ムッシュの読書紀行
人生は旅のようだと言いますが、旅が人生かも知れません。 ぼくは活字中毒気味でもあり、旅はまだまだ続くでしょう。
07 | 2013/08 | 09
S M T W T F S
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31

死にたくない 二律背反篇
死にたくないと思っても、人はいつかは死ぬ(人の死亡率100%)。
また自殺する人も年間三万人前後(日本国内で)いる。

死にたくなくても死ぬ人と、死にたくて死ぬ人がいるわけだ。
どちらにしても人はいつかは死ぬのだから、とりあえず生きていればという立場もある。

死なないと後がつかえているから、共倒れになってしまうかもしれない。
そんなことは知ったことじゃない、おれだけ(あたしだけ)生きれればいい、という輩もいる。

いまのところ不死の薬(抗生物質?)はない。
発見される望みもうすいし、発明されたとしても副作用がきつそうだ。
どんな副作用が考えられるかというと、服用すると死に至る場合があるという。
ブラックジョークのようでもあるし、人生は賭けのようなものだ、を意味するのか。

生きていてもいいことないし、などという人もいる。
じゃあ死んだらいいことがあるのだろうか。
死んでいいことって、なんだろう。
借金がチャラになるし、いやな勉強もしなくていいし、いじめからも解放される。

でも生まれ変われるのが確かであれば、さっさとこの世とおさらばできる。
まあ、来世もおなじような境遇に生まれてこないという保証はないが…。
そのときは、またリセットすればいいじゃん。

でも、二度あることは三度あるっていうし、そういうことって遺伝しないかなあ。
生まれ変わりと、遺伝ってなんだか相性悪そうに思えるんだけど、どうかな。

知らんがな!

N2675空を飛ぶ

[READ MORE...]
スポンサーサイト
死にたくない 死ぬのがこわい篇
だれでもかどうかは知らないが、死ぬのがこわいと思っている方はおおいようだ。
死んだらどうなるのか、という不安がそう思わせるらしい。
しかし、考えても答えが見いだせるという希望は限りなくゼロにちかい。

「死ぬのがこわいよお~」
「なにが、どういうところがこわいの?」
「だって、痛いんじゃないの」
「痛くない死にかたもあるとおもうけど」
「だって、意識がなくなってしまうんだよ」
「寝てても意識がなくなっているじゃない」
「そうじゃなくって、とにかくこわいの」
「経験したこともないくせに、ってだれでもそうか(笑)」
「そういわれたらそうね、経験したことないねたしかに」
「まあ、いちどは経験できると思うけど」
「そうよねえ、なんだか楽しみになってきた」
(って、そんなわけねえだろ!)

025まむし注意

まあ、静かに成仏できるように日々精進してまいりましょう。
でもわたしは亡くなっても、天国へは行きませんから。
なぜって、キリスト教徒ではないからです。
あえていうなら、極楽がいいですけど(和風だな)。

死にたくない 生まれ変わり篇
女性方がよくおっしゃる生まれ変わった(痩せた、整形した)という意味ではありません。
ということなので、勘ちがいなさらないように願います。

多くの宗教では、死んでもまた生まれ変わる(転生)ということがいわれています。
それがほんとうなのか、願望なのか、気休めなのか、はわからない。
(というか、科学的証明はほとんど不可能である)

生まれ変わりが、あると仮定して(人は人にという限定で)考えてみる。
となると、まず単純に生まれ変わる人と初生まれの人がいることになるのがわかるだろうか。
まず最初の人類がいるわけだよね。
彼(あるいは彼女)はだれかの生まれ変わりということはありえない、最初だから。
もしかして、類人猿が生まれ変わったということになると、最初の仮定が成り立たなくなるので却下。
(つまり、この仮定は進化論を否定していることになる)

いつから人は生まれ変わるようになったのか、という疑問もでてくるがそれは問わない。
生まれ変わる人と、増えつづける人口との関係はどう説明できるのだろうか。
それに生まれ変わりは細胞分裂のように何回までという限界があるのだろうか。
生まれ変わるということは、なにか霊魂(?)のような不変のものがあるんだろうな。
その組成はどうなっているの、というのは科学的な思考に陥ってる現代人の悪い癖なのか。

などといろんなことを考えだしてしまうのだが、そのあたりはどうなのかな。
いままさに、現代科学の知見との融合をめざして頑張っているかたがいるのかも…。
そのうち物理学よりも先に、統一理論ができるかもしれません。

047はすの葉の水滴

死にたくない 余命篇
ヒトの寿命について考えてみた。
といっても、いくつまで生きることが可能か(まあ120年が限度らしい)の問題ではない。
「自分の死」をどう考えるか、についてなど。

ぶっちゃけ(キムタクか!)、あと何年生きられるかと考えたときのこと。
ここで寿命を仮定しないと話がすすまないので、80年とする。
(信長のころの50年と較べると、1.6倍あるいは160%になっている)

ということは、70歳になったときには、あと10年しか生きられないということになる。
おなじような計算で、50歳のときには、余命は30年になったのかという感慨(?)。
さらには、30歳のときには、まだまだ余命50年だし余裕じゃない?。
もっと若くして、10歳のときなら、余命70年だし、なに言ってんの意味わかんないし。

10年、30年、50年、70年とならべてみると、どんな感想をもつだろうか。
10年と70年て、たかだか7倍、たいしてちがわないじゃないか。
10年と70年なんだから、もう全然ちがうでしょう、と。
これが年数だからそう感じるだけ?
10円と70円だったら、どう思う?
なんか微妙だよな。

まあ、こういう議論はかならず仮定(前提)があるから、あまり真剣になれない。
神のみぞ知るだけど、あなたがいま30歳で寿命があと1年ということもありえるわけだ。
(現実に、若くして亡くなった友人はいるでしょう)
(でも結果論だろというなら、そう楽観できる根拠はなんだろうと思ったり)

だれにも寿命がわからないないと仮定(しなくても)すると。
歳を経るほど、実績値が増える(老いる)から利得(ゲイン)が多くなる。
つまり、若死にする確率が減少していく、ということ。
こう考えることもできるのではないですか、実感からは遠いけど(笑)。
(それに、ちっともうれしくないんですけど)

N2824トノサマガエル

死にたくない 魂の叫び篇
終戦記念日もお盆もすぎた。
まだまだ暑い。
この時期ということではないが、「死にたくない」について考えてみた。

よくドラマなどで、殺人者に追いつめられてこう叫んだりする。
あまりに現実感がとぼしいので、興ざめ気分で才能のない脚本家だなあと感じたりする。
と思っていたら、さる有名なフォークシンガーがそう叫んでいた、ときいた。

はあ~、なに言ってるのいい年こいて、こいつほんとうはバカなんだろうか。
死にたくないっていえば、死なないでいられるという幼稚園児的思考しかないの。
(というか、一種のアニミズムなんだよなあ)
(つまり、かなわぬときに神様助けてくださいって)
(信仰心もないくせによく言うよ)
(いや、そういう信仰心はもちあわせておるんですよ)
(死にたくない教?)

まてよ、それとも反語的な言辞を弄しているのかもしれない。
おまえら世間の人間は建前の世界に生きている。
だが、おれはちがう本音で生きているんだ。
これがほんとうの魂(DNA)の叫びだ、どうだ震撼(感心?)したか。
(本音というより、弱音という感じがするんですけど)
(まあ、あまり影響ないですから、すきにしてください)

020ひまわり

快楽主義
生物は快が感じられるように行動するのが本来の生き方である。
だから、快楽をもとめて生きるというのは自然な姿である。
しかし、日本社会では快楽ということばにうしろめたい悪いイメージがある。
快と快楽は語感がちがうのだが、いちど定着したイメージは容易には変えられない。
エピキュリアン(快楽主義者)とは、好き勝手、放埒に生きる者と思われた。
また日本人はなにごとにおいても、道をきわめるというようなことが好きだ。
じつは快と不快はそう簡単には分けることができないのではないかと考える。
ヒトの嗜好というものは、一筋縄ではいかないものだとも知られている。
だから、虐げられることに活路をみいだす(?)マゾヒストなるひとたちもいるのである。

041はす池

「秘密」 P.D.ジェイムズ 青木久惠訳 早川書房 ★★★★
ジャーナリストのローダ・グラッドウィンは殺される三週間と二日前に、四十七歳の誕生日をむかえた。
中学生のときに父親からつけられた顔の傷跡は、みにくいケロイド状になっていた。
そしていまになって、彼女は有名な形成外科医を訪れたのである。
『「これまで三十四年間、何もなさらなかった。どうして今、取ろうとなさるのですか」
ちょっと間をおいて、ローダは答えた。「もう必要ありませんから」
医者は答えなかったが、ファイルにメモを取っていた手が、数秒間止まった。』
手術は無事成功したが、翌朝ローダはベッドで扼殺死体となって発見された。
なぜ、いま彼女は傷跡を取りのぞこうとしたのだろうか。
そしてなにゆえに殺されたのか、またまたダルグリッシュ率いる特捜チームが現場に急行する。
殺人犯はなぜ彼女を殺したのか。ベントン部長刑事は考える。
『殺して遺体を隠した恋人や肉親が、涙ながらに犯人を捕まえてくれと訴える場面を、
ベントンはいくらも見た。
しかし他の人間がいる場所でうそをつき続けるのは、そう簡単ではない。
容疑者本人は表情をコントロールする名人でも、
彼の話を聞いている人たちの顔に真実が現れるかもしれない。』
本作が発表されたのは、P.D.ジェイムズが八十八歳のとき、年齢を感じさせないですねえ。

「悪妻に訊け」 池田晶子 新潮社 ★★★
ギリシャの哲人ソクラテスとその妻クサンチッペをかりだして、縦横に切りまくるという構図である。
池田さんが亡くなって、もう六年あまりがすぎた。
もうあたらしい著作に出会えないのかと思うと、しんみりしてしまうのである。
以前に読んだのかどうか憶えていないのだが、新たな気分で読むことができた。
なかでも著作権(?)あるいは独創性についてのこんな対話がおもしろい。
『ソクラテス しかし、或る考えがそれを考えた人だけのものだったら、他の人は、どうしてそれを
理解することができるのだろう。他の人がその考えを理解できるということは、その考えが、その
人ひとりのものではないということではないのかね。
クサンチッペ そうねえ――。でも、自分の考えを勝手に使われたって怒るガメツイの、やっぱり
いそうじゃない。
ソクラテス そう、だからそういう人は、初めから考えを外には出さんことだな。出さんで大事にしま
っとくんだな。出したらたちまち理解されちまうんだから。それでも俺はこんな独自なことを考えてと
るぞと、見せびらかしたくなるだろう。さて、出すか、出さぬか。
クサンチッペ そのうち別の人が先に出しちゃうよ。
ソクラテス だろ? だから、考えは皆の共有のものだと素直に認める方がいいのだ。』
あまりに独創的すぎるとだれにも理解してもらえず、ということもあるかもしれません。
つまり精神病院送りということで、近年にもよく似たようなことがあったんではないでしょうか。

「成功する読書日記」 鹿島茂 文藝春秋 ★★★
鹿島茂氏といえば、「馬車が買いたい!」なのだと思うのだが、機会がなくまだ読んではいない。
そんなおり図書館で書棚に本書をみかけた。
まずはウォーミングアップということで読んでみることにした。
こういった本に期待するのは、なにかおもしろそうな本を示唆していただけることしかない。
『一億人いれば、一億通りの読書日記が存在する。これこそ、読書のユートピアではないでしょうか?』
と彼もいうように、それぞれがそれぞれの読書をすればいいのである。
だが、いい本との邂逅はなかなかにむずかしく、すべての本を読むということは不可能である。
氏はフランス文学者ということで、奥本大三郎さんもそうでしたね。
あと河盛好蔵氏とか、あまり思いだせませんが…。
しかし、読書といってもいろんな本がありいろんな興味のもと読まれていることがわかります。
いましばらく、本の森を逍遥しましょうか(笑)。

テーマ:読んだ本。 - ジャンル:本・雑誌

自由にすれば、って
対比してみた、というか裏読みというか(笑)。

「自由な人生こそに意味があるのよね」
(自分の都合のみを最優先させるという生き方)

「選挙に行く行かないは、わたしの自由だ」
(税金を好き勝手なことに使ってもらっても、文句は言いませんよ)

「すべてのしがらみから自由になりたい」
(だれからも相手にされない道をゆく、覚悟ありやいなや)

「自由なる精神と、不自由な経済」
(暇はあるけど、金がない)

「自由業」
(時間にしばられない分、しばられる快感を夢想する職業)

033シオカラトmボ

自由になりたいと考える人は自由になればいい。
では、なにから自由になるのか。
そこに思い至らなければ、自由にはなれえない。
自由は不自由との相関関数だといえる。
自由であれば不自由を求め、不自由ならば自由を希求する。

というのか、じつは自由なんか求めていなかったということなんだろうか。

013火鉢の中のメダカ

比較不幸感
人はときに、どうして私ばかりがこんなことに…、とつぶやく。

「どうされたんですか」
「いえ、どうしてこんなことになってしまったのかと…」(唇をかむ)
「もしよかったら、どういうことなのかきかせてください」
「じつは、…」

というようなことになるのであるが、論点はだれの身に起こったかのみにある。
こんな不運(と、おっしゃる)にであってしまったことを嘆いているのではない。
不運受容者としてなぜ(いったいだれが、なんの権利があって)わたしなのか。
もし神がというのであれば、(あえて)神をも罵倒しかねない勢いなのだ。

015ユーフォルビア

話のなかにときおり理不尽ということばがでてくる。
だが、どうなれば理があることになるのかという説明はない。

話をきいていると、その内容なんてどうでもいいような気がしてくる。
悲劇のヒロイン症候群とでも呼べばわかりやすいのだろうか。
特異な能力をおもちのようで、あらゆる境遇に対応できる柔軟性があるようだ。
ごじつけ気味のように思えるが、つい話のうまさにひきこまれる。

すべての出来事はその語り部に収斂してゆく。
いつしか、あなたとその話を聴くわたししかいない世界になっていた。
この人ってけっこう幸せなんじゃないかな、とふと思った。

夏まっさかり
このところの暑さには参る。
しかし、恵みとしているものもある。
庭のきゅうりはいくつも実をつけている。

一日ひとつ収穫くらいがいいのだが、といっても通用はしない。

今夜も食卓にきゅうりの○○がならぶ。
夏はきゅうり、で決まりか。

005きゅうり三兄弟

霊しらず
いまやエコブームとかで、いろんなものがリサイクルということで再使用されている。
そんななかでも、衣類に関してはどうもいやだ、なんとなくなじめないという人も多い。
理由がいろいろあって、だれかがそれも故人だったりが着たと思うともう無理だというのである。
それこそ霊がついているんじゃないか、なんて怖くなってしまうんだというのがある。
そういうことを聴くと、いつも清潔ずきというより潔癖症な方の行動を思いうかべてしまう。
だれか他人が触れたとおもわれる場所はかならずアルコールで拭くというのだ。
風呂の湯もいちどだれかが入ったら、雑菌だらけだからかならず入れ替えるともいう。
それはそれでその人の好みの問題(!)だから、どうということはないのだが疑問点はある。
この空気中をただよっているというか充満している、塵、芥、菌、ウイルスは気にならないのか。
わたしが見えない、感じないものは存在しないとおなじである、という哲学的立場なのだろうか。

はす池のトンボ

「絶対製造工場」 カレル・チャペック 飯島周訳 平凡社 ★★★★
カレル・チャペック氏といえば、「ロボット」という語をはじめてつかったということで有名である。
ところで、大企業メアスの社長ボンディ氏にマレク技師はいう。
『「ぼくの完全カルブラートルは、完全に物質を分解することで、副産物を作り出す――
純粋な、束縛されぬ絶対を。化学的に純粋な神を。
言ってみれば、一方の端から機械的なエネルギーを、反対の端から神の本質を吐き出すのだ。
水を水素と酸素に分解するのとまったく同じさ。ただ、それよりもおそろしく大規模なだけだ。」』
カルブラートルとは、絶対を、化学的に純粋な神をつくりだす機械だというのである。
『すでにご存知の通り、マレク技師によって発明された物質の完全燃焼は、
あらゆる物質の内部に絶対が存在することをほぼ証明した。』
ここでいう絶対とはなにか、現代におきかえると原子力だろうかと想像することは容易だ。
『「いいかね、誰かが持つ信仰が大きければ大きいほど、その分だけ、
それを信仰しない人たちを激しく軽蔑するようになる。
とはいうものの、最大の信仰は人間への信仰だろうな」』
『ブリフ氏が言った。「人は、たとえばほかの信仰は悪いものだと考えたっていいけど、
その信仰を持っている人を悪い、下品で、いんちきな奴だと考えちゃいけねえ。
それは政治でもなんでもそうなんだがね」』
原理主義に陥らない、これだけで世界がずいぶんと住みやすくなるのではないか。

「人魚はア・カペラで歌ふ」 丸谷才一 文藝春秋 ★★★
あらためて丸谷氏の冥福をお祈りしたい、としのびつつ本書を読む。
世にいう雑文というものがあるが(エッセイではない)、その定義を野坂氏に教わったとある。
『雑文とはつまり、冗談 雑学 ゴシップ であると教へてくれたんです。』
雑文にみちている丸谷氏の本であるが、ここに嚆矢をきわめるといえるかもしれない。
「日経サイエンス」のなかからの紹介文がおもしろい。
『「バイブレーター」の項目ぢやないかしら。
あの道具(露骨に言えば性具)はそもそも何の目的で開発されたのかといふ話です。
どうです? 関心あるでせう。あれはヒステリーといふ病気への内科的治療のため、
何十年も臨床の場で使はれてゐたんですつて。
「ヒステリー」の語源はギリシア語の「子宮」に由来し、昔の医師は性的エネルギーの鬱積して
ゐる女性、たとへば修道女、未亡人、独身の女に起ると考へた。
そしてヒステリー治療のためクリトリスを刺激してオーガズムを与へる方法は一世紀の医学書
にはじまるとやら。
それでヒステリーを起す女性は医者に通ひ、手で「発作」を起す治療を受けてゐたのですつて。
しかしこれは時間がかかるし、患者のほうはともかく医者は退屈する。
そこで医者はこの仕事を助産婦任せにしてゐた。
十九世紀の末まで助産婦たちは、これをやらされてゐた。
でも、グランビルが一八八〇年代はじめに筋肉痛をやはらげる電気機械式バイブレーターを
発明して、この仕事がずつと楽になったのですね。
……
そして医師たちは、この肩や腰に使ふためのものを、体の別の部分に使へることに気づいた。
大変な変革です。ヒステリーの治療、あるいはそれに名を借りた快楽が機械化された。』
シャルコー、そしてフロイトへの時代ですね。
長くなるので、興味のある方は本書を熟読ください(笑)。

「ガイドツアー 複雑系の世界」 メラニー・ミッチェル 高橋洋訳 紀伊國屋書店 ★★★
最近とみにいわれるようになった複雑系、さてどういう定義がなされているのだろうか。
まあ線形方程式で解けるようなことではないんだろう、とは思うのだが。
『複雑なシステム(複雑系)という用語を、
「数多くのコンポーネントから構成されながらも、単純な運用規則を持つのみで中央制御機構を
持たない大規模なネットワークから、集合体としての複雑な振る舞い、複雑な情報処理や、学習、
進化による適応が生じるシステム」と定義できる。』
中央制御機構をもたないというのがポイントなのかなあとは思うが、もうひとつしっくりこない。
山中教授がノーベル賞をもらったので有名になったiPS細胞がそうではなかったか。
ヒトの細胞ってけっこうかっちりとしたプログラムをもっていないようだ。
まわりの状況に左右されるというか、うまく調和するように増殖、分裂してゆくんですね。
あと、ときにでてくるフラクタルという概念をこの際覚えておきましょう。
『フラクタルの典型的な例は海岸線だ。飛行機の窓から海岸線を眺めると、それは直線ではなく、
通常は数多くの入り江や湾や半島によってギザギザの形状を成しているようにみえる。
海岸沿いの道路を走る車のなかから同じ海岸線を眺めた場合にも、
規模は小さいながらもまったく同じような形状のギザギザを確認できるはずだ。
これは海岸に立って至近距離で岩場の形状をみたときにも、
さらには個々の岩の上を這うカタツムリの目で周囲の極小の世界をみたときにもおなじはずである。
この海岸線の例のような、異なるスケールのあいだに見出される類似性を「自己相似性」という。』
うーん、フラクタルな人生設計なんてメタファが小説にでてきそうな気がするなあ。

テーマ:読んだ本。 - ジャンル:本・雑誌



プロフィール

ムッシュ

Author:ムッシュ
島を旅するときが楽しいですね。
遠くに眺めるのも好きです。
楽園なんてないんですけどね。

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カレンダー

07 | 2013/08 | 09
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

カテゴリー