ムッシュの読書紀行
人生は旅のようだと言いますが、旅が人生かも知れません。 ぼくは活字中毒気味でもあり、旅はまだまだ続くでしょう。
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早春紀行(三十八)悩める青春
 彼女の深い憂鬱がなにに根ざしているのか見当もつかなかった。
でも年上の女性と話しているような安心感があり次第にリラックスしてきていた。
みんなといっしょに校内を歩きながら、ぼくは彼女といろいろと話をした。
 長女だということ、弟と妹がひとりずついること。父親は厳格で家ではあまり話をしない。
母親は父親の言うことにはいつも唯々諾々としたがっている。
楽しそうな顔をするでもなくただ淡々と家事をこなしている。
そんな母の顔を見つめていると、自分の将来がダブって見えてぞっとしてしまう。
母は父のどんなところが好きで、なにに惚れたのだろう。
そう、惚れるというようなことが若いころの母にはあったのだろうか。
なにが楽しいのだろう。そう思って母の横顔を見ていると、なぜだかイライラしてしまう。
そんなことを話しながら、どうしてなのかしらねというふうな表情をしてみせる。
 そんな話に対してぼくはどう答えていいものかもよく分らず、ただ頷いていた。
どうしてそんな話を、ましてや初対面のぼくにするのだろうか。
そんな疑問を感じたりもしたが、彼女の声はこころよくぼくに伝わってくる。
それになぜか彼女の愚痴ともいえる話がよくわかる。
悩みのない奴なんかいないよな。そう思って彼女を見ると微笑んでもいるようだ。

1614地に虫

「君って、悩みがなさそうにも見えないけど、やっぱりあるよね」
「そりゃあそうですよ。誰だってあるんじゃないのかな」
「そうだよね。ひとりウジウジと考えていたってしかたがないんだよね。
こんなことって何年かしてふりかえったら、こどもだったんだなあなんて思うんだろうな。
すこしでも君に話せてスッキリした。どうもありがとう」
「そんな礼を言われるほどのことじゃないですよ。愚痴だったらいつでも聞きますよ」
「えっ、愚痴かあ。そうだよね、こんなの愚痴でしかないよね」
「いやあ、そういうつもりで言ったんじゃないんだけど…。
ぼくも似たようなこと考えたりすることがあるし、やっぱり蛙の子は蛙だし、なんて…。
それが嫌だなあとは思うんだけど、それのどこがなにが嫌なのかと考えていくと、
やっぱりこれって愚痴かなあって思うんだ」
「言い訳になってるんだ、自分に対しての。こんなのずるい考え方だよね。
そんなことよりなにがしたいのか、どんなに生きたいのか、なにを糧にするのか。
前向きに考えないといけないってことなんだね」
「うん、そうじゃないかな。それに、親たちにだってぼくたちの知りえないこともあるだろうし。
誰だってそうだと思う。肉親だからとかでかっこには入れられないですよ。
そう考えても、現実は必ずしもそうできるという訳じゃないですけどね」
「ふーん、そんなふうに考えるのか。わたしはそうは思えないな。
これって男と女の違いなのかしらねえ。
世界は自分が中心なんだ。わたしは天動説をとるな。
コペルニクスなんかぶっ飛ばせ、そんな気分だわ。
そうそう、デカルトのいうように自分が存在しなければ、世界も意味がないと思う」
「そうかなあ、ぼくは存在すると思うけどなあ。
世界は自分の存在とは関係なく確かに存在する」
「じゃあ、その存在はなにによって知ることができるわけ」
「それは、そうだけど…」
「わたしの言いたいことはね、そんな存在論じゃないのよ。
わたしのいない世界なんて興味がないというか、興味を持つ主体さえも存在しない。
なんか説明しづらいわね、つまり自分だけが可愛いってこと。
わたしに関わりのあることだけで生きていきたい、生きる、そういうこと」
「高いところから普遍的価値観なり道徳論をぶつ奴が大嫌いなんだ。
自分のことも始末のできない奴が偉そうなことを言うんじゃない。
そんなことお前に言われたくないよ、そう思ってるの」
「うーん、近いけど微妙にずれてる感じがする。
そうね、わたしはけっして人類愛とか倫理観を否定しているんじゃないのよ。
ただね、そういったことをいう人の裏になんだか卑しいこころを察知してしまうのよ。
日々食べていくだけが精一杯の人とか、つつましい日常生活を送っている人に対して、
馬鹿にしたような、あるいは見下したような態度が見えて我慢できないのよ。
そんな奴に限って金の亡者だったりするじゃない。
冗談じゃないわよ、何様のつもりなのよ。と、啖呵のひとつもきりたくなるわ。
人が生きていくって、そんなことじゃないと思うんだ」
 と相変らず男子のような口のきき方だった。

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震災CMのパラドクス
東日本大震災がおきて民放テレビのコマーシャルではよいことをしようCMが連日大量にながされている。
その主体だったACジャパンに視聴者から抗議が殺到しているという。
どのような抗議なのかは知らないが、そのCMを見ている側からは視聴者をバカにしているように感じる。
お年寄りに親切にしようとか、あいさつの言葉などかけることによって仲間の輪がひろがるだとか。
そんなことはいまさら言われなくてもだれもが分かっていることなのだ。
なのにそうしろ、そうしないお前らは莫迦だというふうにプレッシャーを感じる人々がいるのかな、と思う。
なにか正しすぎる提言(反論できない)は、やりたくてもできない(経済的に)者にはストレスになる。
多くのボランティアが求めているのは、そういうわかりきった道徳的なものではない。
実際に、被災者が困っている助けを必要としてることはなんなのかが知りたいのである。
震災募金活動をする高校生がいる一方、地道なボランティアで汗を流している高校生も多くいるのだろう。
いろんな方法があっていいし、いろんな方向から援助するほうが健全だと思う。
わたしは自分で募金先(国境なき医師団)を選定し、ネットからでもできる確実な募金をすることにした。
結論として、あのCMは援助とはなにか、助けあうことの意味はなにかを考えさせてくれたのではないか。

6020国境なき医師団

「日本人の正体」 養老孟司 テリー伊藤 宝島社新書 ★★★★
西欧の男女の社会的位置というのは、日本ではあてはまらないことも多いだろうなと思う。
ボーヴォワールがいった「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」は生物学からすれば異端だ。
『男が弱いというのは、ある意味で当たり前のことなんですよ。
もともと、人間っていうのは、放っておけば、男はおとなしくなるし、女は活発になるんです。
だから昔の人は「男は男らしく」「女は女らしく」と言ったわけです。
そうしないと、「男はしとやか」で「女は強くたくましく」なっちゃうから。』(養老)
ヒトの本来型は女であって、男はまあできそこないというか、極論すればなくてもいい程度のもの。
『僕の先輩が名セリフを言ったんだよ。
「男は現象だが、女は実体だ」って。男と女の違いは、それに尽きる。』(養老)
なんだかわかりすぎるほどジーンとくる。だから男は悩むのである。
『僕の先生は「悩むのも能力のうち」って教えてくれましたから、僕はそう思っていたけれど、
オバサン道の教えは「悩まないのも能力のうち」っていうことだね。
どっちが強いかと言ったら、そりゃあ、オバサン道だよね。』(養老)
ということで、とりあえずヒトはもうすこし生き延びられるのではないかと考えたりするのだ。

「綾とりで天の川」 丸谷才一 文藝春秋 ★★★
いっときテレビ番組で「トリビアの泉」というのが人気があった。
トリビア、つまりなんの役にも立たないのだが雑学的な評価をする人も多い。
『博奕でイカサマをやる。それをインチキと言ひますね。
あのインチキという言葉を漢字でどう書くか、ご存知ですか。
わたしは片仮名表記にしか出会ったことがないので、漢字表記にはじめて遭遇して衝撃を受けました。
念のため『日本国語大辞典』を引いても書いてない。
「陰智機」と書くんです。』
これを知ったからといって、まあどういうこともないのである。
『上方いろは歌留多は「一寸先は闇」ださうですが、なるほどこれなら、おどしがきいてゐて、すごみがある。
中部いろは歌留多は「一を聞いて十を知る」。めでたくて堂々としてゐる。
江戸のは言ふまでもなく「犬も歩けば棒に当る」で、これは吉凶いづれかわからないけれど、
しかし昔から耳にタコができるほど聞いてゐるせいか、何となく貫禄充分な感じである。』
そうか、いろは歌留多って全国共通だとなんとなく思っていたけど、いろいろあるんだ。
で、それがどうしたと言われれば、もちろんどうということはないのである(笑)。

「日本人へ 国家と歴史篇」 塩野七生 ★★★
塩野さんは自分が女性だからということで議論をはじめることはない。
『しかし、歴史に名を残した女たちの多くはバカな女である。
その理由は、記録を残すのが男たちであったからではないかとさえ思っている。
男は、女としては魅力豊かでもオツムの中は浅薄な女を書いているほうが、
安心できるからではないだろうか。
キャリアウーマンを自認する女たちは覚えておいたほうがよい、これが人間性の現実なのである。』
ある種のフェミニストや、教条的に男を批難するだけの同性には厳しい眼をむけている。
批難することが職業になっている人間に、解決策を求めるの愚はやめたらどうかとさえいう。
『いいかげんに、女ならば女のことを心配するという習性から脱してはどうであろう。
女が女のことばかり考えているかぎりは女の独立は絶対に達成できないと思うし、
フェミニストを職業にしている同性を私は信用しない。
なぜなら、女の独立が達成しようものなら、何よりも先に彼女らが失業するからで、
シンポジウムあたりでこの種の女たちの発言を聴いていると、
彼女たちはほんとうに女の独立を望んでいるのだろうかと疑ってしまうのである。』
だからといって男が安心していいということにはならないので、ご留意いただきたい。

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早春紀行(三十七)生意気ざかり
 ぼくたちはぞろぞろとくっついたまま中へと入っていった。
展示を見ている他校の生徒はまばらだった。展示を見るよりは周囲が気になった。
ぼくたちの好奇心がおっかなびっくりを駆逐して、頭をもたげてきたようだ。
こうなってくると、かえって落ちつくというものだ。ただし、話しかけられたりしなければ…。
「遅くなりましたけど、こちらに来てお茶を飲みませんか。
たいしておいしいかどうか、わりませんけど。じつは、家でもしたことないんですよ」
 といたずらっぽく笑いながら話しかけられると、もうやっぱり駄目だ。
「どうもすみません」
 なにがすまないのかも分らずに、ただすみませんを連発するばかりであった。
声もかすれがちだったのが、あたたかい緑茶を飲んでうるおいを取りもどした。
 まわりの友がとんちんかんな会話を続けているなかで黙ってすわっていた。
なにかを話したいとか、誰かと知り合いたいとか、なにも考えることなくただそこにいた。
 そんなぼくに小声で話しかけてくる人に気がついてぼくは現実にもどった。

0925浜の桟橋

「つまらないでしょ。こどもっぽくて、興味持てないですよね」
 あかるい表情とは裏腹なことばに、一瞬びっくりした。
「そんなこと、ないです、けどね」
「やっぱり、そう思っているんだ。いいんですよ、みんなこどもばかりですから」
「ぼくだって、こどものうちに数えられるんじゃないですか」
「そんなこと、ちっともありません」
「そうですか、でもどうしてそんなこと言うんですか」
 いちだんと声を低くして、彼女は言った。
「だって、ふつうの会話なんかしたっておもしろくないでしょ。
それに、あなたって何かほかの人とはちがう雰囲気があるんですもの」
 ぼくもつられて声を潜めながらこたえた。
「それは、あなたも同じですよ。ほかの人とは、ずいぶん違いますね。
あれっ、それってぼくが変人ということになるのかな。そうかもしれんなあ」
 ちいさく笑いながら、ぼくを手招きしてこうも言った。
「あなたが変人なら、わたしも変人ということになるんじゃないかしら。ちがうかしら」
「ぼくは変人でもかまわないですけど、あなたはけっして変人ではないですよ。
見た目もふつうだし…」
「いいのよ気をつかわなくっても、自分で充分認識しているから。
わたしは、けっして可愛い子ちゃんにはなれないし、美人でもないから」
「そんなことないですよ、わりと可愛いほうだと思いますけど…」
「無理しても駄目、言葉がなめらかじゃないわ。すぐにわかるわ」
「そうですか、どうしてわかるのかなあ。あっ、すみません」
「いいのよ、あなったって見かけとちがって、正直かも…。フッフッフ。
でも、もしかしたら単なる鈍感だったりして。ごめんなさい」
「いいえ、かまいません。でも、ぼくは鈍感をよそおう悪い男かもしれないですよ」
「それだったらほんとうは嬉しいんだけれど、どうかしらね」
「参ったなあ、あなたは何年生なんですか」
「そんなこと、なんの関係もないんじゃない。まあいいわ、二年生よ」
「ぼくも二年だけど、女性のほうが早熟だっていうからな」
「それはそうかもしれない。女は早く成熟して、こどもを産める体制になってなくちゃ、ね。
それが自然の摂理なんだろうと思うわ。それがまた悩みの種なんだけどね」
「どうして、それが悩みの種になるのかなあ」
 ぼくを哀れむように見つめて、
「どうしてなんだろうな。ぼくにもわかんない、なんてね。ハッハッハ」
 と男の子のような声音で笑い飛ばした。

早春紀行(三十六)文化祭
 ぼくは時間の感覚を忘れてしまったかのような頼りなげな気分ですわっていた。
しっかりしなくちゃいかんぞ、おまえは人生の先輩なんだからな。
そうだ、それに兄貴でもあるんだな。いいじゃないか、かわいい妹なんだぞ。
そんな声がこころのなかで行き交っていた。

1661アゲハチョウ

 ぼくは男三人兄弟の長男だが、ほんとうなら兄貴がいるはずだったのだ。
彼は生後すぐに亡くなったので、戸籍上はぼくが長男だと母から聞いた。
高校も工業高校だったので、ほとんどいつも男ばかりという環境であった。
 そんな高校時代だからガールフレンドがいるわけもなかった。
まわりの大多数が同じような境遇だったし、抜け駆けはゆるさない雰囲気もあった。
だから逆に、女子のおおぜいいる高校の文化祭情報などにはみな敏感だった。
どうすればそういった場所に出入りできるのか、誰も知らないようだ。
 そんなとき、Sという奴から商業高校の文化祭に行かないかとの誘いがあった。
気持ちとは裏腹に、まあ行ってやってもいいみたいな返事をしながら、
友人の顔色をうかがい、じゃあいいわ、と言われたらどうしようという不安もいだいていた。
なんだかんだと文句をつけながら、最後は絶対に行くからと低姿勢になった。
 Sもそのへんは鷹揚に笑いながら、こちらの腹は見透かしているようなことを言った。
最寄りの駅に集合ということになり、当日はなぜか早くに眼が覚めてしまった。
服装はもちろん学生服であり、念入りにブラシをかけてズボンも寝押しをした。
するとどうしたことだろう、ズボンの折り目が二本になっているではないか。
寝相が悪かった、それだけに尽きる。余計なことはしない方がいいのである。
 駅にはみんな15分前には到着していて、ひとり送れている奴がいる。
案の定、Sである。定刻すこし遅れて、彼が照れ笑いをうかべながらやってきた。
ぼくたちに文句の言えるはずがない。彼をうながして、M商とよばれている高校へむかった。
行く途中で、すこしでも情報を仕入れようと質問攻めである。
かわいい娘はいるだろうな。どこの部の連中を知っているんだ。
その子たちの人数は俺たちより少なくはないだろうな。
お前の彼女はそのなかにいるのか。立て続けに質問した。
 焦るなよというように俺たちを押しとどめながら、ゆっくりと話しはじめた。
いまから行くクラブは女子ばかりの部だから心配しないでいい。
俺の彼女はいない。そういう兆候も残念ながらまったくない。
クラブの中にひとり中学の同級生がいて、男子を連れてきてほしいと頼まれた。
かわいい娘がいるかどうか、俺は知らん。ということだ、わかったか。
 その説明にみんなは訳もなく納得顔である。
ぼくはすこし納得できない点があったが、おおむねそのようなことだろうと思った。
急にみんなは明るい顔になって元気がでてきたようだった。
しかし問題はこれからなんだけどな、とひとり訳知り顔でぼくはいた。

 土のグラウンドを通りぬけて、ひんやりとした校舎にはいっていった。
しずかな廊下の先から笑い声がきこえてきて、ぼくたちはほっとした。
階段を二階へと上がって、めざす教室へときょろきょろしながら歩いた。
なにもかもが珍しい感じがして、落ちつかない気分だった。
すれちがう他校の高校生たちが、みな賢そうにみえてしかたがなかった。
 廊下にならべた机のところにいる女生徒の前でSは立ちどまった。
うしろをよそ見しながら歩いていたぼくたちは、彼にせき止められて入口に溢れた。
「こんにちは、Sですけど、Kさんいらっしゃいますか」
「はい、すこしお待ちください。いますぐ呼んできますから」
 駆け足でその場を去っていく女の子を見つめながら、ドキドキするぼくたちであった。
「なんか、緊張するな」
「静かにせえよ、聞えるやないか」
「大丈夫やて、でもどんな話したらええのかな」
 いちように不安げな表情のぼくたちに、Sはいとも簡単に言った。
「どうってことないやんか。男は、どしっとしとったらええねん」
 その言葉にぼくたちは、ただただ圧倒される思いだった。
「それにな、…」
 と言いかけたところに、Sの同級生という女性がやってきた。
にこやかに微笑むので、ぼくたちの頭のなかはさらなる混乱へと突入していった。
「わざわざ遠いところをいらっしゃってくださって、ありがとうございます。
わたしたちのクラブの展示を是非見てください。それに、ゆっくり楽しんでいってくださいね。
ご案内しますので、どうぞみなさん中にはいってください」

喉元過ぎれば
熱中しているときにはどうしても全体像を把握するというようなことに神経がまわらないことが多い。
どうしてそんなふうに考えて行動してしまったのか、あとになってからでは理解できないということもままある。
時間的な制約があったろうし、とにかく何かしなくてはという強迫観念的なものもあったかもしれない。
まわりがひとつの方向へとむかっているときには、ひとり逆志向することができなかったりする。
それはそれとして、そんなことを考えたことすら忘れてしまっているということがあるのはなぜだろう。
この日本社会のなかで生きるための術ではないか、とすら思えてくることがある。
地震・雷・火事・親父(台風のことだともいう)といいならわすように、過ぎてしまえばそれまでだ。
すべてを水に流してしまおうとするのは、自然災害にくよくよしてもしかたがないという諦観でもある。
それはひとつの人生観なのだが、科学が発達してきてすこしは対処できると、なんとかなると考える。
過去の事例から予想しさらに安全率を上乗せしていのに被害にあう、と想定外であったということになる。
だが、本来自然はつねに想定の外にあるものではなかったのだろうか。

4035窓外

「隅田川の向う側 私の昭和史」 半藤一利 創元社 ★★★
東京向島生れの著者がサラリーマン稼業をしていたころ豆本年賀状というのを出しつづけていた。
一九八〇年から一九九五年までの十六年間のうちの三、四、五、六冊の豆本年賀状をまとめたもの。
当時の学生気質(ボート部という体育会系)や世相などわかって、なかなかおもしろいものである。
そんななか女性とやりとりした手紙に関してこんなたのしい話もある。
『彼女の手紙の封筒は封をしたところに、三カ所にわけて「つぼみ」といつも書かれていた。
「開かない」という意味だそうだった。こっちは「〆」ばかり、じゃ能がないと智慧をそぼって、
返書の封に√5としたためたことがある。
日向ぼっこのあるとき、彼女が訊いた。「あれ、どういう意味?」
私は得々として答えた。ルート5は、つぼみと同じ、開かないということ、菊池寛の小説にでていた。
上野さんはいったもんだ。「あんた、勉強が好きなのね。私と違って頭がいいのね」
このときほど、勉強がしたいなァ、と心から思ったことは、生涯に、ない。』
勉学に志すというようなことも、このようなちょっとした言葉をかけられた結果であることが多い。
わたしにはこのような経験がない、ということがちょっと哀しくもある。

「簡単に断れない。」 土屋賢二 文藝春秋 ★★★
どのような本がおもしろいと感じることができるか、ということは案外に個人差があるようだ。
では筆者の以下のような言説(?)を読んで、あなたならどういう感想をもつだろうか。
『「女らしい」性質は男が無理やり女に押し付けたという考え方もあるが、少なくとも今の時代は違う。
どんなに女が自由になっても、男(とくに中年男)のようになりたいと思う女はいない
(中年男でさえ、いやいや中年男になっているのだ)。
どんなに無茶なことをする中年女でも、自分が嫌う中年男のようになりたがるとは思えない。
納豆を嫌う者が納豆のようになりたがるだろうか
(オヤジのような言動をする女もいるが、自分をオヤジだと勘違いしているか、本当にオヤジであるかだ)。』
『幸福になるには努力が必要である。金がないと幸福になれない人は、金を手に入れる努力をするしかない。
やせないと幸福になれない人は、ダイエットなどの努力が必要だ。
だが、努力はつらい。つらいことが嫌いな人は幸福になることを断念するしかない。
そもそも、健康の快適さを求める人は、検査のような苦痛を嫌い、飲酒、喫煙などの快楽を求めるものだ。
金をほしがる人にかぎって金を使いたがる。やせたがる人にかぎって食べたがる。
おとなしい男にかぎって横暴な妻がいる。』
おもしろいと感じる人はさらに新たな著書に挑戦していただきたい。
ちなみに土屋氏は哲学者である。すこしは哲学に関する印象がかわりましたでしょうか。

「化粧するアジア」 呉善花 三交社 ★★★
書かれたのが一九九六年とすこし前になるが、上海、台北、香港、シンガポールを訪問してのレポートだ。
アジア人といっても、その地によって外見以上に人びとの価値観、美意識はちがうものである。
『本来「ナチュラル」といえば、自然な素肌の美しさを養いながらそれを生かそうとする、
淡く透明な感覚が魅力の化粧スタイルだといえます。
ところが面白いことに、韓国人にとっての「ナチュラル」とは一般に、
「ファンデーションを塗って素肌そっくりの色を作り、薄い口紅をつけること」となっているのです。』
おなじようにナチュラルな化粧といってもほとんど正反対というようなことがある。
香港では女性の働く場がたくさんあり、社会、職場進出には目ざましいものがあるという。
『それは、子どもをもつ働く女性の子育てが、大部分、両親やメイドさんに委ねられている、ということです。
だからこそ、香港には共稼ぎ夫婦が多いのです。両親に負担がかかることにも問題がありますが、
それよりもメイドさんの方により大きな問題があると思います。
メイドを多く雇うことのできる国は、例外なく一般市民以下の低賃金で働く労働者が豊富に存在する国なの
です。アメリカなどはその代表的な国の一つです。
そこには、いうまでもなく大きな所得格差、社会的な差別が存在しています。』
ということを忘れた議論は、非現実的なものとなる。
呉さんは以下のような感想をいだくのだが、急激に経済を発展させている華人社会に共通するのだろうか。
『上海、台北、香港、シンガポールとめぐってきて、つくづく思うのですが、これら華人消費都市では、
強固なブランド指向、高級品指向に象徴される「ステイタス消費」が一貫していて、
シンガポールでそれが極まった、という感じです。』

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早春紀行(三十五)昼下がりの島
 ぼくの未来と、彼女の未来がどこかで交差する、そんな夢想がうかんできた。
ふたりに共通項はあるのかと考えたとき、ぼくは彼女のなにをも知らないことに気づいた。
 人を好きになるのは、その人のことを知りたいと思う気持ちとおなじだ。
知りたいことは、その人の興味がなににあるのかであったり、人生観であったりする。
また感じたいことは、その人の声の抑揚であり、笑い声であり、髪の匂いであったりする。
はるかを望むまなざしで木漏れ日の窓際に立つ。背筋をぴんとのばして歩いていく。
静かに本を読んでいる、そんな姿をぼくはただただ見つめているだけだ。
彼女が朗らかに笑うと、ぼくも知らずに微笑んでいて、どこからか笑い声も聞えてくる。
楽しそうに話しているのをみると、ぼくもなんだかうれしくなってくる。
困った顔をして沈んでいると、ぼくはどうしたらいいのだろうかと狼狽えてしまう。
なにかを思っているときは、ぼくのことを思わなくても、忘れないでいてほしいと願う。
 ああ、あまたいる人のなかで、どうしてぼくは彼女のことが好きになったのだろう。
ぼくは彼女のどこが好きなのだろう。
と考えたときに、はっきりと知ることになる。
どこがではない、彼女のすべてが彼女という存在がわけもなく好きなのだ。

 こんなこともいまここに書いているからであって、そのときの意識としてはなかった。
たぶん、きっとそうだったと思う。そのころのぼくは人を好きになることが、なぜか怖かった。
ほんとうに好きだと直感する人の場合は、とくにそういう傾向があった。
 だからといって、知らないふりをすることは耐え難くつらいことだった。
なにか方法がないだろうか、と考えて見つけた態度がそういうことだったのだ。
 とにかく時間をかけてすこしずつ前進していこう。好きなことを隠すことはない。
でも、あえて前面に押しだす必要もない。
しかも、これは恋愛というのとはちがうと思う。
否、まだ恋愛ということはできない段階なのだ。
それに、人は未来のことはわからない。
最悪の事態になっても(つまり、ふられるということだ)、どういうことになっても、
男らしく(自信はないけど)素直に受けいれる男でいよう。
彼女には良き人生の先輩として接していこう。
こう考えて、無理にも納得した。
 先輩となるからには、いろんなことを知ることが必要だし、アドバイスもできなきゃ…。
ここで、はたと困った。もし、恋愛の相談など受けたらどうすればいいのだろう。
ぼくは不安と混乱を感じながらも、平静を装いつつ話を続けるしかなかった。

 野鳥の森から、またきた道をもどってっていく。
ほそい道に草がおおいいかぶさるように生えている。
青臭いにおいを胸に吸いこんで土の道を歩いた。風もなく、あたたかな陽がさしていた。
中央が雨に削られて溝になっている細い山道を、声高に話しながら歩いた。
下のほうに海が望めるところでは、風が斜面をゆるやかに上ってきた。
瀬戸内海をすすむ船舶は動いているのかどうかもわからないほどで、海面にうかんでいる。
 左右に畑が開けている道にさしかかると、下り勾配になってきた。
セメントに石を混ぜて固めた道は階段状になって港へと続いていくのだろう。
墓地の横を通り、お寺の壁沿いに若者たちはわいわいと下っていく。
 両側に家々の防腐剤にひたされた木壁が続くあたりになると、道も歩きやすくなる。
ときおり子供たちの声が聞えるほかは、森閑として眠っているような集落である。
すりガラス戸の散髪屋らしき前をすぎるころには、みなばらばらになって歩いていた。
本宅とよばれるおじさんおばさんの住居兼店屋に立ち寄って、買い物をする者もいる。
 店先の菓子類や送迎用の色つきの紙テープなどを買い求めている。
暗い店内の奥には、おばあさんがひっそりと暮していることをぼくは知っていた。
 港の見える場所までくれば、左手に郵便局と漁協、駐在所がある。
右手を見れば、すぐそこに船着き場が見える。
二三人の島人が立ち話をしている。
岡山弁が聞こえてくると、なんだかにんまりとしてしまうのは何故なのだろうか。

 TさんとK君とぼくは、乗船券売り場前の長椅子に腰をおろした。
幾人かは桟橋の先端まで行って、海に手をひたして水をかけあいふざけていた。
のんびりとした昼下がりの島では、なにもかもが眠たげに横たわっていた。

0944港で

早春紀行(三十四)記念樹
 どこまでも、どこまでも歩いていきたい。
クタクタになるまで歩きたい。
もうなにも考えることができないほどに疲れて、ぼろぼろになるまで歩きたい。
歩くこと以外のことをなにも考えずに、ただ道をひたすらに歩きたい。
歩くこと以外に存在するものはなく、あとすこしあとすこしと呟きながら歩く。
とどまることもできずに、ぼくは歩き続ける。
歩くことは、ぼくの思考なのだろう。
歩きながら空を見あげれば、空とはなにかがわかる。
視線を道端の花に落とせば、色とはなにかがわかる。

「この桜って、何年先ぐらいに花が咲くんですか」
「さあね、『桃栗三年、柿八年』というから、そのあたりから類推して、五年ぐらいなのかな。
はっきりしたことは知らないんだ。
それに必ず成長して花を咲かすとは限らないからね」
「そうですね。ほとんどほったらかし状態ですから、運次第ということもありますよね」
「桜の花って綺麗なようですけど、もの悲しい感じもします。
風が吹いてハラハラと花びらが舞散るさまは、なんだかおそろしい気がしないでもないです」
「桜の満開の下で、狂気に襲われるというような小説があったと思う。
美しいものははかないもの、さらに潔さといった連想に日本人は傾きやすい。
それが日本人の性向だというならそうだが、文化のちがいはおおきいな。
ぼくたちは気がついていないけど、おさないい頃からそれこそ何度となくそういった話を、
聞いたり、読んだり、絵で見たりしながら無意識を強化してきたんだろうな」
「でも散った桜も翌年にはまた花を咲かすんですから…」
「そうだね。春から夏になり、秋がきて冬を迎える。そしてまた春が来る、か。
毎年綺麗なそして清楚な桜の花を咲かせる自然は偉大なりということかな。
咲かせるだけではなく、散ることも同時的に進行していく。
移り変わる季節がある。輪廻転生ということに繋がっていくんだろうな。
やはり、ぼくらは日本人なんだな」
「そうですよ。日本人って無宗教とかいう人が多いですけど、考え方は仏教的ですよね。
けっして仏教徒的ではないんですけどね。的って、曖昧模糊でそれこそ日本的」
「わたしもそう思います。
なんだか無節操な気もするけど、ほんとうのことですもの。
仏像など見てるとこころが落ち着くというのか、安寧な気もちになれます」
「なんだか高校生にしてはむずかしいこと言うんだな。
ちょっと、よそいき思考になっているのとちがうかな。
まあ、別にかまわないんだけど。
桜って、そんなことを考えさせる不思議な力があるのかもしれないな。
何十年かして、この桜が咲く頃にここに来たらいったいどんな感慨をいだくのかな」
「もういいおじさん、おばさんになっているんでしょうね。
子どもを連れてきたいですね。これがお父さんが若い頃に植えた桜の木だって。
でも分りますかね。きっと、もうどれが自分の植えた木なのか分らないんでしょうね。
そう思うと、ちょっと寂しい気にはなりますね」
「わたしも、おばさんになっているんですよね。結婚してるのかな。
その間にも毎年桜は花を咲かせて、そして散って、葉桜の季節をむかえる。
秋がきて、誰も訪れない季節を過ぎて冬の風を受け、また新しい年になる。
わたしにも、いろんなことが、予想もしないようなことが、起きているんですよね、きっと。
わあ、どんな人生を生きているのだろう。考えられないですね」
 そう言って、こちらの方に向きなおった。
逆光のなか、彼女の表情はわからなかった。
微笑んでいるようでもあり、なにかをじっと凝視しているようでもあった。

2434野鳥の森の桜

早春紀行(三十三)野鳥の森
ぼくはドギマギして、つい目を逸らしてしまう。
でも、Tさんがぼくをじっと見つめているのはわかったし、ますます落ちつかない気分だった。
彼女がじっと見つめながら微笑むから、ぼくはどうしようもなくて言葉もでない。
純真な気もちの持ち主なんだ、すくなくとも嫌われてはいない、これは確信できる。
ぼくのことが好きだからというのではないぞ、誤解するなよと自分に言いきかせた。
でもそんな彼女のことがますます好きになっていくぼくを、ぼく自身はどうすることもできない。
 顔をみるのが気恥ずかしくて、視線は彼女の輪郭を彷徨うばかりだった。
そんな彼女は細面の顔に似あわず、肩から二の腕にかけて筋肉がついていた。
「案外がっちりした身体というか、腕っぷしが強そうですね」
「そう見えますか、やっぱり。わたしって海洋少年団にはいってカッターを漕いでるからかな。
ちょっと、腕がたくましくなってるんです。へんなところ見てますね」
 と言いながら、すこしも恥ずかしがらずに笑う顔がまたとても魅力的だった。
「ふーん、文武両道でいこうというわけですね。おおいに結構、頑張ってください」
 緊張のせいか関西弁が影を潜めている。Kくんに気づかれないといいが…。
焦点のさだまらない話をしているうちに、集団は野鳥の森へと到着した。

3525野鳥の森

 森とは名ばかりで、どのような角度からながめてみても原っぱとしかいいようがない。
細い道から一段下がった傾斜地は前日の作業によって雑草が刈られているところと、
いまだ蔓草が木々にまとわりついて行く手をはばむ草叢が混在していた。
さあ頑張って草刈りをやろう、の号令の元それぞれ思い思いに散らばっていった。
 去年植えられたとおぼしき苗木があった。
すぐ近くに植樹者の名前が書いた札もある。
植えた人の思いをうけて桜は精一杯にのびようとしているのだが、実情はきびしい。
蔓にからまれているちいさな桜の木を助けるように鎌で蔓を切っていく。
慣れない手つきでは蔓も思うようには刈れない。
刈り込みの途中で生木がにおう。
緑色の汁が鎌の刃にしたたる。青臭い空気のなかで、ぼくはいろんな生命を感じていた。
蔓だって生きているんだけどな、そう思うとつい手元がゆるんでくる。
もう止めた、こころのなかでそう思うと蔓をつかって月桂樹の冠のようなものをつくる。
輪っか状にして、Tさんの頭にのっければビーナスになるのかな。
あほくさと思う気もちと、でもこれもお近づきのきっかけやと思う気もちがせめぎあった。
短い葛藤の末、あほくさは破れさった。
ニヒリズムはなにものをも生みださない。この際はそう思うことにした。
ご都合主義もいいところであるが、若さには勝てなかった。
 これをどうわたすかが、またまた問題なのである。
さりげなくというが、これが存外にむずかしい。
どこに行ったかなと見まわすと、向こうの方でKくんら数人と植樹をしているようだった。
太陽はいつのまにか真上近くにまできていた。
「このへんで、お昼にしましょう」
 斜面に腰をおろして土のうえに足を投げだす。
海のほうから、かすかに風が吹いてくる。
風にのって潮のにおいが鼻を刺激する。
なんともいえない落ちついたいい気分だ。
 大きなザルに握り飯がどっさりとはいっていた。さっそくひとつ取って、かぶりつく。
塩味が疲れた身体に反応してとてもうまい。
噛んでいると、うまみが口中にひろがる。
あっという間にふたつ平らげて、やっとひとごこち着いてきた。
 知らぬまにKくんとTさんは横に坐って、おなじようにおにぎりを食べていた。
ならんで海のほうを見ながら、小鳥のさえずりに耳をかたむけていた。
オレンジ色のジョウビタキが低く枝をかすめて飛んでいく。
きっと、そのまた前方を羽虫が飛んでいるのだろう。生きるための連鎖である。
ぼくはその連鎖のなかの、ちっぽけなでも影響を及ぼす生き物でもある。
なにが、なにを、なんのために、それで、なんになるのか。
どうしても思考はめぐる。なんで、なぜに、なにゆえに、どうあらねばならないのか。
問いは、問いをうみだす。
投げだしたいような気分になるが、まだまだこれははじまりに過ぎないと直観するのだった。

昭和の時代
墓参りからの帰り道、ホームセンターに立ち寄ったら「古本市」がおこなわれていた。
本は買わないと決めてはいたが、見るだけならどうということはないだろうと理由づけて見てあるく。
とりたててなにもないなと思いつつ、ふと手にとって見たのが運のつきだった。
毎日新聞社発行の「昭和史全記録」という分厚い(七cm)本があって、ひろげてみるとおもしろい。
発行は一九八五年三月五日、ちなみに定価は12000円とある。
だが、そこは古本なので格安(?)だしこれは事典だからいいのではないか。
などとしばらく逡巡していたのだが、思いきって買うことにした。
まず最初に自分の生年のページをあけてみるというのが、ありきたりだが緊張する。
ぱらぱらとめくって最初に目についたのが小津安二郎「東京物語」(昭和二十八年)だ。
ポスターを見て原節子はなんとなくわかるのだが隣の美女は、はてだれだったかなどと訝るのである。

4191昭和史全記録

4194東京物語

「天使は振り返る」(上)(下) グレッグ・アイルズ 講談社文庫 ★★★★
ミシシッピ州中部の古都ナチェズにある進学校セント・スティーブンズの女子生徒が殺された。
ケイト・タウンゼントは美人で、ハーヴァードにも進学が決まっているというスター優等生だった。
彼女と恋愛関係にあった医者のドルー・エリオットが容疑者として逮捕される。
この窮地を救うべく友人の作家であり以前は検事補であったペン・ケージが真相の究明にのりだす。
だが、背景には次期市長の座を狙う黒人の地区検事シャド・ジョンソンとの人種的な確執もある。
捜査の過程では、地元警察署と保安官事務所との権力争いも複雑にからみあってくる。
この警察署と保安官事務所の関係(簡略化すると市警察と州保安官)が日本の読者にはわかりずらいが。
また事件の別の柱にアメリカでは根深いドラッグの問題が浮上してくるのである。
ハイスクールレベルからその汚染は深刻であり、またその利権争いも暴力がらみですさまじい。
エックス(エクスタシー)とよばれるMDMAをつかったパーティが頻繁にひらかれていた。
アメリカの社会問題をふくめて、息をつかせずに読ませる力量がやはり人気作家だとされるゆえんだ。

「マンガをもっと読みなさい」 養老孟司 牧野圭一 晃洋書房 ★★★★
養老先生の本は何冊読んでも、なるほどそうかといつもうならせられる。
今回のマンガの問題も目からウロコがぽろぽろと落ちるのである。
『マンガは文字と違って、アイコンです。だから「目でなきゃ、わからない」という性質を含んでいます。
同じように、「ギャー」とか、「ワー」とか、ともかくありとあらゆる擬音語も入っている。
「耳でしかわからない」ということも、含んでいるわけです。言葉にはそれが入ってないんですから。
逆にそういうものが入っているから、マンガはバカにされる。
でもそうした感覚の世界がじつは大切なんです。
一つには、言葉の世界ばかりに生きてると、感覚を忘れるということがあります。
感覚の世界と言葉の世界の大きな違いは、感覚の世界ではすべてが「違う」が、
言葉の世界ではすべてが「同じ」だということです。』
大人になるって、ある意味感覚の世界を軽視してどんどん狭く生きていく、ということかな。
『マンガを見ているかぎり、言葉の世界(というより概念の世界ですけど)よりも、
感覚の世界を意識せざるをえない。それが大切なんです。
子どもは感覚の世界から、大人の概念の世界に入ってていくんですから。
感覚の世界が世界の始まりです。現代に生きていると、それをいちばん忘れるんです。
感覚の世界を思い出すために、マンガがあるといってもいい。
概念の世界では、すべてが「同じ」になっていく。』
この感覚の世界での「違う」と、言葉の世界の「同じ」をよく認識していないといけないと思う。
『感覚世界が地面で、「同じ」という概念の世界は、天井です。
神様がそのいちばん上にある。概念の世界浸かっちゃうと、地面を忘れるんですよ。
マンガはじつはそれを思い出させてくれるんですが、
「同じ」という世界に浸かっちゃった人は、マンガなんかくだらない、読みたくない、っていうんです。
その地面の大切さを知っているのが日本人で、それもあってマンガがはやるんですよ。』
ということで今回もたいへん勉強になりました。

「猫舌三昧」 柳瀬尚紀 朝日新聞社 ★★★
筆者は英文学者であり翻訳家、ジェイムズ・ジョイスの訳で有名ですね。
ご高齢なのでご友人のなかには電子機器に拒否反応(?)の方々もおられる。
セクハラならぬテクハラではないか、というのもわかる気がする。
『「明らかにテクハラなんだが訴えるわけにもいかない」と、先日一緒に飲んだ某社某局長。
OA機器を扱えず、部下の女性に頼む。侮蔑の眼差しが刺すという。
機器に疎い上司同士はメモで連絡し合い、これを原始メールというのだそうだ。』
文章のはしばしに駄洒落(?)があらわれるのだが、本人はいたくご満悦なのだろう。
だが、聞かされるほうはときに食傷気味になるんです、ということを知っていただきたい。
ですが、まだまだお元気でのご活躍を祈っております。

テーマ:読んだ本。 - ジャンル:本・雑誌

早春紀行(三十二)見返り峠を越えて
 あの子はどこからやって来たのだろう。友だちも一緒なのだろうか。
高校生のようだが何年生なのだろう、とつぎつぎに知りたいことがうかんできた。
 きょうは野鳥の森へみんなして行くといってたから必ずどこかで会えるはずだ。
そう思うと今日一日がとてもすばらしい日のように感じてくるから不思議なものだ。

 朝の食事が終わって、大海原に集合してくださいと案内があった。
これから行なわれる「野鳥の森の植樹祭」の趣旨説明などがあった。
Sさん(総裁と呼ばれていた)が、豪快に竹筒をわって寄付金をとりだした。
小銭ばかりのなかに千円札も何枚かまじっており、期せずして歓声があがった。
この竹筒は受付の横にあったのは憶えているが、なんのためかは知らなかった。
 今年で2回目だか、3回目だかということで、もちろん桜の苗木は育っていない。
将来的に、ここで花見をしよう。満開の桜の下でみんなと再会しよう。
頭のなかで思い描くだけで、実際の現地はいまだ雑草生い茂る土地でしかない。
 そんなことでくじけるような若者たちではない。きっといつか桜の花は咲く。
風が吹けば花びらがはらはらと散り、空を見あげれば青が眼にしみる。
なんてすばらしい光景なのだろう。こここそが地上の楽園のようにも思えてくるのだった。

0011見返り峠

 玄関に三々五々集合してきた連中から、順次出発していった。
列をなして、坂道を登っていく。ぼくは高校生のK君とならんで歩きはじめた。
まだはだ寒い春の日だった。坂を登る人のなかに、ぼくは彼女を発見した。
焦る気持はないのだが、自然と足が早くなっていくのが自分でもわかった。
途中、追い抜いて前へでることもできず、しかたなく列のなかで遠くに彼女をみていた。
細い道を一列で進むぼくたちは、うねりながらそれでもときおり喚声をあげたりした。
下りにかかって列が乱れたかけたところで、すこし前へ移動した。
港へと通じる道になれば幅もひろくなる。やっとのことで彼女に追いついた。
幸運なことにひとりだ。これからどうしよう。さあ、ぼくは困った。
 すると、K君が先に彼女に声をかけた。
「こんにちは、久しぶりですね」
「わあ、Kさん、お久しぶりです」
 そう言って、ぼくたちの方をふりむいた。すでに知りあいであったようだ。
「あ、昨日ミーティングの司会をしてた方でしょ。
はい、憶えています。とても面白かったです。よろしくお願いします」
「どうも、こちらこそよろしく。いやあー、いい天気になったね」
 全然空など見もしないで、自分でも何を言ってるのかわからない。
「えっ、なに言ってるんですか、曇ってるじゃないですか。
でも雨は降りそうにはないし、これから晴れてくるかもしれませんね」
「あのう、大学生なんですか」
「はい、関西の大学に通っています。歳はくってるけどね」
「ふーん、そうなのか。そうですよね」
「あ、Tさんは広島の女子高の二年生、四月からは三年生だよね」
「そうです、進路どうしようかなって悩んでます。一応、進学するつもりなんですけど…。
相談するが人いなくって、どうしたらいいのか困ってます」
 こんなとき、ぼくが相談にのるよとか言えばいいのだろうが、うわの空だった。
そんなことより、ああすこし広島訛りがあるんだな。
なんだか石鹸の匂いがするよな。かわいいし、すなおそうだし、すれた感じもないし。
きっと真面目な子なんだな。勝手にそう思いこんだ。
このあたりの空気をすべて吸いこみたい、そんな気分おおきく深呼吸した。
「どういう方面に進学するつもりなの」
「そうですね。心理学とか、社会福祉関係とかまだはっきり決めてないんです」
「ゆっくり考えればいいよ。じつは、ぼくは心理学の専攻なんだけどね」
「へえー、すごいですね」
「なにがすごいのかはわからないけど、まあね」
 なにがまあね、なんだろうか。ただそんなことが、近しく思えて嬉しくてしかたがない。
「心理学って、人の心がわかるんですか。なにを考えているのだとか。
なんだか、ちょっと恐い気がしますね、ほんとうに。
なにを考えてるか知られているとしたら、わたし恥ずかしいです」
「そういうことって、いろんな人によく言われるけど、おおいなる誤解だね。
心理学は読心術とはちがうからね。こころを読めるなんて、まったく関係がないと思うよ。
それに読心術って眉唾物だと思うし、心理学はそういうことを研究するものじゃないよ。
もっと一般的原理、法則といったものを見いだそうと研究されているんじゃないかと思うよ。
それにここだけの話だけど、心理学の教授ってあんがい世間知らずな人が多いんだよ」
「そうですよね、学問ですものね。でも興味はあります」
 そう言って、じっとぼくを見るのだった。

早春紀行(三十一)校庭で
 彼女のことを見つけることが出来ないまま、いつしか眠りに落ちていった。
そのことに気づいたのは翌朝目覚めてからのことだ。
まばゆい陽の光が窓の隙間から幾条かさしこんでいる。
あたりはがやがやと朝の喧噪がはじまっていた。
ぼくは飛び起きて落ちつかない気分のままに海岸へとやってきた。
 三月中旬といっても瀬戸内のやわらかな太陽の下ではすべてが春めいている。
ぼくは古い記憶を反芻していた。心臓の鼓動がどくどくと頭の奥に響いている。
どうすればいいのだろう。平生はえらそうなことばかり言ってるぼくなのだが…。
こんな経験、いままでになかったろうか。そうだ、中学校のあのとき以来だ。

1624汀

 ぼくは中学校の校庭でバスケットボールを手にぼんやりと立っていた。
コートの隅で対角線をたどったむこうに、後ろ姿の女生徒を見ていた。
何人かで話をしているようで表情は見えなかったが、笑顔がすてきなんだ。
 女生徒は女子バレーボール部で、おまけに生徒会副会長をしていた。
学年はひとつ下だった。姓は知っていたが名前は知らなかった。
友だちの会話をひろい集めて、やっとその名前を知ることができた。「EIKO」、といった。
すらりと背が高くて、背筋がのびて姿勢がいいから歩く姿もかっこうがよかった。
眼がくりっとしていて、整った顔立ちは誰にでも好印象をあたえる美人だった。
博多人形のようなかわいらしさ、精神までもが端正であるかのようだ。
ぼくはつぶらな瞳というのは子どもっぽいと思いこんでいたので、好きじゃなかった。
女性の目は断然切れ長で、できれば一重まぶたがいい。
友だちはおかしいというのだが、こればっかりは好みの問題だ。絶対に譲れない。
しかし彼女だけは別だった。例外である。そんな自己基準などくそくらえだ。
人生にはなんと例外が多いことだろう、ことあるごとにそう思った。
 一方のぼく自身はというと、背が低く痩せっぽっちで色が黒くて、眼だけがぎょろりとしている。
どう考えても格好よくはなかった。しょうがないやんか、といつも足元の石を蹴っていた。
そんなときだったろうか、友だちがバスケットボール部にはいるからぼくにもいっしょにはいろうと誘った。
背が高くなるには運動しかないと考えたぼくは、ふたつ返事で入部することにした。
クラブの練習は炎天下のグランドを走るばかり、のどがからからに渇いてつらかった。
当時、運動中は絶対に水を飲んではいけない、というのが不文律であり常識だった。
飲むと腹が痛くなるというのだ。夏休みの練習など、とくにのどが渇く。
便所に行ってきますといって、先輩に断って校舎のなかのひんやりとした便所に行った。
なんだか汚いなとは思いながらも、その便所内の水道の蛇口から口づけで水を飲んだ。
鉄管の錆びたような味がした。生ぬるい水だったが人ここちがついた。
あわててユニホームが濡れていないか点検して、なにげない顔で練習にもどった。
ランニングをはじめるとお腹が痛くなるかと思ったが、そんなこともなかった。
あとでみんなに聞いたら、誰もがそうしていた。先輩もそうしているようだった。
 そのバスケット・コートの横が、女子バレーボール部の練習コートだった。
ぼくたちの練習している横で、彼女らは黄色い声をあげていた。
「ファイトー、ファイトー」語尾をのばすその声がいまもぼくの脳裏にこだまする。
 不思議なことに彼女のユニホーム姿の記憶がない。
他の部員の練習風景は思いだせるのに、彼女の姿はそこにはない。
もしかして、ぼくの勘違いだろうか。青春とスポーツのイメージに惑わされたのか。
すらりとユニホームが似合いそうだが、運動のできそうな感じはしないな。
 バスケットボールのゴールポストの鉄パイプによりかかって、友人と話している。
にこやかな笑みをみせて楽しげに語らう姿がいまも目にうかぶ。
体調をくずしたのだろうか、バレーボール部の練習風景を見つめている。
思いだすのはいつもこの光景だ。もちろん制服姿だった。
紺のブレザーの上着に紺のプリーツスカート。全体にやぼったい印象の制服だった。
しかし彼女が身につけると、可憐、清楚、輝くようなスタイルにみえるのだ。
 そんな彼女、男子バレーボール部の同級生と付きあっているときいた。
噂話だから真偽ははっきりしないのだが、すくなからずがっかりした。
世界がすこし色褪せてみえた。そのときはじめて彼女のことが好きなんだと気づいた。
告白なんてとてもじゃないし、そんなことを考えることすらできないぼくだが、おおいに落胆した。
だが、そいつはいわゆる格好いい男ではなかったのですこしホッとしもした。
真面目なやつかなとも思ったりしたが、そんなことでぼく自身が慰められるわけはない。
男を外見で選ばない人という印象が、ぼくをさらにやるせなくした。
 ぼくは一年早く卒業して、県立の工業高校の電気科に進学した。
その一年後、彼女は私立の女子高校に進学したと風の噂にきいた。
KM女学院、校名を聞くとこころがふるえた。今日まで一度も出会うことはなかった。
 彼女はいまごろどうしているんだろうな、と懐かしいような気分になる。
声もかけず話もしたことがないのにとすこしおかしくなって、さみしくひとりで笑った。

夢判断
久しぶりに夢を見た。夢のなかでなんだかあたふたとしてうろたえてしまった。
いま考えてもあやふやでどうにも脈略のないものだったが、そのなかで出会った人には見覚えがある。
たしかにどこかで会ったなあ、などと思うまもなくものごとが進行しているのでいつまでも考えておれない。
とにかくいま起きてる事態になんとか対処しないといけないのだが、どうにも後手後手になってしまう。
なぜ後手にまわっていると知れるのかは、自分がその状況をみつめている位置にもいるからなのだ。
これは映画なのか、おれは監督になっているのか、それにしてはストーリーがなっていないな。
もしやおれが脚本も書いているとしたらと考えるとなんだか絶望的な気分にもなったが、そうでもないらしい。
その場で当事者でありながら、同時に客観的にみえる立場にもいるというのはどういうことだ。
それはこれが夢なのだからさ、と自分(というか夢を見てる本人)が言ったとたん、目が覚めた。

0026花を献げる

「ぼくの生物学講義 人間を知る手がかり」 日高敏隆 昭和堂 ★★★★
日高先生が亡くなられたのはもう一昨年の十一月のことになるのかと思うと感慨深いものがある。
昆虫が専門ではあったが、最先端の動物行動学関連書籍の紹介(翻訳)にも尽力されました。
手元にある本のなかにも多くの人が知っているものがたくさんありました。
「ソロモンの指環」コンラート・ローレンツ、「動物のことば」ティンベルヘン、「裸のサル」デズモンド・モリス、
「かくれた次元」エドワード・ホール、それに「利己的な遺伝子」リチャード・ドーキンスなどなど。
いまでもお弟子さんの竹内久美子さんは新説紹介(?)などでご活躍されております。
本書は精華大学での講義をまとめたものだとか、初心者にもわかりやす内容になっています。
『「思いつき」と「思い込み」ってのはやっぱりちょっと違うんで、
「思いつき」は想像=イマジネーション(imagination)の話だろうし、
「思い込み」の方はイリュージョン(illusion)と呼んでいます。
イリュージョンっていうのは辞書を引くと「錯覚」というふうに書いてあります。錯覚、とか錯視。
そういうこともあるけれども一般的には思い込みのことだと思っていいのではないか。
人間は非常にこのイリュージョンが強い動物らしくて、なんかを見た時にはそれを思い込んじゃうんですよね。』
このあたりは日高氏の面目躍如といったところではないだろうか、と思ったりして読みました。

「お言葉ですが… 別巻3 漢字検定のアホらしさ」 高島俊男 連合出版 ★★★★
高島さんは、アヤシゲな「検定」という題でこう書いておられる。
『「アヤシゲな」というのは、金がもうかりすぎて不可解な支出をしたから、というのではない。
人の「漢字能力」を「検定」してやろうというのが、正常な感覚から見るとアヤシゲだからである。
無論「検定」していただこうというほうもかなりアヤシゲである。
ところがこのアヤシゲな団体のアヤシゲな検定が、平成四年に文部省認定の資格になり、
いまでは大学や短大の入学試験につかわれている、つまり公教育の一角にくいこんでいるのだそうだ。』
とにかく自己責任をさけようとする姿勢は、世のなかに蔓延しているのだろうか。
『漢字検定は」ただのパズルである。
それも実用的学術的意義があるかのようによそおっているだけにたちのわるいパズルである。
こんなパズルを文部科学省が、何か学術的意義があるかと思って社会にむかって推薦している
のだとすれば、その見識が問われる。』
パズルをパズルとして楽しむのはいいが、なにか勘違いがはびこっているようにも思えるのである。

「セックスウォッチング」 デズモンド・モリス 平凡社 ★★★
ヒトには女(メス)と男(オス)があって、どちらが優れているとか、虐げられているとこかといわれてきた。
だがモリス氏の考えはこうである。
『われわれの祖先は、100万年以上にわたって、男女が平等な状態でくらしていたことはほぼ間違いない。
これは男女が同じだったということではない。
それどころか、男女の分業がすすみ、この分業によって根の深い、生得的な違いが生じた。
ジェンダーのバランスはあったが、ジェンダーを汚すものはなかった。
構造上も行動上も無数のこまかな点で、男はより男らしく、女はより女らしくなった。
理想的な環境でみられるはずの完全なバランスを理解するには、これらの違いを調べることが重要である。
また、このバランスが現代生活によってどのように乱されてきたかを研究することも重要である。』
監修者あとがきで日高敏隆氏はこう書いている。
『昆虫などでは発生的多型は、卵、幼虫、サナギ、成虫と、信じられないほどのものとなっている。
そのどれが本当の姿かといわれても答えようはない。モンシロチョウの卵も幼虫もサナギも親のチョウも、
どれもモンシロチョウであって、どれが本当のモンシロチョウであるというわけではない。』
どれも自分であって、どれが本当の自分であるというわけではない、とも言えるのかな。
自分探し、あるいはほんとうの自分がどこかにいるはずだと思っていらっしゃるみなさん、どうでしょう。

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早春紀行(三十)ゆれる想い
 二度三度と歌声がとどろいて、しずかに幕が引かれてゆく。
なにかを成し遂げたというのではないのだが、こころが高揚するのはなぜだろう。
理論では動かしえなかった人のこころも、歌声にのせられてひとつに結びつく。
かたときの感動が、ぼくたちの魂とでも呼べばいいのだろうか、胸の奥をゆさぶりつづけた。
しかし、うち寄せる波は荒々しくても、引いてゆく潮はしずかである。
かなたの闇へとすべてはのみこまれてしまう。
あとには、なにごともなかったかのようなぽっかりとした空間が残るだけだ。
 虚しいとか空虚ということばではなく、もの哀しい気分でいた。
心臓はいまもドクンドクンと脈うつのだが、頭のなかはみょうに清明だった。
変に落ちついた気分のなかで、しずかに眠りに墜ちてゆくかのようなめまいを感じた。
世界がゆるやかに回りださないうちに、なにかしゃべらなくてはと気が急いた。
「ありがとうございました。みんなで歌うって気持ちよくないですか。
すこし疲れますけどね。案外体力をつかうんだってわかりますね。
ひよわではオペラ歌手にはなれないんですね。なにごとも、まず体力ということなんです。
しばらく休憩したいと思います。足ものばしてもらっていいですよ」
 ほっとした空気が伝わってくる。それぞれに隣り合ったもの同士の会話がはじまる。
さわさわと風がわたるように、人の声が部屋中に満ちていった。
 ぼくも大きく息を吐いて深呼吸した。部屋を満たしている汗のにおいがした。

「このあと、ここ三虎ユースホステルのペアレントである、おじさんの話があります。
せっかく三虎に来たんですから、是非じっくりと話を聞いて帰ってください。
きっと、なにかこれからのことに役に立つと思いますよ。すこし長くなるかも知れません。
気楽な感じで、でも人生の教訓に満ちているかもしれない話です。
おじさん、お願いします」
 と言ったのに、おじさんは部屋に入ってくる気配がない。どうしたのだろう。
囁いてくれる人がいた。おじさんは、まだ風呂の中であった。
「すみません。まだもう少しあとになるようなので、もうちょっとなにかやりましょうか。
それとも、ぼくの雑談でも聞いててもらいましょうかね。それじゃあ、寝具の説明をします」
スリーピングシーツと毛布を受け取って、説明することにした。
 まず、スリーピングシーツの使い方である。シーツを布団の上に敷きます。
筒状のシーツの片方に袋になっているところがあるので、ここには枕をいれます。
決してこのなかにはいって寝ようとはしないでください。無理です、狭すぎます。
必ず、シーツの中にはいって寝てください。敷いた横で寝ないでくださいね。
真面目な顔で説明すると、みんなが笑う。笑える要素はどこにでもあるものだ。
 毛布の畳み方の説明である。ユースホステルでは畳み方が決まっている。
これはドイツ式だと教わった。長手の辺を半分に折る。その辺をもう一度折る。
そして最後にそれを半分に折る。これは一般家庭のやり方とすこし違う。
収納するときには折り目が見えるようにしなければいけない。
どうしてかというと、数えやすいようにしておくのである。
こんなことでも、教えないときちんとできない。いやきちんとする経験を積んでいない。
笑わせながら、ポイントを押さえて説明する。静かにみんな聞いている。
やっと、おじさんが風呂から上がってきたようだ。

 おじさんは、にこやかな顔でみんなを見回しながら挨拶をした。
「みなさん、よう来てくれました…」
こう言って、おじさんの長い話が始まるのである。
若者たちの過ごす長い夜を、おじさんは自在にふわりふわりと飛びまわりながら。
吶々としたリズムで、ぼくたちの頭上にいくつもの言葉をこぼしていった。
 おじさんは、自分で納得していることしか話さない。若者に迎合したような話もしない。
あくまで自分の感じてきたこと、考えたこと、やってきたことを、ぼつりぽつりと語る。
能弁とはほど遠い。しかし、能弁が人の心をゆさぶるかというとそうでもない。
能弁はしばしば懐疑の対象となる。能弁ゆえに怪しまれるのである。
ものごとはそんなにすっぱりと割り切れるものだろうか。判断できるものなのか。
自分の来し方をながめてみれば、それはどうにも嘘っぽいと、眉唾物だと思う。
 逆説的に、おじさんの話は信用されるのである。話の内容がというよりは、人格がである。
人格の信用を得ると話の内容も信じる。順序が逆なのである。
人生における現象には、しばしばこういうことが起こる。それでこれといった不都合もない。
 そんなふうに信じるおじさんの話はこころに沁みいるのだろう。
熱心に聞きいっている女性がいる。この人もなにかを求めてここに来たにちがいない。
最後に自分で決断するまでは、人の話をできるだけ聞くのがよい。焦ることはない。
瀬戸内の闇の底で、真鍋島と三虎は夜更けていった。

3951ヤモリ

早春紀行(二十九)夜の大合唱
「そうそう、そうやって最後のところで頭をふるとやな、部屋の空気が押されて、
順々に移動する、ということは空気の渦ができるということになるな。
この空気の渦によって、音は空気の振動やからうまいこと混ぜあわされる、よな。
まあ、あまり深くは考えんといてや。要はタイミングやな」
何人か不審げな表情の者もいるが、ここは無視していこう。
「じゃあ、一回リハーサルやな、順番に歌っていくねんで。
横のパートに引きずられたらあかんで。動作も忘れんと、きれいに付け加えるんやで。
それから気を落ち着けて、おおきくのどを開いて…」
「そんなごちゃごちゃいうたら混乱するし、集中できんやないか」
「ごめん悪かった。では始めてみよう」

 ロックマイソウル、みんなで歌おう、
 ロックマイソウル、みんなで歌おう、
 ロックマイソウル、みんなで歌おう、
 オウ、ロックマイソウル

短い歌が一回終ると、次のパートも加わってくる。

 高くて登れない、
 低くてくぐれない、
 広くて回れない、
 オウ、ロックマイソウル

まずまずの重なり具合で、歌は進行していった。
二回目も無事終わり、最後にすべてのパートが加わってハーモニーとなる。

 ロック、マイ、ソーウル、
 ロック、マイ、ソーウル、
 ロック、マイ、ソーウル、
 オウ、ロックマイソウル

低音部の単調なパートが加わると、歌もいっそう奥行きを増す。
狭くもない部屋の窓枠が振動でふるえている。
一息いれて、さあ本番だ。
「じゃあ本番です。みんな頑張ってきれいな素晴らしいハーモニーを作りあげましょう。
おばさんも歌ってくださいね」
と、硝子戸の陰に立つおばさんにも声をかけた。

ロックマイソール

 ロックマイソウル、みんなで歌おう、
 ロックマイソウル、みんなで歌おう、
 ロックマイソウル、みんなで歌おう、
 オウ、ロックマイソウル

 高くて登れない、
 低くてくぐれない、
 広くて回れない、
 オウ、ロックマイソウル

 ロック、マイ、ソーウル、
 ロック、マイ、ソーウル、
 ロック、マイ、ソーウル、
 オウ、ロックマイソウル

 順調に三回で歌は重なり響きあって、終わりをむかえる。
このまま終わるのも惜しい気がする。もう一度歌おう。何度でも歌おう。
「盛り上がってきたぞ。もう一回始めから続けて歌ってみよう。せーの」
ぼくはおおきく手を振り下ろして、みんなの気持ちを導いた。
ふたたびうねるような歌声が部屋をゆるがせる。ぼくたちのこころもゆれている。
みんなは輝くような表情で煌めいているようだ。
明るい顔が、楽しそうな顔が、おおきく口をひらいて歌う顔が、ぼくには見える。
お腹の底からわきあががってくるような息吹きを感じることができる。

震災復興への道
内田樹教授は、三月十三日のブログ「未曾有の災害のときに」でこんなことを書いておられる。
(内田氏は自身のブログのコピーアンドペーストはご自由にという基本方針である、さもありなん)
(詳しく読みたい方は、「内田樹の研究室」リンクからご自分で飛んでお読みください)


「安全なところにいるもの」の基本的なふるまいかたは次の三点にあるのではないかとおっしゃる。

(1)寛容 「安全なところにいる人間」と「現地で苦しんでいる人間」を差別化して、「苦しんでいる人間」を
代表するような言葉づかいで「安全なところにいる人間」をなじる人間がいる。
そういうしかたで自分自身の個人的な不満や攻撃性をリリースすることは、
被災者の苦しみを自己利益のために利用していることに他ならない。自制して欲しい。

(2)臨機応変 平時のルールと、非常時のルールは変わって当然である。

(3)専門家への委託 オールジャパンでの支援というのは、ここに「政治イデオロギー」も「市場原理」も
関与すべきではない、ということである。災害への対応は何よりも専門家に委託すべきことがらであり、
いかなる「政治的正しさ」とも取引上の利得ともかかわりを持つべきではない。
私たちは私たちが委託した専門家の指示に従って、整然とふるまうべきだろう。

以上三点、「寛容」、「臨機応変」、「専門家への委託」を、
被災の現場から遠く離れているものとして心がけたいと思っている。
これが、被災者に対して確実かつすみやかな支援が届くために有用かつ必須のことと私は信じている。
かつて被災者であったときに私はそう感じた。


当事者でない人は、その気楽さゆえか辛らつな理想的な空想的ともとれる意見を平気でいったりする。
これは政治状況をみていると日常的にだれもが感じとれることでもあるから、不思議でもなんでもないが。
政権党(与党)のときと非政権党(野党)の立場では、意見が正反対になったりすることもままある。
しかし現実はとまっていてはくれないから、いつまでも議論のみをしていていいということではない。
どこかの時点で妥協点をみいだし、すこしでもよい方向へすすまねばならないことも分かっている。
だが、しばしばそれは忘れ去られ、相手を打ち負かしたいという欲望にまみれてしまうのである。
ここは冷静に落ち着いて、それぞれができることを為し、当事者がよりよい方向へいくことを願いたい。
原子力発電問題でもそうだが、だれもが非難ばかりされれば反発心がわいてくるだろう。
それでやる気をだせ、責任感をもてといわれても、理不尽さばかりが積もってくるのではと心配する。
助けてもらってありがとう頑張ってください、と応援することで彼らの力も倍増するのではないか。
そんなことを考え、この寒さに耐えている人びとのことを遠くから見守っているのである。

3984ベンチ

「本質を見抜く力――環境・食料・エネルギー」 養老孟司・竹村公太郎 PHP新書 ★★★★
議論などで統計で裏打ちされた数字だからなどというが、竹村氏はこう説明する。
『ところで、食料自給率四〇%というのはトリックの数字です。極端な表現を使えば八百長です。
一九六八年までは農林水産省は自給率を生産額ベースで発表していたのです。
生産額ベースで出すと当時は八〇%でした。
ところが、八八年から九四年まで生産額ベースとカロリーベースを併記するようになった。
生産額ベースで七十数%、カロリーベースでは四十数%というように。
そして九五年からは、生産額ベースが隠されカロリーベースだけになって、
その結果、みんなが「日本の食料自給率は四〇%」と刷り込まれてしまった。
最近は生産額ベースの数値も出すようになりましたが、論調は依然としてカロリーベースの四〇%です。
国民が自分の国の食料自給率を四〇%と聞いたら、誰でも腰から脚の力が抜けていきます。
ところが、生産額ベースで計算すると、七〇%あるのです。生産額ベースとは、わかりやすく言えば、
私が一万円で食料品を買ったら七千円分が国産だったということです。
なぜカロリーベースの自給率を流布させたのか?
これは、「農水行政は大事だ」と思わせるための操作だと思います。』
カロリー摂取過多で困っている(?)日本人になぜカロリーベースの自給率が必要なのか。
養老先生もこうおっしゃるのである。
『先日出席した会議のデータには、現在の日本の人口を凍結して計算しても、
国民一人当たり、昭和二十年代の総カロリーは保障できると書いてありました。』
これから人口はどんどん(?)減少していくから、逆に自給率はどんどんアップしていくのだろうか。

「警視の覚悟」 デボラ・クロンビー 講談社文庫 ★★★★
ダンカン・キンケイド警視のシリーズもこれでもう十一作目になる。
ジェマ・ジェイムズ警部補といまもいっしょに住んでいるのだが、正式に結婚してはいない。
やってきたクリスマス休暇をダンカンの実家で過ごすことになり雪の降るチェシャーにむかう。
そのころダンカンの妹ジュリエットは作業現場で赤ん坊の死体を発見していた。
キンケイドの息子キッドとジュリエットの娘ラリーはともに十三歳で多感な時期である。
事件の推移とは別に、キッドたちの青春の日々はなんだかなつかしい気がする。
またナロウボートで運河生活をしていた女性が謀殺される事件がおきるたりもする。
だが、こうした船上で運河に暮らすということは自由に生きるということを象徴しているようだ。
イギリス人の理想とする生き方のひとつがそこにあるのかもしれない。

「追悼「広告」の時代」 佐野山寛太 洋泉社新書 ★★★★
『膨大な広告費を食べて生きてきたマスメディアと大手広告代理店の危機は、いよいよ深刻化している。
二〇世紀に究極まで発展を遂げた「大量生産→大量流通→大量販売→大量消費→大量廃棄」システムは、
これからはこっちの番だと叫ぶ中国やインドの目に前で、奈落に落ちようとしている。
日本の「広告」の時代もその流れに乗って、滝壺に落ちようとしている。
つまり臨終を迎えようとしているのである。』
広告をしないでも口コミでつたわって売れるものがあるという。
だが大量生産、大量販売をめざすならば、それでは追いつかないのだ。
売ることではなく、生産方式を変えれば問題は解決できるのかというと、そうでもない。
『企業にとって人件費はコストである。社員にとって給料は生活費である。
コストを下げれば、企業の収益は増える。一方、社員は給料が下がったり、リストラされて企業外へ
放り出されれば失業者となり、下流社会の最下層に落ちてしまう。
これは、世界でいちばん安くつくれるところでつくったものを、世界でいちばん高く売れるところで売る、
というグローバル市場経済の必然の結果だ。』
人は生きるのにどれだけのもの(金、エネルギー)が必要なのだろうか、再考の時代を迎えつつある。

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早春紀行(二十八)ロックマイソウル
 ときとして考えることは、ぼくがどうしてこの場所に立っているのかということだ。
大勢の人たちを前に、歌やゲームをしている姿はわれながら違和感がぬぐえない。
なかよく楽しくやることに異論があるのではないのだが、息苦しいことがある。
そのわけは、ぼくの深層にうずくまる何者かに由来するのだろうか。
意識がどうしても見たくないという。近づこうとして前に進めない障壁を感じる。
腹の底から焦燥感がわきあがるようで落ちつかない。
頭が考えるのではない。身体の芯からじわじわと全身にひろがるようだ。
いたたまれなさのその中で、じっと身をひそめているとすこしずつ引いていく。
潮が引いてゆくように、静かに跡形もないように消えてしまう。
とき知らず寄せてくる予感をこころの奥深くに宿したままに去っていく。

 楽しく、にぎやかにすればするほど焦燥感はおおきくなる。
だがいつかそれを乗り越えるときをこころに期して、部屋の真んなかに戻ってきた。

 おばさんの姿が大海原と台所を隔てている硝子戸越しに見えた。
ぼくの背骨に力が強く注入されている。ああ、人はなんで生きるのかがわかる。
言葉でも概念でもないエーテルのようなものが充満していくようだ。
「おばさん…」
声がすこしかすれて、のどに引っかかる。うん、と唾を飲みこんで眼を見ひらく。
「三虎ユースホステルの、ぼくらのおばさんが見てくれています。
いつも縁の下の力持ちでいてくれて、ありがとうございます。
おばさんが好きなのはぼくたちの笑顔、ぼくたちが好きなのもおばさんの笑顔。
最後に、おばさんもとっても好きだといってる『ロックマイソウル』をやります。
みんな、明るくおおきな声で元気よく歌おうぜ!」
「オウー」とおおきな声でみんなは答えてくれる。
おばさんも引っこみかけた態勢から、またこちらに向きなおった。
「この歌には三つのパートがあるので、ここにいる人数を三分割します。
まずここからここまでが、Aパートです。わかりましたか。
次にここから彼女までがEパートですよ。アルファベットが飛んでるって?
いいじゃないですか、関西弁だと思ってください。ええパートに、いいパートちゅうことや。
残った最後が重要な肝心要の、Iパートです。そういうことや、愛なくしてはならんのや」
みんなは、きらきらとした瞳をぼくに向けていた。力が出てきたぞ。
「一度歌いますから、みんな憶えてくださいよ。簡単ですから、ぼくよりも上手に歌えますよ。
いいですね、これがAパートの歌です。では歌います」
みんなは静かに耳を澄ませて、ぼくの下手な歌をこころに刻みつけていく。
音を押さえ気味に低く小さな声で歌いはじめた。なだらかに部屋に響く。

ミィーティング風景(三虎20周年)

 ロックマイソウル、みんなで歌おう、
 ロックマイソウル、みんなで歌おう、
 ロックマイソウル、みんなで歌おう、
 オウ、ロックマイソウル

「つぎはEパートの歌ですよ。歌詞がちがいますよ。混同しないように注意してください」
今度はおおきな声で、おおきな動作をともってリズミカルに歌う。
手を上から下に波のようにくねらせる。下から上へくぐり抜けるように手を動かす。
最後はおおきく輪を身体の前に描くようにして歌う。
みんなもつられて同じように手を動かして、口のなかで小さく歌う。

 高くて登れない、
 低くてくぐれない、
 広くて回れない、
 オウ、ロックマイソウル

「最後が肝心やで。ハーモニーがとれるかどうかは、このパート次第や。
Iパートはそれこそ愛をこめて歌ってや。人数も多めにしてるしできる人を選んでるんや。
わかってるやろな、こうやで」
腰を沈めて下から声をだすように、単調にメロディーにのせた歌詞を繰りかえす。
最後の、オウ、ロックマイソウルのところでは両手を肩の近くに上げて軽くこぶしを握って、
頭を右から左に反動をつけるようにふるんだ。これで格好も決まった。

 ロック、マイ、ソーウル、
 ロック、マイ、ソーウル、
 ロック、マイ、ソーウル、
 オウ、ロックマイソウル

早春紀行(二十七)青春の鉄路
 気をとり直してゲームをはじめよう。
「これからはじめるゲームは、スキンシップそのものです。
ただし、マナーというかルールは守ってください。おいおい説明していきます」
といって、全員を隣同士くっつくくらいの間隔で輪になってすわってもらった。
正座をして、車座になる。おたがいとなりとの距離は最小限度しかない。
両手を膝のうえに置いて、端座している。すこし窮屈そうに両隣を気にしている。
夜になればまだひんやりとする季節だから、人の体温はあたたかく感じる。
「たまには正座して、日本の文化を実感してみるのもいいでしょう。
足がしびれそうな人は、やや前に重心をかけてすこしお尻を浮かせておきましょう。
いま、みなさんの脚、つまり大腿部が円をなしています。じっくりと観察してみましょう。
じつに多様です。長いのやら、短いのやら、細い、太いといろんな脚がそろっています。
自然は多様ですね。人間も自然の一部分です。みんな同じだとつまらん、ですよね。
なにがいいかは簡単には決められませんよ。それぞれに利点があるでしょう。
すらっと長くて白いのがいいとは限りませんよ。太いのも、おいしいですね。
なんの話かって、大根ですよ。話が脱線してしまいました。戻しましょう」
みんなは苦笑いの表情である。
「この大腿部を、ピアノの鍵盤と見立ててみましょう。いいですか、わかりましたね。
みなさん、自分の大腿部、この言い方やめましょう。いいづらいです。脚でいいですね。
自分の脚に両手を置いてください。別々にね、手は重ねないでください。
これですべての脚が手で押さえられています。となりの人の脚に手を置いては駄目ですよ。
最初は自分の脚に置いてください」
横を見ながら真剣な顔をしている。
「これからみんなで歌を歌います。『汽車汽車しゅっぽしゅっぽ』の歌です。
懐かしいですね。あほらしいと思わないでください。人間、無邪気な時間も必要です。
ではこれからどうするか、説明の佳境にはいっていきます」

 歌ははじめはゆっくりと、だんだんと速くしていく。説明しながら、歌ってみせないといけない。
ぼくの歌はうまくない。自分でわかるから、なにか変化をつけたいと思わずにはいられない。
駄洒落はあまり好きではないが、ぜいたくもいっていられない。
「列車の車輪がですね、ゆっくりと動きだします。ゴトン、ゴトン…」
手をおおきく回しながらいったところで、どこからか、
「ジュットン」
と合いの手がはいる。
「なるほどね。よく知ってますね。5トンプラス5トンで、10トンですね。
先にいわれてしまいました。やりにくいな~。けど、負けへんで。さあ、頑張ってやるぞ」
こんなことで、めげてはいられない。
「この歌のリズムにのって、1で膝の上の手をまず右へ移動します。
脚一つ分ですよ。ふたつ一ぺんは駄目です。反則です。
それから、動かす手はあまり強く脚を叩かないように。腫れたら困ります。
それに移動した手をとなりの人の太ももの上で前後に動かさないように。
それもルール違反です。わかりましたか。あたたかいぬくもりが伝わってくるでしょう」
動作を演じながら説明を続ける。
わあ嫌だ、エッチ、と女性の喚声があがった。
「エッチじゃないの、ふれあいなんです。これがスキンシップというものです。
で今度は自分のところに戻って2です。3で反対方向へ移動して、4で戻ります。
これで一回転しました。あとは、これを繰り返すだけです。
お隣さん同士、別け隔てなくスキンシップできましたか」
 ぼくの声がおおきく部屋の天井に反響した。
熱気がさらに一段とあがって、笑い声もおおきくなってきた。
静まるのを待って、いよいよ本番が始まる。右手をゆっくりと上下させながら、歌う。
ゆっくりしたリズムで、膝の上の手の動きも後を追ってくる。
徐々に徐々に、歌の速度をあげていった。みんなは歌に遅れまいと、手を動かす。
ふとももを叩く手の音が部屋なかを駆けめぐる。
歌う速さがこれ以上は無理だというときに歌詞も終りに到達した。
ため息と運動後の疲れと汗が入り交じって、独特の空気をつくっていた。
「はい、お疲れさまでした。足を崩して楽にしてください。
輪もすこしおおきくしてもいいですよ」
 どっと吐きだされるようにゆるんだ息が部屋を支配する。
はあはあという息の音以外はしばらくなにも聞えなかった。

2536線路

早春紀行(二十六)グルーミング不足
 ぼくは席替えゲームをはじめます、と高らかに宣言した。
ゲームのルールは簡単である。各人に任意の記号、あるいは符牒を割りふっていく。
たとえば、果物、野菜、魚などの名前である。それにグループ名も加えれば、変化に富む。
果物かご、野菜サラダ、大漁網とかである。名前を呼ばれたら席を移動するのである。
ぼくの口からなにがしかの名前が叫ばれるたびに、若者たちはがやがやと移動を開始する。
一目散に移動する者、まわりの動きに翻弄される者、きょろきょろと落ち着かない者もいる。
なんどかの席替えで要領もわかってくる。人模様がすこしずつ変化をみせはじめた。
ひとところに留まれない人々は鰯の群れのように右往左往した。
ぐるぐると動き回って、やっと安住の地をみいだして落ちついてきた。
上気した若者の頬は健康そうにかがやいている。
からだを適度に動かしたことで、気持ちもにリラックスしてきた。
「足のしびれもとれたようですし、これからミーティングの神髄にふれてみましょう」
 すこし不安げな顔も見てとれる。これからなにが始まるのだろうといった顔だ。
ぼくの見知った顔は、にやにやと笑っている。なにをいうのか知ってるぞと。
「それはですね、スキンシップなんです。これがいかに重要なのかを話したいと思います。
いろんな疾患がありますが、なかにホスピタル症候群というのが知られています。
簡単にいうと、孤児院などで育てられた子供は栄養状態、衛生面に問題がなくても、
発育に異状があったり、ひどいときは死に至ったりすることがあるんです。
原因を調べてみると、それは乳児のときに母親、この場合は世話をしてくれる女性ですね、
との肌のふれあいや、声をかけてもらうことが極端に少なかったということがわかったのです。
また猿の人工飼育でも、小猿はいつもやわらかなタオルにしがみついていたといいます。
針金でできた哺乳瓶の母ザルと、タオルで巻かれた母ザルをふたつ並べます。
ミルクを飲むときは哺乳瓶のサルのところにいますが、飲み終わるやいなや、
それこそ一目散にタオルの母ザルのところに戻ってしがみついていたというのです。
動物園などで猿山にいくと、いつもといっていいほどサルの毛繕い行動がみられます。
俗にいうところのノミ取りです。霊長類学ではグルーミングというんですけど。
これにも同じような意味合いがあるんでしょうね。
互いに触れあうっていうことが精神発達や安定におおきな意味をもつということがわかってきています。
でぼくの解釈ですが、大人になってもそういうことは必要ではないかと思うんです。
それにこういう事実を知らなくっても、自分の日常経験からある程度はわかりますよね。
たとえばひとりでいるときなど、知らぬまに手を自分の太腿の間に挟んでいたりしますね。
これって気持ちいいですよね。変な意味じゃなく、ほんとうに。
でも、どうしてかなって思います。こうしていると、なにかしら落ち着くものなんですね。
これはつまり、自分で自分とスキンシップしているのではないかと思うんです」

5226毛づくろい

 熱心に聞いていた女性が、さも感心したようにうなずきながらぽつりと言った。
「そういわれれば、そうですね。私も思いあたります。なるほどねえ」
これは予想外の反応である。ぼくの期待した反応を完全に裏切っている。
「あのう、あまり感心しないでくださいね。これは学校の講義じゃないんですから。
それにこの後の説明が苦しくなってきますから、あまり生真面目に受けとらないように」
すると、驚いたように。
「ええっ、じゃあ、全部ウソなんですか」
ウソとか、ほんとうとかっていうことじゃないんだけど…。
「そういうことじゃないんですよ。全部、ほんとうのことなんですよ。
ほんとうかウソかというのは、ちょっと語弊があるけどね。
ぼくなりの自己流、こじつけ解釈ではあるかもしれませんが…。
でも、なんとなく大切だなあってわかってもらえたんじゃないかと思ってます。
しかし、法律の許す範囲でやりましょう。満員電車のなかでの実践はまずいでしょう」
みんなは、笑った。
「逮捕されてから、これはスキンシップだ、といっても通りませんからね。
これからするゲームはそこのところの衝動を発散するようにできています」
男はつらいのである。とくに若者は悩む。
「これは合法的です。安心してください。でも、なんだか無駄話がおおいですね」
ぼくを励ますように声をかけてくれる人もいる。
「いいえ、面白いです。でも、ほんとうと冗談の境目がわからないですね。
ウソっていうのとはちょっと違うんですね、けどそのあたりのバランスが絶妙です。
屁理屈っぽいけど、聞かせますよね。ついつい引きこまれて聴いてしまいます。
わたし、ユースのミーティングでこういうのって初めてです。ほんと珍しいですね」
 これは褒められてるのか、けなされているのか彼女も絶妙だ。
もうかれこれ30分以上も経つのだが、席替えゲームしかしていない。
これがぼくのマイペースなのだろうか。なにがしかの説明をしなければ先へすすめない。
まさしく日本人である。こんな笑い話のような例えもある。うろ覚えではあるが。
イギリス人は歩きながら考える。ドイツ人は考えてから歩く。フランス人は歩いてから考える。
イタリア人は喋りながら歩く。そして、日本人は言い訳をしてから歩く。

結婚記念日
忘れたとき(?)にすぐ思いだせるように結婚記念日は三月三日にしよう。
なんとか記念日や誕生日とかに贈り物をしたり旅行をする、と世間での習慣だとか。
だがこれがどうも苦手で、なにを贈るのか、どこへ行けばいいのかといつもぐずぐずしてる。
それに業をにやしてか、かみさんが淡路島へ行こうというのを渡りに船とのりこむことにする。

三月三日の朝は、やはりというべきか外を見るとうっすらと雪が…。

3968雪の朝

明石海峡大橋あたりでは、すこし寒いが空も明るかった。

3974明石海峡大橋

淡路景観園芸学校で昼食を食べていたら、晴れてるのに雪が降ってきた。
(これはほこりではなく、ボタン雪です)

4002淡路景観園芸学校

だが「八木のしだれ梅」を見学に行くころにはなんとかそれもおさまった。

4009八木のしだれ梅

4014しだれ梅

今夜の宿泊は「お宿ねっと」でみつけたという「TOTOシーウインド淡路」。
見ればひと目でわかる安藤忠雄さんの設計による建築物なのである。
高台にありひろびろとした眺めがいい。スタッフの方も感じがいい。
今夜はもう一組の夫婦と、十人あまりの大学生グループだけ。
大浴場でゆっくりできました。やはりひろい湯船はきもちがいいなあ。

4020窓望

4021ツインルーム

4031屋外プール

4048ロビー

4088エレベーター

地産地消がこだわりという夕食の料理がおいしかった。

4067前菜

4071お造り

4075フォアグラと鴨

4076チキン・マサラ

4079デザート

朝食はこちら。

4090朝食

まだまだある。
若い人にはいいだろうが、ちょっと多すぎるというのは贅沢かな。

4094だしまき

4095アジの開き

4097ヨーグルト

これで一泊二食付で一万円というのは安いですね。
まあ、オフシーズンということもあったのでしょう。
われらはニッチ狙いの旅びとということになるのでしょうか。

帰り途には「千年一酒造」さんで酒蔵見学したり、淡路夢舞台(ここも安藤忠雄氏設計)に寄ったり。
なんとか無事一泊二日の結婚記念日をすごすことができました。

4108千年一酒造

4105酒蔵

4120夢舞台

4121夢舞台

桃の節句ですねえ、いろいろ文句もおありでしょうが、これからもよろしくお願いいたします。

4081雛飾り

震災を思いだす
昨日の午後二時四十六分に、三陸海岸沖で大地震が発生した。
国内での観測史上最大の地震だそうだ。地震の被害というのは、すぐにはわからない。
阪神大震災のときもそうだった。あのときは地震のあとの火災でより多くの方が亡くなった。
あのときの教訓が生かせるのだろうか。今回は直後におきた津波の被害が想像を絶している。
これから被害の全貌が徐々にあきらかになっていくと思うが、まだまだ救援の手は必要だ。
ライフラインといわれる電気・ガス・水道の復旧にはかなり時間がかかる。
まだまだ寒い気候が続くと思われるが、体調を崩さないようにしてこの困難を乗りこえてください。
阪神大震災のときには、避難所で食べものや場所をめぐる諍いなどもあったと聞いた。
こんなときこそ助けあいである。今後、二次的な被害がひろがらないように願うばかりである。
不幸にも亡くなった方々には、遠くの地から黙祷をささげたい。

0032追悼

「スカートの中の秘密の生活」 田口ランディ 洋泉社 ★★★
田口ランディさんって、お笑い芸人(?)の方かなと一瞬思ったり、モデルさんなのかなとも。
本書を読んで、そうではないことを確信しました(笑)。
『私の本名はケイコだが、私はケイコって名前はあまり好きじゃない。
小学生の時、クラスに三、四人はケイコという名前がいた。個性のない名前だなあと思っていた。
だいたい、私のケイコは「けい子」とひらがななんだ。意味がないじゃないか。』
と思ってそんな話をしたらば、
『「そんなことないよ、けい子っていい名前だと思うけどな。利発そうで」と言ってくれた男がいた。
その「利発そう」というフレーズは私の自尊心をとても満足させてくれて、
私は「そーかなあ」とすぐその気になった。』
小生にも知ってるケイコさんがいるが、ケイコという名前の女性はたしかに利発そうな気がする。
だからランディなどというペンネームにしているのかな。
この題名、もちろん上野千鶴子さんの本のもじり(パロディというよりは)なんでしょうね。

「散歩の収穫」 赤瀬川原平 日本カメラ社 ★★★
まえがきにこうある。
『カメラは散歩の導火線だ。カメラの好きな人ならいうまでもないことだが、
散歩するのにカメラがあると、ものを見る好奇心に火がともる。』
人は歩きながらなにげなくいろんなものを見ている。
見ながらも、自分に危害がないと判断できれば、なにごともなくすぎていくのである。
だがカメラをもったり、なにか別の関心があったりすると、同じ光景がちがった意味をおびるのである。
車好きのひとが車に乗ると、車体全体に体が拡張されたように感じるという。
それと同じでカメラを手にすると、鳥の眼をもったような感覚になるのではないか。
散歩といってもあなどれない脳のリハビリテーションだったりするのではないだろうか、と思ったり。

「ゴングまであと30秒」 高橋秀実 草思社 ★★★
川崎市高津区板戸、多摩川の流れを横に工場群と葱畑、新興住宅が交雑する町はずれにある。
一軒のプレハブのボクシングジムでおきる出来事(実話である)は世間の常識とはちがっている。
世間に流布する言説は、どうやらいいかげんなものが多い(なぜかはまた考察するが)。
『「ボディブロウのようにじわじわきてくる」という慣用句があるが、これはウソである。
ボディブロウの痛みは「じわじわ」ではなく一気に鋭角的にやってくる。
「じわじわきく」というのは、がまん強い人が試合などで極度に緊張していて、
痛みに気づくまで時間がかかるような場合である。実際は、がまんできない痛みなのである。
胃袋のあたりにもらうと、何か金属状の塊がつかえたような吐き気がこみあげ、
体を丸めて思いっきり吐きたくなる。
右脇腹にもらうと、暑い火箸で肝臓を焼かれたような激痛となる。
心臓のあたりだと、急に息が止まり、おぼれかけたように空気を求めてのたうち回る。
どれも苦しい。しかし、せつないことに意識は明瞭、足もしっかりしている。
つまり、ここでボクサーは選択をせまられる。ここでがまんするか。いっそ、倒れてしまうか。
それとも、あごを相手に見せ、「ここに打ってマヒさせて」と目でお願いするか……。』
これは経験者でないとなかなかウソが見ぬけない例である。
ボクシングジムに通っているからといって、必ずしもプロをめざしているわけではない。
ボクサーの頂点を夢見ることもなく、ただシャドウワークにあけくれる彼らは疲れたサラリーマンのようだ。

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早春紀行(二十五)因果の不思議
 今夜は不思議だ。ほんとうに不思議な感じだ、と胸のうちでくりかえした。
「この世のなかのことが、すべて科学で説明がつくわけでもありません。
あるいは、因果関係の結果として説明できるといったこともありません。
縁という言葉は非科学的な印象をわたしたちに与えますが、そうともいえません。
ただ、現在の科学の世界では捉えられないものというだけかもしれません。
もちろん、だからといってそれが正当性の証明になるはずもありません。
とりあえずわからないけど、実感していることを縁という言葉にこめているのでしょう」
 こう言って、ぼくは腕組みをして天井をあおいだ。みんなもぼくのそのあとの言葉をまっている。
呼吸する音さえも聞こえてこない。口をつぐんでぼくは黙っていた。
しばらくののち、たまりかねておおきく息をはく音がした。
みんなも一瞬ホッとゆるんで、緊張の糸がほどけていった。
「止めてくださいよ、そういうことは。息が詰まるじゃないですか。
ああ苦しかった。ほんとうにもう死ぬかと思いましたよ」
「悪い悪い、でおおげさやなあ。どこまで我慢しよるかな、なんてつい思っちゃってね。
なんの話してたのかな。忘れちゃったよ」
「そんな変な関東弁つかってもだめです。困るなあ、縁、縁の話ですよ。縁談の、縁です」
「なんやえらい力がはいってるなあ。さては、気にいった娘をみつけたな」
「なに、つまらないこと言ってるんですか。話を続けてください」
「そうやったな。つまりこういうことです。彼が言ったように、縁は大切だと思うんです」
「そんなこと、全然言ってません」
「まあええやないか、細かいことは気にしない。縁談の、縁ですね。
今後みなさんにたぶん訪れるであろう縁を大切にしたいと考えています。
そのためのささやかな機会になるんとちがうか、と考えました。
席替えといっても、馬鹿にしちゃあいけません。これで将来の運命が決まることもある。
つまり、偶然に隣にすわった人と仲良くなって、そこから交際がはじまる。
とんとん拍子に話がすすんでいって最後には結婚ということも、あながちない訳ではない。
そんなこんなを考えると、これは実に大切なゲームなんですね」
「なんだか冗談みたいな話ですけど、そんなこといままでにあったのですか」
みんなも耳を澄ましている。
「たしかにあったと聞いてます。しかしまた、別れていったカップルは数知れずとも聞いてます」
「またあ、すぐそういうことをいう。いったい、どっちなんですか」
「ぼくはなあ、誇大広告は嫌いなんや。事実の表も裏も知っておかなあかん、ちゅうことや。
耳障りのええことだけよって聞いてるような人間にはなってほしくないんや。
それに最後には別れることになったとしてもやな、当然その前には出会いがあるわけや。
げんがわるい、というなかれ。しかしおおいにありえることやとも思うで。
出会いなくして恋愛成就もこれまたないのである。
まずはその出会いのチャンスを、しっかりつかんで欲しいということです。
そやから、しゃかりきになってあっちこっちと走りまわらずに目標を定めなあかんで」
これで終らずに、ぼくは自分への戒めをこめてしめくくる。
「では人を選ぶときにはどうすればよいのか。
老婆心ながら、ぼくの意見を述べさせていただきます。まず、人は見た目で選びなさい。
自分が見て好ましいと思った人を選べばいいのです。
それであとで後悔するなら、自分の見る目がなかったということ。
諦めるしかないですな。見た目とは、自分の好みに忠実にという意味ですよ。
変な色気はださないように。そんなところに、自分がこれまでどんな人生を送ってきたか、
どんな女性観、価値観を持っていたのかが如実に表れるということです。みなさんのご健闘を祈ります」

 集う若者たちはぼくの言葉に惑うことなく、きらきらと眼を煌めかせている。
にぎやかにわきたちゆれる満座のなかで、ぼくはいつもひとりだった。

0032孤独な竹林

早春紀行(二十四)縁は異なもの
 いままで耳にはいってこなかったどよめきが、喚声がわきあがっている。
Dさんの声がいやにはっきりと聞えてきた。
「私の持ち時間の終わりがきたようですので、ここで、ミーティングの司会を交代します。
これから後半戦です。まだまだ夜は長いですから楽しんでください。
みなさん、今夜はありがとうございました。では、よろしく」

 満員の部屋の入口から、そっと人をかき分けながら大海原の中央にすすみでた。
ゆっくりとまわりを見わたしながら、ぼくはあいさつをした。最初のあいさつが、いつも緊張する。
「ここで司会をDさんと交代します。これからの時間もよろしくお願いします」
とていねいに礼をすると、みんなもつられて畳にすわった窮屈な姿勢のまま礼を返してくれた。
いままでと違うなといった顔がみてとれたので、これで最初の難関はなんとかパスした。
「ここで、ひとこと注意させていただきますが、Dさんはペアレントではありません。
なかなか貫禄があるし話もじょうずなので、ついそうかなと思ってしまいますが、違います。
ぼくたちと同じホステラーです。このあとで、ほんとうのペアレントさんがでてきます。
ほんものは見た目がすこし貧相です。だから、Dさんはよくペアレントとまちがえられます。
どっちがほんとかな、とまだ疑っている人がいると思いますが、あとからの方がほんものです。
こういってても明日の朝、まちがえる人がいます。くれぐれも、お間違いのないようにしてください。
ではDさんに盛大な拍手をお願いします。お疲れさまでした」
Dさんとは笑いながらの交代となった。
「すこし自己紹介をしておきます。Dさんは東京のかたですね、鼻母音でわかります。
今日はいろんな場所からいろんな人が来ていますが、わたしは神戸からやってきました。
ヘルパーではありません。みなさんと同じホステラーです。ですから、気楽にしてください」

 三虎ユースはミーティングが長いと有名である。やっと前半戦が終わったばかりだ。
おまけに畳に坐ってだから、足や背中が疲れる。このへんで気分転換をしよう。
「ぼくはDさんとちがって整然とはすすめません。なんやかやと理屈をこねます。
どんどんゲームをやったり歌を歌ったりしません。計画も立ててません。
否、性格なんでしょうかたてることができないのです。行きあたりばったりです。
ですから、どう転んでいくかはそのとき次第です。でも、できるだけ楽しくやりましょう」
みんな真剣な顔でこちらを見ている。
いまのところ、しらけている奴は眼にはいってきていない。
でもすこし疲れたような顔をしている。足が痛くなってきたのだろう。
「みなさん足が痛くなってるのとちがいますか。しびれを切らしていませんか」
ハーイ、足が痛いです。と、かわいい声が聞えてきた。
「では、気分転換に席替えゲームをしましょう。これはストレッチ体操の代わりですからね。
勝ち負けはありませんよ。いや待てよ、勝ち負けはあるかもしれません」
「どういうことですか。負けると罰ゲームとかあるんですか。嫌だなあ」
日本人はすぐむきになるきらいがあることは衆知の事実である。
ゲームなどやっても、すぐに勝ち負けにこだわる。
それはまあいいのだが、往々にして尾をひく。
なごやかになるためにやったのに、しこりを残したりして逆効果のことも多い。
だから、ぼくは勝敗のあるゲームはあまり好きじゃない。
要はなんのためにやるのか、にあるのだから。
「そういうことじゃないんですよ。ぼくがいった勝ち負けとは、もっと別の意味なんですよ。
つまり、ここでみなさんがたが一緒になったということは、ほぼ偶然のことですよね。
なかにはカップルの方々もおられるかもしれませんが、彼らのことはいったん横に置いといてください。
今夜も男性女性たくさん集まっています。それもいろんな地方から来てはります。
考えてみれば、考えんでもええんですけど不思議な縁かなと思ったりするわけです」

2101山桜

早春紀行(二十三)自問自答
 こころを落ちつけて自問自答してみた。
「基本に帰るんだ。変な色気をだすのはよくないぞ」
「そんなこと分かっとるんや、静かにしてほしいな。精神統一してるんやから」
「嘘をつくんじゃない。精神統一とは名ばかりで、どうすればうけるかを考えているだろう。
君のことはすべてお見通しなんだから」
「あたりまえやないか、自分のことなんやから。ほんまに怒るで」
「悪かった。でも、これだけは言っておく。あの娘にうけようとしてやると、かならず失敗するぞ。
無心でやったほうがいい。そうすれば、結果的にあの娘も君を注目するかもしれん」
「おおきに、ありがたい忠告していただいて。でもな、そうはいかんのや。
今日は絶対に失敗は許されへんのや。絶対に成功させるんや」
「君はなにか勘違いをしているようだ。成功って、いったい何のことなのだ。
ミーティングは、何のために誰のために行なわれるのか。答えられるか」
「そんなことは分りきっとるやないか。みんなが仲良くなるためのイントロダクションや。
知らないもの同士の気持ちをほぐして、うちとけあえるようにするためや」
「それだけなのか」
「それだけかって、ほかになんかあるんか」
「ほんとうに他意はないか」
「そんなあ、ないことはないけど。まあ、ええやないか」
「よくはない。ハッキリと自覚しておかなければいけない」
「なんや精神分析みたいなこと言いよるな。わかりました、たしかに多少の下心がありました」
「ほんとうに多少か、それにどんな下心か」
「偉そうに言いよるな。こうやって喋っているけど、あんたにとっても自分のことなんやで。
はい、あの娘にいいところをみせて、ぼくのことを好きになってほしいと思いました」
「悪いとは思っていないな」
「あたりまえやないか。どこが悪いんや。人間としてふつうの感情やないか。
人を好きになるってことは麗しくも崇高な行為、じゃないんですか。まちがってますか」
「強弁してはいけない。人は自分の非を意識するとき、往々にしてぎゃくに強くでるものだ。
まあ、自ら認めているようなものだな。よいか、私は好悪の感情を悪くいっているのではない。
そのためにとる手段として、ミーティングを使うことが適切かどうか、といっておるのだ」
「それは、多少問題があるかもしれんな。職権乱用とかなんとかといいたいんやろ。
べつに、町同心が商家の娘を手籠めにするわけでもあるまいし、かまへんのとちがうか。
司会者の立場を利用するいうても、世間的には許容範囲やと思うけど…」
「類例が古めかしいな。それにステレオタイプだ。すこしがっかりしたな。
わたしの、つまり君のといっても同じことだが、言いたいことはこういうことだ。
あの娘のことがそんなに気になるのなら、まずそのことを忘れよ。
あの娘のためにではなく、みんなと楽しくすごすことに集中したらどうか。
それがまわりまわって君のためになるのではないか、と思うのだ。
後ろめたさを感じてまで、りきむ必要はない。そうすることは、君に精神の安寧をもたらさない。
もっと大きな観点から行動したいのではないか。例えば、人類の平和のためとか。
べつになんでもいいのだが、多少偽善的な行為のほうが気が楽ではないか」
「なんか、言いたいこと言ってくれますね。まあ、ぼくはあなたでもあるわけだから、いいのか。
ぼくの言うことは、あなたの考えでもあるわけですよね。なんだか頭が混乱してきたなあ。
つまり、あなたは偽善的にふるまえといってるんですか」
「偽善的行為も、それを自覚していれば行い得るといっているのだ。
わかりやすくいえば、馬鹿とハサミはつかいよう、ということだ。
知って行動するのと、知らずに行動するのでは、同じ行為でも意味がちがってくる。
行為の正当性ということではなく、あくまでも自覚的行為を意識せよ、といっているのだ。
少しは理解できたかな。たぶんわからんと思うが、どうだ」
「つまらんな。むずかしげにいうところが、あなたの弱点ですね。底が知れてるな。
ふつうの言葉でしゃべられへんのかなあ。あなたこそ自覚的行為、この言葉嫌やな。まあ、いいか。
あなたは自分で自分のいってること、してることを、わかってないと思うな。
それに、だんだんと言うてることが変ってきてるで。
結果オーライでいけ、ということ?なんや言動が分裂病みたいやで。
あんたの好きな言葉でいうとスキゾフレニア、か」
「それをいうなら、あの子に『好きぞ、ふるなや』のほうが、洒落ていないか。
冗談はさておき、君はつくづく根が真面目であるな。
それもくそがつくくらいのレベルだ。そのくせ、みょうに姑息でもある。
なかなか興味深い症例、といえなくもない。
ふだん通りにやればいいのではないか。このへんで、わたしは去るぞ。健闘を祈る」
「なんや、あいつは…。そうやな、結果ばかりを先に心配しても仕方がないんや。
自分でできる精いっぱいのことをやるしかないんやろな。
世のなか、なるようになる、や。なせば成る、なにを成すかが問題やけど。
すこしは気持ちもスッキリしてきたな。みんなと一緒になって、楽しんだらええんや。さあ、頑張っていこう」

2282菜の花

早春紀行(二十二)ミーティングってなんだ
 ミーティングってなんのためにするんだろう、とは誰もが思うことだ。
ユースホステルは、若者が自由に旅をするための安全で安価で快適な宿を提供する。
そんな理念ゆえに、ユースホステルでのミーティングは重要な意味をもっていた。
全国いたる所から集まった見知らぬ男女が、同じ屋根の下で過ごす一夜が、
青春のよき想いでとなるか、つまらぬものとなるかは何によるのだろうか。
偶然に支配された出会いの縁がどうなるかは、ミーティング次第といったこともあった。
ミーティングは、また引っ込み思案な若者のこころを開くためのものでもあった。
 夜のひとときが、こころあたたまるやすらかな時間であればいい。
だが見知らぬもの同士なかなか打ちとけて話すこともままならないのが現実だった。
 昼間のひとり旅はつらいものではない。行く先もさだめずに気ままにさまよい歩く。
見知らぬ町、見知らぬ風景、名も知らぬ人々の暮らしぶりにこころは躍る。
町角で見かけるあたりまえの光景が、驚きともなり不思議な感動をよぶ。
空をながれゆく白い雲さえもが青春の自由を象徴しているように思えて愉快だ。
歩いて歩いて、歩くにしたがって湧き起こるこころよいしあわせな気分ははてしもない。
ところが、道の端から徐々に明るさが失われてゆく。
明から暗へ、光はやがて消える。すべてのことは恒常的に持続しはしないのだ。
形は光の動きとともに変化する。
空間が夜の闇につつまれる頃ともなると、人恋しさは知らぬまにこころにたち現れる。
しかし、真面目な若者ほど人恋しさゆえに話しかける言葉が口からでないもの。
ゆえに、ミーティングの意味も意義も自ずと決まってくるというものだ。

 ぼくのミーティング感はシンプルなものだ。楽しく笑いあえればいい。
旅の孤独も人生の虚しさも、笑いが吹き飛ばす。
だから、ぼくは笑いあえることをめざした。
なにはともあれ、とにかく笑っていれば人の心にはやさしさが満ちてくる。
笑顔はかたくなな防御の姿勢をもときはなつ。
笑うから楽しい、楽しいから笑う、どちらでもいい。
おもしろいと思うことなら総動員してまともにミーティングにぶつかっていこう。
ぼくはそんなふうに真面目に考える。だけど決して、ぼくは教科書どおりにはやらない。
そんなふうにはやれない。自分が楽しくなければ、みんなも楽しくないと思う。
やり方がどうのの技術論に陥るのは嫌だ。それが、ぼくのぼくなる所以でもある。
人ってどんなときに可笑しさが湧きあがってくるのだろうか。
ぼくが可笑しいと思えることをやればいい。
自分が可笑しく思えないことなど、やる気はない。
ぼくがみるところでは、真面目な人は面白い。生真面目な人が最高に愉快なのだ。
 だから、面白いことを言おうと意識する人ほど面白くない。おどけるのは、こっけいだ。
笑わせてやろうと思いあがった意識は、すぐにみんなに知れ渡る。
そして、そっぽを向かれる。面白いだろう、と思っているのは本人だけだ。
そんな態度はいただけない。みんなが笑っているようでも底が知れている。
それも単なるお追従笑いだったりする。
笑顔の裏にははやくも飽き飽きした表情がうかんできている。
 ふつうにやればいいのだが、これがいちばん難しい。
どうしても反応が気になる。おまけに可愛い娘がいたりするとなおさら大変だ。
いいところを見せようと肩に力がはいる。りきむ分だけぎこちなくなる。
ぎこちなさは自分でも分るから、つい慌ててしまう。慌てるとろくなことはない。
言葉に詰まる。汗がでてくる。手順を忘れてしまう。こうなるともう戻ることはできない。
失った冷静さは簡単には取り戻せない。ここに至れば、もうお仕舞いである。
自分でも何を言ってるのか分らなくなってしまう。
 何事もそうなのだが、実践する段になると考えていることとは大違いなのである。
会場に一歩足を踏みいれるだけで、なにも言わないうちからもうどきどきする。
人前に出るということは、それだけで恥ずかしい。
考えるだけでも、汗がふきでてくる。
 ぼくも初めてのときは、あとでなにをしゃべったのかまったく憶えていなかった。
無事に終って、スタッフから結構やるねといわれても、どうもと答えるのが精いっぱい。
気がつけば、全身汗びっしょりだった。
体力がいるんだ、と思い知らされた。
昨年の夏、北海道は札幌の宮ヶ丘ユースホステルでの経験だった。

 ぞろぞろと、わいわいがやがやと、うねる波のように大海原へと人の移動が始まっていた。
Dさんの声がしている。なにやら喚声もあがっているようだ。
さて、どんな夜になるのだろうか。

0054御袖天満宮

早春紀行(二十一)若さゆえに
「どうやら食事の用意ができたようですよ」
K君の声でわれに返った。いつのまにか大勢の若者が集まってきていた。
やっと食事の準備ができたらしい。
「大海原」には若さと熱気が充満していた。
ぼくはきょろきょろと見回すのだが、その人を見つけることはできなかった。
まあ、いいさ。ミーティングの時にはまた会えるだろう。
すこしがっかりしたら、急にお腹がすいてきた。
さあ、めしだめしだ。久しぶりの「メルルーサのフライ」はうまかった。
カレイの煮付もなかなかいい。腹が減っては戦さができん、というではないか。
ミーティングも腹ぺこじゃ、らちかんぜ。
 喧噪のうちに若者たちの夕食がはじまった。
大きな釜がつぎからつぎへとからになる。あらためてミーティングのことを考えた。
司会役がめぐってきたことは、幸か不幸か。
ぼくが目だつことはできるが、彼女のそばの席にすわることは不可能である。
そう考えるとなんだがどきどきしてきた。
焦るんじゃない落ち着け、と自分に言いきかす。
こんなとき、ぼくはからっきし意気地がない。
他人のことなら大胆な意見もいえるのに、どうしたことだ。
それを悟られまいと、きわめて平静を装いながらメシを何杯もおかわりした。
見知った顔が幾人もいた。みんな元気そうに明るく笑っている。
 食事が終って、後片づけの慌ただしさのなかを時間だけがながれていく。
食器を片づけながらも、視線はあたりをさまよっていた。
なにかしら落ち着かない気分だ。ミーティングの時間は刻一刻と迫ってくる。
壁の時計の音がやけおおきく聞える。
ひとり階段に腰かけて頬杖をついていた。胸騒ぎのおさまらない時間だった。

0115三虎丸

 ふりかえってみると自分でも不思議なのだが、ぼくには司会役などつとまらないといつも思っていた。
中学生のときに、生徒会役員の選挙に推薦されることがあっても、頑なに固辞した。
しかし逆に応援演説はそんな後ろめたさもあってか簡単にひきうけた。
壇上で友人の応援演説をするのは気楽さもあって気分がよかった。
晴れ晴れとして大胆な気持ちになれた。
ぼくは候補者をふつうに褒めるなんてことはしなかった。まず、彼を否定した。
彼はそんな役のこなせるような人物ではない、と断言した。
そこで、では彼以外に適任の人物がいるのかと問うた。しかし、いないではないか。
彼を否定したぼくが間違っていたのだ、とあっさりと謝罪した。
彼は適任とはいえないが、誠実で努力家で熱意がある。
最善ではなくても次善をとることができるのではないか、と訴えた。
しかし彼は落選した。ぼくは、落胆した。ぼくこそ適任ではなかったのだ。
そんな過去の経緯から、そういった役はやらないと心に決めていた。
 それがある時、ひょんなことから子供会の世話役をひきうけることになった。
それで急に野外活動の指導者育成講座に参加することが決まった。
六甲山の中腹、摩耶山にその宿泊施設はあった。
当時ぼくはまだ二十歳になったばかりの頃で、会社に有給休暇を申請して認められた。
二泊三日の研修会、参加者は短大生のグループとぼくより年上の社会人たちだった。
歌唱指導、ゲームのやり方、オリエンテーリング、簡単なロープの結び方などを教わった。
野外でのアーチェリーの実射や、テント張りの実習もあった。
小さい頃に、ボースカウトの制服をみてその姿に憧れもあった。
そんなことを思い出したりして、あたかもボーイスカウトに入ったような嬉しさもあじわった。
宿舎はお決まりの二段ベッドの八人部屋だった。
眠れないままに夜遅くまで話をした。
ウィスキーの小瓶を持ってる人がいたりして、彼がそっと見せると小さな喚声がわく。
キャップの蓋で、ほんの少しずつ回し飲むウィスキーがからだもこころも熱くした。
最後の夜にはキャンプファイヤーがあり、薪がぱちぱちと燃えさかっていた。
炎を見つめていると、子供の頃に戻ったかのように感動が体内から湧きあがってきた。
素直な気持ちになって、こどもたちにもこんな感動をあじわってほしいと思った。
 そんななかで、歌を歌ったり、ゲームをすることの意味を肌で感じた。
この体験は引っ込み思案なぼくのこころを、柔らかくほぐしてくれた。
実践する機会もあまりなかったがそれでもいい経験にはなった。
こうしたことが、ぼくがぼくなりのミーティング感をもつようになった遠因なのだろう。

沖縄本島紀行(五)シーサー編
沖縄の守り神のシーサーなのだが、すぐに思い浮かぶのは神社にいる狛犬だ。
どちらも獅子につながる面相をしている。
ルーツはおなじようなところにあるのだろう。
寺の山門に立ちはだかる仁王像に、似ていないこともない。
どれもが悪鬼、災厄から人を護る役割をもたされている。

3934シーサー

3935シーサー

そのシーサーも近年はデザイン的な変革の波にのみこまれている。
現代的というのか色鮮やかなシーサーも多くなっている。
ことにお土産品としてはその傾向が著しいように思う。

3926シーサー

だが、わたしとしては昔ながらのものがいい。
といっても、素焼きふうのものから磁器製などいろいろあるようだ。

3933シーサー

陣どっている場所もいろいろである。
屋根のうえだったり、門柱にのっていたり、壁にはりついていたりする。
玄関に陣取っているのもあれば、庭にて鎮座ましまする。

3920シーサー

3928シーサー

3932シーサー

3930シーサー

これはシーサーなのかどうか判断がつきかねたが、野鳥の休憩所になっていた。

3901シーサーか

わが家にいっしょに帰ってきて、これからの武運長久(?)を祈ってくれるのがこれだ。

6010わが家のシーサー

テーマ:沖縄 - ジャンル:旅行

沖縄本島紀行(四)食べもの編
沖縄で食べるならば、やはり沖縄らしいものがいい。

「島らっきょ」
これがなんともいえず泡盛にあう。

5901島らっきょ

5898泡盛

「海ぶどう」
ぷちぷちとした食感がやみつきになる。

5988海ブドウ

「豆腐よう」
これってチーズか、と思わせる味だ。
いぜん別府在住のO君にいただいた、「ゆふいん豆腐のみそ漬」とならび称されるものだ。

5986豆腐よう

「ラフテー」
豚肉の角煮なのだが、呼び方が「ラフティー」と英米化(?)してきてる。
沖縄市でのメニューには、「ラフティー」となっていた。
やはり基地の町ゆえだろうか。
石垣島では「ラフティー」よ言ったら、きっちり「ラフテー」ですねとダメだしされた。

5985ラフテー

コンビニでも沖縄らしさがあじわえる。
「ミミガー」もあるし「島どうふ」も売っているのだ。

5972ミミガー

5973島どうふ

すべて泡盛かオリオンビールといっしょに食したいものだ。
「イソヒヨドリ」もそうだとうなずいていた、ような気がする。

3836イソヒヨドリ

テーマ:沖縄 - ジャンル:旅行

沖縄本島紀行(三)観光編
まず那覇から南下して、喜屋武岬にある平和の塔までいく。
ここでなぜか突然のにわか雨に降られる(いつものことである)。
頭上を轟音とともに米軍のジェット戦闘機が飛んでいく。
いかにも沖縄らしいというか、幕開けにふさわしい光景かなと思ったりする。

3815平和の塔

3816戦闘機

ここから「ひめゆりの塔」までは近い。
やはり日本人ならば、沖縄と広島・長崎を忘れることはできない。
戦争の悲惨さをいうことと、実感することとはおなじようでまったく違うものだと思う。
機会があるごとにその地を訪れてその場の空気にふれて考えて生きなければ。
若き女学生の写真と対面し、多くの手記を読みながら会館のなかを歩く。

3841ひめゆりの塔

いまここにたしかに存在する形のない「光」を、眼ではなくこころで「観」じる。
M島のおじさんが言ったように、それが「観光」なのだとつくづく思う。

3840献花

この時期であっても沖縄の海の色はちがう。
小高い丘から遠くにながめるのもいいものだ。
南の島にやってきたのだという実感がわいてくる。

3848コバルトブルーの海

おなじ日本語を話すが、漢字の読みがちがったりする。
「城」と書いてグスクという。「原」もバルと読む。
熊本にも田原坂(タバルザカ)というのがあったなあ。
読み方とはちがうが、方角の北をニシという。
波照間島には、美しいことで有名な「ニシ浜」というのがある。
案の定、看板にはご丁寧にも「ニシ浜(西浜)」となっていた。
たぶん、地元出身ではない公務員の方がつくったのだと思われる(笑)。
(もう訂正されているのだろうか)

3885残波岬燈台

3887赤瓦

世界遺産の登録されている「中城城跡」(なかぐすくじょうあと)に行く。
城跡にはもうひとつ、座喜味城跡にもいってみた。
平地にある城とはちがって、どちらかというと砦のイメージにちかいのかもしれない。
組みあげられいる石をつぶさにみると本土のものとはちがうことが一目瞭然である。
フツブツと孔のあいた火山岩なのだということがわかる。

3852中城城跡

3854城壁

3907座喜味城跡

3911座喜味城跡

視界がさえぎられない赤瓦の低い家並みがつづく。
なんとはなしに、ゆったり気分になってくるのである。

3946沖縄の町並み

3937登り窯

テーマ:沖縄 - ジャンル:旅行

沖縄本島紀行(二)居酒屋編
初日の「ホテル日航那覇グランドキャッスル」では到着が遅くなることはわかっていた。
でもって夕食はかみさんがネットで調べていた「あんどん」なる店へいく。
ホテルから歩いても十分たらずの距離、落着いた沖縄民家風インテリアがいい。
男性が一人で切り盛りしていた(お客さんはほかに三組ぐらいいた)が、大忙しである。
料理もうまいし、値段もそこそこでいい感じ、とくにソーメンチャンプルは量も味もエクセレント。
隣の席では、おかわりしていました(笑)。

5891あんどん

居酒屋ではないけど、次の日のランチに行ったのが宜野湾市にある「オウチ」カフェ
これもかみさんが調べていて、是非行きたいとのリクエストあり。
以前は米軍の方の住宅であったとか、その雰囲気がいろんなところに残っている。
これが食べたランチ、味はいいし、ゆったりした気分になれる。
場所がわかりにくいが機会があれば訪れる価値あり。

5938オウチ

5945オウチランチ

5950オウチ看板

その後ドライブしながら「沖縄かりゆしビーチリゾート・オーシャンスパ」到着。
部屋まで荷物を運んでくれた女性に聞いてみたが、その情報もいまいちに思えた。
とにかくホテルをでてだらだらとした坂をくだっていると、前方に若者五人組がいく。
どこか食べに行くのかとその動向をうかがいながらついていく。
海岸へでるようなので、われらもかなたの夕焼けを見る。

5957かりゆしビーチ夕景

その途中にあったのが、ダイニングバー「海風よ」(ウミカジヨ)で若者向けの内装だ。
料理はまずまず、値段も高くなく今夜も食事にありつけました。

5964海風よ

5969ウミカジヨ

三泊目の「東京第一ホテルオキナワグランメールリゾート」では館内のパソコンで探す。
ホテルをくだってすぐのところに居酒屋「島ちゃん」がある。口コミも評判がいい。
値段も高くなく、よさそうなので六時前にはいるがまだ誰もいなかった。
生ビール(もちろん沖縄ではオリオンビール)にラフテーと海ぶどうなど注文する。
そのうちにあっという間もなくほぼ満席状態に、人気があるのだろう。
ちなみに座敷の横はアメリカ軍関係(?)らしき若い男性四人組、リラックスしてました。
いかにも沖縄的な雰囲気で料理もおいしいし、なかなかよかった。

5989島ちゃん座敷

5996島ちゃん

テーマ:沖縄 - ジャンル:旅行



プロフィール

ムッシュ

Author:ムッシュ
島を旅するときが楽しいですね。
遠くに眺めるのも好きです。
楽園なんてないんですけどね。

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