ムッシュの読書紀行
人生は旅のようだと言いますが、旅が人生かも知れません。 ぼくは活字中毒気味でもあり、旅はまだまだ続くでしょう。
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冬の花火
今夜は三島の友人のアパートメントに泊めていただくことになる。
いろんな料理をつつきながら、どうしても思いは過去へと飛んでいかざるをえない。

若いころのいろんな想い出は、貴重な財産だといまになってわかるのである。
ヒトという種は群れをグループをつくって生きるように進化してきたようだ。
だからこそ、若いときには一人旅などにこだわってしまうのだろうか。
独りにならなければ、仲間の家族のよさはわかりえないのかもしれない。
近縁のサルなどもオスはひとり群れを離れて生きるものがいることが知られている。

いつかは散りゆくこの身なれども、という思いがあるからだろうか。
花火は見る人びとを魅了し、ひとときの陶酔にいざなう。
おおきくドカンと炸裂する音に首をすくめながらも目は花火を追っているのだ。
夜空に咲く花火と、青春の日々を二重写しにすることになんのためらいも感じはしない。
はらはらと舞い落ちる火の粉を遠くにながめながら忘却の彼岸を思うのだ。

N3823冬の花火

N3827冬の花火

ふと花火のさまざまな色に驚くのである。
色とはなにか。
もしこの世界が色に満ちていなかったらなどと妄想するのである。

N3836冬の花火

N3847富士の花火

花火の終わった喧噪の後が好きだといったらどうだ。
倦怠感につつまれることの意味は夢幻である。

というようなところで、今年の冬花火の印象は終えよう(笑)。

8092箱根神社

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夕景にうかぶ
去年も見てよかった冬の花火をまた見たい、ということでふたたび東征することになった。
考えてみれば、旅することによって得たことは多かったのだといまさらながらに思う。
こうしていまも若いころのように旅していることに、ときに驚く自分がいる。

N3623常滑

もちろん、旅していていいことばかりということはありえない。
人生がしあわせにばかり満ちていないとおなじようにだ。
だが時間の流れとは不思議なもので、過去の出来事をなにか濾過していくようでもある。
あるいは、物の見方が変化することによって印象が別の相をみせるのだろうか。

だから、あるエピソードについてもどうなんだかな、といまは思うのだ。
かたくなに自己の見解を変えないことを「ぶれない」というようだが、そういう立場もある。
そういう方々はある時点でまちがっていたと感じた(!)ときどうなさるのだろうか。
過ちては改むるに憚ること勿れ、ともいうではないか。
だが、じつはどちらの立場もとりうるものなのである。
それよりは「ぶれない」ということで論点をずらし、ぼかすほうが問題だと思うのだ。
ぶれてる云々よりその問題についての見解を論議することを忘れないでほしい。

おっと、それこそ横道にそれそうなので元にもどす。

N3752びゅうお

N3690帰船

N3719夕陽

これは沼津港大型展望水門「びゅうお」なのだが、ちょうど夕焼けの景色をみることができた。
人は日の出、日の入りの光景になにか荘厳なものを感じる習性があるらしい。
それは生まれそしていつかは滅するということとどこかでつながっているのだろう。

それぞれがそれぞれの想いのなかに沈んでゆく情景でもある。

N3713水平線と船

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かくしゃくたる人
仕事先から帰るためいつもとはちがう駅から乗ったときのこと。
地下鉄車内はそんなに混んでなくて、なんなくすわることができた。

しばらく読書していて、ふと気づくと前のシートにおばあさんが座っていた。
なにげなく見ていると、クッキーの缶のようなものから裁縫道具をとりだした。
なにをするのかと見ていると、メガネもかけずに針に糸をとおしている。
ほお、たいしたもんだと思って読書をつづけた。

すると隣の車両にいた高齢のご婦人が彼女のとなりに駆けてきてドスンとすわった。
「なにを縫われているんですか」
「○○をしているんですよ」
「すごいですね、老眼鏡もなしで」
「こうやってると、時間がはやくすぎるんですよ」
「お元気そうですね、おいくつですか」
「大正七年の生まれです」
「えっ、ほんとうに?」
「もう90半ばになりました」

この会話が聞こえてきて、おやっとふたたびおばあさんを見た。
まあ70代ぐらいのものだろうと感じていたわたしの予想はおおきくはずれた。

それにしても、そのお歳で時間がはやくすぎるのがいいとは。
もはや、達人に域にたっしているといっても過言ではない。

N3484鴨たち

よく遊べ、よく真鍋
さて今日はどうするかというと、宇治に行ってみたいと要望がでた。
ではと、宇治在住のKZさんに連絡して案内していただくことになった。
いろいろと無理難題(?)、お世話になりました。
ここブログ面に記し、お礼申し上げます。

宇治といえば、良質な茶を産することで有名である。
ということで有名な中村藤吉本店へ、お茶問屋でもありカフェを併設している。
なんと開店前から長蛇の列である。
本来なら並ぶことなどしない吾輩であるが、ここはしかたがない待ちましょう。
どうも短気なんでしょうね、脚はわりあい長いんですけどね(笑)。

庭にはこんなちいさな柿が実っておりました。
(支那というかチャイナというのか、翁柿という品種だそうだ)

N3565翁柿

宇治といえばもうひとつ、平等院鳳凰堂があります。
ですが現在修復中ということで仮囲いのなかにありましたので、水面に映る晩秋を。
ということなので見学料も半額になっておりました。

N3589平等院の池

N3590紅葉

こうして歩いていると、ふと思うんですね。
おれたちって、いったいどういうグループ(団体・仲間)なのかなって。
ただ若いころに旅先で知りあったということだけなんだけど。
いや、そうだからこそいいのかなあ、なんてまた思いなおしたりして。
どんな過去の経緯であろうと、まあいいかなんてちょっと面倒くさくなって。
でも、なんだか不思議の気分は残るんですよ。

いつしか夕暮れてもうお別れの時間であります。
また会えるよね、また会いましょう。
では、では、ごきげんよう。

N3580白さぎ

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ルミナリエに集う
なんとなく恒例になった感のあるルミナリエ宴会であります。
東京、岐阜、滋賀、奈良、大阪、兵庫などから16名+1名が集う会になりました。

もう19回目になった今年のテーマは「光の記憶」です。
神戸市役所1号館(震災後に建てられました)の24階の展望ロビー(無料)にのぼります。
ちょうど夕景にであって、なんだか荘厳な気分になりました。

N3516夕陽

N3520空からルミナリエ

月日の経過はすぎてしまえばつくづく早いものだと思う。

N3526市役所とルミナリエ

さて、今回はサプライズ(?)な参加者もあり、にぎやかに宴会がはじまりました。
リクエストがあったので、ひさしぶりに「ロック・マイ・ソウル」をやった。
なんだか懐かしかったですね。
あとから、ああすればよかったなあとか、あの説明をいれなきゃいけなかったと反省しきり。
でも、なんとか声もでてたし、まずまずだったのではと自己弁明。
(ちょっと酔っていたので、失礼があったらごめんなさい)

記憶って昔のことは忘れないものです(変形してるかもしれませんが)。
最近のことはよく忘れるんですがねえ。
二階へいく途中で下から声をかけられたら、なんの用だったのかすっかり忘れてしまって。
また降りて、なにかしているうちに忘れたことも忘れたりして。
まったく困ったものだ、ということもいつしか忘れてしまうのだろうか。

N3541ルミナリエロード

人のすることですから、いつまでもというのはありえません。
ですが、また会いたいなと思うことで頑張れるということはありそうです。
みなさん日々節制につとめられ、元気に再会できるようおすごしください(笑)。

N3552ルミナリエ会場

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ひさしぶりにTさんに会った
遠くからみてもすぐにわかる。
もちろん若いころとはおたがい様変わりしているのだが。
でも、たしかに彼女だと認識できるのはなぜだろうか。
そんなことを思ってしまうのである。

若いころの姿形、話しぶり、笑い声がふとうかんでくる。
いまここに居るのは、はたしていつの彼女なのだろうかと。
現前するフィジカルな彼女と、ニューロンネットワークにある痕跡とが同時に存在するのだ。
いま見ているずっと向うに、むかしの彼女を同時に感じ、見てもいるということだ。
これは比喩的な意味だけではないのだが、つくづくそう思うのである。

N3456北國街道安藤家

N3472近江八幡

酒を呑むと、視覚的認識の精度はどうも低下する傾向にある。
フォーカスもゆるくしかあわないし、女性ならしわが消えて若いころに一時的にもどる。
精神がおおらかになるというか、あいまいに陥るといえばいいのか。
あるいは、理性で抑えていた建前が莫迦らしく思えてくるとかもあるのだろう。
そして突然、なんの脈絡もなくあるエピソードが思いだされたりするのである。

N3488水ケ浜カフェ

N3494大山崎山荘の紅葉

島から帰るとき、連絡船に乗ったら彼女がいた。
(勤めの銀行は辞めて、ヘルパーをしているときいた)

「あれっ、どこかへ行くの」
「ちょっと、笠岡までよ」
「どうしたの?」
「お魚を食べたら、歯が欠けちゃった、ふふふ」
「それは困ったことだな、はっはっは」

と笑うので、ぼくもつられて笑った。
東京の人なのでついついぼくも関東なまりになるのだった。

おたがい二十代なかばごろだった。

N3511ボールをつかむ鉤爪の上の野兎

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読立読歩
いつかは旅立たなくてはならないさだめに、人はなっている。
とある町かどで、壁にもたれながらしばしの休息を読書にあてたりすることもある。
ヒトは直立することによって、前足は自由を手にいれることができたともいわれている。
その手をじっと見つめる詩人もいるにはいるが、なにかをつかむことが可能になった。
一方、足はあいかわらず身体をささえ移動するときには二倍の荷重にたえている。
しかし筋肉とは不思議なもので、鍛えれば鍛えるだけ強くなっていくようだ。
逆に、楽をすると楽をしたなりの状態に適応していくことも事実である。
このそれなりにというところが、ヒトのおもしろいところだと私は思う。
どこまで読めるのか、歩けるのか、せいぜい頑張ってみようと考えているのである。

N3377むかしの電話

「面白い本」 成毛眞 岩波新書 ★★★★
『ただただ、ページをめくるのが楽しい。
これが読書の喜びであり、その喜びに耽溺してしまうのが本読みというものだと私は思う。』
という著者は、ノンフィクションの書評サイト「HONZ」を主宰しているほどの本読みである。
本書で紹介されるのは、全部あわせて100冊というからどんな本がと興味がわいてくる。
ただだれそれがこれは絶対おもしろいといっても、自分がそう思うか感じれるかは別問題である。
逆にだれもがおもしろいって本は、どうなんだというくらいの人がおもしろいのではないか(笑)。
まあ、100冊もあるんだから、これは読んでみたいという本が見つかる確率はかなり高い。
『医学も本読みには外せない分野だ。
良質なメディカル・ノンフィクションは探偵小説にも勝る第一級のミステリーである。』
とおっしゃるのはその通りで、フィクションはノンフィクションを超えられないと確信するほどだ。
世間でも、事実は小説より奇なり、といっていますからね。
最後に100冊中何冊読んでいるのか、つい数えてみました。
13冊でしたが、この冊数ってなんか微妙ですね。

「男もの女もの」 丸谷才一 文藝春秋 ★★★
丸谷さんが亡くなってもう一年が経ちました。
いろんなことを教えていただいたし、共感できることも多かったですね。
まあ小説はあまり趣味にあいませんでしたが、評論はきっぱりしていて好きでした。
『久しい以前、わたしはなにがしという通人から、色道の極致は男装した女と女装した男とが
おこなふことであるといふ説を聞き、そのややこしさに一驚を喫した覚えがある。
これに加ふるに例の上位とか下位とかの要素をもつてするならば、
事柄のもつれはいつそうはなはだしくなるであろう。
そしてこの極致とやらをうんと水割りしたものこそ、最初期の歌舞伎の方法にほかならなかつた。』
このように興味をもつ幅がひろいところも魅力的に感じるんです。
『西洋のもてなしの場合、お客が席につく以前に、ナイフとフォークのあひだに何も料理を入れてない
大きな皿が置いてある。それも模様なしの真白な皿といふことはない。
わりに単純な、大ぶりの、見ばえのする模様が描いてある。
あらかじめあれを飾るのは、美術史学のほうで言ふ「空白の恐怖」のせいだ
。何もない空白は魔的で恐しいから、そこを蔓草だの何だのの模様で補填する。
これは原始美術についてよく言はれることだが、実は西洋文明一般に見られる傾向である。
二十世紀の西欧人が居間の壁の一面に何点も絵をかけるのも、
それから食卓に見せ皿を置くのも、この空白への恐怖に由来する。
ところがわれわれ東洋人は、むしろ余白の美と称して空白を喜ぶ。そこに余韻を聞く。
だから山水画の天なんかほんとに広々としてゐる。
もつとも、中国人はあそこに代々の所蔵者の印を押したりする。
あれはいささか(といふよりもはつきりと)空白への恐怖がうかがはれるね。
日本人はそんなことはしない。まあよほどの中国かぶれなら別だらうけれど。
してみると、われわれこそ本当の東洋人か。』
なるほど、私は空白が好きなタイプのようですが、机の周りはちらかっています(笑)。

「不機嫌の時代」 山崎正和 講談社学術文庫 ★★★
時代の空気というか雰囲気というか気分というか、そんなものがあるとわたしも思う。
日露戦争のころ、ちょうど明治三十七年あたりが筆者のいう不機嫌な時代にあたるのである。
『志賀直哉の描いた青春より以前に、
これほど特徴的に不機嫌であった青春といふものは、日本にはなかった。
そしてその反面、これと同じ不思議な感情は、このとき三十代であつた永井荷風にも、
四十代であつた夏目漱石にも、さらには五十代であつた森鴎外にすら、偶然といふにはあまりにも
典型的なかたちでわけ持たれてゐるのである。』
では不機嫌とはどういうことをいうのか。
『「人見知り」と不機嫌はたんに見かけばかりではなく、本質的な性質のうへからもたがひに酷似して
ゐるといへる。いはば、「人見知り」はより防衛的な不機嫌であり、不機嫌はより攻撃的な「人見知り」
だといへるかもしれない。』
『ある意味で、不機嫌の引き鉄となる他人は自分自身の分身なのであつて、
それゆゑにしばしば見られるやうに、誰かにたいする不機嫌は容易に自己嫌悪にも変はるのである。
不機嫌な人間から見れば、それは他人であるがゆゑに不快な異物として感じられ、同時に自分の分身
であるがゆゑに離れることのできない存在として感じられる。いはば不機嫌とは、一方で強く孤独に
憧れながら、しかも他人との結合を求める矛盾した衝動の共存なのである。』
筆者は芭蕉のこんな句も引いている。
  うき我をさびしがらせよかんこ鳥

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島を旅するときが楽しいですね。
遠くに眺めるのも好きです。
楽園なんてないんですけどね。

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