ムッシュの読書紀行
人生は旅のようだと言いますが、旅が人生かも知れません。 ぼくは活字中毒気味でもあり、旅はまだまだ続くでしょう。
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快読
読みながらこれはおもしろいとか、なんだか読むのが嫌になってきたというようなことはある。
もちろん論のすすめかたが粗雑な(わざとか)せいであほらしくなるのもままある。
つまり読者を莫迦(芥川龍之介はこの字を使っていたな)にというか、あまく見ているのであろう。
だがなぜそうなるに至ったかを推理し始めると、逆におもしろくなってくるから不思議だ。
人が主張したり反対するということからは、本人が興味をもっているということしかわからない。
批判するからといって、正しいことをしていることの担保にはならないのである。
そこを正確に理解していないと、まちがった判断をくだしてしまうことになる。
読みながら想像しながら、作者の意図などどうでもよいという世界で遊ぶのが楽しいのである。

「快楽殺人の心理」 ロバート・K・レスラー アン・W・バージェス
                      ジョン・E・ダグラス 講談社 ★★★

快楽殺人とは、なにかのために(例えばお金のためや怨みのゆえに)殺人を犯すのではない。
ただ殺すことが目的である殺人であり、人を殺すことによって快感をえられるという。
それゆえに快楽殺人は連続殺人へと移行しやすいことは容易に想像される。
『思考パターンが行動パターンに与える影響に関するこれまでの研究、
およぼサディスティックな空想についての調査が、われわれの仮説の基盤になっている。
その仮説とは、快楽殺人の動機づけ(モチベーション)は、空想がもとになっているというものである。』
ゆえに、衝動的ではなく頭のなかでいくたびとなくシミュレーションがおこなわれている。
そしてそのシミュレーションからまた快感がえられ、自信も深めてゆくこともあるのだろう。
では、どういう人物が快楽殺人をおこすのだろうか。
『警察が陥りやすい誤りとしては、たとえば次のようなものがある。
ひどくむごたらしい死体切断が行なわれている殺人事件の場合、
警察は性的変質者の犯行と判断し、捜査の対象を性犯罪の前科がある人間に絞りがちである。
しかし、そうした犯行は、
実はそれまで犯罪歴のない人間によって行なわれることのほうが普通なのだ。』
数々の事件を分析し、殺人者とのインタビューによってその心理が追求されていくのである。

「目撃証言」 E・ロスタフ K・ケッチャム 岩波書店 ★★★★
事件が起こったとき、物的証拠とともに決め手となるのが目撃証言である。
自白がその真実性が疑われだしたように、目撃証言もそんなに信用できるものだろうか。
心理学の側面から、目撃者の記憶を検証するのが彼女の仕事でもある。
一般に記憶とはいつでも再生可能なビデオテープのように考えられているがそうではない。
数々の実験や、過去の例を引いて目撃証言の危うさを知ってもらうのが使命だと彼女はいう。
証人が嘘の証言をしているというのではないのである。
記憶というものはどういうものなのか、証言者自身も気づかない落とし穴があるのだ。
『古い格言が教えているように、記憶はただ色あせていくだけではなく、成長する。
色あせていくのは初期の知覚であり、出来事の実際の経験である。
しかし出来事を思い出すときは、いつでも記憶は再構成される。
そして想起するたびにその後の出来事、他人の記憶あついは暗示、理解の深まり、
新しい文脈によって彩られて記憶は変容していく。』
ましてや、物的証拠がいっさいなく、被告にアリバイがあっても目撃者がいる場合はどうなる。
陪審員制度のアメリカでは有罪になる確率が高く、感情が先行してしまうことが多い。

「テレビ標本箱」 小田嶋隆 中公新書ラクレ ★★★
現代においてテレビは、新聞よりも良きにつけ悪しきにつけ影響力がおおきい。
だから見過ごすことなく、まちがったことはまちがっていると指摘する人物が必要である。
影響力と権力はテレビにおいては比例するからこそ、言わなければならないのである。
そこで小田嶋氏は、いいたいことをズバリとなぜそう考えるかとともに言うのである。
テレビを見ているとわかるのだが、声の大きい人は反比例して論拠が乏しい。
あるいは、その理由を隠す(隠せると思っているのか!)べく大声で封じようとするようだ。
正常な神経の持ち主であれば、テレビはテレビでしかないと理解しているのである。
もちろんその映像の圧倒的な迫力は、他に較べうるべきものがない場合もある。
『画面の中で道徳的なことを言っているのは、多くの場合、単に道徳を商売にしている人々だ。
それは、必ずしも道徳的な人物ではない。
お金より大切なものがあることを知っている人間は、テレビなんかには出ない。たぶん』
商業的に成り立っているテレビはたぶんCMのおまけなのだろう、というのは説得力あり。
こうまで名指しで批判しながら嫌な感じをあたえないのは、やはりユーモアがあるからだろう。

1223おたまじゃくし

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テーマ:読んだ本。 - ジャンル:本・雑誌

島影
船に乗って海をゆきながら風を感じないのは罪だと思う。
なにに対する罪なのかといえば、自分でしかない。
自らが自らに対して罪深いことをするものよ。
それが無知といわれるものだといわれれば、そうも思えてくる。
いままでにどれだけの罪を犯してきたことだろう。

静かに眼を閉じると、たちまちにして旅の景色があらわれる。
肌にべとつく潮風は決して気持ちのいいものではなかった。
汗と混じりあって、皮膚に白い粉様にひろがったりした。

 夏に旅しないものは若者ではない
 夏に労働しない若者はかっていなかった
 夏に恋しないのは若者と呼ばなかった

陽が落ちて風が海へとむかう時刻には、空にも星がもどってくる。
汀に寄せる波の音をききながら話すのはだれだ。
月の光をさえぎってシルエットだけが島影にうかぶ。

1227夏の電車

ありし日
ときどきヒトのからだってよくできているなあ、などとしみじみ思うのである。
それは日常のなにげない動作にいちばんよく現われている。
例えば、いまなら「冷やっこ」を食べるときなど、この動作はロボットでは無理かなと思う。
壊さないように箸でつまんで食べるだけなのだが、これがむずかしいのだと科学者は言う。
同様に読んだり書いたりすることも、日常意識をしていないが複雑なシステム構成であるだろう。
草むらのなかで動き回る蟻を見ていると、つい自分が蟻になっている想像をしている。
山あり谷あり(けっしてシャレではない)の荒野を今日も仲間とともにかけめぐるのだ。
ヒトであれ昆虫であれ、ただ生きているだけでそれは目を瞠る光景なのだ。

「ヒトのなかの魚、魚のなかのヒト」 ニール・シュービン 早川書房 ★★★
進化論では、生物はすべてひとつの系統から変化・発展してきたということになる。
だから、なんの関係もないような生物の器官がヒトの器官のそもそもの始まりであったりする。
これらの器官はおどろくほど精巧につくられている。
だが、急激な変化にはついていけないのである。少し長いが引用してみよう。
『私たちの心臓は血液を送り出し、血液は動脈を通って全身の器官に運ばれ、
静脈を通って心臓に戻ってくる。動脈は心臓に近いので、血圧は静脈におけるよりはるかに高い。
このことは、足から心臓まで戻ってこなければならない血液に特別な難題をつきつける。
足からの血液は上に向かって、つまり脚の静脈を伝って胸まで昇っていかなければならないのだ。
もし血液が低い圧力のもとにあれば、目的地まで昇り切ることができないだろう。
結果として、私たちは血液の上昇を助ける二つの形質をもっている。
一つは小さな弁で、これによって血液が上に向かって流れるのは許すが下に降りるのを防ぐ。
二つめの特徴は、脚の筋肉である。歩くとき、私たちは筋肉を収縮させるが、
この収縮が脚の静脈内の血液を上に押し上げるのを助ける。
一方通行しか許さない弁と、脚の筋肉の押し上げ作用によって、
私たちの血液は足から胸まで昇ることができるのである。
 このシステムは、活動的な動物ではすばらしくうまくいく。
活発な動物は、歩き、走り、ジャンプするのに脚を使うからである。
しかし、じっとしていることが多い動物では、このシステムはうまく機能しない。
脚があまり使われないと、筋肉は静脈内の血液を押し上げないだろう。
血液が静脈内にたまれば、問題が発生する。
なぜなら、血液の滞留は弁の故障を引き起こすことがあるからだ。
これはまさに下肢静脈瘤で実際におこっていることである。
弁が故障すると、血液は静脈内にたまる。静脈はしだいに太くなっていき、
膨れあがって、脚のなかで迂回路をつくるようになるのである。
 言うまでもないことだが、静脈がそのような状態にあれば、
下半身に本当の痛みをもたらすことがある。
トラック運転手や長時間椅子に座る仕事をしている人は、痔疾にかかりやすい。
座ってばかりの私たちの生活が支払うべきもうひとつの代償である。』
ヒトはなぜ歩く必要があるのか、よくわかってもらえたことだろう。

「街場の教育論」 内田樹 ミシマ社 ★★★★
教育はなにをめざしているのか、だれもが見失っているのかもしれない。
なんのために勉強するのか、その意味もわからなくなってしまった。
だがとにかくいい成績をとらなければ始まらない、と焦っているのだろうか。
学力の向上は至上命題のようでもあるが、それはどうすれば達成されるのか。
それはなんのためか。一昔前なら、すべての人を幸せにするためにと教条的だが思っていた。
『今の日本では、学力の向上は「競争」を通じて達成される、と上から下までみんな信じています。
たしかに、個人の学力は競争を通じて向上させることができます。
けれども、「競争に勝つ」ことのたいせつさだけを教え込んでいたら、子どもはいずれ
「自分ひとりが相対的に有能で、あとは自分より無能である状態」を理想とするようになります。
「相対的に」というところが味噌です。』
これをあらわす端的な数値が、偏差値と呼ばれるものではないだろうか。
相対的に幸せになって、相対的に豊かになれればそれでいいのだ、ということだろうか。
しかし、相対的にとはつねに緊張していなければ維持できないシステムではないか。
相対的にということは、相手があってのことであるから到達目標も流動的にならざるを得ない。
あきらめと憂鬱とが緊密に関係している時代ということができるのだろうか。

「生と死とその間」 ハロルド・L・クローアンズ 白揚社 ★★★
神経内科医のクローアンズ先生の話は大変におもしろい。
それはフィクションではないからだ、ということもよくわかっている。
事実は小説よりも奇なり、なのでありそれゆえに悲劇的な物語は底が知れない。
ユダヤ人である筆者は科学者でもあるからナチスの行為をどう考えるべきなのか。
『動物実験に反対する権利はある、と私は思う。
科学的根拠があるわけではないが、権利はある。
胎児移植に反対する権利もある。
しかし、ナチの戦争犯罪と同一視しないという権利もある。
将来もし法律が変更されることがあったとしても、それまではそれをモラルに反するとか、
非倫理的であるとか、違法だとか、言わない権利もある。
法律が変ってもモラルが変わることなどないのだが。
 しかし彼らには権利がある。
 そして権利のあるところ、何らかの義務がついてまわる。』
よくわかってないというよりは狡賢い人は、決して法律を犯してはいないなどと弁明する。
あなたは法律に違反さえしなければ、なにをしても許されると思っているのだろうか。
モラル(倫理)と法律との間には、ある意味なんの関係もないものだ。
だからモラルは強制できないし、それだからこそ人生観がわかるのである。

4800石仏

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仲間はいい
仲間由紀恵さんのことをいっているのではない。
そうではなくて、森毅氏の話のなかにこんな文章があったのだ。

『いまからちょうど十年くらいまえに、僕は身の上相談の相手をしたことがあって、
そのときに女子高生から
「みんなで何かやるときにしらけてしまうんです。私はネクラなんでしょうか」
という相談を受けたことがあります。
 僕はこう答えました。
「そんなことないよ。やっぱりひっそりさんもいるからいいんや。
僕ははしゃぐのも好きなんやけど、はしゃいでくたびれると、しらけてるのがいたら気楽や。
気持ち良く、仲間から外れてもよくって、
気が変ったらいつでも仲間に戻れるというのが、ええ仲間ちゃう?」
このときの身の上相談で、これが一番ウケが良かったようです。』

   「寄り道して考える」 森毅・養老孟司 PHP研究所より

ええ仲間かあ~、と思わず声にでたらいろんな顔がうかんできた。
いまはもういないやつも、どこでなにをしているのかわからなくなった人も。
でも思いだすのはみんな笑顔で、なんだかなつかしくもせつない。

生きていればいろんなことがあるのはあたりまえである。
だれにだって、あのいつも笑っているやつにだってそうなのだ。
愚痴だってみんなと言いあえれば笑い話にもなるから乗越えていけるのである。
悩み、迷い、それでも止まることはできないのが人生のつらいところだよね。
寅さんの「男はつらいよ」じゃないけど、ぐっとこらえているのはだれだって同じだ。
「女もつらいのよ」と言わないところが、女性のすごいところだと思う。

いつかきっと、
「ご無沙汰してましたけど、みんな元気だった?」
なんて声とともに現われる。

「おお、久しぶりやなあ~」
と軽くかえせるように準備しておこう。
(けっして泣いてはいけない、男の子だから)
(って、おっさんやんか、とは言わないように)
(まじめに言うてるのに、そんなツッコミいれられたら、ほんまに怒ります(笑))

0853飛行機

困惑しない人々
よかれと思ってしたことでも、必ずしもその人のためにならないこともある。
以前話題になったCMに「小さな親切、大きなお世話」というのがあった。
「世話」と「お世話」では、ニュアンスがおおきくちがってくる。
「お」をつけることで、揶揄するような雰囲気がかもしだされる。
なかなかに言葉遣いとはむずかしいものだ。
しかし逆に、だからこそ同じ言葉に正反対の意味をも込めることもできるのだ。

結果重視主義の立場と、過程尊重派では評価が別れる。
巷では過程尊重派の声がよく聞かれるのである。
「あれだけ頑張ったんだから…」
「あんなに反省しているのだから…」
結果を問うのは酷だという含意があるようなのだ。

しかし、結果重視ではそうはならない。
「なにを成したのか、どれだけの成果があがったのか」
目に見える形で示しなさいという。

過程重視派の場合、成果が上がらなくても責めを負はなくていい。
よくある政治家の答弁のように、誠心誠意頑張ります、で問題はない。
会社でいえば、遅くまでただ仕事をしていればいいのだ。
効率よくてきぱきと片付けても、決して評価されるとは限らない。
できない奴とつきあって時間をつぶしていなくてはいけない。
まさに時間を売るサラリーマンということになる。

結果重視主義では、なにはともあれ結果が求められる。
一部の事業家のように、目的(利益)のためには手段を選ばない。
法も最低限破らなければいいし、モラルなんてものはなんの役に立つのだとうそぶく。
お金で買えないものはない、などと豪語する人物もいる。
経済至上主義を信条とする人たちである。

一見、まったく正反対のようにみえるがはたしてそうだろうか…。
どちらも行為によって成果があがると考えている(もちろん、負の場合もある)。
ただなすだけだという純粋行為がある、とイマニュエル・カントは言ってなかっただろうか。

4803仁王

六部の侠気
与謝野鉄幹の「人を恋うる歌」なかに

妻をめとらば才たけて 顔(みめ)うるわしくなさけある
友をえらばば書を読みて 六部の侠気四部の熱

という詞がでてくる。

七五調のごろがよく、曲もついていたので学生時代に口ずさんだりした。
しかし、この六部があるとき問題となったのである。
ふつうに、「ろくぶ」と読むかと思えば、「りくぶ」だという。
なんだそんなことも知らないのかという視線を感じたものであった。

そんなことを思いだしたのだが、よくよく考えてみれば、
この「ろく」は漢音なんですね。
で「りく」は呉音というわけです。
ですから、「ろく」と「りく」はもともとは外来語なわけだ。

訓(やまとことば)ならば、「むっつ」とでもなりますか。

なんだか、六(ろく)が渡来語とは変な感じ(漢字?)ではありますね。

IMG_4785.jpg

あいがも
朝、田のわきを歩いていると、ガコガコとにぎやかな鳴き声がする。
水のはられた田のなかを焦げ茶色のちびすけたち、その数約30弱か。
まばらな苗の間を右へ左へと騒々しい。
授業前の休憩時間、小学校の運動場のようである。

4787あいがも

季節はこれから梅雨だというのに空は青い。

4801空

読み体
相撲には土俵際でどちらの足が先に出たかということの他に、死に体という判断がある。
身体が土俵内に残っていても、すでにその体勢は負けを示しているというのである。
激しいぶつかり合いであるから、怪我をすることも多い勝負のなかに生まれたことばだ。
武士は(西欧ならさしずめ騎士だ)、降参している相手をいたずらに辱めない。
こうしたこととは特別の関係はないが連想ははたらくだろう。
まわりに読むもの(書物とは限らない)がないと、困った精神状態になってくるのである。
チラシであろうが説明書であろうが落書きでもいい、なにか読めるものがほしいのだ。
それこそ読む行為自体が生の目的であるかのようなそんな状態って、あると思います。

「山手線膝栗毛」 小田嶋隆 ジャストシステム ★★★
山手線の池袋からひと回りしてふたたび池袋までの地名によせたエッセイ集である。
読めばわかるが、地理案内のようなものではなく、まあ一種の連想ゲーム(?)なのだ。
あるいは小田嶋氏の青春ラプソディというべきものかもしれない。
軽妙でありながらアイロニーも忘れない、そんな眼を筆者はしているのである。
であるから、わたしが以下のような文章に反応したのもゆえないことではない。
『都会人というのは、都会に生まれた人間ではなく、
都会に「来た」人間を指す言葉なのである。』(有楽町)
『きっと、町に住む者にとって、町というのは、現実の場所ではなくて、
「いつか見た気がする懐かしい風景」であったり、
「こうであって然るべき人間関係」みたいな、
いずれにしろ、現実離れしたものなのだろう。』(日暮里)
湿地帯であった関東平野がこんにちの東京になるとはわからないものである。

「美少女一番乗り」 山本周五郎 角川文庫 ★★★★
この十篇の短編は、新潮社の「山本周五郎全集」(全三〇巻)にも未収録のものが九篇ある。
ほとんどが少年少女向け雑誌「少女倶楽部」に発表された時代小説なのである。
若い頃には山本周五郎が好きだというと「甘ちゃん」扱いされたものだ。
だからすなおにそう公言することができないんです、などという女性がいた。
まあ、関西で巨人ファンだと大声出すのと似ているかもしれない。
だが周りがどういおうとも、好きなものは好きだから気にすることはない。
逆にどこがどう甘ちゃんなんだと問い返せば、たいした意見ももってないことがしれた。
いろいろと有名な作品があり、映画やドラマになったものも多い。
だが私が考えるに彼の時代小説の愁眉といえば「日本婦道記」だと思う。
こんな生き方ができるのだろうか、上面でない本質を見抜けるのかと自問したものである。
そこへつながってゆく一連の作品群ではないだろうかと思うのである。

「できそこないの男たち」 福岡伸一 光文社新書 ★★★
世間では、一般的に学者というものは金銭に執着しない人物だと思っているようだ。
なぜそのように思いたがるのかは、いくばくかの憧れがあるからなのだろう。
実際の科学者の世界で生きてきた(今も?)筆者はなまなましい現実の世界を書く。
さらに、科学的ということは口でいうほど簡単なことではない。
『私は忘れかけていたことを自戒の意味をもって思い出す。
私が膵臓の細胞を見ることができるのは、それがどのように見えるかをすでに知っているからなのだ。
どの輪郭が細胞ひとつ分の区画であるのか、その外周線を頭の中に持っているからだ。
その細胞の向きがどちらを向いているのかを、あるいは細胞の内部に見える丸い粒子が
DNAを保持している核であることを知っているからである。』
まさに、そのことを忘れてしまうとおおきなまちがいを犯す。
『   人は女に生まれるのではない、女になるのだ
 シモーヌ・ド・ボーヴォワールはこう高らかに宣言した。
しかし、これは生物学的に見て明らかに誤りである。生物はすべて女として生まれる。
だから、女はもともと女として生まれた。
ボーヴォワールはもう少しリラックスすべきだったのかもしれない。
彼女の言葉はむしろこう言い換えられるべきなのだ。
   人は男に生まれるのではない、男になるのだ』
だれにでも(著名人であろうとなかろうと)思い込み、まちがいはあるものだ。

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エリートへの道
テレビなど見ていても、司会者が彼はエリートだからなどという。
いったいぜんたいどこをもってエリートなんていうのだろう、と思っていた。

そしたら、森毅さんと養老さんの対談本に、こんなことが書いてあった。

『僕は先程、自分がエリートと呼ばれていたと言いましたが、
たしかに僕は、育ちからしてエリートだったと思います。
それは京大に行ったとか、東大に行ったとか、そんな問題ではなく、
もちろん家がどうだかという問題でもありません。
僕流の「エリート」の定義は、自分で責任をとることです。
つまり、教科書でいうならば、自分で選んだ本を自分で読むことです。
自分で好きなことをしたら、自分で責任をとるというのがエリートの条件であり、
旧制高校というのは、その意味でたしかにエリートだったと思います。』(森)

明治維新の志士たちはエリートであったかもしれない。
いまの日本ではエリートとは、たんに高級取りをさすの意しかない。
だから話のなかにエリートということばがでてきても話がかみあわない。

ヨーロッパあたりではずっと森氏のいう定義でつかわれているのであろう。
エリートとは選ばれた人たち(もちろん神から)なのである。
だから民衆を導き幸福にする責務がエリートにはあり、それがエリートの誇りなのだ。

現代日本の社会にはエリートがいないのだ、ということができるかもしれない。
そういえば、アメリカも日本と同じような社会にみえる。
というよりは逆であって、日本がアメリカ社会化しているということだ。

ほんとうのエリートがあらわれる日がやってくるのだろうか。
いまの教育では(つまり今現在の社会では)、無理なのではないかとやや悲観的である。

常識を疑う
ふつう常識を疑うといえば、非常識なやつだと非難をこめていう場合をさす。
だがここではそうではなくて正反対のことを言いたいのである。
常識が必ずしも正しいとはいえないし、常識の名のもとにあやまりが横行していることが多い。
例えば、脳細胞はいちど死滅すると二度と再生しないなどといっていた。
だがこれは最近そうでもないということが、臨床で観察され報告されているのである。
常識的に考えれば、疑うことのないところに科学の進歩はないのである。
ニュートンしかり、アインシュタインしかりであるのだ。
凡人はその正反対を生きるのであり、それが人生だなどと言うところがまた哀しい。

「奇跡の脳」 ジル・ボルト・テイラー 新潮社 ★★★
神経解剖学者のテイラー博士が三十代半ばの十二月に脳卒中でたおれた。
そこから回復してゆくまでの経過を本人が綴ったのがこの本である。
患者がしゃべれないと、周囲はどう反応するのかがこれを読むとよくわかる。
またどんなふうに接してくれると、患者は助けられ励まされていると感じることができるのか。
『手術後の数年というもの、脳が睡眠を必要としているのを無視すると、
わたしの感覚系は悶え苦しみ、精神的にも肉体的にも消耗してしまいました。
もしわたしがありきたりのリハビリ施設にいて、目の前のテレビで起こされ、
薬のリタリンで覚醒され、見知らぬ人が考えたリハビリ・プログラムに従うよう強制されていたら、
意識はもっと散漫になり、なにかに挑戦する気も失せていたでしょう。
睡眠がもっている治癒作用に重きをおくことが、
わたしの回復には欠かすことのできないものだったのです。』
左脳と右脳のちがいはわかるのだが、それがすべてなのだろうか。
ヒトの脳ってそれほど単純でもないし、融通がきかないこともないような気がする。
やはりテイラー博士はアメリカ人なんだ、と文化のちがいがより認識できた一書である。

「フォト・リテラシー」 今橋映子 中公新書 ★★★★
フォト・リテラシー(Photo Literacy)は筆者によると、れっきとした英語ではあるが、
英語圏でもほとんど用いられていないようだという。
一般的に瀕用されるのは「メディア・リテラシー」のほうである。
『メディア・リテラシーとは、市民がメディアを社会的文脈でクリティカルに分析し、評価し、
メディアにアクセスし、多様な形態でコミュニケーションを創りだす力を指す。』
と定義されるが、まあ無批判にメディアを信用するのではなく自分で考えなさいということ。
そのためにはメディアのもつ意味、手法(やらせも含む)を知る必要があることはいうまでもない。
写真も読み方があり、その特質や編集のトリックを知っておかなければいけない。
いろいろと論点はあるが、この本の中で紹介されていたジョージ・ロジャーの回想を引く。
一九四五年四月二十日頃イギリス軍に従軍して、
ナチス・ドイツのベルゲン=ベンゼン強制収容所解放を目撃したときのことである。
『英国陸軍兵士四人と一台のジープに同乗し、先頭を切って市内に乗り込んだが、
そこで出会った惨状にわたしは心の底から動揺した。
人品卑しからぬ紳士と話をしていたところ、やつれ果てたその紳士が、
会話のさなかいきなり倒れ、息を引き取ったのだ。
わたしは、紳士の亡骸を写真に撮った。死者はそこかしこにいた。
その数四千におよぶといわれる死体を、構図の整った写真におさめようとしている自分に気づいた。
いったいぜんたいわたしはどうなってしまったのか。こんなことがあっていいはずはない。
何かがわたしを変えてしまったのだ。
世の人々にこのことを伝えるためにも、この情景を写真に撮らねばならない。
したがって、わたしとしては何もしないで立ち去ることはできない。
そこでわたしは、風景か何かでも撮るように、
死体を具合のよい構図におさめ、写真を雑誌社に送った。
しかしその時に、戦争写真はもう二度と撮らないと堅く誓い、そのとおりにしてきた。
あれが最後だ。』
無知(あるいは曲解による)ゆえの断言はいつの時代にもある。
それに簡単に追随しないために、自分でいま一度考えてみることが大切だということ。

「寄り道して考える」 森毅・養老孟司 PHP研究所 ★★★★
二点間の最短距離は直線であると数学ではいう(いまでは必ずしもそうではない)。
人生にも最短距離をゆくのがいいのか、といった比喩がよくつかわれる。
そうあせらないで、たまには木陰によりかかって来し方をながめてみるのもいいだろう。
などということが書かれているわけではないが、そう直情的に考えなさんなということ。
こうだと決めつける考えには、往々にしていろんな害があらわれるのである。
『僕が、いまの若い子を見ていると、彼らが当時と同じ状況になったときには、みんな反戦になるか、
みんな愛国になるか、どちらかにならないと収まらないのではないか、と心配になります。
みなが同じ考えをしていなければいけないという意識が、かなり強いように思えて仕方がないのです。
それゆえに、仲間外れ、いじめという問題が発生してくるのではないでしょうか。
人にはそれぞれ、いろいろな考え方、行動があるということを前提にしていれば、
いじめなどは起こらないような気がします。』(森)
是か非かの態度は受けいれられやすいが、他を排除する思想につながることがある。
当初の議論を忘れてしまう、ということも多いものだ。
こうしなければいけないという社会は、逆にいじめを起こす社会なのかもしれない。

1214亀たち

テーマ:読んだ本。 - ジャンル:本・雑誌

逆走サイクリスト
いつものように会社へ歩いていると、向こうから自転車に乗った若者がやってくる。
朝のすがすがしい空気のなかをさっそうと走ってくる。
だが、なにか違和感があるのでしばし立ち止まる。

この道路は中央分離帯があり、それぞれ余裕のある片側一車線だ。
そこをなんの躊躇もなく逆走してくるのだ。
(その後もいくどか、あるときには女性もいた)
道路のわきを走っているとはいえ、れっきとした車道である。

交通量がすくないから、だいじょうぶと判断しているのだろうか。
だがこれって、完全に道路交通法違反である。
危険だとか、ルールに反しているとかの意識がないようなさわやかな表情にみえる。

DSC_1203.jpg

いかにも気持ちよさそうで、すこし羨ましかった。

衣替え
今日から六月、衣替えのとき至れりなのである。
出かけるときには上着もなし、ノーネクタイでさっそうと歩く。
すこし肌寒いようなので、半袖はやめにする。

いつもと同じ道なのだが、なぜか受ける印象がまったくちがう。
人間は空腹になると怒りっぽくなったり、ほめられると機嫌がよくなったりする。
それとご同様なのであるが、気分がいいということに変わりはないのだ。

事務所内では営業マンをのぞいて、イーネクタイがめだつ。
観察してみると、現場上がりの連中のほうがネクタイをしている。
彼にとっては特別のなにかを象徴しているのであろう。

しかし室内はパソコンが発する熱のせいか暑くてならない。
省エネの温度設定は28℃である。
室外のほうが涼しくて快適なのはどういうことなのだ。

これからの夏が思いやられるのである。

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島を旅するときが楽しいですね。
遠くに眺めるのも好きです。
楽園なんてないんですけどね。

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