ムッシュの読書紀行
人生は旅のようだと言いますが、旅が人生かも知れません。 ぼくは活字中毒気味でもあり、旅はまだまだ続くでしょう。
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帰らざる本
あの本はどこにいったのだろうか、と本棚のなかをさがすがどうしてもみつからない。
たしかに持っていたはずなんだがなあ、どこにいってしまったのだろうか。
ぼんやり考えていると、そうだと思いだすことがあった。
いま思うと、ずいぶんと相手も迷惑に感じていたのではないだろうか。
若い女性相手にこんな本を読めばいい、というか読むべきというようなニュアンスで。
どさりと十冊の本をテーブルに投げだして、喫茶店で話していたことがあったっけ。
これでも生真面目なところがあって、すてきな女性には本気ですすめたものだ。
髪の長い、涼しい目をしたやさしい正統派美人をまえにしての所業だったのだ。
にこやかにしてはいたが、内心こまったわと思っていたかもしれないな。
と、いまになって気づくわが身の鈍感さにあきれるばかりである。
彼女はだれかって、四国徳島生まれのYMさんのことなんだけど、いまはどうしているだろうか。

6580クレマチス

「どちらとも言えません」 奥田英朗 文藝春秋 ★★★
奥田氏は岐阜出身ということもあり、三十年来の中日ファンを自認している。
当然、プロ野球のことなどに一家言もっているのはいうまでもないが、その楽しみも知っている。
それも選手をほめることよりもけなすことのほうがはるかに多い、というのである。
『スポーツ選手の価値とは、記録と同じくらい、語られることにあるのである。
ちなみに、歴代の「語られキング」を考えてみると、ダントツの一位は長島茂雄だろう。』
これはどういうことかというと、
『AKB48が」どれほど日本中を席巻しても、人々の日常会話にはのぼらない。』
ということなのである。
本書で語られる、プロ野球談義をにやにやしながら読むというのもまたひとつの楽しみであるだろう。

「007 白紙委任状」 ジェフリー・ディーヴァー 文藝春秋 ★★★
なぜジェフリー・ディーヴァーが007を、という疑問はだれしも最初に感じることだろう。
『「一九五三年にイアン・フレミングが生み出した世界一有名なキャラクターを、数百万の読者を失望
させることなく現代に蘇らせること」――作者ジェフリー・ディーヴァーは、フレミング財団から与えられた、
そのきわめて難度の高いミッションをみごとに成功させたと言えそうだ。』
と訳者あとがきにあって、まあそういうことなんだろうなと納得する。
だが、ジェームス・ボンドといえば、やはり映画では初代のショーン・コネリーがやっぱりよかった。
といった感想はあるのだが、今回もエンターテイメントとしてはなかなかうまくできていると思う。
時代といえばそうなのだが、こんなところに目をつけるディーヴァーはやはりただものではない。
『ミッドランズ・ディスポーザルは、マンチェスター南部を本拠とする比較的大きな犯罪組織に関連した
会社だった。アメリカでは昔から、廃棄物処理はマフィアのしのぎとされている。
また犯罪組織カモッラが支配するナポリでは、ごみ回収業は犯罪の王と呼ばれていた。』
このあたり世界的に共通するのだろうか、日本ではどうなんだろうかと、ふっと思う。

「人生に二度読む本」 城山三郎・平岩外四 講談社 ★★★★
いままでに人からすすめられて読んだという本は多くはない。
ただすすめられたからといって読むほど単純な性格ではない、というか天邪鬼だからだ。
しかしながら、人生の大先輩の対談を読んでいると、なるほどなと思うところなきにしもあらず。
ここで解説に引用されている井上ひさしの太宰評には思わずにんまりとしてしまう。
太宰は一人芝居の作者兼役者であり、そこで扱われる主題は、イエス・キリストの受難劇だという。

 「しかし、いくら図太い太宰でも、舞台の上で、自作自演のキリストを気取るのに照れるときがある。
  格好よくポーズをきめる、偉そうな警句を口にする、(略)そのたびに照れて含羞かんで、
  『なあんちゃって』と崩す。これが太宰の文体の、いや彼の文学の基調なのです」
  (『太宰に聞く』より)

太宰の文章にこれをあてはめると、たとえば「人間失格」の冒頭の文章は、
「恥の多い生涯を送って来ました……なあんちゃって」ということになる。このパラドックスは見事な発見だ。
この本で紹介されているうちで、読んでみたいな思ったのは以下の三冊。
ジェイムズ・ジョイス「ダブリン市民」
(「ユリシーズ」や「フィネガンズ・ウェイク」を読んでみようとはまだ思えなくて)
ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人」
(ご高名だけはうかがっていたのですが、なんだか縁がなくて読めなかった)
シャーウッド・アンダソン「ワインズバーグ・オハイオ」
(マーク・トウェインとヘミングウェイ、フォークナーらの世代を結ぶ作家だとか)

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テーマ:読んだ本。 - ジャンル:本・雑誌

尾道友愛山荘ものがたり(5)
 <第一話>タムちゃんと尾道 その五

 夕闇が迫り千光寺の中腹から望む。
向島のはるかかなたに、陽が沈んでいく。
雲のふちを黄金色に染めながら、広大な夕焼けがひろがっている。
小さなビルや市役所の建物が茜いろに映える。黒い影へと姿をかえた鳥たちが横ぎっていく。
西國寺の鐘がたそがれの町に降り積もる。
空の一角には、はやくもきらりと光る星がある。
夕景の尾道の町をながめているうちに静寂がみちてきていた。

 夏の夜には、宿泊のホステラーをよく誘ったものだ。
夕涼みをかねて千光寺境内へと散歩にでかけよう。
外灯の薄明かりのなかを、三々五々にかたまりながら階段をのぼる。
がやがやとにぎやかにしゃべりながら歩いていく。
 顔がはっきりとは見えない気安さからか、会話もくだけた調子になりがちだ。
どこから来たのか、明日はどこへ行くのか。
話し声が夜の千光寺公園にこぼれ落ちていく。
会話も途ぎれがちになるころには、千光寺の大岩にいきついている。
眼下には尾道の町がきらきらと輝きながら東西に長くのびる。
欄干にもたれ、ほほをかすめる風を感じる。
それぞれが思いのなかに埋もれていく時間だ。
 闇は人を不安にすることも、こころ落ちつかせることもある。
影のなかで静かに息をひそめていると、こころが解放される。
むかしのことが猛烈なスピードで脳裏をかけめぐりもする。
人生いいことばかりはない。にがい思い出ばかりでもない。
これからさき、いったいどこへ行けばいいのか。
 帰ろうかというころには、昼間の疲れのせいかみんな眠そうな顔だ。
おおきく背伸びをして帰り道へと向かうなか、闇の底から汽笛が聞こえてくる。
どこへむかう列車だろうか、思わずみんながふりかえる。
ひとときこころ残しつつ、旅人たちは今宵の宿へともどっていく。
 深夜になっても蝉は鳴くことをやめない。短い一生を知っているかのようだ。
若者たちに思いを伝えたいかのように、鳴きやむことはない。

 星空を見上げながら思いにふける。
「ねむの木の葉のように、ただ今は眠ろうよ、別れても離れても、夢ならば会えるもの」
小さく低く口ずさみつつ、思いをはるかかなたへと馳せれば胸があつくなる。
 夢のなかでのできごとは、すべて楽しいものばかりではない。
こころ落ちつかない感情に満たされ、不安をおぼえる暗示的な物語だったりもする。
不思議の感情をこころの底に残してゆくものもある。
明と暗の斜面を、果てしないシュプールを描きつついくこともある。
 夢のなかで楽しい思いをすることはあまりない。
しかし、夢には希望をかなえてくれるものがきっとあるはずだ。
なぜかしら、そんな気がすることはたしかなのだ。
 眠りは人になにをもたらしてくれるのだろうか。
念仏のように「極楽、極楽」といいつつ眠りにつく老婆を忘れられるはずもない。
眠りによってひらかれた扉の向こうへと敢然とすすんでゆくだけだ。

 尾道は文学の町といわれたりした。
林芙美子や志賀直哉がひとときこの地に住んでいたことがあるという。
千光寺山頂からくだる小径のそこここに、歌碑や句碑なぞが点在している。
町もこぢんまりと落ちついたたたずまいだ、といったところ。
市民が文学に深い造詣をいだいているから、という訳ではないらしい。
林芙美子はともかくも、志賀直哉なぞくだらん、と思う人もいるかもしれん。
何故、漱石や鴎外のゆかりの地ではないのか、と歯噛みしているかもしれない。
 山からすぐに海へと滑り落ちているような狭い土地にやたらと寺が多い。
これはこの地に住む人々が信仰深きゆえなのだろうか。
いろんな宗派の寺が乱立しているということは、宗教的寛容を町自体で示しているのか。
 都会は住む人にとって、喧噪渦巻くワンダーランドである。
潮の香にみちた尾道は、旅人に対峙する時空降り積むワンダーランドである。
旅人はいにしえへと迷いこみ、忘れかけていたものと出会う。

4884千光寺眺望

尾道友愛山荘ものがたり(4)
 <第一話>タムちゃんと尾道 その四

 タムちゃんはボンヤリと畳一畳はあろうかという窓から海を眺めていた。
考えごとをしているふうではなく、なにかを凝視している様子である。
ぼくたちには見えないなにものかを観ている。
まわりの騒ぎにはいっこう注意もむけずに、観ている。
ときおり、眼鏡の奥の眼がまばたきをするだけだ。
こちらに向きなおったときには、表情はいつもの人なつっこいものに変わっていた。
 美味そうにいかなごの煮つけを食べるタムちゃんは、とても幸せそうだ。
こちらまでが思わず微笑んでしまう表情をみせて、魚を食いビールを飲む。
ちょっと格好をつけて、おおげさな身振りで煙草をすう。ひょうきんな笑顔をみせる。
そんなにしゃべってはいないのに、おおいなる存在を感じさせる。
タムちゃんは全身で、俺は生きているのだと表現していた。
青春のまん真んなかを生きている。
陽光はまばゆいばかりに輝き、季節は初夏をむかえていた。
 土地のおじさんおばさんなぞと混じって飲んだり食べたり笑ったり怒ったり。
生きることに肩肘をはらないでいられる、そんな時間が楽しい。
 しかし、ぼくたちはここ尾道の生まれではない。一生この土地で生きるわけでもない。
旅人でしかないという思いが脳裏を去ることはない。
そんなぼくたちに、にっこりと微笑んでビールを注いでくれるおじさんがいる。
若いんだから、どんどんやれよ、しっかりしろよ、と声をかけてくれる。
だけど、どうすればいいかは、いっこうに分からないのだ。
最初の一歩が、なかなか踏みだせない。
どちらに足を踏みだせばいいんだろうか。
薄明かりが見える方角へ向かうしかないのだろう。
 歩いているうちになにかが見えてくる。閃くものがあるかもしれない。
じっとしていたって、何ほどのことはない。
湧いてくる力があるかぎり、先は見えなくとも歩き続けよう。
きっとすてきな人に出会える、そんな気もしてきた。

0007海岸沿い

 歩いていると、都会にはない潮のにおいがする。
海を近くに感じられると、なぜだかこころがやさしくなっていく。
平明な気分にもなれるから不思議なものだ。
都会でくらすとき、気がつくと速足になっていた。
先へ先へと急ぐような、誰かにせかされているような気がしたものだ。
変に時間感覚が鋭くなるというのだろうか。頭のなかでは、いつも急げ急げという声がする。
それでも、どこかにたどり着くということはなかった。
 いたるところから向島への渡船がでている。
通勤客や学生をいっぱい乗せて、なめらかに海をすべっていく。
人が大勢乗っていても、都会の満員電車とはどこかちがう。
聞こえてくるのは方言にいろどられた、なつかしいような声だ。
意味を聞いてはいない、メロディに抑揚に脳をゆだねるのだ。
一瞬のときにも、悠久の物語がつむがれてゆくようだ。

 いつしかアーケードは途切れ、しもた屋が並ぶ一角になる。
やや傾いた日射しの照りかえしで、じんわりと汗がにじんでくる。
「たこ焼きでも食べようよ。ここのは美味しいらしいよ」
「かたちが釣鐘型になっているらしいよ。おまけに、大きいし、安い」
「尾道名物というわけか」
「そうでもないだろうけど、知る人ぞ知るという訳ですね」
「たこ焼きと、ビールをください。で、みんないいね」
「一同、異議なし」
「ハッハッハ」
 国道脇の狭い店内で、関西のたこ焼きとは一味違うたこ焼きをほおばる。
汗をかきながらビールを飲み干し、またぼくたちの旅を人生を続けていくのだった。

尾道友愛山荘ものがたり(3)
 <第一話>タムちゃんと尾道 その三

 にぎやかで、なごやかな雰囲気のなかでも、ふと人は考えこんでしまうものだ。
幸せな気分はいつまでも続かない。
人はひとりでは生きられないからといって、いつもいっしょにいるということはできない。
いつかはそれぞれに、それぞれの人生を生きていかなければならない。
それがわかっているから、みんなといるときが楽しいのだろうか。
 考えはおなじところをぐるぐると巡っては果てることがなかった。
メビウスリングを旅するように、おなじところを死ぬまで歩き続けるのだろうか。
ミュラー・リヤーの矢羽根に幻惑されて、めまいを起こしそうだ。
そんなこととは無関係に、時はとどまることなくすぎてゆく。
 商店街のアーケードの下で、さてどちらへ向かったものかと思案顔になる。
まばらな人の流れがこころを落ち着かせてくれる。
いつしか道は海岸沿いへとつながっていた。
 のれんをくぐって薄暗い店内にはいる。
しばらくは異次元に迷いこんだような感覚におそわれる。
ここは「まるも食堂」である。
だが、爺さん婆さんの話し声ですぐに現実にもどされる。
窓際に腰を落ちつければ、やっと一息つける気分になれた。

0026路地

「タムちゃん、ビールでも飲もうか」
「そうだねムッシュ、最高ですね。人はパンのみにて生きるにあらず、ということです」
 すかさずユーゾウ君が、
「それは、ちょっと文脈がちがうのじゃないかな。変やわ」
「ユウちゃん、堅いこといわないの。人はビールゆえに生きるにもあらず、だけどね」
 業を煮やしてサンペイが、
「へ理屈ばかり言っていないで、ビールを飲みましょうよ。
ぬるくなってしまいますよ。とにかく乾杯」
「サンペイ君は、見かけによらず常識人やなあ。
そんなことばかり言うてたら、女の子にもてへんで」
「そうしたらなんですか、変人が女の子にもてる、いうことですか」
「おっ、サンペイ君は鋭いねえ。女性は危険なにおいのする男性に魅力を感じるものだよ。
現代女性は平凡な男には飽き飽きしている、とわたしはみたね」
「でもムッシュ、危険なかおりのする男と変人では、180度方向が反対なんじゃないですか」
「そう考えることも可能です。
しかし、サンペイ君は納得できないだろうけど、そうばかりはならないのが人の世の不思議なのだ」

 とそのとき、店にいた男たちが老いも若きも、いっせいに入り口に注目した。
そこにはまばゆい光を背にシルエットとなった若い女性が立っていた。
顔は見えないが、なぜだか美しい人だと誰もが思った。
つぎの瞬間、その女性はきびすをかえして立ち去ってしまった。
全員唖然とした面持ちでゴクリとつばをのみこんだ。
「いまのは誰だい、おばさん」
「さあ、見かけん人だねえ」
「でも、きれいな人だったなあ。どうして帰ったのかなあ」
「そりゃあわからんけど、恥ずかしかったんじゃろうなあ。
いい男がこげにようけおるからかいのう」

尾道友愛山荘ものがたり(2)
 <第一話>タムちゃんと尾道 その二

 尾道友愛山荘への扉は、先生の「どこから来なさったのかねえ」の言葉で開かれる。
旅行者は穏やかな表情をした氏の風貌になぜか安堵を感じるのだ。
また、ときに厳しいその横顔に人生の求道者を観るのかもしれない。
それが多くの若者のこころを尾道へ、友愛山荘へとみちびくのだろう。
安穏だけの人生はつまらない、と若者は直覚している。
 この山荘の受付裏には四畳半くらいの小部屋がある。
夜になると、どこからともなく人が集まってくる。
誰いうことなく、ささやかな宴の準備がなされていく。贅沢なものはいらない。
残り物でもよいのだ。でもこれが美味い、と思うのが若者たちなのである。
夕食のサラダの残り、とんかつの余りもの、なんでもかまわないのである。
 狭い部屋ながら、いつも多くの若者をのみこんでいる。
押し入れもときとして観覧席になる。
眼下に繰り広げられる麻雀ゲームを観戦するためだ。
くっつきあって過ごす数時間が若者たちにはここちよい。
人は決してひとりでは生きられない。肌のぬくもりは、ひとにこころの安定をもたらす。
母親にだかれていたときの記憶がよみがえり、こころやすらかになれるのだ。
 だが、このような空気のなかででも孤独を感じるときはある。
タムちゃんはときおりタバコをふかしながら、そんな横顔をみせる。
黙して語らずではないが、静かに喧噪のなかに身を置きたいときもあるものだ。
つと眼があうと、彼は静かに微笑む。ぼくも微笑みを返す。彼はニヤッと笑う。
ぼくもつられて思わず笑いだしてしまう。
まわりの誰もがわけもなく笑いの渦にひきこまれてゆく。
この部屋はなんともいえない幸福感に満ちている。
にぎやかな笑い声とともに夜は更けてゆく。

 朝は知らずに明けている。どうも苦手であるからして、先生やヒロちゃんたちにまかせておこう。
でも朝飯だけは食っておくかとギリギリ計って起きるのだ。
朝食後の掃除のころになれば頭はすっきりとしている。
きょうもいちにち音楽のなか、元気でいこう。
 自由な時間は山を下りて町にでよう。
階段が続く山径は景色をながめるもよし、ワイワイガヤガヤとしゃべりつつゆくもよし、
はたまた、夢想に耽るのもいいだろう。
 川かとみまがうような尾道水道のむこうに、島々がうっすらともやのなか横たわっている。
高いところから下界を見渡すのは気分のいいものだ。
ひととき浮き世の憂さを忘れてしまう。
長い人生いろいろあるさ、と思う若さをぼくたちはもっている。
あっというまにアーケードの商店街だ。どこかでコーヒーでも飲もうか。
時間はまだたっぷりあるぞ。
 間口の狭いドアからほそながい廊下をくぐり抜けると、コーヒーの薫りただよう店内へ。
「トム」という名の落ち着いた店である。
先生のお気にいりの店だ。
 なんとはない話題のうちに、ここで写真を撮ろうということになった。
ちょっと気取って、グラビアに掲載できるような写真にしてくれよ。
みんなすまして、かっこうつけて椅子にもたれかかる。
ちょっと横顔が写る角度がいいだろうか。雑誌を手にしたほうが、しぶいかな。
がやがやと騒々しい。
 そんなだっただろう一枚の写真が残っている。
青春のもろさがうかがえる懐かしい写真だ。
でも、たしかにそうした時間を過ごしてきたのだ。

TOMにて

尾道友愛山荘ものがたり(1)
 <第一話>タムちゃんと尾道 その一

 タムちゃんが病気で亡くなってからもうすぐ丸十三年になる。
ときおりMに会うと、彼の話がでる。

 彼がサイクリングで北海道を旅行していたときにMの実家に泊った。
翌朝にはおにぎりを持たせて、元気に出かけていった。
母親が夕方帰ってくると、玄関近くでタムちゃんがまっていた。
どうしたのというと、お腹が痛くなって戻ってきたのだという。
もう一晩泊めてあげたけど、ずっと待っていたのかと思うとおかしくってね。
いい子だったよね、といまでも憶えているそうだ。

 ぼくが尾道友愛山荘ではじめてタムちゃんと会ったのはいつだったろうか。
なぜタムちゃんと呼ばれているのかも、いまでははっきりと思いだせない。
 彼の風貌は怖そうというのではない。優しそうにもみえない。愛嬌のある、というのがちかいだろうか。
じんわりとこころの温かさが伝わってくるような気持ちになれる。
わたしの興味はあなたをもふくむ森羅万象に向かっているのです、とでもいう雰囲気をかもしていた。
 タムちゃんは愛を観念だけではなく、実感として体得したいと思っていたのだろう。
考えて悩んで、さらに考えぬいてまた思い悩むのが青春だ、と思っていた世代である。
しかしながら、平生はのんきに明るく楽しくしていなくてはならない。
けっして、他人に気取られてはならない。

0030尾道城

 ときに夜になり、酒などのんでいるとこんな話になることもある。
「ムッシュ、愛とは愛するとは、どういうことなのだろうね」
「もし誰かを好きになったのなら、それは素晴らしいことだと思うね」
「でも、ぼくにそんな資格があるかな」
「資格の問題なら、誰にもあるとかないとか言えないね。
そんなことより、その気持ちに正直に生きたいものだ。そう思わないかい」
「そうだね。でも、そうすることってとてもむずかしいよ」
「誰だってそうだろうけど、自分が傷つきたくないと思うのだろうな。
行動する以前に結果を考えてしまう。それも、うまくいかないほうに」
「どうすればいいのだろう」
「これだという答えは多分ないんじゃないかな。
乱暴にいえば、とにかく行動を起こしてみろ、結果はおのずとついてくる。
それから考えろ。なにもしないでグダグダ言うな、というような感じかなあ」
「そうかもしれないね。失敗や挫折のない人生なんてないよね。
あると考えていたら、それこそおかしいよ」
「だけど、なかなかそう考えられないのが人生の現実だ。
焦ることはないのだろうけど、認識している必要はあるんだよ」
「ああ、苦しいなあ。それに、とてもやるせない」
「人は悩み苦しむことによって成長してゆく、とはいうけれどか。
こんなことわかっていたからって、なんの助けにもならないからなあ」

 こうして尾道の夜が更けていくこともあった。悩む若者にとっては果てしなく長い夜だった。
こうした青春の光景が日本中いたる所で起こっている、そう思えるような時代だった。
 楽しいことの対価には、必ず苦しむことが必要である。
苦しまなければ、どれほどの真理にたどりつくことができるだろう。
そう考えることが、当然の時代でもあった。
しかし、苦しいばかりというのでもない。案外と、気楽な風も吹いているのである。
 金儲けなぞは気にしなくてもよい。
そんなことは、どうとでもなるものだ。
ほかに考えることは山ほどある。
経済的な問題は卑小である。
特に個人的な問題は、といった気持ちだ。貧乏は勲章だ。
あえて、そのように振る舞う者さえいる。
 このような時代のなかで、タムちゃんやぼくたちは生きていた。
目を輝かし口角泡を飛ばして、時空間の旅をしていたといえるかもしれない。
愉快なるかなわれらが人生、なのである。
ほんとうにこころの底から楽しかった。

尾道友愛山荘での日々
ときどき思いだす。
ベッドで頭のうしろに手をくんで天井をながめながら思う。

あのとき、ああしていればどうなっただろうか。
そのときはどうってことなかったのに、いまになってその意味に気づくとは。
後悔ではないんだけど、ちょっぴりしんみりするよな。

若いころのことは宝だなどと言う奴もいるが、そうかなあ。
ぼくなんか、哀しいことのほうが多かった。
そう思うのはひっこみ思案だったせいかもしれない。
そんなことないだろう、けっこう言いたい放題だったじゃないか。
明るくてにぎやかな性格だったろう。

そう思われているだろうことはずっと知っていた。
でも自分の気持ちのなかでは、いつもなんだかちがうなって。
みんなといるときもそうだが、女の子とふたりきりになったりしたら大変だった。
沈黙の時間がすこしでもあると、こわいというか、気づまりだったんだな。
いま考えると、なんて莫迦な奴だろうと思うけどね。
ただ単に沈黙を破るためにしゃべって、そんな自分がまた嫌になった。
静かに話しあうということができない自分がいて、ほとほと疲れはてたという感じ。

どちらかというと、人づきあいが苦手だったんだ。
リーダーになりたいとも思わないし、なれよといわれる雰囲気になることをおそれた。
だからなのだろうか、落ちついてまじめに話すなんてことができなかった。
うけをねらった話ばかりして、それでうけなかったりすると冷や汗が背中をつたった。

そんなころを思いだしながら、尾道友愛山荘ユースホステルでのことを書いてみよう。
いつもいってるのだが、ヒトの記憶は実際とはかなりちがっている。
何人か集まって昔話をしてみればよくわかる。
えっ、そんなことあったっけ。
それはちがうだろう、ほんとうはこうだったじゃないかなどなど。
ヒトは自分に都合のいいように記憶を操作する(無意識に)ものだから。
あるいは、つじつまがあうように(もちろん自己なりに)変更・修正することに躊躇はない。

0033尾道水道

つまりこれはフィクションだという宣言をさせていただく。
(もちろん、無からはなにも生まれない、と言うべきかなあ)
(ノンフィクション、現実の出来事だったと誤認してはいけない)
ついでに登場人物もAとかBにするのもわずらわしいのでやめる。
(実在の人物だと思って読むのもご自由だが、抗議をうけつける気はないのでご了承を)
(と、なんどこういっても分からない人がいることも承知いたしております)
(逆にほんとうにあったことなんだ、と感じる人がいれば成功したということかな)

という前置きのあとで、「尾道友愛山荘ものがたり」をすこしづつはじめてみよう。
(飛び飛びの掲載(?)になると思われますので、通し番号をふっておきます)

心象風景
宮沢賢治が好んでつかった言葉であり、
こう表現するしかなかったのだろう。

詩を書くというようなことではなく、
こころに映っていることばを写生する。
おなじように音も聞こえ、色も見えていたのではないか。
そんなふうに思われてならない。

ある種の人は数字をみたり音をきくと、
そこにありありと色を感じる。
比喩とかといったことではなくて、
現実としての色が見えていたのである。

シナスタジア(共感覚)とよばれる現象である。
(宮沢賢治がそうであったかどうかは知らないが…)

ちょっと変な例になるが、フェティシズムをご存じだろうか。
性的倒錯のひとつで、物や人体の一部などに性的魅力を感じる。
極端な場合など、女性の足にしか性欲をいだけなかったりする。

変態だからでは、なぜそうなるかの説明にはならない。

脳機能マッピング図をご覧になったかたはすぐ気づくと思う。
性器と足指、足、脚部はお隣同士に位置しているのである。
ちょっとした誤配線、混線があれば…。

いろんなヒトがいるのだということ。
自分がいま見ているものも、他人にはまったくちがって見えているかもしれない。
文化がちがえば、嗜好(思考もかな?)もちがうものだと認識していなくてはならない。
オスとメスの生存戦略にちがいがあるのはいうまでもない。
だが、ちがいがあるからまた興味もわいてくる、ということもないではない。

なんだか論旨が迷路にはいりこんだようだが、人生も迷路のようなもの。

01786ファサード

海辺の読書
海からの風がふいて、テーブルのうえで文庫本のページがぱらぱらと音をたてた。
コップのなかのビールは泡がすっかり消えて、黄金色の液体になっていた。
それでもときおりうかんでくる水泡につかまっているゴミムシが、つかのまみえた気がした。
いつのまにか眠っていたのだろう、まぶたにうっすらとやにがついて目があけづらい。
おまけに水面に反射する光がよけいにまぶしさを感じさせた。
たしかによびかける声を聞いたと思ったのだが、あれは夢のなかでのことだったのだろうか。
あたりをみまわしてみても、シンとしてだれもいないようだった。
洗面所で顔をあらって、つと鏡をみたら右頬に木目模様がくっきりと刻印されていた。
思わず笑い声をあげたところで、その声におどろいてすっかり眼が覚めた。
だが、これではたしてほんとうに目覚めているのかどうか。
しばらくは、ぼんやりとした頭でよるべなく海をみていた。

6556芝桜&蝶

「奥山准教授のトマト大学太平記」 奥本大三郎 幻戯書房 ★★★
とある独立法人となった元国立大学に勤める奥山萬年准教授がこのものがたりの主人公である。
名前から、「万年准教授」と渾名される奥山先生だがいっこう気に病むところなどない。
しかし、学生に対しては遠慮がない発言で知られている。
たとえば、こういうぐあいに。
『「地球に優しく……」
「バッカモン。人間のごとき、滅びようと何をしようと地球に関係あるか。地球さんは何とも思っとらん。
人間の構造物なんて、地球にしてみれば、モチの表面に生えたカビよりもっと薄いものなんだから。
人間が滅亡して数百年もすれば、街路樹の根が大きく育って道路の舗装なんかは粉々になるし、
建物はたいてい崩れて鳥の巣かなんかになる。河川も山も元に戻って綺麗になるだろうよ。
まして一億年も経ってごらんよ」』
ではあるが、学生を集めて飲むのはすきなのだ。こんな講釈もある。
『それより君たち、シンポジウムということばの語源を知っているかい。
syn-が〝共に〟で、後の部分は、ギリシャ語の〝酒を飲む〟pineinという動詞から来ている。
つまり〝一緒に酒を飲む〟ということ。古代ギリシャの〝酒宴〟〝饗宴〟ということだ。
〝論文集〟という意味もあるそうだ。議論するには酒がなければならないんだがなあ。』
といまどきこんな先生が大学にいればなあ、と思わせるようなお話なのである。

「私家版・ユダヤ文化論」 内田樹 文春新書 ★★★★
だれもがいちどは思ったことがあるのではないだろうか、ユダヤ人とはだれのことをいうのだろう。
すこしばかりの本を読んだが、いっこうに要領をえない。
それでもどこかにそんな疑問が残っていて、やっぱりまた知りたくなって読んでみようかと思った。
では内田氏はどうユダヤ人をとらえているのだろうか。
『第一に、ユダヤ人というのは国民名ではない。』
たとえば、『イスラエル国民の二〇パーセントはイスラム教徒であるから
イスラエルは厳密な意味では「ユダヤ人の国」ではない。』、そういうことか。
『第二に、ユダヤ人は人種ではない。』、まあなんとなくそう思っていた人が多いのではないか。
『第三に、ユダヤ人はユダヤ教徒のことではない。』、ここらあたりから、うーむとなってくる。
『ユダヤ人は「ユダヤ人を否定しようとするもの」に媒介されて存在し続けてきたということである。
言い換えれば、私たちがユダヤ人と名づけるものは、
「端的に私ならざるもの」に冠された名だということである。』
『私たちは、ユダヤ人と非ユダヤ人を対概念として社会を区分する習慣を持った文明の中に生きている。
つまりユダヤ人というのは、すでに私たちがそれなしには世界を分節できないような種類の
カテゴリーなのである。』、これはどういうことかというと、
『使える言葉がそれしかないので、(うまく定義できない言葉であることを分かっていながら)
仕方なくそれを使うしかない言葉というものが存在する。
「男と女」がそうであるし、「昼と夜」もそうだ。私たちはその語を毎日のように使っているが、
改めて、「昼」そのもの、「夜」そのものを、厳密に定義せよと言われても、そんなことは誰にもできない。
私たちは、「昼」を「夜ではないもの」として、「夜」を「昼ではないもの」として差異化する因習のうちに
脱け出しがたく嵌入しているからである。』
やはり明解な答えはなかった、というかそういうことではないということがぼんやりとわかった。

「桜もさよならも日本語」 丸谷才一 新潮社 ★★★★
日本語については、いろいろと思うところが多いでありましょう丸谷氏の舌鋒はするどい。
そして国語の教科書の中身の貧しさ(?)を実例をあげて嘆くのである。
例としてあがっているのは、東京書籍『新しい国語』中一の『春の岬に来て』。
『 明るい春の岬のながめは
  ごちそうのうちのひとつだ
  潮の風と花のにおいにつつまれて
  いっそう心がふくらむ

  心をふくらませているのは
  旅のわたしたちばかりではない
  バレリーナーのちょうもしま模様のはちたちも
  春のパーティに酔っている 』
この詩を読んでどう思われますか。丸谷氏はこういう。
『発想は陳腐で下品である。言葉の選び方はいちいちぞろつぺえである。
そして「バレリーナー」と延ばすのは、日本語としても英語としてもイタリア語(これが本家)としても
間違ってゐる。無理をしてこんなものを選ばなくちゃならないくらゐ、現代日本の詩は貧しくないはずだ。
つまりこれによって言へるのは、教科書編纂者たちがよほど詩がわからないか、日ごろ詩に親しんで
ゐないか、あるいはその両方か、まあとにかくそのへんだといふことだらう。』
好例もあげておられますので、日本語について考えたい方はご一読されるのがよかろう、かと。

テーマ:読んだ本 - ジャンル:本・雑誌

虫たちの季節
気温があがってきて、庭のようすにも変化がみえてはじめる。
冬のあいだにすっかり葉を落としたもみじ類も新紅や新緑におおわれてきた。
それにともなって虫たちの活動もめだってくる。

6560庭のツツジ

ささやかながら庭の一角に野菜の苗をうえた。

ししとう、ぴーまん、きゅうり、とまと、なす、それにゴーヤ。
さて今年はどのように育ち、実をつけてくれるのだろうか。

虫たちと野菜、興味深い季節はこれからだ。

では、どう生育(あるいは枯れる)してゆくのか、定点観測してみよう。
(これは五月六日に、二階ベランダから撮ったもの)

6558定点観測05.06

ひと月経ったら、またどのようになっているのか報告いたします。

植花夢訪問記
連休のあいだでこの日がいちばん天候がいいだろうとねらいをさだめる。

かねてよりいちど行ってみたいとかみさんがいっていた「植花夢」(ウエルカム)。
名前からわかるように、ガーデニング関係(?)のところらしい。
宝塚の山あいにあるということでナビ設定してでかけていった。

建物にはいるとボックスがあり、入園料は500也、各自でいれてくださいという自由スタイル。

さてどちらから歩いていったものやらと思っていると、ご主人があらわれた。
いらっしゃい、まあコーヒーでもいっしょに飲まないですかとおっしゃる。
その気さくさに同調して、遠慮なくいただくことにする。
(コーヒーカップの横にみえるのは、「つくばね」)
(空中にほうりなげると、竹トンボのようにくるくると回転しながら落ちてくる)
(羽子板でつかう羽根の原型になったものだとか)
(美味だそうで、京都の高級料亭二万円以上コースならついてくるでしょう、とはご主人の言)

01793つくばね

いろいろと園芸関係のお話をうかがうが、ほとんどちんぷんかんぷん(というかうわの空)。
ではありますが、この庭というか山あいの敷地はいいですねえ。
池がところどころにあり、夏になるとさぞかし蛙の鳴き声でにぎやかなことだろう。

01829池

花には蜂、はやくもトンボが舞う、であるからしてすっかり気にいりました。

01808ハチ

木陰のベンチで持参したパン類などたべながらランチタイム。
そよふく風がここちよくて、これでビールがあれば…。

01819ベンチ

人生には楽園が必要だ、とかいうがこういうところがそうなのかもしれない。
もちろんガーデニング命的人生観のひとにかぎられるだろうが…。

01842アジサイ

靴下の履き方
立ったままで靴下がはけなくなったら、引退のときだ。

なにかの記事でこういうことを読んだ。
たしか、プロ野球選手の発言だったと思う。

だが、そんなに低いハードルで引退するのかと驚いた。
というより、その若さで(三十代、四十代で)立って靴下もはけなくなるのか。
いや、五十、六十代になってもやっていけるという自信の裏返しなのだろうか。

スポーツはバランスが大事なんだ、ということが言いたいのか。
体力だけじゃないよ、と強調したかったのかもしれない。

ではふりかえって、私はそんな姿勢で靴下がはけるのか。
と考えたとき、いままでそんなことを意識したことはなかったと思いいたる。

ということで、ある朝、立ったままで靴下をはいてみた。
おみごと、ふらつきもしないで、なんとかはくことができた。
(なんとか、というところがやや心情を吐露している)
(だけど、五本指の靴下はちょっと無理だよな)

ときどきは試してみて、バランス感覚をみてみよう。
だけど、できなくなったときにはガックリするのだろうか。
考えると、やや複雑なきもちにはなるのである。

世のなかの標準的なところはどこにあるのか、もすこし気になる(笑)。

6458庭のチューリップ

城崎温泉にて
ということではないが、連休前の金曜日から一泊で城崎温泉へ。

クーポンサイトで安く泊まれる宿をみつけた。
到着して、さっそく外湯へでかける。
うれしいことに外湯めぐりのチケットもいただけた。
(一湯あたり600円から800円もするから、ありがたいものだ)

6474城崎温泉

そうたくさんもいけないが、今回は三湯をめぐる。

まず「御所の湯」そして夕食後に「一の湯」。
翌朝には「鴻の湯」とまわって、いい湯でありました。

6478御所の湯

6466一の湯

6497鴻の湯

やはりひろい温泉にゆったりつかるといい気分になる。

6511一番札



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島を旅するときが楽しいですね。
遠くに眺めるのも好きです。
楽園なんてないんですけどね。

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