ムッシュの読書紀行
人生は旅のようだと言いますが、旅が人生かも知れません。 ぼくは活字中毒気味でもあり、旅はまだまだ続くでしょう。
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旅の話をしよう(四)
「それじゃあ、ぼくはどうなんだろう。
こっちが先に聞きたいもんだよ」

「やだなあ、そんなふうに言われると困るな。
でも、思い切って言っちゃおうかな。
くれぐれも、お怒り召されるるなよ」

「はい、神妙に拝受いたしまする」

「そうね、こんなふうに見えるかな。
オカズみたいだけど、ご飯のようにも思えるものよ。
つまり、パンの間にいろんなものを挟んでいるって感じかな。
サンドイッチというほど洗練されていないし、ハンバーガーほど俗じゃない。
見かけは美味しそうかなと思わせるけど、疑念も抱かせる。
ミーハーの子なら食べたいと思うかもしれないな。
けど、あたしは遠慮するわ。
もう少しあっさり味に変化したら、グッドかもしれない」

「なるほどね、最後のほうはフォローしようとしてるのみえみえやな。
つまり、くどい、脂っこい、癖があるということなの?
褒められているのか、けなされているのか、さっぱりわからん。
じゃあ、ぼくもひとつHさんを評さしていただこうかな」

「いいわよ、どうぞ、どうぞ」

「ずばり、芋の煮っころがしか、肉じゃが、というところだな」

「この野郎、よくも言いにくいことをすんなりと言ってくれたな(笑)。
それって、あたしのことを田舎者呼ばわりしてることになるんじゃないかい。
ええーい、申し開きがあるならば、いたしてみよ」

「全然違がうよ、誤解だと思います。
人に安堵感を与えるものだと、言いたかっんだけどな。
つまり、おふくろの味に変化する可能性を秘めている、ということを」

「なに言ってんのよ、このおべっか男、気持ち悪い!」

話はどんどん変な方向へ逸れていった。


人は出会いを積み重ねるだけ、別れを経験しなければならない。
別れを知らなければ、出会いのほんとうの意味もわからないのだろうか。
それでも、いつかどこかで再び会えるかもしれない。
そう思わずにはいられない。

いまになると、その思いが若さというものなのかも知れない、と。

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旅の話をしよう(三)
なんだかあたしにウインクしたような気がしたわ。
で、また話しだしたの。

「いい女だなあ、というのはおいしそうなオカズだなあというのと同じことさね。
でもうまいオカズも喰い続けてると、きっといつか飽きがくるんだな。
そんなことはねえだろうとも思えるが、経験から言ってそうなんだよ。
するってえと、他のオカズにどうしても目移りがしてくるもんなんだな。
いやあっちの方、どれこっちの方がうまそうじゃないかってなもんだ」

「それが簡単にできる奴と、できない奴がいるけど、そりゃあ仕方がねえさ。
これも貧乏人とお金持ちがいるようなもんだ。
でも人生よくしたもんで、オカズだけでは成り立ってねえんだな、これが。
ご飯がないとよ、なんかいまひとつしっくりこねえだろ、落ち着かねえだろ。
うまい飯ってのは、喰っても喰っても飽きがこねえもんなんだ」

「これって当たりめえみたようだけど、考えてみりゃあ不思議だろ。
じゃあうまいご飯だけが最高なのかっていうと、そうはいかねえとは思うぜ。
ごてごてと飾り立てたようなオカズに眼を眩まされないようにしなよ。
って年寄りの繰り言さあね」

「なに、それならその伝で、おめえのおふくろはどうかって。
そんなことは言うまでもねえじゃねえか、銀しゃりだよ銀しゃり、それも特上のな。
若い頃はオカズだったかも知れねえけどな、変わるもんだよ、アッハッハッハ」

棟梁はなんだか機嫌よく酔ってたみたい。

「高校生の頃だったけど、変な例え話、と思っていたわ。
でもいまになってね、突然思い出すことがあるの。
旅で知り合った男の人と話していて急に思ったりするの。
あ、この人は味付けが濃すぎるわね、とか。
もっと薄味に仕上げれば、いいのになあなんて、おかしくて。
知らないうちにあてはめて考えてるのよね、苦笑いでしかないわよね」

「でもさあ、確かに味付けとか余計なデコレーションとかってあるものだわ。
それに考えが具体的になるから、分かり易いという利点もあるわね。
いまのあたしってどんなかなあ、自分では判断できないものなのよね。
どんなふうに見えてるのかなあ。
粒の立ったしゃり、にはなってないだろうなあ…」

やや思案顔になっていた。

旅の話をしよう(二)
このような話も聞いたような気がします。

「うちの父親の友だちで、頑固者の棟梁がいるんだけどさ。
いつも家に来ては、親父と飲んでいるんだけど、
ときにどういう風の吹き回しか、あたしも呼ばれるのよ。
ここに来て一緒に飲めって、おめえは俺の娘みたいなもんだって。
おめえのおふくろは、若い頃は俺たち仲間のまあ、マドンナだったからな。
その娘なんだからよう、まあ俺たちの娘みたいなもんだろうな」

って言うのよ。

「学問なんかはないけどさ、人生についてはいろいろと考えてるぜ。
なまじ学問なんかないぶん真理っていうのかい、
そういうものに近づいているかもしれねえな。
おっと、これは自画自賛だ、ハッハッハ。
学校なんぞに行ってる暇はなかったんだよ、昔はな。
そんなことより、どうやってメシを喰っていくのかってことが大事だったんだよ。
小学校の時分からそんなことばかり考えていたさ。
当たりめえだろう、家んなか見ればどうなってるくらい分かるわな。
親が難儀しているのを、子どもだからって黙って見ていられるかよ。
そうだろ、それが人の情ってもんだ。
俺はなあ、怒鳴られ殴られながら、まあいろんなことを思案してきたんだよ」

すこしろれつも怪しくなってきてたわ。

「それに世の中は男と女しかいねえんだからな、
ここんところをよおく考えな。
人生ってのはな、まあちゃぶ台みてえなもんだな。
その舞台の上には白いご飯があって、
オカズもありいの、さらにおみおつけ、なんかがあるだろ。
まあ、品数が多い少ないってえのは時の運さな、文句を言うんじゃねえぞ」

「メシ時ともなりゃあ、誰しもオカズにすぐ目がいくわな。
当たり前だよ、若い頃は喰うことが一番の楽しみなんだからさ。
昼メシ喰ったと思ったら、もう晩メシのことを考えてたさ。
今夜の献立はなんだろう、オカズはなんだろうなって。
しかし、贅沢言ってりゃ切りがありゃしねえ。
あれ、これって男と女の関係と似ているな、とある時気づいたのさ」

なんの話になるんだろう、って。

旅の話をしよう(一)
若かりし頃、九州を旅したときの話の続きです。
憶えていることと、はっきりしないことがあるのですが…。
でも、書いておかないと忘れそうで(たぶん、忘れはしないか)。

瀬高のユースホステルで、東京のHさんという女性に出会いました。
彼女とのことは、かなり鮮明に記憶に残っています。
なぜなんだろう、といまでは懐かしく思ったりします。

彼女に失礼ですが、決して美人ではありません。
そうですね、下町の威勢のいいお姐さんといったふうでした。
否、もしかしたら美人だったのかも知れません。
よくよく考えれば、容貌のことなどよくは記憶してはいないようなのです。

当時、ぼくはもちろん、彼女も気ままなひとり旅のようでした。
話しぶりでは、彼女はこのユースに幾度も来たことがあるようです。

ぼくを一目見て、どうもいけ好かねえ奴だなあ、と。
かあさんに何故かは知らねど、気に入られているようだし、
娘のSちゃんとも馴れ馴れしい口をききやがる。
いったいぜんたい、おめぇは誰なんだ。
そういう第一印象だったと、後に笑いながら言ってました。

ときどき無性にここに来たくなる、と言うんです。

「来たからって、どうってことないんだけどね」
「悩みを聞いて欲しいってことでも全然ないのよ」
「ただわいわいみんなと馬鹿話してるだけで、落ち着くんだよね」
「きっと素直じゃないんだよなあ、あたしって」

そう言いながら、すこし寂しそうな横顔を見せていました。

人はなぜ書き読むのか
読むということは、そこに書かれた文字があるからである。
書くということは伝え遺す以外、どこにその淵源をもっているのだろう。
やむにやまれない書きたいという衝動は、どこから湧いてくるのだろうか。
ふつう、人は考えを言葉にすると思っているようだ。
しかしものごとの筋道としては、逆ではないだろうか。
言葉によって考えが組み立てられていくのである。
極論すれば、言葉がなければ考えることもできないのではないか。
このあたりは、鶏と卵の関係に似ていなくもない。

「考える日々Ⅱ」 池田晶子 毎日新聞社 ★★★★
考える日々のなかで、疑問に思うことは多い。
幸福とはなんだろうか、不幸とはどういうことなのか。
『そうだ、不幸だからこそ、私は幸福になりたいのだ。
不幸な人は、言うだろう。
では、あたながそうなりたいと思っている、その幸福とは、何ですか。
どのようなことを幸福と思って、それを欲しているのですか。』
世間に溢れている、金銭、名誉、暮らしぶり、などなのだろうか。
そんなものを欲しているのではない、と人は言う。
ではなにかと重ねて問えば、答えに詰まって絶句するのではないか。
『おそらく、「欲する」というこのこと自体が、すなわち不幸なのである。
不幸だから欲するのではない。欲するということが、不幸なのだ。』
と彼女は言い、
『幸福は、欲するものではなく、気がつくものだ。』
とやさしく諭して(?)くれるのである。
しかし、こう幸福になりたい病が広まるとは、幸せな世の中である。

「座右の名文」 高島俊男 文春新書 ★★★★
とりあげられている十人は、新井白石、本居宣長、森鴎外、内藤湖南、
夏目漱石、幸田露伴、津田左右吉、柳田國男、寺田寅彦、斎藤茂吉(生年順)。
寺田寅彦の次なる句がいいですね、どこかで読んだことがある。
『好きなもの 苺 珈琲 花 美人 懐手して宇宙見物』
彼が五十八歳のとき、病床で苺が食べたいと言った。
それを伝え聞いた友人が、苺を、そして苺のシャーベットを届けた。
大正時代の初めの頃のことである。
それからしばらくして、寺田は亡くなった。
ときとして、人はその人物の素行について言及、批判することがある。
成人君主でもあるまいにと思い、また同時に残念でもある。
きっと、芸術も科学もなにもかも理解できないひとなのであろう、と。

「虫権利宣言」 奥本大三郎、海野和男 朝日新聞社 ★★★★
人の命は地球よりも重い、などと言った御仁がいましたね。
名言ではありますが、では他の生物の命はどうなのでしょうね。
一寸の虫にも五分の魂、こんないいことわざがあります。
虫を捕るのは絶滅につながるなんてお気楽な人たちは、開発には反対しない(?)。
また、虫の世界にも差別(!)がある。クワガタとゴキブリの差はなにか。
こんなジョークでも、まあお読みください。
『神様が世界で一番美しい国をフランスにつくったんだって
―それで?
―それじゃああんまり他の国民に不公平だからって、
世界で一番質(たち)の悪い人間をそこに住まわせたんだって、
それがフランス人
―ハ、ハ、ハ、そんなことを言ったのはドイツ人かイギリス人だろう
―いやフランス人
―よくわかっているじゃないか。』
フランス人と京都人の共通点なんてあるのかな…、などと思ったりもする。

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関西人は二度言葉を繰り返す
関西人は同じ言葉を二度繰り返すとテレビでいっていた。
そういわれれば、確かにそうだなあ。

「そんな仕方やったら、あかんあかん」
「そんなへっぴり腰で、できひんできひん」
(あるいは、でけへんでけへん)
「そんなん、絶対ちゃうちゃう」
(たしか、関係ないけどチャウチャウ犬て食肉用でもあったとか…)

否定形が多いようだ(強調しているのか)。

「はよ、遊園地に行こ行こ」
「それ、ぼくもやりたいやりたい」

子どももよく使うようだ、やっぱり強く主張している。

オノマトペと同じで、会話にリズムがつくようだ。
単調を嫌う、ということかも知れませんね。

しかし、他の地域の人が聞いたらどう思うのか。
(案外、関西人は気にしていないのかも)
押し付けがましいと受け取るのか。
リズミカルな会話と肯定的に感じるのか。
関西人らしいと、受け流すのか。

これも全然関係ないけど、ずいぶん前に、
『郵便配達人は二度ベルを鳴らす』という映画もありました。

オノマトペ
オノマトペとは、声喩のことですね。
直喩(シミリイ)・隠喩(メタファ)などと同じように比喩の一種です。
ふつうは、「擬音語」と「擬態語」を合わせていうことが多いようです。

関西人はことさらに使うことが多い。
本人は気がつかなくっても、けっこう使っているものだ。

「あのう、○○駅はどう行けばいいのでしょうか?」
「この道をダーっと行って、交差点を右に曲がってドーンと突き当たりや」

とか、

「お好み焼きの食べ方って、あるんですか?」
「そら熱いのを、フーフー、ハフハフ言いながら、食べるんがうまいんや」

ではあるが、

そういえば、宮沢賢治の詩にもありました。
なかでも好きなのは、この蠕蟲の動きを模した一節。

(ええ 8 γ e 6 α ことにもアラベスクの飾り文字)
[エイト ガムマア イー スイツクス アルファ]


      『蠕蟲舞手(アンネリダタンツエーリン)』より


読みの國
本を読むとは、書いた人のこころの内を忖度することではない。
ひとたび言葉が文字となって浮かび上がったときには、
その言葉自身を味わわなければ、変にうがった解釈に陥ることになる。
読んで考える、考えてから読む、読まなくても考えることはできるが、
どうしても読まずにはいられないから、やっかいなのである。
読むものは書物に限らない。競馬新聞だって読む、のである。
しばしば読みははずれるが、それもいかしかたがない。

「ぼちぼち結論」 養老孟司 中公新書 ★★★★
雑誌「中央公論」の連載エッセイを収録したものだが、これが最後とのこと。
養老先生(こういうほうがしっくりする)には、いつも蒙を啓いていただいている。
世の中のことは、どこかですべてつながっているという感が強い。
『老子は大道廃れて仁義ありといった。
大工さんに聞いた話だが、木というものは、かならず多少は反って曲がっている。
だから板を切り出すときに昔は木を割って板を作った。
いまは機械でまっすぐに切る。
そのほうがたぶん「気持ちがいい」「楽だ」というのであろう。
挙句の果てには、それが「正しい」やり方だというに違いない。
そのかわり木の性質に合っていないから、当然木目はずれるし、弱くなる。』
そのことが分からないほどに、考え方がどこかおかしくなっている。
順序が逆だろうと思うのだが、そんなことには思い至りもしない。
こうしたところにも、現代の経済至上主義の根がみえている。

「睥睨するヘーゲル」 池田晶子 講談社 ★★★★
筆者お気に入りの駄洒落のようなタイトルである。
だがしかし、その意はヘーゲルを尊敬していることを表す。
外国人にも、例えば、エリク・エリクソンという名の人がいるように、
その連続する音を愉しむ、そんな心持ちは世界共通なのかもしれない。
相変わらずの直截な文章は小気味がいい。
『わからない人に「わかれ」とは言えない。
「わかる」の文法に命令形はないのである。
「わかる」とは、当人による当人の気付きのことでしかないのである。』
これを、わからない人にわからせることも、またできないのだろう。
読みつつ、いまはこの世にはいない彼女の言葉を静かに味わおう。

「煉獄の丘」 ウイリアム・K・クルーガー 講談社文庫 ★★★★
ミネソタ州のちいさな町に住む元保安官コーク・オコナーが主人公である。
アメリカ合衆国は多民族国家である、ということはだれもが知っている。
オジブワ族の聖地である森林の伐採をめぐる、製材所と環境保護主義者。
その対立のさなか、テロリストによる製材所爆破により人が死ぬ。
さらには、製材所のオーナー、リンドストロムの家族が誘拐される。
偶然そこに居合わせオコナーの妻と息子も巻き添えになってしまう。
しかし、事件は単純な誘拐ではなく、その裏には邪悪な計画が…。
湖とその周辺の美しい風景は、読んでいても迫りくるようである。

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震災の夜
一月の早朝、真っ暗ななか、突然激しいゆれが襲ってきた。
水屋のなかの食器が落ちて割れる音がした。
ドスンという音は、本棚が倒れたのだろうか。
ふとんをかぶったまま、身動きもできずに息をひそめていた。

あれから十三年がたつ。

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会社近く、震災のつどいがおこなわれている公園に立ち寄る。

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この季節毎年よく雪が降る。
今朝も家を出るときにちらついていた。

会場を歩きながら、いろんなことを思いだす。

傾いたビル、陥没した道路から噴出する水しぶき。
しばらくの間、リュックを背負って会社へ通った。

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会社のビルは、復旧作業の応援人員の飯場と化していた。
廊下や部屋に寝ている連中を越えて席につく。

あれからもう、十三年がたったのだ。

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代理代行補佐助役見習心得
テレビを見ていたら、「次長課長」という漫才コンビがでていた。
そのとき、ずいぶん前のこんなことを思いだした。

若い頃、旅をしている男連中はたいがいが斜に構えていた。
その態度は肩書きに対するとき、如実にあらわれる。

権威を表わすような役職名とかには、嫌悪感をもっていた。
だから、その名を呼ぶときにはからかい気分でもあった。

あるとき、なにかで代表者を決めなければならなくなった。
代表というのはおこがましい。
じゃあということで、代理だということになった。
ではぼくが、その代理代行になろう。
なら、代理代行補佐をしてやるよ。
そのうち、おもしろくなってきて次々と長くなっていった。

こうなると落語の「寿限無」である。
最後には、「代理代行補佐助役見習心得」までいった。
なにかあると、呪文のように一息で唱えた。

読み下す
ふつう、漢文を読み下すと言う。
これは中国語(漢語か)を日本語に訳することをさしているのだと思う。
漢文を読み下して、いったい日本語になるのだろうか、と思ったりもした。
同じ漢字を使っているので、同じような意味だろうと勘違いすることがある。
これは英語などでも同じことである、訳が同じだから、同じ意味なのだろうと。
しかし、文化のちがう国同士では、同じではないことが多いと心して読みたいものだ。
ところで、いままで読んだものをうまく消化できたのだろうか、理解できているのか。
そう考え始めると、なんだかはなはだ頼りないのである。

「さよなら、不思議の国ニッポン」 ポール・ボネ ダイアモンド社 ★★★
ポール・ボネ氏といってもフランス人ではなく、いまでは日本人と知れている。
いままでによく読みもし、そのころから気付いたが、それはそれだと割り切っていた。
そのことによって、内容が変化するものでもなし、どうということはないのである。
日本人はことのほか日本人論が好きだという。
それも自虐的であればあるほど、悦に入るようなところがある。
日本の某大新聞などはその最右翼ではなかろうか。
まったく変わった国であることよ、などと思っているのでしょう、ボネ氏は。
それでも、彼は愛情をもってずっと日本を見守っていたのでありましょう。
長い間、お疲れ様でした、いろいろと知ったことを感謝したいと思います。

「生態系を蘇らせる」 鷲谷いづみ 日本放送出版協会 ★★★
いまや全世界規模で自然破壊、環境破壊が進行しているという。
地球温暖化(その真偽は別として)も、同様の問題をはらんでいる。
ではどうすれば、自然の恵みを提供してくれる健全な生態系に戻れるのか。
『ヒトも生態系の中にあり、どのように生きるにしても、その活動が
生態系の状態やダイナミクスに影響をあたえることから免れることはできない。
かりに、野生生物として生きていたころのヒトか、
あるいは他の哺乳類と同程度の影響ならば許されるとしても、
今では人口の面でも、一人あたりの資源やエネルギー消費の面でも、
野生生物としてのヒトなどというものを考えること自体が意味をなさない。
したがって、たんに人為を排することをしようとすれば、
ヒトは自らの存在じたいを否定しなければならなくなる。』
まさにこの視点から、すべてをはじめなければならないだろう。
(鷲谷さんがそう考えているかどうかは分からないですが)

「クリスマス・プレゼント」 ジェフリー・ディーヴァー 文春文庫 ★★★★
ジェフリー・ディーヴァー初の短篇集であり、全16篇からなる。
リンカーン・ライムものも一篇あり、なかなか読ませるのです、これが。
短編の名手でもありました。
もちろん、全篇ミステリ仕立てのストーリーではあるのですが…。
で、美人のモデルが、あるとき執拗なストーカーに気づく。
彼を振り切るために、なんどか転居を繰り返す。
しかし、どうしてか彼が目の前に姿をあらわす。
ついに、彼女は決意しある人物に依頼する。
だれもがストーカーを殺すことで決着をつけたのでは、と想像するのだが…。
それが、意外な(?)最後を迎えることになるのだった。
結末を知りたい方は、ご一読ください。

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眠いわけ
ヒトは眠りのなかで、記憶を整理、再構成するといわれたりする。
免疫力が強化されたり、ストレス物質の除去を行なったりもしているらしい。
睡眠不足は「お肌の大敵」、まさしくそのとおり。

また下垂体からの成長ホルモンは、睡眠時に分泌量が増加する。
だから、「寝る子は育つ」ということわざは、うなずけるのである。
(未だ分かっていないことも、また多いようではあるが)

そこで単純に考えるのである。

日中にいろいろと思い悩み、また考えると(つまり、脳を酷使する?)、
そのストレスを軽減しようとするために、ヒトは眠くなるのであろうか。

あるいは、寝つきのいい人は、頭をよく使っているのか。
つまり、一刻も早く脳を回復させようとする防衛機制が働く(?)。
(これには、すぐさま異議ありの声が聞こえてきそうだが…)

そういえば、「春眠暁を覚えず」などというのは、
春にはホルモン分泌が多くなるので、
それを擬似睡眠状態と錯覚した、
身体の反応を言っているのであろうか。

などと、考えがはてしもないのである。
人間、暇だと碌なことはないのか。
否、じつは大忙しなのだが、「忙中閑あり」というではないですか。

空書
通勤電車のなかで向かいに座った高校生が一心不乱に、
(これはちょっと怪しい、なぜなら前に老婦人が立っていた)
(後ろめたい気分を紛らわす意味もあったかも知れない)
教科書、あるいは参考書らしきものを読んでいた。

この光景は試験前などよくみかけるものである。

ではなにが眼を引いたのかというと、
ときおり、上目遣いにして右手で空中に字を書くのである。
本人はたぶん無意識にそうしているのであろう。
だが、ふとはてなと思った。
彼はなにをしているのであろうか(こう考えるのが私の癖だ)。

いまだ彼の頭のなかにはその言葉なり字句が定着していない。
そこに存在しないものを見ることはできない。
つまり、記憶となっていないのである。
いまの試験は、記憶量のテストの側面が強い。
であるから、彼はそうやって一所懸命に頭に叩き込もうとする。

同じような情景を以前にも見たことがある。
そろばんで計算している姿である。
だんだんと上達してくると、暗算でするようになる。
頭のなかにそろばんのイメージが徐々にできてくるのである。
そこにあたかもそろばんがあるかのように指を動かしている。

さらに上達すれば、イメージのなかだけで自由自在にそろばんが操れる。
こうなれば、まさに高速(光速?)で計算ができるのである。
実際にそろばんを動かすのではないから、いれ間違うことがない。
だから珠算大会では、そろばんの音はほとんどしない。

彼はまだまだ初心者(?)の域を越えていないということになるのかな。
そう思って見ると、空中の手の動きがあがいているようにもみえてくる。

生きること
年が明けたからといって、特別なことはなにもない。
とは思うのだが、気持ちの上でのひとつの区切にはなるようだ。

本棚にあった詩集を開き、拾い読みしてみる。
懐かしい感情が湧き起ってくる。
この詩をあらためてじっくり読んでみた。
中江氏が若い頃の作だと思う。
ちょうど、谷川俊太郎が「二十億光年の孤独」を書いた頃だろうか。


   夜と魚

          中江俊夫

魚たちは 夜
自分たちが 地球のそとに
流れでるのを感じる
水が少なくなるので
尾ひれをしきりにふりながら
夜が あまり静かなので
自分たちの水をはねる音が 気になる
誰かにきこえやしないかと思って
夜をすかして見る
すると
もう何年も前にまよい出た
一匹の水すましが
帰り道にまよって 思案もわすれたように
ぐるぐる廻っているのに出会う

   詩集<魚のなかの時間>から


中江俊夫、一般的にはあまり有名ではないようだ。
もっと読まれてもいいと思うのだが。

谷川俊太郎と同時代の詩人である。
谷川氏は彼の詩を若いときに知った、となにかに書いてた。



プロフィール

ムッシュ

Author:ムッシュ
島を旅するときが楽しいですね。
遠くに眺めるのも好きです。
楽園なんてないんですけどね。

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