ムッシュの読書紀行
人生は旅のようだと言いますが、旅が人生かも知れません。 ぼくは活字中毒気味でもあり、旅はまだまだ続くでしょう。
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無頼派
引越の整理(おもに書籍担当)をしていたとき、こんな雑誌がでてきた。
懐かしいなあ、どこにいったのだろうと探していたのだ。
随分前に「鳩よ!」という雑誌がマジンハウスからでていた(現在は廃刊)。
発行日をみると、1992年2月1日とある。

1619坂口安吾

坂口安吾と太宰治は同じ無頼派とよばれながら支持層はすこしちがっていた。

安吾は大上段にふりかぶって渾身の力をふるっているようにみえるが、
なかなかのシャイで、照れ隠しでそうしているのではないかとあやしまれた。
しかし彼の社会にむける洞察は鋭く、多くの読者をひきつけた。
世間体というようなことは頭にないようだった。
既成の枠は、それゆえに嫌ったようなところがあるかもしれない。
どこまでも自由を希求していた。
また自由であるために必然的にともなう寂寥感をいつも漂わせていた。
ほんとうは弱い人間だったのかもしれないと思う。
しかしそのことは、本人自身がいちばん痛切に感じていたことだろう。

太宰は安吾と好対照をなしているようにみえた。
多くの女性ファンが彼をとりまいていた。
弱々しげにみえるがそれは彼の内面を忠実にあらわしてはいない。
弱いのではなく、実は空虚だったのではないかと思う。
だが一方で世間に認められたいという願望が強かった。
シャイに見られていたが、シャイを利用する狡猾さをもっていた。
常に見られているということを意識していたのだろう。
そのことを虚しいと思いながら意識していたのではないか。

たぶんこのように対照的とみられていたが、案外ふたりは似ていたのかもしれない。
安吾のこんな文章を読むと、そのなにものにもはばからない洞察力を感じる。

『大阪にミジメなものがあるとすれば東京に対する対立感が強すぎることだ。
人生は己の最善をつくせば足りるものであるが、
東京はこうだ、東京に負けまい、と考えることは二流人の自覚でしかない。
東京の人間は大阪に負けないなどと考える必要は毛頭ないのである。
もっとも、アメリカはこうだ、フランスはこうだ、という二流人はいます。
   「道頓堀罷り通る」より   』

わたしはやはり坂口安吾派である。

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ああせい校正
後世に残るような文学であれ、ふつうの作文であろうともまちがいだと指摘するには躊躇がともなう。
ことに漢字などは、それがふつうの単語であれ故事成語であれ書き手がどう考えて書いたのか。
そう考えると、いちがいにまちがっていると朱をいれることにためらいがはいる。
雑誌であれ単行本であれ、校正にたずさわる人の苦労が想像できるのである。
漱石は独特の漢字遣いで、はがきのことを「葉書」とせずに「端書」としたことはよく知られている。
芥川は馬鹿というのを「莫迦」と書くことも作品を読んでいると自然に憶えてしまうもの。
漢字はその一語一語に意味があるのでなお余計にやっかいなのである。
たとえば、こんな文章ならあなたならどう判断するのだろうか。
各地を点々と各地を転々とでは、どちらが正か、だが逆にひとり旅する雰囲気がでてはいまいか。

「夢に迷う脳―夜ごと心はどこへ行く?」 J・アラン・ホブソン 朝日出版社 ★★★
睡眠はだれもが毎日とっており、寝覚めのさわやかさを感じた日など気分もいいものだ。
体調が悪いときなど、早寝して明日に備えるなどということもよく経験しているだろう。
それに眠ると見る夢もはたしてどんな意味があるのだろうかと不思議に思ったりする。
だが、ではいったいどういう機序でそうなっているのかとなると、はてと首をひねるのである。
(であるから、逆に夢判断などというものもでてくるのだ)
眠っているあいだに確かになんらかの過程が進行しているようではある。
その心理学的、生理学的意味を長年研究してきた著者のことばには説得力がある。
『覚醒状態を媒介する脳の化学系はアミン作動系と呼ばれている。
そこで作用している分子はアミンである。
夢を生み出す化学系はコリン作動系と呼ばれ、その分子はアセチルコリンである。
この二つの化学系は動的な平衡状態にある。
つまり、すでに見てきたように、意識状態は絶えずゆっくりと覚醒と夢の両端を行き来するものである。
その両端にある時でさえ、アミン作動系(覚醒)とコリン作動系(夢)は共に活動を行なっている。
この二つの系の優位性は相対的なものであり絶対的ではない。』
ちなみにコリン系とコリン星にはなんら関係はありません(笑)。

「お言葉ですが… 別巻2」 高島俊男 連合出版 ★★★★
明治以降に日本語をどうするのかといった議論があったことは知っている。
漢字廃止論とかローマ字にしようとか、英語にはてはフランス語に(これは志賀直哉だな)とか。
言語というものの本質を見極めない意見も多かったようだ。
いまでもそうだが、話しことばと書きことばのちがいがわかっていないことに誤解の原因がある。
『総じて改革論者は、これから自分たちが使う、ということしか考えないが、
書記言語の役割は、それは半分であって、あとの半分は昔の人の話を聞くことなのである。
というと「伝統」ということになり、伝統というとりっぱなものみたいになってしまうが、
りっぱであろうとなかろうと、われわれは昔の日本人が言ったり考えたりした
ことの上に立っているのである。それ以外に立つ瀬はないのだ。
イギリス人が口頭言語にあわないスペリングを使いつづけるのは、それをやめてしまったら
昔のイギリス人と話ができなくなる、というのが重要な理由の一つなのである。』
そうですね、書き言葉と話しことばは性質がちがってくるのはあたりまえのことです。
言文一致運動もこんなところに思わぬ弊害(?)をもたらした、といえるかもしれない。

「再婚者・弓浦市」 川端康成 講談社文芸文庫 ★★★
すぐれた文学には、それが哲学や科学理論の先駆をなしているものが。
あるいはそうした業績に触発されて物語りがはじまったりするようである。
『京子は鏡台の手鏡を取り出して、よく晴れた空をうつしてみた。
また、自分の顔を手鏡のなかにながめた。奇怪なことを発見した。
自分の顔は鏡に写してでなければ見えない。自分の顔だけは自分に見えないのだ。
鏡にうつる顔を、目でじかに見る自分の顔であるかのように信じて、毎日いじくっている。
神は人間を自分の顔が自分で見えないようにつくったのに、
どういう意味があるのだろうかと、京子はしばらく考えこんでいた。(水月)』
あの鋭い眼光をほうふつとさせるような文章である。すこし気になったのは次のこと。
本書は、『川端康成全集』第八巻(一九八一年三月 新潮社刊)を底本とし、
新かな遣いに改めて多少ふりがなを加えた。

巻末にこうあったが、かな遣いであれ文学作品に手を加えるとはどういう感覚なんだろう。

テーマ:読んだ本。 - ジャンル:本・雑誌

続不可知論
人間同士はたがいにすべてを理解きるかという問題を再考してみる。
ヒトは集団(社会といっても同じ)で暮らすことを基本とした動物であることは経験的に知られている。
もちろんどんな動物でも平均からはずれた行動をとるものが必ずいるが、ここでは言わない。

人間の場合、社会生活のなかでことばによるコミュニケーションで関係を円滑化している。
(いうまでもないが、ボディランゲージなども重要なコミュニケーション要素だ)

では、相手のこころにある感情、意識を知ることはできるのだろうか。
自分のこころにうかぶ感情から、推理することはできるのだろう。
だが、知ることと推察することは同義だとはいえない。
だが、推察することによって理解したと考えることは可能だろう。

このように考えるとき、なにが問題であるかがわかってくる。
つまり「理解することは可能だ」が「推察により理解に達することは可能だ」と同じになっている。
もしくは、理解する→理解できる→理解できないはずがない、と変化しているからではないか。
そうした心理的な変化は個人のなかにあるのだが、本人は気づかない。
だから、同じことを言ってるのに(実はおなじではない)なぜわからないのか、となる。

これでは同じことばを話しているが、そのことばは同じ意味をもっていないことになる。
いつまでたっても平行線であるし、なぜかみ合わないのかがお互いわからない。
たとえば、温度28℃の室温は、暑いのか寒いのか(快適もあるが)という質問と似ている。
ある人(女性の場合が多い)にとっては、ちょうどよかったり寒かったりする。
だが多くの人(男性が断然多い)にとっては、かぎりなく暑いのだ。

昨日の例をもういちどつかってみよう。

「あなたは、わたしのことをちっとも分かってくれないのね」
(わかろうとする姿勢が、私には感じられないもの)
(それに、私の話していることを真剣に聞いていないんじゃない)
(それが哀しいし、口惜しいのよ)

「そんなことはないよ、よく理解しているつもりだ」
(わかろうとしているんだけど、そう感情的になられてもね)
(論理的でないから、どう筋道立てて話していいかわからないよ)
(つまりはどうしろってことなの?)

「いいえ、口先だけで分かろうとなどしていないわ」
(誠実さがないのよね、残念ながらあなたには)
(分かっているというのなら、態度にでるはずよ)
(おまけに人のことを莫迦にしてるでしょう)

などと話されていることばとその裏にある意味が、たがいにちがっている。
たがいに歩み寄り理解することにつとめようとしてもそもそもの始まりがちがうのだ。

すべては理解が可能だとする人と、他人には理解できないことがあるとする人がいる。
可能派は、すこしのくいちがいも理解が足りないと不満である。
一方、不可能派はすこしでも理解できたことは前進だと感じるのである。
同じ程度の理解があってもその評価はまったくちがってくることになる。

数学の概念をつかえば、1と0.99999…のちがいになるかもしれない。
いや、これは同じものを表わしているのである。
1を1で割るときに、最初に0.9で割り始めると果てしなく9が続くのだ。
つまりは同じものが理解の仕方がちがっただけで別のものになるのである。
このちがいが理解できなければ、不毛の言い争いになるしかない。

♪ 男と女のあいだには ふかくて暗い河がある ♪

という歌の文句のほうが言い得て妙である。
だがわたしとしては、こちらの歌のほうが好みである。



不可知論
英語でのagnosticismを日本語では、不可知論という。
人はすべてを知りえるかと考えてみたときに、どうしても知りえないものが残る。
それは死後の世界(経験したという人もいるにはいるが、経験したということを証明はできない)、
神の存在(なかには私が神だという者もあるがそれも同様証明できていない)などは、
だれもが納得できるような客観的認識には到達することは不可能だ、とする哲学的立場のことだ。

用例としては、「ぼくは女性に関しては不可知論の立場をとるね(笑)」などとつかう。

そんな哲学のことなどわからないし、興味がないという人がいるかもしれない。
だが現実生活のなかでも、似たようなことにしばしば遭遇しているのである。

たとえば、こんな男女の会話を聞いたり(あるいは言ったり)したことがないだろうか。

「あなたは、わたしのことをちっとも分かってくれないのね」
「そんなことはないよ、よく理解しているつもりだ」
(男としては、理解しているが肯定するかどうかは別問題だという気持ちがある)
「いいえ、口先だけで分かろうとなどしていないわ」
(理解しているというなら、絶対服従行動がなぜとれないのかしら)

陳腐なステレオタイプである。
しかし、ここには実に男女(個人というべきか…)のちがいが如実にあらわれている。
女はことばの意味に恣意的な部分が多すぎはしないか。
男はどうしてそう衝突を避けようとするのだろうか。

女の立場からすれば、努力すれば必ず私の心情を理解できるはずだという思いがある。
さらには、(私の気持ちが)分からないのは努力が足りないせいにちがいない。
当然ながら、自分は正しいというゆるぎない認識があることはいうまでもない。
(これまた当然ながら、正しいとはなにかという設問自体が無意味である)
(私がルールブックだと言った審判がいたが、おなじような心理なのだろう)
(このあたりは原理主義かとも思うが、変幻自在なのかもしれない)

男は、どうすればいいのだろうか、としばし考える。
やがて水流るるごとくに導かれるのは、諦観でしかない。
おたがいに(というよりは、あなたは)理解できるはずだとする立場と、
人間同士わかりえないことはある、と考える立場では観る方向が正反対なのだ。
わかり合おうとする立場すらも、女からは不十分であると裁断される。
つまりは私(女)の言うことが正しいと認めよ、ということにほかならないと気づく。

いろいろと説明すること(それは雄々しい【女々しいは差別語】言い訳だ)は不要である。
ただ唯諾々と聞き入れていれば(あるいはそう思わせていれば)いい、ということになる。
だがそこには細心の注意が必要であることはいうまでもない。
面倒臭そうに(こういう男が多い)答えるというまちがいをしばしばおこすからである。
(こういった態度がさらなる怒りのエネルギーの点火につながることは否めない)

よって、男は秋の空のように変わりやすい女心の本質(?)は知りえないと結論づける。

3011男と女

友西方より来る
関空での出発までに時間があるので、よかったらちょっと。
そんな電話が相方にあって声をかけたら総勢七名になった。
大阪駅の高層ビルのなかでいっぱいやることになった。

わいわいがやがやと数時間はあっというまに。
彼は風のように来たり、きんと雲のように去っていった。
のだが、なんとこんなものを残していったのだ。

4894豆腐のみそ漬

「どこに豆腐があるんだ?」
「さあ、一体化しているのかも」
「うーん、では一味」

これがなんとうまい!!
馥郁としたチーズをおもわせるような味わいである。
濃厚でありながら味噌の風味がさっぱり感をだしている。
これと芋焼酎がぴったりである。
さすがにO君はうまいものを知っている。
(ごちそうさまでした、というか夜毎ちびちびと味わっております)

いまごろはバリ島でのんびりいっぱいやっているのだろう。

(こちらはちびっ子の来襲で大変なことになっているのだ)
(静かに過ぎ去るのを待つしかない)
(しかし、こどもってこんなに騒々しかったかな)
(我が幼年時代をふりかえると隔世の感あり)
(親戚の家に行っても、黙っておとなしく座っていたものです)

テーマ:真鍋島の愉快な仲間 - ジャンル:旅行

桂小米
ひさしぶりに後まではっきりと憶えている夢を見た。

どこかへ旅行にきていたのだが、とある場所にやってきた。
たくさんの人が集まってにぎやかに宴会がはじまった。
向こうの席にやってきた人はだれだと思っていたら手招きされた。
にこやかな顔をした落語家の桂小米だった。
紹介されて、ではいっぱいと思ったら酒がない。
あたりを探すがすべてからっぽの酒瓶ばかりだった。

知り合いのYちゃんが底のほうに一センチくらい残っているボトルをくれた。
さあと思って席に戻ったら、彼はいなかった。
どこへいったのだろうと思っているとどこかから出囃子が聴こえてきた。

騒がしいのでよくきこえない。
「みなさんお静かに願います」と言ってから窓の外を見る。
すると向かいの屋根に誰かが上から降りてきた。
赤ちゃんのするような黒い腹掛けひとつの桂小米だった。
屋根先まできて、むずかしそうな不機嫌そうなしかめ面をしていた。

カメラで撮ろうと思ったが、宿に忘れてきていて手元になかった。
となりの奴からひったくるようにとったが、どうもうまくピントがあわない。
あせりながらも遠くからきこえてくる落語はテープだなと思った。

いつのまにかどこかにひとりで立っていた。
風がすごい勢いでビュービューと吹き渡っていた。
もう彼には会えないんだと思って涙がでそうになった。

4893葉隠れ

そこで目が覚めたのだが、うら哀しい気分はしばらく残っていた。
たしかに桂枝雀ではなく桂小米だったのだ。

高等無形
ときとして、どうしてこんなことを人は信じるのだろうかというような場面にでくわす。
だれでも日常慣れ親しんでいることがらにはそれなりの一家言をもっていたりするものだ。
だからか、だれもがあまり経験したことがないようなことについては逆にあっさりと納得してしまう。
論理が論理の体をなしていないものでも疑われることがなかったりする。
その背後に権威やそれをにおわせるような存在が見えかくれするようになっていたり。
まさしく荒唐無稽なのだが、そのときは集団催眠にかかったかのようで気づかないのである。

4892投影

「ぼくの歩いた東南アジア」 村井吉敬 コモンズ ★★★★
「エビと日本人」(岩波新書)でおなじみでもあります。
東南アジアを歩いたフィールドワークの写真がふんだんに掲載されていて愉しい。
しかし、その写真も見方を変えるともの哀しくもなるから複雑である。
『いちば(市場)がいちばん面白い。どこの国のどこの町でも、いちばを見に行く。』
もちろん、なにかを買うためにというのが目的ではない。
そこには人々の日々の暮らしのありようがつつみかくさずにあらわれているからだ。
この文章を読んだだけでも筆者がアジアを肌で感じようとしていたことがわかるだろう。
だから旅行者だとあなどられてぼられたなどと嘆いてはいけないのである。
『金持ちから多くとるという値段の交渉は、ある意味で「民主的」である。
ただし、交渉を楽しむ心の余裕と、吹っかけられて高値で買っても動じない、
そんな気持ちの余裕がないと、疲れる。チップもケチってはいけない。』
こう達観できれば、アジアの旅はもっと愉しくなるのかもしれません。

「夜明けのフロスト」 R・D・ウィングフィールド他 光文社文庫 ★★★
七編のクリスマス・ストーリーが集められたものである。
執筆陣は、エドワード・D・ホック、ナンシー・ピカード、ダグ・アリン、レジナルド・ヒル、
マーシャ・マラー&ビル・ピロンジーニ夫妻とR・D・ウィングフィールドという豪華メンバーだ。
ではあるが、やっぱり最後のフロスト警部ものがいちばん楽しく読めた。
それぞれが短編だからだろうか、余計に魅力の差がつくようだ。
フロストとマレット署長の確執というか、かけあいのおかしさは他の追随をゆるさない。
フロストものを読んだ後では、他のミステリがなぜかきれいごとに思えてくる。
そんな副作用(?)があることはあるが、やっぱり読みたくなる魅力は群を抜いている。

「大人は愉しい メル友おじさん交換日記」 内田樹/鈴木晶 冬弓舎 ★★★★
おたがいに大学教授でありながら接点がなかったのだが、ブログで出会う。
もちろん出版を意識してのことであるのだが、やはり内田先生の言には耳を傾けてしまう。
いろいろと意見を交換しているのだが、そのなかでネットと書物の関係についてのこんな分析。
世間ではその評価、批判が両極端だなあ、とはいつも思っていたのである。
『(内田)書物は知への「シーケンシャル・アクセス」のツールであり、
パソコンは知への「ランダム・アクセス」のためのツールです。
この二つには、構成的には「小説」と「百科事典」くらいに違います。
「小説」にキーワード検索をかけて読む人はいませんし、
限定的な情報を求めて「百科事典」を「あ」から読む人はいません。
「百科事典的」な多様で広範囲な情報を要する学術研究では、インターネットが有効でしょうし、
一人の人間の頭脳の中に構築された「思考の伽藍」を取り扱う場合は、
書物の方が有効であると私は思います。
それぞれの適性にあったツールの使い方を学生たちは学んでゆけばよい、と私は思います。』
よく議論のおこるところであるが、どちらが正とは考えないで利点を柔軟につかえばいい。
なんとかとなんとかは使いよう、と言うではないですか。

テーマ:読んだ本。 - ジャンル:本・雑誌

コーヒーブレイク
日曜日には庭の草むしりが課題でだされていた。
芝が花壇の部分まで侵蝕しているのでこれをなんとかせねばいけないという。
日中はまだまだ暑いので作業は夕方からがいいんじゃないと言われる。

まだ昼前のことである。
こんなところにカフェがあるよ。
六甲山中だけど我家からは近いものだ。

車で狭い道にはいるのを見過ごしたりしながらなんとかたどりつく。
気温もちょうど20℃をすこし切るくらいでちょうどいい。

カフェオレもこういうところで飲むとうまい。
あいかたはアルグレイとケーキセットか、ふーむ。
なんだか満足そうな顔をしている。
人間やはり食べものには素直に反応するようだ。

4886カフェオレ

三国池まで十五分くらいですよ。
それなら歩いてみようということになった。

六甲縦走路の案内標識がいたるところにあり、ときおりハイカーといきちがう。

静かな水面はもう秋の空を映していた。

4888水面の雲

(帰ってからちゃんと草むしりやりました、汗だくになりながら…)
(こうしてすごす一日もいいものである、ほんとうに)

多様性
ときとして生物多様性を守らないといけないなどという意見をきいたりする。
それは確かにそうだとは思うのだが、その多様性なるものの正体とはなにかと考えるのだ。
多様性のなかにゴキブリ、蚊、ハエ、爬虫類などはどうもいれてもらえないようなのだ。
これってなにか優等生だけの社会をつくろうなどという運動と似ているような気がする。
開発だなんだかんだとやらなければ、けっこう多様性は保たれるのではないかと反論したくなる。
人類の数が増えすぎているのに少子化対策なんていってるのは地元優先とおなじじゃないか。
という考えがついうかぶのであり、地球号乗員の立場としては正直な感想なのである。

1506トカゲ

「かけがえのないもの」 養老孟司 新潮文庫 ★★★★
ときに「かけがえがない」などと形容される言い草が嘘っぽくきこえるのはなぜか。
それは言っている本人が「かけがえがない」ということの意味を知らないからだと思う。
『かけがえのない命と言う場合、一般的な命のことを言っているのではなく、
ある人の、ある個体の生命を言っているのです。
自然保護運動でよく「かけがえのない自然」という言葉が出てきますが、
これは私からすると同語反復です。
自然というのは、はじめから常にかけがえがえのないものだからです。
ある山に生えている木の状態というのは、けっして回復しません。
いったん切ってしまえば、元の状態になることはありません。
それは我々の一生を見ればすぐわかると思います。』
どうです、この鋭さは。だから養老先生の本は読まずにはいられないのだ。

「ナンシー関 リターンズ」 ナンシー関 世界文化社 ★★★
著者の名前はきいたことがあったが、なにを生業としているかはよくは知らなかった。
亡くなられたということを耳にしていたので、ふと目についた本書を読む機会になった。
この消しゴム版画というものにはお目にかかったことがある。
なかなかおもしろいコメントがついているなあなどと思ってはいたが、それだけだ。
テレビ批評のようなコラムを書いていたようだが、やはり小田嶋氏の域まではいっていない。
というよりも男と女の視点のちがいがあらわれているのかもしれないな。
ところで、ナンシー関自伝という文章で代々父は40歳で亡くなっているという話がでてくる。
そして彼女はくしくも40歳でこの世を去った。
この事実になにか符合を感じる人がいるかもしれない。

「審判」 ディック・フランシス&フェリックス・フランシス 早川書房 ★★★★
いまや親子で書いているフランシスだが、やはりその魅力は衰えていない。
今回は法廷弁護士にしてアマチュア騎手であるジェフリイ・メイスンが主人公だ。
そのなかでも興味深いのはイギリスにおける弁護士制度のことである。
弁護士にはバリスタ(法廷弁護士)とソリシタ(事務弁護士)の二種類が存在するのである。
制度上の上下関係はなく、異なるのは職務内容なのである。
そして法廷弁護士は当事者から直接依頼を受けることが原則としてできない。
この伏線を考えながら本書を読んでゆくと、いろいろとおもしろい点がみえてくる。
まだもう何作かはディック・フランシスに書いてもらいたいと願うのである。

1595鯉

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人間
人間と書いて、「じんかん」と読むとなんどか読んだことがある。
欧米流に人は自立するのが理想だ、とは考えないのである。
人は人々の間で暮らすから人間(にんげん)なのである。
というような(ちょっとちがうか!)ことを言っていたようである。

4877東大ワイン

新しい住居に移って、はじめて友人がやってきた。
なにか相談しないといけないようなこともあったようだが…。
いつでもできるものは、いまやらなくてもいい。
これがぼくのスタンスである。
(この考え方でいくどか修羅場を経験してきた)

4881春鹿

それでも愉しい会話とまずまずうまい酒があればいい。
そんなに多くを望まなくなる、ということでもない。
なにが多くをは人によってちがうということが最近やっとわかってきた。
(遅かりし由良乃介である)

友のなにか言っている声をききながら呑む酒は旨いのである。

4884大魔王

望見心
高いところから下界をながめれば、ふだん見えない隅々までよくわかるような気がする。
だから、なんとかとなんとかは上にのぼりたがるということがある。
同じ平面にいては見えない、気づかないことがどうもあるようなのだ。
そう思いつつふと考えるのだが、これは入れ子構造になっているのではないか。
さらなる高みは存在しないとは決して証明されえないのであるから。
もっと高いところからながめれば、存外つまらないということになるのかも知れない。
ではあるが、それが高みへ向かわない理由にはなりえないところがヒトのヒトたる由縁なのだろう。

「ケプラーの八角星 不定方程式の整数解問題」 五輪教一 講談社ブルーバックス ★★★
こうした数学の問題に対する態度は、おおまかにいってふたつあるようだ。
否定派はそんなことを考えてどこがおもしろいのか或は役に立つのか、と問い返したりする。
でもとにかく考えてみればというと、よくよく考えもしないで、はなからわからないと匙を投げる。
肯定派はどれどれどういう問題だ、なるほどねえ、こうすればこうなるのではないかなどと…。
考えること自体がいかにもおもしろいというような反応をしめしたりするのだ。
どちらがどうだということではないが、楽しいことをやろう(だから、それが楽しくないのだという)。
Stella Octangula(星型八面体のことだ)、なんて美しいんだろうと思いませんか。

Stella_octangula.png

この形についてのいろんな法則というか話が、なりたちが知りたくないだろうか。
だから、幾何は嫌いなんだってば、などという声が聴こえてきそうである。

「養老孟司の旅する脳」 養老孟司 小学館 ★★★
旅して出会う自然は景色だけでなく、ときにその地に暮らす人々であったりする。
風俗・習慣と大げさに言わなくても、食べものであったりもする。
どこの地方でもそこに住む人はそこに根付くかのような生活をおくっているのだ。
『顔以外に、手足が長くて八頭身というのも、今の美人の条件だそうだが、
そもそも人の体形は、その土地の気候に適応して変化してきているのだ。
寒冷地に適応したモンゴロイドに属する日本人にあてはめるのは、無理があると言わざるをえない。
 アフリカに行くとわかるが、八頭身の人はたくさんいる。
暑い気候に合わせて体表面積を大きくしているのだ。
体から熱を逃がさないと、熱中症になってしまって暮らせないから、手足の長い人が多いのである。
手足が短く、ずんぐりした体形のモンゴロイドには、アフリカのような気候はつらい。』
こうした条件もいつから言われだしたのか知らないが、未知への興味の裏返しであるのかも。
もちろんどちらが優れているとかということではないのはよくお分かりだと思う。

「純粋ツチヤ批判」 土屋賢二 講談社 ★★★
土屋先生の文章はふざけているのか、どうなのか判然としないところがある。
人生なんてそう堅苦しく考えるものではないだろう。
かといって気楽にもなりきれないというか、気楽にやること自体がそう気楽ではないのである。
『束縛が多いことに不満を抱くと、自由に空を飛ぶ鳥になりたいと願う。
だがいざ鳥にしてやると神に言われたら、だれもが断るだろう。
鳥になると一日中食べ物を確保するのに追われ、風雨に耐え、自分の命を狙う動物から
身を守りながら一瞬も気の休まらない短い一生を送り、その上、毛虫を食べなくてはならないのだ。』
ものごとをスッパリと割り切ってみせる人は、怪しい感じがするのである。
そう割り切れるものであろうか、割り切るとはなにかを捨てることになるのではないか。
『「ひとり旅」……孤独を愛するものがする旅行。もっと孤独を愛する者は二人旅を選ぶ。
ふたりで旅行すれば必ず溝ができ、ひとり旅よりずっと深い孤独を味わえる。』
逆説のユーモアが多くのファンを獲得する理由なのであろうか。

テーマ:読んだ本。 - ジャンル:本・雑誌

湯かけ爺
先日の竹田城址からの帰りに「よふど温泉」に立ち寄ったときのことである。
午後の三時前なので駐車場は車の姿もほとんどない。

では四時に休憩所で待ち合わせということで男湯へ。
浴室に入ると、洗い場のところでからだを洗っている人がひとりいるばかりだ。
露天風呂も先客はたったひとりきりで、昼間とはいえぜいたくなものだ。
のんびりとした気分で湯に浸かってふたたび屋内の湯殿にもどる。

さきほどの男性がまだシャワーの湯を流しているのが視界の隅にみえた。
なかなかのきれい好きなんだろうな、と思いつつ身体を洗う。
さっぱりしたところで、ふたたび湯にはいるがまだシャワーの音がする。

さりげなく見やると、シャワーのカランを器用に足でおさえながら湯をあびている。
シャンプーをつかうでもなく、際限なくシャワーの湯を流しているのである。
時計をみるとここに入ってきてから40分ほどが経過していた。

その間ずっとシャワーをあびていたというのか、流していたことになる。
不思議な御仁もいるものである。
なにか理由があるのだろうか、とも考えたがわからない。

湯からあがって休憩していると、例の男性がスポーツドリンクを片手にやってきた。
テレビを見て笑いながらいかにも満足そうな表情で飲んでいた。
温泉好きといっても、いろんな楽しみ方があるようだ。

1611よふど温泉

空中城址
遅めにとった夏季休暇もほとんど引越関連でついやしてしまった。
一泊旅行でもと思ったのだが、なかなか意見調整はむずかしい。
(別に仲がわるいというのではないが、行動の一致をみることがなかった)

でも一日ぐらいはどこかへ行こうということで意見がまとまった。
善は急げであるということで、行き先は朝来にある竹田城址になった。
中国自動車道から舞鶴若狭自動車道、北近畿豊岡自動車道を経て向かう。
車の少ない道路を走って、家からちょうど100キロぐらいの距離だ。

1546石垣

山間の駐車場には車が二、三台停まっていた。
先客の男性が登山道は急だからよしたほうがいいですよと教えてくれた。
山城にのぼると、風がわたってとても気持ちがいい。
石垣の上にあがると、はるかな下に町並みがみえる。
川沿いに線路が走っていて、どこかで見たことのある光景だ。
学生の頃に旅した津和野城址からのながめを思いだした。

1512城下町

ここ竹田城跡はインカ帝国のマチュピチュに似ているともいわれている。
また宮崎駿が「天空の城ラピュタ」の着想をえた場所であるともいう。
このベンチに腰掛けていろいろと物語をかんがえたのだろうか。

1562山城

1554ベンチ

ここからのながめはじつに素晴らしかった。
だが、その気分も実際にここに立ってみなければあじわえない。
旅とはそういうものではないだろうか。

1606はるか

帰り道には湯につかり、のんびりとした一日であった。
そんなとき、ふと幸せとはなんだろうとも考えるのである。

テーマ:日本文化 - ジャンル:学問・文化・芸術



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Author:ムッシュ
島を旅するときが楽しいですね。
遠くに眺めるのも好きです。
楽園なんてないんですけどね。

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