ムッシュの読書紀行
人生は旅のようだと言いますが、旅が人生かも知れません。 ぼくは活字中毒気味でもあり、旅はまだまだ続くでしょう。
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春眠の候
目覚めたときは、なんという夢をみてしまったのだろうと思った。
そのうち忘れてしまうだろうな、ということはうすうす感じていたのだが。
夜になって、やはり記憶は曖昧模糊となってしまった。

N2009グラジオラス

だが夢のなかで、自分が言ったセリフ(?)を忘れてはいなかった。
ある女性に対して(ストーリー性があったのだが忘れた)、

「悩むことないんじゃないかな」
「なやんでばかりいると、いつかは病むことになるんだよ」

なやむ → やむ ということらしい。

けっこういいと思ったのだが(夢のなかではいつもそう思う)、つまらない。
というより、こんなことばかり(自分は)考えているのだろうか、という気がした。
これって、演出はわたしということなんだろうな。
(うーん、その方面の才能はなさそうである)

N2005クリスマスローズ

すこし暖かくなって、ちょっぴり寒かったり。
ではあるけれども、すこしずつ春に夏に近づいているようだ。

N2012パンジー

来週末は島で、桜の満開の下ということにならんや。

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読学
生きてゆくなかでは、いろんな出会いがあるし、また別れももちろんその分あるわけだ。
それが経験という名の処世のツールになったりすることは否めない。
だからといって、経験がすべてというわけではなく持って生まれた才能もあるやもしれぬ。
限られた時間の生であり、後戻りのきかない人生だから最高のパフォーマンスをと思う。
真剣に悩んで生きているあいだはわからなかったものが、解ってくる時期というのもあるようだ。
「後悔先に立たず」とおなじように、過ぎなければ評価できないこともある。
なんだすべてが結果論じゃないか、といえばそうなのだと応じざるをえない。
だがそう断じたからといって、なにかが変わるというわけでもない。
黙々と本を読み、考え、夢想することがひとつの分野をなしても、それはそれでいいのではないか。

N1987瀬田川をゆくエイト

「はじまりの数学」 野崎昭弘 ちくまプリマー新書 ★★★
数学と聞くだけでも拒否反応をしめす方が多いのに、ときにおどろく。
なにが嫌いなのかと思うのだが、どうも性格(失礼!)によるものだとわかるのだ。
じつは、大学で数学科専攻の卒業生は就職率がいいのだそうだ。
採用担当者によると、その理由はなにごともこつこつとあきらめない性格が魅力なんだとか。
数学は答えをみつけるのではなく、解く過程が脳に興奮の報酬を与えるのだという。
頭のよさについては、こんな見方もあります。
『ドイツの数学者ヒルベルトは、優れた構想力をもつ、おそらく二〇世紀最大の数学者でしょうが、
特に「回転が速い」ほうではなかったようで、若かったころの自分を評して「うすのろだった」と
言っています。とびぬけて回転が速いので「悪魔のように頭がいい」とか、「実は悪魔だった」という
冗談まであるのはハンガリー生れの天才数学者フォン・ノイマンですが、
数学の世界での仕事の広さ、深さや後世への影響力で見ると、ヒルベルトには及びませんでした。』
と筆者はいうのである。

「追撃の森」 ジェフリー・ディーヴァー 土屋晃訳 文春文庫 ★★★★
今回はリンカーン・ライムシリーズではない警察(保安官)ものである。
事件はウィスコンシン州ケネシャ郡の静かなモンダック湖畔の別荘で起こった。
週末を過ごそうとしていたフェルドマン夫妻が突然現れたふたりの男に襲われ殺害された。
夫はソーシャルワーカー、妻は弁護士で職業上知ってしまったことが原因かと思われた。
殺害される前に警察に通報しようとしたが、「こちら…」と告げたところで切れてしまった。
現場へ確認に向かった女性保安官補のブリンは通報解除の連絡を受けたがトイレを借りようと。
ところが、別荘には男ふたりと被害者夫婦の他にミシェルという女性がいた。
ここからブリンおよびミシェルを追うフェルドマン夫妻を殺害した二人組の男との追撃戦が始まるのだ。
真夜中の森を逃げる女たちと、それを追う男たちのかけひきにどきどきさせられる。
スリルとサスペンスの醍醐味といえば、追いつ追われつというのが以前は定番だった。
ひさしぶりにその興奮がよみがえってくるようなミステリに仕上がっている。
もちろんディーヴァーならではの二転三転の結末は読んでいていつもながらに感心させられる。
だが、最近はそれにも慣れてきた感が否めないのは、我ながらすこし残念ではある。

「笑う科学 イグ・ノーベル賞」 志村幸雄 PHP研究所 ★★★★
「イグ・ノーベル賞」は「Ig Novel Prize」であり、「イグノーブル(ignoble)」をすぐに連想する。
つまり「品がない、あさましい」という単語と「ノーベル(Novel)賞」とを掛け合わせた造語なのだ。
で、その授賞こ公式基準としては、メインの「人を笑わせ、そして考えさせる」研究とともに、
「真似ができない、またするべきでない」業績の両項目があがっている。
さらに非公式基準として「目を見張るほどバカげているか、刺激的でなければならない」というのだ。
では実際にどのような研究が授賞しているのか、いくつか紹介しておこう。
米コーネル大学のデービッド・ダイニング、同イリノイ大学のジャスティン・クルーガー両教授は、
「自分の無能を知らない人は自身を過大評価しがちである」という風変わりな論文を
発表して二〇〇〇年にイグ・ノーベル心理学賞を授賞している
実験の結果は、被験者の多くがおもしろいと感じる冗談に対して、おもしろくないと思う被験者が
何人かいた。教授らは、これらの被験者に「論理テスト」も行ったうえで、「推論能力のの劣る被験者
ほど思い込みが強く、自分の能力を過大評価する」という結論を導き出している。
イタリア・ピサ大学のジョヴァンニ・B・カッサーノ氏ら四人の研究者が
「恋愛と強迫神経症は生化学的に区別できないことの発見」で二〇〇〇年の化学賞を授賞した。
この研究グループは、恋愛の初期に頭に血がのぼってしまう状態と精神的に追いつめられた強迫
神経症の間には類似性があると考え、これを血液中のセロトニンの変化で検証できるのではと考え、
二〇人の被験者に血液検査を行ったところ、その仮説はその通りに立証された、というのである。
授賞会場はハーバート大学のサンダースシアターというから伝統も威厳もある場所である。
本家のノーベル賞とちがうのは、賞金もなし、交通費、宿泊費も自腹というところだろうか。
日本人も多数授賞していますので、是非ご一読いただきたいというところである。

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春の気配
だんだんと暖かくなってきて、庭にもそれらしい兆候が。
やっと梅も白い花をさかせてくれた。

7936白梅

こちらはクリスマスローズ、なんだとか。

7940クリスマスローズ

と思っていたら宅急便が届いた。
なんとこれは、春らしいというか、かわいいものだ。
(ちょっと、食べるのがはばかられるなあ)

7930春の竹籠盛

7932桂馬のかまぼこ

あの頃、あの町を下駄ばきなんかで歩いたものだった。
アーケードの下、「桂馬」さんの前あたりもよく通りました。
なぜか屋台の七味唐辛子売りのおじさんがでていたりしました。

千光寺公園では、いくどかにぎやかな花見をしました。
なんだか思いだしますねえ。

ぼたん鍋紀行 後編
丹波立杭焼の里である篠山市今田(こんだ)は、うららかな天候でありました。
起源は平安時代末期から鎌倉時代にまで遡るといわれ、六古窯の一つ。
(六古窯とは、瀬戸焼、常滑焼、越前焼、信楽焼、丹波立杭焼、備前焼のこと)

N1951立杭焼

瀬戸物ともよばれた陶磁器は、プラスチックとちがって壊れやすい。
そこに、はかなさを感じるのではないだろうか。
それがまた日本人好み(?)であり、人気のあるゆえんか。
(わたしも気にいった湯のみなど多くを壊してきました)
(しょせん、形あるものは無に帰す、のである)

N1952陶の郷

人通りもすくない路地を歩いていると、いろんなものにでくわす。
これが旅というものではないか、と思うのだが…。
それでもなんだかさみしいとおっしゃる方もいる。

N1966ネコです

N1955春近し

なんだか、ふと若いころのひとり旅を思いだしたりした。

N1969兵庫陶芸美術館
どこからともなく、ウグイスの声も聞こえてくるのであった。

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ぼたん鍋紀行 前編
猪肉をつかった鍋を、丹波篠山地方ではぼたん鍋という。
なぜそういうのかは、この写真を見れば一目瞭然であろうか。

7917ぼたん鍋

牡丹の花のように肉を盛りつけるところから名づけられた。
味は味噌仕立てである。
といってシシ肉に臭みがあるというのでは決してない。
この脂身がうまいのである。
(しばしカロリー問題は忘れることにする)

7919大根を

自家栽培ですという大根を、どこか中国の麺のように削っていれる。
あまみがあって、なかなかにおいしい。
(この大根は、追加して存分にいただきました)

参加者は、女性六名、男性三名をかぞえる。
母性社会日本をよくあらわしていると思える、というのはうがちすぎだろうか。
亭主関白などというのことばは、反語にすぎない。

書を捨てよ、野へ出よう(笑)。
遠くの山もけぶるかのようであります。

N1932春の風吹く

ひねもすのたりの春爛漫を感じる陽気でありました。

N1926甲羅干し

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ミステリアスナイト
寒い夜に、ストーブからの暖かさを感じながらミステリを読でいるときによくある。
だれもいないと思われる庭のほうからの物音に、すこし不安をおぼえながらそっと窓辺へ。
カーテンをすこしずらして、斜めにながめてみるが変わりはないようだ。
きっと風のせいだろうと思うのだが、なんだかそのまま本を読み続けることができない。
そういえば、島で夜更けて仲間たちと話していたとき、どこかで悲鳴のような声がしたことがあった。
思わず顔を見あわせたら、たしかにその場にいた全員が聞いたという。
どこからというのには、それぞれがちがった場所を言いつのって一致することはなかった。
そのうちあれは誰かの寝言ではないかという結論になんとか収まってしまった。
部屋からでるのも嫌だし、そのまま朝まですごしたが、なんとも妙なことではあった。

N1919赤穂坂越

「闇の記憶」 ウィリアム・K・クルーガー 野口百合子訳 講談社文庫 ★★★★
ミネソタ州の小さな町オーロラで保安官をしているコーク・オコナーが主人公である。
家庭内暴力の通報をうけて向かったインディアン保留地で、突然なにものかに狙撃された。
さらに、シカゴのビジネスマン、エディ・ジャコビが去勢された刺殺死体で発見されたのである。
彼は富裕な実業家ジャコビ家の息子であり、傲慢な父ルーと兄のベンが駆けつけてきた。
ジャコビ家は捜査の目付役として元FBI捜査官の女性ダイナ・ウィルナーもオーロラへ呼びよせた。
彼女はセキュリティ・コンサルタントであり事件の伸展とともに重要な役割をになっていく。
妻で弁護士のジョーは、シカゴ時代にベン・ジャコビと恋仲であったことを知りコークは悩むのだ。
捜査の過程で、ベン・ジャコビも何者かに殺害され、その犯人はコークだとルーに断じられる。
コークの首には多額の懸賞金がかけられ、その追っ手を逃れるところで本編は終わっている。
これって、次作へ続くということなんだろうな、と思いつつもなにか変な気分である。

「希望の記憶」 ウィリアム・K・クルーガー 野口百合子訳 講談社文庫 ★★★★
銃で撃たれたコークが、いとこで獣医師のジュエル・デュボイスに語っている。
『「始まりは十日前だ。オーロラのそばのアイアン・レイク保留地でおれは待ち伏せにあった。
おかげで耳たぶの一部をなくしたよ。保安官助手は重傷を負った。二日後に、シカゴから来た
ビジネスマンが町から遠くないマーシー・フォールズという場所で惨殺されたんだ。
エディ・ジャコビという、善良とはいえない男だった。ジャコビ家は裕福で影響力のある一族で、
家長のルーというのはとんでもない悪党だとわかった。ルー・ジャコビにはもう一人息子がいた。
長男のベンだ、昔、ベン・ジャコビはおれの妻の恋人だった」』
ここからあとの展開は本書を読んでいただくとして、この舞台のことが気になった。
アメリカといえば、多民族国家であることはだれもが知っている。
なかでも少数派のアメリカインディアンのオジブワ族をルーツとするオコナーが主人公であること。
都会ではなく森深い田舎が舞台に選ばれていること。
こうしたことから、アメリカとはいえいろんなことがひそかに進行しているのではないかと感じるのだ。

「老いへの不安」 春日武彦 朝日新聞出版 ★★★★
アンチエイジング化粧品というようなものがあるが、その効能はいかなるものか。
『老いそのものよりも、想像力や予兆によって我々は老いに脅かされる。
それはホラー映画の構造と相似している。
お洒落というよりは「若作り」に励む中年男性が増えたような印象がわたしにはあるが、
それはたんに異性にモテたいとか一目置かれたいとかの皮相的な理由ではなく、
老いという未知なるものへ対する護符にも似た魔術的効能が求められているのだろう。』
著者のこうした見解を読めば、なんとなく納得できる(?)のではないか。
信じるものは救われる(若返るとはいっていない(笑))的な効果はたしかにある。
『老いることは、人生経験を積むことによって「ちょっとやそっとでは動じない」人間になっていくこと
とは違うのだろうか。難儀なこと、つまり鬱陶しかったり面倒だったり厄介だったり気を滅入らせたり
鼻白む気分にせせたりするようなことへの免疫を獲得していく過程ではないのか。』
経験を積むということは帰納的な材料の手持ちが増えること、と言い換えてもいいのではないか。
『誰でもとにかく生きていれば老人になる。ただし、年齢相応の自覚やある種の役割意識があって
初めて「年寄り」というポジションが成立するのではないだろうか。』
「年寄り」というのは年齢のことではないのは相撲界でもそうなっている。
そうよばれるに相応しいような人になりたいというのは、最近では流行らないんだろうか。

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愛の効用
愛とは、まあわたしに言わせたら、近代社会が編みだした共同幻想でしょうね(笑)。
そんなことないわ、とおっしゃる方がかならずいるだろうとは思いますが。
(愛についての定義がさだまっていないし、意味するところは千差万別)
(でも、愛ってことばはよくつかわれます)
(疑われるなら、ポップスや歌謡曲の歌詞などごらんになれば…)

だって、愛(という言葉自体)があると便利なのである。

それは愛が足りないからだ(塩や砂糖と同じで匙加減が重要なんだって)。
愛の深まるのを待つことにしないか(時間稼ぎができる)。
愛がなくたったから別れよう(物質とおなじように扱うことが可能だ)。
愛するより愛されたい(面倒なことは相手に丸投げしてもいい)。

それよりも愛という名のもとに、自己中心的な考え(自己愛?)を正当化してしまう。
なんの疑問も感じずに(無意識)、自分に都合のよいように理屈づける。
というようなことが、もしやあるのではないかと、疑うのである。

「わたしのことを愛していないのね」
(もしかしたら、もっと稼げということか?)
「わたしたちの愛は終わったのね」
(もっと稼ぎのいい男に乗り替えられそうなの、ってか)
「愛したかった」
(でも、その稼ぎじゃ無理)

7913雛人形

女性は今日もしたたか(本音を隠して)に生存し続けるのであった。
(それがDNAの指令なのであろうか(笑))

女と男の生物学
女は上書き保存、男は名前を付けて保存。
恋愛をパソコンデータのファイルになぞらえるて、こういわれたりする。
たしかに、そういわれればそうだし、なかなかうまいこというじゃないかなどと思う。
しかし、その理解というか解釈は決して一様ではないようなのだ。

恋愛にたいして、女はクールで男は未練がましいというのが一般的な感じ方らしい。
そうなんでしょうか、わたしならまたちがった理屈がつけられるのだが(笑)。

これって、ヒトの雌雄(男女)による生物学的戦略のちがいによるのではないか。

つまり男はできるかぎり多くの女と生殖機会をもつことにより子孫を殖やそうとする。
ということは、ファイルの数は多いほどいいということになる。
可能性がほんのすこしでもあるならば、残しておくことにメリットがある。
男の浮気性というのはここに起因するのかもしれない。
クーリッジ効果を参照ください)
(ご批判もおおいでしょうが、あくまで生物学的見地からですから…)

では女はどうなるのか。
いちどに生める子どもの数は限られている。
生めば育てることが必要である。
ファイルは上書きしてできるだけ質のよいものに変換しようとするだろう。
だから、男とは反対に質が問題になる(これは出産後の男からのケアも含まれる)。
甲斐性(経済力)のある男のほうが、わが子を育てるにはべストだ。

女が愛では生きられないというのは、生物学的には理にかなっている。

男は愛があれば(愛の中身は問わない)、生きていく気力がわくのだ。

N1765女と男

播州赤穂
翌土曜日は晴れる予報だったのだが、ちらちらと白いものが舞っている。
ここまで来たのだから、大石神社にでも行ってみるか。
周辺では城郭の復元工事だろうか、いたるところ仮囲いあり。

N1905大石神社

さてというところで、ちかくに行ってみたいところありという。
「空のいろ」さんというところ。

ここで飲んだコーヒーカップがなかなかおもしろかった。
この平らなところに親指がきて、安定するという寸法である。
人気作家さんらしく、展示会をするとコーヒーカップはすぐに完売するそうだ。
(同じのがなくて残念だったが、ちなみに別デザインで価格は3600円とか、うーむ)
またどこかで出会えたら、ということでこれも縁があるかないかだろうか。

N1907コーヒーカップ

赤穂は江戸時代から塩の生産で有名だった。
入浜式というんだったかな、小学校の社会科の時間にならいました。
で、小藩ながらけっこう裕福だったんですね。
で塩田は遠浅の浜でできるのですが、出荷するのに港が必要である。
その港がつくられたのが坂越なんですね。

ちょうどアメリカからやってきた方たちといっしょに旧坂越浦会所で話をききました。
床をすこし低くした藩主専用の部屋(観海楼)はなんだか落ち着ける気がしました。
ここから海をながめたんでしょうね、お気に入りの場所だったらしいです。

N1925旧坂越浦会所

往時の隆盛をしのばせる金庫などもありました。

N1920金庫

まあ、これからも格別によろしくお願いいたします。

七周年
ときの経つのは早いものである。
そんなこんなで丸七年がすぎ、どこかに記念旅行(?)でも行こうではないか。
というより、たまには食事の提供を受けたいし、西國巡りもとだえているし…。
気分転換が必要だということなのだろうか、と訝る。
(ストレスは溜めてはいけません、諸悪の根源、トラブルの元)

まずは、書寫山圓教寺(しょさざんえんきょうじ)に行くのだが、これが発音し難い。
まるで早口言葉のようである。
ためしに、「しょさざんえんきょうじ」を三度唱えてみてほしい。
いちどとして、まともに言えないことに気づくだろう。

N1902圓教寺

N1890舞台

ふとある考えがうかんでくる。
早口言葉って国(言語)によってちがうだろうことはわかる。
しかし、日本語の早口言葉は外国人にとっても早口言葉なのだろうか。
逆に、どこかの国の早口言葉は日本人にとっては簡単なんだということはないだろうか。
などと、探偵ナイトスクープ的な疑問がわいてくるのだった。

ロープウェイに乗るころから雨がすこし降りだした。
今日は曇りの予報だったのだが、いたしかたがない。
これが諸行無常(?)というものだ。
金曜日でもあり、参拝客はすくなく森閑としていた。

N1898龍

今夜も寒くて、はやく大浴場にはいってあったまりたい。
というような日でありました。

奢る男子は久しからず
いっしょに食事をしたり飲んだりしたときに、勘定はだれが払うのか。
まあ、わが家ではたいていはかみさんが払いますが(交際費枠?)、そういうことではなく。

独身時代に男女ふたりでの場合など、どうなのだろう。
こんなことを思ったのも、ネットでそんな相談コーナーを読んだせいか。

概略は以下のようなこと。

遠距離のふたり(大学時代の友人で共に30代になったばかり)がひさしぶりに会うことになった。
男性が一時間半かけて会いに来て、車だからお酒なしで食事をした。
さてお会計の段になって、わたし(女性)が…と言うと、いいからと彼が言った。
もしや奢ってくれるかと思ったが、ちゃんと半分貰うよと言われ、2000円払った(勘定は5000円位)。
奢ってくれなかったということは、わたしに脈がないんでしょうか。
追記があって、そのあとドライブで夜景を見に行ったけど…と。

これを読んで、いろんなコメント(アドバイス等)がよせられるわけだ。

★そんなセコイ男(ケチな男)との交際はやめなさい。
☆お金のことばかり気にしないで、そのとき楽しかったかどうかが重要なのでは。
★あなたが先に払うと言ったんだから、立ててくれただけじゃないの。
☆そんな払う気もないのに(だからもやもやしてる)演技するなんて、嫌な女性ね。
★でもやっぱり男性には奢ってほしいわよね。
などなど、いろんな意見が続く。

いまでは、割り勘というのが若い世代一般にあたりまえ感覚なんだというのがわかる。
でも、もちろん男が奢る(これは見栄ととらえられている)のもありなんだそうだ。
見栄については特に否定的な感情ではなく、ふつうに思われているのもおもしろい。
(見栄をはるなんてではなく、まあだれにもあるものでは、というような捉えられ方)

そういえば、若いころにはよく女性に奢ってもらったみたいだった、と思いだす(汗)。
(そのころは自覚がなかったし、別にそれで卑屈になることもなかった)
(持ってるやつが払えばいいんだ、それが共産主義というものだ的な感覚だったろうか)

しかし、奢られるのがあたりまえみたいな女性とは付き合いがなかった。
(相手もわかって近寄ってこなかったのだろうし、こちらも嫌だったし)

すべての人に好かれることはないし、いいんじゃないですか(笑)。

N1883観世音菩薩

お伊勢さん
伊勢神宮には、内宮と外宮があることはひろく知られている。
内宮は天照大御神が、外宮には豊受大御神が祀られていることも御存じだと思う。

N1866内宮

二十年にいちどの遷宮(建替え)にあたる今年はことのほか人気があるようなのだ。
(外国からの団体さんなども多く、人気あるいは目玉旅行先になっているのかもしれない)
ということで、ことさらに月曜日に訪れることにしたのだが、思惑はみごとにはずれた。
思っていたよりもはるかに人が多いのである。
おそるべし、というべきか。

といっても、人出は内宮周辺に限られているようでもある。
ちかくに「おかげ横丁」があるおかげか、おおくの観光客を集めているのだ。

N1867伊勢

N1873赤福

さて、御札は外宮でいただいていたのでそちらに向かうが、こちらはひっそりとしている。
この静けさ加減のほうが、神宮らしくていいとは思うのだが。

小学校のころを思えば、六年生の修学旅行に一泊で伊勢にきたことが懐かしい。
どんな風景だったかなどは、あまり憶えていない。
しかし、旅館で枕投げをして先生におこられたことなど思いだす。
いまでは関西の修学旅行先はどうなっているのだろうか。

神道うんぬんはさておき、こうしたエリアが残されていることは幸運だと思う。
時の流れとともに景観が変わっていくのはいかんともしがたい。
とは思いながらも、なぜかほっとする伊勢路ではある。

N1876外宮

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答志島
24日(日曜日)に八幡祭りがおこなわれるという答志島(とうしじま)へ。
早朝には雪がちらつき、全員あきらめの溜め息とともに出発するのであった。
(こればかりはいかんともしがたい)

答志島へは鳥羽マリンターミナルから小一時間の船旅(片道530円)である。
待ち合い室には、高価そうなテレビカメラ(BS、TBSとか)を持った方など多数いました。
ほどなく島についてぶらりぶらりと歩き、集会所らしき場所にやってくる。

N1788神主

午前10時頃からは演芸がはじまり、踊りがつぎつぎと披露されます。
12時前後に弓引き神事(おまと行事)がおこなわれると聞いていたのですが…。
寒さのなか、じょじょに人が増えていく。
それでも若者たちは元気だ。

N1819若者

N1834若衆

N1844見物

そのなかにいた事情通らしき島民の言では、まあ一時半頃だろうという。
全員しかたがなく寒さに足踏みしながらまっていたのだが、あっというまに終了。
なにがなんだか、よく見えないまま終わってしまった。
(なんとか撮れた写真はこれだけ)

N1852おまと行事

おまと行事では、弓が放たれると同時に大勢の人々が、お的の炭をうばいあう。
そのお的の炭で各家や船に「まるはち」と書き厄除けとする伝統がいまも続いているとか。
さっそく家の壁に書いている島民発見、でいちまいパチリと写させていただきました。

N1854まるはち

なんだか真鍋島の走り神輿を思いだしてしまいましたねえ。

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ルミネセンス
伊勢神宮でいただいた御札を返しに行きたいという。
なので前後にもろもろの行程などをつけくわえて、車に乗りこんだ。

とある神社の前で友人夫婦と合流し、まずは整体から。
いろいろとお話をうかがっていると、森田式整体を習われたことがわかる。
そういえば、そんな文庫本を読んだことがありました。
森田式といえば、日本では有名な整体療法であることは知っている。
(本棚にその本を見つけることはできなかった、残念)

つぎにやってきたのが「なばなの里」なのですが、以前と比べると格段に進化(?)している。
駐車場も近隣の土地に第二、第○などと巨大になっているのがわかる。
(しかし、いつまでブームが続くのかは判断がむずかしい)

N1731なばなの里

入場料が二千円と高いのだが、千円のクーポン券がついているのである。
それで土産を買ったり、園内のレストランで食事をしたりできるという方式になっている。
(なるほど、関西はシビアなので、こうして納得いただくということなのかな(笑))

こどもと女性は光るものに目がない、でしたっけ。

N1741池に映る

N1755木立

N1767さくらルミネセンス

しかし、寒いですね。
今夜は友人宅に泊めていただいて、明日に備えます。

テーマ:真鍋島の愉快な仲間 - ジャンル:旅行

蛍の光、窓の雪
いまではあまり歌われないようなのだが、われわれの世代では卒業式定番の歌だった。
勉学・進学は貧しい身分から立身出世するための必須のツールである、とされていた。
日本では東大を筆頭に学費も安い国公立の学校がそれなりに高い評価をうけているのである。
貧乏人にも公平な制度といえるかもしれないが、人の能力とは知性のみなのかという疑問は残る。
日本では文武両道などというが、これは日本的な考え方なのだとなにかで読んだ気がする。
支那(チャイナ)にそういう言葉はないし、科挙制度に代表されるように圧倒的に文が上だというのだ。
というより肉体を軽視しているというのか、労働を軽んじる風潮があるということのようだ。
窓から雪が降りつむ光景がみえる夜には、シンとして音もなく世界はただあるだけのようだ。
音が雪の結晶の間隙にすいこまれていくさまを思いうかべると、なぜかそこに宇宙を感じたりもする。

N1729夜に咲く

「骨と歌う女」 キャシー・ライクス 山本やよい訳 講談社文庫 ★★★
最近はミステリの世界でも法人類学者などという職業の方が登場する。
本作も、テンペ・ブレナンという女性の法人類学者が主人公になっている。
この法人類学者は検視官とはちがって医師ではない(医者の免許は必要がない)。
人間の骨の構造と、その変化、人種によるちがいの専門家である。
今日では生物人類学として知られる人間の体とその変種全体を研究対象とするものだ。
したがって、いきおいその立場からの考察がストーリーのポイントになってくるわけだ。
それはそれでけっこうなんだが、どうも謎解きの部分がもうひとつという気がしないでもない。
カナダのモントリオールが舞台なのだが、ブレナンが駐車に困った場面に目がとまった。
『ニューロ(神経学協会と神経病院を合わせてこう呼んでいる)は三〇年代にできたもので、
ワイルダー・ペンフィールドがその生みの親だ。ペンフィールド博士は優秀な科学者であり、
神経外科医だったが、交通整理に関しては先見の明がなかったようだ。』
そこしまえに読んだワイルダー・ペンフィールド、こんなところにでてくるのがなんだか不思議である。

「進化を飛躍させる新しい主役」 小原嘉明 岩波ジュニア新書 ★★★★
ジュニア文庫というからには、高校生や小学年高学年あたりまでが対象だろうかと思われる。
しかし実際に読んでみると、内容は決してやさしくは書かれているが易しいとはいえない。
本書も、モンシロチョウの雄はどうして同種の雌がわかるのかという著者の疑問からはじまる。
『研究は「雄は雌をいかにして配偶者として同定するか」という個別的な問題からスタートしました。
その結果、「雌の翅の紫外線色をふくむ特殊な色」ということがわかりました。
ところが、この特殊な色の一構成色である紫外色は、日向と日陰、長日型と短日型、
それに生殖場所によって異なるという想定外の事実が明らかになりました。』
こうして研究は舞台をヨーロッパや全世界までもひろがってゆくのである。
科学研究というものがどういうふうに実際は行われ、どんな困難や喜びがあるのか。
研究者の実体験にもとづいたこうした本が書かれることは科学者の義務でもあるのかもしれない。
いつかこの本を読んで科学の道へと歩みだす子どもたちがあらわれることだろう。
そういう意味ではちいさな一書ではあるが、おおきな役割を担っているといえるだろう。

「アンダーソン短編集」 シャーウッド・アンダーソン 白岩英樹訳 近代文芸社 ★★★★
以下は「男の物語」という一篇のなかの文章である。
『ぼくは、ある観念がその詩集全体に行きわたっているということを説明したかっただけなのだ。
その観念とはこういうものだ。人が自分たちのまわりに壁をめぐらし、
おそらくすべての人間は永久に壁の内側に立ちつづけることを宿命づけられている―
そしてこぶしを握ったり、つかめるものなら何でも手にして、しきりに壁をたたいているのだ。
何かを打ちやぶりたがっているのはあなたにもわかる。
ただ、巨大な壁が一枚あるだけなのか、個々の小さな壁が数多くあるのかはさっぱりわからない。
ウィルソンは前者のように書くときもあれば、後者のように書くときもあった。
人が自分で壁をめぐらし、その内側に立っている。
壁の向こうにはぬくもり、光、空気、美、つまり生があるんだということをおぼろげに知りつつ―
しかし同時に、彼らのうちに潜む狂気のようなもののせいで、壁はたえまなしに、
より高く、より頑丈になっているのだ。』
人はみずから自分のまわりに壁を築いているというのはどこかで読んだ気がする。
すぐれた文学というものは、そうした洞察がなければ書けないんだということがよくわかる。

テーマ:最近読んだ本 - ジャンル:本・雑誌



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遠くに眺めるのも好きです。
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