ムッシュの読書紀行
人生は旅のようだと言いますが、旅が人生かも知れません。 ぼくは活字中毒気味でもあり、旅はまだまだ続くでしょう。
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スタイル不変
その男は両手をポケットにつっこんで歩いてくる。
大きな格子縞のベージュの上衣を着ている。
裾を両脇にたくしこむようにして、すこし胸は張り加減。

白いワイシャツにズボンはすこし色の褪せたブルーだ。
ブルー系の細いネクタイはどうにもはっきりしない柄だ。
靴はずいぶんと磨かれていないようにみえる。
どことなく全体にうすぼんやりした印象をうける。

細面の顔に眼鏡をかけ、ベージュのハンチングをかぶっている。
いつもにやついているかのように感じられる。
背丈は165cmにたりないくらいだろうか。
サラリーマンではなく自由業の雰囲気がある。

1742紅葉

どこからきて、どこへゆくのか。
すれちがうたびにそんな疑問をいだかせる御仁なのである。

出会うときはいつもきっかりこのスタイルである。
この洋服しかないのであろうか。
それともこれがことのほかお気に入りであるのか。
あるいは、同じ服を何着ももっているというのだろうか。

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懐疑論者
懐疑論は基本的原理や法則とよばれるものであっても、すべてはまず疑うことから始める。
疑って検証することによって、その後に残るものが普遍的な原理・法則だとする立場だ。
であるから懐疑を寄せつけないものは、本来的に疑わしい(偽物)ものだということになる。
あたりまえであることを疑う、あるいはほんとうにそうなのかと考え切り込んでゆくのだ。

ある意味、すべてを疑ってかかる妻は懐疑論者である、といえなくもない。
(哲学なんてわからない、と口ではいう妻も立派な懐疑論哲学派である)
懐疑論者の妻をもつ夫ははたしてどういう窮地に追い込まれるのか。
よくある会話から考察してゆくことにしよう。

「遅くなった理由は急な仕事がはいったせいだよ」
「そうなの、ごくろうさま」
(ベテランの妻なら夫の言い訳を信用していなくても、一応はこう返すだろう)
「同僚の田中さんはお元気?」
「ああ(やや不審げに)、元気だけど…」
「さきほど奥さんから電話があって話してたの」
(続きがあるかと待つが、沈黙がつづく)
「そうかい、なにか言ってた?」
「なにか用でもあったの?」
「いや、別に…」

1725灯り

これで夫はしばらく疑心暗鬼にすごさなければならない。
(やましいことがなければ気にすることはない、と他人は気楽に言う)
(現実はそう単純ではないのである、無実だと叫ぶと逆に疑われたりする)
(人は自分の想像したように事実を解釈しがちだ、だからこそ心配なのだ)
(これまでにも日本の家庭でどれだけの冤罪があったことだろうか)

そういう話ではなかった。

「でも懐疑って、疑うってことでしょ」
「そうだよ、すべてを疑ってより正しい認識に到達しようというのだよ」
「それって、人間としてどうなのかしら」
「えっ、どういう意味なんだ」
「人を信じるってことも大切なんじゃない」
「それはもちろんそうだが、信じるためにもまず疑いをはらす必要があるだろ」
「わたしになにか疑わしいことがあるっていうの?」
「べつに君を疑っているということじゃないよ」
「じゃあ、信じてるの?」
「まあ、信じているといわざるを得ないな(苦笑)」
「ならいいわ、それからこのバッグ買ったの、いいでしょ?」
「いいよ、よく似あってるね(苦笑)」
(どうしてこう女性はバッグが好きなんだ?)
(この流れでこのセリフって、うーむ、完璧に自家薬籠中だな)

※これはあくまでもフィクションである。

IKEAにて
人工島にあるショップへは平日にしか行かない。
いちど休日に訪れたときはたいへんな混みようでこりた。
休日出勤の振替で休みをとって、ひさかたぶりにでかけた。
それでも閑散というのではなく、かなりの人がやってきている。
けっこう遠くからも来ているのが車のナンバープレーでわかる。

今回は、リビングに食器を収納できるものがないかというテーマ。
とはいえやってくると、いろんなものがあってつと注意がそれでしまう。
時間はいくらあっても(もちろんお金も)足りない気分になってしまう。

5023星

まあ、見るだけでもけっこう楽しいものだ。
ふたりでああでもないこうでもない、と批評してまわる。
これが関西人(神戸、大阪、京都でちがうが)の楽しみなのかもしれない。

5025照明

そんなに買物はしなかったがそれでも一万円余りになった。
ソファもバイト料がはいったら買ってもいいかな。
それとも競馬で当てたらなどと言ってると、軽く鼻であしらわれた。
(そんな言い草が、いまでは山となし崩れそうだという)

秋の陽はつるべ落としという。
ではまた次回ということで。
(なんとでもおっしゃってください、という眼でジロリ)

紅葉カフェ
三休日の最終日、家にいてばかりではもったいないとて出かける。
最近では、古民家を再生してそこをカフェとかレストランにする。
そんなことが流行で、それを地域おこしなどとも呼ぶらしい。

1738田舎

さびれつつある地域を活性化(その意味はよく知らないが)しようということだ。
ここは「genten」というが、原点の意だろうか。
それとも原典、あるいは減点、そんなはずはないな。

1740genten.jpg

まあ、どうでもいい。
古民家といってもその家の古び具合(?)はさまざまである。
天井が低い造りで、畳も波打っていたから相当古いのだろう。
こんなおもしろい照明器具があった。

1727土星か

土星のようで空中にうかんでいるのだ。

来る途中に「岩瀧寺、紅葉まつり」の幟りをみる。
ではと立ち寄って、ひとり200円也の入山料を払う。
しかしながら、もみじの葉はすでに散って盛りはすぎていた。
ではあるが、深山幽谷の風情のあるいいところだ。
滝からながれてくる清水がすがすがしいのである。

1744紅黄葉

ボウキャクの彼方
「忘却とは、忘れさることなり…」とは「君の名は」にでてくる有名なセリフである。
しかしこの前半部分ばかりが人々に記憶されていて本来の主眼たる部分が忘却されている。
それはこう続くのだった、「…されど忘れえずして忘却を誓う心の悲しさよ」。
つまり忘れられない心情を言うための反語的レトリックなのだが、この部分はあまり人気がない。
灰色の判定より歯切れのいい断定ほうが、人びとの記憶に残りやすいのは事実である。
人気のある某客人、評論家、政治家の言動をみてみれば一目瞭然である。
だがすっきりとした結論ばかりに注目していると、後々におおきな失敗を招くことがある。
過去にもこうした失敗を経験しているのだが、ヒトは忘れる動物ゆえかふたたび繰り返す。

1752緑と赤

「寺田寅彦は忘れた頃にやって来る」 松本哉 集英社新書 ★★★
夏目漱石の弟子としても有名な存在である。
だが、いまはことわざともなっている「天災は忘れた頃にやって来る」との格言がある。
「天災は忘れられたる頃来る」が本来らしいが、これを書いたものは見つかっていない。
伝説的に伝わった言葉なのである、らしい。
物理学者であったが型にとらわれた研究ではなく身近なところにある疑問に取り組んだ。
そのエッセイは身近な疑問に端を発して宇宙の不思議につながってゆくようだ。
まとまって読むこともなかったのだが、これを機に秋の夜をともにすごすのも悪くはない。

「進化の傷あと」 エイレン・モーガン どうぶつ社 ★★★★
人間はそれまで住んでいた森をはなれてサバンナで暮らすようになり進化したという「サバンナ説」。
それに対してまっこうから異を唱えるのが著者である。
人間の祖先は遠い昔、ある一時期を水辺や水中ですごした。
そしてその水生生活こそが、人間という種をつくったのだという「アクア説(水生類人猿説)」。
直立するという行為は水中にいるときにいちばん負担が少ないという例証をあげて説明する。
以前読んだ「裸のサル」デスモンド・モリス著にもヒトの背中の体毛の流れがそれ指し示していると。
確かにこの説は魅力的だ。だが、抵抗も想像をはるかに越えるのだろう。
『体毛を失って以来、人間の皮膚は紫外線を防ぐために、それに代わる防護策を編み出してきた。
皮膚のいちばん外側の層いちめんに、クモのような形をした小さな細胞(メラノサイト)が
ちりばめられており、それがメラニン(ギリシャ語で“黒色”の意)と呼ばれる物質をつくり出すのだ。
メラノサイトが紫外線にあたると、メラニンの形成が促進される。
メラニンは周囲の皮膚細胞中に入りこみ、一つ一つの細胞膜の、
外界に近い側を覆う小さな日傘となる。
この働きによって皮膚の色は黒っぽくなり、紫外線はそこに吸収されて、
細胞の中までは届きにくくなるのだ。
黒人はこの天然の日傘を、終生そなえているわけである。』
知ってはいるが、日焼けした小麦色の肌の魅力を打ち消すことはむずかしいのである。

「鉄ちゃんアナウンサー羽川英樹の「鉄漫」関西ぶらり列車旅」 羽川英樹 扶桑社 ★★★
鉄道好きの人のことをいつからか「鉄ちゃん」と呼ぶようになった。
そんな鉄ちゃんにひとりが書いたまあ、ガイドブックというようなものだろうか。
こんな旅のしかたももありますよという究極の鉄道好きなら考えるものがある。
大阪駅から環状線の次の駅「福島」までの切符120円を買ってスタートするというもの。
大阪→(新快速、湖西線)近江塩津→(新快速、北陸線・琵琶湖線)草津→
(草津線)柘植→(関西本線)加茂→(大和路快速)西九条→(環状線)福島
でやっと到着、トータル6時間15分、総距離337.5km(新大阪から広島までくらいの距離)だとか。
ただし、合法なのだが一応説明用に地図と計画コース表持参が無難とということです。
しかし途中下車はできないし接続時間もすくないので弁当飲み物の用意が必要です。
なんて、考えるだけでも楽しいではないですか、ってわかる人にしか味わえない楽しみですなあ。

テーマ:読んだ本。 - ジャンル:本・雑誌

ボウカン能はず
気温の低下とともに、木々の葉が色づいてくるのを見るのは楽しいものだ。
こちらは窓の内側にいて、温かい飲み物などを手にはるかな山なみの茜をながめる。
ガラスで隔てられた空間にいるのんびりとしたここちは傍観者のものだとわかっている。
なんでも自分で経験するにこしたことはないのだが、できないこともあるのは事実だ。
時間的、空間的あるいは経済的なことによってであったもするだろう。
それに傍観者でなければ知りえないわからないこともあるのではないか、と考える。

4999黄葉

「白夜に惑う夏」 アン・クリーヴス 創元推理文庫 ★★★★
事件はスコットランドのはるか北東に浮かぶシェトランド本島のビディスタで起こった。
画廊<ヘリング・ハウス>で奇妙なできごとがあった翌朝男が首吊り死体となって発見される。
なぜか道化師の仮面をかぶっていた。検視の結果、殺されたことが判明する。
ペレス警部は、都会からやってきたテーラー主任警部とはちがった考えかたをする。
尋問で相手を追い詰めようとする考えは、自分にはあっていない。
『人は主導権をあたえられると、より多くの情報を提供してくれるものだ。
そうすると、その人の偏見が垣間見えたり、避けたいと思っている話題がわかることがあった。』
濃密な世間で生きるシェトランドで起こった事件は思いもかけない結末へとむかう。
ミステリはある意味知らない土地を旅するのに似ている、のかもしれないと思ったり。

「一九八四年」 ジョージ・オーウェル ハヤカワepi文庫 ★★★★
ウインストン・スミスは真理省記録局(歴史を正しく直すのが仕事だ)に勤めている。
政府は四つに分割された省よりなる。
真理省は報道、娯楽、教育及び芸術を、平和省は戦争を管掌している。
愛情省は法と秩序の維持を担当し、潤沢省は経済問題を引き受ける。
この政府のスローガンは次のようなものだ。
 『戦争は平和なり
 自由は隷従なり
 無知は力なり』
つねに監視された生活のなかで、人々はどう生きてゆくのか。
人間の意識とはどういうものなのだろうか、とスミスは注意しながら考えるのである。
『はっきりとした意識を持つようになるまで、かれらは決して反逆しない。
そしてまた、反逆してはじめて、彼らは意識を持つようになる。』
SFというよりは、どこかで現実にあるような感じをいだくのは現代人ならあたりまえである。
訳者の解説によると、イギリスでの「読んだふり本」の堂々第一位にあるらしい。
つまりは実際は読んだことがないのに、「読んだ読んだ!」って、つい言ってしまう本なのだ。

「越境者的ニッポン」 森巣博 講談社現代新書 ★★★★
筆者は現在オーストラリアを本拠地とし世界中の賭場を攻めるバクチ打ち、兼業作家だそうだ。
冒頭、彼は『日本国民は、無知になってしまったのだろうか?』と発する。
『ただ、無知とは「知識がないこと」を意味しない。
知識がないのが無知であるなら、人は誰でも皆、ほとんどの局面で無知である。
そうではなくて、無知とは「疑問を発せられない状態」を指す。
じつはこれは、一九六〇~七〇年代植民地解放闘争での理論的支柱となった
フランツ・ファノンの指摘だった。』
無知とは知識の量がすくないことだと勘違いする人は多い。
そうだとすると、知識の量はコンピュータにかなうわけがないではないか。
『現在の「日本の伝統」と呼ばれるもののほとんどは、じつは明治期に捏造されたものである。
二字漢字の「徳目」も、少なくとも江戸中期以降の発明だった。』
なんてなかなか痛快な、でも的を射たことを言うではないですか。

テーマ:読んだ本。 - ジャンル:本・雑誌

自分探しの意味
「自分探しの旅」に出たい奴は一生旅してろ、なんてことを書いた。
どこかに理想的な自分がいて、いつかは巡りあえて本来の自分に戻る(?)というのだ。
まるで多重人格者のようなことをいうなと思っていて、気がついた。
まさしくそれだ、いまここにいる自分は本来の人格の自分ではないといいたいのだ。
なにかに抑圧(都合のいいときだけこの語がでてくるようだ)されたせいでそうなったらしい。
政治が悪い、社会が悪いと愚痴をいうサラリーマンと限りなく相似している。

最初はこれって「白馬に乗った王子様が迎えに来る」のパロディのつもりかと疑った。
だがいろいろと見聞するうちに、そうではなくかなり真剣に信じているようなのだ。
(まあ、自分で信じていなければこんなあほらしいことは言えないだろう)

まあまあ、そういわないでオジサンという声がきこえる。
そういうことではないんですよ。
彼らもそこらへんは分かっているのです。
でもこの重苦しい空気のなか、なんとか生きぬくすべとしてのツールなんですから。
怒ると血圧があがりますよ。

うーむ、そうなのかもしれないな。
しかし、次々と言い訳だけは考えだすのがうまい奴らだ。
なんて思いながら、でもそうじゃないだろうと考えるのだ。

5010朱色

自分というものはここにしかない。
どこかに真正の自分がいるなんて甘く考えている自分しかいないのだ。

人生は登山に似ているかもしれない。
それも山頂も見えず(あるのかどうかもわからない)、
登山道かどうかもわからない道(道すらわからない場合もある)が続くだけだ。
でも、立ち止まってはいられない。
歩いているうちに山頂が見えればそれはしあわせなことだ。

いまでは、ただ生きる、生きることを生きる、のような心境だ。
「芸術のための芸術」というフレーズがあるように、本来は説明になっていない。
同語反復、トートロジーだといわれれば、そうだとしかいえない。
だがすべてのことは説明可能なのかと問えば、そうではない。

ではあるが、まだまだ考えることを終えるつもりもない。
(結論をだすということは、ある意味思考を停止することでもあるだろうか)

自分探しの旅
だれでもいちどは「自分っていったいなんだろう」と考える。
そう考えなかったとしても、自分らしさとはなにかと思うことがあるだろう。

だが結論を先にいえば、自分とはなんでもないものなのだ。
自分を考えるよりも、他者とはなにかと感じるのが先だと思う。
他者がいて、はじめてその対比として自分を考えるのである。
この世界に自分ひとりしか存在しないなら、自分とはなにかと考えることもないだろう。

だが世の中で自分を取り巻く他者の存在を無視して生きることはできない。
そこではじめて「自分とは他者に対してなにか」と本来は考えているのだ。
しかし自分の意識が肥大し過剰になると、他者を意識の外へと追いだすのである。
だが、これをまちがっていると責めることはできない。
科学的思考は、こうした極端な条件下でなにが成立するかを知るものだからである。
要はこのある条件の下で、という限定詞を忘れないでいることなのだ。
だが哀しいかな、人間は忘れる動物である。

5006紫の葉

ふと現状に満足できないゆえ、「なにか自分にはするべきことがあるはずだ」と考える。
そういう言説が巷にはあふれているし、学校でもそんなことをきいたような気がする。
だから、どこかにいけばそれが見つかる、そう考えるのも無理はない。
すこし意地悪くいえば、きっと一生それを探し続けるのだろう。
ある意味、それが人生だともいえるし、そう思い続けながら生きれればしあわせである。
(まあ、そうしているうちに人生は終わるのだが)

だが、なにもなすべきものなどないと考えれば、ちがった景色が見えるだろうか。
現代に生きるわれわれは(私も含む)、どうも合目的論的な思考から抜けだせない。
なにかをすれば、なにかがなされるという因果論は現代では根強い信仰でもある。
だが、世界はそんな簡単単純な構造なのか、と考える人があらわれて複雑系が登場した。
どう理屈をつけようが、あるがままに生きるとは、とてつもなくむずかしいことのようだ。

だが、世界はどうなっているのかすこしでも知りたくてしょうがないのである。
(知ることができない【不可知論だな】のは重々承知の上でも)

訃報あり
ときとしてその人のことを考えたりしているときに知らされたりする。
もう高齢であったから、いつ亡くなってもおかしくないといえばそうだが。
10月31日から11月1日にかけての夜に死去した。
100歳になられていたそうだ。

彼は世界的にも思想界におおきな影響を与えた。
人類の進化とはどういうことなのか。
われらが住む世界が進歩した社会なのか。
未開と呼ばれる世界にもそこにはその世界のルールがあるのだ。

いまではわりあいに受けいれられている世界観だが当時はそうではなかった。
(まあ、いまでも未開社会なんていうわけだから、変わっていないのかも)
(だがことばを変えるだけでは、問題は残る、あるいは忘れさられる)

現在でもアメリカなどはその典型である。
遅れた世界を自分たちとおなじレベル(?)に引き上げようとやっきだ。
そうすれば商売ができる、そこから利潤があげられるということか。
これは開発をさけぶ政治家や有力者に似ている。
(開発の一方で、種の保存を訴えたりと矛盾の自覚がない)
(その開発が動植物の住む世界を奪っているのだ)
(CO2排出量を減らそうといいながら、少子化には対策が必要だという)
(ヒトの数が減少すれば、CO2などどんどん減ってゆくさ)
(まあなにごとも、あっちをたてればこっちがたたず、ということはあるが…)

話が逸れてきた。

天寿をまっとうされたであろうクロード・レヴィ=ストロース氏の冥福を祈ります。
「悲しき熱帯」、頑張ってちゃんと通読してみよう。

5002椰子の木

笑いさんざめく
ヒトが笑う顔は、いつどこで出会ってもいいなあと感じる。
類人猿の観察でもボノボやチンパンジーにその兆しがあるという。
ほんらいはなだめる意味をもっていたのではないか、ともいわれている。

それがヒトのおおきな特徴となっている。
赤ん坊の笑顔をみれば、だれだってつい気を許すだろう。
ふだんは謹厳実直な紳士がベロベロバー、なんていうこともある。

4990水辺

笑いは相手の警戒心を解く効果がある。
女性はよく笑うほうが好感度があがるというものだ。
そこのところを利用した犯罪が後を絶たないのもうなずける。
そんなことも笑い飛ばせばいいのだ。

秋の日を草花の咲く庭ですごすのもいいものだ。
空が高く蒼くなって、舞い上がっていけそうな気がするのである。
金泉の赤茶けた湯につかってひとときをたゆたう。

4998ススキ

5015有馬

待ちかねていた(?)仲間との宴は、笑いがたえない。
思いもかけなかった友の姿に、また笑みがこぼれるのは人情である。
元気でいたんだから、いいではないか。
くよくよしたって、人生は人生だ。
愚痴も仲間と一緒になってこぼせば、きらきらと輝くではないか。

だれかを思いうかべるとき、満面の笑顔が近づいてくる。
懐かしい人はだれだってそうではないか、と思うのである。

4981蝶

テーマ:真鍋島の愉快な仲間 - ジャンル:旅行

自分のことは
「自分のことは自分がいちばんよく知っている」などとドラマの台詞によくでてくる。
たいていはそうではないという反語的な結末をむかえるのだが。

現実の生活のなかで、たいがいの人はそう信じて疑わない。
なぜなら自分のことなのだから、と証明にもならないようなことをいう。
ほんとうに自分のことは自分でわかっているのだろうか。
こう問いかえすと、すこし不安になるのが現代人の特徴かもしれない。

若い人へのインタビューで、「なにがしたいのか自分でもわからない」という答えをきいた。
このことばは、正直な感想であると思う。
なにをしたいのかわからないのは、なにかをしなければならないのか、という逆説だと思う。
なにかしたいことに向かってまっしぐら、なんていう単細胞にはなれないのだろう。

だが、「なにかするべきことがある」のだろうか、とはずっと考えていた。
なにかをなすためにある人生なんて、ある意味魅力がない。
だれかにいわれるのではない、自分で生きることができないならそれは人生といえるのか。

あるときふと考えがよぎった。
なにかをなさない人生もいいではないか。
いまなお、なにがしたいのかわからないままに生きているのだ。
ではあるが、人生とはいったいなんなのだ、とは常につきまとう疑問である。

1626月

閑談
寒くなるとからだを縮めるようにするのは、体表面積を小さくして放熱をすくなくするためだ。
それによって体温の低下をできるだけおさえようとする本能的行為なのだ。
だがいちど冷えてしまった身体を温めるにはどうすればいいか、としばし寝床のなかで考える。
熱とは分子の振動であることは、電子レンジの原理でだれもが知っている(?)。
だから身体を振動させればいいのだ、寒いと震えがくるのはそのことの証しでもある。
しかし、しばしば「うるさいわね、じっとして寝られないの」という叱責がとんでくるのである。

1511木立

「脳の進化学 男女の脳はなぜ違うのか」 田中冨久子 中公新書ラクレ ★★★
ずいぶんと前に著者の「女の脳・男の脳」という本を読んだことを憶えていた。
書棚にならんでいたこの本を手にとってなんだか懐かしい気がするのは変かな。
その後の理論の発展はどうなっているのだろうかと興味をおぼえたのである。
脊椎動物門・哺乳綱・霊長目・ヒト科・ヒト属・サピエンス種・サピエンス。
これが現代人の生物学上の学名ということになっている。
本当に、堅いものを食べると脳を刺激するのだろうか、という一節があった。
『餌の堅さ・柔らかさは、雄ラットには視覚・空間知覚の神経機構形成に何の影響も持たないが、
雌ラットに対しては強い影響を持つのである。
しかも、脳を刺激するので発育に有用だ、といわれた堅い餌は、逆に、
視覚空間知覚の神経機構形成に悪影響をおよぼすらしい、ということがわかった。』
ラットとヒトはちがうというなかれ、多くの言説はラットの実験結果から導きだされているのだから。

「春の数えかた」 日高敏隆 新潮社 ★★★★
思い込み、安易な連想、勝手な解釈によって人々は生きている。
それはそれで別にどうということはないのだが、事実が判明しても頑として認めない御仁もいる。
そんなことを考えながら読んでいたら、こんな文章が目についた。
『ところが熱帯では、夕方の六時半ごろ日が落ちたら、たちまちにして気温が下がる。
コナキタバルなどという大都市はべつにして、田舎では夜は涼しい。
日本では暑くて寝苦しい夜を「熱帯夜」と呼ぶが、あれは熱帯に対して失礼である。
熱帯の夜は涼しいのだ。』
これを読んでどう思うのか、熱帯夜なんて勝手なことを言ってたがほんとうはそうではないのか。
と感じる人は素直な人だと思う。
わたしはどうかというと、熱帯夜というよりは夏の都会の夜が暑いのはどこもおなじなんだな。
つまりは、クーラーの排熱で夜が寝苦しくなっているだけではないか。
元凶(?)は文化的な生活を望む人々の側にあるのではないか、などと考えるのである。

「性転換する魚たち」 桑村哲生 岩波新書 ★★★
性転換する魚がいることは、わりあいによく知られている。
しかし哺乳類や鳥類などの陸上動物は性転換しないのだ(ヒトの場合は別とする)。
『それは性転換のコストが大きすぎるからだ。
魚類は水中で体外受精ができるのに対して、
陸上にすむ哺乳類は空気中に精子を放り出すわけにはいかず、
交尾によって精子をメスの体内に送り込まねばならない(体内受精)。
そうすると、交尾器(生殖器官)の構造がオスとメスで大きく違ってくる。
この体構造の性差が大きくなればなるほど、
性転換するための時間とエネルギーのコストも大きくなる。
したがって、利益よりもコストのほうが大きいと、生転換しないほうがよいという結論になるのである。
ちなみに、水中にすんでいる魚類でも、
交尾器の性差が著しいサメやエイなどでは性転換は進化していない。』
なるほど自然はやはり一筋縄ではとらえられないということだろう。

テーマ:読んだ本。 - ジャンル:本・雑誌

フォルクスワーゲン・ビートル
突然にこんなことを思いだしたが、またすぐ忘れるだろうから書いておこうと思う。

あの独特のフォルムで日本の若者を中心にした層にも人気があった。
いまでは街なかでほとんど見かけることがなくなった。
以前のビートルと呼ばれたスタイルの車は、生産もとっくの昔に終了しているようだ。

一九三三年にアドルフ・ヒトラーは、フェルディナント・ポルシェ博士に、
ガソリン一リッター当たり一四キロメートル走行できような経済的であり、
平均的なドイツ人家庭が信頼することのできる輸送手段を、
低価格で提供できるような自動車の開発を依頼したのだった。
その成果としてできあがったのが、フォルクスワーゲンのビートルだったというわけだ。

ということはわりあい有名な話なので知っている人も多い。
だが、こうした話には尾ひれがつきものである。

1508コガネムシ

あの独特の比類のないデザインは、
(とここで声を落として)
じつは女性の性器を表現しているんですよ、と囁かれた。

若い頃は、ふーんそうなのか、とたいした感想もなかった。
(その反応に相手はたいそう不満であったろう)
だが、そうであったとしてなにが言いたかったのか。
たんなるトリビアを自慢したかったのか(その真偽は知らない)。
いまでも不思議に思うのである。

テーマ:雑記 - ジャンル:日記



プロフィール

ムッシュ

Author:ムッシュ
島を旅するときが楽しいですね。
遠くに眺めるのも好きです。
楽園なんてないんですけどね。

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