ムッシュの読書紀行
人生は旅のようだと言いますが、旅が人生かも知れません。 ぼくは活字中毒気味でもあり、旅はまだまだ続くでしょう。
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連休がやってくる
すっかり定着した呼称になった「ゴールデンウイーク」がやってくる。
もともとは映画業界が観客動員をねらって考えた造語だということである。

春の行楽シーズンに大型連休があるということで、でかけようという人もおおい。
だが、逆にどこも人出がおおくて混雑するので家でのんびりという派もある。

でかけるにせよ、でかけないにせよ、どちらでもいいというのが男の考えだ。

そこへいくと女性はちがうようだ。
たまの休みに家に居られたのではたまらない。
あなたはお休みでしょうが、主婦には休みはないのよ、とおっしゃる。

ではということで、ひとりで出かけたりしたら大変である。
自分だけすきなことをして、いい気なものね。
(つまり仕事をしているのがいちばん無難なのだ)
(現実に休日に出勤して仕事をしている男性は、そういう理由でという方もおられる)

おさんどんのない国へ行きたい。
上げ膳据え膳ですごしてみたい。
(では、その上げ膳据え膳はだれがやるのかというと、確実に喧嘩になる)
などの願望があるようなのだ。

これらの問題の底には、おたがいに相手が楽をしている、ちっともかまってくれない。
というような感情がひそんでいることがおおい(意識していないことも)。

では、どう連休をすごせばいいのか、と考える日々である。

4540ダイニング

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夏のエコスタイル
いよいよ本格的な夏がやってくるという前ぶれだろうか。

パソコンの画面にこんな通達があった。
自主取組期間を含めて、平成24年5月1日(火)~10月31日(水)までの期間とする。
適正冷房は概ね28℃とし、この期間は軽装で勤務してもよい。
半年間は軽装でということになるわけだ。

で、この軽装についての考え方は、品位を失しない範囲で、
 上着を着用しない。
 ノーネクタイとする。
(絶対にネクタイをしてはいけない、ということではない)
とリラックスしてというよりは、暑さ対策は自分でしなさいということだな。

現在の職場はどうかというと、靴はスニーカーありだし、ポロシャツ姿もおおい。
ズボンもジーンズはないが、綿パンが一般的なスタイルである。
ちょっとした大学のキャンパス風景かとみまがうほど。
まあ、見た目の若さはないけれども(笑)。

綿パンは買ったし、なにか気楽ないい靴はないかさがしてみようかな。
ポロシャツもいるよなあ、となかなかに物要りな夏本番前ではある。

F0042真鍋島

シャワースタイル
仕事関係で風呂釜のことをインターネットで調べていたとき、こんな文章に目がとまった。

 日本独自のスタイルであるハンドと壁掛けの両方で使用できるシャワー

えっ、ハンド式というのは日本独自なのか。
ここでしばらく思いをめぐらす。

そういえば、外国映画でもシャワー場面では立ったままだ。
高い位置についたシャワーヘッドからの湯を、ブロンド美人が顔をあげてうけていた。

日本人は、髪を洗うのも座ってする人が多いんじゃないのかな。
ということは、シャワーを浴びる(日本人はかけるだな)姿勢に関係があるんだ。

与那国島へ行ったときも、たしかにシャワーは上の方について固定式でした。
おまけに浴槽もない風呂場というよりシャワー室というおもむきだったことを思いだす。
(日本というより、アメリカ治下が長かったから?)

最近の若者たちは夏にはシャワーだけですます、という派がおおいときく。
でも年配の方々は、やっぱりお風呂は湯船につからないと疲れがとれないわよね、とおっしゃる。

日本は世界でも有数の火山帯のうえにあるおかげ(?)で温泉にめぐまれている。
温泉とシャワー、なんだかマッチしない感はある。

どちらのスタイルでもいいと思うが、それでもどんなかっこうで、とはつい考えるのだ。

6452ローズ

にぎやかな湖畔
人間は笑う動物である。

おまけに酒は飲むし、食欲中枢を麻痺させてまで食べつづけることができる。
ワインを味わい、でてくる料理をつぎつぎにたいらげていく。
食欲がみたされてくると、なんともいえない多幸感がわいてくる。

6456宴

思い出話が連鎖的につぎからつぎとでてきて、あのときはこんなことがあった。
だれそれは、こんなことをして、あんなことになったのだが、しかたがないよな。
この宴席にいないものは、かっこうの酒の肴である。
笑いに笑いながら、それでもなつかしさもあるからなんだか会いたい気分だ。

じゃあまた来月末、神戸のチベット高原で会おう、となる。
(予定を決めてしまえば、すべてはそのように流れてゆくものだ)

なんとか雨をのがれた昼間には、菜の花畑のひろがる道の駅でしばしあそぶ。
そうだ、忘れていたが、ヒトは遊ぶ動物でもあった。

6442菜の花

大人になってもこどものように遊ぶのがヒトなのだ。

くさむらでごそごそしているのは、きっと四葉のクローバをさがしているのだろう。
見つかったとの声があがって、そっとノートにはさみこまれる。
人は願いをかけることができ、願いがかなうと信ずることができる。

やはり夜のうちに雨が降りだした。
雨は大地をうるおし、しみのようにひろがってゆく。

6454琵琶湖畔

テーマ:真鍋島の愉快な仲間 - ジャンル:旅行

七福神?
一般的な携帯電話からスマートフォンへの流れはとどまることをしらない。
おばさんであろうが、老若男女の区別なく、そんなことはおかまいなしである。
(ここでまた文句がでるであろうことは承知いたしておりますが、レトリックとして)
(ということで、ここでの主題とは関係がないので深入りはしない)

そんなある朝の会話である。

「ずいぶん、普及したみたいだな」
「そうよ、AちゃんもYちゃんもMさんだって」
「ふーん、オレは遅れているってわけか」
「わたしも、変えようかなぁ」

で、しばらくコストの問題などあり

「大型画面のだと、プレゼンするのにも便利なのよ」
「ああ、ドコモのコマーシャルでやってる、あれかあ」
「そうそう」
「あの~、名前がでてこないけど、たしか、エビス?」
「ええ~?」
「奥さんが、わたしはいま~、って歌っている人」
「ホテイ!」

顔はうかんでくるのだが、という経験はだれにもあるはず。
おまけに奥さんの顔や歌までうかんでくるのに、本人の名前がでてこない。
しかし、エビス(七福神つながり?)がでてくるというのはどういうことなんだ。
という疑問は残るのではある。

4533狛犬

単読行
本はひとりでしずかに読むものではあるが、その姿勢となると千差万別らしいと最近気づいた。
寝転がって(高島氏はこうだという)、あるいは吊革につかまって(こうでないと駄目)など多様さにおどろく。
また、静かにとは書いたが、ほうとうにそうだろうかという気がしないでもない。
本来のというか、ひと時代前までは音読が一般的というか、本は声にだして読むものであった。
書見台をまえに、意味は知らねどただひたすらに朗誦するこどもの姿など江戸時代劇にはよくでてくる。
声にだして読むことは、また自身の声を聴くということでもある。
そこではなんらかのフィードバック機構がはたらいているだろうことは容易に想像がつく。
だれかみたいにいい声で読みたいとか、響きの美しさを感じたいとかと思いつつ工夫もこらしたことだろう。
だが個人主義的な考えが優勢になってくると(?)、黙読へと大勢はおおきくかわっていくのである。
とはいえ、頭のなかで音声言語として感じながら読んでいるということであるかもしれない。
そんななか、読書は修業だとする派もあって、さながら行者かとみまがうようなお方もおれれるのも確かだ。

6392列車通過

「魔女の1ダース」 米原万理 読売新聞社 ★★★★
ひところテレビにもよくでていて、歯切れのいいコメントでなかなか才女だなあと感心していた。
ロシア語の同時通訳やエッセイで人気がありましたが、癌で亡くなられたのは五十六歳という若さでしたね。
『世間一般の常識では、一ダースの鉛筆といえば、十二本。』
『ところが悪魔や魔女の世界では、一ダースは十三本というのが通り相場だったのである。』
なるほど、13が不吉だと嫌われるのは、そういう理由もあったのでしょうね。
本書のはじめのほうに、ロシア人の「魔法使い」からのプレゼント本「悪魔と魔女の辞典」には、
『愛―相手から無料で利益を引き出すのに、
相手が対価以上のものをこちらから獲得したと錯覚し、トクしたと思わせるための呪文の一種。
ただし、呪文を唱える当人のほうが錯覚し、自分のほうが損をしていると思いこむ場合も多い。
「無償の愛」などとわざわざ定語をつけたりすることがあるように、
本来は有償なものと考えられている。』
なかなか、言うではないですか。こんなのもありますよ。
『希望―絶望を味わうための必需品』
しばし鋭い切れ味のエッセイなど読んで、彼女をしのびたいと思います。

「嫌いなことから、人は学ぶ」 養老孟司 新潮社 ★★★★★
養老孟司の大言論シリーズの第Ⅱ巻にあたる本書も、なかなか読みごたえがある。
いろんな本を読むとき、気になるところには附箋をはっていく。
まったく貼らない本もあれば、附箋だらけという場合もときとしてある。
本書は後者の代表例のようなものであり、たとえばこんなところには附箋がはられる。
『不安であることを悪と見なす世の中が、べつにマトモだとも思えない。
不安は動物に作りつけられた性質で、それがなければ、動物は安全には生きられない。
ゆえに、不安は消すのが当然だという反応をするのは、じつは理性的ではない。
しかし近代合理主義は、あらゆる不安を消すことをモットーとしているのである。』
できるだけ危険なことからこどもを遠ざけるということも、おなじことになるんじゃないかなあ。
『感覚世界は「違う」という世界で、意識内部の世界は「同じ」という世界である。
だから感覚世界のリンゴはthe appleであって、個物がすべて異なることを示す。
意識内部のリンゴは「同じ」リンゴであって、それがan appleである。
早い話がthe appleはすべて「違う」リンゴ、an appleは要するに「同じ」リンゴである。
助詞の場合には、機能がもっと多いので、そう簡単ではない。
しかし「昔々おじいさんとおばあさんが」のガは不定冠詞機能であり、
「おじいさんは山へ柴刈り」のハは定冠詞機能である。』
英語の定冠詞・不定冠詞がどういうことなのかよくわからなかった。
こういうふうに説明してくれれば、よくわかったのに(それを望むことは酷?)と思う。
ほかにもいろいろと十数か所に附箋がはられたのでありました。
書き写しながら、もういちどいろいろと考えるのが、また楽しいということであります。

「わたしが・棄てた・女」 遠藤周作 講談社文庫 ★★★
「主婦の友」に連載されていた小説だが、題名からうけるのと読んでからのでは印象がちがう。
敗戦後まもないころの話だから、ひとびとの生活をよくみると現在とはおおいにちがっていることが多い。
貧乏な大学生はかく暮らしていた(ステレオタイプ?)というようなことは想像できる。
だが、恋愛観がいまの時代とはずいぶんと変わってしまっているのでとまどう読者がいるかもしれない。
田舎からでてきて工場で働いていた森田ミツはふとしたことから大学生吉岡努と知りあう。
なんどかのデートののち、肉体関係をもつのだが吉岡はミツとまじめに交際する気などはない。
ミツはそのひとの良さから工場をやめ水商売へと転落し、やがてライ病と診断され隔離病院へいく。
しばらく療養していたが、再検査で誤診だということがわかるが病棟を立ち去ろうとはしなかった。
いったん知ってしまったライ患者のために働こうと決心し、もちまえの明るさで健気につとめる。
やっと慣れてきたころに、交通事故であっけなくこの世をさってしまうのだ。
いっぽう、吉岡は勤め先の重役の娘と恋愛関係になり将来は約束されたも同然だ。
こう書いていると人生は不公平なものだと思うかもしれないが、そんな単純なものでもなさそうだ。
あくまでも人のために生きようとするミツはいったい何者なのか、そんなことばかり考えてしまうのだ。

テーマ:読んだ本 - ジャンル:本・雑誌

ポケットのなか
なにげなくズボンのポケットに手をつっこんで歩いていたとき、ふと浮かんできたことがあった。

こどもだったときや学生のころ、ズボンに手をいれて歩いてはいけない、とよくいわれた。
その理由はというと、ころんだときに身体を守るべき手がその役をはたせない、というものだった。
それに反論すると、行儀が悪いだろうといわれた。

たしかに映画などでは、愚連隊(古!)や不良がズボンに手をつっこみ、肩で風きって歩いていた。
そのスタイルをとることじたいが、反体制のシンボルともなった時代があったのだ。
(いまでもそんなふうにデフォルメして威嚇的に歩く集団をみかけることはある)

だが、ふとこんな疑問がうかんできた。
じゃあ、あのポケットはなんのためにズボンの脇につくられているのか。

ポケットはそもそもなにかを収納するためにある。
ではあるが、ポケットにかさばるものを入れると全体のシルエットがそこなわれる。
(せっかくの最先端のデザインが台無しだというのだ)
ということは、ポケットの実用性がかえって邪魔になる。
つまり、実用的なものから修飾的なものに変化しているというのだろう。

別角度からということで、ポケットのないズボンを想像してみる。
なんか手のもっていき場所に困る感じで、どうもいけないようだ。

そうか、そんなときに手をいれるためじゃないのか。
もちろん、かじかむ寒さから手をまもるというのもあるだろう。
(しかし、女性のパンツにはサイドポケットはないようだ)

だから反作用としてポケットだらけのカーゴパンツなどというものもでてくる。
(これがファッションの定石ではあるのだが)

などと考えつつ歩いていたら、段差でけつまずいて思わず転びそうになった。

6338内と外

桜咲き、散る
ひさしぶりに電車に乗って大阪方面へいく。
街の空気そのものが変わってしまったのかと思われるほどにあたたかな日になった。

平日でも多くのひとびとがやってきて、それぞれにお参りしてゆく。
境内の桜もほぼ満開で、ときおりの風に花びらをちらす。

6667八重桜

鯉のいる池も春爛漫でありました。

6665鯉と桜

しずかな町を歩き、商店街ですこし買い物をする。
あたりまえの日々が、なにごともなくすぎてゆく。
それがあたりまえだと思っていたのは、いつのことだったのだろうか。

夙川沿いの桜並木を散策してみる。
若いころにいちどだけここで花見をしたことがある。
もうそのころの風景はすっかり忘れてしまった。

春が来てさくらの花が咲き、つかのま散ってゆく。

6682さくら

桜と椿
急にあたたかくなって、外套ももういらないという感じだ。
しごとの関係で、伊丹は昆陽池のちかくまでいった。

すこし歩いたり、屋上までのぼったりするとヘルメットのしたで汗がしたたる。
いまはもう使われなくなった共聴用のアンテナは撤去することに。

背伸びしてみわたすと、あたりは春霞にみたされている。
すっかり春だなあなんて思っていると、川沿いでは桜が満開だった。

6638桜

路線バスにゆられ電車に乗って家に帰れば、玄関先では椿がやっと花開いていた。

6647椿

モダン焼タイム
所用があって、休みの日に三宮まででる。
時間は午後の一時過ぎ、どこかで昼飯でも食おうかと思ってしばし思案する。
そうだ、あのお好み焼屋まだやってるかな。

以前休みの日になると、ときどきふらりと行った。
それも昼時をさけて、十一時ごろか一時すぎにしていた。
むかいながら、このあたりはあまり変わらないなあ、などと思う。

五六分歩いて、左へ折れるとそこに店がみえる。
あったあった、あののれんが掛かっていました。

6626のんちゃん

戸を開けてはいると、平日だし昼をすぎているので先客はひとりのみ。
といっても、カウンターだけの店内、まあ十人は入れない広さなのである。
奥のほうに座って、

「すじそばモダン」と注文する。
(注釈すると、すじ肉入りのそば焼をモダン仕立てにしたもの、ってわかる?)
ここにくるといつもこれ。
壁のメニューをみると、650円(変わってない)となってました。

ビールの大びん500円也を頼んで、アツアツの鉄板のうえで食べる。
(キリンラガーとアサヒスーパードライをおいてるので、ドライを指名する)
うまいなあ、すじ肉はここのおかあさんがことこと煮込んだものです。
たっぷりはいってますからねえ、夏だったらビール2本は飲んじゃいます。

6623すじそばモダン焼

ああ、うまかった。
ちょっと満腹感ありで、わかいころみたいにはいきませんね。
二人でくれば、モダンとお好み焼を頼んで、半分ずつくっつけてもらうとちょうどいいです。

また、来よう。それまで元気にお店続けてくださいよ。

ぎおん好き
赤ん坊はふつうにことばを話せるようになるまでは、パブパブ言っている。
だがこうした言葉づかいは、赤ん坊に限られるわけではない。

わが家には、

「ああこんなことになるなんて、シクシク」とか
「もうお風呂が沸いたにゃん」
「まったくもって、プンプンだわよ」

などとおっしゃるかたがいる。
のではあるが、なんとはなしに諒解できてしまうから不思議なものだ。

こうした擬態語・擬音語(オノマトペ)は、日本語ではよくつかわれる。
アニメや漫画などでも多用されて、ある意味日本文化の特徴でもあるといえる。

言語(概念)の衝突をさけようという心理がはたらいているのだろうか。
感覚を優先させて、こころのふれあいでということか。

こどもっぽいし、莫迦じゃないか、というのは短慮にすぎると思う。
世のなかファジー(曖昧)な空気が満ち満ちているではないか。
そんなにしゃちほこばらないで、リラックス、ラリックス。
どうせ生きるなら楽しくやりましょう、というメッセージなのだ。

そうした深謀遠慮からなされている言動ではないか、と考えたりするのである。

6323フィニフニ



プロフィール

ムッシュ

Author:ムッシュ
島を旅するときが楽しいですね。
遠くに眺めるのも好きです。
楽園なんてないんですけどね。

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