ムッシュの読書紀行
人生は旅のようだと言いますが、旅が人生かも知れません。 ぼくは活字中毒気味でもあり、旅はまだまだ続くでしょう。
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阿修羅
仏教の八部衆のひとりである阿修羅(修羅もおなじ)のことである。
また仏教で六道(りくどう)とは、迷いあるものが輪廻するという六種類の世界のこと。
天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道をいう。

向田邦子の作品に「阿修羅のごとく」というのがありました。
人間にもなれず、といって畜生までは堕ちていない迷いにみちた世界に生きるというのでしょうか。
ジョージ秋山の漫画にも「アシュラ」というのがあり、いろんな意味で話題にのぼりました。

宮沢賢治の詩集に「春と修羅」というのがあります。
その序にこう書かれています。


  わたくしといふ現象は
  仮定された有機交流電燈の
  ひとつの青い照明です
  (あらゆる透明な幽霊の複合体)
  風景やみんなといつしよに
  せはしくせはしく明滅しながら
  いかにもたしかにともりつづける
  因果交流電燈の
  ひとつの青い照明です
  (ひかりはたもち その電燈は失はれ)


ここには仏教的な輪廻思想があるようです。
それと理系の思考、感受性がうまく組み合さっています。
この青い照明はLEDを思わせるところがあり、ほのかに光るが熱は発しないという感じ。

はかない生を実感せざるをえない、でもすきな詩です。

N1503イルミネーション

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悪口の意味
人と人とのつきあいは、なかなかにむずかしいことがおおい。
そんなことがわずらわしく、苦手意識もあってか個人的なつきあいには消極的だった。
もちろん気があう友とはそんなこともないのだが、いきおいひとりで旅をすることになった。
だから飲むのもおおむねひとり、もちろん黙って呑むのであった。

いまさらながらに、そんな思いがあるのだが。
だからか読書中にそういうことが書かれていると、つい気になる。

『では、交わりがうまくいく場合の心掛けは何か。
ひとつは金銭の問題である。
それなら割勘で万事が片づくと考えるのは間違いである。
それは完全な平等や友人の場合に限る。
しかし友人にたまたま何かよい事があって、今日は俺が奢ってやろうと意気込んでいる時に、
折角の気持ちをピシャリと遮るような無神経は宜しくない。
そしてもちろん先輩や師筋の人には、喜んで御好意に甘えることもまた礼節である。
そのかわりに何かの方法で恩返しをする心得を忘れてはならない。』

おっしゃることはようくわかるのだが…。
自分の都合のいいような解釈は戒めなければならない。

『もうひとつ、河盛好蔵は、人の悪口を言うことは、
人とつき合う上において、必要欠くべからざるエチケットである、と注意する。
私たちは悪意からのみ人の悪口を言うとは限らない。
それどころか、悪口が友情の表現である場合がしばしばある。
それから、決して人の悪口を言わない人間は信用できない。
悪口は人間関係のなかに生じる最も自然な衝動である。
そして自分に対する悪口には進んで耳を傾ける余裕が大切であろう。』

たしかに、人をほめるのはだれにでもできる(ような)気がする。
しかし悪口は肝を据えてなければ言えるものではない。
ただし、ご注意いただきたいのだが、悪口と陰口はちがうものである。
本人を目の前にして悪口が言えたら、たいしたもの(?)。

などと考えたりする昼下がりである。

N1531二羽のメジロ

註 引用はすべて、「書物耽溺」 谷沢永一 講談社刊より

読む
読むといえば、ふつうは本や新聞などに書かれた文字を読むことをいう。
しかし、相手のこころのうちを読む、などとつかわれたりもする。
将棋などゲームでは、何手先を読むなどとつかわれることもある。。
こう考えてみると、読むと予測するとはほとんど同義であることがわかってくる。
だから読み間違うということも、しばしば現実にはおこってくる。
実際に本を読んでいて、この作者はなにがいいたいのだろうと感じることはしばしばである。
論理の組み立てというものが一方向のみであるならば、すべてが同一地点にいたるはずだ。
だが現実は、しばしばそうならないということを教えてくれる。
読むことひとつとってもそうなんだから、と読めない悩みにばしばぶつかる日々である。

4833比較行動学

「真鍮の評決」上下 マイクル・コナリー 古沢喜通訳 講談社文庫 ★★★★
マイクル・ハラーは、リンカーン弁護士とよばれている。
そのわけは、決まった事務所をもたないですべて車(リンカーンが三台)のなかで仕事をするからだ。
あるとき、ホルダー判事から即時出頭命令がでた。
でむいてみると、ジェリー・ヴィンセント弁護士が殺されたという。
彼はハラーを次席者に指名しており、彼の業務を引き継ぐことになった。
そのなかの一件にアーチウェイ・スタジオのチェアマン、ウォルターエリオットの裁判があった。
彼は妻とその恋人と思われる人物を殺害した容疑をかけられていた。
アメリカでは日本とはちがって、陪審員裁判である。だから裁判とはハラーの言うようなものになる。
『人はみな嘘をつく。
警官は嘘をつく。代理人は嘘をつく。証人は嘘をつく。被害者は嘘をつく。
裁判は嘘のコンテストだ。そして法廷にいるだれもがそのことを知っている。』
さて裁判はどのように進んでいくかについては本書を読んでもらうしかないのだが…。
その過程で、ボッシュ刑事(別シリーズの主人公)が登場したりして豪華なものになっている。
さすがの伏線、どんでん返しなどあり、あっというまに読んでしまったというのが正直な感想である。

「脳と心の正体」 W・ペンフィールド 塚田裕三/山河宏訳 法政大学出版局 ★★★★
ワイルダー・ペンフィールドと聞けば、脳に興味のある人ならば誰でもが知っている。
てんかん治療で開頭したときに、脳を電極で刺激すると鮮明な記憶がよみがえることを初めて知った。
脳神経外科医であった彼はこのときのことをこう記している。
『こうしたフラッシュバック現象をはじめて意識のある患者の口から告げられたとき
(一九三三年)、私は自分の耳が信じられなかった。
その後も、同じような例にぶつかるごとに私は驚異の念に打たれた。
たとえばある母親は、私の電極が解釈領に触れるやいなや、自分は台所にいて、
庭で遊んでいる小さな息子の声に耳をすましているのに気がついた。彼女には、
息子に危険をおよぼすかもしれない近所の物音、たとえば走り過ぎる自動車の音なども聞えたのである。』
記憶は脳のある場所に刻みこまれているということを示しているのだろうか。
そして、彼はその後も多くの患者の脳を電極で刺激して今日でも有名な脳マップの基礎をつくった。
脳と記憶との関係は、脳をモジュールとして考えるべきものなのだろうか。
まだまだこれからの脳科学の成果に注目してゆくほかないだろう。
しかし、その先鞭をつけたのは確かにペンフィールドであったというしかない。

「雪は汚れていた」 ジョルジュ・シムノン 三輪秀彦訳 ハヤカワ文庫 ★★★★★
ドイツ軍占領治下の一地方都市でのことである。
十九歳のフランク・フリードマイヤーは毎晩のように占領軍黙認の酒場「チモ」に通っていた。
母親のロッテは自宅アパルトマンを売春宿として経営していたからお金に困ることはなかった。
そんな生活からフランクは鬱屈した心情をしめすような暗い眼差しをした青年になっていた。
『太陽がまた姿を現わした。そして大地は陽気に凍りついていた。
新しく降った雪はまだ汚れる暇がなかった。いくらかの地区では、
市役所にやとわれた失業者たちが、まだ歩道沿いにきらきら光る雪の山をつくっていた。』
彼はやがて理由なき殺人を犯し、その将校から奪った銃をつねにコートのポケットにしのばせていた。
とくにお金が欲しいわけでもないのに、さらに老婦人を殺して時計のコレクションをうばった。
それを売って得た大金もむぞうさに身につけていたのは、いつか捕まりたい願望なのだったろうか。
やがてある日、突然に逮捕されることによって、やっとこころの安寧がえられたかのようだった。
訳者あとがきにもこうあるが、たしかにそんな雰囲気のあるすばらしい小説だと思う。
『この小説をはじめて読んだとき、すぐにカミュの『異邦人』の主人公ムールソーを思い浮かべました。
……
とくにフランクが投獄された後の内的な深まりは見事です。
この部分をドストエフスキーに比較する批評家もいるほどです。』
こういうところは読まないとわからない。翻訳でもすごい、と思います。

テーマ:最近読んだ本 - ジャンル:本・雑誌

点鬼簿
過去帳のことですね。

鬼籍にはいる、なんていう言い方がありますから。
そういう意味なんだろうと了解していました。

芥川龍之介の小説にもありました。
どんな筋だったか、いまでは忘れてしまいました。
読んだのは学生のころだったでしょうか。
自伝的な小説だったなといううすい記憶がかろうじて残っています。

ですが、この字面からうける印象は強烈なものがありました。
地獄の鬼が連想されました。
餓鬼ということばも浮かんできます。
なぜかしら忘れられないことば、というのはあるものです。

若いころに知りあった連中でも、すでに亡くなった者もいます。
あらためて、ご冥福をお祈りしたいと思います。

N1446あうん

わたしが載るのもそんなに遠いことではないですが(笑)。

震災から18年
人は忘れてしまう
だから忘れないようにとここにくる
人は弱い
弱さを言い訳にせず生きていくしかない

7146 5時46分52秒

忘れてしまうことだってある
だが決して忘れられないこともある
弱さからくじけそうになる
そんなときどこからか頑張れよの声がきこえてくる

7157鎮魂花

ゆらめく炎のなかに
いろんな情景がうかんではきえる

7159あかり

7160あかり

輪廻とは
メビウスリングのようなものだろうか

7158 1月17日

初積雪
天気予報では、今日は雨だということだった。
朝になって、なんだかシンとしている。

窓の外をみると雪におおわれていた。
庭の片隅に咲くM島の寒菊も雪をかぶっていた。
だがなんとか寒さを乗りきってくれると思う。

N1550初積雪

N1555寒菊

それよりも小鳥たちが心配だ。
羽毛を装備しているとはいえ、食べ物がなくてはたいへんだ。

いつものようにみかんを籠にいれておく。

N1558籠のみかん

しばらくすると、鳴き声がきこえてきた。

N1574メジロ来訪

なんだか、ほっとする。

もどってきた年賀状
年賀状はださない、とおっしゃる方もいることは知っている。
それはそれでいいと思う。
虚礼は廃止するにしくなし、という意見もわかる。
が、虚礼でないものとは、はてどんなものをいうのだろうかとは思うのだ。

礼に、虚か真かと考えることじたいがすこし堅苦しくはないだろうか。
これは、あいさつに似ている気がするのである。

「おはようございます」
「いいお天気ですね」
「こんにちは、お元気ですか」

これらの言辞に意味はない。
挨拶をかわす状況に意味があるのである。
あたりさわりのないことを言って、おたがいの敵意なき表情をみるのである。
あるいは、声の調子などから体調などおもんばかるのだ。

まあ、年賀状もそういうものだ。
(もちろん、それ以外の情報を満載するも可なり)

だが、届かなかった年賀状をみて、どうしているんだろうと想う。
もしやと思ったり、いやいやどこかで元気に暮らしていているのだろう、と想像したり。
しかし、このハガキを見るたびにどうしているかなと思いだす効用はある(笑)。

N1444鳥居

初詣とメジロ
もう正月も三日。
初詣に行かないのかといわれ、じゃあ行ってみるかと。
わが家から車で約14kmのところにある厄除けで有名な「塩田八幡宮」。
厄除年表なるものがありました。
ご参考までに、年齢は数えですからまちがいませんように。

N1447厄除年表

10時前だったので、参拝客もまばら。
水をはった田んぼは、薄氷におおわれていました。

N1448塩田八幡宮

今年もつつがなく暮らせますようにと参拝を終えました。
お宮さんの近くにある柿の木にメジロがきていましたね。
熟しすぎた実にたくさん群がっておりました。

N1456柿とメジロ

帰ってきて庭を見てみると、ここにもメジロがきてました。

N1462庭のメジロ

この時期、野山にはエサが少ないんでしょうね。
いただいたミカンのお裾分けをしてあげましょう(笑)。



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島を旅するときが楽しいですね。
遠くに眺めるのも好きです。
楽園なんてないんですけどね。

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