ムッシュの読書紀行
人生は旅のようだと言いますが、旅が人生かも知れません。 ぼくは活字中毒気味でもあり、旅はまだまだ続くでしょう。
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読読しい
秋といえば、ではじまることばに読書があるのだが、なにを読めばいいのかと迷う人もおおい。
有害図書などといわれると、ついどんなものかと読んでみたくなるのが人情でもある。
ためにならないぐらいならいいのだが、毒だというのだからよほど詳しく読んでいるのかとも思う。
だが、そんなくだらない本なんか読んでいられませんよ、というならば何をかいわんやである。
読みたくないだけならそれでいいのだが、有害だ毒だというならどこがと指摘できなければいけない。
そのためには、ふつうにもまして精読する必要があるだろうと考えるのがふつうではないか。
じつは、世のなかにはこうした議論がはなはだ多いのである。
好きだ嫌いだの無邪気(?)な意見から、あれはいけないから禁止せよという過激なものまである。
そのおおくはろくな検証もなされず、ただ気分的に嫌いだからの理由でなされている。
まさに結論が先にありきだが、それならそうなりに理屈づけを考えろよ、といいたくもなるのである。

5399案山子

「昭和史探索 4」 半藤一利編著 ちくま文庫 ★★★★
昭和十二年から十四年にかけて、いよいよ戦争の足音がまじかになってくる。
いまでは軍歌だと思われているこの歌のことを書いた団伊玖磨の文を紹介しておこう。
(孫引きになるが、ご容赦を)
『信時先生は、明治・大正を孤高に生きられたが、あまたの依頼があったのも拘わらず、
軍歌を一つも書かれなかった。
山田先生がその方向にも稍々協力されたことを思うと、信時先生の孤高さは立派である。
先生は、若い頃救世軍に身を投じた程の、平和主義者だったのである。
「海道東征」も「海ゆかば」も、軍国主義に同調して書かれたものでは無く、
日本人の先生にとっては、真剣に、自然に生まれた作品だったと言える。
 夏の陽の中で「海ゆかば」を考えると、作った先生にとっての「海ゆかば」と、
世間の「海ゆかば」の受け入れ方、使い方の間に、
どうにも仕方の無いギャップがあったように思われてならない。
然し、そうした事が戦争なのだったと思われなくも無いのである。

 海ゆかば

        大伴家持・作詞
        信時 潔・作曲

海ゆかば 水漬く屍(かばね)
山ゆかば 草むす屍
大君の 辺にこそ死なめ
かえりみはせじ
                         』
陸軍が海軍の反対を押し切って戦争へと突き進んでいくのである。

「ワシントン・スクエア」 ヘンリー・ジェイムズ 岩波文庫 ★★★
十九世紀前半、ニューヨークに一人の隆盛をきわめた開業医スローパー博士がいた。
しわせな結婚もしたが、わずか三年のうちに妻と息子を死なせてしまった。
残されたのは彼と健康だが平凡な容姿のキャサリン(亡き母の名)のふたりだけである。
ワシントン・スクエアの邸宅には、博士の妹のペニマン夫人と三人が暮らしていた。
そんなある日、いとこの婚約パーティでとてもハンサムな青年モリス・タウンゼントに出会った。
いつしかふたりは結婚を約束するが、定職にもついていない彼との結婚に父は断固反対だという。
どうなだめても、どう説得をこころみても博士のこころは変わらなかった。
それどころか、彼と結婚すれば必ず不幸になると断言されてしまったのである。
この小説の読みどころは、現代ではすこしピンとこないところもあるが、その対話にある。
博士のモリスに対する批評も、科学の世界にいる人間からすればこう結論が導かれるというものだ。
平凡(とも思えないが)ではあるがしっかりした精神の持ち主のキャサリンの人生はどう転んでいくのか。

「純平、考え直せ」 奥田英朗 光文社 ★★★★
主人公坂本純平二十一歳は、いまでは気のいいやくざになっていた。
『新宿歌舞伎町は冬の夜の毛布のようなものだった。
安眠が約束されるわけではないが、少なくとも追い出されはしないし、剥がされることもない。』
そんな彼に組長から鉄砲玉(ヒットマン)になれと命じられる。
もちろん、出世するチャンスであるし、男をあげるかっこうの機会がおとずれたと思った。
しばしの暇と金をもらった純平は街で知りあった女のこについそのことをもらしてしまう。
彼女は携帯サイトにそのことを書き込んだら、続々とレスが返ってきた。
心配しているようでもあり、信用していないようでも、からかっているようでもあるレスが。
純平も孤独なら、レスを返す若者たちも孤独なのかもしれない。
そんなとき知り合った元大学教授、現浮浪者のジイサンと焼肉を食べながらも指摘される。
『若者が死を恐れないのは、人生を知らないからである。
知らないのは、ないと同じだから、惜しいとも思わない。』
ブロードウェイを目指しているというダンサー、カオリとの会話が哀しい。
『「じゃあ、純平さんの夢は?」
「ねえよ」
「ないの?」
「だから肩身が狭えんだ」』
で、純平は考え直して殺人を思いとどまるのかどうか、これは本書を読んでいただくしかない。
青春ドラマはどのようにでも書ける、青春はどこにでもあるのだから。

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理屈っぽい
わたしは他人の評価、噂話、流言飛語などに格段の興味はない。
どちらかというと男女間のうわさなど聞きたくもなかった。
だから、誰それと誰それが結婚するなどときくと、いつもほーと思った。

ところがその関係はまわりでは周知の事実であるという。
だからといって、どうとも思わないし、知りたいという願望がわいてくることはなかった。
知ってそれでどうするのだ、という気分だったのである。

こう書くと、なにか世間を超越していると誤解をうけるかもしれないが、そうではないのだ。
自分が弱いというか、影響をうけやすい人間だからなのだ。
知らなければどうにもならない、そういう理屈づけなのである。

論理があいまいだったり、詭弁だったりにはどうも我慢できない傾向はある。
ひとつの話題(命題)があれば、かならず反転させて考えるくせがある。
これはひとつには笑いの理論とつながっているのだが、より理解を深める方法論でもあると思う。

世間には思っているよりも罠がおおものだ。
そんなことに引っかかるのかという感想をもつ出来事など日常茶飯事である。
マルチ商法など、いちどならず何度も被害をうけるというのは考え方がまちがっているせいだ。
マルチだとしても、自分だけは引っかからず、もうけを手にできるなどと考えるのだろう。
結果、失敗すると、こんどこそはと捲土重来をきたすというが、用語が不適切なのだ。
それだけでも思考法の欠陥がうかがわれるというものだ。

だからか、人を莫迦にしているのでは、とよくいわれる。
人を莫迦にすることなどない、と断言できる。
だが、あなたには莫迦にされるようなこころあたりがあるのですか。
とつい問い返しそうになることは、ままある。

4490湖上のヨット

バターとマーガリン
朝の食卓にならぶのがパンのときは、マーガリンがついてくる。
それをみると、いつも懐かしいような気もちになるのだ。

小学校の給食では、パンについてくるのは決まってマーガリンだった。
バターが配られることはなかった、と記憶している。

パンはといえば、コッペパンだった。
ときおり食パンのときがあって、こちらのほうがうれしかった。
マーガリンはまずかった記憶がある。
いかにもマーガリンだぞっていう感じで、バターとは味がまったくちがっていた。
もちろん、そのころジャムなどがつくこともなかったのじゃないだろか(記憶が不確か)。

4872尾道水道

どちらかというと、マーガリンは食べないで、パンはカレーシチューに浸して食べた。
カレーではなくカレーシチューというところがいまでは時代を感じる。
それは給食にご飯が導入される前だったからではないかと思われる。
給食がごちそうだ、というこどもたちもいた。
学校へ来ればなんとか食べられるのだから。

それはそれで、家庭ではパンなど食べることはなかったからうれしかった。
朝にコーヒーとトーストを食べる家庭は社会的ステータスが高いとだれもが思っていた。

いま考えれば貧しかったが、飽食ではなくカロリーも適切(?)だっただろうか。
でてくるフライは鯨カツが定番だったなあ、とつぎつぎに思いだすのである。

しかし脱脂粉乳はまずかったのだが、無理をして飲むのが男の子だという面もあった。
だから競っておかわりをしたりして、ばかな子ども時代なのだった。
(でも、とにかくおなかはいっぱいになった)

勲章嫌い
恒例秋の叙勲が発表され、丸谷才一氏は文化勲章を授与されるとか、おめでとうございます。
そういえば、以前文化勲章を辞退したので勲章や賞じたいが嫌いなのかと思われた方がいました。
なにかジャン・ポール・サルトルみたようですごいなあと思ったものでした。
が、なんのことはないノーベル賞はいただくと、どういう料簡なのかよくわからないご仁もいました(笑)。
いらないという方がなんとなく左翼的だという時代の気分でもあったような気がしたものです。
全共闘世代では、国家と名のつく、においのするものすべてが否定されなければいけない。
そしてそこに新たな世界をつくっていくのがわれわれの使命であり生きる道なのだというのです。
映画やテレビでも「キューポラのある街」や「若者たち」などがその雰囲気をかもしていました。
でも、すべては無からつくりだされるということはないのであり、自然は超合理主義でもあるのだ。
使いまわしなんてあたりまえ、リフォームにリフォームを重ねていく温泉地の日本旅館のようなのだ。
すべてを白か黒かと判じるのはすっきりとはするが、また後悔がついてくるものでもあります。
ものごとがそんなにすっきりとはできていない、とだんだんとわかってくることも多かったのです。
熱いか冷たいではなく、ぬるま湯もあるんだ、その状況で熱くも冷たくも感じるものだと知ったものです。
丸谷さん、いつまでも舌鋒鋭い評論など書き続けてください。

6067栄光協会

「機械の中の幽霊」 アーサー・ケストラー ちくま学芸文庫 ★★★★
J・B・ワトソン流の行動主義は、心という概念を排除して、それを条件反射の連鎖で置きかえた。
『オックスフォードの哲学者で行動主義の傾向のつよいギルバート・ライル教授は、
著書『心の概念』(一九四九年)の中で、肉体と精神の事象のあいだに通常立てられる区別を攻撃して、
後者を(ライルによれば「あえて軽蔑をこめて」)「機械の中の幽霊」と呼んだ。
のちにBBCの放送で、彼はこのたとえをさらに凝ったものとして、
機械の中の幽霊がこんどは機関車の中のウマということになった。』
しかし、幽霊は迷信だとしりぞけられることはなかったのである。
行動をすべて刺激→反応として説明することはできないと、徐々に人びとは考えはじめてもいた。
『道理に訴えた議論で相手を説得しようというとき、いつでもそれとなく前提とされていることは、
ホモ・サピエンスは一時的に情緒に目がくらむことはあっても、基本的には理性的な動物であり、
自分自身の行為や信念の動機はよくわきまえているということである。
ところが、歴史の証拠あるいは神経学的な証拠のどちらにてらしても、この前提はもはや通用しない。
すべてこの種の訴えは、むなしく不毛の大地に落ちる。』
ヒトは条件反射でできているのでもなく、理性がすべて行動を支配しているわけでもない。
白(行動主義)か、黒(理性的動物)か、と問うことじたいがまちがっているのかもしれないのだ。

「死角 オーバールック」 マイクル・コナリー 講談社文庫 ★★★
ハリー・ボッシュのシリーズもこれで第十三作目になる、ということは人気のある証拠でもある。
ある夜、ロス市街地の展望台で後頭部に銃弾をうけた男の死体が発見された。
彼は医療で放射線同位体を専門的に扱う医学物理士であったことから事件は意外な方向へと。
くしくも男の職場の一つからセシウムがなくなっていることが判明する。
ただの殺人事件ではなくテロがらみと思われ、FBIも介入してきておおががりな様相をみせてきた。
だがボッシュはなにかわりきれないものを感じ、独自の捜査を続けていくのであった。
そんななか事件はめまぐるしく動き、はたしてどうなっていくのかと息をのむ展開に。
アメリカはテロには異常な恐怖と同時に、奇妙な執着をみせる世界でもある。
新聞に(といっても日曜版)に連載されたものだというから、テンポも軽快で山場もそここにある。
日曜日の朝を楽しみにしていたおおくの人びとの顔がうかんでくるようでもあります。

「裏声で歌え君が代」 丸谷才一 新潮社 ★★★
ひさしぶりに連続して小説(といってもジャンルはちがうが)を読んだのは疲れているからか。
丸谷氏の小説はいつも厳としたテーマを軸にすえて書かれているなあ、という感じがする。
秋も終りに近い日の午後五時ごろ、中年の画商、梨田が地下鉄の上りエスカレーターにのっている。
一つ置いて隣のエスカレーターで降りて来る若い女性、三村朝子と偶然に出会う。
そして、ふたりで台湾民主共和国準備政府の大統領就任パーティに出席するところから物語は始まる。
梨田の戦時中の追想もふくめて物語りはながれていくのだが、テーマははっきりしている。
国家とはなにか、である。さらに国家とわたしとの関係は、治世はなにをもって良しとするのか。
どちらかといえば、アナキーな考え方に傾きがちな彼だが、台湾との妙な縁でつながっているだ。
台湾の現状から、日本とは国家とはと考え懊悩するひとりの中年男がいるのである。
やはり評論のほうが冴えをみせるなあ丸谷氏は、と思ってしまうのであります。

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袖口をひっぱる女
近くで話している女子がふたりいる。
ひとりは机にもたれかけて片脚を宙にうかせながら、片手でその袖口を器用にひっぱっている。
ニットのセーターが伸びてしまうがなあ、と思いつつずいぶん前のことがよみがえってきた。

男同士でしゃべっているところへ、なにか伝えにくる彼女はいつも袖口をひっぱっていた。
おまけに妙にからだをくねくねさせるものだから、なんだこいつはといつも思っていた。
十人並みの器量なのだが、それでも印象にのこっている。
(といっても、わたしにとってはマイナス評価なのだ)

なぜそうするのか、いつも疑問に感じている。
決して寒いからそうしているのではない。
袖が短くて正規(?)のサイズにしようとひっぱっているのでもないようだ。
どうやら本人も無意識でしているようなのだ。

5249アゲハチョウ

ちなみに日本女性は背が高いことにおおむね劣等意識をもつ。
芸能人やモデルならいざしらず、大柄な女性は猫背になっている人が多い。
すこしでも低くみせようとする健気な意識がそうさせるのだろうか。

こうした意識とつうじるところがあるのではないか、とわたしはにらんでいる。
袖を伸ばすしぐさは、服がおおきいことを意味するのである。
つまり、わたしは小柄ですよ、ちいさく、かわいい(これは別の範疇なのだが)のよとアピールしている。
のではないか、と推理、仮説をたててみるのである。

ヒトはネオネニー(幼形成熟)の方向へ進化の舵をきっている。
そのほんのひとすじの細い亜流ではないか、と考えるのだ。

週刊誌を読む男
朝の通勤電車といっても、時間が八時をすぎているので超満員ではない。
おおむね乗客全員が座れるぐらいの車内である。
いつもながらに短い時間だが本をひろげて読んでいた。

新神戸駅をすぎて急にまばらになったなかで、おやっと思った。
前に座っている青年が週刊誌を読んでいる光景だった。
サラリーマン風で、スーツにネクタイといったいたってふつうのスタイルだ。
だが、その手にしている週刊誌の表紙に目が釘づけになった。

色彩もどぎつく、はっきりと「週刊実話」とわかるのだ。
いわゆる下ネタも含むゴシップ誌だと、世間ではとおっている。
女性にいわせれば、いやらしい週刊誌ということになるだろう。

わたしも読んだことがないとはいわない。
地方のビジネス旅館・ホテルや食堂などで読んだことがある。
まあ、あまり他人がいるところで読むものではない。
なんとなく陰湿なイメージがつきまとっている。

ところが、彼は堂々と車内でひろげて読んでいた。
記事を読んでいたのか、グラビアを見ていたのかまでは判別できなかったが。
三宮駅に停車すると、そそくさとカバンにしまって降りていった。

その後ろ姿に、案外大物かもしれない、などと一瞬思った。

4891カメムシ?

続・習慣と慣習
ふつうに考えればすぐに思いつく。
習慣と慣習のちがいについて書こうと思って、中途半端になっていた。

ふつうは個人の習慣、社会の慣習などという。
では、反対に入れ替えるとおかしく感じるだろうか。
社会の習慣、個人の慣習。

微妙な意味あいになる。
社会の習慣は、これは言い得る。
個人の慣習は、どうもそぐわないようだ。

一般的には、習慣とは社会的なものもあるが個人的なことにつかわれる。
慣習は社会や地域で習わされているものということになるだろうか。

こんなことを書いていて思いだしたことがある。

文化ということばの意味である。

わたしは大学の講義で、「文化とはその社会での行動様式のこと」と教えられた。
たとえば、箸をつかって食事をする、これは日本の文化であると。
補足として、これはアメリカの文化人類学の考え方、とらえ方なのだといわれた。
つまりは、アメリカ=世界標準との認識がそのころの雰囲気だった。

日本の世間を見わたしてみると、またちがった光景がある。

いまはあまりつかわれないが「文化住宅」などとよばれるアパートがある。
ネーミングした当時は、文化ということばの価値が高かったのだ。
文化住宅は時代の先端をいく技術の粋を建築の形にあらわしたものだとにおわせていた。

どちらかというと文化=文明ととらえられていたのではないかと思う。
おなじような成り立ちのことばに「文化教室」があったが、いまや「カルチャースクール」に変身した。
文化人もいちじるしい権威の低下で、そうよばれることもよぶことも少なくなった。
言葉の鮮度(目新しさ)は時のすぎゆくままに、陳腐へと追いやられてしまうのだ。

慣習とはある意味その土地土地の文化であるのかもしれない。

5279八幡宮の駒

習慣と慣習
新しい職場に通うようになって二カ月あまりがすぎた。
どのようなことでも、過ぎてしまえば短く感じるものである。
あるいは印象がうすれていくとでもいえばいいのだろうか。
以前同じ課にいた人の顔は思いうかべられるのだが、名前が思いだせない。
まさに「去る者は日日に疎し」なのである。

朝起きてからでかけるまでの手順がやっと習慣化してきた。
だから習慣通りにやっているかぎりは忘れものをすることもない。
なにも邪魔がはいらないときにはいいのだが、人生そう平穏なときばかりではない。

いつもながらのなかで、ときおり頼まれごとなどをする。
わかったよと言いながら、あれっなにをしていたのだろう、とわからなくなる。
おおむね、まあいいかですませるのだが、そんなときに限って忘れものをする。

ずっと忘れたままなら問題はない(?)のだが、ふと思いだすから始末が悪い。
あれをどこに置いたのだろう。
しかたがない、いつもの手順をなぞってみての現場検証になる。

しかし、でてこない、みつからない。
やや、焦る。
どうしてだろうか、としばし考える。

忘れる、見つけられないものというのは、それだけのものなのだ。
ほんとうに必需品なら忘れるわけがない、と合理化する。

まあ、井上陽水ではないが、忘れたころに見つかることもままある。
だが、最近では忘れたことも忘れているという多重忘却のきらいがないでもない。

ここまで書いて、なぜタイトルが「習慣と慣習」なのか、自分でもわからなくなっているのである。
思いだしたときにまた続きを書けばいい、と思うのだが、きっと忘れるだろう(笑)。

5237ブラケット

再び読みの國へ
このところなぜか自分でもわからないが、あまり本を読む気がしなくて、したがって無理に読みもしなかった。
とはいえ、ポツポツと読んでもいるから、読書感想文も書かなければいけないなあ、などとぼんやり思ったり。
もともと歴史書に興味がなかったのではなく、たまたまおもしろい本に出会わなかった、ということにしていた。
歴史は事実か、あるいは真理を描けるかなど混沌とした議論に嫌気がさしていたからかもしれない。
もちろん、科学が真理を示しているなどと考えたことはないのだが、それでも仮説と標榜しているのはいい。
なかにはどこをどう勘ちがいしたのか、絶対的真理が科学の特性だと思っている人がいるようだが。
数学もそうだが、ある前提において成り立つのだということを忘れがちである。
とにかく、半藤氏の「昭和史探索」はまだ読了していないが、是非読んでみる価値ありだと思う。

5270庭に咲く

「NかMか」 アガサ・クリスティー ハヤカワ文庫 ★★★
エルキュール・ポワロやミス・マープルのシリーズで知られるクリスティーだが、この手のものもある。
トミーとタペンスは夫婦でありながら、いろんな事件に首を突っこんでいくという展開になる。
などと思っていたら、これは前にも読んだことがあると気がついた。
しかし、この二人の関係というかやり取りは絶妙で、いい夫婦なんだとだれもが思うだろう。
今回は脚注にあったこの解説によって、長く疑問だったこの色がなぜこういうのかわかった。
印刷(の場合はこれに黒を加える)などでつかう三原色は、シアン・マゼンタ・イエローだと知っていた。
『マゼンタは、イタリア統一戦争中の一八五九年、マジェンタの戦いがあった年に発見されたので、
こう名づけられた赤紫色の染料』
なるほど、なるほど、だから他の色とはちがった呼び名なんだな。
あるいは、本書のカバーデザインは真鍋博だと知る。
そんなところにまたなんとなく感興がわく読書なのである。

「漂流 本から本へ」 筒井康隆 朝日新聞出版 ★★★
筒井康隆氏が自らの読書遍歴を成長とともにふりかえるのだが、そこになつかしい書名がみえる。
井伏鱒二『山椒魚』、カフカ『審判』、リースマン『孤独な群衆』、川端康成『片腕』、
ローレンツ『攻撃』、ハイデガー『存在と時間』
私は小説などあまり読まないのだが、川端康成のこの短編にはえもいわれぬ世界を感じたものだ。
夏目漱石とはまたちがった魅力があり、彼のほうが外国の人にも受けがいいのではないかなどと思った。
いまだ読んでいないものでは、ディッケンズ『荒涼館』に興味をおぼえた。
それに、筒井氏が演劇青年であり、舞台で主役を演じたことがあることなど知らなかった。
『ぼくは初めて「本読み」なるものを体験した。
今は「読み合せ」と混同されているが、「本読み」というのは本来、
作者がひとりで台本を役者たちに読んで聞かせることだったのである。』
「本読み」で作者の気迫が伝わってきてこそ、作品の意味がわかるのだろう。

「昭和史探索 3」 半藤一利編著 ちくま文庫 ★★★★
昭和九年から昭和十一年にかけてのこと。後の眼でみれば、時代はおおきな転換点をむかえていた。
満州帝国の建国、天皇機関説問題、国体明徴、二・二六事件、ベルリン五輪とスペイン戦争など。
で、近代日本と天皇との関係でよくでてくる天皇機関説とはなんだったのだろうか。
『天皇機関説とは、G、イエリネックの国家法人説を日本の帝国憲法解釈に応用して、
一木喜徳郎たちによって唱えられたもので、統治権は法人である国家に属し、
天皇はその最高機関として統治権を行使するものと規定した。
そして明治の末期に、天皇個人が国家の統治権を所有するという天皇主権説
(上杉慎吾、穂積八束など)とはげしく対立した。
これが大正時代になって、一木の弟子であった美濃部達吉によって継承され、
いっそうきちんと理論化されて、大正デモクラシー時代には政党内閣制に理論的根拠を与える学説として、
むしろ憲法学の主流になったのである。
昭和七年に美濃部が貴族院の勅選議員となったのもその学説が認められていたからにほかならない。』
これのどこが問題になったのか、すこし長いが美濃部の弁明を紹介しておこう。
『統治権は天皇の一身一家の属さず     美濃部達吉
わが憲法上、国家統治の大権が天皇に属するということは、天下万民一人として、
これを疑うべき者のあるはずはないのであります。

ただそれにおきまして、憲法上の法理論として問題になります点は、
およそ二点をあげることができるのであります。
第一点は、この天皇の統治の大権は、天皇御一身に属する権利として観念せらるべきものであるか、
または天皇が、国の元首たる御地位において総攬し給う権能であるか、という問題であります。
一言で申しますならば、天皇の統治の大権は、法律上の観念において権利と見るべきか、
権能と見るべきかということに帰するのであります。
第二点は、天皇の統治の大権は、絶対に無制限な万能の権力であるか、
または憲法の条規によって行われまする、制限ある権能であるか、この二点であります。

すなわち権利主体といえば、利益の主体、目的の主体に他ならぬのであります。
したがって国家の大権が、天皇の御一身の権利であると解しますならば、
統治権が天皇御一新の利益のため、御一身の目的のために存する力であるとするに帰するのであります。
そういう見解がはたしてわが尊貴なる国体に適するでありましょうか。
わが古来の歴史におきまして、いかなる時代においても、天皇が御一身御一家のために、
御一家の利益のために、統治を行わせられるものであるというような思想の現れを、見ることはできませぬ。』
決して天皇が国を統治することを否定してはいないのである(そんな説だと勘違いしないように)。
また今日ある民主主義をとなえたものではなかったところを、あらためて理解しておこうと思う。

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ミシンを磨く
朝からなにをしているんだろう。
すると棚の奥に眠っていたミシンをとりだしてきた。
錆びもきているだろうから、磨いてほしいという。

もともとは足踏みだったのをモーター式にリニューアルしてある。
足踏み式だったらインテリアにもなるのにねえ、とやや口惜しそうだ。
ほこりをかぶり、油もきれている感じ。

5318古いミシン

さあ、頑張って磨きあげようか。
こういうことは割りに好きなほうだが、取りかかるのに時間がかかるのが難点。

テーブルの上に新聞紙をしいて、しこしこと始める。
ほこりのベールをはいでいくと、見ちがえるようにきれいに変身する。
そんなことを想像しながらブラシやウェスでこまめにこする。

そういえば、ミシンといえば「ブラザー」「リッカー」「シンガー」などを思いつく。
ミシンは英米人がマシン(Machine)と言ってるのを耳で聞いて字にあてたものだ。
他には有名なもので、メリケン粉などというのがある。
神戸のメリケン波止場とおなじで、アメリカンがなまったものだ。

アメリカン・コーヒーというより、メリケン・コーヒーのほうがいいんじゃないか。
そんなことを思いつつやって、なんとか終了。

5320掃除後

ミシンってあらためて見ると、なかなかいいフォルムですなあ。

5325お色直し

ご満足いただけましたでしょうか(祈)。

天然水の不可思議
小学校の国語のテストを思いだす。
次にあげる漢字の反対語を書きなさい。

そこで、「天然」とあれば、「人工」と書くだろうな。

テレビを見ていたら、コマーシャルで天然水のビールなどという。
ほー、人工水のビールなるものもあるのか、と妙に感心した。
(なければ、わざわざ天然水のとことわる必要がない)
これはかなりのコスト高になるのではないか、と漠然と考えた。
逆に、人工水のビールのほうがインパクトあるがなあ。

水なんてものは天然自然に多く存在するものではないか。
人工的に水をつくる必要があるのだろうか。
まあ、工業的に純水というのが作られるというのは聞いたことがあるのだが。
水以外の不純物(ミネラルも不純物だ)を除いてしまうわけだ。
そうなると、電気も通さない。

だけど、ビールでわざわざ天然水というからにはなにか利点があるのだろう。
いくら考えてもわからなかった。

そうだ原価が安い!、
日本では水と安全はタダなどといわれるから。

しかし、それってコマーシャルで訴えることなのか疑問だ。

5250クモ

青春時代の旅人よ
遅い朝食をたべながら、ながれてくる曲をきいていた。
もうずいぶん前に流行った歌で、いまでは懐かしのと枕詞がつく。

歌うのは、森田公一とトップギャランだ。
だれの作詞だろうかと思って調べたら、阿久悠だった。
なるほどね、いかにも彼が書きそうな詞だなと思った。

「青春時代」

卒業までの半年で 答えを出すと言うけれど
二人が暮らした歳月を 何で計ればいいのだろう

青春時代が夢なんて あとからほのぼの思うもの
青春時代のまん中は 道に迷っているばかり

二人はもはや美しい 季節を生きてしまったか
あなたは少女の時を過ぎ 愛にかなしむ人になる

青春時代が夢なんて あとからほのぼの思うもの
青春時代のまん中は 胸にとげさすことばかり

青春時代が夢なんて あとからほのぼの思うもの
青春時代のまん中は 胸にとげさすことばかり




そんなにほのぼのとは思わないが、まあ雰囲気はでている。

そういえば、あの曲はだれが書いたのか。

「旅人よ」

風にふるえる 緑の草原
たどる瞳かがやく 若き旅人よ
おききはるかな 空に鐘がなる
遠いふるさとにいる 母の歌に似て
やがて冬がつめたい
雪をはこぶだろう
君の若い足あと
胸に燃える 恋もうずめて
草は枯れても いのち果てるまで
君よ夢を心に 若き旅人よ

赤い雲ゆく 夕陽の草原
たどる心やさしい 若き旅人よ
ごらんはるかな 空を鳥がゆく
遠いふるさとにきく 雲の歌に似て
やがて深いしじまが
星を飾るだろう
君のあつい思い出
胸にうるむ 夢をうずめて
時はゆくとも いのち果てるまで
君よ夢を心に 若き旅人よ




作曲は弾厚作、つまり加山雄三だな。
で、作詞はとみると岩谷時子さんだ。

ぼくはこちらのほうが好きだ。
世間にまみれる「阿久悠」より、抒情あふれる「岩谷時子」がいいなあ。
などと思う、ひんやりした秋の夜であります。

柏原散歩
すっかり秋らしくなったからというのではないが、出かけたくなった。
どこかへ行かないかというと、どこがいいのといってなかなか決まらない。

「柏原ってどうかな」
「かしわら?」
「ちがうよ、かしわばらでもなくて、かいばら」
「どこにあるの」
「いまは丹波市になってるのかなあ」
「ふ~ん、知らない」

とかなんとか、で決定。

柏原藩は織田家の所領で、お城はないですが立派な陣屋があったらしい。

5308柏原藩陣屋跡

観光客はすくないですが、町並みは整備されてこじんまりといい感じです。
せっかくなので、もと武家屋敷だったという「喜野根」さんで昼食ということに。
なかなかおいしかったですね。

5302「喜野根」

5297昼の膳

途中、篠山あたりで渋滞していましたがここは閑静でした。
ふとしたところに秋が見えて、季節を感じてみるのもいいものです。

5306地蔵尊

5288ツマグロヒョウモン

そのうち人気がでてくる、かも知れません。

椎茸たちの不幸
土曜のすこし寝坊した朝のこと。
休日のリビングルームには、モーツアルトの響きがよくにあう。

でなにを食うかというと、テーブルに昨夜のすき焼き鍋がある。
これはわざと今朝用に残しておいたものである。
なぜか、こどものころに食べた(たぶん)それが記憶にあるのだ。
あのうまさを、もういちどというわけだ。

カセットコンロ上の鉄鍋に火をいれる。
まず、うどんを放りこむ。
たまごも入れずばなるまい。
最後に少量のご飯も混入させる。

う~ん、いいにおいだ。
やはりあのうまさはほんとうだったのだ、と安堵する。
鍋のなかを見わたすと、椎茸が目にはいった。

「椎茸はおいしいし、栄養があるのよね」
「そうだな、カロリーはほとんどないしな」

と言ってから、しばし考えるのである。

椎茸のおいしさというのは、ヒトが感じるものである。
ということは、椎茸にとっては、おいしいと食べられる機会が増える。
これは、椎茸の不幸ではないだろうか。
だから動物や植物は、しばしば臭いにおいを発したり、毒をもったりしているのである。

5035毒キノコ

ああ、食欲の秋、マツタケを筆頭に椎茸たちの不幸は続くのである。
こころして「いただきます」から「ごちそうさま」、と食事を終えた。

もったいない
「もったいない」という日本語をいたく気にいっていたマンガリ・ワータイさんが亡くなった。
アフリカ女性で、はじめてノーベル平和賞を授与された方だった。

わたしたちの世代は、いつも「もったいない」ということばを聞いて育った。
その代表的なものは、お米についてだった。
お百姓さんが丹精して、八十八の苦労をかさねてできたものだときかされた。
ごはんつぶひとつ粗末にしても罰があたる。
つまり、人の生き方として正しい道をそれているというのだ。
そんなことすら実践できないで、なにが為せるというのだ、という含意だったろう。
まさに、神は細部に宿りたもう、のである。

旅にあけくれていた若いころは、そんなことなど気にもならないつもりでいた。
だが、たれか食事を残すところをみると、なぜかこころがざわついて落ち着けなかった。
食い意地もはっていたのだろうが、おれが食ってやると残さずたいらげた。
その結果かどうかはやや疑わしいが、よく腹をこわした。
なんのことはない、莫迦な奴だったのである。

いまではそんな悪癖(?)もすっかり消え、食べたくなければさっさと残す。
でもこれはこれで、「また少しずつ残して」と愚痴られるのである。
だが、この残り物(それも少量ずつ)が翌日食べるとなんだかうまい。
それはお腹が空いているからなのだが、よくよく貧乏性にできあがっているようだ。

「空腹は最高の調味料である」といわれても、飽食になれた現代ではいまひとつピンとこない。
だが、はるかな地には食べるものにも汲々として暮らしている人びとがいる時代でもある。

「もったいない」という精神は世界にひろがってゆくのだろうか。

5251スパイス

漢字の感じ
漢字にはその成り立ちがある。
一字一字がアルファベット(表音文字)とはちがって意味をもつ。
表意文字とよばれたりもする所以である。
であるから、未知の熟語にであっても意味をうかがい知ることができる。

しかし、逆に語に意味があるからまた誤解(?)もうまれる。

職場で隣での会話がなにげなく聞えてくる。
若い女性といっても結婚もしているようだ。
相手は仕事のかたわら休日には農業もしている男性である。

畑にへは軽トラで行くけど、ついでの買い物もそれでいくとかと話している。

「軽トラって軽油で動くんだよね」
「あほなこと言うたらあかん、ガソリンやがな」
「だって軽油だから軽トラっていうのとちがうの」
「ちゃう、ちゃう、ちかごろの若い子はこわいわ」

なるほど、軽油だから軽トラ、なかなかうまいこというな。
だけど軽トラに軽油いれたらエンストしますよ。

でもこういう思いこみは多いのではないか。
例えば、手打ちうどんで人気がある「丸亀製麺」。
やっぱり本場讃岐の店はちがうなあ、というような気がするのでは(笑)。

5273黄パプリカ



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島を旅するときが楽しいですね。
遠くに眺めるのも好きです。
楽園なんてないんですけどね。

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