ムッシュの読書紀行
人生は旅のようだと言いますが、旅が人生かも知れません。 ぼくは活字中毒気味でもあり、旅はまだまだ続くでしょう。
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読む旅
今回分までは、すでに去年読んだものなのである。
いつも書くこと(読後感想)が遅れがちで(忘れてないけど)、難儀するのである。
「それなら、書くのをよせばいいじゃない」とつれあいはそっけなく言い放つ。
それでは、小生の面目が(そんなものがあるのかどうか)たたないのである。
で、うんうん苦吟しながら(ちょっと大袈裟であった)なんとかかんとか書きつづる。
ということで(そういうことです)、なんとか本稿は書けたということにあいなるのだ。
そうそう、図書館で友人の本を見つけた。手元にあるが、まだ読んでいないのだ。
図書館データを検索すると、貸出予約が数件はいっておりました。

5119Meeroの本

「老人読書日記」 進藤兼人 岩波新書 ★★★★
筆者は映画監督であり、奥さんが女優の乙羽信子さんということで知っている人もいる。
どんなことが書いてあるのだろうかと興味をおぼえつつ、目次をながめた。
西田幾多郎からシェイクスピアへ、ラスコーリニコフ、荷風の断腸亭日乗、
漱石と子規の「私」、テネシー・ウイリアムズの「私」、
チェーホフの「私」、ゲイリー・ギルモアの「私」、棄民たちの「私」、
これで、ああどんなことが書かれているのか読んでみたいなと思った。
『本というものは、求める心がなくては、いくら読んでも通り抜けるだけだと知った。』
つまり、「私」とはなにかを考えることが生きるということなのだと知る。
そのために本を読んだり、映画を見たり、旅をしたりするのだろう。
進藤さんはたまたま映画の道へ進んでいった、ということなのだと思う。
「私」は何者なんだ、を感じさせる映画は見終わったのちも余韻が残るだろう。

「どこ吹く風」 丸谷才一 講談社 ★★★
短いエッセイ集だが、なかに小沢一郎論というのがあった。
小沢一郎のなかであまりいわれていないが、その能力は言葉にあるというのである。
『ただし言葉といっても演説がうまいわけぢやない。
ぢかに聞いたことはないがそっちのほうは大したことがなささうだ。
文章の才も別にどうつてことはないだろう。
端倪すべからざるは造語力である。あるいは、他人の造語を採用する能力。これがすごい。
たとへば「守旧派」といふ新語。あれ一つで自民党を分裂させ、社会党を滅茶苦茶にした。』
なるほどね、さてこんどはどういうことになるのでしょうか。
丸谷先生に談じてもらいたいものである。

「現代人の論語」 呉智英 文藝春秋 ★★★
『論語は、読まれざる古典である。論語読みの論語知らずという諺がある。
論語の文章は読んでいるけれど、その精神がわかっていない、という意味だ。』
これはなにも論語だけに限ったことではない。
政治家の答弁など聞いていると、実にたくみに解釈しているのである。
なるほど、そうか、と感心しきりなのは請合う。科学的な見解などちりばめながら。
『科学。それは知と徳との分離である。あるいは、知の徳からの析出である。
科学的な発見者は、ただ発見者であることによって賞讃されるのであり、
人格的にすぐれているから賞讃されるではない。
人格陋劣な発見者であろうとも、その発見は発見として析出され、賞讃される。
こうした近代科学は、人類にかってなかった豊かさをもたらした。』
しかし、物質的な豊かさと精神の豊饒は両立しえるものなのだろうか、などと。

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寒中列車
冷えこんだ早朝、乗換駅でおやっと思う。
待機している地下鉄には一輌に三箇所ドアがある。
だが今日に限って中央を残して両脇が閉まっているのだ。
いつもの方向を失った乗客は、急旋回してひとつのドアに向かってゆく。

吹きさらしのホームだから、車内暖房の効率化ゆえだろう。
なんとか座席を確保しながら、なんとなくおかしくもあった。

5145紀三井寺

若いころに四国を旅したときのことを思いだしていた。
冬のホームで乗換えの鈍行列車をまっている。
寒くて手をポケットに突っ込んだまま、白い息を吐きだしていた。
足踏みするほどの寒さで、来たるべき方向ばかりながめていた。

やっと、きたきた。
のろのろと止まった列車の前でまつことしばし。
だが、一向に列車の扉が開かないのである。
あれっと思っていると、後からおばさんに背中をたたかれた。

「お兄さん、自分で開けるんだよ」
「はあ、そうなんですか」
「そうそう、開けっ放しは寒いからね」

座席に陣取ってからも、なんだか腑に落ちなかった。
いま考えてみれば、これもエコ活動なのであった。

夜のなかで
今年も元気な友の姿をみることができた。
顔を見あわすだけで、なんとなくじんとくるものがある。
こうした宴がいつまでひらけるのかはだれも知ることができない。
いつのまにか、陽はかなたに遠のいてゆくのである。

1975友

「ラフロイグ」(LAPHROAIG)とは、ゲール語で「広い湾の美しい窪地」の意味だとか。
すこし癖のある香りだが、アイラモルトの王者といわれている。
ディック・フランシスのミステリではシングルモルトが重要な小道具として登場する。

1946ラフロイグ

ほかにもいろんな酒がこの部屋にはあるのだ。
それだけは勘弁して、などという弁明もここでははかなくひびく。
どんどんと形あるものは無にもどってゆくのである。
エントロピーの増大は止むところがないのだ。
(しかし、ご馳走様でありました)

いつまでというわけには参らぬ。
大騒ぎの記念撮影が終わればそれぞれが家路につく。
(もちろん、遠方からの来訪で宿泊者もいる)

ほてった身体で都会の夜をあるく。
かって暗闇が怖いとおもったことはいちどもない。
逆に、闇はわが身をかくまってくれるやさしいベールである。

2025夜景

2024光

ひとり旅した夜の駅など、脈絡なく思いだされる。
あのときは、なにかに誘われるように歩きつづけた。
風の音や、空ゆく雲、額からしたたる汗に力がみなぎるのを感じた。
「命短し、旅せよおのこ」なんて言ったものだ。

2028夜の街路

「じゃあ、また」声が夜のしじまに溶けこんでゆけば、しばしのお別れである。
「また、いつかどこかで」、合言葉のようにして電車に乗るのだ。

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宴にまどろむ
これからは恒例になるのかどうかわからないが、
いつもの如く(それを恒例という?)新年の宴が開かれた。

1900ウェルカムフラワー

準備班は午前11時から終結する(まさに!)。
買物は女性陣にまかせることにする(けっして性差別ではない)。
だが指揮をとるのはホスト(Aちゃん)の特権である。

鬼のいぬまに缶ビールをのむ。
窓の外はどこまでもひろがって、エーテルが充満している。
エーテルの実在は現代物理学では否定されているのだが、
じつは、この光景のように存在するのではないか。

1919窓の外

ものごとには証明できるものと、でき得ないものがある。
ということは自明なのであるが(人間は限定された世界の住人なのだから)、
つと傲慢というか、全能感にとらわれるときがあるものだ。

しあわせは続かないというが、これは不幸せもいつまでも続かないということだ。
楽しいときはあっというまに過ぎ、退屈を感じる時間は遅々としてすすまない。
これも体感ではあるが、だれもがそうなのだと思う。

退屈な人生は長く、はつらつたる生は短いということになる。
論理的帰結は、長生きしたければ退屈な人生を選ぶがいい、ということを教える。
だが、だれもが楽しく時の経過を忘れるような生き様を望む。
なんたる人生の逆説であることか。

1898花紫

で、いつのまにか眠ってしまっていた。
これはどんな生をいきたことになるのだろうか。

1889また愛たい

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氷柱
帰宅したとき、カーポートの端で外灯の光がきらっと反射した。
なんだろうと近づいて見ると、長さ10cmほどのツララであった。
このところの冷えこみでできたのであろう。

5153氷柱

そういえば、先日早朝の犬の散歩にでかけようとしたときのこと。
鉄柵の金具が凍りついて開けられなかった。
いそいで湯を沸かし、注いでやっとことなきをえた。

霜柱を踏みながらの散歩は小学生の頃を思いだす。
満足な防寒着もなかったが、なんとかかんとか冬をすごしていた。
ときおりの「ぜんざい」がことのほかうまかったのを覚えている。
いまではすっかり辛党になってしまったのだが、なんだが懐かしい味だ。

餅の代わりに白玉(メリケン粉でつくった)がはいっていたものだ。
誕生日ケーキなどなくて、ぜんざいがご馳走だったのだ。
それでもなんだか楽しかった記憶がある。
(きっと嫌なことは忘れてしまった、のだ)

しかし寒波もいつかは去るのである。
それにともなって、思い出もどこかへ消えてしまうだろう。
(来年の寒波襲来までのことだが…)

邂逅いちばん
本というものは最初の数ページを読んだだけで、ははーんとわかった気になるものがある。
これがいい意味のときは、視点が明確なので論旨が非常にわかり易いのである。
当然逆の場合があって、なにが言いたいのか筆者にもわかってないのではというものだ。
だれそれがどういったはいいのだが、それに対する考えなりなんなりがないのである。
ではいったいなんのために書かれたのかというと、本をなしたという実績のためとしか思えない。
巷にはそういうたぐいの本も多く、氷山を避けるがごとくに読みすすめるのも難儀なことだ。
もちろんときに氷山にぶつかってあえなく沈没する憂き目をみることも、なきにしもあらず。

1841八幡様

「オリンピックの身代金」 奥田英朗 角川書店 ★★★★
なかなか読み応えがあり、懐かしき昭和の感慨もわく長編小説である。
ときは東京オリンピックが開催されようとするころ、日本は高度成長のただなかにいた。
ということは、逆にいえばまだまだ貧しい人びとが多かったということでもあるのだが。
主人公の島崎国男は東北の寒村の出身ながらいまは東大生である。
いつも自分はただ勉強ができるだけでこうして東京での生活を享受できている。
そのことになにか後ろめたい感情をいだいていた。
その彼がテロリストへと変貌してゆく心理が時代背景とともに語られてゆく。
天皇制についての島崎の感想はいま現代の状況をも言いあらわしているのではないか。
『完全なる公人が頂点にいるおかげで、この国の支配層はいつでも奉公人の立場に逃げられた。
民主主義の苛酷さと向き合わずに済んできた。
天皇制は、日本人の永遠のモラトリアムなのだ。』
伊良部シリーズもいいが、こうしたシリアスものも書ける奥田氏はなかなかいい。

「動的平衡」 福岡伸一 木楽舎 ★★★★
読んでいるうちにどんどん付箋がなくなってゆく、そんな一冊である。
どうしてだろうと考えると、それは筆者が自分で考えたことを書いてあるからだと気づく。
いかに博学な書であっても、単なる典籍紹介ではそこまで興味はわかないのである。
こんなことも分子生物学の専門家である福岡氏がいうと信じられるのではないか。
『「体調や肌の調子が悪いのには何かが不足しているからだ。だからそれを補給しなければならない」
―私たちはしばしばこのような欠乏の強迫観念にとらわれがちである。
 最近、よく宣伝されているものにコラーゲンがある。
コラーゲンを添加された食品の中には、ご丁寧にも「吸収しやすいように」わざわざ小さく
細切れにされた「低分子化」コラーゲンというものまである。
 コラーゲンは、細胞と細胞の間隙を満たすクッションの役割を果たす重要なタンパク質である。
肌の張りはコラーゲンが支えているといってもよい。
 ならば、コラーゲンを食べ物として外部からたくさん摂取すれば、
衰えがちな肌の張りを取り戻すことができるだろうか。答えは端的に否である。
 食品として摂取されたコラーゲンは消化管内で消化酵素の働きにより、
ばらばらのアミノ酸に消化され吸収される。
コラーゲンはあまり効率よく消化されれないタンパク質である。
消化されなかった部分は排泄されてしまう。
 一方、吸収されたアミノ酸は血流に乗って全身に散らばっていく。
そこで新しいタンパク質の合成材料になる。
しかし、コラーゲン由来のアミノ酸は、必ずしも体内のコラーゲンの原料とはならない。
むしろほとんどコラーゲンにはならないと言ってよい。』
世の中は、なんとばかばかしい言説が流布していることだろうか、と嘆くのはやさしい。
しかし、鰯の頭も信心から、というように「プラシーボ効果」も無視はできないのである。

「山頭火随筆集」 種田山頭火 講談社文芸文庫 ★★★
山頭火というと漂泊の俳人というイメージが強いが、得度した禅宗の坊さんでもあった。
旅に俳句を詠むというと、松尾芭蕉、そして自由律俳句の尾崎放哉がすぐにおもいうかぶ。
俳句だけでなく、こうした随筆を読むとより山頭火の実像がうかびあがるような気がする。
『家庭は牢獄だ、とは思わないが、家庭は沙漠である、と思わざるをえない。』
ある意味あたたかい家庭にあこがれていたのではないか、とも思えるのである。
『男には涙なき悲哀がある、女には悲哀なき涙がある。』
これはちょっとシニカルすぎますねえ、箴言としてはおもしろいかもしれないけれど。
『酒も断たん身は凩の吹くままに』
と詠んだように酒をやめようとしてやめられなかった山頭火に親近感をいだく(?)。

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旅するこころ
好きなものはなにかときかれて、食べものを答える人は素直なんだなあと思う。
逆に嫌いなものを答えるという戦略をとる人もいて、ひねくれてはいるがこれはこれでよしとしよう。
旅が好きだというと、どこへ行ったことがあるのかと聞かずにはいられないのが人情である。
パック旅行であろうとかまわないのだが、なにを見るのかどこを歩くのかで旅の傾向がわかる。
高尚な旅などというものはないのだが、ややもするとそれは低俗な旅行に過ぎないという人がいる。
たぶんその人は低俗に憧れるが踏みだせないでいるこころやさしいい人物なのではないか。
だが、旅を終えてときにしみじみと思いおこすことも旅の楽しみの範疇だと思う。

5109鉄人の横顔

「なぜ年をとると時間が経つのが速くなるのか」 ダウエ・ドラーイスマ 講談社 ★★★★
副題に記憶と時間の心理学とあるように、記憶についての問題の考察が興味深い。
だれでもがときに思うのは、もっと記憶力がよければいいのにということだ。
そしてそれはほとんどの場合、頭がいいということと同義であったりする。
だが記憶を忘れるとはどういうことなのだろうか。
『記憶と忘却の関係は、単に相容れないというよりずっと複雑だ。
記憶のなかに何かが貯えられていることはちゃんとわかっているのに、
それを思い出すことができないことがときどきある。
言葉が喉まで出かかっているのだが、音や音節がどうもしっくりこないという感覚は、
誰でも知っているはずだ。一番注目すべきなのは、その言葉が、ぱっと出てくるのを拒んでいながら、
その存在だけは仄めかしているということだ。』
こういう経験ってよくあるのではないですか。

「アジアン」の世紀 亜洲奈みづほ 中公新書ラクレ ★★★
どこの地域、国であろうとそれぞれ固有の文化をもっている。
この固有のということの意味はそれほど厳密なものでないことは考えればすぐわかる。
文中に紹介されていた次なることばがそのことをうまく言いあらわしている。
『「そもそも文化とは、“スリ”のようなものでね、あちらこちらから、
少しずつくすねては混ぜて、結局、自分のものにしてしまうのだよ」』
だがそれでもそれぞれの文化というものは感じられるのである。
本論とは関係ないところですこしひっかかりを覚えてしまった。
どうも筆者の癖(?)らしいのだが、読点が多くて文章がぶつ切りになっている感じがするのだ。
本来は意味の切れ目あるいは強調点で読点を打つのだが、多すぎて逆効果ではないかと思う。
まあそれも文体のうちではあるが、すこし損をしているのではないかと老婆心がおきる。

「須賀敦子が歩いた道」 須賀敦子、松山巌、
                アレッサンドロ・ジェレヴィーニ、芸術新潮編集部 新潮社 ★★★

知らなかったな、須賀工業の創業者のお孫さんにあたるとはね。
いいとこのお嬢さんだったんですね、だからある意味無鉄砲なところもありえたのかも。
イタリア文学者で作家でもあった彼女ですが、どうしてイタリアにひかれていったのか。
その歩いた足跡をたどってゆくと、なにを彼女が愛したのかがわかるような気がする。
そべてそうなのだが、そんな気がする、というのは共感の始まりである。
イタリアは古い文明の地であるのだが、現代からはすこし遅れをとっている。
だが、遅れを気にもしないで(?)人生を楽しんでいるイタリア人はすてきだと思う。
陽光あふれる(そんなイメージ)イタリアを旅するっていいだろうなあ、感じさせるのである。

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神仏習合
元旦の朝でもあるし、海を見るのもいいかと潮岬をめざす。
なんと燈台は元旦でお休み、のぼることはできなかった。
でもしっかりと駐車料金だけは300円徴収された。

1856潮岬

風が吹きわたって、さすが台風情報でよくきく地名であります。
車に乗っていると寒さは感じないのであるが、外にでるとやはり寒い。

1859潮岬灯台

二十歳ごろだったろうか、那智の滝を目指してサイクリングで訪れた(ほとんど押して歩いた)。
もうすこしというあたりから車が混みだした。
九十九折りの道路は車の大渋滞である。
なんとか境内に近い場所に駐車でき(800円也)、まずは那智大社へ。
元旦の参詣客は老若男女とりまぜ、にぎやかに階段をのぼってゆく。

1868那智山

一番、青岸渡寺。
熊野那智大社の横にお寺はある。
まさに神仏習合なのである。
日本における仏教も、日本的な形でひろく浸透していったのである。
(韓国のキリスト教なども興味深いひろがりをみせているではないか)

1873青岸渡寺

ひとときにどっとやってくる参詣客に、売店のおばさんが流暢に説明をする。
流れるようによどみなく、故事来歴をまじえておおきな声で語る。
老若男女のほーというような表情がおかしくもあったが、まさに門前のなんとやらである。

だれもがそう信心深いというわけでもないだろうが、お参りの列はつきない。
日本人のこころのなかでは神さまも仏さまもとりたてた区別はない。
一神教にみられるような排他性はすくないのだ。
(もちろん、日蓮宗の他派を攻撃すること激しき、などはあるのだが)

世界中のだれもが仲良く、というは易く行なうは難しの理由はこの排他的宗教観にある。
ふつうに論理的に考えれば、キリストが正しければ、ムハンマドのいうは邪教である。
もちろん逆もまた真なりであるから、彼らには譲ることなどありえない。
だが日本人はそこのところが鈍感であり、無知だ(あるいは軽視している)。
わが国の首相は高邁な理想主義者か、それとも世間(世界)知らずか。

1877那智の滝

若いころの紀伊半島サイクリングを思いだして、すこし感慨深いものがありました。

八百万の神
年末から紀伊半島へ、のんびりと陽光にでもあたって…。
などと考えていたのだが、出かけてみると想像とはおおちがいであった。
寒さは厳しくおまけに霰まで降ってくる始末である。

せっかくだからということで、西國三十三ヶ寺のいくつかも訪れた。
一番から三番まで、朱印をいただこうというのである。
墨痕鮮やかな文字にいろどられた朱印帳をながめるのがいいらしい。
(Tはまだ一箇所、それも番外のみしかうまっていなかった)
(もちろん、小生はそんな殊勝な趣味はもちあわせていない)

三番、粉河寺。
ここの駐車料金500円也。
うーん、車で来てはいけないということなのだろうか。

5122粉河寺

5126本堂

二番、紀三井寺。
その昔、サイクリングで訪れたことがあるはずだ(証拠写真あり)。
駐車料金500円を払って歩いていると、時間貸しのパーキングがあった。
はやまりし由良の介、である。

5143紀三井寺

どちらも大晦日の午後ということで人もまばらである。
露天商が元旦の初詣客をねらって店舗づくりに精をだしておりました。

十二月にはいると、クリスマスがあり。
年末年始は、神社、仏閣への初詣がにぎやかにおこなわれる。
そのすこし前には、ハローウィンなんてお祭りさわぎ(?)もあるようだ。
(キリスト教、神道、仏教、それに土着宗教などおおにぎわいである)

日本人はこうした光景をあたりまえと考えているからちっとも違和感がない。
だが、外国人からみれば仰天の異教徒というしかないだろう。
いったい日本人というのはどんな宗教を信じているのか。
敬虔なクリスチャンやイスラム教徒は不審の目で日本人を見るにちがいない。
山本七平が指摘したように、これは「日本教」なのだとでもいうしかない。

なんといっても八百万の神がおわします土地柄なのである。

5142冬の空



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ムッシュ

Author:ムッシュ
島を旅するときが楽しいですね。
遠くに眺めるのも好きです。
楽園なんてないんですけどね。

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