ムッシュの読書紀行
人生は旅のようだと言いますが、旅が人生かも知れません。 ぼくは活字中毒気味でもあり、旅はまだまだ続くでしょう。
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鳴門・淡路島寄り道ツアー(Ⅱ)
明石から淡路島へは「たこフェリー」でのんびりと、約20分の船旅です。
岩屋に到着して、大阪方面からのO女史、Nくん、伊丹で合流のYちゃんを待ちます。
暖かな陽射しが、ぽかぽかとして眠気を誘うようなそんないい天気です。
Nくん運転で、なんとかやってきました。
ミントグリーンの通称「かめむし号」(たまむし号とも言ったり)に乗り込みます。

「これから、鳴門へ行くのよね」
「そうやな、四国まで行くんやから、おもしろい行程や」
「えっ、鳴門インターって淡路島のなかにあるんじゃないの」
「いや、四国だろう」
「そうなの、てっきり淡路島にあると思ってた」
「なんだ、徳島行きのバス便なら、朝もユックリできたのに…」
「それなら、伊丹に降りないで、徳島空港に行ったのに…」
「まあ、ええやないか、こういうのも一興です」
「そう思わないとしゃあないわね、でもね…」
「旅は日常の不合理を生きるものなり」
「また、始まったわよ、Tちゃんも大変ね」
「そうなのよ、分かってくれる」


などと、軽口たたきながら、車は南下を続けるのであります。
鳴門インターで降りて、新居浜のM夫妻、別府のOくんと合流しました。
さあ、すこし遅くなったが、今日の昼食処「びんび家」へ向けて出発。

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海岸沿いの国道を徳島方面へ走って、見えてきました。
ありゃあ、店の周辺は大変な人の数です。
なんとか駐車場に車を入れて、すこし順番待ちをすることになりました。
思ったより早く、9人が座れる席に案内されてほっとひと息。
Oくんおすすめの釜飯とワカメの味噌汁、これに刺身盛りを注文する。
さあ、やってきました。味噌汁のなかにはワカメがわんさか入ってます。
氷を敷き詰めた桶にどっさり乗った刺身も身がぷりぷりして、じつにうまい。
小ぶりの釜飯は、ぼくたちにはちょうどいいくらいの分量でした。
しかしなんだか食べ過ぎた感じがするのが、若い頃とはちがってます。
でも満足満足、ここまで遠路はるばる(?)やって来た甲斐がありました。

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 人は生きるために、食うのか。
 それとも、食うために、生きるのか。
 (そんなあっちかこっちか、でしか考えられないなら君は不幸だ)


そんな哲学命題が、むなしく砕けた(おおげさ?)昼ごはんでした。

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鳴門・淡路島寄り道ツアー(Ⅰ)
春は名のみの風の寒さよ、などと口ずさみつつの淡路行でした。
25日(土)は朝から晴天で、風もなく厳しい寒さも感じないくらいです。

電車で一路明石を目指します。
時間は10時をすこし過ぎたあたり、倉敷からのK君を待ちます。
合流して、三人で向かった先は「魚の棚商店街」でした。
ここで、今夜の宴会(?)の酒の肴を調達しようという魂胆です。
最近はつとに有名で、この時間でも観光客らしき人たちが散見されます。
道路沿いの道から商店街への角を曲がると、たちまち魚のにおいがします。
いまでは都会では嫌われるにおいですが、なぜか懐かしい感じがします。
商店街自体は、そんなに長くもないのでいちど最後まで歩きます。
そうしておいて、めぼしをつけた商店で、購入しようというわけです。
話好きそうなおばちゃんのいる角の店に決めました。

「これは、なあに?」
「ああ、その丸いのね、それは子持ちイカ、おいしいよ。
こっちにあるのが、サザエね、これもおいしいでえ。
これは飯蛸、最高においしいわね。
どれもおいしく煮付けてあるから。
お兄さんらは、ウォーキング大会に参加しはるの?」
「いや、そうじゃないんだけど、淡路島で一泊します」
「そう、ええねえ、三人で行きはるの?」
「向こうで合流して、9人になるんだけどね」
「それやったら、人数分はいるわな。
よっしゃ、食べやすいように切ったげるさかいね。
いろんな種類あるほうがええよ、そうしなさい」
「そうやな、まあよろしくお願いしますわ」


というようなことで、三種類を詰め合わせてもらうことに決定!
おばちゃんは、まだまだ話しながら秤にかけて、テキパキと仕事をします。
見てると、量もかなり余分におまけしてくれました。
そんなこんなで買い物を終えると、ぼくたちの様子を見ていたお客さんが、
またまた、そのおばちゃんの陽気なおしゃべりの獲物(?)となっていくのです。
おばちゃん、元気で頑張ってや。

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続・名前表記の不思議Ⅲ
論理的に物事を進めてゆくのではないのです。
想定される結果への道程を優先させるのです。
だから、正義を掲げて議論するようなことはありません。
大義名分は、分が悪いのです。

だから往々にして、正義は後からやってくるのです。
正義など議論上のレトリックです。
大義名分を掲げて論を張るとき、人は相手を警戒の眼で見るのです。
なにか必ず、底に隠れた意味があるのだろうと。
あるいは、何かから眼を外らそうとしているのではないか、と。

だから、外国が日本を見るとき、奇妙な違和感を抱くのは当然です。
思考の筋道の立て方が、初めから違っているのですから。
日本人は論理的ではないという非難は、
彼ら(欧米人)の倫理意識を是とした上では正しい。
日本人の意識のなかでは、論理的は現実的、実際的の下位概念でしかありません。
ですから、議論はなにを優先して行われるかは、日本人のうちでは自明です。


このことが自明であるために、
外国人が、なぜそのようなことを声高に言うのかが、分かりません。
理解できないから、表面的に取り繕った行動をとったとしても、意識は同じです。
反って、不可解なままの不信感さえ抱いてしまう悪循環に陥ることになる。
溝は、大きく深く開いたままで、紙で蓋をしただけのような状態だから、
辛うじて悪臭だけは防げるということでしょう。


このまま、こんな名前表記で進んでいくのでしょうか。
第三者的に興味をもっていることは、事実ではありますが…。

続・名前表記の不思議Ⅱ
しかし、先にも書いたように外国とは欧米のみを指すのです。
例えば、エチオピアに行ったなら、エチオピア流の名前表記にしよう。
中国なら、これは表記順が同じだから問題はないなとか。
インドネシアに行ったら、パキスタンなら、どんな表記なのだろう。
じゃあ、一つ調べてみようか、などとは考えないんです。


つまり、欧米と同じようになりたいだけなんです。
形の上だけでも同じようにするんだ、という強い決意の表れです。
それがこの他国に例をみない(多分そうだと思うのですが)、
日本独自の名前表記方法を生みだしたのではないでしょうか。


それと、やはり白人に対する憧れ、賛美があるのでしょう。
その裏返しとも思える劣等感が、複雑に絡み合っているのだろうな。

初めて欧米人に出会った時にはさぞや驚いたことでしょう。
素直な気持ちで、肌の白さといった容貌の違いに眼を見張った。
さらに、彼らの持つ高度な技術に驚嘆の念をいだいたことでしょう。
その感嘆の思いが、彼らを高みに押し上げたことは想像できます。

今後の国家の指針として、まさに崇拝の念にと転換していったのでしょう。
あるいは、生きてゆく上での目標といってもいいかもしれません。
近代日本のキャッチアップ志向は、中国から欧米にとって代わったのです。

それに、これは国民性というのでしょうか。
とにもかくにも、彼らに追いつこう。
これは、結果重視主義とでも名付けるしかないと思います。
ああ、いつもなにか目先の結果にこだわってしまうのか…。


続・名前表記の不思議Ⅰ
トリノ冬季五輪のフィギュア・スケートを見ていて、
なにか腑に落ちない感じを抱いたので、また書いてみようと思います。
荒川選手の演技がすばらしかっただけに余計に残念です。
それは、アナウンスが「シズカ アラカワ」と言ったことです。


名前の表記法について、再び少し思うことがあります。
日本人が外国にでかけた折なぞに、アメリカあるいはヨーロッパ式に、
名を最初に姓を後に表記するのは、どういうことなのだろう、と考えたのでした。
そこには、相手を「思いやる心」「察する心」があるのだろう。
また、論理整合性よりも、場を壊さないということに意を尽くす。
というようなことを書いたのですが、どうも実はこうなんじゃないかと考えています。

やはり、明治この方、欧米を目標に近代化を挙国一致で押し進めてきた。
このことが、後々まで大きな影響を及ぼしてきたのではないでしょうか。
そうした状況の中にあっては、当然欧米が先生、あるいは先輩です。
この欧米が先生、あるいは先輩ということを見過ごしてはならないと思います。

教的な考えによって立つならば、先生、先輩には絶対的に従わねばなりません。
欧米の科学技術はもとより、文化習慣までもが手本となった訳ですね。
名前の表記にしても、当然日本とは違います。
だから、外国に(当然、欧米のみが範疇に入るのです)習わなくてはならない。
ですから、中国大陸や朝鮮半島など外国の範疇に入りません。
だって、見た目では区別するのがむずかしいのですから。


外国へ行けば、欧米の表記に倣って、なんの疑問もなく書き現したのでしょう。
やはり、日本には中華思想は根づかなかったんです。
ここまでは、そうだったんだろうなと素直に理解できますが…。

「左右」と「みぎひだり」
ひとり夜につらつらと考えていると、こんなことが浮かんできた。
漢語と和語、音読みと訓読みの微妙な語順のちがい。
「左右」、「みぎひだり」と言い方で順番がちがってくる。
「東西」「にしひがし」、これも同じような感じだな。
どうしてそうなるのだろうか。


続いて思い浮かぶのが、「左大臣」と「右大臣」。
もちろん、「左大臣」が上位にくるのだが、なぜなのだろう。
しかし、この左大臣、どう見たときのことなのだろうか。
天子が玉座に座って、左右にいる大臣を言うのだろうか。
それとも、天子に向かい合って、左右の大臣を言うのだろうか。
視点が変われば、180度転回してしまうから、はてさて。


それに「左遷」という言葉は、けっして正の価値観を表していない。
ここらあたりが、むずかしいところです。
左といえば、英語ではレフト、右がライトで正しいと同じ意味。

左利きは、冷や飯を食わされているのだろうか。

そんなこんなで、初春の夜は更けていくのであります。
そういえば、「わたしの彼は左きき」なんて歌もありました。
麻丘めぐみ、好きだったんですよね、あの髪形も独特でした。
ああ、青春の日々は遠くになりにけり…。

読書するサル?
寒くなったり暖かくなったり、三寒四温で春に向かってゆるやかに。
こどものころ、火鉢にあたって本を読んでいて、ビニールカバーが溶けた。
貸し本屋(昔はあった)からのものだったから、半べそになってしまった。
そんなことを思い出しながら、読書したり、焼酎飲んだり、とね。

「職人暮らし」原田多加司 ちくま新書 ★★★
檜皮葺(ひわだぶき)や柿葺(こけらぶき)の職人さんが書いたもの。
柿落とし(こけらおとし)って言葉でなじみがあります。
新築あるいは改築した劇場での一番最初の出し物のことですね。
職人の評価って、極端から極端に振れるようなところがある。
それもイメージ先行で、ときに嫌になってしまうものです。
そこらへんのことも、職人の立場から率直に書いています。

「唯幻論物語」岸田秀 文春新書 ★★★★
これが唯一の書き下ろし、とは意外な感じがしますが。
自分ってなんだ、といつまでも考えてるぼくがいてる。
それって、変かな、成長してないのかな、と思ったけど杞憂でした。
人っていつまでもそういうことを考える動物なんだな、と思う。
考えるって、身近なところから始まるものです。
必然的に自分のことを考えるのは、ものの初めっていうことです。
人文系はすべてそういうところから始まっているんだろうな。


「働きすぎの時代」森岡孝二 岩波新書 ★★★★
時代の進歩(?)とともに労働時間は少なくなってゆく。
これは、だれしもが陥りやすいまちがった考えなんですね。
しかし、いつも思うのは統計の数字と自分の実感とのずれだな。
ほんとうのところは、産業革命なんて資本家の論理でしかない。
弥生時代はよかった、なんて声もちらほらと聞こえてきませんか。
でもその前に、じゃあ実態はどうなんだろうとはいつも考えること。


「わが旧牧師館への小径」ナサニエル・ホーソーン 平凡社 ★★★
この著者をみて、有名な小説が思い出せれば、文学好きかな。
「緋文字」は、たしか映画にもなったのではないかな、見てませんが。
アメリカ文学では、やはりマーク・トウェインが好きだなあ。
「ハックルベリイ・フィンの冒険」が最高におもしろいな。

寒いときと暑いときで、読書傾向はちがってくるのかなあ。
そんなことを思っていたら、どこかへ行きたくなった。
若い頃は落ち着かないので、たくさんの本を詰め込んで旅したものです。
(友人がザックを持ってその重さに、なにが入ってるの?と驚いてた)

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マクド
同じ短縮形でも、こんどは地域差というのがあります。
この現象もなかなかおもしろいですね。
おなじみなのは、ハンバーガーのマクドナルドチェーン。
関西では「マクド」、関東では英語流で「マック」。

ネット(インターネット)で調べてみると、
『ちなみにフランスやフィリピンでも「マクド」というらしい。』
ではありますが、アクセントまでは分かりませんでした。
こんど外国に行ったら(?)試してみましょう。


関西と関東の違いというと、すぐに
『全国アホ・バカ分布考』松本修著 新潮文庫 ★★★★
が思い出されます。
文庫にしては分厚く中身も濃い、なかなかの力作です。

もとにもどって、この略称・短縮形の語数はまだ短くなるのか。
「ミスド」(ミスター・ドーナッツで、これは全国共通)は3語。
「キムタク」「マツケン」は4語で、この差はなにによるのだろう。
ちなみにCMでは、「キムタク」が「キムタ」と呼ばれている。

なぜ、人名は4語、外食チェーン(外来の)は3語なのだろうか。
そういえば昔の、「エノケン」「アラカン」も4語だなあ。
どなたか、そこらへんの理由ご存知ではあるまいか?


セカチュウ
テレビでキムタクがでてるパソコンのCMがある。
石田純一がやたら短く言うのを面白おかしくしてるのだが…。
もちろん、キムタクは「木村拓也」、と書いて違和感あり。
ネットで調べたら、案の定「木村拓哉」だった。
(ちなみに「木村拓也」はプロ野球選手のほうでした)


このように知ってるような気がしても、じゃあほんとうは?
と聞かれると、はてさてどうだったのだろうと自信がない。
それに加えて、まったく分からないものも多々ある。
「セカチュウ」が最初聞いたとき、分からなかった。

こういうときは、まず類推が働くものです。
「ピカチュウ」(ポケモンですね、これも短縮形だ)関係かな?
でも、大人(?)の会話に出てくるような話題じゃないな。
いろいろと考えたが分からず、結局は問い正したところ、
「世界の中心で愛を叫ぶ」という小説、映画だと判明した。
これはけっして日本だけの現象ではないらしいのですが…。


言葉は単純を目指す、というのは経験的に納得できるでしょう。
長たらしいとか言いにくい言い回しは、変化していくのですね。
有名なのに、「ら抜き言葉」というのがありますね。
食べられる → 食べれる
違和感がなければ、あなたも相当染まっていますね。


春の訪れ
一雨ごとに寒くなったり暖かくなったりを繰り返しています。
こうして、すこしずつ春に近づいていくのでしょう。

岡山では、西大寺の裸祭りが終われば春がくる。
(いまは二月の第三土曜日に行われているそうです)
そんなふうに、岡山あたりでは言われているらしい。


関西では、東大寺二月堂の修二会のお水取りですね。
修二会は、昔は二月に行われていた(もちろん旧暦で)。
ですが、現在は三月一日から十四日までの二週間。
で、行中の十二日深夜(十三日の午前一時半頃)には、
若狭井(わかさい)という井戸から観音さまにお供えする
「お香水(おこうずい)」を汲み上げる儀式が行われる。
これが「お水取り」といわれているもの。
これが終われば、もう春がそこまでやってきている、と。


このように季節の変わり目を告げる行事があります。
暦のなかにもいろんな日があります。
立春、雨水、啓蟄、春分、などなど。

個人的にも、いろいろあるのではないですか。
例えば、「サラダ記念日」のように(?)

バレンタイン後日談
同じことが(まずないのだが)あったとして、
どうしてこうも反応がちがうのだろうと思うことがある。
例えば、バレンタインデーのチョコレートについて。

「ねえねえ、チョコもらった?」
「なんだよいきなり、チョコってなんだよ」
「だって、バレンタインデーじゃないの」
「それがどうしたんだよ?」
「どうしたじゃなくて、たくさんチョコもらったんでしょ」
「そんなもの全然だよ」
「えっそうなの、なんだかかわいそう」
「そうかなあ」
「じゃあ、あたしがあげる」
「チョコなんかいらないぞ、甘いの嫌いだから」
「そんなこと言ったって…」
「この前、机の中からチョコが出てきた」
「どういうこと?」
「何年か前にもらったのを、忘れてたみたい」
「まあ、失礼な人ね」
「…」


「ああ、どうしてかなあ…」
「どうしたのよ、悲愴な顔して」
「今年もバレンタインのチョコレート、もらえなかった」
「そうなの」
「そうなんだ、なんだか淋しい」
「世間は見る目がないのよ」
「そう言ってくれるのは、君だけだ」
「はい、これ」
「これって、バレンタインのチョコ?」
「そうよ、食べてね」
「うん、ありがとう」
「いいえ、どういたしまして」
「君って、ほんとうにいい人だなあ」
「そんなことないわよ、いつもお世話になってるし」
「わかってる、義理だってことぐらい、でもね…」
「!」


たくさんもらうと、嫌になる(?)。
ひとつだけだと、もの悲しい(…)。
二つ三つは、揺れ動く(!)。


チョコの数で、幸せ度が決まるわけではない。
しかし、数を気にせず生きるのもむずかしい。
そこが人生のおもしろさ、なんだろうか。


バレンタインデー
2月14日はセント・バレンタインデーなんだって。
なんだろうね、どこかのチョコレート会社の陰謀(?)だろうな。
なんてことはすぐに想像がつくのだが、ほんとうに日本人って。

ある意味、わざとそれにのっているのではと思わせる。
日本人ってお祭り好きなんではないだろうか。
定見のなさは定評のあるところでもあるし‥

例えば、年末に除夜の鐘をついて、初詣に行く。
クリスチャンでもないのにクリスマスのお祝いをする。
これは、信仰心のなさではない、アニミズムの変形だな。

日本には、八百万の神がおわしますのである。
こんなこと言っても、ピンとこないかもしれないな。
まあ、いいではないかと、ことを荒立てない。

しかし、なんですね。
みなさんはチョコレートもらえましたか?
ちなみにぼくは、チョコレートなんか大嫌いなんですね。

今夜も
忘れ去ってしまいたいようなことも
いつかは意識にのぼってくるときがある。
こころの深層から拾いあげてきた
言葉の断片をつなぎ合わせてみるとき
思いもよらない文章がそこにたち現れた。

 1977年(昭和52年)

 堆積した言葉の澱は
 果てしもない眩暈を生み
 忘却炉の煙は顔もなく
 凍てつく薄明の空に東風をまつ


いつも空を見上げていた。
なにも考えたくない時代だった。


夜更けて
昔の年賀状に書いた年頭言を
いまさらながらに読み返す。
森閑とした部屋にはパソコンの
ブーンとうなるファンの音だけが
よどんだ空気を震わせているだけだ。

 1976年(昭和51年)

 背中にひろがる茫とした原野を
 あてどもなく踏み来たりし現在
 煤けた反古の森を抜けて
 凜とした東雲に立たん


まだ二十代だった。
なにを考えていたんだろうな。


フリーター
フリーターってもちろん和製英語ですね。
いまでは当たり前に、使われ言われるようになったこの言葉。
じゃあ、定義はあるのでしょうか?

「フリーター」とは、一般に学生と主婦を除く若年(十五歳から三四歳)のうち
パート・アルバイト(派遣などを含む)および働く意志のある無職の人を指す。


のだそうです。
年齢のしばりがあるんですね。
35歳になったら、もうフリーターとは呼べないんだな。
となると、その後はなんとカウントされているんだろう。
単に、パート・アルバイトの分類になるんでしょうか。

そういえば、フリーターって以前はなんて呼んでたんだろう。
確か、関西では「ぷー太郎」なんて言ってましたね。
昔のほうが風情(?)がありました。

この人たちが、いまやコンビニや外食産業などを支えているんです。
必要なときに低賃金で使える彼らは、まさしくコンビニエンスな存在です。
しかし、呼び名のようには、彼らの精神は自由じゃないようです。



サラリーマン
なんだかんだで一日が過ぎていきます。
会社と家の往復ばかりでは、疲れますよね。
「サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ」
なんてクレジーキャッツの植木等が歌っていました。
これは元東京都知事の青島幸男氏の作詞なんです。
しかし、時代はおおきく舵を切って、リストラの嵐のなかにあります。
これから、どこへいくのでしょうか。ああ、サラリーマン。

なんて、ちょっと思ったりする寒い夜です。
ノートにこんな文章があったので、ついそんなことを考えてしまいました。

『ローマ人はガリア人がハム作りに、用いていたフランスの粗塩を好んだ。
現代の「サラリー」という言葉は、ローマ兵に給与として塩が支払われた
(その給与をサラリウムといった)ところからきている。』

「保存食品開発物語」 スー・シェパード 著 文春文庫より


サラリーマンの語源って、そういうことなんです。
しかしながら、塩分は控えめに!


夢紀行
最近変な夢をよく見る(というか、憶えているんですね)。
列車に乗ってあっちこっちと、やたら移動する夢だ。
この前見た最後の場面が、妙に印象に残っている。

プラットホームで大勢の人たちといっしょに列車を待っている。
すると、古ぼけた2両編成の列車がゴトゴトと入ってきた。
ぼくたちの前を通り過ぎて、かなり行き過ぎたところに止まった。
しかし、みなは無関心で知らぬ顔をしている。
落ち着かない気分で時刻表を見ても、そこには書かれていない列車だ。
乗っては駄目なんだけど、なぜか乗らなくてはいけない気持ちになった。
そうこうするうちに、列車はゆっくりと発車した。
ぼくは思わず、それに飛びついて列車の外にぶら下がって乗った。
案の定というか、ぼくが行きたい駅の手前のところを逸れていった。

地上を走っていたはずの列車は、いつのまにか高架を走っていた。
怖くはないのだが、どんどんと線路の位置が高くなっていく。
まるで、ジェットコースターの線路みたいだなと思ったが、
不思議にその高さからくる恐怖感はまったくなかった。
逆に、下のほうが小さく見えて愉快な気持ちになったくらいだ。

登りきった最高点まで来たときに、ガタンと音がして止まった。
このまま落ちていくんじゃないか、と思いながらも怖くはない。
ゆらゆらと揺れて、傾いて落ちていくなあと感じたところで眼が醒めた。


出てくる駅舎やホームは脈略なく、いろんなところのがごちゃ混ぜだ。
夢に見るのはそういった情景だけではない。
路線図であったり、専門家が作るダイアグラムであったりして、
その二次元にぼくが入り込んでいたりするから、変なものだ。


目覚めて、もういちど夢の世界へ行きたいと思えるから、また不思議だ。

テーマ: - ジャンル:

読書してないなあ
あまり読めてません。
正月を挟んで、なんだかバタバタと過ごしていたようです(?)。
そういえば、去年もこの時期本をあまり読んでなかった。
暖かくなってくれば(どういう相関関係がある?)、読めるかな。
一月末までに読んだ本はこんなもの。

「悪魔のような女たち」バルベー・ドールヴィイ ちくま文庫 ★★★
書名を見てイメージするような話ではなかったです。
こどもを虐待するような母親とか、男を食い物にする女とかね。
書かれた時代が、モーパッサンのころのフランスですから。
どちらかというと、時代に束縛されない女たち、かな。
しかし、いつの世も女性は強いものですね(見せかけとはちがって)。

「奇怪な果実」(上)(下)ジョン・コナリー 講談社文庫 ★★★★
私立探偵バードが活躍するシリーズ、本格的なミステリ。
これが二作目だから、一作目も読まなくては、と思わせるもの。
しかし、ミステリ作家の脳ってどうなってるんでしょうね。
どこから、こういったことを考えつくのか、探してくるのか不思議です。

「いのち」最相葉月 文春新書 ★★★★
人間の生命をとりまく、いろんな分野がありますよね。
環境から医療から宗教にいたるまで、なにやかやとね。
それがいったいどうなっているのか、臓器移植も大きな問題だ。
受ける人と、提供する人、さらにはそれをビジネスにする人々。
寿命って考えが仏教なんかにはありますよね。
でも、幼い子で難病だったりすると、ね。
むずかしいけど、避けて通れる道ではないです。


「日本語の森を歩いて」フランス・ドルヌ+小林康夫 講談社現代新書 ★★★
言語学からのアプローチ。
いままでの文法書は、西洋の文法書の焼き直しだったな。
もうすこし、実態に沿った研究なんかもあるんだとおもしろく読めました。

「笑いの力」河合隼雄、養老孟司、筒井康隆 岩波書店 ★★★★
笑いについて、そうそうたるメンバーで意見を延べあう。
三林京子さん(桂すずめ)も加わってのシンポジウムもありで。
関西と関東で、笑いもちがってくるから、そのへんも垣間見えて愉快。
同じ人生なら、楽しく笑って生きたいとはだれもが願う(のかな)。
「生きてるだけで、丸儲け」ってことば、いいかもしれないですね。


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車内化粧室(結論篇)
いろいろと思いをめぐらせていると、こんなことを思い出した。
男と女のちがいについての、眼鏡にまつわる話である。
簡単にご紹介しましょう。

男は眼鏡をかけた自分の姿を好ましいと思っていないのである。
ふだんは、多少の不便は我慢して(見栄で)かけないで生活している。
しかし、前方から美人らしい(よく見えないから)女性が歩いてくると、
おもむろに眼鏡をかけて、その女性の品定めをするというのである。

女性の場合は、まったく正反対に違うというものである。
ふだんは、生活優先、眼鏡をかけないでの生活など考えられない。
しかし、前方からかっこいい(はっきりと見える)男性が歩いてくると、
突如眼鏡をはずして、胸を張りほんとうの私を見てと誇示するのである。


これを読んで、なるほどと思われましたか。
男と女のちがいを、うまく言い表しているかも知れないですね。
これを読んでると、男と女の生物的戦略のちがいが分かります。

男はできるだけ多くの女性と交渉をもたなければならない(!)。
なぜなら、できるだけ多くの子孫(DNA)を残す方向で生きている。
また、からだの構造もそれを支持しているように思われる。

女性は、これと定めた男性との間に、こどもを作ろうとする。
それは、できるだけ良質な子孫(DNA)を残したいからである。
それに、からだの構造上少ないこどもを大切に育てようとする。


この観点から車内での化粧を考えれば、その類似点が浮び上がる。
電車のなかは、通勤電車ならなお更のこと、日常空間と化している。
いい男もいなければ、なにを気兼ねすることもないのである。
だから、これから現れるいい男をとらえるための準備に余念がない。
つまりは現状認識の違いであると、ぼくはこう結論付けるのである。


ある日突如、車内にいい男が現れたとき、
彼女は恥ずかしくなって、化粧をすることをやめるんじゃないかな。


車内化粧室(考察篇)
そういえば数年前にこんな本を読みました。

「平然と車内で化粧する脳」 澤口俊之・南伸坊 扶桑社文庫 ★★★★
澤口さん自身、著作はあまり多くないけど、おもしろいので読んでます。
書棚にも、3、4冊はあると思いますが、機会があればご一読を。

いっとき週刊誌などでも取り上げられて、有名になりました。
でも、いまや常態と化してあたりまえの風景でしょうか。
まわりを気にしない傍若無人な若者などと評されましたが…

ぼくなりに、すこし考えてみようかな。
その前に、女性はなぜ化粧するのか、という問題もありますが、
それはそれ、別のときに論じるとして、考察を進めていきましょう。

そこで、疑問。
なぜ家で化粧をしてこないのか?

もちろん、時間がないのでしょうが、ではなぜ電車の中で?
ふつう、公私なんていう言葉があって、行動を区別してます。
家庭にいるときは、もちろん私(プライベート)ですよね。
それに反して、車中は公的空間とふつうは考えられてるのですが、
彼女にとってはそうは感じられていないのではなかろうか。
ふつうよりは、このプライベート空間が異常に膨らんでいるようです。
そう思うと、彼女らの行動のつじつまがあってくるのです。


閉じられた空間でもあり、座っている姿勢からもリラックスしてくる。
化粧の始まりは、そんなたわいのない感覚からではないだろうか。
いちど始めてしまえば、途中でやめるわけにはいかない。
それは当たり前である。化粧途中の顔で道を歩けるわけがない。
それに化粧は集中力を要するものらしい。
わき目もふらず自己造作改変作業(?)に没頭すれば、
自分がどこにいるのかも、いつしか忘れてしまう。


そう思えば可愛いものではないですか(と、度量を示す?)。
しかし、なぜ彼女の私的空間がこんなにも拡大してしまったのか。
そこのところ、もう少し考えてみようかな。

車内化粧室(観察篇)
昨日は雨が降って湿っぽく、そんな車内でのこと。
吊り革を握って立っていると、右前の女性に目がいった。
膝の上にバッグを載せて、小さな鏡を見ながら熱心に…。
すこし残念だが、作業はすでに始まっていた。

コンパクトな鏡を見ながら(以下同様にこの状態です)、
顔全体に、ファウンデーション(まさしく下地だな)を塗っている。
続いて、なにか刷毛のようなもので頬をなでている。
これは頬紅だな、うっすらと赤みが差してきた。


続いて、なにかバッグの中をごそごそしている。
ペンシル様のもので、眉をかいているぞ。
真剣な表情になってきたな。
ここがポイントなのだろうか。


お次はなんだろう、細い筆にピンクの色を刷いている。
これで唇に塗っているぞ、ふーんそうか。
リップスティックなんていってたけど、こういうのもあるのか。
しかし、棒状の口紅はいまや昔ということなのだろうか。
塗り終わると、やっぱり唇をこすり合わせることはするんだ。


なにか、アイスクリームをすくうような器具を取り出してきた。
分かった、これでまつ毛のくせをつけるんだな。
パッチリとした目元にしようって魂胆だな。
そしてマスカラでさらに太くよりはっきり見せるのか。


つぎに、また唇になにか塗っているぞ。
たしかさっき塗ったと思ったが、ああそうか。
ぬれたように光っているぞ。
上塗りというわけだ、これでおしまいかな。
最後にもういちど鏡を見て、おや寝てしまった。


わずかな時間で集中して疲れたんだろうな。
でも、もうすぐ乗換駅に着きますよ。



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Author:ムッシュ
島を旅するときが楽しいですね。
遠くに眺めるのも好きです。
楽園なんてないんですけどね。

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