なこと。
なにか研究なり専門といえるものをもつ者には、基本のこと。
それと、なんといっても自分の非は素直に認めるところがいい。
この点が、高島さんを大好きになったおおきな理由だろうな。
つまらん奴のくせに、へんに威張ってるのが多い世の中ですが。
読むと、スカッとしますよ。眼からウロコが落ちるかもしれません。

ということで、今日は図らずも大好きな二人が紹介できて大満足。
夜長の秋を、ぶつぶつとつぶやきながら本を読んで過ごします。

テーマ:読書 - ジャンル:日記

ヌーボー男
ボジョレ・ヌーボーと、ヌーボー男との関連はない。
ただ、茫洋とした表情から名づけただけだ。
ボディコンの女性とすれ違ってから、彼が現れる。
いつもなにがしかのものを喰っている。
歩きながら、コンビニで買ったようなアンパンを。
あるいは、サンドウィッチをほおばりながらやってくる。

彼も近くの中学校の先生だとすると…。
どうしても体育教師ぐらいしか、考えられない。

年齢は30歳半ばあたりだろう。
背は高いが、やや太り気味でしまりのないからだだ。
いつもはいてるボトムは、チノパンツきりしかない。
色は濃い目のベージュのみ。
同じものを何枚も持っているとしたら、なかなかだが。
そうは、けっして見えないのだ。
身長が180cmに届こうかというぐらいだろう。
しかし姿勢が悪いので、かっこよくみえない。

ということは、ボディコン女性と同じ職場だろうか。
いつもにやにやと笑っているように見える。
それは常に口の中にものが入っているからだろう。
口元はだらしなく、ゆるみ気味である。
だからだろうか、いつも笑っているようなふうだ。

左手にかけたボストンバッグの中身はなんなんだ。
思わずそんな突込みを入れたくなるようなはがゆさ。
そんな、たぶん人のいい男が彼女の後を歩いてゆく。

彼は、あいかわらずときおり見かける。
しかし、彼女はまるで見かけない。
どうして世の中はこうなのだろう。
うまくいくことって、ほとんどない。

ボディコン女
Weekday 早朝7時過ぎのこと。
通勤のため駅に向かう道でときおり出会う。
駅から跨線橋を上ってくるのが見える。
ボディコンの女性。

こんな時間にこんな住宅地に勤務?
近くの中学校の先生かな。
やっぱり保健体育か、という連想がうかぶ。

歳の頃なら、40後半からあたりだろうか。
髪は短くカットして、ムースで濡れているようだ。
夏ならサブリナ丈のパンツスタイル。
スカートのときはミディ丈でタイトなシルエット。
身長は155cmぐらいだろう。
でも、けっして小柄には見えない。

ボディコンをまとうぐらいだから、スタイルはいい。
口元はきりりと引き締まり、端がかすかにあがる。
悠然とショルダーバックを肩にかけ歩いてゆく。
そうだ、若い頃の渡辺美佐子に似ている。

そんなファッションスタイルの女性とすれ違った。
でも、最近まったく見かけない。
非常勤の先生だったのかなあ。
きっと、生徒にも男先生にも人気あっただろうな。
それで、PTAから圧力がかかった。
派手な(つまり美人)先生は困ります、とかなんとか。
女同士のやっかみって、陰険だからな。
なんだか、他人ながらかわいそうな気がする。
そうか、そういう事情があったのかなあ。
(すっかりそう思い込んでいる)

どうでもいいけど、しかししかし、すこし残念である。

名前表記の不思議Ⅲ
鈴木氏は言語学者ですから、昔からこれはおかしいと言っていました。

これもおもしろいのですが、柔道は日本発祥のスポーツです。
しかし、国際的になると、すぐに体重別になりましたね。

日本人が勝てなくなってきて、初めて国際的なのだと氏は言います。
そう意味では、国際化は停滞気味かな、やや複雑ですが残念です。
しかし、日本人はいつまでもローカルなままのスポーツで、
あってほしいという無意識の希望があるから(?)。
ところで、 日本の柔道にはもともと体重別という考え方はないのです。
「柔よく、剛を制す」はこんな考えがないことを表しているのでしょう。

しかし、ちょっとおかしいのではないか、と鈴木氏は言います。
じゃあ、バレーボールやバスケットボールに身長制がなぜないのか。
ちょっと、考えさせられます。やはり、日本人は強く自己主張をしない。
論理整合性よりも、場を壊さないということに意を尽くすのです。
論理的でないというのではなく、和を優先させるのです。
だから、身長制の正当性は理解していても、主張はしない。
主張することによって、当然起こってくる議論を好まない。
他の国(とくに欧米)の人は、意見を言わない日本人が理解できない。
日本人は、そういう事態になっていることに気がつかない。
これでは、いつまでたっても平行線、あるいはそれ以下です。

だが、この思いやりもアジアやアフリカの人たちには発揮されない。
このことのほうが、大いなる問題なのかもしれません。
身長が低い国々の人たちのチャンスを奪っているのではないですか。
いまや日本は、国際的に大きな影響力を持つ位置にたっている。
だから、彼らを代弁して身長制を採用せよ、と発言するべきです。
仮に否決されたとしても、そう発言することに意味がある。
こういう考え方もあるのだ、ということを知らしめるべきなのです。

そうすればアジアでも、いい意味での代表者になれそうに思うな。

名前表記の不思議Ⅱ
では、実際問題として歴史上の人物を例に考えてみましょう。

まず、「紫式部」は、どういうふうに表記するのでしょうか。
そのまま、Murasakisikibu でしょうか。
まさか、Sikibu Murasaki はないと思いますけどね。

案外そう書いて、澄ましているかもしれません。
こうなってくると、問題の中味が変わってきてしまいます。

次に「源頼朝」は、もっとむずかしいですね。
「みなもとのよりとも」は、どこで切ればいいのか迷うでしょうね。
Yoritomo Miyamotono と無理やりするのでしょうか。

これでは、せっかくの教養が遥かかなたにすっ飛んでしまいます。
こうしたことでも、たちまち立ち往生してしまいます。

でも私に言わせれば、この表記を最初に考えた(?)人はおもしろい。
こんな問題になるとは、夢にも考えなかったでしょうね。

これは、日本人の相手の身になる、という性情の表れでしょう。
「思いやる心」「察する心」なのでしょうか。
その証拠に、相手には、けっして強制しませんものね。
アメリカに行けば、みずからKiichi Miyazawa と称しても、
来日したクリントン大統領を、クリントン ビルとは云わないですから。
日本独特の慣習、とアメリカ人には理解されているのでしょう。
自分で「キイチ ミヤザワ」と言っているのだから、そうなのだろう。
日本人とは、随分と変わった人たちだな。
という割り切られ方なんじゃないでしょうか。
韓国人なら、ぺ・ヨンジュンはどこへ行ってもぺ・ヨンジュンですから。
(ヨンジュン ペ だと、加藤ちゃんぺっ、みたいになるな)


でもこういった態度は、ほかのことにも影響してくるのじゃないかな。
そのことについては、また明日、ということで。

名前表記の不思議Ⅰ
これは、ぼくが大学生の頃にある本を読んで考えたことに始まる。
その本とは、
「ことばと文化」鈴木 孝夫 岩波新書 もちろん★★★★★
ぼくの手元の本の奥付によると、昭和48年5月となっています。
いまではどれくらい刷を重ねているのでしょうね(未調査)。
「歴史とはなにか」 E.H.カー 岩波新書 これも★★★★★
と同じように人生の必読書だと思います、読んでない人は是非一読を。

それは名前の表記が、日本語と英語(ローマ字?)でなぜちがうのか。
これは、「文化度簡易判定法」に使えるな、とまず思った。
書籍や音楽などがその対象になるのですが、著作者の表記に注目します。
例えば、「田中 康夫」をTanaka Yasuoと表記していれば、これはOKです。
しかし、Yasuo Tanakaというふうに書いてあれば、これは変だと思う。
ないしは、問題意識がきわめて低いのか、あるいは、まったくないのか。

出版物もすこし注意して見てみると、この表記が一定していません。
少し前までは、後者が大勢を占めていたのですが、おもしろいものです。
書籍の業界は、後者もすこしずつ前者に移行しているようです。

音楽業界など、その点ノーテンキというか、お気楽業界全開ですね。
じゃあ、私の好きな「宇多田 ヒカル」はどうなんだ。
そうです、Utada Hikaruであって、
決してHikaru Utadaとは言わない(うーん!)。

(アメリカでのデビューの経緯などでは、区別しているようですが…)
ほっと一息、というところですね。自己撞着に陥らないですみました。
まわりを見渡すと、音楽業界では逆の事が多いようです。
さて、あなたの好きなアーティスト(?)はいかがですか。

現実的な問題については、また明日考察してみましょう。

音楽って‥
いつも帰ってくると、パソコンの電源を入れる。
ぼくの好きな音楽をかけながらいろんなことをしてる。
もちろん、焼酎のお湯割りなど飲んで、いい気分になったりしてね。
そんなときに、ときおり曲に聞き入ってることもある。

お気に入りのシンガーのひとりは、John Denverなのです。
これは、ぼくの大好きな友人(女性)からCDをいただいたものです。
というより、ぼくが欲しいなと言ったらわざわざもってきてくれたもの。
こういうものが、ほんとうにうれしいなあ、大切にしています(笑)。
もちろん、いまも聞きながら思い出すことやら、考えることやらありで。
そのなかでも、「starry starry night」が好きですね。
自分でもなんか似合ってない、とは思うんですが(苦笑)。

音楽というか、歌っていいですね。
こうして英語の(よく意味が分かってないと思う)曲でも、しみいるなあ。
Country musicは割合にゆったりとしたメロディのものも多いですから。
そりゃあ、それこそ何回も何回も聞いてると、すこしは意味分かりますよ。

日本人では、やっぱり宇多田ヒカルがいいな。
メロディもいいけど、歳に似合わない歌詞を書くな、といつも思う。
一種、天才なんだろうね、脳科学者もなにかの本で書いていたけど。
その本で読んだけど、絶対音感という言葉を聞いたことがあるでしょう。
それって、音楽をするのに必要条件ではあっても、絶対条件ではない。
逆に、曲想を得るのに邪魔になることがあるかもしれない。
音感にとらわれて、そこから逸脱することができない。
天才って、いつも既成の枠からはみ出しているものね。
ふつうは、そこまでいく必要も全然ないから問題なしなんだけど。

こんなふうに音楽を聞いてて、涙がにじんでくることがあるんだ。
単に、歳とって涙腺が緩んできたってことなのかな。
そんな経験とかって、ありませんか?

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読書の秋に、耽る
図書館で本の借りれる期限の二週間がまたたくまに過ぎました。
読書の目的は、もちろんたくさん読むことではありません。
楽しんで読むことによって、なにか発見できればうれしいものなのです。
子曰 學而不思則罔 思而不學則殆
そうなのです。学びて思わざれば則ち罔(くら)し、ということです。

「漱石先生ぞな、もし」半藤一利 文藝春秋 ★★★
楽しみながら読み進めました。読み甲斐があったということです。
夏目漱石は芥川と並んで、日本人では好きな作家です。
いつか、「則天去私」この禅的な心境に到達できるのでしょうか。
漱石の日常を偲んで、漱石をまた読んでみたいなと思うことしきり。

「ウチナーグチ(沖縄語)練習帖」高良勉 日本放送出版協会 ★★
ウチナンチュウー、ヤマトンチュウーは、昔社会学の授業で聞き憶えました。
懐かしい言葉も散見できて、じっくり読めば日本語との関連もみえます。
読んでいるうちに、またあの島々に行きたくなってきました。
こんどはいつ行けるんでしょうか、季節をかえて訪れたいですね。

「動物の目でみる文化」日高敏隆対談集 平凡社 ★★★
日高さんの著作は本棚に何冊かありますが、読むのは久し振りです。
いまでは、教え子の竹内久美子さんが有名になりましたね。
最後の対談が、なんと南沙織なんです(まだ大学生のころ)。
懐かしいなという思いと、やっぱり彼女はなかなかの者と感じました。
奥付を見ると昭和53年になってました。でも、内容は新鮮です。

「日本人はどこへゆく」岸田秀対談集 青土社 ★★★
なかでも、河合隼雄さんとの対談が読んでいていちばん興味深かった。
そのなかで引用されていたエリク・エリクソンの言葉
「アイデンティティというのは、死ぬまで続く無意識の過程だ」
生きているあいだは、ずっとアイデンティティへの旅は続くということ。
すべては幻想である。人間は本能の壊れた生き物である。
など、岸田氏の持論を初めて読んだときの衝撃がいまもはっきりと蘇る。
なんど読んでも、説得力あるな。

「レヴィ=ストロース講義」C.レヴィ=ストロース 平凡社 ★★★★
文化は未開社会(おおいなる誤解)であろうとも、先進地域であろうとも、
どちらが優れていると評価することではなく、すべては相対的なもの。
文化相対主義と呼ばれた考え方は、いまはひろく行き渡っているが、
はたしてほんとうに理解されているのだろうか。
「悲しき熱帯」をもういちど読んで考えてみようかと思った。

「『裸のサル』の幸福論」デズモンド・モリス 新潮新書 ★★★
有名なイギリスの動物行動学者ですが、いまひとつ期待はずれ。
「裸のサル」のときの鋭い分析もなく、なんだか残念。
では、書中にあがっている幸福の定義集から。
幸福とは、一人の人妻と一人の独身男。 H・L・メンケン(ジャーナリスト)
幸福とは、後悔しない快楽。 ソクラテス
幸福とは、健康な体と悪い記憶力。 イングリッド・バーグマン
幸福とは天の恵みの数ではない。それに対する我々の態度である。
 アレクサンドル・ソルジェニーツィン


(★5つで満点という評価です)

急に寒くなってきました。焼酎の湯割りをちびりちびとやりながら本を読む。
至福の時間、ではないですか?

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男女間の友情は成立するか?(番外篇)
「結局、男と女の友情はあるのね」
「ある人もいるし、ない人もいるってことかな」
「どういうことなの?」
「あると思わない人には、男と女の友情は発生しないってこと」
「なるほど、信じない人にはってことね」
「そういう面があると思うんだ」
「別にあってもなくっても、極論すればふだんの生活に問題ないわね」
「しかし、こころ豊かな生活を送りたい人には、大いなる問題かもしれない」
「どんな人生観をもってるかで、確かにちがうわ」
「ぼくなら、恋愛も友情も大いに歓迎だがね」
「わたしも、だけど現実はね…」
「そう、ある意味ではそこが一番の問題だな」

Aの場合
「こんどは実践篇なんかあるの?」
「ありません。勝手にやってください」


Bの場合
「わたしとの関係は、どっちかな?」
「関係?師と弟子では」
「弟子とねんごろになるって、ドラマなんかでもよくあるわね」
「ぼくたちの場合はあてはまらないと思うが」


A、Bそれぞれから続く
「まあ、冷たいのね」
「クールと云ってください」
「うーんもう、バカ!」
「…」


このように、人生は実に含蓄に満ちている。

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男女間の友情は成立するか?(後篇)
なにごともそうなのだが、ひとつのことが多くのことと絡みあっている。
それを解きほぐしていかないと、核心に近づくことはできない。
それが価値観、倫理観を含んだものになると、結論は容易に導き出せない。
物理学のように最終的に方程式に収斂するものではないのだ。
しかし、だからと云って、投げ出していいということにはならない。
考えなければいけないし、考えることによって、気づくことも多々ある。
なんといっても、ヒトはホモ・サピエンス(?)なのだから。


「現実の問題としては、どうなの」
「ぼくの場合なら、そういう関係ってあるし、いまも続いているよ」
「セックスもありで?」
「それはノーコメントだな。すこし一般論から逸脱し過ぎですな」
「ごめんなさい。女はどうしてもそこにこだわると思うわ」
「そうだな。男と女の生物的なちがいもあるだろうし」
「生物的なちがい?」
「男と女は同じ権利を有している。それは分かっている」
「だから、すべて平等じゃなければならない、っていうフェミニスト(?)ね」
「そこが分からない。男と女はからだの作りからちがうんだから」
「また、話が逸れてるんじゃない」
「そうだった、話をもとに戻そう」
「その女性との関係って、どんな感じなの」
「若いころから話し込んでるから、気のおけない人だね」
「気を使わなくっていい、ということね」
「そう、ときどき正反対の意味にとる若い人がいてびっくりするよ」
「会ってるときの気分って、どんな?」
「なんだか楽しくてね。いつまでもいつまでも話していたい、そんな気持ち」
「うきうきしてるのね」
「そうだな。別れるときは、こんどいつ会えるかな、なんて話してるもの」
「それって、恋愛っぽくない?」
「そう云われれば、確かにそう云えないこともないな」

友情と恋愛を、ことさらに区別して考える必要はないのかもしれない。
友情であれ、恋愛であれ、人と人との交わりは楽しいものだ。
しかし、女性にはそれだけではすまされない問題が残ることもまた事実である。

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男女間の友情は成立するか?(前篇)
なぜ、こんな疑問が湧きあがってくるのだろうか。
ぼくなら、まずそんな感想をもつな。
まあ、これを機会にしばらく考えてみようか。

ぼくの考えの道筋は、こういうものだ。
男と女の間には、恋愛関係しかありえない。
という考えが一方にはあるから、こんな問いかけがでてくるのだろう。
それぞれの人が、ちがったイメージ(定義)をもつことによる必然だな。

端的に云えば、
1.セックス関係があれば恋愛、なければ友情、という立場。
2.セックス関係があっても友情は成り立っている、とする立場。
3.セックス関係がなくても恋愛(プラトニック・ラブ)は成立するという立場。

1.がいちばん多いのかな。
2.は、男の身勝手な言い分と批判されやすいな。
3.ぼくは理解できるのだが、あり得ないとするプラグマチスト(?)もいるかな。
ここで、いちばん議論が分かれるのは、2だろうということは容易に想像される。

「2って、一見進歩的みたいだけど、男のエゴ丸出しよね」
「そんなことないだろう。可能性としては考えられるんじゃないか」
「可能性というか、そういう問題じゃないわよ」
「しかし、論理的な可能性をあげて、検証してゆくことこそが‥」
「男はなんのかんのと云って、結局セックスしか頭にないのよね」
「あのなあ、セックスってそんなに悪いことなのか?」
「あっ、問題をすりかえようとしてない?」
「うーん、いますこし冷静に考えてみよう」
「そうね。わたしもちょっと熱くなり過ぎたかもね」


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ともだち考(下)
このように「ともだち」という言葉ひとつとってみても、
その意味するところは人それぞれであり、むずかしいものだ。
しかも、人はひとりでは生きられない社会的生物である。
ましてや、ひとりで生きているわけでもない。

「ひとり旅なんかで、キャンプなんかすることがあるやろ」
「うん」
「夜なんか誰もおれへんし、疲れてるし、寝よかなあと…」
「ちょっとやけくそ気味やね」
「けど、ふと空を見上げたら満点の星で、引き込まれるようや」
「旅の夜空はきれいやから」
「大いなる自然というのか、宇宙を感じることがあるやろ」
「そう感じる感じる」
「淋しいとか、つらいとか、苦しいとか、楽しいなんてことも忘れてる」
「そうやなあ」
「急に、自分はちっぽけやし、いったいなんなんやと思ってきてな」
「自分がよう分からんようになるわ」
「そしたら、急にだれかと話したい、人恋しいなあ、とかならんか」
「…、やっぱりなるか」


仮に、ひとり旅といってみても、
厳密には、自分ひとりの力で衣を纏い、なにがしかのものを食べ、
一夜のねぐらを自らが探し、野に枕しているわけでもない。
これまでの人生のなかで、
気づかなかったとしても、あまた多くの人の助けを受けてきたことだろう。
そして、これからもいままで以上に受け続けることになる。
このことをしっかりと肝に銘じておかなくてはならない。

生かされている、という意識をもつことも必要かも知れない。
そのうえで、刹那、刹那を生きてゆく。
過去、現在、未来という時間の区切りは、西欧の捉え方である。
わたしが感じることができるのは、いま(刹那)しかないのだ。
そういう意味で、現在以外は実在しない。
最後は、決まって仏教的な言辞になってしまうな。

「じゃあ、ともだちと恋人のちがいってなんなの」
「うーん、あまり経験ないからなあ」
「この、大嘘つきの、ペテン師の、こんこんちき野郎め」
「嘘ちゃうがな、そやから、あんまりって言うてるやないか」
「うーむ、そこのところ申し開きしてみよ」
「おそれながら、また講を改めまして、ということで」

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ともだち考(中)
本音を言えばね、
そんなことはどうでもいいんだよ。
それよりかはね、
なぜともだちと親友を区別しようとするのかな、ってこと。
その心理って、いったいなんなんだと思うわけだな。

親友という言葉になにか思いを託しているのかな。
なんだか頼りない自分を助けてくれるものを探しているのかな。
だれかに寄りかかっていたい、そんな心理状態なのかな。
寄りかかって、それからどうするの。
ずーっと寄りかかってるわけにもいかないよ。
もしも自分が寄りかかられたとしたら、どんな気分になるの。
頼られてるってことで、満足するのかな。
でもそのうち、鬱陶しくなってくるんじゃないの、ぼくならそうさ。
だって、なにも解決してないし、早晩進退窮まるんじゃない。

そんな奴のこと、ほんとうに好きになれるのかな。
こころの底から信頼できるのかな。
お互いが独立した存在だと感じられないと、ぼくは嫌だな。
寄りかかりは、自立する自信のなさの裏返しかも知れないけど。
甘えだとしたら、ほどほどにしろよって言いたいな。
(気持ちが分からないわけじゃないけど…)
やっぱり、自己決定からの逃避だと思うけどな。
エーリッヒ・フロムじゃないけど、自由からの逃走じゃないのか。

ではあるが、別の観点から考えればこうも言える。

ともだちと親友とは、はっきりと分けて考える。
そうすることによって、認識の幅が拡がるだろう。
なぜなら、概念は細かく分ければ分けるほど、
表現・思考の深化が可能になるのではあるまいか。
有り体に言えば、
ものごとは、刻めば刻むほど切片は増えるのであるから、
思考の材料となる言葉の数は、著しく増えていくわけだ。
その分だけ、料理のバラエティーも等比級数的に増加するだろう。
つまりは、思考の質を高めることが可能になるということだ。
依って、本「ともだち考」も味わい深いものになる(?)。
と云うわけでありますな。

ほんとかな?

テーマ:今日の日記。 - ジャンル:日記

ともだち考(上)
きょうは駅からの帰り道、月がきれいでしばし眺めながら歩いた。
そんなとき、ふと思う。あいつ、どうしているのかな。

で、題して、ともだち考。

若い頃からよく旅して、そのときに出会った友が多い。
その関係はというと、まったく気のおけないものである。
長い年月を経たいまでも、妙に若いときの感覚が息づいている。
まわりの連中から、よく続いていますね、と言われる。
もちろん、続けることが目的ではない。
なんとなくですね、と苦笑して答えるしかない。

いまの世の中では、なにもかもが経済で判断される。
そうした世間のなかで、生きていかなければならないのだ。
であるからこそ、
ともだちは、ゆれがちな精神の均衡をとる上で、
ぼくにとって大切なものになるんだなあ。
と、無理にも考えてみたりした。

「親友」なんて言葉がある。
口に出すのは、なんとなく気恥ずかしい。
若い頃には、気負って口からでたこともあった。
でも、その言葉の意味するところをよく考えもしなかった。
この定義についても、人それぞれだ。
ぼくならどう規定するだろうか。
考えをめぐらせるが、案外とむずかしい。

具体例をあげるのが、分かりやすいだろうか。

つらいときに、黙って愚痴や戯言を聞いてくれる。
傍にいるだけで、なんとなく落ち着ける。
ひとり旅してるとき、思いだすだけで勇気がでてくる感じ。
「出会った回数なんか、関係ないじゃないか」
「付き合いの時間の長さで、決まるわけ?」
「当たり前だよ、悩まないやつなんかいないよ」
「じゃあ、またな。泣くんじゃねえぞ」
そう言って、おまえが目に涙を溜めるんじゃないよ。


離れていても、いつもなにかでつながっている。
そんな奴かな、とも思ったり。
いや、ちがうな、と考えたり。

テーマ:今日の日記。 - ジャンル:日記

記憶の不思議
いま、荒井由実を聞きながらキーボードを打ってます。
同じ歌でも若い頃に聞いたのと、いまではまるで印象がちがいます。
あの歌よかったなあ、と思って聞いてみると、歌詞が全然ちがっていたり。
えっ、などと思うのですが、自分の勝手な思い込みで解釈していたのですね。
というよりは、ほとんど創作(?)というのもありますからね。
向田邦子さんの有名な作品で「眠る盃」なんてのもありますね。
もちろん、「荒城の月」の歌詞をそう憶えこんでいたということです。

ぼくもそういった経験がけっこうある。
記憶を検証する手段がないときには、記憶を正としてるんだろうな。

わたしの記憶に間違いはありません、彼を確かに見ました。
はっきりと、この眼で見たんです。絶対に彼が犯人です。
などと、事件もののドラマなどで目撃者が証言する場面がある。
しかし、こんな証言は簡単に誘導できるというのである。
大講堂などで、突然暴漢が現れて、そして去ってゆく。
もちろん、実験なのであるが、そのときの記憶などあてにならない。
「彼は、髪はブロンドでした」
「そう、わたしも確かにそう見ました」
ふたりのさくらがそう証言すると、どうなるか。
自分は、絶対に黒い髪だと思っていても、自信がゆらぐ。
挙句の果てには、確かにブロンドだったと記憶の修正までしてしまう。
それ以降、ブロンドだったと自信をもって発言するのである。
ビデオを見せられても、ビデオが操作されたものだと言う始末である。

すこし前だが、むかしのメモが出てきて読んで驚いた。
ぼくの記憶と、ほとんど正反対のことが書いてある。
これは、どうしたことだろう。記憶が間違いか、メモがおかしいのか。
ある女性に抱いていた思いは、どう解釈すればいいのだろう。


悩める秋の夕暮れ、月を見て嘆息するばかりである。

週末は本の話?
ぼんやりとしてるときに、ふっと思い出すことがあります。
どこにあったかなと本棚の前まできて、しばし考えをめぐらせます。
いきなり、棚を動かしてごそごそと探し始めることはしません。
あの本もう一度読んでみようかな、なんて思うことは珍しいのですが。

ぼくはベストセラーといったものには、あまり興味がありません。
とくにハウツーものなど、まったく読む気がしません。
そんな本を読んで、がっかりしたことがあったからかもしれませんね。
(読んでるんだ、って読んだこともありましたよ、でないと言えません)

小説はふだんからあまり読まないほうなので、流行が分かりません。
でも、うわさなどちらほらと聞こえてくるので、記憶にはあるんですね。
ミステリは割合に読みますが、好みの傾向がかなりはっきりしています。
ほんとうは、小説はその時代を映しているので読んだらおもしろい。
そうは思うのですが、他に目移りがして、ついつい後回しになります。
では、自信をもってご紹介しましょう。

「悪童日記」 アゴタ・クリストフ著 ハヤカワepi文庫
もうかなり前のことですけど、世界的ベストセラーになりました。
そのことは、なにかで聞くか読むかして、記憶にしっかりありました。
あるとき、書店店頭で見つけて、なぜかすぐに買い求めました。
予想していた以上の衝撃でした。
読んでるときも、背筋がゾクゾクしていましたね。
まさしく文学はすごい、と十二分に言わしめる作品です。
世界が震えたんじゃないかな、そんな感じでした。
まず読んでみてください、としか言いようがないです。

あまたあるベストセラーでも、のちになって光を失うものが多いです。
淘汰されるというと進化論みたいですが、忘れ去られるんですね。
落ち着いて読んでみると、つまらなかったり偏狭さが目につくんです。
しかし、この物語りはいつまでも輝いていました。
こう書いて、これを読んだのがもう4年以上も前のことに気付きます。
ぼくのなかに、深く刻印されていたんでしょうか。

でも、人から紹介された本は案外読まない、でしたね。

テーマ:日記 - ジャンル:本・雑誌

「どこかへ行こうよ」
彼女がぼくの耳もとで囁いた。
「一緒にいきませんか」
いきなりのことなので、ぼくは驚いた。
彼女があまりにも近くにいたこと。
その秘密めいた口調に、どぎまぎした。

ほのかに、化粧の匂いがしたようだった。
ぼくは即座に、「一緒に行く」と勢い込んで答えた。
なんだかわけも分からないながら、とても嬉しかった。
場所はどこへだったか、はっきりとは思い出せない。
信州のスキー場だったような気がする。
泊まりではなく日帰りだと分かった。
そのとき、すこしがっかりした。

彼女が、ぼくとどこかへ行こうと言ったのだ。
そのことが、ぼくを幸福な気分にさせた。
ぼくは二人きりで行くんだ、と思い込んでいた。
でも、様子が分かってくると、グループで行くようだ。
またしても、ぼくの喜びがすこし削りとられてゆく。
このまま無くなってしまうのかと、不安も覚えた。

彼女を真横に感じるのだが、見ることができない。
なぜか彼女の方を向くことがはばかられた。
だから、顔を見てはいない。
でも、彼女だとはっきりわかる。
なにか別種の感覚がぼくににそう教えている。


夢のような話だった。
事実、後で夢だと知ることになるのだが…。

そんな夢の経験、ないですか?

テーマ: - ジャンル:

方言の懐かしさ。
 ふるさとの 訛なつかし 停車場の 人ごみの中に そを聞きにゆく

 有名な短歌ですが、訛、方言について考えることも多いです。
八重山を旅したときに、町の角々では看板などにその言葉を見るのですが、
なまでじかに聞くことが少なくて、とても残念な思いをしました。
言葉と考えることは密接な関係にあると、教科書などにはでてきます。
言語が思考を規定する、などとむずかしく言ったりしますね。
逆にいうと、言葉が滅びると、その言語での思考(文化)も衰えていきます。
沖縄の言葉、いくつ知っているのかな、なんて思ったりしました。

 チバリヨー(がんばれよ)は、高校野球の垂れ幕をテレビで視ました。
よかったですね、ケッパレなんて言葉も別の地方から聞こえてきたりして。
大声で叫ぶときなど、つい生まれた土地の言葉が口をつきます。
 沖縄に着くと最初に目にするのが、メンソーレ(いらっしゃいませ)でしょうね。
八重山だと、オーリトーリって言うんです。同じ沖縄でもちがうんですね。
テレビ番組で有名になりましたが、チュラサン(美しい)は音もきれいですね。
清らさん、て書くほうがぼくは好きですし、ニュアンスは近いらしいです。
あの海の色がイメージとして湧きあがって、またたまらなく行きたくなります。

 どこの地方でも同じですけど、生まれた土地の言葉を守りたいですね。
ぼくなんか、文章でもすこし分けて書いてますね、無意識にでしょうか。
ことに会話は関西弁で書くと、その場の雰囲気がだしやすいですしね。
誰と書かないで、言葉だけで分かるように書いたりもしますね。
逆に、苦し紛れの感もないことはないな、と反省もしてますけど。
 すぐに染まって、使いたくなるんですよね。そんなこと、ないですか?

 マタヤーサイ(See you again)!

テーマ:言葉の周辺 - ジャンル:日記

蒜山絶笑ツアーPartⅢ
一夜あけて、天候はどうかと外を見ると、空はうす曇りでありました。
そのうちさっと雨が降ってきて、蒜山は煙るような空気のなかに遠のきます。

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物の見方って不思議なもので、これで作物も順調に生育するか、なんてこともね。
天から賜るものは、すべて大地の糧となりしか。

樋を伝って落ちるしずくを眺めていると、昔のことを突然思い出したり。
雨に濡れる赤いペンキに塗られたブランコが、揺れているような気もしたり。
水差しのキャップの、チェスの駒様がなにかを語りかけるかのようでもあります。
珈琲のにおいが、いつになく好ましく思われるのも、考えてみれば妙なものだ。
知らぬ間に、「Nadja」のどっしりしたテーブルに座り、話していた。
笑い声が丸太作りの大部屋に、静かに沁みこんでゆくような錯覚がある。
忘れていたことを思い出したような、安堵のうれしさに包まれる。
そんなとき、決まってくらくらと眩暈を感じるのはなにゆえなのだろう。

http://ww6.enjoy.ne.jp/~cafe-nadja/

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ブリキの楽隊のひょうきんな顔が言っている。
晴れる日があれば、雨の日もあるのが世の常ではないですか。
そりゃあ、そうだね。
雨に洗われた緑が、きれいじゃありませんか。
そういえば空気も透きとおっているようだね。
しかし混じり気なしってえのはいけませんぜ、ねえ旦那。
純粋は、なんでもそうだが味がないね。
そうそう、混ぜ物ばかりも困ったものですがね、へっへ。
ねえ、ハリネズミくん、雨も捨てたものではないな!

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最後に、こんなエピソードでおしまいにしましょう。

車の中で、T(先輩の方)におじさんがこんなことを言ったらしい。
「Tも自由じゃし、これからおじさんと一緒になることもあるじゃろか」
運転を誤りそうになりながらも、
「なに言うとお、あるわけないじゃろ」
大声ではっきりと、即座に否定。
(そんな冗談か分からないのに、でも本気?)
(同乗者は必死に笑いをこらえていたそうな)
(おばさんがかわいそう)
(おばさんならきっと言うよ、本気やわって)
(でも、あれでおじさん、なかなかの役者やからなあ)
(そうそう、あの笑顔にだまされる)
(だまされたこと、あるの)
(あるわけないでしょ)


げに、事実は小説よりも奇なり。

もって全巻の終わりであります。御静読有難うござりました。

テーマ:真鍋島の愉快な仲間 - ジャンル:旅行

蒜山絶笑ツアーPartⅡ
わいわいと言ってるうちに、蒜山ヒルズ(今夜の宿泊所)に着きました。
部屋がなかなかよかったですね、女子はロフトなんかあったりして。
男子は和室ですね、ベランダからの見晴らしがよくて広々としています。
(女子とか男子って言うの、なんか高校生みたいですね、まあいいか)
早速「快湯館」という温泉施設へ、でかけました。

おじさんね(M島の)長いんですわ、からだを洗うのが、ね。
そんなに洗ってどうするの、というぐらい真剣にというか丁寧というか。
まあ、いろいろと考えて洗っているんでしょうけれどね。
おかげで、待ってるだけでMくんもぼくも、のぼせそうになりました。
しかし、温泉はいいですね。なんかのんびりという気分になれますから。

宿に戻るとき、車でCDがかかったんですけど、伊東ゆかり、なんです。
ぼく、若い頃からファンなんですね、三人娘のなかで一番好きでした。
どうしてるのかなあ、なんて友だちみたいに思って、苦笑いですわ。
「恋のしずく」もいいけど、ほんとうはジャズ歌ってるほうが似合ってるのにね。

夕食を食堂で済ませて、男子の和室に集合しました。
修学旅行みたいでわくわくしますね。枕投げはしなかったですけど。
女子(美人揃い)が多いので、おじさんニコニコとご機嫌でしたね。
京都のKさんも始めての参加でしたけど、よく笑ってました。
ぼくが冗談を言ったときなど、小さな声でこう云われてしまいましたよ。
「おばかさん‥」
なんて大笑いですわ、こんなに笑ったのって久しぶり、楽しいですね。
こんなこと云われたの、初めてです、新鮮でした(マゾじゃありません)。
M夫妻の結婚のときのアルバムを見ても、大盛り上がりでした。
忘れていることって多いですね(忘れていたかった、のかも知れませんが)。
もううん10年以上も前のことだっていうから、光陰矢の如し、ですな。

笑ってるときのヒトの表情って、いいですね。きれいですよ。
こころが澄んでるような錯覚(?)を、相手に抱かせるんじゃないでしょうか。
だれでも、笑っているときは素敵ですね、再発見しました。
そう思いませんか?笑顔は、ヒトをきっと幸せにするでしょうね。
問題は、それが長続きしないというところにあるんじゃないでしょうかね。


さて、次回でうまく落ち(というか、まとめ)がつくでしょうか。
蒜山絶笑ツアーPartⅠ
今日はM島のおじさんと、その娘Nさんも加えて蒜山へ一泊ツアー。
10月1日(土)、岡山駅の西口に各地から終結して参りました。
九州のPB氏も忙しいさなか、差し入れ持参のお見送り、痛み入ります。
さて3台の車に分乗して、いざ出発でございます。

ではメンバーを、簡単にご紹介いたしましょう。
四国のM夫妻、ご両人ともいたって上品です、奥様の笑い声に特徴あり。
初参加京都のK夫妻、実は奥さんがなかなかのキャラクターの持ち主。
奈良のうるさ型のK女史、見かけはとても美人でおとなしそうなのであるが。
岡山のT先輩(って、PB氏がのたまうので)は、女流ニヒリストならん。
同じく岡山のTさん、眉目若し、しゃべる、つっこみあり、三拍子揃っております。
それにメインゲスト、M島のおじさんと、その娘Nさん、の強力タッグであります。
最後に、小生を加えて総勢10名の珍道中、いかがあいなりますか。
(なお、個人情報保護法に鑑み、顔写真は極力掲載いたしません。
もしあれども、その節は何卒ご寛容いただきたく存知申上候)

昔のこと、M島を訪れたとき、おじさんからこんな話をお聞きました。
「観光って字はね、観るだが、これはこころで観るを意味してるんです。
では、光はなにか、形のないものをいうのです。
つまり、形のないものをこころで観るのが、観光のほんとうの意味なんです」

と大意そのような話でありました。
「なかなか、ええこと言うな、このおっさん」と心中思ったりしておりました。
(小生なるほど、などとしたり顔をしていたのでしょうな、多分)

ということで、今回はこころ中心の紀行文で書き進めさせていただきます。
(それって、こまかい事忘れたってこと?、とも言いますけれどもご容赦を)

順調に車は走り、昼過ぎに津山の「じゅうじゅう亭」に到着、ここで昼食です。
下記のページに紹介されてました。是非行ってみてください。
住所、電話はこちら 岡山県津山市上河原210-2 0868-23-9747
http://www.geocities.jp/tetsu_iron/zip0408.html

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主人のH氏は、旧知の間柄なのでありまする。
顔を見れば思わず出てしまいます、懐かしいなあ何十年ぶりかな。
旅仲間は、すぐに時間を超えて共感できる、これがすばらしいのであります。
静かに流れるビートルズの曲も、また好きなんでありますね。
もちろん料理の味は、女子連中が太鼓判を押しておりました。
津山在住のHさんも仕事の合間を抜けて、駆けつけてくれましたね。
こういうことって、なににも換え難くうれしいことなんですね。
Hさんご教示の、イナバ化粧品店(B’zの)にも立ち寄ったりなんかして。

車の中では、なにしていると思いはりますか。
いろんな話が飛び交っているんですよ、笑い声とともにね。
つっこみあり、ボケありのかけあい漫才みたいなもんですかね。
ふと思うんですよ、こんなに笑ったことっていつ以来だろう、なんてね。
いい友に恵まれるって、お金では手に入れられないものなんですね。
長年の積み重ねが、いまに至っているということなんでありましょう。

ときに問われますね、どうすれば、そういうふうになれるのでしょうか。
そんなこと聞かれても答えようがありません。
どうしてなんでしょうね、なんとなくですかね、分かりませんね。
意識してどうにかできる、というものではないようです。
しいていえば、自分をごまかさないで生きること、ですかね。
人間ですから、失敗やら失恋やらなにやかや、誰にでもありますでしょ。
そのときに、逃げないことですね。だって、逃げ切れないでしょう。
(そう言うあなたはどうなんだって言う奴が、かならずいますね。
それを追求しても、他人がどうやっていようと関係ないんですけどね。
責任転嫁姿勢が見えて、もう話す気力がなくなってしまいますね。
それも、もう子供じゃない年齢なのにね、でもうすうす分かってるのかな。
自分の周り見りゃ、てめえがどんなふうに生きてきたかが分かるだろう。
なんて、啖呵切りたくなりますけど、あほらしさが先にたちますね)

長くなってまいりました。後半は楽しく(?)まとめたいと思っております。
では、一回目はここでおしまい、ということで、チョン。
八重山紀行最終回
7時頃目覚める。暑さのせいで、すっきりとはいかない。
ぶらりと表に出て、なごみの塔へとやってきた。
ゆっくりと登って、集落を見下ろすと思ったより高い。
整然とした家並みは、朝の静けさのなかにまどろんでいるようだ。
細い道を、観光牛車がゆっくりと進んでいく。

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部屋で荷物をザックに詰め込んで、出発準備完了。
玄関では、わいわい言いながら記念写真を撮っていた。
誘われて、記念写真の列にもぐりこむ。若者は楽しい、か。

10時過ぎに、送迎の車を断って歩いて港へと向かう。
歩く人は確かに少ない。地元の人はかならず車だ。
これはあたりまえのことである。旅行者とはちがう。
日常ではないから、歩くことができるのだ。
さらに、歩かなくては旅行者には見えないものがある。
などと、ごたくを並べるわけではないが、歩くのが好きだ。
歩けるあいだは、旅が続けられると思ってるからかも知れん。

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石垣の町を歩いていると、こんな店を見つけた。
瀬戸内海にあるユースと同じ名前だ。
まだ店は閉まっていたが、記念に一枚パチリ。
多分、「みとら」と読むのだろうな、とは思うのだが。

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いつしか機上の人となり、九州の手前で機長のアナウンス。
「機の右側が、いまちょうど台風の眼に入っています」
確かに、晴れている。左側はと見ると、曇ってなにも見えない。
不思議なものだ。ゆれることもなく台風14号の横を飛ぶ。

関空に着くと、しとしとと雨が降り出していた。
高速道路からは、まばゆい光を放つ街が異邦のように見えた。
短い(5日間)八重山の旅は、もう終わったのだ。
読書の秋、来る
先々週借りた本の返却期限がきました。
やはり、予想通り全部読みきることができませんでした。
読めなかった本と、新たな本を、また借りてきました。

では、読んだ本についての寸評、参考(?)になるでしょうか。
読んだ順に書いてみましょう。

「自然と文明の想像力」山口昌男 宝島社  ★★★★
人と自然ってなかなかうまく共存できないものですね。
ヒトはどうしてこんな方向に進化してきてしまったんでしょうね。
未開人などと言ってる間は、思い至ることは無理かもしれない。

「インターネット安全活用術」石田晴久 岩波新書  ★★
こういった実用的でないパソコン関連図書は読みます。
どういう発想の元に、インターネットは発展してきたのか。
楽観的な人々は、ねじくれた悪意の人にはもろかった。
しかし、あきらめることなくまた再構築していこうと、うーん。

「生の科学、死の哲学」養老孟司 清流出版  ★★★
対談集です。いろんな人が登場しますが、気になった人はこちら。
甲野善紀(古武道家です)前にも養老氏との対談を呼んで感銘。
佐藤雅彦(いまは大学教授)バザールでゴザールで有名。
橋口譲二(社会派写真家)話すことが、旅人のようだ。

「真相」(上)(下)パトリシア・コーンウェル 講談社文庫  ★★
大ベストセラー作家の、ノンフィクション(?)。
私財数億円を投じて調査したとか。物好きな人はいるものです。

(★5つで満点という評価です)

結局、以下の2冊と追加3冊が今回借りた本です。

「漱石先生ぞな、もし」半藤一利 文藝春秋
「レヴィ=ストロース講義」C.レヴィ=ストロース 平凡社
「ウチナーグチ(沖縄語)練習帖」高良勉 日本放送出版協会
「動物の目でみる文化」日高敏隆対談集 平凡社
「日本人はどこへゆく」岸田秀対談集 青土社

以上です。
読書の秋ですね、お酒もおいしいからさて読めるでしょうか。

テーマ:読んだ本。 - ジャンル:本・雑誌

八重山紀行その9
波照間での疲れがでたのか、ぐっすりと寝てしまった。
今日は、のんびりと竹富島をサイクリングしてみよう。
友利レンタサイクルで借りた自転車のサドルを高く調整する。
かがとでペダルを踏んで、下位置のときに膝が伸びてるように。
こうすると、長時間漕いでも膝が疲れないのを憶えていた。
若いときに自転車でいろんなところへ行ったなあ、と懐かしい。

港近くの「めがふ館」へ行って、のんびりと地域情報誌など読む。
このビジターセンターは静かだし、なかの調度もセンスがいい。
本日の行程を検討する。まあ、小さな島だし、一回りしてみよう。

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まず、安里屋クマヤのお墓に参る。絶世の美女であったそうだ。
「安里屋ユンタ」のこの歌詞を聞けば、誰でも思い当たるだろう。
♪ ハーリヌ ツィンダラ カヌシャマヨ ♪
訪れる人も少ないのだろうか、ひっそりとしていた。
西桟橋、コンドイビーチ、皆冶浜、アイヤル浜と自転車でめぐる。
浜で休んでいるときに、気付いたことがある。
おなじみのフナムシを見ない、代わりにいたるところヤドカリがいる。
生き物の様相も、すこし違っているようだ。

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しかし、波照間とのこのちがいはどうだろう。
やはり、O君が言うように竹富島は観光地として生きている。
道は毎朝きれいに掃除され、集落の家並みも揃っている。
郵便局、小学校、なんだか映画のセットのようでもある。

0046竹富郵便局

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夕暮れになると、ナトリウム灯のオレンジ色に町は染まる。
女性だったら、ロマンチックな気分になるのはしかたがないな。
(一箇所だけ蛍光灯がともっていたが、これはご愛嬌だ)
かなりしっかりした計画の下、運営されているのだろう。

台風14号は、すこしずつ沖縄本島に近づいているようだ。
さて明日は帰る日だが、うまく飛行機がとぶだろうか。
八重山紀行その8
暑さを感じて目覚めたら、部屋にひとり取り残されていた。
洗面をすませて、縁台に座っていると三々五々散歩から戻ってくる。
食堂に行くと、またも満艦飾の膳が並んでいた。
テレビの前に座って天候情報を見る。台風14号の動向が気になる。
風が強くなってきたら欠航のおそれもあるので、一便で出ることにする。
24時間の波照間だったが、印象は強いものがあった。
名残惜しいというのではなく、去りがたしといったところだろうか。
他の今日旅立つ連中も、宿の前でそんな気分でうろうろしていた。
たましろのおやじは、それでも淡々と港まで車で送ってくれた。
去り際に、すこしにっこりしたようで、なかなかチャーミングである。
(前日の夕食の写真は撮り忘れてしまった。残念)

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船中ではうとうとしながら、たった一日の波照間行を反芻していた。
船が石垣港の離島桟橋に着いても、すぐに降りる気にはなれなかった。
港のベンチに腰掛けて、まばゆくきらめく海面をながめていた。

竹富への船に乗り込むとき、母親と女子高生の二人組をみかけた。
健康そうに笑う娘と自分の娘が、似てもいないのにだぶって見えた。
女子高生は、竹富港で知り合いのおやじさんから声をかけられていた。
「また、おおきくなりよって」
「ほんとうに、からだばかりおおきくなって」
恥ずかしそうに下を向いて笑っている姿がかわいらしい。
化粧もしないでも、いちばん輝いている季節なんだろう。
なんだか、胸がいっぱいになってしまった。

今夜の宿の高那旅館ユースまで歩いて、1時過ぎに到着する。
神奈川のH君の旅日記に書かれていたカイジ浜に行ってみよう。
暑いなか自転車で走る観光客の横を、ひたすら歩いた。
なんだか、無性に疲れたかった。あまり考えることもしたくなかった。
カイジ浜からコンドイビーチまで、砂浜伝いにぶらぶらと歩く。
台風14号の影響か、すこし風がでてきたようだ。
夕食後、夕日を見に西桟橋に行くが、あいにくの天候でだめ。
集まった観光客をながめる羽目に陥ってしまった。
今夜は風の音を聞きながら眠る。

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八重山紀行その7
汗にまみれたからだを温水シャワーで洗い流した。
さっぱりして、縁台で休んでいるとそろそろ食事の時間だ。
今夜はこの場所で、夕食の宴(ユンタク)だそうだ。
ぞろぞろと、いろんな方向から宿泊者が集まってきた。
全部で10数人、賑やかな食事になりそうな予感がする。
ひとり分ずつお膳に載せられた食事が運ばれてきた。
どこからともなく歓声があがる。
お膳からはみ出しそうなほど料理が満載である。
ジューシーなど、山盛り状態、食べる前からもうあきらめ気分。
しかし、左燐のランボーみたいな男はパクパクと食べている。
そして、みんなの注目の的「泡波」が運ばれてくる。
「この泡波って、東京で飲むと一杯1000円もするんですよ」
「へえー、すごい」
「ほかのが、500円くらいですからね」
「ふーん、そうなんですか」
みんなは、さも感心した面持ちでうなずく。
さて、グラスに氷を入れ、まずはロックで飲む。ぐっと一口飲む。
「どんな味ですか」
「わからない、なんか癖がないって感じだな」
「そうですね、すっと飲めますね」
あとは、わいわいと自己紹介をしたり、賑やかな宴になった。

宴もたけなわのころ、ランボー君が星空観測に行かないかと誘う。
ぼくはいちもにもなく、その誘いにのって車の中へ。
真っ暗な道を進んで、観測台のようなところへやってきた。
階段を上って、屋上のようなところにあるサークルに出てきた。
ランボー君がパソコンと連動した望遠鏡を組み立てる。
レーザービームで星空の説明をしてくれる。
他の宿の連中も、熱心に聞き入っている。
そのとき、赤い塊がゆっくりと視界を横切っていった。
みんなから、思わず歓声があがる。
「あれは、火球というんです。めったに見られません」
ランボー君が説明してくれる。流星よりはずいぶんと珍しいらしい。

星をみると、いつも思うことがある。
ヒトはどうしてこうも傲慢になってしまったのだろう(ぼくも含む)。
はるか何億光年離れた星では、なにが起こっているのだろう。
ヒトなどちっぽけな生き物でしかないのに、と考えずにはいられない。
すこし、酔ったろうか。だが、ひさしぶりにいい気分だ。

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八重山紀行その6
気がつけば、2時間あまりも海を眺めたり歩いたりしていた。
ヤギのたむろする「波照間島星空観測タワー」の横を走り抜け、
新しいアスファルト舗装道路をすべるようにくだる。
一日にたった一便しかない波照間空港が見えてきた。
そのとき、ヘリが轟音とともに舞い降りてきた。
誰も降りてこず、また飛び去ってしまった。
緊急時のための訓練だったのだろうか。
建物の中に入るが、カウンターには誰もいない。
ひっそりとした田舎の無人駅みたいな空港で、トイレを借りる。
洗面台で、またタオルをぬらして首に巻きつける。

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走りながら、左手に灯台を眺め、集落に近づいていく。
名石売店で、冷えたオリオンを買う(ここでは、160円也)。
店の横に自転車を止め、ぐいっと飲めば生き返る。
先ほどもすれちがった観光客の女性が会釈しながら店に入った。
店のおばさんと親しげに話している声がとぎれとぎれに聞こえる。
ふたりが笑う声も聞こえてきた。
ひっそりとしていた蝉がまたやかましく鳴き始めた。

冷たさや のどにしみいる 泡のもと

店の前の選挙掲示板を見ると、投票日が土曜日になっている。
そうか、離島では一日早く投票が行われるのだ。
宿に戻り縁台で休んでいると、ひとり男性がやってきた。
常連らしき連中が、O君と呼んでいる。
荷物を部屋に置いてきたO君が、ぼくの横に座った。

「いつからですか」
「今日来たところ、明日はもう出なくちゃ」
「ほんとうですか」
「そう、一泊しか予約取れなかったから」
「そうなんですか、じゃあ明日は」
「竹富島だな」
「ああ、ミーハーの島ですね」

その言葉には答えないで、民宿の前の道を眺めていた。
東京から来た若い彼は、二週間後にもまた戻ってくると言う。
来るのではなく、戻ってくるんです、とぼくには聞こえた。
離島、波照間を探してあてたぞ、と力んでいるようにもみえる。
ぼくも若い頃はそんな力みを見せて旅していたのだろう。
いまなら軽く受け流せるが、当時は彼のようだったのだろう。
なにも竹富がつまらないというのではなく、波照間が愛しいのだ。
マスコミの光は、華々しく竹富を浮かびあがらせる。
なぜ波照間が桧舞台にあがってこないのだ、と歯噛みする。
だが、誰にも知られたくない気持ちもあるから複雑である。
しかししかし、波照間のよさをもっともっと知ってほしい。
アンビバレンスの波にゆれてゆられて、ぼくを見る。

「また波照間に来るかな」

この一言で、彼の思いが伝わったことが分かっただろうか。
彼が、かすかに微笑んだようにも思えた。
八重山紀行その5
民宿の自転車を借りて、島内散策に出かけることにする。
(クランクシャフトがすこし曲がっている自転車を選ぶ。
生来の天邪鬼なせいでもあるが、すこし漕ぎ辛い。
しかし、旅立つまで何回乗っても500円と格安なのだ)
冨嘉商店で、オリオンの発泡酒を1個買い求める(140円也)。
さあ、日本で一番美しいと評判のニシ浜へと出発だ。
(ややこしいのだが、このニシとは土地の言葉で北のこと。
しかし、予想されるように看板は見事に西浜となっている。
きっと、こんな辺鄙な島には来ないお役所人仕事の典型か)

暑いさなか、汗をふきふき、赤土のサトウキビ畑の中を走る。
先日の台風のせいだろう、ことごとくなぎ倒されている。
この島に生きる厳しさがびしびしと伝わってくる。

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すこし下り坂になって、前方に浜が見えてきた。
自転車をとめて、休憩所らしきコンクリートのベンチに座る。
日陰に入ると、ゆるやかな潮風のせいもあり、意外に涼しい。
デイパックからオリオンを取り出し、タグを引き上げる。
プッシュッという音とともに、泡が飲み口に殺到する。
待て待て、いま飲んでやるから、慌てるんじゃないぞ。
などと、酒飲みのたわ言をつぶやきながら、ぐいっと飲む。
陽は高くにあり、静けさゆえに話し声がまぢかに感じられる。
砂は白く輝き、海の色は乳白に緑を混ぜたようだ。

一時間ばかり海を眺めて過ごす。
再び自転車にまたがり、日本最南端の岬をめざす。
長く続くサトウキビ畑、きびしい陽が肌をじりじりとこがす。
ぼんやりと漕いでいると、突然の悲鳴のようなものに驚く。
なんだと思ったら、低木につながれたヤギの鳴き声だった。
ほんとうに驚かされる。どきりとして、目が醒めた気分だ。

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道を間違えたりしながら、30分もかかってやっと到着。
手作りらしい、「日本最南端之碑」が波照間らしい。
断崖のしたで、波がぶつかっては白いしぶきをあげている。
観光客が、ときおりやってきては記念写真を撮って去る。
休憩所の東屋で、ただぼんやりと海を見ていた。
暑いがオリオンはすでになく、お茶も飲み干してしまった。
さっき水道に浸したタオルが、もう半乾きの状態になっている。
しかし、徐々にからだが暑さに慣れてきた。
これがヒトのホメオスタシスの不思議なのだ。

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Author:ムッシュ
島を旅するときが楽しいですね。
遠くに眺めるのも好きです。
楽園なんてないんですけどね。

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