ムッシュの読書紀行
人生は旅のようだと言いますが、旅が人生かも知れません。 ぼくは活字中毒気味でもあり、旅はまだまだ続くでしょう。
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文集三虎
一年がかり(結果的にそうなった)ですすんでいた文集ができあがった。
発送作業もおおむね終わり、ほっとひと息というところである。

呼びかけがあり、寄付や原稿を募り、文集の体裁を考えてレイアウトする。
編集作業をやっているなかで、いろんなアイデアが飛びだしてくる。
だが予算との兼ね合いもあるのだ。

「こんな写真、なつかしいね」
「そうそう、あのときはこんな事件があったよなあ」
「あいつったらいつも女の子と歌ってばかり、おじさんによく叱られてた」
「夏の夜の怪談もどきもあったわ」
「あった、あった、夜中に悲鳴があがって」
「恐る恐る部屋まで行ったら…」

などと編集会議はしばしば昔話懇話会(!)になったりした。

仕事が忙しくなると、ほとんど停滞状態だった。
おまけになかなか原稿は集まらないし、と思うとポロリと送られてくる。
だが、寄付金は順調に集まって目標額をオーバーした。
となると、なにか他にも記念の品をなどと考える。

そうこうするうちに年末の声が聴こえてきて大慌て。
カラー写真があれもこれもで思いのほか増えていた。
でもって、印刷・製本代は当初予算を軽くこえてしまった。
そこをなんとか編集局長の威光でもっておさめてもらう。

5112文集三虎

「あ~、疲れたわね」
「ほんまほんま、しんどいもんやなあ」
「でもなんとか年内にできてよかった」
「そう、万事塞翁が馬なのだ」
「これで、今夜のお酒がおいしい(?)」
「ここちよい疲れは百薬の長なるぞ」
「またいいかげんなこと言って(笑)」
「乾杯」
「カンパーイ」

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冬に至る
こう書いて、冬至である。
一年でいちばん日照時間の短い日であることはだれもが知っている。
今日からすこしずつ昼がながくなってゆく。
ことに北国の人たちにとっては、なんとはなく気分も明るくなってくるのだろう。

現実的には、気温のピークは海や大地の保温効果などあって先へずれる。
だからいまではなく、これからさらに寒くなってゆくということになる。
残暑ということばは経験的にそれをあらわしているのだろう。
だが、残寒とは言わないのはすこし腑に落ちない。

冬というと連想するのは氷と雪である。
わが家のメダカのいるおおきな鉢も厚さ1センチくらいの氷が張った。
あわてて南側の庭に移動したのだが、まだ生きているのかどうか心配だ。

小学生の頃は、いまと比べて神戸でもよく雪が降った。
家のなかの暖房といえば火鉢とやぐら炬燵ぐらいしかなかった。
おまけに密閉度は低く、すきま風が吹きこんで寒かったことも確かだ。
手はヒビ、アカギレができていたし、足にときどきシモヤケをつくったりした。
だから寝る前によく「桃の花」というワセリンのようなクリームを塗った。
ひどい状態のときは、さらに手袋をして眠ったものだった。
シモヤケ防止では靴の先に唐辛子(丸のまま)をいれたりもした。

いまではあのシモヤケのむず痒さがなぜか懐かしかったりするから不思議なものだ。

「冬来たりなば春遠からじ」
とはいうものの、また夏が来れば冬にこがれるのである。

1777目白

記憶の底
なにかを見たり、どこからか歌が聴こえてきたりしたときに、ふとよみがえる。
あるいは、そのきっかけが街角に漂ってきた食べもののにおいだったりすることもある。
どうしていまなのかわからないのだが、たしかにそういう経験はある。

5044ルミナリエ

懐かしい感情であったりもするが、にがい記憶と結びついていたりもする。
いつのまにか忘れていたと思うようなこともあるが、忘れてはいなかったのだ。
忘れていたことを思いだすとは、なんだか論理的に変だなあと考えたり。
それじゃあ忘れていないじゃないか、と笑ってしまう。

では忘れるとはなにをいうのだろうか。
やはり忘れさってはいないのではないか。

なにかを忘れているような気がするということがある。
だがなにを忘れているのかが思いだせない状態だ。
なにを忘れているのかわからないのに、なにかを忘れていると感じるとはどういうことだ。

やはり忘れた記憶がどこか深いところにあることだけは第六感が知らせるのか。
ただ、第六感はことばで表わせないということなのだろうか。

5100鎮魂

しめは道後温泉
松山へはいくども来たことがある。
道後へもなんどか足を運んだ。
しかしこの由緒ある「道後温泉本館」にはいるのははじめてである。
夏目漱石ゆかりの湯ということでつとに有名である。
だからもちろん観光客が多いのだ。

1794本館

1800道後温泉

二階席の大広間から神の湯にはいる。
思ったよりは狭いが、内装はあたらしいようだ。
湯はぬるめで、ゆったりとつかるとからだがほぐれる。

温泉は成分もあるだろうが、温泉場の雰囲気に左右される。
湯上りに川沿いの道など歩くもよし、土産物屋をひやかすもうれし。
浴衣の上にどてらを着た湯客が行き交うなど風情ありしか。
そこここに湯煙りなどたちのぼればさらなり。

1810書

四国は名のとおり、阿波、讃岐、土佐、そして伊予の國からなる。
温暖なところに八十八ケ寺巡礼の地でもあるのだ。
またいずれ訪れることもあるのだろう。

1832瀬戸の夕暮れ

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シーサイド・うわかい
お邪魔するのは今回で三回目になる。
前回は旧館だったが、あそこもよかった記憶がある。
ここは若夫婦が切り盛りしている。

部屋からやや下方に海がひろがっている。
潮騒がときおり風にのって聞こえてくるのである。
今夜はぼくたちだけの貸切りとおなじだ。

1775宇和海

夕食が楽しみである。
新鮮な鯵がことさらにうまい。
平目もなかなか都会では食べる機会もないのだ。

5051鯵

5054平目

5055造り

笑うことはからだの免疫機能を高めるという。
しかつめらしい顔などしないで、おなじことなら笑ってすごそう。
笑っているとしあわせな心もちになるのはなんと素敵なことだろうか。
笑いはなだめから進化したといわれるように、なごやかにやるのがいい。
食べて笑って、まことに消化にもよろしい(?)。

いま、どんなことを話したんだろう、と思いおこそうとしても浮かんでこない。
記憶は脳の奥深くに潜んでしまったのだろうか。
それとも健忘の渦にうずもれてしまったのだろうか。

「ヒトは忘れる動物である」ということである。
忘れていいことは忘れるにまかせるのだ。
すべてのことを忘れなくなったら、これは逆に大変なのである。
眠ろうとして眠れない症状とおなじことになるのではないか。
不眠症ならぬ不忘症で悶々とするのもつらいことだろう。

ではあるが、楽しかった感覚はしっかりと残っている。
からだのすみずみにまで神経系がはりめぐらされるように。

みんなのおだやかないびきを子守歌にいつしか宇和の夜はかなたへ。

1793桟橋

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穴井のみかん
さきほどの事務所のところへくると、着替えた男性がまっていた。

「穴井は座敷雛で有名ですが、ご存知ですか」
「見にきたことありますよ」(と、Hちゃんがいう)
「それと、みかんでも有名なんですよ」
「そうですか、段々畑に鈴なりをながめてきました」
「なにかのご縁です、おもちになってください」
「どうもありがとうございます」

そういって彼はダンボール箱を組み立てはじめた。
えっ、どういうことなのだろう。
ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつと組みあがった。
コンテナボックスに収穫されていたみかんがどっと箱へうつる。
これって、と思うまもなく。
はいどうぞ、と笑顔でおっしゃる。
ぼくたちが車四台だから、箱もよっつということらしい。
ありがたくいただくことにした。

5102みかん

なんだかKさんがどこかで笑っているような気分だ。

人生は旅に似ているという。
旅は人生そのものである、ともいう。
道すがらの思いもかけない遭遇によって旅の様相は変貌する。
あたたかいもてなしをうけると、人生観はおおきく変わることがある。
都会暮ししか知らなかったものは驚くのである。
また、人とはなにかと考えはじめるのだ。
利己と利他はそう単純に分けられるものではない。
だがたしかに、ヒトがよろこぶ姿をみると頬もゆるむというものだ。
笑顔は万国共通の手形などともいわれるように。

なかなか人情のあつい、いいところでありますなKさん。

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福高禅寺
ここ八幡浜の穴井にくるのは二年ぶりだ。
今回も各地から集まって12名になった。

段々畑が海岸にせまる道を走る。
前回と同じように海岸べりの駐車スペースにとめる。
寺へと向かっていると、二階の事務所らしきところから喪服姿の男性がおりてきた。

「どこへ行かれるんですか」
「お墓参りに、福高寺さんへですが…」
「あそこは町の人が借りてる駐車スペースなんですよ」
「そうですか、どうすればいいでしょうか」
「こちらの公民館の近くにとめられたらいいでしょう」
「どうもすみません、すぐ移動します」

というような会話があってふたたび車を動かす。
運転手以外はそこにたたずんでしばらく待っていた。

「どちらから、来られたんですか」
「いろんなところからなんですよ、九州や関西からなんです」
「そうですか、遠いところをご苦労さまです」
「どちらのかたのお墓ですか」
「Kさんのですが」
「今日はお葬式があったんですが、住職さんももうもどっていると思いますよ」
「ありがとうがざいます」

そう言って歩き始めると急に雨が降りだしてきた。
(やはりそうなる運命であるらしい)
(Kさんの懐かしくてながす涙でもあるのだろうか)

1772羅漢

寺の門をくぐり、玄関で挨拶する。
どうぞとみちびかれて本堂へと向かう。
ご住職が遠路はるばるこれれたのですからいっしょにお参りしましょうとおっしゃる。
線香を順にあげるなか、お経は穴井の空へとたちのぼるかのようだ。
またきたよ、とこころのなかで呟きながら合掌するのだ。
本堂で円座になりお茶をいただいて、ご住職としばらく話した。

「Kさんとはどういうお知り合いなんですか」
「若いころに旅先で知りあったんですよ、みんな」
「別府、新居浜、笠岡、倉敷、大阪、堺、宇治、奈良と神戸です」
「それはそれは、いいご縁ですね」
「不思議な感じをいまでももつことがあります」
「しっかりした考えをもたれた女性でした」
「そうですね、残念なことでした」
「またお参りにおこしください」

1769福高禅寺

いつしか雨はあがっていた。
ゆるやかな坂をのぼってゆく。
おおきな大変立派な墓である。
はるかに海が見える。
にぎやかなわれらの声が山にこだまする。

1766穴井の海

またくるから、と後にした。

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唯我論
デカルトの有名なことばに「われ思う、ゆえにわれ在り」というのがある。
ほんとうに存在するのかと問い続けたとき、万物はかならずしも存在するとは断定できない。
しかし最後には、この問いを発する自分の存在は疑い得ないと知ることになる。
だから、われが消滅(死ぬ)すれば、すべては存在しないに等しくなる。
存在そのものを認識する主体自体が存在しないのだから、「存在すること」の意味はない。
こいうふうに考えるのが唯我論(独我論ともいう)といわれる哲学の立場である。

ふつうはここにリンゴがあるといったとき、それはわたしがリンゴを見ているということでもある。
そして、わたしの認識とは無関係に客観的存在としてのリンゴがあるということを意味する。
ではあるが、唯我論はわたしの認識と無関係なものに意味がない、といっているのである。
(これは主観と客観との問題にもなるのだが、それはまた別の機会に)
あるいは、わたしの認識以前にリンゴは存在をするということを、わたしは証明することができない。
なぜなら、認識以前に存在するリンゴを認識するとは、論理的に矛盾するからであるというのだ。

1718昼の月

「ふーん、なんだか解ったようで分からないわね」
「そうだな、世界は自分がいてはじめて輝く、なんてね」
「なんだかジコチューみたいね」
「そう、見方が地動説的だともいえる」
「じゃあ天動説的だとどうなるの」
「そこには神がいて、すべてを差配している、ということになるのかな」
「もうすこし説明して」
「自己という主観に対比する、客観(神だな)をもちだしてくるわけだ」
「それもいまいち納得しがたいわね」

彼女がいなければ世界は意味がない、というときは唯彼女論とでもなるか(笑)。
いろいろと角度を変えてながめれば、もうすこし本質に迫れるのだろうか。

「たとえば、唯我論的に解釈すると浮気もこう論じることが可能だな」
「どういうふうになるの?」
「浮気をしているかどうかは、ばれたかどうかだと」
「ばれなければ、浮気をしていない?」
「ばれたとは認識されることだから、認識されないものは存在しない」
「なるほど」
「だからばれなければなにをしても、していないことと同じになる」
「愛されていても、愛されていると知らなければ、愛はないに等しいの?」
「ある意味哀しい(?)立場でもあるなあ」
「まったくロマンチックじゃないわね」

※もちろんフィクションである、念のため。

遊びせんとや
遊びというと勉強に対比される場合、どうしても不真面目なふざけたという語感がともなう。
しかし、工学でいうところの「遊び」とは装置に必要不可欠なものであるという認識に変わる。
中学だったか、英語の授業で「run」とは走るだが、経営するという意味もあるんだときいた。
これをきいてすぐに自転車操業ということばが浮かんで、走らないと倒れるんだと納得した。
ひとつのことばにひとつの意味というのは、じつは非常にまれなのである。
というよりは、ヒトというレトリックを好む動物ゆえ、反語的用法などにより意味が拡張されるのだ。
とわたしは理解しており、ときにつけ遊びを忘れてはいけない、と肝に銘じるのである。

1743錦鯉

「大鴉の啼く冬」 アン・クリーヴス 創元推理文庫 ★★★
ロンドンから北へ九六〇キロ離れ、緯度的にはアンカレッジ、ヘルシンキとほぼ同じ位置にある。
夏には白夜がおとずれるシェトランド諸島が舞台になるミステリ四重奏の第一部である。
事件の内容とは別に離島での生活がどういうものか、そこでの人間関係の濃密さが描かれる。
ドメスティックというべきか、いつもだれかに見られている状況での生活の息苦しさ。
そんななかイングランドから移住してきた高校生キャサリンが死体となって発見される。
場所は七年前に少女が失踪したあたり、人々はいやでもその事件を思いだす。
近くに住むいまはだれも相手にしない知恵遅れの老人が犯人だとみんながいいたてる。
しかし、ペレス警部はそれでは事件のピースがぴったりとおさまらないと考える。
閉鎖的な社会で起こる殺人事件、フォークロアな行事もからめてなかなか読ませる一作である。

「アウトドア道具考―バックパッキングの世界」 村上宣寛 春秋社 ★★★
まさしくアウトドアの用具を自分で使用してみて、評価をくだすというもの。
この実際につかったという点では、雑誌の提灯記事などではほんとかなということが多い。
村上氏はつかうだけでなく自分にあったようにどんどん改造するところもすごい。
駄目なものはダメだと躊躇することがない。
大学教授でもあるから、論理的整合性のないようなことはおっしゃらないのである。
実体験から導きだした理論は説得力もあり、おもわずふんふんと読んでしまっていた。
『頭脳は体と比べると、進化的にはごく最近できた物だ。
だから、人間はまだ神経細胞を使いこなしてはいない。
頭脳は大量のエネルギーと酸素を消費し、その上、疲れやすく、回復も遅い。
この弱々しい頭脳を支えるには頑丈な体が必要だが、
頭脳を使い込むと体は消耗してしまい、いつしか、全システムがダウンする。
その前に、バックパッキングに出かける必要がある。』
と、こう説明する村上先生はおもしろい人だと思う。

「寿司屋のかみさんの今夜のおつまみ」 佐川芳枝 青春出版社 ★★★
ずいぶんと前にもこの人のエッセイを読んだことがあって、この本を図書館で予約した。
文章は平明で読みやすくそれでいて余韻も感じる。並みの書き手ではないなと思う。
こんなふうに書けるということはその奥にものごとを洞察する精神があるということだ。
沢村貞子さんを思わせるような文章は、読んでいてとてもここちがいい。
すこしは興味をもって自分でもやってみようか、と思わせるから始末が悪い。
『肉じゃがのアクを取り、しばらくことこと煮てから、砂糖を入れる。
先に醤油を入れると塩分でジャガイモが堅くなって、
このあといくら煮てもほっくりしないのでご用心だ。』
なるほど知らなかった、いちど実験してみようかなどと思うのである。

テーマ:読んだ本。 - ジャンル:本・雑誌

やらしい
関西弁ではとくに女性がよくつかうことばだ。
「やらしい」はだれでも分かるように「いやらしい」から「い」が脱落したかたちだ。
ことばってだんだんと省略されてゆくことが多いものだ。

強調するような場合は「やらしい奴やなあ」などとねっちりという。
いけすかない(若い人はもうつかわないが)、ということばと同じような意味である。
おばちゃんの会話など(とくに噂話)をきいてると、頻繁にでてくるのがこの語だ。
だが本人たちはいつもつかっているのに、つかっていると案外気づかないことばでもある。
(もしかして標準語と思っている?ということはないな)

「やらしい」とはエッチなという意味ももちろんあるが、関西ではもっと意味が広い。
「やらしい性格」とは、助平なというより陰険な性格というほうが近い。
女性が軽く「やらしいわねえ」などと媚を含んでいうのは、「いやねえ」ぐらいの意味だ。

だから陰険な嫌われ者から、愛嬌のある冗談好きまではばひろく「やらしい」人になる。
ではどこでそれを判断するかというと、表情、イントネーション、声の高低で知るしかない。

「やらしいわあ」と声をあわせて笑ったり、
「ほんまにやらしいの」とヒソヒソと噂話をしたり、
「こんなやらしい話ってある?」と憤ったりもするのだ。

「やらしい」が違和なくつかえたり、即座に理解できればもう関西のおばちゃんに変身である。
(そんなもんに変身したくない、というのはまだまだ底が浅いぞ)
(関西のおばちゃんの魅力というかこわさがわかってないなあ)

1758流れ

晩秋の風わたる
敬愛していた日高敏隆氏が11月14日に肺がんのため亡くなった、享年79歳とのこと。
専門は動物行動学で昆虫の性フェロモンなどの研究で知られていました。
氏の文章は歯切れがよく好きで、ずいぶんと読んでいましたからすこし残念ではあります。
一世を風靡した「利己的な遺伝子」(リチャード・ドーキンス著)の訳でも有名でした。
虫好きの人の文章とか行動はなぜか興味がわくというのか、あこがれているような気がする。
小学生時代の夏休みの宿題提出にあった昆虫採集の成果はいつもうらやましかった。
高価そうな器具などとても買えそうにないことがわかっていたからあきらめていたものだ。
いまでも採集することはないのだが、蟻の行動など見ていて飽きることがないというのはわかる。

IMG_5031.jpg

「学問の春 <知と遊び>の10講義」 山口昌男 平凡社新書 ★★★★
専門分野というのはときに閉鎖的な学問へとつながることが多い(いわゆる専門バカだ)。
しかし知というのはそういった人間の思惑などとは関係なく存在するのである。
文化人類学が専門だからといってそんなことにとらわれる山口先生ではない。
みずからの興味の趣くままに探求してゆけば地平はひらけてゆくという考えなのであろう。
『そのときは夢中でそんな気はしないけれども、学生運動は一種の演劇や遊戯のようなものである。
前回の講義で述べた「二つに分かれて競う」ということ。
真剣にやっていた人は遊びでないと思うかもしれないけれども、
そこには一種の演劇性があって、要するに何ものかを演じているわけですね。
無理をして自分を大きく見せたり違ったものに変身して巨大な敵にふつかっていったりする。
だから素顔でやらないで、学生たちは自分の顔を隠す。
手拭いとヘルメットの間で目しか出さないから、自分の普段の顔は隠れて仮面が顔になってくる。
そうすると自己意識が日常性から離れてより高い次元のところまでエレベートする。』
とこうした視点をもてるのはとらわれない目でものを見ているからだと思われるのである。

「前夜」(上)(下) リー・チャイルド 講談社文庫 ★★★★
軍警務官(MP)のジャック・リーチャー少佐は元旦の午前零時過ぎに一本の電話を受ける。
みすぼらしいモーテルの一室で、陸軍少将が死体で発見されたというのだ。
さらに特殊部隊の軍曹が殺されるが、暴漢に襲われ手もなくやられるような兵隊ではない。
そこには内部にあるなにかの事情が関係しているのではないか。
読みすすむうちにいつしか自分がMPとなり捜査に加わっているような気分になっている。
これがハードボイルドのえもいわれぬ魅力なのだろうと、感じるのである。
『娼婦はいつだって大きなバッグをもち歩いている。もち歩くものがたくさんあるのだ。
コンドーム、マッサージ・オイル、もしかしたら銃やナイフも。
もしかしたら、クレジットカード決済用の機械も。
娼婦を見つけるには、バッグの大きさを見るのがいちばん手っ取り早い。
ダンス・パーティへいくような恰好をしているくせに休暇へ出かけるような
大きなバッグをもっていれば、それが娼婦だ。』
さあ、事件の謎究明は間近に迫っているのだろうか、それともとんでもないまちがいに。

「正義で地球は救えない」 池田清彦・養老孟司 新潮社 ★★★★
世のなかには、とかく主客転倒しているようなことが多いのはいかしかたがない。
ではあるが、あまりの暴走には歯止めもまた必要なことは当然のことである。
ものごとの根幹にかかわる、思考、判断の基準というようなものはあるのだろうか。
だれもが自分で考える習慣(これができればほとんどの問題は解決?)をもたないといけない。
狡猾な連中はそこのところもよくご存知であるので、巧みな言説で大衆を煽動する。
では、どう煽動しているのかの例を池田、養老両先生に指摘していただこう。
『スーパーマーケットのレジ袋を使わずに買い物にはエコバッグを持っていこう、
という運動の強制もおかしい。レジ袋は、レジ袋の材料に用いられなければ
廃棄されるしかないような低劣な質の石油から作られている。
タダ同然の廃油から作られているからレジ袋はタダなのだ。
上質な材料からつくられるエコバッグよりレジ袋を使うほうが資源の有効利用になっているのである。』
これってすこし前にあった割り箸(板にならない端材利用)問題とまったくおなじではないか。
なんだか人間って進歩しないというか、いつもおなじ失敗を繰り返している。

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ムッシュ

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島を旅するときが楽しいですね。
遠くに眺めるのも好きです。
楽園なんてないんですけどね。

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