ムッシュの読書紀行
人生は旅のようだと言いますが、旅が人生かも知れません。 ぼくは活字中毒気味でもあり、旅はまだまだ続くでしょう。
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掃除嫌い
いまでは男も家事をするのがあたりまえの時代になった(?)。
もともと、板前とか料理人は男が多い。
職業としての場合と、家庭でのことは自ずとちがってくるようだ。

そういえば、友人の姉の夫がフランス料理シェフだという。
話を聞いてると、家ではいっさい料理はしないという。
なにを作っても、おいしいともまずいとも言わずに食べるらしい。
しかし、唯一ほめるのが味噌汁だといっていた。

なにか男の原点というか、なんとかコンプレックスを思ってしまう。

だが、掃除は嫌う男が多いようだ。
どうしても真面目にやろうという気分に欠ける。
放課後の掃除がことにそうだった。
いつも女子に注意され、見回りの先生に叱られた。
とりわけ便所掃除などは大嫌いなのだ。

そういう気質(?)が残っているのか大人になっても嫌だという。
経費節減のあおりで会社の掃除も社員分担ですべてやる。
もちろん、トイレ掃除もまわってくる。

4132廁

若い頃に当時勤めていた会社の常務からこう言われた。
会社なり商店なりを新規訪問したしたとき、必ず便所を見ろと。
ボロでも清潔なところはそのうち業績を伸ばす。
逆は、言わずもがなである。
はたして、実際にそうだったか記憶にはない。

そんなことを思いだして、会社内で観察する。
便所掃除をなおざりにする人間は確かに程度がしれている。
人品骨柄は態度、行動にあらわれるようだ。

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危機一髪
いつものように朝起きて、駅へと向かう途中でのこと。
右手に土の起こされた田んぼを見ながら歩いていた。

なにかが気になってふと立ち止まった。
その瞬間、目の前をなにかが掠めた。
足もとの靴横にびっちゃっとひろがったのはフンだった。

あぶないところであった。
かろうじて被害はまぬがれた。

見あげると電柱の上にとまっている椋鳥がいた。
横向いて涼しい顔をしているようにみえた。

0833ムクドリ

気分たい
文章の書き方(文体とも言いますが)は読む(好む)本の種類などに影響されることが多い。
荘重な文章を評価する人は、自ずと書く文章もその風体をなしてくる。
軽妙な言葉づかいが好ましく思えれば、自然とそのような文を書くようである。
しかし、あるときは片目の運転手、またあるときはガード下の靴磨きというような場合はどうだろう。
社会的役割によって変化するのではなく、気分で文体が変わることもあるだろう。
生真面目な気分のとき、ユーモアがあふれて困るとき、などでちがってくるはずだ。
いい文章とはどんな文体なんだろう、とつい考えてしまうのである。
だが、いい文章とはなにを指すのか、と考え始めるとなにがなんだかわからなくなることもある。

「家日和」 奥田英朗 集英社 ★★★★
ありふれた(?)家庭のそれぞれ独立した話が六編で構成されている。
どこにでもあるようで、どこにもないような家庭が次々と登場してくるのである。
しかし奥田氏のユーモアは楽しくもあり、ほの哀しくもあるからいい。
『愛するものは、おとぼけとユーモアで、
近寄りたくないのは、ナルシシズムと冗談が通じない人たちだ。』
ではあるが、冗談のようで冗談でないのも困ることがある。
『「さあ、生き生きと。自分らしく」インストラクターが声を響かせる。
出た。自分らしくかあ。康夫が思うもっとも恥ずかしい言葉である。』
自分らしくは、単なる現状不満(努力はしなくても)の表明でしかないようだ。
『先進国のエコロジーは、衣食足りた人々の免罪符である。
環境をダシにして人の上位に立とうとする態度がどうにも臭う。』
これで儲けてやろうという魂胆がありありだったりする(二酸化炭素排出量取引がそうだ)。
『自分で言うのと他人に言われるのとは根本的にちがう。
自己懐疑のない人は、少しのことで怒り出す。
真面目な人ほど「傷ついた」とヒステリーを起こす。』
基本的に大きな声をだす人は、自分の非に気づいている(無意識にせよ)ようだ。
だからその声を消し去るためにも、大きな声を必要とするのである。

「死と生きる 獄中哲学対話」 池田晶子・陸田真志 新潮社 ★★★★
哲学者、池田晶子と獄中にある死刑囚、陸田真志との往復書簡である。
読後いつもとはちがって、睦田氏(二十七歳)の書いた箇所ばかりに付箋が貼られていた。
真剣に生きるとは、死とはなにかを考えている、とだれもが思うのではないか。
人は(私も含む)しばしばいつかは必ず死ぬことを忘れて(考えずに)生きている。
人を殺した経験を持つ睦田氏の書く文章には、深い内省からくる重みがある。
『逮捕されるまでの私は、人間ではない「動物」でした。獣といってもよいです。
殺人を犯した後も、金を稼ぐ事に没頭し、自分が殺人者である事さえ忘れようと努めていました。
人間としての誇りも、善も、正しさも、他者への優しさも全部捨て、
ひたすら利益を上げる事で、自分の精神を事実からそらそうとしていました。
そして、高額の金を得るようになり、私は逮捕され、やっと夢から覚めたように、
自分がやった事に対する現実感が、よみがえりました。
それまで、目をそらし続けていた「殺人」という現実が。』
そうした日々のなかで池田氏の著作に出会い、手紙を書いたことから始まる。
対話(といっても主に往復書簡)のなかで彼は次第に思索を深めてゆく。
『私の罪とは、厳密に言えば被害者の命を奪った事より、
彼らが彼ら自身の真実に気付き得た可能性を奪った事にあります。
人間がその自己の真の目的に気付く潜在能力を有している。
その事こそが万人に平等にある「人が人としてある」天賦の権利、「人権」であると思えるのです。
その為のきっかけと時間を、罪を犯した者に与えてくれる死刑制度は、
むしろ、非常に人道的であると思えるし、無理にその人間の罪悪を考えないようにする
少年法や人権派の方が、むしろ、非常に人の道を外したものであり、
その人間への「仁義」を見失っていると思うのです。』
こういう視点が死刑廃止論者や厳罰主義者にはないから議論がうわすべりになる。

「寝ながら学べる構造主義」 内田樹 文春新書 ★★★★
内田氏の著作は読んで分かりやすいだけでなく、その姿勢がいいと思う。
例えば、こういうことを書く人を私はあまり知らない。
『私がことばを語っているときにことばを語っているのは、
厳密に言えば、「私」そのものではありません。
それは、私が習得した言語規則であり、私が身につけた語彙であり、
私が聞き慣れた言い回しであり、私がさきほど読んだ本の一部です。』
率直であるし、それがだれの言説であろうとかまわないという気概がある。
出典を隠して(あるいは無意識にか)、さも自分が考えだしたかのように思う御仁も多い。
全体をながめわたせば、それがどこかからの借り物であることはすぐ分かるものだ。
『構造主義というのは、ひとことで言ってしまえば、次のような考え方のことです。
私たちはつねにある時代、ある地域、ある社会集団に属しており、
その条件が私たちのものの見方、感じ方、考え方を基本的なところで決定している。
だから、私たちは自分が思っているほど、自由に、あるいは主体的にものを見ているわけではない。
むしろ、私たちは、ほとんどの場合、自分の属する社会集団が受け容れたものだけを選択的に
「見せられ」「感じさせられ」「考えさせられている」。
そして自分の属する社会集団が無意識的に排除してしまったものは、
そもそも私たちの視界に入ることがなく、それゆえ、
私たちの感受性に触れることも、私たちの思索の主題となることもない。
私たちは自分では判断や行動の「自律的な主体」であると信じているけれども、
実は、その自由や自律性はかなり限定的なものである、
という事実を徹底的に掘り下げたことが構造主義という方法の功績なのです。』
なるほど、構造主義というのがどういうものかよく分かりますね。
ふと、「サピア=ウォーフの仮説」(言語相対仮説)を思いだしていました。
人は生まれ育った社会、言語の枠内で考えるし、時代の空気にも影響されます。
ときに科学の世界で天才が云々されますが、ニュートンが言ったように、
「私がさらに遠くを見ることができたとしたら、それはたんに私が巨人の肩に乗っていたからです。」
ということでもあるわけですね。

テーマ:読んだ本。 - ジャンル:本・雑誌

初めての居酒屋
春になると、なんとなく思いだすことがある。
高校の卒業式を終えた三月初旬だった。
就職先は決まっており、いまならさしずめ研修期間ということになるだろうか。
四月入社までの一ヶ月を、いきなり九州への出張を命じられた。

特急だか急行だったかは忘れたが、鳥栖で乗り換えて肥前山口まで行った。
すぐ駅前にある旅館(商人宿というようなものだ)が宿舎であり仕事場でもあった。
仕事の内容はというと、鉄道電化による誘導障害の事前調査だった。
長崎までの線路区間をある一定の幅で通信ケーブルを調べて歩くというもの。
天気が悪い日は、旅館での調査データ整理作業がまっていた。

右も左もわからず、ただ先輩、上司の命ぜられるままに仕事をした。
リュックに測量の器材、旅館でつくってもらった弁当をいれてであった。
ヘルメットをかぶり、安全靴(甲に鉄板入り)をはいて歩くのである。

昼なると近くの食堂にはいった。
そこでチャンポンとかラーメンを頼んで、弁当を開くのである。
竹の皮のなかにはカチカチになった握り飯が数個と、たくわんが添えられていた。

「これ固いですねえ」
「ハッハッハ、足でにぎってるのとちがうか」
「そんな感じです」

といいながらも、全部食べた。
まだ二十歳にもならないときだから食欲は旺盛であった。
おまけに一日歩きに歩くのであるからなおさらだった。

いまでも憶えているが、長崎でのことだ。
一日の測量仕事を終えて旅館に帰ろうかという頃。
上司がちょっと寄っていこうかと言った。
十二使徒の像があった近くではなかったろうか。

いかにもにぎやかで、騒々しいほどの飲み屋であった。
注文はすべて上司がした。
(なにを飲んでなにを食べればいいのかわからなかった)
ビールを飲んだと思うのだが、あまりはっきりとは憶えていない。

ただ、いい気分になったのと、
初めて食べた「鳥のもも焼き」がことさらにうまかった。
そのころは宿も長崎市内に移っていた。
なにやら怪しげな旅館でもあったが、宿の人は親切だった。
その日帰ってきて、夕食のときにでた「アサリの澄まし汁」が腹にしみた。
なんだか大人になった気分でもあった。

既読感
小説なりなんなりを読んでいるとき、あるいはどこかの街角を歩いているとき。
現実にもこんなことがあった、確かにここを歩いたことがあると感じることがある。
ある人々はこれを「デジャヴ」、既視感などといって来世があることの証拠だといったりする。
しかし、人間の記憶などはあてにならないことなはだしいものである。
懐かしく美しく記憶していたものが、実際はそうでもなかったということも多々ある。
だが、そうだったというほうばかりが強く印象に残り、はずれたことは忘れられる。
なにか占いを読むときの姿勢、態度に似てはいないだろうか。

「血の記憶」(上)(下) グレッグ・アイルズ 講談社文庫 ★★★★
主人公のキャット(キャサリン)・フェリーは、歯科学者であり歯の噛み痕を鑑定する。
ニューオーリンズで、中年から初老の男性ばかりが狙われる連続殺人事件が起こった。
死体には、いずれも人間の口によると思われる噛み痕が残っていた。
一方キャットは若い頃から精神的が不安定で妻子ある男性と不倫を重ねていた。
またアルコールと精神安定剤にも依存する日々をすごしてきていたのだ。
ふとナチェズの生家へもどったときに、あるきっかけで過去の事件がよみがえってきた。
連続殺人事件と彼女の過去は、ある点で共通しているのであった。
このサイコサスペンスの底流にあるのはアメリカ社会に暗く横たわる幼児陵辱である。
こんなにありふれた事実として幼児陵辱が存在するのだろうか、との疑問はわく。
だが精神医学的な見解は別として、なかなかに力強いストーリーの展開だ。
こういったミステリが好まれるということは逆に根の深さをも思わせるのである。

「おじさん」的思考 内田樹 晶文社 ★★★★
読みすすめるほどに付箋の数がふえてゆくのである。
そうだな、そういうことだと呟きながら(たぶん)、気がつくと付箋がにょっきにょっきと。
とじた本の間から林立する薄緑の付箋がまぶしく思える。
『私の旧友「小口のかっちゃん」は医者のくせにヘビースモーカーで酒飲みである。
彼は「美味しく煙草を吸ったり、お酒を呑んで愉しく酔いつぶれるためには、
人は健康でなければならない」という考えの持ち主である。
「不健康に生きるためにはまず健康であることが必要なのである」
という彼の持説は私にたいへん説得力がある。』
これがこれで終われば、まあふつうの話である。
『この先も私は身体に悪い嗜癖を手放せないだろうし、
人類は地球を破壊しかねないテクノロジーを手放さないだろう。
私に健康なことだけをさせようとする説得も、
最終兵器を廃絶しようとする運動も、おそらく成功しないであろう。
それは「私はいま不意に死ぬかもしれない」という思いだけが、
私たちに今を生きている実感を与えてくれるからである。
それは毎分毎秒少しずつ死にむかっているという「死の必然性」のゆえにではなく、
「いつ死ぬか分からない」という「死の偶然性」ゆえに、今の生命がいとおしいと感じ、
その瞬間にだけ世界が美しく見える人間の「業」のゆえであると私は思う。』
そうくるのかと思ったが、それは内田氏の思いなのだ。
まだまだ世のなかには死をわけも分からずに怖れる人が多くいる。
(知らないものを恐がるとは、実は意味を成さない)
(知らないものは知らないがゆえに恐がることも、逆にあなどることもできないのではないか)
(なにか既知のものと置き換えているのではないか。「幽霊の正体見たり枯れ尾花」)
(だが、なにもなくてもなにもないと認識できるように脳はできていない)
(幻聴、幻視のたぐいはそのことの逆証明でもある)
では死がなければどうなるのだろう、と考えてみればいい。
きっと生きる喜びも生きる意味もみいだせなくなる、のではないだろうか。

「ロゼアンナ」 マイ・シューヴァル、ペール・ヴァールー 角川文庫 ★★★★
マルティン・ベックはストックホルム警察の殺人課主任警視である。
夏のある日、運河から女性の水死体が引きあげられた。
若い女だった。全裸で装身具のたぐいはいっさい身につけていなかった。
簡単に身元が割れるかと思われたが、捜索願にも該当者はなく時間ばかりが経過した。
やがてアメリカの刑事(なんとカフカという)から身元を知らせる連絡があった。
彼が告げるには、女性の名はロゼアンナ・マグロウ、二十七歳、図書館司書のよし。
運河を航行する船中での凶行と思われた。
だが、彼女が接触したと思われる人物がようとして知れない。
やがてある一人の男が捜査線上に浮かびあがってきた。
謎解きというよりも、日常の平凡な捜査活動がたんたんと描かれる。
しかし、このありふれているような情景がなぜか気になるのである。
派手さはないが(あるいは抑えているのか)、これがほんとうの捜査だと思えてくるのである。
すこしはまりそうな予感がするこのベック警視シリーズでもある。

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桜散る
暖かくなってきました。
陽気に誘われて、近くの桜祭り会場へ。
といっても、例年人は少なく町内会の人たちが頑張っています。
ふだんは入ることができない千刈貯水場であります。

0991桃と緑

0992桜いろいろ

桜吹雪、うまく撮るのはむずかしい。
かすかに白いのが桜の花びらなんですが…。

0987桜吹雪

0994空に咲く

ハイカーが川沿いを歩いて行きます。

1000ハイカー

特設の無料駐車場へもどる途中、小学生たちが通り過ぎてゆきます。
わいわい、がやがや。
こんな話が聞こえてきました。

「ジョニーはどこに行ったの?」
「便所にー(ベンジョニー)」

なんだかおかしくて、つい笑ってしまいました。
子どもたちはときとしておかしい。
そんな時代をすごしてきたことをすっかり忘れていました。

1011花曇り

桜の花が散って、これから新緑の季節であります。

島旅の魅力
今年も笠岡諸島のM島へ向かう。
高速道路が安くなっているから渋滞するかとも思ったが、そうでもない。
ふだんよりは多い程度だが、あれっと思うような走り方の車がいたりで緊張する。
さすがにサービスエリアは車や子どもの姿でにぎわっていた。

なんとか天気はもつかと思われたが、走っているうちに雨が降ってきた。
こればかりは自然のなせる業なのでいかんともしがたいのである。
だが島は雨が似あう、のではないか。

今年も40名以上が各地から集まってきた。
話をしなくても、顔を見るだけでもなんとなくうれしい気分だ。
主人は相変わらずビリヤードだろうか、顔をみせない。
なにかにのめり込める環境に居る、それは人生の僥倖というしかない。

重いカメラも持参したが、いっこうに撮る気分にならなかった。
見慣れた光景だからというのではない、どちらかというと逆なのだ。
写真を撮る行為は、ときに観ることをやめてしまうことにつながる。
そういうことでもないが、ただ島に立ちながめていた。

0975島影

なにを見るかはもちろんその人の性癖をあらしている。
ということは、同じ場所にいても同じように見ているわけではない。
であるから、同じ人間がいないと同様に同じ風景というものは存在しない。

などと考えていると、桟橋に一羽の鳥が飛んできた。
人の去ったのち、ひらりと舞いおりるのである。

0941桟橋の鳥

静かにあたりを逍遥するかのごとく。
哲人、いな哲鳥なのであろうか。
島はまさに静寂の春のなかにある。
ほかになにが必要であろうか。
小魚などすこし落ちていると申し分ないのだが、と呟いているか。

本浦の集落内をぶらりぶらりと歩く。
せまい土地なので迷子になることもない。
若い頃はこうして歩くこともなかったようにも思えてくる。
歩くとは目的地への過程だったろうか。

喫茶「渚」で休憩する。
店を始めて、もう30年あまりになるという。
そんなに経ったのかという思いである。
カウンターの椅子にかけて窓からながめる景色が最高にいい。
いままさに島時間がすぎてゆく。
ただ、いつまでもとはいかないところがつらいところだ。

また島へ行くというと、どうしてとくる。
では、なぜまた食べるのだと問うと、腹がへるからだという。
俺も同じように島に渇くとでも答えようか。
だがこれでは禅問答のようになってしまう。

0958桜

なぜ、がなくても人はなにかをするのではないか。
否、すべての問いに「なぜか」は成り立ちうるのか。
ヒラリー郷にならって、そこに島があるからだ、と言おう。

だが「なぜか」をあらためていろんなことで考えるとき、
存外に「なぜなのだろう」が多いことに気づくのである。

テーマ:真鍋島の愉快な仲間 - ジャンル:旅行

それぞれの青春
瀬戸内海のまんなかにひょんなことから知ったユースホステルがある。
連絡船からのながめは、ひょっこりひょうたん島のような形をしている。
四国からも本州からもおなじくらいの距離で、昔はゴリゴリ(五里五里)島と呼ばれたとか。
笠岡諸島の端っこにあり、ここまでが岡山県である。
ユースの浜越に立って前方に見える佐柳島は塩飽諸島に属し香川県になる。
(昨年末をもってユースホステル契約は解除したとの由である)
(それでなにかが変わるということもなく、島宿へぼくたちは出かけてゆく)

F0036佐柳島

そこのおばさん、おじさんも相ついで亡くなってしまった。
人はいつかは死ななければならないのだが、それでも思いだすことがある。
嘆き悲しむということではないが、たまには昔話をするのもいいだろう。

じゃあ、文集なんか作っちゃうか。
いいじゃない、みんなに声かけようよ。
楽しみだなあ。
そうだね、これでまたしばらく頑張れる、か(笑)。
暴露話もあったりするのかな。
どんな?
それは読んでのお楽しみ、ですよ。
それもまたよし、じゃあないの。
などなど……、と。

最初に島を訪れたときのことはいまでも憶えている。
小雨のなか、木造の連絡船は桟橋に着いた。
見送りにきていたのであろう髪の長い女性がいた。
涙目になった彼女はいっしんに帰り船をみつめていた。
どちらへ行けばいいのか分からず、雨にぬれている彼女に傘をさしかけた。
どうしたものだろうと思いながら、紙テープがゆれる別れの光景を見ていた。
彼女はぼくのことなどまったく眼中になかった。
ぼくも声をかけることがはばかられて、ただそばに立っていた。

そんな情景がいまでもときによみがえってくる。
あれからどれくらい時間がすぎていったのだろうか。

F0051連絡船

最初は同窓会をやろうということで始まったと思う。
それがいつしか五年区切りでの開所記念行事へと移行した。
毎春の桜の植樹祭もあった。
その「野鳥の森」の桜がおおきく育ってきたので、
みんなが無邪気に夢見ていたように、
満開の桜の下でと、春花開く時期に開催されるようになった。

今年も咲き誇っているであろう桜をながめて友はなにを思うのだろうか。
文集のことにからめながら、昔話をするのも悪くはないだろう。
また、今年も島に行く。

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プロフィール

ムッシュ

Author:ムッシュ
島を旅するときが楽しいですね。
遠くに眺めるのも好きです。
楽園なんてないんですけどね。

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