ムッシュの読書紀行
人生は旅のようだと言いますが、旅が人生かも知れません。 ぼくは活字中毒気味でもあり、旅はまだまだ続くでしょう。
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当世漢字事情
尊敬してやまない高島俊男さんの文章にこういうのがある。
『概して、無知なひとの書いたのほど漢字がおおい。
これは機械で文章を書くようになってから生じた奇現象である。
むかしから無知無学の輩は、なんでも漢字のおおい文章が上等の文章だとおもいこんでいる。
かなを書くことをはじる。かなのおおい文章を書いたら漢字を知らないとひとにわらわれる、
という強迫観念がしみついているのである。
だからポンとたたいてとにかく漢字にする、それもなるべく漢字の多い変換をえらぶ。』
なかなかに頭の痛い指摘であり、納得するところも多いものだ。
パソコンが自在に変換するのであるから、もともとの出典、成り立ちを知らなくても漢字をうつことができる。
でもって上等な文章にしたつもりが、ますます無知をさらけだすというような事態にもなるのである。
あるいは、熟語を見てなんとなく意味は推察するが、読みまでは知らないことも多い。
だから、いざつかおうと思って打つが、いつまでたってもその漢字に到達できないという悲劇がおこる。

3053庭に来る蝶

「誰かに見られてる」 カレン・ローズ 文春文庫 ★★★
シカゴ検事局の検事補クリスティン・メイヒューは31歳だが独身である。
彼女の有罪判決獲得率は検事局随一で、敏腕検察官として世間ではとおっていた。
だが、有罪確実とされた事件でも陪審員裁判ではしばしばその結果はくつがえされてきた。
極悪非道なレイプ犯や小児性愛者が裁判で勝利し、のうのうと生きているのが現実だ。
ある日彼女の車のトランクに「あなたのつつましい僕(しもべ)」からのケースが入れられていた。
三つのケースにはそれぞれ衣服と死体を写したポラロイド写真つきの封筒が添えられていた。
この犯人は犯罪者、さらには被告弁護人、偏向した判決をくだした判事までをも殺していく。
シカゴ警察殺人課刑事のエイブ・レーガンとともにメイヒューは正体をもとめて捜査を続けていく。
テーマ的には法の裁きを逃れた犯罪者らを正義の名の下に殺していくという、よくあるものだ。
しかし、私的な裁きを許すことは法を無力化することにもつながっていく。
小説のなかではだれが悪かということは比較的わかりやすいが、現実社会ではそう簡単ではない。
このテーマは読後に、すっきり感となにかわりきれないものをいつも残していく。

「散歩の昆虫記」 奥本大三郎 幻戯書房 ★★★★
虫が好きだ、という人がなんとなく好きなのである。
もちろん、虫好きに悪い人はいない、などと原理主義的な思いこみもない。
奥本氏のひょうひょうとした文章や、ものの感じかたがいいなあと思えるのである。
それに博学にささえられた意見はいつもなるほどと納得できる。
『たとえば、イタリア料理からトマトがなくなったら、そして韓国やタイ料理からトウガラシが消えて
しまったら、あるいはドイツ料理からジャガイモを取ってしまったら――そんなこと、とても考えられない、
そうなったら我が国の料理じゃなくなる、と、これらの国の人々は言うであろう。
しかし、トマトもトウガラシもジャガイモも、すべて新大陸からもたらされたものであるから、
コロンブス以前、いや、その後二百年ほど経ってそれらの作物が普及するまで、イタリア人も、
韓国人やタイ人も、ドイツ人も、今とはまったく違った食事をしていたのである。
大昔からの習慣で、その国の本質のように誰もが思い込んでいることでも、
案外その歴史は新しい、ということがある。』
こういう視点がない人は原理主義にかたむきやすいのではないか、と感じるのだ。
虫を好むということは絶対的にならず多様なものを認めることだ、とは虫がよすぎるか。

「ネオネニー 新しい進化論」 アシュレイ・モンターギュ どうぶつ社 ★★★
最近わりあいと知られるようになったことば「ネオネニー」である。
『幼い形のまま成長する過程をネオテニー(幼形成熟)、または幼形進化(ペドモルフォシス)とよぶ。』
だが専門家とよばれる人たちで誤解しており、その最たるものは幼児化と混同していることである。
『この語の意味するところは、幼児や胎児にみられる特徴が、成人にも保存されている、ということである。
ネオテニーという語はまた、発育の速度の低下や、
さらには生まれ老いる過程での諸段階が延長されることにたいしても、もちいられる。』
では、ぞのネオテニーによってどのような変化、効果があらわれるのかということになる。
『多くの女性が、老年にいたるまで幼児的な声を維持する。幼児的な声を保つことは、
彼女たちが“かわいい”と感じる女性が幼児的印象を与えるということの産物であると考えられよう。
この種の幼児的な声の女性がメロドラマ、映画、
テレビのコマーシャルに登場する頻度から判断すれば、これは女性だけでなく男の好みでもある。
おそらく、成人女性にみられる幼児的な声は、人為的に維持されたネオテニー的もしくは幼児的性質で
あろう。このようなものに魅力を感じるというのは、依存性の強い赤ん坊がもつ魅力――
すなわち、かわいらしさ、弱々しさ、傷つきやすさ、そして保護を必要としていることなどにたいして、
私たちが反応しやすいということや、またそれが大人の声でしゃべる者に“優越感”をもたらしやすい
といったことなどが、その背景としてあるように思われる。』
といったことを筆者は述べているのであるが、どう判断するべきだろうか。

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テーマ:読んだ本。 - ジャンル:本・雑誌

台風7号
例年、九月はじめの会社の創立記念日にひっかけて夏季休暇をとることが多い。
で、今年はどこへ行こうかということになるのだが、これもいつものことのようになかなか決まらない。
そんなこんなのうちに、焦りと諦観からか衝動的に沖縄に行こうか、とふと思った。
しかし間際になってのツアーは飛行機の便があらかた満席でとれなかった。

やっぱりね、いつものことだわねと言いあっていたのだが…。
なんとここにきて沖縄周辺に台風が発生しているではないか。
もし、沖縄行きが決定していた場合、どうなったことだろう。

人間つまらないことはいつまでも忘れないもので、数年前の八重山行で台風に遭遇した。
帰りの飛行機は台風の真横を飛び、左側は黒雲におおわれ、右側は快晴だった。
そういえば、台風さなかの台湾旅行のことも思いおこされる。

4130台風

なぜか雨にまつわる話題から親しげにつきまとわれる吾が身である。
だが最近は、日本列島直撃の台風も数がめっきり減ったようだ。
これも地球温暖化となにやら関係があるのだろう(笑)。

結局は北陸の温泉に行くことで一件落着となったのだが、結果は吉か凶か。

蝉食う犬
日中は暑いので、夕方帰宅してから我家の犬と散歩にでかける。
犬のことだから、あちらこちらと嗅ぎまわってはマーキングのおしっこをする。
草むらがあれば鼻づらを突っこんで、ときに草を食べたりもする。
その草もなにやら選ぶ基準があるらしいのだが、わたしは知らない。

ある日のこといつものようにクンクン嗅ぎまわっていたが、
突然、カッカッとなにやら食べているような音がする。
なにを食べているのだろうとのぞきこむと、羽根の断片が散らばっていた。
そのうち昇天した蝉を食べているのだということがわかった。

1466我家の犬

アジアでは、ハチノコやバッタ、セミ、カメムシなどを食用にする。
日本でも以前は、イナゴの佃煮なんかあったではないか。
別にゲテモノとして食べるのではなく、由緒正しき食べものなのである。
そう思ってあらためて見れば、なかなかうまそうかもしれない。
カリカリとした食感が、なかなかいいんですよ、なんてね。

そうだ、地球の人口増加に対して昆虫は貴重な食物資源なのだ。
ということは充分にありそうに思えるのである。
備えあれば憂いなし、というではないか。
どう料理するのがおいしいのだろうか、うーむ急務か。

夏ノ暑サニモマケズ
週末のひとときを山里ですごす。

3097木立

やはり緑のなかは気持ちがいい。
しばらくしゃがんで見ていると、いろんな生き物がいることに気づく。
夏は生命の躍動する季節だとつくづく思う。

3076ちくたく工房

3061蝶

このまえ読んだ本にもこう書いてあった。

『人類がもともと熱帯の動物であることは、
たとえば正常体温が三七度であることによってもしめされている。
人類は、寒さより暑さにたいして抵抗力があり、
そして文化のもたらした手段によって極地から酷暑の地まで、
あらゆる気候条件のもとに住めるのである。』

そういえばホモサピエンス生誕の地はアフリカであった。
現代人は、軟弱になってしまったのだろうか。
冬になれば、それはそれで寒い寒いといいならわすのである。

ちかくの温泉で汗を流し、夜にはバーベキューを堪能する。
都会では考えられない音量でカラオケに興じる。
民家が散在しているので、迷惑ということがない。
まあ、タヌキやイノシシには騒がしかったかもしれないが。

起きぬけに、朝の田圃周辺を歩いてみる。
赤とんぼをみると、やはりもう秋近しの感がわくが、まだ暑い。

3058アキアカネ

稲の葉に露がひかる。
まるで宝石のようでもある。
そのはかなさも、またご同様か。

3085朝露

初秋はどこまでやってきているのだろう。

3079蜻蛉

本で昼寝
夏休みはアルバイトをしてなにがしかのお金を得ると夜行列車に飛び乗るのさ、と彼は話した。
当時は、九州へ向けて深夜の線路を走るふつうの急行列車が幾本か運行されているころだった。
ザックひとつの身軽さで、都会の喧騒をのがれデッキでしばらく生あたたかい風に吹かれた。
四人掛けのボックス席にひとり、眠れるかなあ、などとつぶやきつつぼんやり窓の外をながめている。
眼前をおおう暗闇のなかから、ときおり通過する駅の明かりがいきなり飛びこんでくる。
ウヰスキーのポケットビンをとりだし、蓋についたプラスチックのちいさな猪口でぐびっとのむ。
なんどか咽もとを熱い流れがくだっては消えてゆくうちに、いつしかビンは空っぽになっちまった。
眠れぬままに眠りつつ、夢みるままにいつしか海峡をこえ時をこえて九州へとたっしていた。
列車を降りたってふと足をむけた府内城公園に、本を顔にかぶせて木陰に寝そべる男ありける。

2741木陰

「酔いどれ列車、モスクワ発ペトシュキ行」 ヴェネディクト・エロフェーエフ 国書刊行会 ★★★★
共産主義時代のソ連で、地下出版のころから文壇で評判になった作品だということだ。
酔いどれヴェーニャの旅のありさまが描かれるのだが、これはどんな意味があるのだろうか。
共産主義の治下、政治批判をすることはある意味死を覚悟しなければならなかった。
『ああ、それからまだ、ヘーゲルがいたんだ。これは、よく憶えている。ヘーゲルはこう言った。
「異なる程度と差異の欠如との間には、程度の差以外に、差異というものは存在しない」
つまり、これを分かりやすく言葉に翻訳すれば、「いまどき、飲まない奴がいるか?」ということだ。
何か飲むものはないか、ピョートル?』
こうしてウォトカを飲みつつ列車のなかの乗客と議論しながら旅は続いてゆく。
なぜ人は飲むのだろうか、というよりロシアでは飲まずにはいられないのかという主題がある。
厳しい冬の寒さもあるだろうが、体制への不満、人民の間に蔓延する賄賂や汚職の現実等々。
それらを忘れさせてくれるのがウォトカというわけだが、はたしてそれでいいのだろうか。
ロシア文学といえば、ゴーゴリの「外套」をわたしなどすぐに思いうかべるのだ。
市井に暮らす貧しい人々のあいだであろうとも、生きるという事実は変わることがない。

「リンカーン弁護士」(上)(下) マイクル・コナリー 講談社文庫 ★★★★
今回はハリー・ボッシュのシリーズではなく、刑事弁護士を主人公にしたリーガル・サスペンスである。
事務所を持たずに、高級車リンカーン・タウンカーの後部座席をオフィースとしている。
こうすれば経費削減、こまわりもきくという中年の「リンカーン弁護士」ミッキー・ハラーの物語り。
アメリカの弁護士は日本とはちがって数も多ければ、その仕事もかなり細分化されている。
(だから当然ながら、日本ほど社会的地位は高いとはいないし、尊敬もされていなのだろうか?)
そのなかでハラーは刑事事件専門でろくでもない男たちを顧客として日々奮闘しているのである。
ある日、彼のところに暴行容疑で逮捕された男の弁護依頼がとびこんでくる。
容疑者は金持ち相手の不動産会社の女社長が溺愛しているひとり息子だった。
彼は無実なのかということではなく、無実と陪審に思わせることが必要なのだ。
だが、この裁判はハラーが思いもしなかった方向へと進んでいくのである。
『父の言ったことは正しかった。無実の人間ほど恐ろしい依頼人はない。
そして無実の人間ほどこちらに傷あとを残していく依頼人はいない。』
刑事弁護士という職業はどこに軸足をおくべきなのかを考えると、なかなかにむずかしいものだ。

「午後6時の経済学」 竹内宏 朝日新聞出版 ★★★
初めて竹内さんの「路地裏の経済学」を読んだときのことをいまでも覚えている。
経済学は机上の空論でしかない(現実を後付けでしか説明できない)と感じていた。
ものの見方次第では、こういったことから経済現象を説明できるのではないですかという。
そのあたりまえの感覚が逆に新鮮な驚きを与えてくれたのを忘れることはできない。
『小泉さんが総理大臣になった頃には、特別会計の中に郵便貯金特別会計や簡易生命保険及
郵便年金特別会計があり、そこから道路公団や本四架橋公団などの特殊法人に巨額な資金が
投融資された。77の特殊法人の下には子会社を中心として3000の関連会社がぶら下がり、
巨大な天下りシステムが形成されていた。』
天下りシステムもお金の裏付けなくしては成立しないし、恒久的に維持できない。
『小泉さんは官僚機構と真正面から戦うと敗れることを知っていた。彼は資金源を締めれば
特殊法人が干上がって、官僚機構の基礎が崩れると考えた。それは郵政の民営化だった。』
つまり、郵政民営化とは巨額な郵便貯金を官僚のいいように自由に勝手に使わせないということ。
こう理解できると、問題がすっきりとわかってくるのではないか。
郵政民営化の問題からは、郵便貯金をめぐる利権獲得戦、否、資金源争いの様相がみえる。
そしてそのつけは、すべて国民(税金)にまわりまわってくるという仕組みになっている。

テーマ:読んだ本。 - ジャンル:本・雑誌

輪行袋
世間は盆休みのさなか駅へと歩いていると、ホームにおやっと思う光景があった。
あれは輪行袋だな、と思われるバッグを足元に置くふたりの青年がいた。
楽しそうに話しているのはこれから出かけてゆく先のことだろうか。
それともすでに過ぎ去った輪行の旅のことだろうか。

輪行袋というのは自転車を分解収納するキャリングバッグのことだ。
列車やバスに乗せるときには、そのままの状態では邪魔だし許可がおりないのでこれに納めた。
ぼくが若いころは当時国鉄(いまはJR)や私鉄によって対応がまちまちであった。
いくばくかの金額(忘れてしまった)を払ったのだが、ときに無料ということもあった。
また駅員さんも対応がわからず、車内持ち込みを断られることもあったのである。

すこし遅くなった会社帰りのホームで輪行袋を見かけることがあった。
当時正式に認められていた競輪選手のものであり、夜行列車を待っているところだったりした。
かっこよくもあり、でもすこし人生の影(社会的な地位は高くなかった)を感じる彼らの姿だった。

いまでもときおり最初の輪行の旅を思いだす。

二十歳のころだっただろうか。
和歌山駅まで電車で行って、帰りは伊勢から近鉄で帰ったと思う。
会社に休暇を申請して、紀伊半島を一週間かけてのんびり走った。

1864潮岬

潮岬灯台では越前大野からきたんですという女性ふたり連れと知りあった。
ぼくよりもだいぶ年上だと思ったが、明るくていかにも旅行が楽しいというふうだった。
なにかの話のひょうしに失恋したんです、というようなことをいった。
とてもきれいな人だったから、こんな女性でもそういうことがあるのかと驚いた。

もうバスが来るわと、あわてて灯台を駆け降りた。
停留所までいっしょに走って、まだバスはきてなくて、ハアハアと息をはずませた。
その様子がなんだかおかしくて顔をみあわせて笑った。
でももうだいじょうぶ、こんなに笑えるようになったしと言った。

そのときいっしょに記念撮影したモノクロ写真だけが残っている。

雑種、ミックス、ハイブリッド
駅への階段をくだっていたときのことである。
朝のウォーキングらしいふたりのおばさんの会話が聞こえてきた。

「雑種のことをミックスなんてねえ…」
「よう言うわ、いう感じやないの…」
「馬鹿にしてるわよねえ…」

切れ切れの会話から、どうやらペットショップでのことらしい。
おもわず、「ハイブリッドでもまちがいじゃないんですよ」と言いそうになった。

身近なところでもこういった言い換えはよくある。
たとえば、アパート(apartment house)でもいろんな名称がある。
文化住宅、アパート、コーポ、ヴィラ、マンション、最近ではシンプルに集合住宅、などなどと。

詳しい人ならその微妙なちがいがわかるのだろうが、うーむというしかない。
日本ではカタカナ英語(和製英語も多いし、仏語独語もある)で書くのがかっこいい。
なんだかよくわからないところが、ありがたく高級感がある。
ほんらいの意味なんて関係なくて、おしゃれと思えるかどうか。
その影響は役所の広報までも、いきわたっているのだ。

2655飛行機雲

それはそれで日本ローカルでいいのだが、それを通じる英語だとつい勘違いする。
そこで笑い話のようなことがしばしば起こるし、いまでも記憶しているエピソード(!)がある。

若いころ、友人とグァムへの飛行機内であったこと。
あいにくとスチュワーデス(当時はこういう呼称)は欧米系外国人だった。
飛び立ってしばらくして、飲み物のサービスでワゴンを押してやってきた。
英語でなにがいいですか、と聞きながらである。

ぼくの近くに座っていた大阪人と思われる女性ふたりが言った。
「ホット!」(プリーズもつけないで)
スチュワーデスは怪訝な表情をする。
聞こえなかったと思ったのか、さらに大きなはっきりした声で、
「ホット!」(今回もプリーズなし)
座席の上のエアコン吹きだし口を点検するスチュワーデス。
(思わず吹きだしてくる笑いをこらえるのに苦労した)

女性ふたりは顔を見合わせて、これって英語よねえとささやきあっている。
発音をすこし変えつつ、なおも何回か「ホット!」を連発した後、あきらめて「ジュース」といった。

ジュースを渡した後、ほっとしたような顔でスチュワーデスは去っていった。
(変な日本人、どうして暑いなんていうのかしら、エアコンもきいてるのに、と思ったことだろう)

いまでも当時のことを思いだすと、笑いがこみあげてきてしかたがないのである。

註 関西では喫茶店で、「ホット・コーヒー」のことを「ホット」と注文するのである。

真夏の読書
あるときちょっと気になって、過去の読書の傾向を調べてみた。
(よくおなじ本を買ったり読んだりするので読書備忘録をつけているのだ)
読書の秋というくらいだから、秋に読書量が増えるのかと思ったが、案外なことにそうなっていなかった。
逆に夏は暑くてとてものんびり本など読んでいる気分ではないのだろうとなんとなく感じていた。
だが実際は、夏とりわけ七月に読書量が他の月にくらべて顕著に多くなっていることを知った。
年間を通じていちばんすくないのはやはり一月(正月気分か)で、だれしも納得する結果ではあった。
秋の夜ではなく、真夏の寝苦しい夜こそ物思いにとらわれてしまうのことがあるのではないか。
ねっとりとした闇のむこうにひそむものはなんだろうか、などと考えて眠れないのだろうか。
否、眠れないからこそ蒼穹の惑星をめぐりめぐる旅へとひそやかに飛翔してゆくのかもしれない。

5623映画館

「にせニッポン人探訪記」 高橋秀実 草思社 ★★★
『異国で生まれたニッポン人。
世代と国境を越えた百年ぶりの帰郷。
本書は、入管法改正後、約二年間にわたるこのニッポン人と日本の歴史的再会の見聞顛末記である。
――などと思ったのだが、実際はいささか奇妙なのであった。』
とはじまる日本へやってきた(帰ってきた)南米日系人たちをめぐるノンフィクションである。
日系人といってもさまざまで、日本人の風貌をしているかというとそうでもなく、日本語も話せない。
そういった日系人がいてもおかしくないのだが、なんとなく日本人に受け入れられにくいのだ。
おまけにそれに輪をかけて、ニセニッポン人が多くいることで混乱は続いている。
『ペルーじゃみんな外国に出たくてウズウズしてんだよね。とくにアメリカに行きたいんだよ。
でもアメリカの入管は厳しいだろ、で仕方なくて、この前までは、ニセイタリア人になって
イタリアに行ったり、ニセドイツ人になってドイツへ行ったりしてたけどね。
今は、日本の戸籍だけあれば日本に入れるんで、ニセニッポン人ブームなんだよね。』
グローバル時代の民はお金に引き寄せられて、世界中のどこへでもでかけてゆく。
生まれた土地で生活できればいいのだが、現実の社会はそのようにはできていない。

「ふんころがしのめいじんスカラベ」 文 奥本大三郎 写真 海野和夫 理論社 ★★★
スカラベといえば古代エジプトでは神の化身とされ、また死と再生のシンボルとして有名である。
ミイラの胸のところにスカラベをかたどったものが護符としておかれていたということが知られている。
しかし、ふんころがしという名のせいもあってか日本では人気もいまひとつであった。
虫のことで考えるに、カブトムシとゴキブリはそう形態的にちがわないのにどうして好悪が激しいのか。
いつも疑問でもあり、人間の先入観の強固さを思い知らされていたがふんころがしもそうだったか。
『スカラベは「昆虫記」の第一巻と第五巻に登場します。
この虫はコガネムシの仲間で、ヒツジやウシやラクダのような草食獣の糞を主に食べるので、
「糞虫」と呼ばれています。』
そうコガネムシの仲間なんですね、ということで毛嫌いしないでください。
というのも、なんか変だなという気がしないでもないが、虫ってかわいいですよね。

「独酌余滴」 多田富雄 朝日新聞社 ★★★
国際的にも有名な免疫学者である多田さんの「免疫の意味論」青土社、はすばらしかった。
いまでもはじめて読んだときのなんともいえないおどろきの感覚がよみがえるようだ。
『コロンブスが持ち帰ったというトウガラシは、その後ヨーロッパから世界各国に分布して、
それぞれの土地と気候に適応して変種を作っていった。
遺伝学的にみてもまことに面白い。なぜ生物が多様なものを作り出してゆくのか、
という生物学上の大きな疑問がここにつきつけられている。
コロンブス以前の、トウガラシがなかったころのインドでは、辛くないカレーをすすっていた。
日本経由で赤トウガラシが伝わる前の、韓国のキムチも辛くなかった。』
こんなことも知らなかったのだが、では歴史の重みとはなにをいうのかと考える。
外来種を排除しようという運動は、どの時期でその線引きをするのか、悩むところだ。
固有種というのはなにか、固有種ということと進化変種ということはどこでおりあうのか。
ではあるが、この本のなかで知った(知っていたが)白洲正子さんを読んでみようかと思う。
こうして読書の世界はすこしずつ方向を変えひろがってゆくのであろう。

テーマ:読んだ本。 - ジャンル:本・雑誌

生と死
奇しくも今日は八月六日、広島では六十五回目の原爆忌がおこなわれた。
夏の暑い盛りの日になにも知らない人びとの頭上で原爆は炸裂した。

この日の記憶が未来への楔となってほしいと思っている。
だから逆説的に、この日の出来事を消し去る行為は未来をもうばってしまう。
こんなときに、人生において避けられないことを考えてみるのもいい。

3992広島


生きるということは、いつかは死ぬということでもある。
だが、人々はそれを忘れて生きている。
忘れてというのが悪ければ、あえて考えまいとしてでもおなじである。
生と死は対になった概念である。
であるから、死がなければ生もない。
あるいは、生という概念がうまれることはなかった。

なにがいいたいかというと、死があるから長生きしたいと人は望むのである。
だが死なないとしたら、長生きの意味もなにもない。

論理的におかしいが、死にたいと切望するようになるのだろうか。
芥川の「侏儒の言葉」にならえば、そう望むことは「ないものねだり」に似ている。


どこのだれだったろうか、いい大人が死にたくないと泣き叫んでいた。
たしか、癌だかなんだかの病気に罹っていたことが判明したからだ。
人はだれでもいつかは死ぬのである。
こんなことは、実感は別として、こどもでも知っている。
彼はいままでなにを考えて生きてきたのだろうか。

だれもが自分だけは死なない、あるいは死ぬとしても近い将来ではないと信じている。
そう思うと、生きるとひとことにいうが、そう単純なものでもなさそうだ。
だが、人とは存外そういうものかもしれないとも考える。

人気者とは賢者のことではないが、世間はそうは思わない。
あるいは、思わせないというほうが近いか。
名声を得たからには、それなりの対価を払うべきである。
収入が多くなった分だけ窮屈な生き方をするのが当然である。
なんだか、ひがみっぽい考え方だが分からないでもない。

トータルおなじでないと納得できない、とでもいうのだろうか。
それがほんとうの平等ではないか、などとこじつけるかもしれない。
つまりお金持ちになったら聖人君主として生きる義務(?)が発生するというわけだ。
だが、聖人君主というのは実際に生きた人のことをいうのではない。
そういうものがあるのだろう、そうあってほしいという願望であると思う。

3961夏空

死が恐いというのは、考えてみるとおかしなことだ。
死はその人が生きてる限り、経験できない。
たまにいちど死んで蘇ったのだと主張する人はいるが、厳密には死んではいないのだ。
だって、生きているではないか。

でないと、死の定義を変更するしかない。
死んでいればそう主張することもできない。
だれも知らないことを怖がるのもなんだか変な話だ。
幽霊の正体見たり枯れ尾花、というのと相似していないか。

あるいは獏とした不安がそういう考えの元なのだろうか。
それにつけいる(?)宗教というのもあるだろう。
地獄と極楽、あるいは天国と地獄のどちらがいいか。
どちらでもいいけど、まあ極楽にしようか。
では仏を神を信じなさい。
これは仏でも神でもなくて、人参でもいいのではないか。
ただ、やや有難味にに欠けるきらいはある。

まてよ、死とはすばらしいことだったりするかもしれないではないか。
現にそう信じている人々もいるし、神の元への旅だと考えることもできる。
さあ、どちらをとるのか。
なにもとらず、なにも望まない。

だがここにこうして書き、考えている自己が消滅する。
それ以後の世界はどうなるのか。
認識する自分はいないのだから…。

宇宙は不可思議で満ちている、かのようだ。



プロフィール

ムッシュ

Author:ムッシュ
島を旅するときが楽しいですね。
遠くに眺めるのも好きです。
楽園なんてないんですけどね。

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