ムッシュの読書紀行
人生は旅のようだと言いますが、旅が人生かも知れません。 ぼくは活字中毒気味でもあり、旅はまだまだ続くでしょう。
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アゲハチョウの変身
庭のはしっこのほうに、希望してゆずの木を植えてもらっている。
去年はすっかり葉を落として(食われて)いたのだが、青々と葉を繁らせている。
すこし冷たい視線をあびながらも、やっと注目できる季節になってきた。

べつに実がなることを目的としていない。
チョウがやってきて産卵するための木(のつもり)なのである。
柑橘系の木はチョウに好まれるのである。

「いてるわよ」
「そうかそうか、どれどれ」
「まだ若いな」

4810イモムシ1

だが数日後に木をみると、いない。
と思ったら、みごとに変身をとげていたのだ。
場所も幹のすこし下方に変えていた。
なんともいえず、かわいいではないか。

4815イモムシ2

つぎの日にも観察へとやってくると、いない。
まさか、もうチョウになったということはないはずだ。
おやおや、もといた葉っぱにもどっているではないか。
なんだかほっと安心するが、それがわれながらおかしい。

4819イモムシ3

艱難辛苦にうちかって、みごとにクロアゲハ(たぶん)になっておくれ。
こんな雄姿なら、「キャー、イヤダー」といわれることもないはずだ。
(この写真は去年の七月のもの)

2876庭のカラスアゲハ

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ベニカミキリの無念
車の後方に捨てる発泡スチロールの箱をおいていた。
庭の雑草(この呼び方、どうも抵抗を感じる)を抜いて一時的にそこに入れていたりした。
そのせいもあって枯れた草がついていたりして、それがゴミのようにみえてもいた。
あるとき、そこに赤い色をみつけてなんだろうと目を近づけてみるとカミキリムシのようだった。
紅色をしたカミキリムシはじっとして、生きているのか死んでいるのかわからなかった。
あくる日もどうしているかと思ってみると、すこし位置を変えてはいたがその箱のなかにいた。
指先でつついてみるも動かないのだが、足でしっかりと発泡スチロールの箱をつかんでいるかのようだった。
部屋にもどって机のまえにすわり本を読んでいても、ときにふとその暗い紅色がうかんでくる。
これから暑い夏をまえに、なんとなくはかなくなり、しばしなぜ読んでいるのだろうと嫌になったり。

4787ベニカミキリ

「逆襲するテクノロジー」 エドワード・テナー 早川書房 ★★★★
なぜ科学技術は人間を裏切るのか、という副題のついた本書は読んでいると暗澹とした気分にもなる。
本来は人を幸福にするはずの科学や技術が問題を解決するどころか思いがけない影響を及ぼしている。
先般の地震でもそうだったがクリーンエネルギーといわれた原子力発電が問題をあらわにしてきた。
本書では医療や自然災害、有害生物、コンピュータ、スポーツなど多岐にわたる分野で検証している。
抗生物質を投与すればするほど、ウイルスは抵抗力を身につけていくということがわかっている。
沖縄でのハブ対策として移入されたマングースは沖縄固有の動物相におおきな影響をあたえている。
単純に、これにはこれが対策だでは、生物世界の複雑なリンクから思わなかった反撃をうけることになる。
この思わぬ反作用現象を「報復作用」という概念で説明していくのである。
単純な清潔さ信仰がゆらいでいるのが、現代の状況ではないだろうか。
『若い上流中産階級の大人は、汚い場所で育った同世代の人々よりも、小児麻痺にかかるリスクがより高い。
花粉症も、より高い生活水準と結びついて生じる病気の一つだ。
イギリス人の医師マイケル・ポストックが一八一九年に初めて喘息について記述したとき、
彼自身も数少ない患者の一人だった。
事実、花粉症などのアレルギーが一九世紀に激増したとき、工業地帯にただよう霞のど真ん中で
育った労働階級の子どもたちではなく、上流の家庭で育った子どもたちが病気に冒されていた。
疫学者たちは、大家族や汚い遊び、そして早い時期の感染が、
花粉のようにどこにでもある物質と初めて遭遇したときに、子どもたちの免疫システムが
その物質を受け入れる準備をするのに役立っていると確信し始めているところだ。』
細菌を殺すよりも、細菌と共生できる人類にならなければこれからの世は渡っていけないのかもしれない。
それではお医者さんの出番が少なくなるというので、一部からはそうではないという反論も根強い。

「猫だって夢を見る」 丸谷才一 文藝春秋 ★★★
オール讀物に連載された随筆だが、一九八八年から一九八九年にかけてのものだからすこし古い。
時事的なものはそうだが、そうでないものにいろいろと啓発される視点があったおもしろい。
とりわけ数に関する言葉で、数年などとなんとなく使っているがどういう語感が正しいのだろうなんてこと。
『誰か中国の人が日本人の言葉の使ひ方の悪口を言つてゐて、それがすこぶる斬新なものだつたのだ。
「日本人が『数人』とか『数年』とか言ふときに『数』といふ字の使ふ方はいい加減である。
二か三でも使つてゐる。あれはよくない。中国語では、ああいふときの『数』ははつきりしてゐる。
大体、七くらゐの意味だ」
そんなことを言つてゐたのである。』
そこから、英語へと話題が転じていくのであるが、こういう結末になった。
文藝評論家、経済学者、科学者だの、ジャーナリストたちとの会話では、
『ア・フュー(a few)は二か三
セヴェラル(several)は五か六
サム(some)は七か八(あるいは四から七)ぢやなかろうかなどと、みんなでワイワイ論じ合つた。』
そんな感覚だろうなと、わたしも思う。
ところが、イギリスの詩人で英文学も教えているデニス・キーンさんに訊ねると、
『ア・フューは五か六か七、なんださうである。(先日われわれが言つた二か三とはまるで違ふ。)
サムは、はつきり覚えてないとき。あるいははつきりしないときに使ふ由。
(われわれの七か八、あるいは四から七とは大違ひ。)
なかんずく驚愕に値するのは、
「セヴェラルは、そうねえ、十三か十四ですね」という説であつた。』
なんとなくそう思っていたりすることって、まったく語感がちがっていたりするものである。
おまけに、そういうこととはまったく知りもしないしで、話が行き違っていたりということもあるのだろう。

「ルボシカミキリの青」 福岡伸一 文藝春秋 ★★★
ちまたにあふれる健康食品、あるいはサプリメントとよばれる一群のものについていつも不思議に感じる。
これはアルカリ性食品だから身体にいいのよ、などとおっしゃるご婦人方によくであった。
福岡ハカセが懇切丁寧に以下のように解説してくださっている。
『美容と健康のために、いわゆる「コラーゲン食品」を食べることは、
じつは美容と健康にとってほとんど何の意味もない。
たしかにコラーゲンは細胞と細胞のあいだのクッションとなり、
また皮膚の張りや関節の動きなどに重要な働きをしている。
しかし、他の動物から採取した(多くの場合、牛の骨や皮が原料である)コラーゲン食品を食べた場合、
それがダイレクトに吸収されて、細胞のスキマや関節に達し、
コラーゲンの不足を補うなどということは決して、ない。
外来のタンパク質が勝手に身体の中を行き来すれば重大なアレルギー反応や拒絶反応が起こる。
そうならないように私たちは、食べたタンパク質をまず消化管内で消化する。
つまりアミノ酸にまで分解する。
コラーゲン、というタンパク質に一番多く含まれているのはグリシンというアミノ酸であり、
プロリンがそれに次ぐ。
グリシンもプロリンもごくごくありきたりのアミノ酸であり、あらゆる食べ物に含まれている。
そして、これらのアミノ酸は非・必須アミノ酸といって細胞は他の材料からいくらでも作り出すことができる。
だから、もし身体がコラーゲンを必要とすれば、どこにでもあるグリシン、
プロリンなどをかき集めて合成を行う。
コラーゲンを作るための材料が不足するなどということは普通の食事をしている限り起こりようがない。』
だが、おどろくことにこれら健康食品は効果があるのである。
それら古来からの言い回しだと「鰯の頭も信心から」、現代だと「プラシーボ効果」といわれるものである。

テーマ:読んだ本。 - ジャンル:本・雑誌

カメムシの孤独
玄関にある鉢のメダカを観察しようとしたら、外壁になにか虫がへばりついていた。
近寄ってよくみると、どうやらカメムシらしいことがわかった。

写真をとっているあいだも微動だにしない。
じっと天敵(?)が去るのを願って祈っているかのようだ。

4792カメムシ

カメムシはゴキブリとおなじように忌み嫌われている。
臭いというが、危害をくわえなければ、押しつぶしさえしなければ、そんなことはない。

ただ単に見た目がカブトムシやクワガタとすこしちがうだけ。
それだけでこんなに嫌われるなんて、理不尽といえなくもない。
カメムシというと沖縄のシークヮーサーが連想されるのだ。
はじめて飲んだとき、「カメムシ味?」と感じたことを思いだす。

インターネットで調べてみると、「エサキモンキツノカメムシ」(ツノカメムシ科)というらしい。

背中についたハート模様が、なんだかやるせない。

五月雨
今日も梅雨の時期らしく雨になって気温があがらない。
だが、一週間ほど前に買っていた本棚の組み立てをしたら汗びっしょりになった。

4748クレマチス

窓から山をながめては、五月雨の季節かあ、とつぶやく。
(五月雨というのは梅雨のこと)
(五月の雨といっても旧暦のことですから、誤解なきように)

4790山煙る

きゅうりもなかなかおおきく成長しないのである。
ですが、雨は生命の源、人間の身体だってほとんど水分でできている。

4783きゅうりの赤ちゃん

晴耕雨読とはいうけれど、最近どうも本を読む気がしない。
暑くなってきたら、また気分も変わるのだろう。

燃料電池社会
脱原発が世のなかの関心を集めている。
想定外(起きる事故はそうべてそうだ、想定内なら事故は起きない)の津波被害によって。
福島の原子力発電所の現状は惨憺たるものであることがすこしずつ目に見えてきた。

日本の電力の二割強が原子力によって担われている。
単純には、節電でもなんでもいいけど25パーセント電力量を減らせばいい。
そうすれば原発を廃止してもなんとか電力需要はまかなえるということになる。

だが、電力使用量を減らすということは、即経済活動の低下をきたす。
ということは税収が落ちこんで、公務員の給与も支払えなくなる。
あるいは、大幅な賃金カットという事態でないと収拾できないということになるかもしれない。
いや、国債(魔法というか悪魔の杖だ)を発行すればいいのだ、との楽観論(?)もある。

しかしいまや電力なしでは生活できない、経済もたちゆかないという社会になっている。

そんなこんなを考えていたら、こんなものを見つけた。
エネルギー源として、石油や石炭ではなく水素を使うというのだ。
化石燃料は燃やすと二酸化炭素が出るが、水素はエネルギーと水になるだけ。

問題はどうやって水素を作り出すかにあった。
どのようにして水素を貯めておくか、インフラが出来ないと水素エネルギーは夢想でしかない。
せめて身の回りの機器、携帯電話やパソコン、音楽機器やデジカメといったものだけでもと。
で、できあがったのがこの商品である。






エコブームにのってヒット商品となるだろうか。

ヘビイチゴ酒
わが家の庭には、花や野菜などが植えられている。
ホームセンターに立ち寄ったときには、かみさんはなにがしかの苗などを買ってくる。
うまく咲くものもあれば、育てた甲斐なく枯れてしまうものもある。

ところが冬の寒さで枯れてしまったと思っていたものが芽吹いてきたりすることもある。
そんなときにはことのほかご機嫌がいいようなので、これからもそうあってほしい。

そんな人気者の花とはちがって、いつのまにか蔓をのばしているものもある。
視野の片隅に赤いものがあると、なんだろうと注意をひかれる。
どうもイチゴではあるらしいが、食べられるものなのかどうか判断できない。

4740蛇イチゴ

名前はというと、「ヘビイチゴ」だというではないか。
無毒ではあるが、さりとて美味いというわけでもなさそうである。

梅酒とおなじように果実酒にできるとの情報を入手したようだ。
はてさて、どんなリキュールができるのだろうか。
乞うご期待、となるのかどうかちと心もとない。

追記:焼酎に浸けてできるのはリキュールではなくて、虫刺されのかゆみ止めだそうです。
   間違っていましたので訂正します(他人の話をちゃんと聞いてないからなのか)。

らんちゃん
虐待され捨てられた境遇をもつ「らんちゃん」がもらわれてきたのは生後六ヶ月のときだという。
阪神大震災が起きた二年後だというから、もう今年で15歳になる。
人間の年齢にあてはめれば76歳ぐらいになるからもうおばあちゃん犬なのだった。

はじめて会ったときから、すんなりと認めてくれたようで吠えられたことはない。
いつのまにかわたしがリードを持って散歩するようになっていた。
いつも元気いっぱいにぐんぐんと引っ張るように歩いていた。
以前の家近くの川の堤がお気に入りのコースだった。

川には亀がいたり、川鵜がもぐったり、サギも飛んでいたりでのんびりしていた。
草叢に鼻をつっこんでなにやら思案もし、ときおり草も食んでいた。

あのころがらんちゃんの壮年期だったのだろうか。
昨年あたりから、腹水もたまりだしたりして歩くのもつらそう。
ときおりお医者さんに行って水を抜いてもらったり、薬ものんでいた。
でも、散歩にも行きたくなくなって庭のなかを歩くだけになった。

食欲だけは人一倍(?)あったのが、突然食べなくなった。
あっけなく亡くなったのは、七日の夜半のことだった。

いなくなってしまうと、なんだかこころのなかにぽっかり洞ができたような気がする。

002らんちゃん

メダカとボウフラ
おおきな鉢(直径40cm余り)に水をはってメダカを飼っている。
たくさん卵を産んでいるようなので、親と子を別々しておく。
こうしておかないと、親メダカが子メダカを食べてしまうのである。

どのくらい大きさがちがうかというと、親はこのくらい。

4750親メダカ

対して子のメダカはまだこのくらいの大きさしかない。
体重比にすれば、かるく数十倍ということになりそうだ。
(わかりづらいが、このなかに四匹はいるのが確認できる)
(小さいのと、動きが速いのとで数えづらいが50匹以上はいそうだ)

4734子メダカ

ところがよくよく見ると、子メダカの鉢にはボウフラがたくさんいるではないか。
大きさはというと、子メダカよりもすこしおおきいくらいである。
子メダカが食べることのできるはずがない。
このまま放っておくと、やぶ蚊に成長することは必然である。

しかたがない、ボウフラを採って親メダカの鉢へ移す作戦を開始することにした。
ボウフラもみすみす敵(わたしのこと)に捕まるわけがない。
じっくりと水面をみつめていると、やっとのことボウフラは身体をくねらせながら浮かんでくる。
水面近くにきた瞬間、コップですくうというよりは、沈めてコップ内への水流で引きこむのだ。

つかまえたボウフラはさっそく親メダカのほうへ入れる。
するとボウフラは底のほうに沈んでいってしまう。
だが、悲しいかないつまでもそこでじっとはしていられない。
くねくねと浮かんできたところを、回遊してきたメダカは目にもとまらぬ速さでパクリ。
動くものにはすばやく食らいつく習性があるようだ。
(これでは、子メダカも食べられてしまうだろうな)

なんどもこの動作を繰りかえしていると、メダカも学習するのだろうか。
コップで移そうとすると近づいてきて、底へともぐるよりはやく食べてしまうのだ。
やはり生きているもののほうが好物ということになるのだろうか。

十数匹もボウフラを移したろうか。
ついに、ボウフラの在庫が尽きたようである。
なんだか残念なような、ボウフラが不憫なような変な気分である。
だが、これが食物連鎖といえばそういえなくもない。

夜中のホトトギス
静まりかえった夜に、どこからともなく鳥の声がきこえてくる。
窓のむこうの闇のなかからケキョケキョとかなりはっきりとした鳴き声だ。

夜の鳥といえばフクロウ、ミミズクの類がすぐ思いうかぶのだが。
調べてみるとどうもホトトギスらしい。
この時期に渡り鳥として日本にやってくるという。
(実際の姿は見えないのだが、こんな感じで鳴いている)
「トウキョウ トッキョ キョカキョク」(東京特許許可局)と聞こえなくもない。



ホトトギスといえば、ウグイスに托卵する習性があるためどうもイメージがよくない。
もちろん、そのせいでウグイスの卵は排除されてしまうわけだ(数はあわせてないと)。
そうとも知らない(?)ウグイスは自分よりもおおきなホトトギスの雛にえさをやるはめになる。
なんだか人間社会でもありそうな構図である。

それはともかく、夜更けてホトトギスの声をきいているとなんだかもの哀しくなる。

不思議なこと
庭に咲く花を見ていると、いつもきまって白秋の詩のフレーズがうかんでくる。
「薔薇ノ木ニ薔薇ノ花サク。ナニゴトノ不思議ナケレド。」
なにごとも、それがあたりまえだと思えば、至極あたりまえの光景がそこにみえるのである。
だが詩人は、科学者は、作家は、いろんな分野のすぐれた人たちはそこにあたりまえを見ない。
はたしてこれがそうなっているとは思いこみではないのか、自分で検証してみようとするのだろう。
当然のことだとして受けとめ生きていく、というのもひとつの人生のありかただとは思う。
そうなんだが、同時にあらゆることが不思議に感じられるときが、だれにもあったのではないか。
いまここに自分が生きて考えていることの不思議さはなにごとにも変え難い、とふと思うのだ。

4738クレマチス

「モッタイナイで地球は緑になる」 ワンガリ・マータイ 木楽舎 ★★★
「グリーンベルト運動(GBM)」を広め、アフリカ人女性として初のノーベル平和賞を2004年に受賞する。
そんな彼女は、アメリカの奨学金を受けてカンザス州のセント・スコラスティ大学で生物科学を専攻した。
さらにピッツバーグ大学の生物学修士課程に進み、組織分析と発生解剖学を学んだ研究者でもある。
その後ナイロビ大学の研究助手となり、ミクロ組織学を教えていたが、市民活動に飛びこむため辞職した。
2002年98%という圧倒的な支持を受け国会議員に当選、さらに環境副大臣にも就任している。
だが現実の厳しさも十分にわかっており、地道な運動でケニアをアフリカを変えていきたいと願っている。
『私たちのような人間は、政治よりも理想主義に突き動かされいることが多いものです。
だから、忍耐というものを学ばなければならないし、政府を動かしているのは理想主義者ではないのだと
気づかなければいけない。理想に燃えてやってくる仲間たちには、忍耐強くあれ、と忠告しておきましょう。
私たちには大局は変えられそうにないということを知っておかなければならないのです。
おそらく、森の景観ならば変えられるでしょうが。』
言葉通りこれまで30年にわたってケニア全国に植えてきた苗木は、3000万本にもなるのである。

「星のあひびき」 丸谷才一 集英社 ★★★★
作家丸谷才一は、自分の作風について、あるいは小説について日本の私小説と対比してこう語る。
『かういふふうに、実生活を直写し告白して誠実を誇ることへの嫌悪は、
わたしの作風の最も顕著なものだろう。
わたしは思考と想像力によつて世界を探ろうとする。
わたしの自己は狭苦しい体験に限定されなければならないほど貧しくないはずだ。
かつて、何のために小説を書くのかと先輩作家から問はれて、わたしは答へたことがある。
「行動しない人間の夢想、あるいは夢想者の行動として」と。』
小説を書くときの態度としてはそんなふうに考えておられるわけだ。
では、小説を評論するときにはどう道筋をつけていくのかについては、以下のようになる。
『本といふのは単独の存在ではない。
何冊も何十冊も、いや、何万冊も何十万冊もの本が群れをなして宇宙を形成してゐる。
たとへば夏目漱石の『三四郎』なら、ヨーロッパの教養小説の伝統
(ゲーテの『ウィルヘルム・マイスター』とかフルーベールの『感情教育』とか)
があつて、漱石がそれに親しんでゐるから書くことができた。
その『三四郎』を読んで森鴎外が刺激されて『青年』を書いた。
『三四郎』や『青年』のせいで出来た日本人作家の作品はあまりにも多くて、ここにあげきれない。
また、『三四郎』には社会小説といふ面がありますが、
これはイギリス文学に「イギリスの状態」小説といふ分野があつて、
その影響を受けて、いはば「日本の状態」小説を書かうとしてゐるのである。
E・M・フォースターの『ハワーズ・エンド』はこの「イギリスの状態」小説を書かうとして試みたもので、
ほぼ同じころ日英両国のモダニズムの作家たちが手がけた社会小説として注目すべきだろう。
といふ事情だから、視野を広く取つて本の世界とつきあふ人でないとよい書評は書けない。』
科学者もおなじような視点がなければ優れた業績はあげられない、ということができるだろう。

「女の由来」 エイレン・モーガン どうふつ社 ★★★
人類の直立姿勢はどのようなプロセスを経て確立されたのか、定説とはちがって彼女はこう語る。
『水生生活をおくったと仮定することによって、説明できるのではないかと提唱すること
――たしかにそれが、第一のテーマだ。
だが、話がただそれだけなら、あえて他の動物学者たちに真偽を問うまでもない
――地球の長い歴史の中で、そうしたことは、人間以外の生物にも繰り返し起っているのだから。
しかし本書で述べようとしている仮説は、それだけでは終わらない。
水生生物への道をかなり進んだのち、人間は、驚異的な進化上のUターンというべきものを行い、
再び水から上がって陸に永住したということをも、私は主張しようとしているのだ。』
水のなかにいるとたしかに直立する姿勢による頭部を支える負担が軽減されるというのは魅力的だ。
彼女オリジナルの考え方ではないが、かなりよく説明できるということはある。
そうは思うのだが、それについての説明が本書では少なく納得できるところまではいけない。
本論が男性優位社会への恨み節のようになっているのが、なんだか残念だ。
あらためて人類の水生生活説の本を書くとおっしゃっているので、そちらに期待しよう。

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タケノコ探偵団(下)
一夜明けて、やはり雨が降っている。
昨日よりはいちだんと強くなっているようだ。
これも季節はずれ(?)の台風の影響をうけてのことだろうか。

4732雨濡れる

タケノコを掘るか、中止するかは別にして現地へ行ってみよう。
そこで無理ならきっぱりとやめる、でしかたがない。

さて現場に到着、雨はあいかわらず降っている。
どうするか、せっかくここまで来たのだからやろう、となった。
長靴、雨がっぱに身をかためて、いざ出陣である。

急な斜面に生えているので、注意しながらおりていく。
雨のせいもあり探すのがなかなか大変だ。
それでも、どれくらいの時間探し掘ったのだろうか。
そこそこの成果がえられたのではないか、と思う。
(今年は不作だ、との由)

DZB011竹の子

KBSくん、奥さん、それに奥さんのお兄さんには格別にお世話になりました。
ほんとうにいろいろとありがとうございました。
これでしばらくはタケノコ三昧という仕儀になるであろう。

そこで思ったことがひとつあるのだ。
料理で似たようなのに、天ぷらとフライがある。
さて、この料理法は材料によって変わるのだろうか。

豚肉だと、天ぷらというよりはトンカツだなあ。
タラの芽の天ぷらはあるけど、フライは断じてない。
だが、たとえば鰯の場合、天ぷらでもフライでありえる。
う~ん困った、で衆知を集めてみると、こんな答えがかえってきた。

ネタ、つまり材料が新鮮なものは天ぷらにする。
すこし鮮度がおちたり、生で食べないものはフライにするのでは、と。
(まあ、天ぷらは日本料理、フライは西洋料理というのはありますが)

とタケノコご飯を食べながら思案するのであった。

4736長靴

テーマ:真鍋島の愉快な仲間 - ジャンル:旅行



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ムッシュ

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島を旅するときが楽しいですね。
遠くに眺めるのも好きです。
楽園なんてないんですけどね。

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