ムッシュの読書紀行
人生は旅のようだと言いますが、旅が人生かも知れません。 ぼくは活字中毒気味でもあり、旅はまだまだ続くでしょう。
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忘れる
まあ、若いころからそうだったのだが、最近物忘れをすることが多い。
なにかを取りにいこうと階段を降りかけて、呼びかける声に返答をする。
階下の降りて、さてなにをしに来たのかもう忘れている。

苦笑いしながら二階へ上がって、そのうち思いだすだろうということになる。
忘れてしまうということは、忘れてしまっていいだけのことだったのだ。
と自分をなぐさめるが、いまひとつすっきりしない感じはのこる。

5564踊り場にて

未練たらしくほんとうになんだったのだろうと考えても、迷路からでられることはまずない。
夕方になって、湯につかっているときにふいに思いだしたりする。
ここで思いだしてしかたがないなと思う。

風呂からでて身体をふいているときに、あれっと思いながらまた忘れていることに気づく。
なにかを忘れていることは確かなのだが、忘れたということは分かっている。

ここでなんともいえない考えにとらわれるのである。
なにかを忘れるということは、忘れるといいながら忘れたことは忘れていない。
わかりにくいだろうか。
忘れたことを忘れるならば、忘れたとも思わない。
つまり、忘れたということがないのとおなじことになるのじゃなかろうか。
それとも…、と考えていたら。

「なにをわけのわからないことばかりごじゃごじゃ言ってるの」
「早くごはん食べなさい」

と、かんたんにまとめてしまわれるのである。

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個読主義
本を読むということは、いやがおうでもひとりですることになる。
図書室などでおおぜいのなかで読むとしても、読む行為はひとりである。
ひとりが好きだとか人間関係がわずらわしい、ということではないがそう誤解されることもある。
静かに本を読んでいると(騒々しく読むということは難しい)、気取っているといわれたりする。
あえて反論ではないが、気取っているというあなたも本を読んで気取ればいい、と思う。
読むことが苦痛であるというならば、たぶん考えることも苦手だと思っているのかもしれない。
わたしなど考え深くもないしという人は、考え深くないということを是とする考えをいだいている。
さらに考え深くあったってどうなるのだ、という功利的な面で人生を考える人なのだろう。
なにも考えないで生きる(無念無想?)とは、およそ凡人にできるようなことではない。

2729葉たち

「ひとり暮らし」 谷川俊太郎 草思社 ★★★
だれでもひとりやふたりぐらいの好きな詩人がいると思う。
そのきっかけは偶然のなせるわざであり、だれかの口の端にのぼる一言であったりしただろう。
谷川俊太郎はわたしたちの生きる時代精神をあらわしている詩人のひとりだと思ったりする。
『財産を失うことを恐れる大金持ちと、何ひとつ所有せず道ばたに生きるものぐさ太郎と、
そのいずれにゆとりがあるのかと問えば、軍配はものぐさ太郎に上がるだろうが、
いざものぐさ太郎になってみよと言われれば人は誰でもためらう。
今の世界が物と金で人をがんじがらめにした上でなければ、ゆとりという言葉を持ち出さないのは、
欲に目がくらんだ人の弱みにつけこむのが商売の秘訣だと知っているからだろう。』
若いころのなにがなんでも理想に向かっていなければならない(思い込みと無知によるか)から、
生きる時間は有限なんだということを身にもって知る年代になれば、理想論はある意味むなしい。
理想を捨てよというのではない、なんでも反対というのは責任感がないか負うことをしないのだ。
ある程度の人生を生きてくれば、ものの見方も変わる。谷川氏もあとがきにこう書く。
『ひとりで暮らすようになってから人と会う機会が多くなり、新しい友人にも恵まれた。
友人たちと旅をしたり映画を見たり、酒を飲んで馬鹿話をしたりするのは、
ひとりでいるのとはまた違う楽しさだ。』
さもありなん。

「無限のパラドクス」 足立恒雄 講談社ブルーバックス ★★★
無限ということを考えるとき、かならず零の発見のことを思いだすのはなぜだろうか。
ゼロと無限は、おおいなる人類の英知の到達した概念ではないかと思う。
いうまでもないことだが、ゼロとなにもないということはすこしちがう概念だということがおもしろい。
どうしておなじじゃないかという問いに対しては、10という数字のゼロをよく見て考えてほしい。
無限もおなじことで、単に限りがない、いつまでも続くということではないということが分かるだろう。
『ガリレオは「静止は運動が無限に遅い状態である」(「天文対話」)とはっきり述べている。
そして「静止の状態からある速さに至るまでの無限のあらゆる速さを有限の時間内に
通過できるのは納得できない」というザグレドの、そして現代でも一部の哲学者が持つ
疑問に対しては、「短い時間の中にも無限の瞬間が含まれていて、速さの一つ一つに
ある瞬間を対応させることができる」のだと(これに関してはアリストテレスと同意見で)
適切に答えている。』
無限の世界における有限なる自己の存在を、ときには思ってみるのもいいものだ。

「水洗トイレは古代にもあった」 黒崎直 吉川弘文館 ★★★
聞きなれないかもしれないが、「トイレ考古学」というれっきとした学問分野がある。
人が都市をつくって暮らすようになると、そこには必ずトイレの問題が発生する。
「トイレ」を意味する語彙には多くのものがあり、その字を見るだけである程度想像できる。
かわや(川屋・河屋・厠・廁・厠殿)、ひどの(樋殿)、
おんよそおいものどころ(御装物所)、いんじょ(隠所)などと。
建物もすでにない遺跡で、ここにトイレがあったとどうして知ることができるのか。
トイレ遺構の判定には、寄生虫卵分析を中心とした堆積土の自然科学的分析が有効である。
こうした目に見えない微細な遺物をとおして、古代のトイレの所在を知るのである。
むかしだからといって、かならずしも劣っていたということはできないのである。
『かの宣教師ルイス・フロイスが感嘆した、その自然に優しい合理的なシステムも、
化学肥料と水洗トイレの普及によって、現代では失われてしまった。
そこにまたウンチをめぐる新たな環境汚染問題が生じている。
ウンチに関わるもろもろの課題は、決して過ぎ去った昔の環境問題ではなく、
現在を生きる我々が直面している重要な課題である。』
江戸時代の農業はまさに循環するエコロジーを実現していたのであった。

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ダツダム宣言
ひところどこかの地方自治体で、脱ダム宣言なるものが声高にいわれた。
その影響かどうかは知らないが、ダムは悪であるというような風潮があるらしい。
あるいは、脱ダムをいうことがなにか進歩的だと勘違いする。

そうではなくて、脱ダムというのは無駄なダムは造るのはやめましょうということだったはずだ。
だから必要なダムは造ればいいのだが、どうしてこのダムが必要かの説明はいる。
その理由に人為的な操作が見え隠れするから批判がたえないのである。
統計は数値であらわれるのだが、その数値がどうしてでてきたかはあまり議論にのぼらない。
ある意味いくらでも希望するように統計値を変化させることができるのである。

科学とは、ある一定の条件ともとでこういう数式、法則がなりたつというものだ。
その条件は多くの場合、周知の事実だったりするからあえて言わないだけのことである。
つねに前提を疑えの精神がなければ、簡単にだまされる、信じ込まされるということになる。

また、いつもそうなのだが、議論しているうちにいつしか争点がずれてきている。
マスコミもそうしたことを知っていて誘導しているのではないか、と疑っている。
でなければ、ものごとの考え方の道筋についての認識のちがいということだろうか。

だからクリーンなエネルギー(二酸化炭素排出量が少ないくらいの意味だろう)の話になると、
原子力は理想的だとも思えるが、事故の可能性や燃料の再処理問題があってなかなかだ。
核融合など理論はあっても、現実問題は道遠しというところだろう。
化石燃料は減少する一方だし、やはり自然のエネルギー利用にもどらざるをえなだろう。
(エネルギーをできるだけ消費しないという選択は、世界レベルでは空論だ)
太陽電池もその電池を作るためのエネルギーの問題からは目をそむけることはできない。

とさんざ考えて、日本では地理的な利点をいかせる水力発電に注目がもどる。
雨の降らない砂漠地方では無理だが、日本は季節的な多雨に恵まれている。
でもって、こんどはどんどんダムを造ろうという論調になってゆくのだろうか。
(これはこれで、脱ダム宣言とおなじでベクトルが逆なだけなのではないか)

3582ダム

そのときには脱ダム宣言があったことなんか、すっかり忘れ去られているのだろう。
すべて水に流して、Dam is best となるであろうか。

早朝出勤
夜半の雷鳴とそれに続く激しい雨音をききながら、今日も雨かとおもう。
相方が東京へ行くというので、いっしょに早朝の六時過ぎに家をでる。

いつもはすぐ満車になる私鉄駅の駐車場はさすがに空きがめだった。
電車の座席についたときにはまばらだったが、発車間際には座席が八割がたうまった。
新幹線乗換駅で別れて、いつもどおりの出勤コースをたどる。

地下街のサンマルクカフェの前にはブレザー姿のサラリーマンが本を読みながら立っていた。
時間は6時45分、まだ開店前である。
地上にでてマクドナルドをのぞくと、店内にはちらほらと客がいる。
こちらはすでに開店しているようだ。
交差点のスターバックスでは開店準備でせわしなく動きまわるスタッフがガラス越しにみえる。
24時間営業のファミリーマートでサンドウィッチを買って会社へ向かう。

会社に着いて6時55分、始業までは1時間35分ある。
ロッカーでひとりの社員と朝のあいさつをかわす。
三階のフロアーにあがると、真っ暗でまだだれもきていない様子だ。

五階で自動販売機のコーヒー(カップ式カフェオレ、100円)を買ってきて自席でのんびりする。
しばらく本を読んでいると、営業マンがひとりやってきた。
時計を見ると、7時20分だった。

都会でも早朝から人びとは動きだしているのだ。
若いころには考えもしなかった行動パターンだなと思うと、なんだかおかしい。

こうして一日が始まるのである。

2680初夏空

夢のなかの本
突然書棚のならぶ狭い通路に立ち、さてどこにあの本はあるのだろうかと考え始める。
見上げる棚の高さはてっぺんもなんだかかすんでいるようで、大変なところへ来たものだ。
このなかではたして目的の本は探しだせるのだろうか、とすこし心配になってくる。
いつのまにか隣によりそって立つ少女は、こちらですよとすべるように奥へすすんでゆく。
歩くでも走るでもなく、ただそうわかるだけで確かにわたしも彼女の後をついていっている。
かなりのスピードで棚の間をすすみ、明るいキッチンにでたところでつんのめるように止まった。
少女はいなくなっており、石の調理用テーブル上に本が一冊載っているばかりだ。
これにまちがいはないと安堵の感情が湧きあがるだけで、なぜかどうしても書名が読めなかった。

2636夜の雲

「野球の国」 奥田英朗 光文社 ★★★
沖縄でキャンプを見て、四国で公式戦を観戦し、台湾プロ野球まででかけていって見る。
東北の二軍戦に青春を感じ、広島での消化試合や、九州のマスターズリーグまでも掌中にする。
尾道の地方球場で楽しげに観戦する野球ファンの姿を見ておもわずこの書かずにはいられない。
『巨人の優勝が決まろうかという夜、こうして地元チームを応援している人々がいる。
なんだか、温かい気分。マスコミが報じるプロ野球など、所詮は絵空事なのだ。
ジャーナリズムはペナントレースを語るが、野球そのものは描写しない。
神はディテールに宿るというのに。』
野球好きをあなどってはいけないのだ。
室内でごろごろするよりは、青空屋外で野球を見るほうがすがすがしいだろうに。
『わたしは普段、テレビを見ない。
どれくらい見ないかというと、リモコンが紛失したことに一月も気づかないほど、見ない。』
でもって、いつも肩凝りに悩まされているのは作家の職業病なんだろうか。
いろんな地を旅して、マッサージをうけて、また元気になっておもしろい小説を書いてください。

「悪徳商法」 大山真人 文春新書 ★★★
悪徳商法といわれるものにだまされる人というのは、どういった人たちなのだろうか。
『狙われた大半の人は間違いなく被害を受ける。
被害を受けた人は、「金輪際こりごり」なのではと思うのだが、これがそうではなく、
信じられないかもしれないが、次の新しいマルチを待っている。僕の知人もそうだった。
「参加するのが遅かったから損したんで、早く参加したら絶対に儲けを出す自信がある」といい切る。
次のマルチを本気で狙う。』
欲がなければだまされないのかといえば、そうだろうなと思うのである。
仮にだまされたように周りからみえても、必ずしもだまされたとはいえない。
だまされた、裏切られたというような声をきくと、すこしちがうのではないかと思ってしまう。
だましたあいつが悪いのか、だまされたわたしが馬鹿なのか、というような歌謡曲があったように思う。
喧嘩両成敗ではないけれども、どちらにもなんらかの非があるのかもしれない。
だが、こうしたことを世にひろく知らしめることですこしは被害が少なくなればよいのだが。

「ガラスの村」 エラリー・クイーン ハヤカワ・ミステリ文庫 ★★★★
ニューイングランドの片田舎に<シンの辻>とよばれる小さな村がある。
そこの老判事ルイス・シンのもとに、いとこのジョニー・シンがやってきた。
村にはファニー・アダムス、通称ファニーおばさんという有名な老画家が住んでいた。
ある日彼女がなにものかに殺される事件が起きた。
すこしまえに彼女の家に立ち寄った放浪者が犯人にちがいないと村は騒然となった。
彼を捕らえて死刑を執行しようとする村民と、裁判を行うべきだとする判事が対立する。
『ジョニー、これこそ民衆は必ずしも信ずるに足りないといういい証拠だ。
人間というものは、たとえ民主主義のもとにおいても、暴民に堕落する傾向が多分にある。』
殺人事件の起きた時のアリバイは村民すべてにあった。
そしてファニーおばさんの絵から放浪者の供述が事実だったことが判明した。
それでも、村民の意見は極刑にすべしでぐらつくことがない。
そのとき、ジョニーの頭のなかに事件の真相を示す光がさしこんできたのだ。
エラリークイーンにしては、すこし毛色のかわった1954年の作品である。
だが、マッカーシー旋風が吹き荒れてた時代だと知ると、書かれた理由がわかる気がする。

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ウインカー
相手かまわず場所柄もわきまえずにウインクする人のことをいうのではない。
チカチカと車の進行方向を指示する装置のことだ。

交差点で信号待ちをしていると、左側からきた車が右折した。
急なハンドル操作であたかも逃走するようにウインカーもださなかった。
そのまま、平然となにごともなかったかのように傍らを通過していった。

2560一時停止

そこで気づいたのだが、ウインカーをださない車というのをけっこうよくみかける。
こうした運転をする人は、どのような心理でいるのだろうかと思う。
だれもいない無人の地を行くときのことではない。
(その場合、だれもいないのだから目撃もされず問題にすらならない)

他人のこころを理解しようとするとき、その本人になりきってみる。
というのは、ミステリや警察の捜査手法によくでてくる。

で、このドライバーはなぜウインカーをださないかということである。
教習所でウインカーをださないで試験をパスすることは不可能だ。
ということはこの場合、知っていてださないという意志が働いているということになる。
ではなぜださないということを選択したのか。

ウインカーの操作が面倒くさかった、というのはありそうでありそうもないと思う。
そんな面倒くさがり屋が車の運転などするのだろうか、という反論が成り立つ。

では、省エネのことを考えていたのだ、というのはどうだろう。
ウインカーもださないやつがそんな高尚(?)な思考をするはずがないという声がきこえる。

じゃあウインカーの意味を理解できていないのではないか、という疑問がわいてくる。
そもそもウインカーは、まわりの車にこの車のつぎなる行動予測を与えるためにある。
そうしてはじめてお互いが安心して運転することができる、そのためのルールなのだ。

ここで、はたと気がついた。
ウインカーをださない彼あるいは彼女はそういうことを充分に知っているのである。
知っていて、まわりを不安にするためにあえてウインカーをださずに進路を変更する。
いわゆる愉快犯なのではないだろうか、と考えるにいたった。

ということは、そこで腹をたてていては敵の術中に陥ることになる。
小賢しいやつよのう、と泰然たること山の如しとまいろうではないか。
(しかし、嫌な奴であることにかわりはない)

2684誘導灯

みなさん、ご安全に。

万歩日和
某月某日木曜日 晴れ
相方が頼んでいた万歩計が手元に届いた。
今日はためしに一日の歩数を測ってみよう。
起床洗面後、着替えをすませてベルトに万歩計を装着する。

会社に到着して万歩計を見ると、数値は3478歩を示している。
うーん、とくに感想はない。

終業後、会社を出る前に数値を確かめる。
ここまで6671歩である。
歩いてないようで、けっこう社内を歩いているということか。
(蛇足だが、席に座って貧乏ゆすりはしていない)

帰りは三百段の階段をのぼる。
つゆの中休みの空は澄んで山が間近にみえる。
帰り着いたときには、額にすこし汗がにじんでいた。
のぼってもくだっても平坦な道でも、一歩は一歩である。
さてとみると、10254歩になっていた。

就寝前に最後の表示を見る。

5551万歩計

すべて世はこともなし。
(All’s right with the world)

なのだろうか。

世直し
さて、そろそろ参議院選挙が近づいてきて騒々しくなってきそうだ。
各党はマニフェストだと、できるかどうかわからないことまでふちあげる。

庶民は、まあ言うだけいうてみたら、という感じでいままでは見ていた。
だけどつい助平ごころで、もしかたらそうなるかもしれない、と思いこむ。
選挙に関心がなかった人たちは、世の中がどういう構造になっているか考えたこともない。
おまけに自分で考えるということを放棄して、なるようになるさと生きてきた。

これまでもあなたまかせできたのだから、それでいいではないかと思う。
官僚の天下りも、社会維持のコストだと思えばどうということもない。
まあ、最近はなかなかコストがかかるようになったなあ、というようなものだ。

官僚の天下り、役所の高給(?)を批判するひとたちは口とは裏腹に、
自分がその恩恵(!)に浴せなかったことが悔しい、との無意識があるのだろうか。
そんなことでかりかりしないで、短い人生をゆったりと生きればいいのに。
と思っていたら、養老さんがこんなことを書いていた。

『個人では何もできない。まして世の中を変えることなど、できはすまい。
ところが、である。「自分が変わる」と世の中は変わる。
そんなことはあまりにも当たり前で、いまさらいうのも恥ずかしい。
だって「いままでとは違う」世の中が見えてくるからである。
「世の中を変える」というのは、じつはそのことではないのか。』

お釈迦さんもそのようなことをおっしゃっていたような気がする。

2689蜜を求めて

こどもに勉強しろといって、その子が勉強するようになったというためしはない。
勉強などつまらん楽して暮らすほうがいい、と考えてる大人と同じように育つのである。
だから、親を見ればたいていのこどものことはわかるということだ。

誤解なきようにつけ加えるが、楽して暮らすのもまたいいのじゃないかと思う。
ただ、その場合はあるていどの貧窮に耐えなければいけないかもしれないが。
だが、欲望というものは果てしがないので、中庸にとどまることは並大抵ではない。

読みかた
鹿島市は「かしまし」、鹿島建設は「かじまけんせつ」とおなじ漢字でも読みがちがう。
苗字もそうだな、山崎さんは「やまざき」か「やまさき」か、どちらだろうかと悩むこともある。
濁るのと濁らないのでは、声をだすときに相手への対しかたがおおいにちがうのだ。
またまちがえると失礼だとも思うと、余計にどちらだったか自信がなくなったりする。
人によってはそういうことに無頓着な方がいて、それはそれで気楽だなあと思うのである。
そんなこと気にしませんよ、とおっしゃる方がいると、すこし安心する。
いままで読んできた本のなかに書かれていた漢字でもまちがって読んでいることがあるだろう。
まちがいに気づきもしないでいたのだ、と考えただけでも背中を冷や汗がおちてゆく。

2757燈明

「警視の孤独」 デボラ・クロンビー 講談社文庫 ★★★★
ひさしぶりにスコットランドヤード勤務のキンケイド警視シリーズを読む。
いまでは警部補になったジェマとそのこどもトビー、そしてダンカンの息子キットとの四人暮らしだ。
事件のことよりも、一家の行く末が、キットのことが気にかかるのである。
ジェマの友人のエリカはもう九十代だが機敏で独立心が強く、頭がよく切れて好奇心も旺盛だ。
彼女は将来の進路に悩むキットにこう語りかけるのである。
『「でも、いろんなことに興味があることはいいことよ。筋道立ててものを考えることができるわ。
それに、現代の社会が直面しているいろんな問題は、いくつもの考えを総合したり、
昔ながらの慣習にとらわれずにものごとを考えたりすることができる人たちにしか、
解決することができないと思うわ」』
連続放火事件やら殺人事件があり、行方不明のこどもも登場するの展開のなか人は生きる。
章立てごとに挿入されるディケンズのことばがなかなかいいものだ。
『どんなに悲しんでも、折れた骨は治りはしない。
いい人だってめったにいない。だったらこの状況をせいぜい楽しむがいい。
 ―チャールズ・ディケンズ「ボズのスケッチ集」より』
次回作でははたしてキットはどんな生き方を選んでいるのか、興味深いものがある。

「だます心 だまされる心」 安斎育郎 岩波新書 ★★★
「だます」には、なだめるというのと、ほんとうでないことをほんとうと思わせるという意味のふたつある。
本書で書かれているのは、この後者の意味である。
なかでもおもしろいには、超能力とか霊感とかよばれるたぐいのものである。
一般人も考え違いをしていることに、科学者はそのウソを見抜けると漠然と考えていることがある。
どちらというと世間知らずの科学者のほうがだまされやすいしのである。
そのうえ、自分がだまされていることにも気がつかないという二重の凡庸さがあるのだ。
『人間は「理性的動物」と言われますが、「人間は理性的だからだまされない」というのは、
根拠のない信念に過ぎません。
ある意味では、「人間は理性的だからこそだまされやすい」のです。』
ものごとがすべて理性で片がつけばこの世のなかもずいぶんと住みやすくなるだろう。
超能力者とマジシャンのちがいは、本人の申告によるものである。
眼前でおこなわれた信じがたい行為は、はたして奇術か超能力か判断できるだろうか。
また、マルチ商法は時代の衣装をまとい、手を変え品を変え消え去ることはないようだ。
『「人々に欲望がある限り、私らは困りません」―ベテラン詐欺師は、そう言います。』
確かにそう思えるところが、人間の弱さ、強欲さを示しているといえるだろうか。

「小説ブッダ ―いにしえの道、白い雲」 ティク・ナット・ハン 春秋社 ★★★★
シッダールタ(悉達多)とは、みずからの目的を成しとげるものという意味がある。
このお釈迦さんのシッダールタという本名もヘルマン・ヘッセの小説を読んで知った。
だがヘッセはドイツ人で、アジア人とは捉えかた感じかたがちがうとこの小説を読んで思う。
『比丘たちよ、教えとは単に真理を説明する手段にすぎません。
教えを真理そのものととり違えてはいけないのです。
月を指し示す指は月ではありませんね。
月がどこにあるかを知るために指が必要ですが、指と月そのものをとり違えてしまったら、
永遠に真実の月を見ることはできません。』
つまり、真理とは自分で到達するものであり、だれかに教わるものではないということ。
だから、だれかの教えを信じてそれで事足れりということではない。
こういうところが、仏教と他の絶対的存在者をいただく宗教とはちがうところだろうか。
『物質的存在は(色)もまた意識の対象のひとつです。
意識の主体と客体は、ひとつの現実のふたつの相にすぎません。
意識の対象のないところに意識はなく、
意識と意識の対象はおたがいに独立して存在することはできません。
意識の主体と客体がわかちえないのですから、両者は心から生まれるといえるでしょう。』
このあたりは実感として、すこしむずかしいかもしれない。
『<空>は非存在ということではありません。
何ものも独立しては存在しないという意味であり、他と切り離された個別性、
<我>がないということです。
みんながすでに知っているように、『ある』と考えるのも、『ない』と考えるのも、
どちらも間違っています。
すべてのものはたがいに依存しあって存在しているからです。
かれあるがゆえにこれあり。かれなければこれなし、かれ生ずればこれ生ず。
かれ滅すればこれ滅す。このように、空の本質は相互依存的な存在なのです。』
これを読んで、なぜかアインシュタインの相対性理論を思いおこす。
人間は絶対的なものを考えるゆえに、神を求めてやまないところがあるようだ。
M島のおじさんに読ませてあげたかった本であり、それがかなわないのが残念な気がする。

テーマ:読んだ本。 - ジャンル:本・雑誌

明治は遠く
一夜明けて、今日もいい天気だ。

犬山にある「博物館明治村」へでかけることにする。
昔の学校、役場、裁判所、教会、商家などが、100万平方メートルの敷地に移築されている。
村内には蒸気機関車や京都市電の線路が敷設され、レトロバスも循環している。
現在の村長は、三代目で小沢昭一さんが就任している。

2777蒸気機関車

2826明治村

うす曇りのおかげで歩いてもあまり汗をかかないですむ。
油問屋の家のなかを若い女性ガイドさんに案内してもらう。
まだまだ身分制度が色濃く残っていた時代だからいろいろとしかけがある。
表立って贅沢はできないので、随所に工夫があるわけだ。

フランク・ロイド・ライトの設計になる帝国ホテル旧館の玄関部分がいい。
バリ島を思わせる様式は、なぜかのんびりとした気分をかもしだす。
こうしていっしょに旅行できるのは、めぐまれていると思う。
めずらしい景色をながめるのとはちがった楽しさがある。

2829帝国ホテル

2835噴水

2846柱

昨夜の会話が思いだされる。

「こうしていろんなところへ行けるって、考えてもみなかった」
「そうだな、若いころはみんなひとりで旅してたから」
「なんだか不思議な感じがする」
「いくらお金があっても、こうした関係は買えないもの」
「まあ、お金はないんだけどね(笑)」
「だから、せめて身体だけは元気でいなくちゃ」
「次回は、信州白馬村かな」
「雨が降らないといいけど」
「そういえば、今回は降らなかったな」
「神通力もなくなってきたかな、はっはっは」

帰りの高速道路に沈む夕陽がうつくしい。

2861帰路の夕陽

テーマ:真鍋島の愉快な仲間 - ジャンル:旅行

薔薇の花咲く
相方は園芸がことのほか好きであるらしい。
この語感からは、日本のこじんまりした庭で園芸を楽しむのを想像する。
最近ではこのことばはあまり人気がなく、もっぱらガーデニングということばをつかう。
わたしなどガーデニングというと、つい広大な庭園を思いうかべてしまうのだ。
マンションといい、ガーデニングといい新奇さをねらってか外国語が好まれるようだ。

いまの時期、季節的にはバラが咲くころらしい。
薔薇と書くと、花弁が幾重にもかさなった様がうかぶ。
岐阜県可児市に有名な(?)バラ園があるのという。

2676薔薇

今回もNSH夫妻の新車プリウスで同道することになった。
しかし、おたがいよく遊びますねえ(笑)。

案内人はHYRちゃんがひきうけてくれるとのことだ。

今日は空も晴れわたって好天気になった。
多くの花好きの人々が各地からやってきて駐車場はいっぱいだ。
さすがに広い園内をあるいていると疲れるものだ。
しかし木陰は風がとおりぬけて気持ちがいい。

2696花弁

2730こもれび

休憩にと立ち寄ったカフェは木立のなかにある。
ちかごろはこうしたひっそりとした場所で店をやっているのをよく見かける。
どこから、どうして、ここへたどりつくのかと思う。
インターネットで探してやってくるのだという。

2714カフェ

どこでもいいのだが、木の葉をとおして空を見たりする。
植込みのわきをトカゲが走るとそれだけで満足する。
そういうと、なにか不思議なものでもみるような眼をされることがある。
だれでもその人なりの好きなものがあるというだけのことだ。
それが、有名なバッグであろうと、バラの園であろうと、石ころであろうといいではないか。

2723蜥蜴

2665蝶

今夜は多治見のウイークリーマンション風の宿に泊まる。
ダブルの部屋ふたつ(四人分)と駐車場代も含めて、7200円と格安だった。
うーん、わが相方はこういうのを探索、探知する名人なのだ。
そのぶん、「小樽食堂」なる居酒屋で飲んで食べてしゃべって満足した夜でありました。

2747水盤

テーマ:真鍋島の愉快な仲間 - ジャンル:旅行

いつもの人
サラリーマンで電車通勤をしている人ならいちどは経験があるだろう。
ただぼんやりとなにも考えずに歩いていて、はっとする。
向こうから歩いてきた人に挨拶しようとして思わず。
たいていはかろうじて踏みとどまってなにげなさを装う。

だが、こころのなかではしばし考える。
確かに見知った顔なのだ。
どこで会った人なのだろうか。

なおも歩きながら、やっとああ毎朝この通勤時間帯にすれちがう人だとわかる。
見ていないようでいて、すれ違う人をどこかで認識しているのだ。

「おはようございます」
「おはようござ…」
「あっ、すみません」
「いいええ」
「いつもお会いしますね、だからつい知り合いだと勘違いしちゃって」
「そうでわねえ、わたしもどこかでお会いしたかと思って」
「なにかの縁なんでしょうか、お茶でもいかかですか」
「そうですね、すこしの時間だけなら」

5473つつじ

なんてことは考えるだけで、現実には起きっこない。
ノンアルコール・ビールと同じで、99.99%ない。

しかし、よく見る顔は好印象をいだきやすい。
だからテレビでよく見る芸能人が選挙に出ると、当選するのだ。


質量不変
仏教などでは輪廻転生ということをいうが、すこしちがって生まれ変わるという説もある。
前世ではだれだったとおっしゃる人がいるが、だれもが納得できる論拠は示せないようだ。
記憶が前世から引き継がれていれば、だれもが驚く天才を発揮でそうなものだがそれはない。
しかし、輪廻転生を熱力学の第一法則ととらえれば、わかる人も多いのではないかと思う。
「ある閉じた系の中のエネルギーの総量は変化しない」というエネルギー保存則だ。
しかしアインシュタインが「特殊相対性理論」で示したように、質量はエネルギーと等価である。
簡単にいうと、物質はこの地球上でいろんな形に姿を変えながらぐるぐる回っている。
食物連鎖が成立しているということは、私はいつかバラバラになってなにかにとりこまれる。
これはある意味での生まれ変わりではなかろうか、と考えたりするのである。
かならずヒトの一部分になると確約はできないところがつらいが、可能性も否定できない。
こうした見方では、ヒトに生まれ変わるともいえるのだが、それではうれしくないだろうか。

2586あかり

「知に働けば蔵が建つ」 内田樹 文藝春秋 ★★★★
この本は内田教授のブログ(といっても本格的だ)を書籍化したものであるという。
けっこう真面目な論議が多いが、意見をオープンにして反論を受けるというのがいい。
ブログでの討論は公開であるところにおおいなる意味があるのだ。
こんな文章に思わずニンマリとしてしまうのだ。
『「勉強も仕事も、なんか、やる気がしない」というのは、言い換えると、
「『やる』ことの『意味』が私にはよくわからない」ということである。
 問題は「意味」なのである。
「意味がわからないことは、やらない。」
 これが私たちの時代の「合理的に思考する人」の病像である。
 ニートというのは、多くの人が考えているのとは逆に、
「合理的に(あまりに合理的に)思考する人たち」なのである。』
だが、意味がわかればやる気が湧くかというと、そう単純ではない。
その意味を認めなければやらなくても論理は破綻しないから、断固否認するかもしれない。
意味の恣意性ゆえに、合理的思考を論理的にせめても難攻不落であるだろう。
この「意味がわからない」というのは、全学連世代の叫ぶ「ナンセンス!」を思いおこさせる。
ということは、ニートと全共闘はあんがい似た者同士なのかもしれない。

「おつまみ缶詰酒場」 黒川勇人 アスキー新書 ★★★★
書名にひかれて読み始めてみたが、いろんなことを思いだすのである。
貧乏学生時代の酒の肴の定番はサバの味噌煮の缶詰だったなあ、などと。
友人の下宿にいって、車座になってこれをつまみながら酒を飲んだりしたことがよみがえる。
この缶詰のすごいのは、残った汁もごはんにかければ十分におかずの役目も果たしたことだ。
いまでもあの味がなつかしいし、好きなのが実感できるのである。
『そもそも缶詰の黎明は205年前、1804年のこと。
フランスの食品加工業者ニコラ・アペールが、食品を入れた瓶を煮沸して殺菌し、
瓶内の空気を抜いて密封したのが始まりであります。
この瓶詰は当時のナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍の食料として採用され、
ニコラは1万2000フランの賞金を獲得したという話が残されている。』
すこし余裕があったり、パチンコで勝つと牛肉の大和煮なんかを食べたこともあった。
いま考えると、イワシの缶詰なども甘い味付けが多かったことがわかる。
きっと当時も甘味を求めるのは労働者階級ゆえだ、などと理屈づけたことだろう。
『大和煮は缶詰のために生み出された調理法。明治時代に前田道方氏が開発し広まった。』
これを読んでちょっと高級な缶詰にも挑戦したい気分になった。

「地球最後のオイルショック」 デイヴィッド・ストローン 新潮選書 ★★★★
いま世界では原油価格が上昇し続けているし、これからも下がることはないだろう。
その根拠となっているのが「ピーク・オイル」論であるといわれている。
聞きなれない言葉だが、ピーク・オイルとは、世界の原油生産がピーク・アウトし、
つまり頭打ちになって、伸び続ける需要に追いつかなくなる現象のことだ。
いますぐ原油がなくなるというわけではないが、その時点から減少が始まるということだ。
現代の生活は、考えてみれば石油にどっぷりと首までつかってしまっている。
『およそ、「人工」と思われている物はみな、実際には「石油製」なのだ。』
たとえば、自動車のタイヤ、ペットボトル、食品着色料、安定剤、酸化防止剤、洗剤、
テレビにパソコン、ゴルフ・ボール、カーペット、ストッキング、レジ袋、衣類のフリースなど。
もちろん石油からでなくても作れるが、コストが安くて便利だからそうなっているのだ。
石油は炭素からなり頼りきっている状態なのだが、いつまでもこの状態は続かないだろう。
では石油がなくなればどうするのか、このことをいまから考えていなければ間にあわない。
そのとき世界はまたちがった様相をみせることになるのだろうが、生きてないな(笑)。

テーマ:読んだ本。 - ジャンル:本・雑誌



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