ムッシュの読書紀行
人生は旅のようだと言いますが、旅が人生かも知れません。 ぼくは活字中毒気味でもあり、旅はまだまだ続くでしょう。
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冀う
小説を読んでいて、「冀う」という漢字を生まれてはじめて見た。
「冀った」なんていまどきなかなか純愛物語でもつかわれない。
これは翻訳者の趣味の問題であろうか。

原語ではなんと書かれているのか知らないから、さてなんといったらいいものか。
しかしたまにはこんな文字と出会うのもいいかもしれない。

冀うような心情になったことがあったろうか。
せつないようなやるせないような夜に、胸の底からうかびあがるのだろうか。

3333冀う

いまこうやってこの「冀う」を見ていても、はてなんと読むのだっけと思う。
それだけなじみのない字であり、北の下に異と書く意味はなんだろう。
どうしてこの字が成り立ったものかにも興味を覚えるのである。
(白川先生の本に書いてあるだろうか)

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陽のあたる階段
家から駅へとむかう道は途中に長い階段がある。
帰り道に数えてみたら、大小高低とりまぜて二百二十九段あった。
金比羅山に比すべくもないが、まずまずのところだろう。

4873階段

(なにがまずまずなのか分からん、という)
(健康面からしても、ほどほどの段数ではないかの含意である)
(わたしはけっして登らないからね、と相方はおっしゃるのだ)
(だが、カロリー消費にはもってこいなのではないか)

階段で思いだしたが、相方は右回りの階段はなんだかいやだという。
左回りだと、気分よくすっと上れるというのである。

ふーんと一瞬思ったが、まてよ。
右回りの階段って、下るときは左回りではないか。
同様に上るとき左回りの階段は、下るときには右回りになる。
これはどう考えればいいのだろうか。
(この点について彼女はなにも言っていない)

坂でも歩くのがいやな人には、上り坂が多いように思える。
箱根駅伝も往きは昇りだが、復路は駆けくだる。
上り坂と同数の下り坂があるのは道理である。
だから上り下りは視点のちがいだ。

都が京都にあったころ、江戸から向かうのは上りになった。
つまりは「おのぼりさん」とは彼らのことを言ったのではないか。
(京都の公家がいいそうな言葉ではないか、あまり自信はないが…)

などと考えつつ階段をのぼると、はるか近くに(形容矛盾?)山が迫ってくる。

4870山迫る

フィクション過ぎる
めずらしいことに続けて読んだ三作がともに小説である。
先だっての引越のときに、ウォシュレット(これは商標だが)と取り付けをおこなったときのことだ。
一階と二階の二台を取り外し、原状復帰するのだが以前はどうなっていたのか憶えてない。
だが、ああでもないこうでもないと考えながら汗を滴らせて作業をおこないなんとか終了する。
途中、配管の長さが違ってくるのでホームセンターへ買い求めに行ったりした。
こんどは転居先で取り付けるのだが、ひとつとして同じというのがない印象だ。
頭のなかではこうすればこうなって、すべてはこともなく終了するのであるが、現実はちがう。
このパッキンは必要か不必要かどうなんだ、クリップがうまくはまらないで汗みずくだ。
これがフィクションの世界だと最後はなんとかおさまると鷹揚に構えていられるのだ。
最近の若者に人気のファンタジーもそういうことなのか、とわかるのである。
現実の思うようにならなさを、逃げるでもないだろうが、忘れて世界に遊ぶのであろう。

4850六甲山系

「逆さまゲーム」 アントニオ・タブッキ 白水社 ★★★★
短篇集なのでどれがということになるのだが、全体にファンタスティックだ。
読んでいてなるほどそうだと知らず知らずに思っている自分を発見するだろう。
でなければ小説の世界にのめりこんでいけないし、つまらなく感じてしまう。
『「わかりません」彼は応えた。「この列車の行き先も知らないんです」
「え、ではどうして乗ったんです?」男は当然な質問をした。「行き先を知らないなんて」
「旅がしたいだけです」彼はいった。「汽車は旅をしますからね」』
 (行き先のない旅)
旅をする汽車に乗っかってあてもない(時刻表を見れば行き先はわかるが)旅をする。
はたして旅をしているのは汽車なのか、自分なのかと考えるのもまた一興である。

「菊葉荘の幽霊たち」 角田光代 角川春樹事務所 ★★★
本田典子は吉元と二人、新しいアパートを探して歩きまわっている。
蓼科という大学生が住むアパートがなぜか気に入り、そこに狙いをさだめた。
典子は大学生のふりをして蓼科に接近、彼の部屋に入り浸るようになって情報を収集する。
ここの住人(六部屋あるのだ)がそれぞれに変わった人生を生きてもいることがわかってくる。
『こうして歩いていると、次第に奇妙な気分になってくる。
こんなにもたくさんの部屋があるのにどうしてみなふさっがているのだろう。
わたしたちが見ているのはすべて賃貸住宅であり、だれもがその部屋を所有せず住んでいて、
きっと何年か後にはそこを出る。しかし現在わたしたちの前に空き部屋はない。
とすると、部屋と人々の数は決定されていて彼らはみな順繰りに部屋という部屋を移動している
としか思えない。わたしたちの知らない隙に、こっそりと。』
部屋に執着するわりには、人間関係にはこだわりがすくないようにも思える。
『「おれは最近ほとほと実感したんだけど、住む場所というのは、
人にとってまったく重要なんだよなあ」』
そうなのかどうなのかは別にして、不思議な魅力をもつ文章を書く作家だと思う。

「夜のフロスト」 R・D・ウィングフィールド 創元推理文庫 ★★★★
さえない風采で、とばすジョークも品がなく場違いでときとしてひんしゅくをかう。
捜査現場でしゃべることも場当たり的な印象をうけるジャック・フロスト警部である。
事務的な管理能力はゼロだから、いつも署長からうとまれているが気にもしない。
だが現場の巡査や刑事にはなぜかうけがいいようなところが不思議な人格である。
そんなフロスト警部のもとにはつぎつぎと事件が飛びこんでくるのである。
それを苦にもせず現場から事件発見者、関係者など根気よく(?)あたってゆくのである。
パートナーとなった刑事は災難というほかない仕事ぶりというか仕事中毒気味なのだ。
ふつうミステリといえばさっそうとした探偵や警部が鋭い推理で事件を解決するもの。
そう思い込んでいる読者には、なんともはやどうなっているのだこの警部はと思わせるだろう。
だが、いろんな事件がしだいにその関係性を帯びてくるのである。
いかにもいそうで、でも実際はこんな警官いないだろうなというキャラクターなのだ。
であるからある段階をすぎると、確実に読むのが癖になるというフロスト警部シリーズものだ。

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読談あり
ふらりと立ち寄った書店で、吸い寄せられるようにある棚の前までゆく。
手がのびてある本を抜きだし、書名を読んでみればそれはまぎれもなく探していた本である。
ふむふむと数ページ読みすすんでから、これはどうしたことだろう気づくのである。
なんらかの人知が関することのない力が働いたのだ、ということはたやすい。
しかしよくよく考え思い起こしてみれば、それはあたりまえのことであったりする。
あのとき、欲しいなと思いながらも手元不如意のせいであきらめたことがあった。
そう思い至たると、恋愛の出逢いなどもそういうことがあるのではないか、と疑うのである。

「蒸発した男」 マイ・シューヴァル ペール・ヴァールー 角川文庫 ★★★
ストックホルムの殺人課主任警視マルティン・ベック・シリーズの第二作である。
夏季休暇にでかけていたベックは急遽上司から呼び戻される。
アルフ・マトソンというスウェーデン人のジャーナリストが取材先のブダペストで失踪した。
政治がらみの事件とも予想される状況で、彼はブダペストへと飛ぶ。
劇的な展開があるわけでなく、警察の日常がたんたんとつづくかのような作風である。
アメリカのミステリによくあるようなどんでん返しもサスペンスもない。
読みすすめるうちにこちらのほうがほんとうの捜査ではないか、と思わせるのである。
しかし、ブダペストというのは美しい街なんだろうな、と想像するのである。
最後のほうの事件解決は、やや迫力に欠けるがそれだけに現実的でもある。
スリルとサスペンスに満ちたミステリか、じっくりと読ませるリアリステックがいいのだろうか。
結論としては、いろいろとあるほうが好ましいし、ああだこうだと考えることもまた愉しいのである。

「幕末史」 半藤一利 新潮社 ★★★★
嘉永六年六月、アメリカのペリー艦隊が浦賀に来航してきた。
そして安政から万延、文久、元治、慶応そして明治へとめまぐるしく移り変わる。
幕末はどのように理解されているのか、筆者はこう考えるというのが本書である。
主題は、あとがきにこのように簡潔にまとめられている。
『小学生時代に仕込まれたいわゆる皇国史観(すなわち薩長史観であると思うが)に
少々の異議をさし挟みたいのである。』
鎖国継続か開国するべきか、それに加えて勤皇派と佐幕派がいりみだれる。
それまで蚊帳の外だった天皇が突然舞台に登場するのはどういうことだったのか。
尊皇攘夷とはなにをいうのか、じつに複雑な時代であった。
ついには、武士の世のなかとの決別となる西南戦争が起こってしまうのである。
『戊辰戦争のつづきといえるこの明治の権力をめぐってガタガタした十年間は、
古代日本人的な道義主義者の西郷と、
近代を代表する超合理主義の建設と秩序の政治家大久保との、
やむにやまざる「私闘」であったといえそうです。』
明治の狂歌に時代の空気が感じられて興味深いのである。
「上からは明治だなどといふけれど 治まるめい(明)と下からは読む」
最後には、木戸が亡くなり、西郷が自刃し、大久保が暗殺される。

「イワシと気候変動」 川崎健 岩波新書 ★★★★
資源の枯渇などとよく議論にのぼるが、どれもが同じではない。
『資源とは、人間の利用対象となる自然物のことである。資源には三つの種類がある。
一つは鉱物資源、石油資源などの非更新資源である。採掘して使えば、その分だけ減っていく。
二つめは、水などの循環資源である。海から蒸発した水蒸気は、
雨となって地表に降り注ぎ、人間によって利用されながら河川を経て海に戻る。
淡水は、存在形態は変化するが総量は一定で、増えも減りもしない。
三つめは、林産資源、水産資源(漁業資源ともいう)などの更新資源である。
採取すれば、自然の機能によって、後から再生される。生物資源、再生可能資源ともいう。』
だから、漁業の不振は乱獲がその原因なのだ、と単純に考えやすい。
『水産資源は生物の集団である。
生物は、環境変動に対応して進化し、発展してきた。
伝統的な水産資源学の致命的な欠陥は、
資源の変動要因から環境要因を切り捨てたことにある。
平衡理論に基づくと、資源の減少の原因は、乱獲しかあり得ないことになる。』
では、ほんとうのところはどうなっているのか、に著者はこう答える。
『私は「レジーム・シフト」に「大気・海洋・海洋生態系から構成される地球環境システムの
基本構造(レジーム)が数十年の時間スケールで転換(シフト)すること」という定義を与えている。』
ものごとはなににつけそう簡単にわかった、ということは少ないことがよく分かるだろう。

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盆は仕事
お盆期間中は、だいたい仕事をしていることのほうが多い。
なぜなら、というのは次のような理由によるのである。

職種にもよるのだろうが、この期間は仕事がひまである。
ということは、ゆったりとした気分でいることができる。
難をいえば、ひますぎて眠くてしかたがないことぐらいか。
この期間に考えをまとめたり、忙しいときにはできないことをやる。
ゆったりできるのは最高の贅沢ではないだろうか。

(あなたはクーラーのきいた職場でのんびりできていいわね)
(家の片付けがちっともはかどらないんですが、いかがいたしましょう)
なんて声が聴こえてきそうだが…。

盆に旅行などでかけようものならどうしようもない事態に遭遇する。
ツアー代金はバカ高いし、道路は渋滞して時間がどれだけかかるやもしれない。
どこもかしこも人、人、人の波で暑苦しいことこのうえないのだ。

しかし、この混雑が好きな御仁もいるようである。
人が多くいるだけで、それでなにか値打ちがあるような錯覚をいだく。
行列なんかがあると、訳もわからずに嬉々として後に並んで満足そうだ。
それはそれで、そんな楽しみ方があってもいいとは思う。

帰りの電車も空席がめだち、のどかな郊外を走るかのようだ。
まだ陽の高い階段をのぼっていると、ひぐらしの鳴き声がきこえてくる。

しかし、盆休みの静謐もいつまでもは続かない。

真夏の引越
夏の暑いさなかに引越をすることになった。
業界では安値でできる時期だということである。
(別にそれを狙ったわけではない)
三月四月の繁忙期にくらべれば、まずは半値でも可能だ。

いちばんの安い時期はというと、お盆ということになるらしい。
「お盆休みに引越する人は、まずいないですからね」
と見積にきた営業マンが笑いながら言っていた。

引越料金というのは、そのほとんどが人件費なのである。
繁忙期は足りない人手をアルバイトでまかなう。
しかし仕事がひまだからといって、常雇いをなくすわけにもいかない。
当然、少ない時期でも最低の仕事量は確保しなければならない。
で結果、値段が安くてもなんとかやらしていただきます、ということになる。

天候の心配などはなから頭になかった。
ところがここにきての台風発生である。
家人の眼がなぜか冷たく感じるのは気のせいだろうか。
(ちなみに引越決行日は明日なのである)
(なんとか雨よ降らないでおくれ)

1450ハグロトンボ

汗かき男と五頭身男
シートに座るなり男は顔の汗を拭きはじめた。
顔全体をまあるくひとまわりぬぐう。
続けてもういちどぐるりとぬぐう。
さらに仕上げに、とでもいうようにぬぐった。

すこし落ち着いたかなと思って見ていた。
ワイシャツのなかに手をいれて腋の下をぬぐう。
右わき、左わきと、ていねいにぬぐう。
さらに背中にもと手をのばしたがこれはうまくゆかないようだった。
しばらく手にしたタオルをみつめていた。

もういちど顔をぬぐって、息をふうーっとはいた。
こちらもつられて止めていた息をほっとついた。

汗をぬぐう男のとなりには、妙にバランスの悪い男がいた。
顔の大きさに比例しないからだの造作なのである。
足が短くて、座ってのばした靴先が床につくかつかないか。

いきなり、おおきな音でくしゃみをした。
横の汗かき男は、露骨に嫌な顔をした。
インフルエンザ騒動も最近のことである。
しかし五頭身男は気にするふうでもなくくしゃみを連発した。

ならんでいるふたりがおかしくて、つと下を向いて内心で微笑んだ。

1446車内

旅する読書
だれもがそうなんだと思うが、ぽっかりと空いた時間に私はなにをしているんだろうと感じる。
いくら食べるためだとはいえ、この仕事をこの先もただ漫然と続けていていいのだろうか。
なにが人生にとって大事なことなのか、などと一生懸命に考え議論した昔が懐かしくもある。
生きるために働くのか、働くために生きるのかと声にだせば、おかしくなって笑ってしまう。
なにかのために生きる、そう決断して、あるいはそう信じて生きるのはある意味簡単である。
なにかのためにとは必然であるのか、と考えることは終わりがない旅のようなものだ。
すべてには目的があるとは正しい思考の道筋なのか、目的とはなにを指すものなのか。
暑さに参った頭でゆらゆら考えていると、だれが考えているのかもわからなくなった。

1438きのこ

「自転車入門」 河村健吉 中公新書 ★★★
六〇歳になって、友人のすすめで自転車を買った著者はすっかり虜になった。
自転車で走るとじかに風を感じることができる、そんな思いだったのだろう。
車とはちがう、歩くのともまたおもむきが変わるのが自転車なのである。
二十代の頃にぼくは職場の先輩の影響もあってサイクリングを始めた。
そのころのことがいろいろと思いだされて、懐かしくもあり冷や汗の経験もあった。
ツール・ド・フランスなるレースがあることも知り、自転車でアルプスを越えることに感動した。
メルクスはその時代、ぼくたち数の少ない自転車好きたちの英雄であった。
自転車の効用というか、乗りだしてわかったことが書いてある。
歩くよりも遠くへ行けるのである。人はみな「遠くへ行きたい」と思うのかもしれない。
加えて、サイクリストはそうじて姿勢がいいというのである。
それだけでも充分に乗ってみたいと思うのではないだろうか。

「テレビ救急箱」 小田嶋隆 中公新書ラクレ ★★★
前作「テレビ標本箱」に続いてだが、表題にとくに意味はないとのことである。
がそういわれると、余計にテレビは現在の惨状から救えるのかという含意を感じてしまう。
テレビでの言説は恣意的なものが多く、論証に耐えられるようなものではない。
というよりは、狙いがそこにはなくて別にあるからだということがわかる。
だがしかし、厳然と影響力をもっていることはコマーシャルの多さで推察できるだろう。
『テレビの使命は「倫理」た「道徳」ではない。
放送コードにしたところで特定の団体の「苦情」や「圧力」への反応に過ぎない。』
まあそういうことであり、ポーズだけは一人前なのだ。
『他局の新番組の立ち上がりをツブすべく、時間枠を取っ払った大型特番を垂れ流す。
結果、番組の質は落ちる。が、みんなで荒めばこわくない。
というよりも、テレビ全体の質的低下は、番組制作のハードルが下がるという意味で、
現場の関係者にとっては歓迎すべき傾向だったりするのかもしれない。
うん、なんだか、「学力崩壊という国民的悲劇が、個々の受験生にとっては、
安心材料(だって、偏差値五〇の水準が低下すれば、
その分だけ自分の相対的学力は上昇することになるから)
になっている事情」と似ていますね。堕落』
うーん、日本的といってすませていけはいけないんだが…。

「なぜ、「あれ」が思い出せなくなるのか」 ダニエル・L・シャクター 日本経済新聞社 ★★★★
記憶のメカニズムはまだよくわかっていないことも多い。
だが現実には、日常生活のなかで忘れるという行為がわれわれを悩ませる。
『記憶のエラーは、基本的に七つのパターンに分類することができる。
それらを本書では、「物忘れ」「不注意」「妨害」「混乱」「暗示」「書き換え」「つきまとい」
と呼ぶことにする。
これら七つのエラーのうち最初の三つ――
物忘れ、不注意、妨害は、記憶が抜け落ちること、つまりなにかを思い出そうと努力しても、
ある特定の事実、出来事、考えを思い出せない現象のことである。
注意散漫なときにしたことが後で思い出せなくなったり、なにかが邪魔をして、
思い出したいことがどうしても思い出せない状態である。
これに対して残りの四つ――
混乱、暗示、書き換え、つきまといは、どれも脳の指令が原因で起こる。
つまり、記憶が不正確なものに変わってしまったり、
忘れたいと思っても忘れることができなくなるケースである。』
つまり逆の面から考えてみることもできるはずだ、と気づくのである。
もし、なにもかもを忘れることができなくなったらどうなるのだろうか。
記憶の天才と呼ばれた人たちにはそんな悩みがあったのではないだろうかと想像する。
そう考えると、忘れることは必要なことだと、ヒトの不可欠な機能だと理解できるのである。

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トホウ
「富士山のトビウオ」と呼ばれた古橋広之進さんが亡くなった。
往年の金メダリストだ。
ニュースでこのことを伝えた女性アナウンサーは、
ローマから「トホウ」がはいりました、と言った。
「トホウ」って?
訃報のことなんだろうな、きっと。

これを聞いて、トホホとなってトホウにくれる。

これは百姓読みだな。
百姓読み(ひゃくしょうよみ)とは、漢語の音読みにおいて、
形声文字の音符(旁や脚の部分)につられて、誤った読み方をすることをいう。

きっと後で注意されて、恥ずかしかっただろうな。
ことばの専門家であるアナウンサーなんだからなあ。

雨上がり
夜半に激しく雨が降り、寝つかれない夜になった。
思いのほか長引いた梅雨のせいでもあるのだろうか。
雨音が子守唄にはならなかった。

やまない雨はない、というようにいつしか朝になっていた。
まちかねていた犬と川沿いの道をゆく。

いつもの川は様変わりしていた。
水は茶色に濁り、水かさも増している。
あの魚や亀たちはどこに避難したのだろうか。

1443いつもは

1476雨上がり

雨に誘われてか、道端には蛙の姿があった。
はるかな山々はいつもとはちがった姿である。
もやのかかった頂は見えないが、そこにきっとあるのだろう。

1485蛙

1487煙る山並み

そろそろ梅雨明けなのだろうか。



プロフィール

ムッシュ

Author:ムッシュ
島を旅するときが楽しいですね。
遠くに眺めるのも好きです。
楽園なんてないんですけどね。

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