ムッシュの読書紀行
人生は旅のようだと言いますが、旅が人生かも知れません。 ぼくは活字中毒気味でもあり、旅はまだまだ続くでしょう。
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立杭焼再訪
連休の中休み、以前は天皇誕生日だったみどりの日(現在は昭和の日ですね)。
なにげない会話からすべてのことは始まるのである。

今朝はゴミだしをしないといけないので寝坊している暇もない。
なんとか袋に詰めこんで、ふたつさげて早朝のご近所を歩く。
休みの日に早く起きるとなんだか気持ちのいいものだ。
で、つと口をすべらしてしまった。

「いい天気やなあ、こんな日は家にいるのがもったいない」
「そうよね、今日は早起きしたから時間がたっぷりあるわ」
「だけど行楽地は人も多いやろな」
「そんなことないと思うわ、連休の谷間やし」
「そういわれたらそうやな、じゃあどっか行こか」
「じゃあ陶芸の郷へ、リベンジやで」
「そういえば、あのときは途中から土砂降りになったなあ」
「今日はだいじょうぶやろな」
「まかしなさい、なんとかしまひょ」
「なるんかいな!」

3606守り神?

ということで、北へ向かって出発進行。
これといった渋滞もなく車はスムーズに走る。
まずは篠山市今田町にある「兵庫陶芸美術館」へ。
連休中ということで、「陶の郷」(すえのさと)も含めて入場料700円也。

3596陶芸美術館

縄文時代の陶器の展示などを見てまわる。
どこかで見たことがあるような感じがする。
たぶん、社会科の教科書にでも載っていたのだろう。
だが、この表情は記憶にしっかり刻まれている。
ちょっと、ムンクを連想したりもするのである。

3599階段

建物は新しく、階段も木でできていてゆったりしている。
ひろびろとしたテラスからの景色がまたいい。
点在する窯元から煙がたちのぼってきそうな午後だった。

3607遠景

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初夏に説法
ゴールデウィーク(これは映画業界の用語とか)に突入しましたね。
いつもこの時期は暑くて半袖ですごしていることが多い。
休みが続くと、案外と読書ができないものだ。
家でじっとしているよりは、青年よ野にいでよ、という気分になる。
野っ原に寝転がって空ゆく雲を眺めているほうが気持ちがいいのだが…。
しかし現実は、家で洗車などして日が暮れてゆくのであった。

「二人の銀河鉄道 嘉内と賢治」 江宮隆之 河出書房新社 ★★★
保阪嘉内は山梨県北巨摩郡駒井村の生まれであり、
宮沢賢治とは「盛岡高等農林」での一学年下(同い年)であった。
ふたりとも同時代の詩人、石川啄木が好きであった。

 不来方のお城の草に寝ころびて
 空に吸われし
 十五の心

と啄木が詠じた時代に生きたのである。
嘉内と賢治の交友活動から同人誌のことなど興味深い。
そこから賢治の真面目な性格が察せられるのである。

「観念的生活」 中島義道 文藝春秋 ★★★
哲学はまずすべてのことを疑ってかかるものだ。
いちばん問題が多いのは権威のまえに屈服することである。
あるいは疑問をいだかないことである、ともいえる。
『ラカンはずっと敬遠していたが、昨年夏以来彼の「カントとサド」を翻訳する研究会に
数度出てみて、専門家たちの話を聞いていくうちに興味を覚えるようになった。
特に、「エノンシアオンの主体」と「エノンセの主体」の区別はおもしろい。

デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」という命題は、
そう語られる「われ(エノンセの主体)」に限定する限り明証だということ。
そう語る「われ(エノンシアシオンの主体)」を隠蔽する限り、「無」とみなす限り、
殺害する限り、明証だということである。』
これは客観と主観の問題にも含まれている、と思うのである。

「昭和なつかし博物学」 周達生 平凡社新書 ★★★
いまはもう随分と昔のことに思える昭和の時代。
洗顔に使ったウグイスの糞、の話。
医用蛭とオカリカンクリ、金魚とメダカとヒヨコすくい、壷焼きとタコ壷。
縁日のオオヤドカリ、綿菓子と酸貝、最後は幻のウミホオズキを求めて。
読みすすめていると、その頃のことが鮮やかによみがえってくる。
はたして便利に豊かになったいまがいいのかどうか。
そんなことも考えてしまうのである。
確かにのんびりゆったりしていたように思えるが、そんな記憶はあてにならない。

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トレンチコートの男
春さなかではあるが、今朝は雨上がりでひんやりとしていた。
といっても五月はまぢかで、人々は春の装いで歩いている。

そんなあわただしい出勤途中のことである。
駅に着いて、ドアから吐きだされるようにホームに降りた。
そのとき左眼の視界の隅をかすめたのが彼であった。

トレンチコートのベルトはしっかり結ばれている。
フェルト地でモスグリーンのソフト帽を目深にかぶっている。
右手にはA4版ぐらいの大きさのかばんをさげていた。

映画でいえば、「郷愁」だったか「カサブランカ」だったか。
タバコをくゆらすハンフリー・ボガートを想像するかもしれない。

だが、ちがったのだ。
瞬時に脳裏に浮かんだのは、
関西学院大学アメリカンフットボール部の監督だった武田氏のほうだ。
もみ上げを長くのばした社会学部教授の横顔であった。

しかし、実際のトレンチ氏は小柄で160センチぐらいか。
それでも武田氏ゆずりの(?)黒縁の眼鏡をかけていた。
雑踏のなか、埋もれそうになりながらも足早に歩み去った。

ご自愛ください
Kさんはそう言ってその日の船で東京へ帰っていった。
なんだか変だなあとは思っていたのだが、その後門限(?)は緩和されたらしい。

そのときの写真を同宿者からもらったので送ってあげた。
それがきっかけでときおり手紙をやりとりするようになった。

彼女は大学生でK女子大に通っているといっていた。
だがぼくは、その大学が東京のどこにあるのかも知らなかった。
なんとなく緑に囲まれたキャンパスを想像した。

わたしは案外おてんばなんですよ、という。
バスケット部のマネージャーなんです。
この身長でたまには試合にも出るんですのよ。
とまたいかにもおかしそうに笑っていたのを想いだす。

島からの帰りだっただろうか、神戸にやってきたことがある。
いまはない元町の米軍払い下げの店や、薄暗い高架下商店街を案内した。
お嬢さん育ちのKさんには刺激がきついかなとも思った。
しかし、案ずるよりは産むが易し、だった。
いかにもはじめての経験だというふうに驚き、楽しそうに笑った。

そんな彼女が亡くなったと突然知らされた。
秩父のほうの山で滑落したということだった。
そのころ大学の研究室にいて、まだ二十代の若さだった。

3314花

Kさんからの便りは和紙の便箋に流れるような行書だった。
ぼくのことをヤンチャぼうずと思っていたのだろうか。
手紙の最後にはいつも「ご自愛ください」と書かれていた。

無泊旅行
M島の四十周年に、S氏は昼前にやってきて午後に帰っていった。
島での滞在時間は、三時間ほどだったろうか。
A氏にひと目会いたいと、早朝の新幹線でやってきたのだ。
念願かなって感無量、満面の笑顔であった。

そんなほのぼのした光景をながめていて、昔のことを思い出した。
もう三十年以上も前のことだが、同じM島での出来事だった。

ゴールデンウィークで、島には多くの若者がやってきていた。
五月晴れですがすがしい朝のことだ。

ひとりの女性がユースの玄関に現われた。
まさかこんなに早くやってくる人がいるとは思わなかったので驚いた。
笠岡から朝一便が着いたばかりの時間帯だったのだ。

F0011真鍋港

「おはようございます、こんなに早く来てごめんなさい」
「いえ、かまわないですけどどこから来られました」
「東京です」
「えっ、東京って…」
「昨日の夜、東京を発ったんですのよ」
「なるほど夜行列車ですか、疲れたでしょう」
「ちっとも、これて嬉しかった」

そう言って、つましく笑った。
みんなで写真を撮ろうというときも、長い髪で顔を隠すようにした。
恥ずかしそうで口数もすくなく、いつのまにかぼくと話すことが多くなっていった。

旅慣れた様子でもなかったので、これからどうするのか聞いた。
夕方まで島にいて、今日ふたたび東京に帰るという。
家が厳しくて泊りがけの旅行はなかなか許してくれないのだと言う。
これって、泊まらない旅行ということになるのだろうか…。

音に読む
本を読むときに声を出さないのが普通になったのは、近代になってからのことらしい。
では以前はどうだっかというと、読むとは声を出して読むことを意味したのである。
ヨーロッパにおいても、近代以前は音読などというものはなかったらしい。
江戸時代の藩校がでてくる映画では、素読といって声をだして読む光景をよく見る。
朗々と響く言葉を聴覚で感じ、身体で記憶していったのである。
であるから、いちがいに読書といってもいまのものとはまったく同じとはいえないのである。

「中国の大盗賊・完全版」 高島俊男 講談社現代新書 ★★★★
日本人は中国と同じ漢字を使っていることで、その意味もなんとなく同じと考えやすい。
しかし、実際はいろんな面でまったくといっていいほど違っていることのほうが多い。
もちろん、中国のなかでも漢民族系などと民族によっては大きくちがうのだろう。
高島氏の著作を読むと、なるほどと思うことがはなはだ多く出会うのである。
『日本には「文武両道」ということばがあるが中国にはない。
ことばがないだけではなく、そもそも「文」と「武」とを対等に並べるということは、
中国人には考えられぬことである。
中国人にとっては「文」は理想であり、
「武」は否定さるべきもの、マイナスのものなのだから。』
これだから、会話が噛み合わないのもうなずける。

「知ることより考えること」 池田晶子 新潮社 ★★★★
相変わらずの切り口でいろんなことを断じてゆく。
『「品格」の「格」は、「格差」の「格」である。位、クラス、グレードの「格」である。
人間の品格には確実に差がある。
我々は、本当は、そちらの格差をこそ問題とすべきなのである。
金を価値とする賤しい品性と、心を価値とする貴い品性と、
どちらの格が上なのか、決まっているではないか。
 人間は人間であることにおいてことごとく平等であるなどと、
意味不明なことを言ったのは誰なのだ。
そういう不明なことを言うから、社会的平等が人間の平等だと、
いいように勘違いする人間が現われる。
欲望を権利と、嫉妬を正義と、主張して憚らない賤しい品性が跋扈するようになるのである。』
なのに品格の意味もわからず、国家の品格などという本を読んでいるのだろうか。
上品(じょうぼん)下品(げぼん)のちがいは厳然と存在しているようだ。

「虫のゐどころ」 奥本大三郎 新潮社 ★★★★
エッセイとは随筆のことだと信じられている。
だが、もともとは文学的小論文の意味もあったらしい。
まさにそのような雰囲気をかもしだす筆者の文は耳にこころよい。
『テストのための塾などというものは、昔の中国の纏足のようなものではないか。
 そんなことをすれば子どもの身体に悪いことはわかっていても、
世間の人がやるようにやらないと足が大きくなってお嫁に行けなくなる…
だからうちの子だけしないわけにはいかない、みんながそう思っておびえ、
またそれを商売にする人がその気風をあおる。
だからこういう商売を脅迫産業というのである。
そうして、現在の日本では、脅迫産業ほどもうかるものはない。』
自分の意見をはっきり言わない文章は読んでいて頼りないのである。

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森進一の困惑
歌謡曲の歌詞をめぐる騒動が一時世間をにぎわした。
歌手である森進一が、川内広範作の歌詞を勝手に変えて歌ったというのである。
どう変えて、あるいはなにかを付け加えて、という内容を問うたものではない。
問題は、そういう行為、感覚が許せないということらしい。

しかし、これは一個人が著作権を無視した行為というようなものではない。
広く日本の世間にある暗黙の了解事項が表面に現われたというしかないのだ。
だからあまり関心もなかったのだが、その面での指摘がないようだ。

日本人はもとより個人の権利というようなものの意識が希薄である。
というより、世間のなかで生きているという感覚が強い。
もちろん、人権意識は頭のなかでは分かっているつもりである。
だが無意識に過ごす生活に、その感覚は乏しいといわざるを得ない。

小学校の図書館には必ずあるダイジェスト版の世界文学全集なるもの。
なぜオリジナルを読ませようとしないのだろうか。
こんな描写(例えば性的な)はこどもにとってよくないと勝手に削除する。
それでストーリーのつじつまがあわなくなると、あうように改変する。
理由はこどもに分かりやすいようにとの配慮からなのだ、という。
そもそも、文学作品はダイジェストできるものなのであろうか。

ビルの建設現場に行けば、設計図と称されるものはある。
しかし設計図どおりにできあがる建築物が日本にあるのだろうか。
設計図におかしなところがあれば、どんどん変更してゆく。
建物として不都合のないようにとの配慮のもとにである。
改竄しているという意識が当事者にまったくないのである。
だから、日本では一部の有名な建築家を除いて設計者の地位はけっして高くない。

森進一氏の困った様子が手にとるようにわかる、気がするのである。

3433澤の鶴

千刈貯水池
桜も近辺ではもう最後だろうな、などと話していた。
なんとか夕方までは天候ももちそうなので出かけることにした。

車で10分ほど走って、河川敷の臨時駐車場(無料)に到着。
地元自治会らしい人たちが、こっちの道がほんのすこし近いと笑いながら教えてくれた。
途中古墳もあり、その隣家の石垣にはみごとな芝桜が咲いていた。

3535芝桜

川向こうの土手に、桜が見える。
もやっとした景色のなかで、さくらいろと緑がいい塩梅である。

3537対岸

ふだんは立ち入れない貯水場の門をくぐる。
場内は思ったよりは桜の木が少なかった。
スピーカから流れあふれる歌謡曲がいかにも日本的ではある。
思ったよりは人が少なく、のんびりとバーベキューなどやる人たちもいる。

なにげなく見る樹名に、ソメイヨシノ(バラ科)とある。
そうか、桜ってバラ科なんだな、となんとなく感心(?)。

ひと息ついた後、貯水池までぶらりぶらりと歩く。
大正時代に造られ、昭和の始めに高さを増した重力ダムは風格がある。
いつもは水量も少ないらしいのだが、ここ数日の雨で放水量も豊富だ。
斜面を流れ落ちる水は、迫力満点である。

3552ダム

3573上から

3577放流

3579遠景

夜半に雨が降ってきた。
これで桜も散ってしまうことだろう。
やがて新緑の季節を経て、初夏がやってくるのである。

縁ありて
奇しくも縁ありて…
などと人と人とのつながりが語られたりする。
なぜ私はこの世に生を受けたのか。
それに対する答えはない。
あるいは、神のみぞ知るというしかないのである。

だが、ここに縁(えにし)は厳然と存在するのである。
そんなことを考える島へ行ってきた。

3523ひこばえ

斜面に咲き誇る桜の木々の下で、しばし海を眺める。
海を渡ってくる風に乗って、さまざまなものが運ばれてくる。
若かった頃の楽しい思い出もあれば、
懐かしいおばさん、おじさんの面影であったりする。

3524野鳥の森

まだまだ半人前ですが、これからもよろしくお願いいたします。

されど、女性は強しです。
やっぱり、男は辛いよ。
これは至言でありますね。

3521真鍋港

※みなさんにはいろいろとご心配をおかけいたしました。
 でも、だいじょうぶですよ、なんとかかんとか仲直りいたしました。
 とりあえず、ご報告まで…

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読み休め
人と話すのと本を読むのとではどちらが好きか、といわれれば読書だと答えるだろう。
しかし少し考えてみれば分かるのだが、どちらかと問われたからそう答えたまでだ。
実際に生きていて、どちらかに判断を決めなければならないことはそう多くはない。
仮に行動をどちらかに決めたとしても、こころのなかでは割り切れないことがある。
だが、人ははっきりと断じる政治家やらなにやらに追随してしまう。
いま一度立ち止まり、頁を繰る手を止めてしばし考えてみることも必要かもしれない。

「男と女、二つの〝性〟がある理由」 奥本大三郎×長谷川眞理子 産経新聞社 ★★★
フランス文学者であり虫屋の奥本氏と、動物行動学者の長谷川さんの往復書簡集。
はっきりいって、いまひとつかみ合っていないというか、対談になっていない雰囲気だ。
それは御両人ともお分かりのようではあるが…。
やはり、奥本氏の話のほうがおもしろいのである。
『「ではシンポジウム、シンポジオンの語源を知っているかね。
シンも〝一緒に〟で、こっちはギリシャ語から来ている。シンフォニーのシンだね。
たくさんの楽器を一緒に演奏するからね、
で、ポジオンのほうは酒宴、つまりシンポジウムは、余興、談論などを交えた、
晩餐後の酒宴なんだから、酒を飲まないのは本来変なんだよ」』
こういう理屈っぽいところが好きなのは、私が男であるゆえなのかもしれない。

「学校のモンスター」 諏訪哲二 中公新書ラクレ ★★★★
いまの子どもたちはどんな考え方でいるのか、現場の教師であった諏訪氏は語る。
経済至上主義的な社会の中で、彼らも影響を受けずに育つわけにはいかない。
『近代人の「私」も意識、すなわち、「自我」は「こう思っている私」と同時に、
「こう思っている私を他人の目から見ている私」の二重性において成立するべきだ。
「こう思っている私」と「ほかの人は違った風に思っているだろうな、と思っている私」でもいい。
近代の国民教育はとりあえず「この私」と
「それを見ている私」から成る近代的個人(私)を成立させるためにある。
だから、「オレ様化する子ども」とは幼児的な全能感の残滓である「この私」のままで
社会を生きようとする子どもである。』
ある意味、子どもたちは現在の大人の鏡像でもある。
社会の価値観の影響を受けないわけがないのである。

「ゼルプの裁き」 ベルンハルト・シュリンク 小学館 ★★★
ナチス時代には検事であったが、いまは私立探偵をしている。
幼なじみの友から、会社のパソコンへ侵入した犯人調査を依頼される。
事件そのものは早期に解決するのだが、それとともに過去がふたたび別の様相を。
しかし、ナチスドイツの影はあらゆるところにおちている。
こんな一節にであって、あのフランクルの書名の意味が分かったりする。
『多数の負傷者は「夜と霧(もみけし)作戦」によって、
ルベンロン化工の療養病院に運び込まれたという。』
ゼルプは70歳になろうとしているのに、女性問題も起こしている。
やはり、日本人とは考え方・生きかたがまるでちがうもののようだ。

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ピンクハウス
前を歩いてゆく小柄な女性がいる。
後姿からすこしふとり気味なのがわかる。
ミディ丈のタイトスカートの両裾のスリットがもの哀しさを誘う。
彼女のファッションに目がひきつけられた。

ジャケットの背中にロゴがプリントされている。
追いついて、黒地に白く「PINK HOUSE」の文字が読めた。

ピンクハウスといえばBIGIグループで一世を風靡したブランドだ。
明るいパステル色と豊かなレースやフリル使いが特徴だった。
なんだか懐かしいような気分がした。

だが黒いジャケットは時のうつろいを感じさせる。
追い越していくときに顔は見なかった。
だがやはりというべきか、髪はソバージュがかっていた。

もの忘れの効用
休日にジーンズをはこうとする。
すると、ポケットから硬貨がこぼれ落ちる。
出勤前の朝支度、でズボンをはこうとする。
ときおり、ポケットの五百円硬貨に指がおどろく。
なんだか得をしたような気分だが、まてよ。
これはどういうことなのだろうか、なんだかおかしい。

そうであった、五百円玉貯金をしていたのだ。
小銭の中に五百円硬貨があれば、貯金箱(缶)へ入れる。
そうすると、知らず知らず(?)のうちにお金が貯まるという塩梅だ。
ということは、なにも得をしていることにはならない。
まあ、当たり前のことなのではあるが、こういうことってよくあるのだ。

高い目の値段を設定しておいて、安売りをする。
賃金カットしたあとで、ボーナスを多めに出す。
余分に税金を取っておいて、年末調整で戻す。

お得気分というのは、案外こういうからくりが多いものだ。



プロフィール

ムッシュ

Author:ムッシュ
島を旅するときが楽しいですね。
遠くに眺めるのも好きです。
楽園なんてないんですけどね。

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