ムッシュの読書紀行
人生は旅のようだと言いますが、旅が人生かも知れません。 ぼくは活字中毒気味でもあり、旅はまだまだ続くでしょう。
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ねむり病
アフリカの風土病で、トリパノソーマ症ともアフリカ睡眠病ともよばれる感染症がある。
ツェツェバエが媒介する寄生原虫トリパノソーマによって引きおこされる。
病状はというと睡眠周期が乱れてきてもうろうとした状態になってしまう。
さらに症状がすすむと、昏睡状態になって死に至ることもある。
これが病名の由来となっているだが、最初にうける印象とはずいぶんとちがっている。
シャルル・ペローの童話集にある「眠れる森の美女」のイメージと重なってしまうからだろうか。
こんなことを知っているものだからか、昼休みの読書中に眠くなるとふとうかんでくる。
もしや、ねむり病にかかってしまたのだろうか(アフリカに行ったことはないのだが…)と。
これはヒトのもつサーカディアン・リズムという生理現象ゆえなのだが、これじゃあ興ざめです。

N3172秋桜

「天使のゲーム」 上下 カルロス・ルイス・サフォン 木村裕美訳 集英社文庫 ★★★★★
前作「風の影」とおなじく舞台はバルセロナ、ときは1971年。
17歳のダビッド・マルティンは『産業の声』紙という落ちぶれた新聞社で雑用係をしていた。
あるとき短編を書くチャンスをあたえられ作家としてのスタートをきった。
やがて独立し、偶然にも以前から通るたびにあこがれていた「塔の館」に住むことになった。
ある日、謎の編集者アンドレアス・コレッリから執筆依頼をうける。
その内容は、一年間わたしの依頼する本だけに専念しテーマは契約後に話すという。
そして莫大な報酬が支払われた。
それまでの契約で拘束されていた出版社は放火され経営者もろとも焼けてなくなってしまった。
さらには「塔の館」の前住人ディエゴ・マルラスカが不審な死をむかえていたことがわかる。
そんななかでコレッリはいうのだ。
『役立たずの者にかぎって、まず自分のことを専門家だと言ってくる。
残虐な者は、情けぶかい人間と称するし、罪人は信心家、高利貸しは慈善家、くだらん人間は愛国者、
低俗な人間は上品で、能なしは識者というぐあいです。これもまた、すべて自然のなせるわざですよ。
自然とは、昔の詩人たちが詠った妖精などではない。自分が生きつづけるために、つぎつぎ子を産んで
は食べて栄養にしていく、残酷で貪欲な母ですから』
マルティンがあこがれていながらも、富豪の御曹司と結婚してしまったクリスティーナ、
みずからも文学を志すアシスタントのイサベッラ、恩人ともいうべき書店主センペーレなど
おおくの人物が彼の人生をいろどりながら、物語りは意外な方向へと転じてゆく。

「沈黙の町で」 奥田英朗 朝日新聞出版 ★★★★
夏のはじまりのある夜、中学校に居残っていた担任飯島教師あてに父兄から電話がかかった。
息子がまだ帰らないがと、念のため校内を見回ると部室脇の側溝に倒れている生徒を発見した。
すでに死亡していたが、シャツをめくると背中には紫に変色した痣が無数にできていた。
これは事故か自殺か、それとも殺人なのか。
ミステリのような展開になってゆくのだが、…。
桑畑市立第二中学の二年生で、クラブ活動をしていた同級生たちに警察の尋問がはじまった。
同級生の市川健太、坂井瑛介そして安藤朋美らの青春群像がえがかれてもいるのだ。
亡くなった生徒(名倉)はほんとうはどうして死にいたったのか。
『写真で見る名倉祐一は、絵に描いたようなひ弱なお坊ちゃまだ。
そういう子が男子たちの輪の中でどう扱われるか、自分の中学時代を思い返せばすぐに答えは出た。
中学生は残酷だ。恐らく人生で一番の残酷期にあるだろう。
それは自立への過程で噴き出る膿のようなものだ。
みながもう大人には泣きつかないことを知り、自分たちの生き残りゲームを始める。』
イノセント・ワールドなんてじつはどこにもないって知ってた。
だいたいが、なぜこどもがイノセントであるものか。こどもは直截的なことはだれでも知っている。
大人よりも残酷無比なところも多々あるだろう。よく見ていればそんなことはすぐに分かるはずだ。
いじめだと簡単に決めつけてことが解決する、ことではないかもしれない。
こうした時代を抜けてみんな大人になってゆくんだろうか。

「本は、これから」 池澤夏樹編 岩波新書 ★★★
電子書籍とやらが世間では騒々しい話題になっているようである。
いつの時代にでもお金になりそうな周辺には、人々が群れ集うのは世のならわしなのか。
まあそれとは別に、グーテンベルク以来の革命だという方もおられる。
あるいは一方で、読書離れがさらに加速されるのではと悲観的な意見もきかれる。
まあ、わたしからすれば無くなるものは亡くなればいいのではと単純である。
いろんな方々がいろんな意見・提言・予想・感想を書かれているので興味のある方は一読を。
それとは別にこんな素朴なというか、ステレオタイプな方がおれれるのかと驚いた一文。
『いまから十年ほど前、ベトナム戦争のその後の取材でベトナムを訪れたときのことです。
目抜き通りに大型書店があったので、立ち寄りました。
そこで、万引きをした若者が店員に捕まる瞬間を目撃しました。
若者が万引きをしようとしたのは、英語の教材でした。きっと高価なものだったのでしょう。
でも、漫画や猥褻な本を万引きしようとする、どこかの国の若者とは大きな違い。
万引きはいけないにしろ、知識欲の旺盛さには圧倒されました。』
これをかかれたのは、池上彰という方、ジャーナリストだそうですが…。
英語の教材は高価なんでしょうから、盗んで学ぶよりは転売するほうがありそうですね。
この出来事から、「知識欲の旺盛さには圧倒されました」へとつなぐのは無理があると感じる。
単なる思いこみの強い世間知らずな方というだけ、なんでしょうか。

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ドクショシュウカン
なぜか秋になると、読書をしましょうという運動がどこからともなくはじまる。
枯れ葉の舞う窓辺でロッキングチェアーにゆられながら、というイメージであろうか。
(これってミス・マープルの世界じゃないか、というなかれ)
読書週間といわれても、ふだんちっとも本を読まない者にとってははなはだ迷惑である。
一週間のうちに○冊読まなければ、牢屋に収監するぞと強制(矯正)でもしなければ無理かもしれん。
しかしこういったことは、すべからく自発的な衝動からなされなければ効果はうすい。
自発的というなら、催眠療法がいいのではないかという方は偏った本の読みすぎのきらいがある。
読みたいと思わせるような本があれば、おおくの人は本を手にとるようになるのである。
一冊読めばこれはおもしろいとあとは連鎖反応のごとし、まさに読書習慣が身につくのである。

N3180コスモスとツマグロヒョウモン

「世界の翻訳家たち」 辻由美 新評論 ★★★★
『「翻訳は歴史のなかでもっとも古い職業のひとつ」、
私がアルルやパリで出会った翻訳家たちはよくそう言っていた。
異なる言語をもつ人たちのあいだのコミュニケーションの必要はたしかに太古の昔からあった。』
そしていろんな国の翻訳者たいにインタビューする。
平安時代の日記を翻訳するフランシーヌ・エライユさんはこんなことをもらす。
『日本人にとって、日本の古典はそう接近しやすいものではない。
私たちが現在使っている言葉とはまるで違う言葉で書かれているので、ふつうの人にはなかなか読めない。
外国語に翻訳されたもののほうがずっとわかりやすかったりする。
これが翻訳というものの面白いところだ。』
なぜ翻訳するのかという問いには、
『なぜ翻訳するかといえば、たぶん、よりふかく理解するためでしょうね。
たとえば、ある制度の名称のような日本史の用語を前にしたとき、
もしそれをフランス語に翻訳せずに日本語のままとらえたとすれば、
その語の意味についてほんとうによく考えたのかどうか、きっと自分でも確信がもてないでしょう。
それに、私が日本の歴史について書くのは、もちろん日本語ではなく、フランス語の本なのですから。』
ちょっと耳が痛くなる人が日本にはおおくいそうな気がするのである。
ユリア・タルディ=マルクースさんはこんなことをおっしゃる。
『スイス育ちなので、子どものときから私はある程度までドイツ語・フランス語のバイリンガルでした。
けれど真の意味でのバイリンガルという人は、おそらくいないでしょう。
その人があるがままの姿に帰着される言語は、どちらかの言語でしょうね。
精神分析をうけていたとき、フランス語でなら、プライベートなこととか、
だれそれに惚れているとか、恋愛の体験とか、でれでれとなんでも言ってしまいます。
ところが、分析医に「それをドイツ語で話してごらん」と言われたとき、
そんなこと、恥ずかしくて、とてもしゃべれなかった。
ドイツ語で話すときについてまわる恥ずかしさが、フランス語だと消えてしまうのですね。
ドイツ語だとバカが言えなくなる。
母語はやっぱり母語なのですね。その言葉で、考えること、書くこと、読むことを学んだのですから。』
いろんな国のいろんな書物が読めるしあわせに感謝してもしきれないですね。

「完本・紙つぶて」 谷沢永一 文藝春秋 ★★★★
「つぶて」は投げる小石の意味だが、文章でやっているというので「紙つぶて」という。
もちろん、敵や盗賊などに投げつけるわけだが、同様にいろんな本にむかって投げつけるのだ。
谷沢氏の本書でいろんな興味深い事実を知り、そこからまた考えるということになる。
『與謝野晶子の詩「君死にたまふことなかれ」は、
トルストイの論説の用語を拾い集めて綴った作品だった。
木村毅が『トルストイ展カタログ』(昭和四十一年十一月)に寄せた論文
「日本におけるトルストイ」で初めて指摘して人々を驚かせて以来の定説だ。
トルストイの有名な非戦論がロンドンの『タイムズ』紙に出たのが明治三十七年六月、
そして早くも八月七日付『平民新聞』に、幸徳秋水と堺枯川が巧みな翻訳で紹介、
昌子はそれを読んで作詞し、九月の『明星』に発表した。』
こういうことは、だれもなかなか教えてはくれません。
『昌子は鉄幹と結ばれるため老舗を誇る家を飛び出し、親を捨てた不幸者だという自責の念が強く、
自分の代わりに家を継ぎ親に仕えてくれることを末の弟に熱烈に期待していた。
問題の詩には、社会や国家が視野になく、
「旧家」「家を守り」「母のしら髪」など、「親」と「家」の心配だけだ。
商家の倫理と意識を純粋にうたい上げた詩を、素直に鑑賞せず、
何でも反戦思想にこじつけた戦後思潮を反省すべきだろう。』
いまでも八月になると、この詩が反戦思想との思いこみで紹介されテレビ番組がつくられている。

「政治的に正しいおとぎ話」 ジェームズ・フィン・ガーナー
     デーブ・スペクター 田口佐紀子訳 ディーエイチシー ★★★

アメリカにはPC(Politically Correct)「政治的に正しい表現」がある。
差別や偏見にもとづくものや、少数派・少数民族に不快感を与える表現を制限しようという運動だ。
PC派は、グリム兄弟やアンデルセンの童話が「差別だらけだ」と攻撃してきたのです。
そこで、ガーナーはあえて名作童話を過剰なPCで書きかえることにしてみた。
皇帝の新しい服(日本では、はだかの王様ですね)のなかの仕立て屋は、
『陛下が、陛下の領土にいてほしい、とお考えになるような人たち、
つまり、政治的に正しく、道徳的にまっとうで、知的にシャープ、文化的に広い心をもっていて、
そのうえ、タバコも吸わなければ、酒も飲まない。
性差別的なジョークには笑わず、テレビは見すぎず、カントリー・ミュージックも聞かないし、
バーベキューもやらない、そういう人たちにしか見えない布なのです。』と答える。
白雪姫もこう説明される。
『「白雪」というニックネームがついていましたが、この表現には、白い色こそ感じのいい魅力的な
色で、黒い色は感じが悪く魅力的ではない、と連想させてしまう差別的な考えがひそんでいます。
白雪姫はごく幼い時期から、こうした有色人種差別的な考えかたのネタにされていたわけです。
彼女がそれを知らなかったのは、幸運でした。』
ただそれだけで問題は解決しないということは、だれもがうすうすは分かっている。
ではあるが、この問題を考えてみたいという人にはおすすめできます。

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ダリア一輪
去年訪れた黒川ダリア園でいただいたダリアの種からみごとに咲いた。
いくつか種から発芽したうちのひとつがおおきく高く育ったのだ。

孤高を誇るかのようにたったひとつ庭で花開いている。
先日の台風による強風にも倒れることなくしなりながら持ちこたえていた。

すこし雨のしずくが残っているのがわかる。

N3194ダリア

化粧のにおい
小学生のころ、おばあちゃん家へ行くのに市電(路面電車)に乗っていった。
いまでも憶えているのだが、そのなかで強烈なにおいに遭遇した。
乗りあわせたおばさんの白粉のにおいだったと思う。
それまで乗り物酔いになったことはなかったが、はじめて気分がわるくなった。

それ以来、白粉のにおい=化粧=乗り物酔い、という等式が脳のなかにできあがったようだ。
だから高校生ごろまではよかったが、化粧をしてる女性には近づきたくなかった。
いや、近づきたいのだが、化粧(白粉から化粧品一般に拡張)のにおいが嫌だったのだ。

それでもだんだんと慣れて免疫もできるかと思われたが、どうしても嫌な気分はのこった。
そんなときには、鼻をさわるくせのようにして指で鼻孔をふさいだりしていた。
きっと気づかれていただろうな、とは思うがやめられなかった。
それで、いつのまにかそれが癖になってしまっていた。

だが「例外のない法則はない」といわれるように、嫌じゃない化粧品のにおいもあるのだ。

どこのメーカなのかは知らないのだが、そのにおいははっきりと覚えている。
硯で墨を摺ったときにたちのぼるにおい、といったらいいのだろうか。
ときどき街ですれちがう女性にそのにおいをかぐと思わず振りかえってしまう。

8018ホテイアオイ

ヒトは嗅覚が退化した動物だ、といわれたりするが眉唾である。
女性の好みは、男性の汗のにおいに微妙に影響されるという研究もある。
無意識下では、好ましいにおいというのがかならずある、というのである。
でなければ、こうも世のなかに化粧品のにおいが漂っている理由がわからないではないか。
このあたり化粧品会社も研究していますからね、なにせ生活がかかっています(笑)。

化粧の理由
女性はなぜ化粧しているのだろうか。
当事者はどう思っているのだろう、と疑問はあるわけです。

「いつもかならず出かけるときに化粧してるけど、どうして?」
「だって、エチケットみたいなもんでしょ」
「だれに対する?」
「世間一般というか、マナーなのよ」
「じゃあ、化粧しない人ってマナー違反になるのか」
「そうよ、陰でなに言われるかしれたもんじゃないわよ」

「そうかなあ、化粧してないと不安になるんじゃないの」
「どういうことよ?」
「だってだれもがしてるから、つまり横断歩道みんなで渡ればこわくない、って」
「そういう面もあるかもしれないわね」
「それにいちいち面倒じゃないの、ゴミ出しのときでもしなきゃってのは」
「だれかが見てるかもしれないじゃないの」
「見られたっていいじゃない、っていうか見てないと思うけど」
「それがねえ、案外見てるものなのよ、あそこの奥さんすっぴんだったなんて」

「すっぴんでも、十分きれいだよ」
「あらまあ、ありがとうございます、ってむかつくわね」
「ほめて怒られたら割りあわないなあ」
「そういうときにほめるのって、莫迦にしてない?」
「ちょっとちゃかしてしまいました、反省します」
「なんでもすぐ反省すればいいって思ってるんじゃないでしょうね」
「うっ、ごめん(汗)」
(なんでいつもいつも、こうなるんだ)

しかし、いろいろと見聞をひろめてゆくと行きつくところがあるのかもしれません。

8006いもむし

化粧今昔
まあひとくちに化粧といっても時代で変わる。
ひとむかし前まではアイシャドー・アイラインは玄人衆のなさることだった。
一般の素人さんはそういった化粧法はしないのが常識だった。
(常識は時代とともに、あるいは社会によってちがうのは常識である)
(そう区別をすることで、玄人と素人のあいだに一線を画していたともいえる)

逆にいえば、玄人と素人の差がなくなってきたということ。
べつの言い方をすれば、プロとアマとの間のハードルが低くなっている。
アマチュアのレベルが高くなったのか、プロフェッショナルが頼りないのかの問題(?)。
アマのプロ化、あるいはプロのアマ化、あるいは「あまちゃん」時代の到来(!)。

8025アスター

そうそう「お歯黒」という風習がありました。
既婚の女性は歯を黒く染めて、ひとめで未婚女性と区別できるようにしていました。
時代劇など映画やテレビでも、以前はよくみかけたものですが。
(最近はみないですね、なぜだか知りませんが…)
(映画ではまだ時代考証など厳密(?)だから、やっているのでしょうか)

しかし、ファッションとおなじで化粧のしかたも変化してゆくのである。
刺激(この場合は化粧)にはだんだと慣れてくるんですね。
ある意味、化粧は他との差別化だからこれでは困る。
で、だんだんと過激になってゆくのである。

まあ、なにごとも限度はあるのですが…。
いけるところまでは、いってしまうという性質をもっている。

しかしファッションとおなじだから、かならず振り子のようにゆれもどす。
これは無から有へというのではないですね。
無彩色のなかでの明度のちがいのようなものでしょう。
髪を染めるのは昔は不良(芸能人含む)のすることでしたが、いまでは一般的になっています。
このあたり、ご理解いただけるでしょうか(笑)。

化粧の由来
アフリカなどの部族社会では戦いのときに化粧をする。
化粧は男に勇気と力を与えると考えられており、化粧は儀式化している。
ハレとケの区別のように、化粧は気持ちに区切りをつける役割もはたしているようだ。
化粧をすると、きりりと気が引きしまり緊張も高まる。
(ということからいえば、女性はつねに闘いにいどんでいるのであろう)
(なにに対してという問いについて、わたしには答えられない)

日本社会ですぐに思いつくのは、歌舞伎に隈取というのがある。
これも化粧の一種なのだ。
顔の血管や筋肉を誇張するために描かれているんだとか。
化粧もする側と、それを見る側があるわけだ。
刺激と反応の関係は、しばしば極端なまでに昂進することがある。
たとえば、クジャクのきらびやかな羽根がそういうことだ(どんどん巨大化する)。
人でもそういうことがありました、紅白歌合戦の豪華・華美なる衣装合戦。

8017蜂とノゲイトウ

と考えてくると、化粧は存在の誇示だといえる(ような気がする)。
わたしがここにいますよ、なにか文句がありますか。
いつものわたしとはちがうのがわかるでしょう、うっふん(ある意味ぞくっとします)。
やはり戦闘準備体制完了という気構えをもつためなんでしょうか。

しかし化粧のなぜは留保しても、産業的にはすごいものがある。
日本国内にいるとあまり気がつかないが、外国旅行などするとすぐ目につく。
空港、免税店など、化粧品の広告だらけなのである。
逆説的に、化粧および化粧品はゆるぎなき地位をきづいているということだ。

女性がいない国がないように、化粧のない世界は想像できない(?)。

化粧化する社会
男は化粧しないと思っていたが、最近ではそうでもないらしい。
女もすなる、化粧といふものを、男もしてみむとて、するなり。
という一種挑戦というか、男女平等精神の遵守なのかは知らない。

ただやっかいなのは、化粧とはどういう行為までをいうのかだ。
たとえば、ひげを剃るのは化粧の範疇にはいるのだろうか。
それはマナーのうちではないの、というような意見もある。
(アラブ世界でもひげを生やさない若者が増えているそうだ)
(「ひげ」といっても、くちひげは髭、あごひげは鬚、ほおひげの場合は髯となります)

マナーといえば、女性が化粧することはマナーでしょうといったこともきく。
そうかなあ、しようがしまいが自由なんじゃないのと思うのだが。
化粧をしないことは失礼だとまでいうのである。
(もちろん化粧の上手・下手は不問に付すらしい)

化粧しない女性を知っているが、化粧水程度はつけるといっていた。
となると、化粧とはやはりどの範囲をさすのかといったことが問題である。
テレビですっぴんというから、化粧していないのかと思ったらそうではなかった。
薄化粧くらいをいうのだとか、こうなってくるとなにがなんだかわからない。
(どのくらいまでが薄化粧というのもかなり範囲がひろくて…)

そういえば、女性は謎だとだれかがいっていたよな。

わたし自身のたった一度の経験でいえば、化粧した自分を鏡で見てぞっとした。
(友人と旅行した若きころに、なぜか夜のお遊びでそんなことをした)
美しくないのである(女形はなぜきれいなのだ?)。
のではあるのだが、なぜだかもういちど鏡をのぞきたくなる衝動があったこともたしかだ。
こわいもの見たさもあるが、なぜ化粧するのかがなんとなくわかったような…。
こんなことを考えるのも、そんな記憶がどこかにこびりついていたせいだろうか。

8008ヘンリーヅタ

カイギシュギ
懐疑主義とは対極にあるひろく日本社会に蔓延している会議主義のことである。
一種の儀式なのであるが、当然その前には根回しとよばれる合意形成の動きがある。
上意下達がある意味至上(市場?)の論理であるから形式はことのほか重要視される。
形というのは逸脱を嫌うから、なぜこうしなければという懐疑はゆるされることではない。
といって反論ができないという非民主的なことではなく、反対はおおいに歓迎される。
最終的に数の論理で否定されるのだが、反対があったということで結論の価値はおおいに高まる。
反対なき運動は盛りあがりに欠けるし、補償額が高どまりしないという経験則が知られている。
つまり会議というのは議論する場ではなく、手続きなのだからなくすことはむずかしい。
会議をどうするかという会議をすることぐらいが、できる最善のことなのかもしれない。

N2631本棚

「人とつき合う法」 河盛好蔵 新潮文庫 ★★★★
ヒトは人の社会を構成して、はじめてそのなかで生きていくことができる。
であるから、当然どうつき合っていけばいいのかの智恵はどこかにあるはずだ、と考えなくもない。
しかし、とおりいっぺんの説教など聞きたくもないというのが正直なところである。
で、谷沢先生がいつもほめている本書をやっと読んでみようかという気になった。
『しかし居直って言わせてもらえば、たいていの人間はみなそれぞれイヤな部分を具えているのでは
ないか。人間的なというのは、イヤなやつだというのと同意義語であるかもしれないのだ。
そして、このイヤな部分によって、お互に反発すると同時に、お互に愛し合うばあいも少なくないの
である。人間の長所美点は、ふしぎにその短所欠点と結びついている。
どこから見ても、非の打ちどころのない人間などというものは、私などから見ると、ほとんど魅力がない。
そういう人間は、ある意味からすると、「イヤなやつ」ともいえるのである。
こちらのひがみであるかもしれないが。それはともかく、人とつき合う法は、
この自他のうちにある「イヤなやつ」の処理から始めなくてはならない。』
なるほど、身の程も知らないといけませんね。
『(アンドレ・プレヴォーというフランスのユーモリストの「楽天家用小辞典」に)
「約束」というところには次のような定義が出ている。
「選挙のときに使われる小銭。 漠然とした約束は拒絶の最も丁寧な形式である。
決して約束を守らない人間に対してあまり厳格であってはならない。
彼らは希望の種をまく人々であるから」』
それに約束違反を声高かにいう人が約束を守るかというと、選挙のたびに思い知るのであります。

「内臓とこころ」 三木成夫 河出文庫 ★★★★★
どこかで養老先生の紹介文を読んで、以前「胎児の世界」(中公新書)を読んだのを思いだした。
どこかありきたりの学者先生とはちがうなあ、という印象だったが、思いあらたにした。
『ふつう生理学では、なにか物を見て、それを神経が脳に伝え、
その指令が、こんどは筋肉に及んで、運動になって終わる。
そのように教わりますが、この、つまり、感覚が原因で、運動は結果だという考え方は間違いです。
その証拠に「犬も歩けば棒にあたる」というのがあるでしょう。
動いたから新しい感覚が起こるということもあるわけです。
ここでは運動が原因で、感覚が結果です。だから正確に申しますと、感覚と運動というものは、
どちらが原因で、どちらが結果であるというものではない。
原因・結果として結び付けるのはじつは人間の、どうしようもない“わがまま”なのです。
あるいは道楽といってもいい……。それじゃあ、どういえばいいのか。
「感覚あるところに運動あり、運動あるところに感覚あり」。
どちらがあと先ということはいえない。
感覚と運動はたがいに聯関する、というのが正しい言い方です。』
ね、ちょっとちがうでしょう。いろいろ紹介するより是非読んでいただきたい。
「脳-体壁系」「心臓-内臓系」という図式の話など興味深いと思います。
これがアタマとココロという日常の言葉にどうつながってゆくのかなど…。

「警視の偽装」 デボラ・クロンビー 西田佳子訳 講談社文庫 ★★★★
ダンカン・キンケイド警視シリーズも十二作目、ジェマ・ジェイムズ警部補もいつしか中心人物に。
今回はジェマが友人に頼まれて、オークションに出品されているジュエリーを調べることになる。
そのジュエリーは戦争中になくしたはずだったが、精巧な細工でかなりの高額なものだ。
その友人の父親が作ったものでもあり、ユダヤ人であったことから謎につつまれているようだった。
ところが、調べはじめたときにその店の従業員がひき逃げにあって死亡してしまう。
事件のにおいをかぎつけたジェマはキンケイドに捜査を担当してほしいと頼むのだった。
ユダヤ人の父親にまつわるて戦中戦後の出来事が、捜査がすすむにつれ明らかになってゆく。
事件性もあるが、戦争とユダヤ人の問題についても考えてしまう作品になっている。
まずは読んでミステリを楽しみ、またいろいろと思い考えることも楽しいことではないだろうか。

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プロフィール

ムッシュ

Author:ムッシュ
島を旅するときが楽しいですね。
遠くに眺めるのも好きです。
楽園なんてないんですけどね。

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