ムッシュの読書紀行
人生は旅のようだと言いますが、旅が人生かも知れません。 ぼくは活字中毒気味でもあり、旅はまだまだ続くでしょう。
03 | 2011/04 | 05
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下手の考え休むに似たり
夏の縁台将棋では、それまでは軽口をたたいていたのが急に進退きわまってうーむと考えこんでしまう。
すかさず対戦相手が余裕しゃくしゃくといった雰囲気をただよわせながら、こう言ったものだった。
それでますますかっとなって、なにがなんだかわからないうちについ悪手を指してしまうのだ。
「待った」とでも口走ろうものならば、ますます図に乗って何手までお待ちましょうかなどというだろう。
それをぐっとこらえながら、ならぬ堪忍するが堪忍とこころのうちに唱えつつじっと盤面をみる。
ところが岡目八目とはよくいったもので、傍らで見ているものには余程状況がよくわかるのである。
思わずこう指せばこうなりますよと言いたいところだが、それを言っちゃあ万事おしまいなのだ。
そんな夜の光景を思いだすのだが、家のなかよりは外のほうが涼しかったから遅くまで遊んでいた。
クーラーがなくてもすごせたのは、クーラー(の排熱)がないせいでもあったのだ、といまでは思う。

4495マガモの逆立ち

「ロハスの思考」 福岡伸一 木楽舎 ★★★★
ロハスとは、Lifestyles Of Health And Sustainabilityの頭文字をとった言葉である。
健康と持続可能性に配慮したライフスタイルのことをいう。ロハス的な価値観をもって行動しようというのだ。
だが、人々は容易に単純な論理に組してしまう。たとえば、なにを含む食物は身体にいいとかといったこと。
『私たちの食べ物はどんなものであっても、もともとは他の生物の一部であったものだ。
したがって、そこには他の生物の身体を構成していた〝情報〟が残されている。
このような情報が直接、私たちの身体に侵入してくると、情報の干渉や混乱が起こることになる。
そこで私たちは消化システムによって、
他の生物が持っていた情報を完全に解体してから身体に吸収するようにしているのだ。
タンパク質情報を、アルファベットのレベルにまで分解し、意味を解体する。
また情報の中には、ちょうどコンピュータウイルスのような偽情報が混入してくることもある。
同じOSを使っているとコンピュータウイルスに感染してしまうように、似たような文法システムを使っていると、
病原体や毒素が消化システムをかいくぐって乗り移ってくる可能性もある。
狂牛病原体やSARS、鳥インフルエンザなどが他の動物からやってきたのもこのためである。
もちろんここには、様々な人為的操作が病原体の拡大を助長してきたという側面も見逃すことができない。』
どうすればいいんでしょうね(笑)。
『なぜ、私たちは他の生命を奪ってまで食物をとり続けなければならないのだろうか。
それは生きるということが、私たち自身の身体を、地球における分子の大循環の中にさらして、
環境そのものに参加するということにほかならないからである。
そのとき環境は、私たちの体の中を通り抜けていく。
環境を考えることは、私たち自身の在り方を考えるということである。』
こうしたことを読むとき輪廻とはどういうことをいうのか、生きるとはを考える参考になるのではないか。

「武」 甲野善紀 井上雄彦 宝島社 ★★★
甲野氏のことを知ったのは養老先生との対談本でだったが、一読こういう人がいるのだなと感嘆した。
井上雄彦さんはマンガ「スラムダンク」(名前だけは知っている)の著者で有名な方であるという。
彼は「バカボンド」という宮本武蔵の生涯をえがいた作品を執筆中(対談当時)でもあり対談が実現した。
甲野氏の語る武術のこと、その動き実践は多くのスポーツ選手や指導者にも注目されている。
『よく「正しい基本を身につけよう。応用は上手になってから」と言われますが、実はなんの根拠もない。
教える側が自分たちの権威を押し付けたいだけというのが真相だと思います。
……
多くの人は「基本は大切」と言いますが、実は「大切らしい」という程度で、
実感はないまま、指導者の対面を保つためにそう言っているだけでしょう。
現実には〝正しい〟基本を身につけたせいで、先にいけないことの方が多いのではないでしょうか。』
いままでなんの疑問もなくそうだと思っていたことを甲野氏はちがうのではという。
そんな彼がなぜ武術の道にすすもうと考えたのか、こうおっしゃるのを聞けば武人だと納得するだろう。
『そもそも人生は「どうせ死ぬのに生きている」という矛盾そのものです。それを矛盾のまま、受け入れる。
そして、受け入れているときには矛盾を感じない状態でなければならない。
これは言葉の上でのことですが、それを実践するには体感するしかないだろうと考えました。』

「江戸の智恵 「三方良し」で日本は復活する」 養老孟司 徳川恒孝 PHP研究所 ★★★
養老先生の対談本を読むといつも感じることがあり、飽きることがないのが不思議だ。
対談相手も同じように思っているうのだろうが、勉強させていただいたという感謝の思いがつよい。
どうのような問題にも、まさに変幻万化に答えをあるいはアプローチのしかたをご教示いただくのだ。
『いまの日本では、人を育てるといえば、「それが何のために役立つのか」とすぐなってしまい、
それを「能力主義」と称しています。
でも、本当はそんなことは取るに足らないものであり、
「これだけ人がいるのだから、一人ひとりの能力をできる限り活かしていこう」というのが、
もともとの日本社会の姿でした。
その意味で、「一人ひとりの人間が、その人なりにいかに完成するか」という価値観を、
日本人は取り戻さなければなりません。
そういう「修行」がないから、政治家が品のない人相になってしまう。』
何の役に立つのかは、どれだけ経済効果があるのか(儲かるのか)という問いとおなじようにきこえる。
役に立つか立たないかわからないことでも、やってみようという気が社会になくなってしまったのだろうか。
『私は、日本は古いアメリカだと主張しています。ご承知のとおり、数万年のスパンで見ると、
かつて日本にはユーラシア大陸のあちらこちらから、さまざまな人々が渡ってきました。
つまり長い歴史で見れば、日本人はある意味で「外来者」であり、
僕自身もミトコンドリアDNAを調べてもらったところ、母方のルーツは中国南部でした。
いまでは、そういうことがわかるわけです。
遺伝子を調べていくと、人類はアフリカ大陸から少なくとも三回、移動を繰り返しているといいます。
その三回の移動で伝えられた遺伝子をすべて受け継いでいる地域は、世界で日本だけ。
だとすれば、数万年のスパンで見れば、
日本は結局、移民で成り立っている国であり、古いアメリカ合衆国だともいえるわけです。
逆に、アメリカがうんと古くなって、そこから何千年か経って国が成熟すると、日本になるといえないくもない。
聖徳太子が西暦六〇四年に「十七条憲法」わ定め、「和を以って尊しとなす」といったのはなぜか。
おそらく生い立ちの違う人々が集まり、喧嘩ばかりしていたからです。
記録には残っていませんが、その反省をもとに、和を尊ぶ日本社会をつくってきたことが、
われわれの血脈になっているのだと思います。』
国家中心主義というのは新興宗教みたいなものなんだな、と思わざるをえないのであります。

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天国と極楽
最近、元キャンディーズのスーちゃんが亡くなった。
享年55歳であり、乳がんでの長い闘病があったとのことである。
若いころより年齢を重ねてからのほうが存在感を増した女優さんだった。
あらためてご冥福をお祈りしたい。

『死を覚悟していた田中さんは、東日本大震災の犠牲者を悼み、
「私も一生懸命病気と闘ってきましたが、もしかすると負けてしまうかもしれません。
でもその時は必ず天国で、被災された方のお役に立ちたいと思います。
それが私の務めと思っています」と語った。 』

こんな朝日新聞の記事を読んでいて、すこし思うことがある。

田中好子さんがキリスト教徒だったのかどうかは知らない。
でも天国と言うぐらいだから熱心な仏教徒ではなかったのだろう。
などということを、つい感じたりするのである。

しかしながら、日本人は宗教におおらか(?)なので、あまり用語にもこだわりがない。
たとえば、天国と極楽といったことば、あるいは概念。
ふつうの受けとめ方では、死ぬとキリスト教では天国へ、仏教なら極楽へ行くのかな。
(生前の行いの悪い人は地獄へ墜ちる、というのはさておいて)
などと、あらたまって考えるならそういうところだろう。
だが、日本人ならそこまで言葉に神経質にならなくてもという態度が一般的かもしれない。

大晦日には寺で除夜の鐘をつき、年が明ければ神社に初詣にでかけおみくじを引く。
キリスト教徒ではなくったって十二月のクリスマスにはケーキで祝う、らしい。
(なにを祈っているのかは知らないが、まあ恋人どうしこれからも仲良く、というようなことだろう)
これって、敬虔なキリスト教徒からみれば、ハローウィンを祝う異教徒とおなじにみえるのではないか。

だが、いまの世界に欠けているのはこの宗教的寛容さなのではないか、と思う。
地球上の人びとが日本人のような宗教観をもてば、テロなども起こらないのではないだろうか。

4323和

木の芽どき
すこしずつだが気温があがって、暖かくなってくると木や草は芽吹き緑が視界にひろくはいってくる。
雑草を抜いてという要望をうけて、いざと思ってしゃがんでみるがどれを抜けばいいのかがわからない。
春や秋の七草と呼ばれるようなものは、ガーデニングを楽しむ人から見ればほぼ雑草の区分にはいる。
これはどっちと訊きながら抜いていくのだが、そこにはもう草たちとともに蟻がいそがしく働いている。
どこへ行くのやらとか、なにか食べものは見つけられたのだろうか、としばし考えてしまうのである。
ちっぽけな石ころであっても、蟻たちからすれば巨大な岩石(?)にも相当するのかなと思ったり。
枯れた茎は道をふさぐ大木であり、草叢はジャングルにもなるのだなどと胸をおどらせたりしてしまう。
そこへ突然雷鳴のごとくに、「ちゃっちゃとやらんと日が暮れるよ」と春の嵐も吹いてくるのである。
そんなにと振り返ると、「雑草という草の名はないんでしたね」とにっこり笑顔が降りそそいでもくる。

4429木の芽どき

「博士の愛した数式」 小川洋子 新潮社 ★★★★
『彼のことを、私と息子は博士と呼んだ。そして博士は息子を、ルートと呼んだ。
息子の頭のてっぺんが、ルート記号のように平らだったからだ。』
こうして記憶が一九七五年で途切れてしまった数学者と、家政婦とその息子の物語がはじまる。
事故の影響で、博士の記憶は八十分しかもたない。といわれても、具体的なイメージはもてないだろう。
昨日はあんなに阪神タイガースの話題で盛りあがったのにと思っても、今朝はまた他人からのスタートだ。
博士は数学の話をしていると目を輝かせている。博士を喜ばそうと私は頑張り、そして発見した。
28の約数を足すと、28になった。
28:1+2+4+7+14=28
これは完全数とよばれる。博士の好きなタイガースの江夏は背番号に28をみずから選んでいた。
こんなに切なくて哀しくて、でも生きているだけでなんだかしらないけど素晴らしいんだ。
世間的な出世や成功とは縁がなく、ただ数学の世界に生きる博士をみてなにかを考えないわけがない。
映画の成功もわかる気がする(見ていませんが)、そんな小説でありましたね。

「昭和史探索 1」 半藤一利編 ちくま文庫 ★★★★
『しばしば説かれてきていることではあるが、「歴史」とは英語で「ヒストリー」というように、
それは物語(ヒストリー)であり、またそこに面白さもあるのである、と。』
しかし、まったくのフィクションではないのが歴史であることはいうまでもない。
だから、こういわれる。
『史料をもって語らしめよ、という言葉の意味深いところはそこである。』
よって、歴史書の良し悪しはその採用された史料の質によるということにもなるのだ。
昭和元年生まれの有名人はすくない。それはこういう事情だからだ。
『実際の昭和の幕開けは、昭和二年からということになる。
昭和元年は十二月二十五日から三十一日までの一週間にすぎなかった。
いろいろな問題の山積みになっている国政・外交・軍事を引き継ぐ昭和天皇は当時、
まだ二十五歳の青年である。』
今回は昭和元年から四年にかけてのこと。
なんといっても大事件は、日本陸軍が起こした昭和三年の張作霖爆殺事件である。
詳しくはご自分でお読みいただきたい。なるほどこういう経緯だったのかとうなずかれることだろう。

「はい、泳げません」 高橋秀実 新潮社 ★★★★
とにかくなんだかおかしくて、読んでる途中でなんども声をだして笑ってしまった。
登場する鬼コーチの高橋桂さんてどんな女性なんだろうかなんて想像しながらどんどん読みすすむ。
コーチとタカハシ(著者)のバトル的会話がなんともいえず、またこれがおかしく哲学的だ。
世に水泳教室や水泳入門書(?)は数知れないだろうが、ここが本書が最高峰だと断言できる。
桂コーチは、水をかこうとしないようにと言う。さらに、浮こうとするな、浮こうとすると浮力を殺してしまう、と。
泳げない人の最大の難関は息継ぎなのだが、息を吸うのではなく吐け、吐けば勝手に息が入ってくる、と。
究極は、泳がないで下さいとまで言うのだった。
『「泳ごうとするから、手足がどうした、息継ぎがどうした、あれもしなきゃこれもしなきゃと
焦ってしまうんです。最初から泳ごうとしてはいけないんです」』
そして、からだが真っ直ぐに伸びればすすんでいくというのだ。
男性(理屈からはいる)にとっては非常にわかる、そうそこのところが知りたかったのだと賛同するだろう。
その他詳しくは本書を読んでいただくとして、わたしはもうすっかり泳ぎの奥儀を見極めた気分だ。
もしもできなければ、また読めばできるに決まっているという安心感があるからだいじょうぶだ、と思う。

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早春紀行(最終回)メビウスリングの世界
 誰になにかを言おうというのではなく
 寂しさから逃れるのでもない
 思いのたけを告げようというのではなく
 感じることを伝えるのでもない

 億年の遙かかなたから
 連綿と絶えることのない大地の深い呼吸は
 青いインパルスとなって
 シナプスの森を彷徨い続ける

 デルフォイの神殿に掲げられた「汝自身を知れ」とは、哲人タレスの言葉だという。
だが、いざこの言葉を実践しようとするならば、これがことのほか難しいことがわかる。
自分の尾を追う犬のように、いつまでもぐるぐると同じところを廻ってしまうのだ。
あと少しで捉えられるというのに、そこからはちっとも進むことができやしない。
ましてや自分の尾であるということすらも分からなくて、やみくもに走るばかりだ。

 ほんとうの自分を捜すために旅にでるのだと、誰かが言う。
真の自分と、仮の自分がいて、こころのなかでせめぎ合っているという。
世間という過酷な世界では、本来の姿をさらして生きることなどできはしない。
仮面を被り、こころの内を見抜かれないように、息を潜めて生きる。
お愛想と、お追従の日々に疲れ果てると、誰も知る人のいない町を夢想する。
日常性の仮面を脱ぎ捨てて自由に生きたい、とつかのまの旅にでるのだ。
住む町を離れ見知らぬ土地を旅しているうちに、いつしか自由なこころがかえってくる。
ほんとうの自分に出会えたならば、偽りのペルソナを捨て去ることができる。
こうして、のびやかで自由な生来の自分にもどれたのだ、と訳もなく思えてくる。
 それで納得できるのであれば、それはそれでいいではないか。
しかし、ほんとうの自分と仮の自分だとは、なんと多重人格のようなことをいうものだ。
人格をどんどん分裂させて、そのなかの気にいったものだけが自分だというのだな。
 ぼくはこんなふうに考えたりもする。仮の自分というのは、言い訳にすぎない。
誰にでもない自分に対する言い訳なのだ。自分で自分を説得しているのだ。
心理学でいう合理化と同じで、納得できるものが是非とも必要だということ。
 こんなことをいう子どもたちや学生を見かけたことがないか。
「ほんとうにやれば、もっと勉強だって出来るんだ。でも、いまはなんだかやる気がしない」
「勉強だけが人生じゃないし、なぜ勉強ばかりしなければならないんだい」
「それに学校の勉強は社会にでたとき、全然役になんか立たないんだ」
自分で経験してきたようなことを言うが、論拠も勝手な思いこみばかりでしかない。
自分に都合のいいことだけしか言わないし、どうしても言い訳に聞こえる。
なんだかどこか妙に似ているように思えてしかたがない。
 そううがった見方をしないでも、ほんとうのところはきっと寂しいのかも知れない。
話し相手もなくて、つまり自分しか話す相手を見つけられないということだ。
 人はひとりぼっちになると、幻覚を見るよりは幻聴が聞えてくるのだろう。
話す言葉は自分の耳からのフィードバック入力となって自分を安定させるものだ。
独り言はけっして特異的性格のせいではなく、自己保全本能なのものかもしれない。

「おばちゃん、ごちそうさま」
 開け放たれている硝子戸から店の外にでると、まばゆいばかりだった。
港へむかう道をすぐ右へ折れて、墓地のなかを歩いていった。
お彼岸の名残だろうか、しおれかけた花がそれでも鮮やかな色をみせていた。
どこからかほのかに線香の煙がうすくゆらゆらと立ち昇るようでもあった。
 ふだんはめったに通らない道へと曲がり、民家の裏の狭い道をたどっていった。
枯葉が散らばる道は、軒先の波打つトタン屋根がすぐ眼の前を通りすぎていく。
急な勾配が感じられるあたりから道をおおうように木々の葉が茂り、ひんやりとしている。
それでも、坂を昇っていくぼくの鼻孔には草いきれが充満していた。

 三虎へもどってきて、裏から台所にはいるとおばさんがひとりでいた。
薄暗がりのなかでおばさんは水仕事をしていた。
はいってきたぼくに気づくと、手を休めてこちらを見た。
ぼくはどさりと椅子に腰をおろして、言った。
「みんな、帰っていってしもうたわ」
「そう。寂しくなるわねえ」
「去る者は日々に疎し、か…」
 とつぶやくと、
「きっとまた来るわ。必ず会えるわよ」
「誰のこと言ってるの」
「Tさんでしょ」

 ぼくはおばさんにTさんのことなど話した覚えはない。
なのにどうして、おばさんがTさんのことを知っているのだろうか。
なぜだろうという思いが、いつまでもぼくのこころをめぐった。
 たくさんの人の重みに擦れて角が丸くなった木の椅子にすわり、
水道の蛇口からときおり落ちる水滴をじっと見つめていた。
 季節が移り変わるように、ぼくも立ちどまっていることはできない。
流れる水は時々刻々入れ替わる。だがしかし、川はそこにある。
時の流れのなかで、ぼくはぼくであり続けられるのだろうか。
それとも、どうしようもなく変わっていってしまうのだろうか。
 ひとつ旅を終えれば、それはまた新たな旅の始まりを意味した。
ぼくはひとり旅するうちに、メビウスリングの世界に迷いこんでいた。

6023メビウスリング
  [メビウスの帯Ⅱ] ウッド・イングレービング 1963年 M.C.ESCHER

早春紀行(四十九)「さようなら」は言わない
 出発の合図の汽笛が「ヴォー」と鳴った。
すこしずつ後ずさりするように船が桟橋を離れていく。
いったん停まって、方向転換をするためにスクリューが逆回転をはじめた。
たちまち海面に渦が巻きおこる。
ゆるやかに木造の船体を回転させながら、きしむ音が聞えてきた。
船とぼくたちの間をつなぐ紙テープがよじれている。
甲板の連中は船の転回とともに反対側の船べりに走る。
人が移動するたびに右へ左へと船体をゆらした。
傾いた船の手摺につかまって身体を乗りだし叫んでいる。
「みんな元気でねえ」
「達者でなー。また会おうぜ」
「きっときっと、また来るからな」
「また帰ってこいよ!」
 残る連中も去りゆく者も、やはり「さようなら」は言わない。
元気にあふれた若者が帰っていく連中に届けと声をかぎりに叫んでいる。
そんな声を置き去りにして、船ははやくも防波堤をこえていた。
連絡船は速度を増して北木島をめざして白い浪をたてている。
船を追いかけて海岸に沿って防波堤へと走る連中もいる。
風をはらんだ大きな旗を先頭に、二三人が飛ぶように走っている。
船はもうすっかり小さくなってしまった。
でも、みんなは手を振ることをやめなかった。
かすかに動くなにかを、そのなにかを必死で見ようとして目を凝らしていた。
やがて小さな船は春に霞むはるかな島陰に消えていった。

0049せと

 しばらく海の向こうをながめていた連中も、あきらめてその場から離れていった。
ぼくは最後まで桟橋に残って、ぼんやりと船の去った港内の海面を見つめていた。
やるせないような感情につつまれたまま、空白の時間が流れていく。
いつしか横にKくんがきていた。
「帰って行きましたねえ」
「ああ、帰って行きよったなあ」
「なにかしら、淋しいですねえ」
「気が抜けたみたいやなあ」
「お好み焼きでも食べにいきますか」
「そうやな、ちょっと寄ろか」
「お供しますよ」
 島に一軒しかないお好み焼屋「一富士」へとむかう。
数メートル手前から、もうにぎやかな声が外まで漏れてくる。
名物おばちゃん相手に何人かの連中が席を占め、話に花が咲いていた。
「いらっしゃい、どうぞ」
「君ら素早いなあ。どこに行ったのかなあと思ってたら、やっぱりここやった。
ところで、みんなはなにを食べてるのかな」
「もちろん、お好み焼きですよ。
真鍋島名物の、肉抜きベジタブルお好み焼きです」
「そしたら、ぼくらもお好み焼きにするわ。
おばちゃん、お好みふたつね。それと、ビールもお願いします」
「はいよ、お好みふたつとビールね」
 隅のほうにすわっているDさんが声をかけてきた。
「どうかしたの。なんだか、元気なさそうだけど」
「そんなことはありません」
「どこか具合でも悪いの」
「全然、元気いっぱいです」
「もしかして、好きな女の子でも帰ってしまったの」
 ぼくが睨もうとする前に、Kくんがその言葉を引きとった。
「ムッシュはねえ、いまそういう問題に対しては非常にナイーブですよ。
なにか人生における哲学的問題に遭遇しているらしいんです。
もちろん、ムッシュのことですから女の子のことなんかではない、と思いますけど」
「哲学的問題って、どういうことなのかよく分かんないな。
それにわざわざ女の子のことではない、と断るところがおかしいよなあ。
女の子が嫌いなのかな。嫌いなわけないよね」
「好きですよ、Dさんと同じくらいには大好きですね」
 すこし皮肉っぽく答えた。が、
「そうなの。やっぱり可愛い感じの娘がいいのかな」
 と、いっこうに応えた様子もなく悪びれもしない。
「そうですね、ぼくの好みはと言うと…」
 全然反対でもないけど、Dさんの逆を言ってやれ。
「顔はやっぱり面長で、目はパッチりじゃなくて切れ長がいいですね。
二重瞼なんて軟弱なのは論外で、断然一重がいいですね。
そのほうが生物学的にいっても、瞼の皮下脂肪が厚くてぐっと上質ではあるしね。
それから背は高いほうが好きですよ。できれば166cmくらいあるといいな。
性格的にはあっさりしていて、ものもずばずばと言うほうが気持ちいいですね。
なやなよしていたり可愛い娘ぶってるのなんて見ると、吐き気がするよなあ。
服装もピンクだとか嫌ですね、黒ずくめのカラスみた方がよっぽどマシです。
それに加えて、さらに言わせてもらうとすれば…」
「もういいよ。ぼくとは全然違うんだ」
「ええっ、それはよかったあ、Dさんとかち合わないで。ほんとうですよ」
「ぼくも同じじゃなくてよかったよ」
 なんだか悪かったかなあと思ったりもしたけど、考えてみればほとんど本音だ。
ああ、Dさんにこんな態度をとるなんて、ぼくはどうかしている。
Dさんもそれっきり話しかけてこなかった。
 鉄板上のお好み焼きはソースの焦げるにおいが香ばしく食欲を刺激する。
しかしいざ食べる段になると、食欲はすっかり消えてなくなっていた。
コップに注いだビールの泡を見ていると、遠ざかる船尾がうかんでくる。
ぐいっと飲み干したら、冷たさと苦さだけがじんわりとこころにしみてきた。
母親を見失った幼児のような気分で、テーブルに肘をついて顎をささえていた。
なにを考えるでもなくただぼんやりしていると、一富士のおばちゃんが言った。
「元気出さにゃあいけんよ、いい若いもんが」
 と言いつつ、ぼくを打つような仕草をした。
「そうやな。男のくせにうじうじ考えててもしょうがないわな。
よーし、おばちゃんの焼いたおいしいお好み焼きを食って元気をだすぞ」
「ええこと言うやないの。そうそう、その調子やで。おーほっほっほ」

生物たちの春
湖北ではまだまだ春ははるかにあるのか、という感じだった。
遠くにみえる琵琶湖バレイにはまだ雪が残っている。

地名としてはめずらしい片仮名の高島市マキノ町に行ってみる。
農業公園として整備されている通りはメタセコイアの並木になっているのだ。
メタセコイアといえば、学校で習った知識では生きた化石というものだった。
札幌の北大のポプラ並木にも比される雄大なものだ。
みあげているだけで、なんとなくい古へと記憶がつれていかれる思いがする。

4442メタセコイアの並木

ここから歩いていける「近江かたくりの里」という群生地がある。
川沿いをかれこれ三十分近くも歩いただろうか。
道中の道沿いにたらの芽(まだ採取できる時期ではない)があったりして、おもわず歓声をあげる。

4420たらの芽

カタクリといえば片栗粉でしか知らないのだが、可憐な花を咲かせている。
なかには珍しい白い花などもあった。
しかしながら、植物でもあれ芽吹く季節というのはなにかこころ高揚するものがある。
花は爛漫に咲いて、また次世代へとつながっていくのだろう。

4406かたくり

4430かたくりの花

4410白いかたくり

生けるものは花だけではなく、すべてのものが春を感じているのだろう。
訪れるいろんな場所で、いろんな表情で姿をみせるのである。
すこしずつ暖かくなっていく北半球の表面では数知れないドラマが進行していく。

4440黄花

4425つぼみ

4502マガモ

4513窓際のハチ

そんな場面に出逢えたよろこびを胸にしつつ、今回の短い旅(?)は終わりへとむかう。

ひと風呂浴びて、身体もこころも温まれば祝杯をあげよう。
ここまで生きてこれたという幸運には重いものがある。
いつかどこかでまた逢えることもある友に思いをはせて乾杯をしよう。
(とかなんとかいいながら、飲みすぎではないかとのご批判には素直に肯んじえよう)

でもね、またね、どこかでいっぱいなんていいでしょう。
こんなふうな人生を送れるなんて若いころには想像もつかなかった。
生きるって、なんと不可思議に満ちているのだろう。

4512マイケル

テーマ:真鍋島の愉快な仲間 - ジャンル:旅行

海津大崎の桜
瀬戸内で見そびれた桜を琵琶湖岸で見ようじゃないか。
そんな呼びかけに、たちまち呼応する仲間がまたまた集まった。

わが家は金曜日からNSH家にお邪魔して、まずは前夜宴(?)にあいなる。
博多に出張だったEND氏も夜遅くなってやってくる。
こうしていつものように夜の杯を重ねて、つかのま吐息をこぼそうという。

「言の葉は闇に棄てるものだぜ」
「御意、と思し召せ」
「さにもあらん」
「散るものはいつも美しい」

「ばかなこと言ってないで、早く寝なさい」
「は~い、おやすみなさい」

で、心配なのは明日の天気なのだ。
(まあ、多少の雨はやむをえないだろう)

梅津大崎の桜クルーズ船の乗り場に行けば、強風で出航見合わせ中とのこと。
雨まじりの風がときおり吹くなかで、結局一時間半くらい待ってついに出発。

4353海津大崎

とにかく寒くて、たいへんな天候のときに来てしまったものだとの思いがあっただろうか。
そんな不平不満も、あっというまに雲散霧消するのだから不思議なものだ。
それは、下船時にそれぞれにお詫びとともにお土産が渡されたからなのだった。
(地元近江国の陽明学者の名を冠した「藤樹せんべい」でありました)

桜もそうだが、なにごとも見る角度でちがって見えるものだ。
湖からみるのと、並木の下からみるのではこんなにも印象がちがう。

4455桜並木

4457桜の陰陽

いたるところで桜は満開でありました。
では今回の桜風景、どうぞゆっくりご覧ください。

4438桜の花弁

4485ログハウスと桜

4506手水の桜

4516流れの桜

4518椿と桜

テーマ:真鍋島の愉快な仲間 - ジャンル:旅行

読書の深み
読書は深みがあると言いたいのではなく、ぬかるみに足を踏みいれるが如くに深みに陥るのほうである。
人間生きているといろんな深みにはまるものだが、はまらなければ見えないものがあるのだという。
つまり経験してみないことには、どうしてもわかりえない領域が厳と存在しているというのである。
だが、人生は有限でありかつ短いものだから、それではなんとしても不満なのだという御仁がでてくる。
それに経験してみなければといっても、なにを経験したいのかそれすらもわからない時期があったりする。
他者のこころのなかが分かりきるとは考えないが、それでもどう感じたのかどう思ったのかは興味がある。
読書で手にとるように理解できるとまではいえないが、それでも先人の考えや悩みが行間ににじんでいる。
いにしえの賢人、奇人たちに逢えないまでも、ほんの後姿でも見える思いがするから不思議なものだ。
人生の深みに潜んで、ひがな一日虚空をながめつつ暮らす、そういう日があってもいいのではないか。

4445ベンチ

「がんばらない生き方」 池田清彦 中経出版 ★★★
ときにがんばれって言ったりしますが、いつも頑張らなくてはと思っているのはどうかなということです。
『効率重視、成果がすべての世界では、「無駄」は絶対悪とされがちですが、
場合によっては「無駄」も結構大事です。
元来、生物の世界なんて無駄のオンパレードです。
例えば「免疫」を例に取ると、T細胞と呼ばれる細胞の役割がとても重要なのですが、
生物はまず、そのT細胞をとにかく数多くつくる。ざっくり言えば、デタラメにつくるのです。
で、デタラメにつくられた無数のT細胞は、胸腺という部分で、いわば“検査”されます。
でも、真に「T細胞」と呼ぶに相応しい外部抗原に対応できる力を持つものは、たったの三パーセント。
つまり、九十七パーセントは無駄ということになります。これらの無駄な細胞は胸腺で殺されます。
ではなぜ、最初から、その三パーセントをつくらないのか。
それは外部抗原に対応するものだけをつくるなんて、難しくてできないからです。
T細胞に関しては、ほかにも「無駄」と言える部分があります。
具体的には、はしかの抗原をやっつけるT細胞が存在しますが、
今は生涯、はしかの抗原とは無縁の人もかなりいます。
そうなるとそのT細胞は生涯、その人の体の中でブラブラと、ほっつき回っているだけで終わってしまう(笑)。
では、そういう無駄を一切排除して、ギチギチのところで生物が存在できるかといったら、答えはNOです。』
科学の世界では無駄はあたりまえのこと、逆に無駄なくして成果はありえないとさえいえる。
無駄とも思える実験の繰り返し、積み重ねがなくては到達できないものがある。
それは無駄だというのはけっこう後理屈が多いのではないだろうか。つまり、成果が得られなかったという。
いまでは一斉風靡している(?)事業仕分けなどもそういう面がなきにしもあらず、と考えたりする。

「ロードサイド・クロス」 ジェフリー・ディーヴァー 文藝春秋 ★★★★
本作はリンカーン・ライム・シリーズではなくカリフォルニア州捜査局捜査官キャサリン・ダンスが主人公。
ダンスはキネシクスの専門家で、キネシクスとは表情・動作・身ぶりなどから隠された本意を知ること。
たとえば、口では知らないと言っていても、ボディランゲージは知ってると表現しているということがある。
だから尋問によって相手の供述が嘘であることを知ったり隠していることがあると察知できるというのだ。
このキネシクスは、すこしまえのプロファイリングにかわって最近の流行になりつつあるのだろうか。
まあ以前からボディランゲージとして知られていたことを、犯罪捜査にも役だてようというだけのこと。
で今回は、人気のブログに書かれた記事によせられたコメントがひとりの高校生をバッシングする。
だがこうした中傷をおこなった人が次々に襲われるという事件が発生するという事態に発展した。
ある意味ネット社会がかかえる問題を提起するという本作は、ミステリとしてもよくできている。
二転三転はあたりまえで、読みながら真犯人は誰と予想しつつことごとくくつがえされていくことになる。
うーん、でもリンカーン・ライムのほうのシニカルさが好きだという読者も多いかもしれないという感想だ。

「話せぬ若手と聞けない上司」 山本直人 新潮新書 ★★★★
山本氏は博報堂でコピーラーター、研究開発を経て人事局で若手育成の仕事に長くたずさわった。
そのなかでのいろいろな経験によって、氏は本書を書いてみようと思われたのだろう。
「理不尽症候群」と呼びうるような新人たちがいるという。
『仕事を始めた新人から「理不尽」という言葉が出てくることがやたら多いことにやがて気づくようになった。
「とにかく部長の言うことが理不尽なんです」
「得意先が理不尽だから嫌になりますよ」』
これはどうも自分の仕事が評価されなかったときにつかうらしい。
そういえば、若手のお笑い芸人もネタのなかで相手を断罪するときに「理不尽」と言ったりする。
まさに切れ味するどいことばで使い応えがあるのだろう、とわたしも想像している。
『「もしかしたら彼らは『理不尽な経験』が少なかったのでは」というのがその仮説である。
逆に言えば「学生時代までに理不尽経験を適度に知っている」ということが
結構大切なのではないかと思ったのだ。』
過保護家庭で育った若者は、はじめて社会にでてそのギャップに戸惑うのである。
優劣をつけない教育の場から、できるものが勝ち組だというある意味理不尽(?)な世界へ。
だからこうすればああなり、こうしたからああなるゲームの世界には安心感していられるのではだろうか。

テーマ:読んだ本。 - ジャンル:本・雑誌

早春紀行(四十八)人生足別離
 そろそろみんなが乗りこむ定期船の時間が迫ってきていた。
小脇にマーガレットの花束を抱えこんで玄関前を出ていく人たちがいる。
笑い声がこぼれ落ちるような春の日は、すこしづつあわただしい空気につつまれていった。
 三々五々に小グループとなってユースホステル横にのびる急坂の小道を登っていく。
登りきったところ、誰ともなく名づけられた見返り峠でしばらく立ち止まる。
ふりかえって見下ろすと、元小学校の建物は瓦屋根に光を反射していた。
佐柳島へとつながる海面は春の光できらきらと輝いている。
風もあまり吹かない暖かな斜面にはモンシロチョウがひらひらと飛んでいる。
物干し台で洗濯物をほすおばさんの姿をいち早く見つけて声をあげる。
「あっ、おばさんだ。おばさーん、また来るからね」
「おばさーん、元気でね」
 おばさんは洗濯物をほす手を休めて、こちらに手をふってくれる。
にこにことした表情がぼくたちにはよく見える。
手をふりながら声をあげるぼくたちだが、けっして「さようなら」とは言わない。
「さようなら」は「さみしすぎる」し、きっとまた「帰ってくる」のだから。
ぼくたちの声は真鍋の上空にこだまして、また降り落ちてくるかのようだ。

 すこしずつしかし確実に若者の集団は港へと移動している。
やわらかな春の日射しがまんべんなく若者たちに降りそそいでいる。
空気のすんだ青い空には上昇気流にのって飛翔しつづける鳶がいる。
円弧をなぞるような曲線を描いてさらに高くへと舞いあがっていく。
若者たちは本浦の港をめざして蟻の行進さながら小道をうねうねと歩いていく。
 ひと足ごと港へ近づくのだが、それは同時にTさんとの別れを意味する。
陽光の暖かさとは裏腹に、ぼくの気持ちはさみしさでいっぱいだった。
出会った瞬間から、いつかはくる別れのときを覚悟してはいた。
できることなら限りなく先にのばしたいのだが、現実はそうは進まない。
歩きながら話す言葉もたよりがなくて、なにを話しているのかさえわからない始末だ。
道沿いの草むらをとおして港がかすかに見えてきた。
すでに港へと到着した人の姿が小さいながらもはっきりわかる。
 下り勾配にさしかかってきた。体重は前にかかり気味で歩調もはやくなる。
とんとんと坂を下り降りた家の前からは道も平坦になっている。
足元の注意から解放されて、またもやにぎやかな話し声が復活する。
肩の荷物をかけなおすと、気持ちもいよいよ帰るかという気分になる。

 乗船券売り場は花束をかかえた若者たちで大混雑である。
一足先に港についた連中は、ひとっ走りして紙テープを買ってきていた。
紅、白、青、紫、黄色と、どぎつい色のテープが買い物かごにたくさん入っていた。
帰る船に乗りこんだ連中は荷物を座席におくと、全員上甲板にあがってきた。
船と桟橋のぼくたちとの間にはたよりない紙テープの橋が何十本も架けられた。
荷卸しにたち働く島のおばさんと乗りこむ人たちのすぐわきで、ぼくは立っていた。
防寒ジャンパーのなかに、山陰でもらった浮玉を隠しもっていた。
Tさんをさがすと彼女も甲板にいた。そして首には蔓のリングがあった。
そっと船に近づいてガラスの浮玉を彼女に手わたした。
「これ、あげるわ。ぼくが持っていても似あわんから…」
「ほんとうにいいんですか。きれいな色してますね」
 と言いながら、薄青色に光る浮玉をまわし光にかざした。
「山陰の日本海でイカ漁のときに使うものらしいんや。
暗くて冷たい海に浮かんでいたのやろうな」
「そうでしょうね。冬のイカ漁ってすごく大変そうですね」
 浮玉を見つめつつ、すこし下唇をかんで言った。
なにを話せばいいのかわからない。時間ばかりが気にかかる。
あとすこしで彼女の乗った船は出ていくんだ。
なにか話さなくてはいけないと思うが、言葉はなかなか出てこなかった。
笑いながら、見つめているしかなかった。
それでも、やっと声をかけた。
「勉強もしっかり頑張らなあかんで。元気でな」
「ムッシュも、お元気で」

見送り風景

早春紀行(四十七)雌雄平等
「たとえばやで、男女平等です、とこれは分かるわな。
で、男女平等ですから、同じ時間同じ労働ならば同じ給与を与えます。
これはどうや。確かにそうやともいえるし、おかしいなあとも感じるやろ」
「そういわれると、そうですね。
どこかでなにかをすり替えているような感じがします。
女性にも男と同じ労働をというのは体力だってちがうから、おかしいと思います」
「それが子どもなんかにも拡大されたら、産業革命時代にもどってしまうなあ。
そうやろ、人といったって男と女、若者と老人、健常者と障害者、それぞれちがう。
このちがうという視点は、なかなか難しいものなんやで。
生物学的違っているというと、ナチスのゲルマン民族優秀説になったり、
生理的な差異をいうと、女性蔑視だとフェミニストから非難をうけたりと、さんざんなんや。
人って標語で考える動物なのかなあ、とつい思わせられるわけや。
確かにそういう面もある、とはいえるな。人はいつも考えて行動はしない、ということか。
キャッチフレーズの良し悪しが、商品の売れ行きに影響する。
これはちょっといかんなあ、話が脇道に逸れてきました」
「なにか現実は複雑なんだなあ、という感じがしてきました。
すっきりした結論を、とどうしてもわたしたちは求めてしまいますもの。
それが誘導される要因なのかな、といま思いました。
なにごとも、簡単、安易に流れると危険が待っているということなんですね」
「こういうことってそう簡単にこれが結論だ、とはきっといえないと思うな。
ケースバイケースでそのつど考える、そういう態度が大切なんやろな。
基本的には人ってみんな違うから、考えることも違うというのが前提で付きあう。
それは人権の平等とはレベルがちがう問題だということ。
誘導理論の怖いところは、そういったレベルのちがう問題を巧みに融合させてくる。
そして、上手に都合のいいような結論に導くということやろと思う。
騙されんためにはいろんな知識も必要やろし、勉強もしなければあかんやろな。
でもこれだけは忘れたらあかん、ということがある。
ヒトも動物も昆虫や植物も、細菌やウイルスだってみんなこの地球で生きている。
なんでも一番数が多いのはバクテリアらしいからな。
お互いが生命の連鎖を形成している。いまは分からないことも多いけど、やな。
と、ぼくは思ってこれからも生きていくんや。
ちょっと格好つけすぎかな。はっはっは」
「格好よすぎますよ。言ってることは、大体わかりました。
でも残る問題が、重要な問題がひとつあるんじゃないですか」
「えっ、なにかあったかなあ。いろいろあるやろけど、そんなに重要なことって…」
「それってなんですか、Kさん」
「それはねえ、忘れずにどう実行していくのかということ。
考えるだけでは駄目ですよね。実際に日々の生活のなかでどういかしていくのか。
いつも口先だけで終わり勝ちなぼくたちのことですから、ね」
「うーん、それはいつも思うことやな。これが一番難しい」
「ムッシュさん、頑張ってください。そして、また新たな理論を教えてください」

 誰かが呼んでいる。わいわいと騒がしい声が浜の方から聞えてきた。
砂浜にたくさんの連中が集まっている。これから記念撮影をするという。
集合して写真に撮られる体制をとるのだが、なかなかじっとしてはいられない。
並んだ列の後ろのほうから、前方へと崩れ落ちるような圧力がかかる。
男性陣も女性たちも、なんだか子どもにもどったようにはしゃいでいる。
カメラは三脚に据えられて、さあシャッターを押すぞとカメラマンの声がする。
ジーという音と同時に、みんなはわあーとばかりに鬨の声をあげる。
前にいる人の頭のまわりを手でおおって後光が射すようなかっこうをする。
押しあい圧しあいはしばらく中断して、ピースサインですまし顔である。
珍しく傍らにきていたおばさんは、そんなぼくたちを見て楽しそうにいつまでも笑っていた。

ユース前の浜

さくら咲く
週末に関東方面からの来客あり、それにあわせて友も集まる。
なんといっても、関東では雰囲気が暗いのだという。
震災があったからしかたがないのだが、ときには明るくなってほしいと関西人は願っている。

大阪をはじめとする関西の人々は、そんなとき本音を隠すことをしない。
辛かったこと、苦しいこと、悩んでいることを表にだして声にしてしゃべればいいのだ。
こんなこと言うと誤解されないか、どう思われるかなどを、うじうじ考えていること自体があかんやろ。
人間捨てたものやないで、そんなことないで、口にだしたらすっきりすることもあるんやで。
ある意味冗談にして、また突っこんで、笑い飛ばしたらええねん。
文句があるなら言うてこいや、いつでもあやまったろやないか、なんてね。

ということで、深夜までわいわいがやがや、にぎやかに飲んだり食べたりしゃべったり。
酔いがまわってくると寂しくなるのか、懐かしさからか、いろんな方に電話をかけまくったり。
当事者になり代わってひとこと、みなさま方にはご迷惑おかけしました(笑)。

4293さくら咲く

> 先日は、暗い関東からの疎開受け入れ、有難うございました。
> やっぱり、たまには関西来ないと元気が出ないということがよくわかりました。
> この関西で元気をもらう習性は考えてみたら真鍋行ってた頃、そう30年以上前からそうでした。
> あの頃も月に一度は関西に来てた。
> 桂川河川敷公園、有馬温泉糸桜、車から万博公園といろいろなところで関西の桜を満喫できました。
 (勝手に、Yちゃんからのメイルを引用させていただきました)

わが家から車で十五分ほどのところに有馬温泉があります。
有名な善福寺の樹齢二百七十年といわれる糸桜(しだれ桜)も鑑賞してきました。
豊臣秀吉が何度も訪れたという有馬温泉ですが、神戸なら園児や小学生が遠足でくるところ。

4297糸桜

4290金の湯

4292銀の湯

関西の「奥座敷」とも称される。
日本三古湯の一つであり、林羅山の日本三名泉や、枕草子の三名泉にも数えられ、
江戸時代の温泉番付では当時の最高位である西大関に格付けされた。
名実ともに日本を代表する名泉の一つである。
 (以上、ウィキペディアより)

4294温泉寺

わたしのおすすめするのは、フルーツ・フラワーパーク内にある「茜の湯」
午後五時以降なら入園料は無料、入湯料金600円で赤褐色の温泉が堪能できます。
いつも客は宿泊者ぐらい(それも少ない)だから、のんびりゆったり温泉気分を満喫できます。

これからのシーズン、六甲は森林植物園での森林浴もなかなかいいもんですよ。

テーマ:真鍋島の愉快な仲間 - ジャンル:旅行

早春紀行(四十六)蔓のリング
「そのリングどうするんですか」
「いやあ、どうするってこともないんやけど…」
なんとはなく彼女にこそ似あうと思った。
「Tさんにあげるよ」
ぼくは緊張しながらもリングを渡した。彼女は頭をとおして首にかけた。
かけた蔓のリングを見やりながら、それでもうれしそうに微笑むのだった。
「じゃあ、もうユースにもどろうか」
「そうですねそろそろもどらないと、船の時間もありますしね」

 K君は先頭にたって海沿いの道を歩きはじめた。
ポカポカとした陽光に背中を押されるかのように歩く。
いくたびとなく歩いたこの道も、なにかを記憶しているのだろうか。
そんなことが不意に頭に閃いた。なにかを、この道に落としてきたのかもしれない。
誰もがなにかを落としていく、せつない思いを残していく、そんな道でもある。
取りたてて特徴があるわけではない道ながら、なにもかもを知り尽くしている。
 擬人的に過ぎるといえばそうかもしれないが、すべての物に魂は宿っている。
アニミズムといってもいいが、なぜかそう思えてしかたがないのだ。
だからというわけではないが、あるものだけが重要であるとは言えない。
この世のなかにあるすべてのものが、その存在の意味をもっている。
意味があるなし、有益無益とは、人の立場でしかない。
人がどう言おうと、その存在すらないころから連綿とつづく生命体は存在している。
進化の流れのなかで、その一分岐がヒトになったというだけのことだ。
バクテリアは、いまぼくたちの生きる現代までへも生命を維持している。
 道が意志を持っているとはどういうことなのか。
道が記憶を備えてる、とどうして言えるのだろうか。
そう問う科学的思考と引き換えに、ぼくたちはなにかを失った。

玄関前で

「この道はなんども歩くけど、いつも思うことがあるんやな」
「それはどういうことなんですか」
「ユースに泊まる連中は、この道を必ず通らなければ三虎に行き着けない。
そう思うと一種不思議な感情というのか、考えが湧きあがってくるんや。
どこかに至るためには、必ず通過しなければならないなにかがある。
なにかを為すためには、ある儀式なり段階を経なければならない、というのと、
なにか似ているというのか、その連想がすぐに湧いてくるんやな」
「ふーん、考え過ぎじゃないですか」
「うまく言い表されてないなあ。ちょっと、言いかたを変えてみるわ。
みんなが何気なく歩いている道も、ある人にとっては特別の意味がある。
これはなんとなく分かるやろ」
「そういうことって、あるでしょうね」
「だから、あるものに意味があるとかないとかって、簡単には言えない。
もっと言うと、価値があるとか駄目だとかって即断できない。
誰もがそれぞれの人生を生きてきているわけだから、固有の価値観をもつ。
どの地方に住む人も、どんな国の人も、いろんな文化のなかで生きている。
文化が変れば、食べ物の嗜好も違うし、もちろん話す言葉もちがう。
前提がすべてちがう人と付きあうと分かっていると、その準備もできるけど、
案外そうは思わないで行動していることの方が多いのとちがうかな。
だって、人類はみな平等なんて標語が飛び交ってるわけやから」
「でも、みんな平等じゃないですか。そう思うけど。
差別する人も多いけど、人はみな平等だと思います」
「そうやで、平等や。けど、その平等の中味はなにっていうたら結構千差万別やで。
能力に応じて労働し必要に応じて分配する、ちゅう共産主義もあるし。
日本人ならさしずめ、平等というよりは同等主義やろな」
「それって、どういうことですか」
「みんな平等というのではなく、同じでなければならない、ということや。
平等から同じへといつのまにか変化しているわけや」
「平等と同じは、どう違うのかなあ。それこそ同じだと思うけど」

早春紀行(四十五)四十五億年の時空間
「ぼくはなあ、他人にお説教じみた話をされるのが大嫌いなんや。
そやのに、自分が説教じみた話をしていたりすることがあるんやな。
それも話してる途中で気がついて、ものすごい嫌悪感を味わうことが多々あるんや。
これってどういうことなんかなあ、なんて考えてしまうんや」
「会話って、ときに相手とじゃなくて自分との対話をしているようなことがないですか。
自分の声なんだけど、自分じゃないような気がするときってなかったですか。
話す自分と、聞く自分がいて、いつか相手のことも忘れて、自分ふたりになっている。
自分ふたりだから話が早くって、どんどんと対話が進む、そんな経験ないですか。
わたしはそういうことって、わりとあるんですよ。
自分だけかなといままで思ってたけど、ムッシュの話を聞いてて、
そういうことじゃないのかなって、ふと思ったんですけど」
「なるほど、自分で自分に説教たれてるわけか。
おまけに、自分で自分に説教たれながら、反論のチャンスもうかがってるわけやな。
この馬鹿野郎なんて突っこみいれながら、ひたすら説教をするぼくってなんだろうな」
「それって、生真面目の裏返しかもしれないですよね。
ねじれた心情というのかな。きっとそう、だってDNAは螺旋状なんですもの。
すこし褒めすぎたきらいがなきにしもあらず、ですけど」
「ほんとうはな、真鍋島にきてそんなことを忘れて自然を感じていたかったんや。
でも、なかなかそうはいかへんのやな。
自然というても、ヒトも自然のうちやないか、と思うてな。
そやから、そんなことではなく人との対話に活路を求めようかな、と方向転換や。
いろんな人の話を聞くこともおなじことなんやな。いろんな声が聞えてくる。
そう思うと、おもしろいように話しかけられたりして、つぎつぎと知りあいができる。
お年寄りから、Hさんのような若い人や、こどもにいたるまでやな。
人の思いっておなじことのようやな、と同時にまったくちがった方向をむいていたり。
でもそれがすべてふくめて、なんというのかな、世のなかつまり世界なんやと思う」
「そうかもしれないですね。わたしももっと謙虚にならないといけないですね」
「それに他人って自分を映す鏡なんやなあとつくづく思うた。
ぼくが嫌な奴やなあと思うと、相手も嫌な顔してるようにみえてくるし。
素直な気持でちかづいていくと、どうしたんですかと優しく接してくれる。
気持ちが知らず知らずに表情にでてるんやな。
また、ヒトってそれがなんかしらん直観的にわかるようなんや。
それに犬なんかでも、犬好きな人と嫌いな人を嗅ぎわけるようなことがあるやろ。
そんな簡単なことがようわからんようになってた、ということや。
というても、いつしか忘れてたりするんやろな。
『人間は忘れる動物である』と誰かがいうてなかったかな、たしか」
「人を好きになれない人が自分だけは好かれたい、は変ですよね。
人を好きになる、っか…。
考えこむようなことじゃないんだけど、むずかしいですね」
「『ほんとうに人を好きになると、ああ生きてるんだという実感がわくんだ。
そうしたら、なんでもやれる、どんなことでも乗り越えられるという気になるんだ。
そんな気持が自然と満ちてきて、まわりの人たちにも優しく接していたりする。
昨日まではあんなに悩みがいっぱいあったのにって、嘘みたいなんだ。
こんなことでくよくよしていたのか、なんてまるで別人になったみたい』
というようなことを聞くんやけど、はたたして自分はどうなのかな、とは思うな」
「またあ、他人が言ったようなことにして、ほんとうは自分のことなんでしょ」
 どうしてこう先読みができるのだろう。
「そういうことはなきにしもあらず、とも言えないこともないかな。
なんて言うたら、訳わからんようになるな。
さっき言うた人を映す鏡の話やけど、世のなか歪んだ鏡も多いから難儀やな。
ぼくの鏡も微妙に歪んでいるのかな、なんて自信がなくなってくるんや」
「そんなことはないですよ。
どちらかというと、ムッシュの鏡は曇っているのと違いますか。
はっはっは、おかしい。怒っちゃ嫌ですよお。気楽にいきましょうよ」
「しょうがない奴やなあ。しかし、案外いい線をついてるかもしれん…」

F0036佐柳島

 気がついたときには、ぼくたちは海原に漕ぎだしてしまっていたのだ。
水棲生物なるぼくたちではあるが、泳ぐ本能を備えてはいなかった。
ゆれる小舟の縁につかまって、どこまでも続く青い海を眺めながら溜め息をついた。
帰ることなど考えもしなかったが、なにかしら不安が胸をしめつける。
頭上高くを舞う海鳥たちを、憧れと羨望に燃えたつ瞳で見あげていた。
 はるかなる空をおおいつくす黒雲は、きっと風と雨をもたらすのだろう。
風に乗ってくる予兆が、さわさわと小声でぼくたちに話しかけてくる。
 スコールがぼくたちの上からどうと降り注いできた。
一瞬で、一面を暗がりが覆う。横殴りの風が、高頬をうった。
それもつかのまに通りすぎて、また暖かな陽がさしてくる。
明と暗、希望と絶望、いくども繰りかえしながらぼくたちは進む。
海面をわたる風紋が南へとはしっていく。
減衰することはない単振動だ。
 水平線のかなたにときおり閃く光がある。
四十五億年の時空をくぐりぬけてきた光子なのだろうか。

イイソコマチガイ
人間だれしもあわてたり勢いこんだりすると、どうしても言いまちがったりすることがあるものだ。
そこには無意識が隠されているとジグムント・フロイトは言ったのだが、それとは別におもしろさもある。
ことわざとかでことばの順序が逆になったり、動詞があべこべにくっついたりしてしまうのだ。
それで意味が通じないということはなくて、かえって新たな視点を感じられたりすることもある。
「ヨシノ ソメイってきれいね」
「それ、だれ?アイドルなの、歌手なの?」
「桜のことじゃない」
「えっ、もしかして、ソメイ ヨシノのこと」
「そうそう、そのヨシノ」
「……」
だからあなどれない人物はそこを逆手にとってわざとまちがえる、などというテクニックをつかったりする。
この「あら、言いそこ間違いよ」というのは関西人なら理解できるだろうが、かといって方言ではない。
かって異才をはなっていた漫才師鳳啓助(相方は京唄子)がおどけて苦し紛れにいうギャグである。

4138散歩猫

「ドコバラ! シワの多いイケメン、大食い、美人薄命の謎」 竹内久美子 ★★★
このタイトルの「ドコバラ」ってどういう意味なんだろうと思うが、本のなかにはでてこない。
インターネットで調べてやっとわかった「ドウブツ コウドウガク バラエティ」とのことだとか。
ドコまで、ねたバラしができるか、なのかなと考えていたので肩すかしをくらった感じだ。
それはさておき、読者(週刊文春)からの疑問に動物行動学の見地から答えるというもの。
なかでも卵に関する白身と黄身のところで、ほーと反応してしまったのである。
『卵の鮮度を見分ける方法としてよく知られているのは、生卵を割ったときの黄身の盛り上がり方でしょう。
もちろんよく盛り上がっている方が新しい。
お肌と同じで水分たっぷりで張りがあるのかと思ったら、逆でした。
卵は産み落とされてから時間が経てば経つほど、白身から黄身へと水分が移動する。
水気が増すと、盛り上がりにくくなるのです。』
なるほど、でこの黄身と白身だけど一方的に片方だけしか食べないという人がいたりする。
黄身は有精卵の栄養源だし微生物のターゲットになりやすいが、白身の役目はどこにあるのか。
『黄身は常に中心にあって、白身がしっかり取り囲んでいる。
その白身には、件の溶菌作用のあるリゾチームの他に、微生物の持っているタンパク分解酵素の作用を
阻害する、オボムコイドやヒビター、鉄(Fe)と結合して微生物の生育を阻害する、コナルブミンといった、
微生物に対抗するためのタンパク質が含まれている。』
白身は重要な役目をになっていたわけだ。で、ゆで卵の殻がむけにくいこともあるよね。
『卵が新鮮なうちは内側から、クチクラという薄い膜で裏打ちされていて、水や二酸化炭素、
酸素のような分子は通れても、微生物は通れない。
ところが古くなるとクチクラがはがれ落ち、穴は開通。微生物が侵入できるようになる。
……
つるりとむけるのは、クチクラがはがれ落ちているから。
それは古い卵なのです!』
それで外で食べるゆで卵のつるつるしてる理由がわかるような気がする(笑)。

「街場のマンガ論」 内田樹 小学館 ★★★★
マンガの意味論は、「マンガをもっと読みなさい」 養老孟司 牧野圭一 晃洋書房をご参照いただきたい。
ここでは内田氏のマンガ経験が多く語られている。だが、ときに言いたいことがでてくるのはやむをえない。
『人は幸福に生きるべきだ、と人は言う。私もそう思う。でも、たぶん「幸福」の定義が少し違う。
そつどつねに「死に臨んで悔いがない」状態、それを私は「幸福」と呼びたいと思う。
幸福な人とは、快楽とは「いつか終わる」ものだということを知っていて、だからこそ、
「終わり」までのすべての瞬間をていねいに生きる人のことだ。
だから、「終わりですよ」と言われたら、「あ、そうですか。はいはい」というふうに気楽なリアクションができる。
それが「幸福な人」である。
「終わり」を告げられてもじたばたと「やだやだ、もっと生きて、もっと快楽を窮め尽くしたい」と騒ぎ立てる人は、
そのあと生き続けてもあまり幸福になることはできないだろう。
幸福な人は、自分が幸福なだけでなく、他人を幸福にする。』
そんなふうにありたいとは思っているが、なかなかむずかしいものですよね(笑)。
巻末の対談で、養老先生がこんなことをおっしゃっていた。
『僕は手塚治虫の『どろろ』が大好きなんですが、あの人のホラーってよくできているでしょう。
あれを外国人だと、言葉にしちゃうんですよね。
言葉が高級だという、非常に強い偏見を持っていますから。
マンガが、それこそサブカルチャー、サブカルってよく言われるんですけど、
マンガのサブカル性って絶対大事にしなきゃいけないって、いつも言ってるんですよ。』
「どろろ」いいですね、わたしも手塚作品のなかではこれが大好きです。
なぜ題名がどろろなんだ、主人公は百鬼丸じゃないかと思われる方は、まだ読みが浅い(笑)。

「エコー・パーク」(上)(下) マイクル・コナリー 講談社文庫 ★★★★
ヒエロニムス(ハリー)・ボッシュのシリーズ第十二作目となる
いちど私立探偵をしていたボッシュだが限界を感じ、再びロス市警・未解決事件班の刑事にもどっている。
パトロール警官が不審車両の職務質問で、ゴミ袋に女性二人のばらばら死体を隠す殺人犯を偶然逮捕した。
レイナード・ウェイツなる殺人犯の自白にボッシュが十三年前に捜査未解決事件の被害者の名があった。
それまで執拗に追いつめようとしていた容疑者は無実だったのか。
いよいよ死体を埋めたという現場検証で事件の全容が究明されるというとき、連続殺人犯は逃亡してしまう。
ここから事件の様相は二転三転して、まさしくミステリの醍醐味をあじわえるのだが…。
『ボッシュは、自分のことを真の刑事だとみなしていた。
あらゆることをうちに取りこみ、心を配る人間である、と。
だれもが価値がある。さもなければ、だれも価値がない。』
そんな信念の刑事だから、ミスをおかしたと気づいたきには人一倍傷ついてしまうのも事実である。
アメリカ特有の(日本にはない)答弁取引(自白の代わりに減刑を)の問題などあって複雑になっている。
だが、ストーリーの展開には息をものませるものがあり、さすがというほかはない一作である。

テーマ:読んだ本。 - ジャンル:本・雑誌

早春紀行(四十四)アンビバレント
 ヒトはなにかに向かって生きているのだろうか。そうは思えないのだ。
人生にはなにか生物としての目的があるのだろうか。
なければ、いけないことなのだろうか。
もし、目的のない人生だと仮定すれば、どう生きていけばいいのだろうか。
ただ生きる。こころの命ずるままに生きる。日々を最善に過ごす。
 それができないような方向にヒトは脳を進化させたようにも思えてくる。
考えるということは、最後には自己言及に至る。
ぼくはなんのために生れてきたのだろうか。
ぼくとは、いったいなんだろうか。
ぼくの意味、意義、はどこかにあるのだろうか。
自分が自分のことを考える。これはどういうことなのだろうか。
考える自分をまた自分が考える。どこまでいっても、入子構造のようだ。
ヒトは悩める動物になった。

4236海岸の石

「そんなふうに考えていると、なにも確たるものがないように思えてくるんだ。
自分がなにものなのか、そんなこともわからないのに野望もないもんだ。
なんて考えたりして、おまけに野望というような欲望が希薄なのかな、ともね。
だけどヒトは恋をするから、また事態は複雑で混沌としているよな」
「へーえムッシュ、恋する青年になっているんだ。
でも哲学青年なんて、きっともてないですよ。いまどきの時代にはね」
「ぼくはけっして哲学青年じゃないぞ。
さっきもいったように、人は誰でも哲学者なんだ。
哲学を否定する、哲学を放棄する、哲学を嫌悪する哲学者、であってもね」
「でも、現実には恋しているんでしょ。
色にでにけり我が恋は、みたいな顔してますよ。
だから話す内容はシニカルでも、表情は嬉しそうでにやけてます」
「小説なんかで、アンビバレントな感情に引き裂かれるという状景がでてくるけど、
まさしくその事態が、いまのぼくのこの身の上に起こっているのかな。
でも逆に、またとても不安でもあるんだな。
彼女の存在自体がぼくの世界から消えてなくなったらどうしよう、なんて」
「そのときは、またちがう相手を見つければいいじゃないですか。
この世のなかには、男と女しかいないんですから。
もっともそのなかには、赤ん坊や老人も含まれているんですけどね。
でももしかしたら、もっと素晴らしい恋が案外近くにあるのかも知れませんよ」
「メーテルリンクの青い鳥かい。お話のように、そううまくはいかないよ。
そんなことをいってるようじゃ、君は実際にまだ恋をしたことがないね」
「ほっといてくださいよ、わたしのことは。
それよりムッシュ、言葉が変ですよ。関西弁、忘れているんじゃないですか」
「ほんまや、どないしたんやろ。ちょっと、別世界に行ってたみたいやな。
しかしながら、なんですなあ。
人生ちゅうのは、ほんまに不思議なもんやな」
「そんなふうにごまかそうとしても駄目ですよ。
さっきの話の調子と全然感じが違うんだから、変なムッシュ」
「そう不審がることはないんだよ。世のなかは、不可思議に満ちているからなあ」
「最後はそればっかりじゃないですか」
「そうかな、まあええやないか」
「しょうがない人ですねえ、ほんとに。
じゃあ、今回限定ということで許してあげるわ」

 ちっとも為にならない話ながら、話をしているとこころが落ち着いてくる。
なにかを見極めるための議論でもなく、なにかを伝えるための会話でもない。
ただ音韻の響きに心地よさを感じるような、そんな話をしていたかった。
 とめどのない会話を続けながら、ぼくは彼女のことを考えていたろうか。
Hさんは若いというよりは幼さの残る表情ながら、ぐんぐんと話してくれた。
年齢に似あわないその落ち着いた声音は、ぼくに安心感を与えてくれた。
なにを話そうとも理解、許容、そして見通しているように思えてくる瞬間がある。

早春紀行(四十三)眩暈の果て
 眩暈は、目もくらむような不安定さとともに、なにか秘密めいた感覚をもたらす。
定位できない頼りなさであり、不全感とでもいえばいいのだろうか。
その不定位感に、なにかが忍び寄る。なにかは、安堵感をともなっている。
おおいなる存在をも感じさせるもの、そんなものが存在するのかもしれない。
目には見えず、感じることができるだけのものだからこそ崇められ畏れられもした。

4229吽

「眩暈って高級な清楚さというのか、上品な女性への連想がわきますね。
そこから立ちなおるときには、必ずきっぱりとした決意がともなってる、そう感じるんです。
個人的な思いでしかないですけど…」
「ひとつの区切りを表すものなのかも知れないな。
連続的なゆるやかなものではなく、断続的で飛躍するんだよな。
エラン・ヴィタール、生命の躍動という表現もあったかな。
なにかを象徴している、そう思えてしかたがないのはぼくが若いせいかな」
「結節点とでもいうんでしょうか」
「でも人間て、実際はそんなふうには生きていないよな。
自分の日常というか、今朝のことなんか思い起こしてみればすぐにわかる。
現実に生きているときには、そんなことなんかなにほども意識しない。
いったい、どちらが人としての主要な生き方なんだろう、と考えるな。
生物、あるいは動物としてのヒトの生き方の本筋はどこにあるのかな。
宮沢賢治の『雨ニモ負ケズ』が人の自然な姿かな、とは思うんや。
と言いながらもやで、けっしてきっぱりとはメタの世界から決別できんのや。
それは、あたりまえの話やな。できないところが、人の所以でもある。
デカルトみたいになんでも二分法は無理がある。
こころと身体、もしくは意識と肉体というてもいいけど、分けることはできん。
そんなふうに議論していると、べつべつのものが存在するように思えてくるけど、
多分デカルトもそんなことは考えていなかった、と思うな。
思考の方法として、便宜的に理解するためにそういうことを言ってるんやろな。
科学も同じようなことやろ。
現実にはないような限定した条件下で成り立つことしかいわない。
けれど、これも最初の話にもどるけど、いつしか前提は忘れ去られてしまう。
これって人間の特性なんか、なんて思ってくるよな」
「でも、案外二分法的な考えを現実と思っている人って結構いますよ。
だから考え方も白か黒か、イエスかノーかなんですね。
おまけになんだか知らないけどけっこう自信満々で、嫌な奴って感じです。
こういう人は悩むことなんかないんだろうな」
「いや、そんなことはないと思うで。
けっこう、真剣に悩むと思うけどな。
だだし、悩む内容がぼくらとはちょっと違うんやろな」
「わあ、どんなことで悩むんでしょう」
「ぼくの想像というよりは空想やけど、恋愛についてならこんなふうかなと思う。
たとえば、私の今まさに進行しつつある恋愛は、私に幸せをもたらすものかどうか。
また、彼女は私のことを生涯の伴侶として正当に評価しているのかどうか。
さらに結婚したとして、子供の数は何人が社会的に適正なのだろうか。
などなどと、悩むというよりは疑問がふつふつと湧いてくるのではないのかな」
「そうですよね、ものごとにはすべて答えがあるって思いこんでいるんですよね。
学校の試験じゃあるまいし、そうじゃないことの方が多いってことに気づかない。
人生において答えのないことの方が断然多いのは、常識ですよね」
「常識というのか、そう考えるのが現実的だとは思うけど…。
でもな、答えがないと考えることは不安を呼び起こすのじゃないのかな。
だって、いままでそういうふうにやって来なかったんだから。
すべての問いには、たとえいますぐに答えが見つからなくても、必ず解が存在するんだ。
科学はそう考えて今まで発展してきたし、これからもその路線なんだろうな。
不遜とかそういうことではなしに、そうあって欲しいという願望が含まれているのかな。
しかし、哲学はそういう考え方とは違っていたんだ」
「哲学って、難しいようなことだと思っていたけど、そうじゃないんですね。
自分の生き方、ものの考え方の方向性といったことなんですね。
だから、人間であるかぎり誰でも哲学的でもあるわけなんですね」
「そうだな。つまりは、好むと好まざるとに関わらずに哲学している訳だ。
ヒトはそういう方向に進化きてしまった、ということかな。
ミーハーな連中だって、それはそれで哲学の枠内からは逃れられない、ともいえる。
哲学は、人間に許されたというよりは、人間であるが故の産物なんだろうな」
「哲学をなにもそう難しく考えることはないんですね。
誰だって、知らず知らずのうちに哲学的に生きているということですね。
哲学なんて、ということ自体が哲学的ということにもなるのかな」

早春紀行(四十二)目的論的人生
「うまく説明できるというのか話せるかはわからんけど、こう思っているんや。
野望をいだくにはその前提となるものがあるはずなんや、と思う。
その前提とは、人生は野望をいだくに値するものだという信念なんや。
これは一見すると、循環論法のように聞えるかもしれへんな。
たとえば、鶏が先か卵が先かといった話がそうやな。
野望をいだく信念があるから野望をいだくのであって、ということがいえそうや。
それは野望をいだくことの理由なり説明にはなっていないんと違うか、となるな」
「それはそうですよね」
「すこしいい方を変えてみようか。
ぼくはなあ、人生にはっきりした目的なんかない、と思っているんやな。
それに、なんでもかんでも目的目的っていう、目的論的人生観というのはどうかな。
疑問を感じているというのか、それってウソ臭いのと違うんかと思うんや。
その目的っていうのは、じつは進歩とかいった概念と親戚らしいと睨んでいるんや。
進化が進歩と混同されたように、ということや。
目的のない人生に意味はない。つまり、そんな人生なら生きるに値しない。
とどのつまりは、そんな人生観をもっている人間はクズや。
そう暗黙のうちに主張しているようで、なんやおかしいのと違うんかと思うのや。
野望というのは、しばしば経済と結びつくなあ。
経済的に成功した者が、人生においても成功者である。
お金がすべての価値の基準となり、繁栄の基礎をなすものであり、
人間は経済の発展をめざして生きていく動物である、とかなんとか。
大阪商人みたいやと思うか知れへんけど、大阪商人というのはほんとうはそうではないんやで。
ケチに撤して、使うべきところでは、ぱーっと使うというのがほんまの大阪商人や。
まあ、こんなことはこの話とは関係ないけどな。
お金のために生きて、最後にはお金を貯めるのが目的になってしもうたら本末転倒や、
ということは誰でもわかるんやけど、頭に血が昇ってしまうんやろな。
最初は目的を達するための道具であったものが、いつしかめざすものに入れ替わってる。
手段が目的化しているということは、ほかにも結構あるんやで。
たとえばやで…。
そやな、恋に恋するっていうのもそれと似たりよったりやで」
「恋に恋する、か。そんな女の子がときどきいますよね。わたし、大っ嫌い」
「まあ、そう言いなさんな。恋に恋するのは、哲学的でもあるんやな」
「どうして哲学的になるんですか。あんな、へなちょこなのに」
「へなちょこかどうか知らんけどな。本人も気づかずに哲学してるんかな。
哲学のことを形而上学とかいうたりするやろ。
形而上学って、メタフィジクスのことやな。
このメタという言葉が、ここでのポイントなんやで。
なんか講義みたいになってきたけど、まあ気楽に聞いといてや。
メタは高度のとか、抽象度を一段あげたとかいうことらしいんやけど。
これってなんだかわかったような、わからんような説明やな。
ぼくもうまく説明できないんやけど、話しているうちにわかってくるかな。
たとえば、よくつわれるのにメタ言語というのがあるな。
これは、ぼくたちが普通につかっている言語、言葉でもいいけど、について述べた言語。
つまり言語について述べた言語のことをいうわけです。
当然、どんどん抽象度をあげていくことができるわけやな。
だから、メタ言語のメタ言語は、メタメタ言語ということになるのかな。
ということは、恋に恋するというようなことは、メタ恋ということができるし、
これができるということは高等な動物にのみ許された行為ということやな」
「そういわれればそうだけど、なにかいまひとつ納得できません。
そうなんですか、メタ恋愛ということになるんですね。
でも、メタなんとかって人間だからできることなんですね。
そういうところは面白いなあ」
「でもって、メタ操作を行なえるヒトは、いつしか迷宮に入りこむ。
メタの次元は限りがないんやなあ。果てしがないんや。
無限に次元をあげていくことができるということやな。
実際はそんなことをしても意味がないようだけど、可能やということには意味がある。
これって、コンピュータゲームに似ているかも知れへんな。
精巧にできていればいるほど、現実とゲームとの間が不明確になってくる」
「リアル感が、ヒトを惑わすわけですね」
「そういうことやろな。
意識では現実じゃあないとわかるんだけど、しかしとね。
最初の話にもどるけれど、オレは一体なにをしていたんだろう、なんてね。
なにかに向かって歩みはじめたはずなんだけど、
いつしかどこに向かっていたのかが自分でも判らなくなってしまう。
めくるめく、ゆらゆらと眩暈を感じているかも知れへんな。
この眩暈を感じること、これがヒトの特質かもしれない、そう思えてくるんや」

4228阿

早春の真鍋島
例年の行事である真鍋島三虎ユース(いまは島宿三虎)の開所記念があった。
もう四十三周年になるというから、いまさらながらに時の経たことを思う。
いつのころからだったか、五年間隔が毎年になった。
人はいつまでも生き続けることはできないという想いが強くなってきたからだろうか。
おばさんが、ついでおじさんが亡くなって、あのとき会っていればの悔恨があるのだろう。

港に着いてみれば、すこし風景は変わったけれども潮風は変わらない。
年に一度になってしまったが、お墓に参れば気持ちも神妙になる。
なのに、なんだかどたばたとして線香を倒したり、アチチッと大声だしたり。
それでも線香の煙のむこうにおばさんおじさんの笑顔がはっきりと感じられるのである。
また来たよ。それじゃあ、来年もかならずくるから。

4221真鍋島本浦

今年は寒いのか桜の開花が遅れている。
そのかわりというのでもないが水仙がきれいだ。

4232水仙

ひさしぶりに福原浜をゆっくり歩く。
海流のせいだろうか、砂浜がせまくなった。
ラジオ体操をしたり、野球をした浜が石ころだらけだ。
ここにすわって、いろんな話をしたものだ。
寝ころがって流れ星も見た。
流木を積み上げてキャンプファイヤーをした。
夜に泳げば、からだのまわりで夜光虫が光った。

4240汀から見る

4247タンカー

4237海藻

みんな集まって(今年は参加者44名だとか)わいわいと夕飯を食う。
にぎやかに更けてゆくのだが、おじさんの話が聞けないのはなんだか寂しい。
あのころはつまらなそうな顔をしていたのに、いまになると妙に懐かしいから不思議だ。
せまい台所で歌をうたったり、おじさんのおとぼけに笑ったりした。
そんなことが次からつぎへとうかんでくる瀬戸内の早春である。

4250鯛のお造り

テーマ:真鍋島の愉快な仲間 - ジャンル:旅行

早春紀行(四十一)ヴィヨン詩集
 岩波文庫にはさんであった一枚の栞があった。
そこにはヴィヨン詩集を紹介する内容が記されていた。
ギロチンにかけられた人のイラストが描かれた、ちょっと小粋な栞だった。
 その小娘はその栞をめざとく見つけ欲しいとねだった。
たしかまだ高校生になるかならないかの年齢だと思うが、生意気な口の利きようだった。
勿論、ヴィヨンの誰であるかを知っているわけでもないだろが、雰囲気は察知していた。
そんな態度がなぜか小憎らしく思えて、そっけなく断った。
幾度もねだっていたが、そのうちあきらめてしまった。
そうなるとかわいそうにも思えたが、いまさらやるとも言えずそのことは立ち消えた。
 生意気さのあらわれようがぼくに似ているように思えて、ときに苦笑することもあった。
生半可な知識をひけらかすやつを見ると、いかにも馬鹿にしたように鼻で笑う。
Hさんのそんなところを見たとき、他人の見るぼくはこんなふうなんだろうなと思った。
 大学生、社会人の連中を相手に時事批評のようなことを話す。
いったん、相手の手のうちが貧しいことを知ると、徹底的にみくだしたような態度をとる。
反論を加えようにも、なかなかの論陣を張るので反対にやりこめられてしまう。
すごすごと引きさがる者を眼のすみにしながら、こちらを見てにやりとする。
どうです、へーんだ、といった勝ち誇った態度は生意気を通りこしてかわいくもあった。
 小柄ではあるが、長い黒髪、切れ長な涼しい眼をしていた。
頬はふっくらと少女の健康さをしめし、色白のうりざね顔である。
そんな外見だけで判断して、くみしやすいと話しかけてくる男連中は多かった。
中高生をこども扱いにして人生論などぶつのはいいのだが、反応がちがう。
近寄っていっては、こっぴどくやっつけられる羽目に陥るのだ。
 彼女自身は身長の低いのが唯一不満だが、まあしかたがないかといったふうだった。
そんなだからか、自分と同年齢の連中が頼りなく思えてしかたがない。
年上の連中のなかにも馬鹿さ加減が垣間見えて、どうにも不満である。
世のなか、どうしてこう馬鹿な奴、自信過剰な男、自立しない女ばかりなのだろう。
興味といえば、異性のこととファッションのことばかり、もしくは食べることでしかない。
まさに、生物としては王道を行っているわね、と変に感心するしかない。
それじゃあヒトとして生れてきた意味がないじゃないのよ、と舌打ちしたくなるようだ。

5184川の流れ

「ねえねえ、ムッシュは何かしたいことがないの。
したいことというのか、野望のようなものよね。男なんですもの、あるわよね」
そう言いながら、きょろきょろとまわりを見回していた。
「そうだなあ、別にないけどなあ。ぼくは野望をいだくほどには人間を信じていないからね」
 と答えると、急にこちらをみて眼を輝かせた。
「野望をいだくほど人間を信じていないって、どういうこと。面白そうね。
聞かせてほしいなあ、ムッシュの屁理屈。えへっ」
「屁理屈といわれて話す馬鹿もないけど、まあいいか」
 と言うと、やっと少女らしくにっこり笑ってこちらに向きなおった。
「これから話すのはね、ぼくの人生観なんやで。そう思って聞いとかなあかんで。
つまり、ぼくの願望とか希望とか期待とかもろもろが練りこめられているということやな。
つまらんかったら、聞き流していたらいいわ。ぼくにもどう話が展開するかわからんから」
「ふーん、そういうものなのかな。でも、いいですよ。
わかってますって、おとなしく聞きますから、早く話して」
「よしよし、そういうふうに素直にしてればいいんや。
そうしてりゃあ、結構かわいい娘やのになあ。
ひねくれた物言いばかりして、困った娘や」
「わたしのことは、いいの。それより話を早くはじめて」

早春紀行(四十)自由と自律
「なんだか、ひまでのんびりしてますねえ、やっぱり真鍋は」
「このひまさ加減、もの憂い気分って、都会では味わえないんじゃないのか。
人間ひまだとロクなことを考えない、なんてことよく言うけどね。
だが、そのロクなことになにかが潜んでいる。ということにでも、とりあえずしておこうかな」
「そうですよね、こうしてのんびりとしてるといろんなこと考えますよね。
ふだん忘れていたというのか、考えたくなかったというのか、そんなことがですね。
あれえ、わたしってこんなこと考えるのか、なんて自分でも不思議な感じがします。
それだけ街で生活するって自由ではないんだなって。他人事みたいですけど…」
 そう言ってTさんは恥ずかしそうに舌をすこしだした。

 ぼくたちはいつの頃から、なにかに追われるように生きるようになったのだろうか。
自由を求めてとはいうが、なにが自由かについては議論しなかった。
議論するまでもない。自由とはあらゆる封建的遺制からの脱却を意味する。
古いものはすべて封建的であり、遅れており、ゆえに変革しなければならない。
そんな議論がまかりとおる雰囲気の大学から逃れて、この島にやってきた。
 自由は勝ち取ったわけではなく、敗戦によって棚ぼた式に転がりこんできた。
アメリカのいう自由な競争社会とは、ほんとうはなにを意味しているのだろうか。
自由で民主的と教条的に唱えるのだが、その実態は誰にもよくわかっていなかった。
自由はときとして、なにをしていいのか分からないという人々を産みさえした。
 人とは本来競争して生きる動物なのだろうか。
仮に競争するとしても、いったいなにを競うというのだろうか。
イソップの兎と亀の話が意味するものは、そんな競争を嘲笑っているのかもしれない。
けっして実直・愚鈍の良さを描いているのではなく、競争に一喜一憂する愚を示している。
なぜかそんなふうに思えてならないのだった。
 エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」が大学生の間ではベストセラーになっていた。
人は自由を求めている間は気がつかないが、自由を手に入れたときにふと思いいたる。
ほんとうはなにが自由なのであり、ぼくたちはその自由になったろうか。
自由の意味を知らずして、ただ騒いでいるだけなのではないのか。
勝手気ままに生きることが自由ではない。
自らが人生の進路を決めるうえでの、社会的制約のないことをいうのか。
人間社会のなかで暮す以上、相互関係をまったく無視することはできない。
法律制度がない時代であっても、社会にルールは必ず存在していた。
 自由に生きるということは、すべてにおいて自分で決断するということである。
それがどんなに些末なことであろうとも、おのれの意志を示さなければならない。
自分で決められないときには決めたいと思うのだが、いざとなると尻ごみしてしまう。
自由は口でいうほどいいものではない、と人々は感じはじめている。
すばらしい指導者の下で、彼に従って勝利を目指してなにが悪いのだろうか。
まさしく反語的に、自由のくびきから逃れて人は生きることを欲しはじめた。
自由ということひとつとっても、ものごとはそう簡単には決着しないのだ。

「自由か…」
とつぶやいたぼくの言葉に、Tさんはすぐに問いかけてきた。
「自由っていいことのようですけど、じゃあどういうことを言うの。
そんなふうに聞かれたら、答えるのがむずかしいですね。
別になに不自由ない生活をさせてもらっているのに、わたしたち贅沢なんでしょうか」
ぼくはなんとも答えられずに、Tさんを見つめた。
彼女もなにも言わずに、ぼくを見つめていた。
ほんの数秒のことでしかなかった。ぼくはおおきく息を吐いて、深呼吸をした。
 時間はどこへと収斂していくのか。時間は宇宙を構成するひとつの次元なのか。
この小さな島で、ぼくは彼女に出会った。時間と空間のわずかな隙間のようなこの島で。
もし出会わなければ、いま抱いている感情も湧きあがってこなかっただろう。
巡りあったことの不思議さよりも、ぼくが彼女に対していだく感情に戸惑いつづけた。
 人を愛するというようなことではなく、彼女という存在がぼくをゆさゆさと揺すぶった。
ぼくはどうしていいのかも分からず立ち尽くし、世界は一瞬のうちに変貌してしまった。

「我思う、ゆえに我在り」
実感としてはそうではない。彼女がいるから、ぼくが存在する。
彼女の存在がなければ、ぼくにとってこの世界の存在する意味はない。
そう思いはじめている自分に気がついて、ぼくはハッとした。
人を好きになるということは、自分の存在が意識から脱落していくことなんだ。
自我が拡散して、宇宙と同化雲散霧消することなんだ。
 人はなんのために生きるのか。ぼくは速度を増していく渦のなかでつぶやいていた。

海を見る

野にあれ読書
旅の空にあって、歩くに疲れたら木陰に寝ころんで本をひろげた。
夏なのにそういうときにはときおり風がわたってきて、むせるような草いきれを感じさせた。
葉のあいだからもれてくる光がきらめいて眼をしばたかせたら、まっくら闇のなかにいるかのようだった。
ふと気がついたら、いつのまにか眠っていたのだろう本が顔をおおっていた。
じっとりと肌をぬらしている汗も気にしているようでは旅などできない。
肩の凝りをほぐすように体操などしたら、かたわらをいく小学生がなにやらはやしたてながら走りだした。
なにを言ってるのかわからないながらもおかしくなって、ぐるりともういちど肩をおおきくまわした。
頭のなかでは漱石がなんだかむずかしい人生論を展開しているのだが、まあいいかと思った。
ザックの重みに旅の重さを重ねてみるのは、それはただもう若いからにほかならなかった。

1698行く漁船

「素晴らしきラジオ体操」 高橋秀実 小学館 ★★★
高橋氏はまずラジオ体操について、こう語る。
『これはただの健康体操なのだろうか。大体、ラジオ体操は運動としては楽すぎる。
それに雨に打たれながらラジオ体操する様は不健康である。
体操というより、むしろ日本人の習俗、教義こそないがまるで「宗教儀式」のようである。
日の丸や君が代に何の感慨も抱かない私も、
なぜかラジオ体操には共振してしまうのは実に妙なことである。』
もともとラジオ体操はアメリカで生命保険加入者を健康にし、寿命をのばすことが目的で考えられた。
それが日本につたわり、紆余曲折を経ながら、いまではその人口三〇〇〇万人ともいわれている。
進化して日本独自のラジオ体操となっているのである。
『ラジオ体操は日本人全員に刷り込まれた集団暗示のようである。
ラジオ体操の最後に示されるメッセージはただひとつ。
「今日も元気に過ごしましょう。ごきげんよう」
元気になって何をするかについて、ラジオ体操は何も語らない。』

「エッジエフェクト 福岡伸一対談集」 福岡伸一 朝日新聞出版 ★★★★
対談のなかで、現代芸術家の森村泰昌氏の発言はなかなかおもしろい。
『私は、美術は基本的にポピュラーなものではないと捉えています。
美術も芸術も、非常に個人的な表現の追求だと思うからです。美術は、本来は理解しがたいものなのです。
美術という言葉があるいっぽうで、デザインという言葉もありますが、
最近は、美術もデザインもひっくるめて「アート」と呼ばれています。
でも、本来は分けて考えるべきものでしょう。ここに、椅子があるとしますね。
誰にとっても座り心地のいい椅子を追求するのがデザインですが、美術は違います。
たった一人の人間が、考え、悩みながら、自分だけの椅子を表現する、それが美術です。
表現した本人すらよくわかっていないものを、他人がわかるはずはないという前提から美術はスタート
すべきなのに、万人のためのデザインと一緒くたにして「アート」と呼ぶのは間違っていると思うのです。
美術は、もっとマイナーであるべきものですから。
アーティストという肩書きを使う作家も大勢いますが、私は自分をアーティストとは呼びたくありません。』
このことは個性をのばす教育と似ている。個性というからには他人と違っていなくてはならない。
狂人はすべて個性的であるが、そういうことを目指しているのでもないらしい。
目的のはっきりしない場合に、そういう謳い文句をとなえ、ころりと信じる人々が追随するという図式か。
理屈はどうでもよくて、なんでもいいからアーティストと呼ばれたいのだ、という立場はもちろんありうる。

「異邦人」(上)(下) パトリシア・コーンウェル 講談社文庫 ★★★
検屍官シリーズの十五作目になるが、どうもいまひとつぱっとしない出来だという感想だ。
冒頭から、人気女子テニスプレーヤーが異常者に殺される場面がでてくるのだがありきたりだ。
なんというのかコーンウェルらしさが感じられないといったらいいのだろうか。
事件とは直接的に関係のないおなじみの登場人物についての人間関係の記述もなんだかわずらわしい。
うーん、たぶん読み継いできた読者はマリーノのことがもっと知りたいのではないか。
でもその結末はえがかず、次作への期待感(?)だけをもたせるようなところも必然性に欠けるかな。
スカーペッタが殺人者について考察するところ。
『「宗教と同じね。神の名のもとに何かをすれば、何でも許される。
人を石打ちの刑にしたり、火あぶりにしたり。異端審問。十字軍。自分とちがう人たちを抑圧する。
だから、彼もそうやって自分の犯行に意味をもたせた。すくなくとも、わたしはそう思う」』
これもありきたりな気がするのはなぜなんだろう、とかえって思ったりするのである。
次回作にマリーノの登場を期待して、いろいろと彼の変化を自分なりに考えてみるのである。

テーマ:読んだ本。 - ジャンル:本・雑誌

早春紀行(三十九)人の数だけの人生
「そりゃあ、信念をもって理想に向かって突きすすんでいる、そんな人もいると思うわ。
でもね、どうしてなんだろうな。そんな人よりそうじゃない愚劣な輩につい目がいくの。
これって、人を見る目がないってことなのかしらね。ああ、つまらない」
 そういいつつも、眼は真剣な光を帯びているようにみえた。
「人の一生って短いと思わない?こんなの若いもんの台詞じゃないわよね。
だからかな、人類の理想の実現だとか世界平和だとかにかかずりあってらんない。
もっと生きている、そう生きている実感を味わいたいのよ。つまりは、青春よね。
言葉にすると陳腐だけどね。うまくいえないんだけど、そんな強迫観念にちかいかもね。
第一に人類の理想ってなんなのよ、って思っちゃうわ。
ヒトラーのナチスじゃあるまいし、そんなものは端からあるわけないよね。
大体、人類のとか世界のだとか大義名分がでてきたら危ないってのが相場なのよ。
まず社会や国家がありき、じゃあ絶対におかしいと思う。
個人の集合体、家族でもいいけど、それが有機的につながって組織ができると思う。
自分が確立もできない奴になにが出来るっていうのよ、なんて思ってる訳」
 ああ疲れた、とでもいいたそうに眼をおおきく見ひらいていた。
 ぼくはただただ圧倒され、こんな女の子に会ったことがないなと思っていた。
「ときどき思うの。わたしは、なににいらついているんだろうって。
こんなわたしって、訳わかんないよね」
 哀しそうな顔をしたかと思うと、
「まだまだ、修業中の身でごわす」
 と、おどけてもみる。
「なんとか言っとくれ…。わたしは、か弱い女の子なんだぞ」
 そう言って睨むから、ぼくもしかたなしに言ってやった。
「一回かぎりの人生やし、いろいろ考えて生きるしかないやろ。
ただ、他人(ひと)の所為にしない、これがぼくの信条や。他人の所為にしたって仕方がないやろ。
そんなことで安心してどうするんや、という気分かな。
そやけど、まだまだいっぱい悩むやろし、迷うんやろなあとも思ってるんや。
えーい、全部俺が責任とったるわ文句があるか。そう自分に言い聞かせてるんや。
考えたらあたりまえのことやけどな、自分のことなんやから」
「そうか、そういうことなんだ。すこし、わかったような気がする。
わたしには、どんなことであれ自分で受けとめる覚悟がなかったんやなあ。
口では偉そうなことばっかりいってるけど、逃げる用意をしながらだったんだ。
へっぴり腰ではなにもできません、ということですなあ。
おおきに、ええ勉強になりました。感謝感激雨あられ、どすえ」
 と笑いながら瞳がきらりと光った。
「人って姿勢が大切やと思う。知識は学べるけど、意識は変えるのがむずかしい。
名前や門構えにびびっているようでは、まだまだあかんいうことや。
なにを観るかどう感じるか、はたまたなにに価値をみいだすかは人それぞれや。
これが絶対だ、はないと思う。どう生きるが正しい、もたぶん基準はないような気がする。
もちろん最低限度守らなあかんことはあるやろけどなあ」
「初対面の君にこんなに話をしてわたしってどうしたんだろう、と思ってるの。
でも直観に間違いはなかったなあ、というのがいまの正直な気もちなの。
わたしもなかなかだなあ、ともちょっぴり誇らしく思ったり。
人生におもしろいことがこれからもいっぱいありそうだ、と思えてきたものね。
なんかこう光がさしてきて明るい展望もありそうだぞ、そんな感じもしてきた。
あんなことも、こんなことも、もっとたくさん話したいと思うんだけど、
どうしても行かなくてはならないところがあるし、きっといつかまた会えると思って、
今日のところは、これでバイバイ」
 それだけ言うと、彼女は駆けるようにその場から去っていった。
とっさにさよならの言葉もでず、後ろ姿を見送るうちにおたがい名のらなかったことに気づいた。

1689舞うトビ

 二ヶ月後、Sから彼女が転校したことを聞いた。父親の転勤にともなってのことだという。
九州のどこか地方都市だと聞いたようだが、はっきりとは記憶していない。
東京から転校してきて、一年ばかりが過ぎた後のことだった。
 いまでは顔もはっきりとは思いだせないのだが、声音はときとしてよみがえる。
人は出会わねばならない。それが人であったり、本であったりはするのだが…。
出会いのなかで価値の相対主義を学び、出会うことによって人生の喜怒哀楽を知る。
 百人がいれば、それは百通りの人生を意味し、けっして重なることはない。



プロフィール

ムッシュ

Author:ムッシュ
島を旅するときが楽しいですね。
遠くに眺めるのも好きです。
楽園なんてないんですけどね。

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