ムッシュの読書紀行
人生は旅のようだと言いますが、旅が人生かも知れません。 ぼくは活字中毒気味でもあり、旅はまだまだ続くでしょう。
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メジロ様用蜜柑
風のないおだやかな陽がさす日には、モミジの木につるしたワイヤの籠にミカンをいれる。
もちろんメジロが皮をむくなんてできないので、横からまっぷたつに切ってある。
すると、どこからともなくメジロがあらわれて、鳴きながらミカンをついばんでいる。
気候のいいときにはあまり姿をみないのだが、冬は山に食べるものがすくなくなるのだろう。
去年のことを憶えているのだろうか、などと思いつつながめている。
残りすくなくなってきていた手元のミカンがついには底をついてしまった。
ヒトが食べる用のミカンは売っているのだが、少々高い気がする。
できれば、不揃いでも型崩れでもなんでもいいから安いミカンがほしい。
野鳥用ミカンなんていうのがあるとほんと助かるんだけど、などと思う今日この頃である。

N4054ミカンとメジロ

「動物と人間の世界認識」 日髙敏隆 筑摩書房 ★★★★
副題には、イリュージョンなしには世界は見えない、とある。
では日髙さんがいう「イリュージョン」とはどういうことを意味しているのだろうか。
『人間以外の動物たちも、身のまわりの環境をすべて本能によって即物的にとらえているわけではない。
むしろ本能とういうものがあるがゆえに、
それによって環境の中のいくつかのものを抽出し、それに意味を与えて自らの世界認識を持ち、
その世界(ユクスキュルによれば環世界)の中で生き、行動している。
その環世界はけっして「客観的」に存在する現実のものではなく、
あくまでその動物主体によって「客観的」な全体から抽出、抽象された、主観的なものである。
それは人間の場合について岸田氏のいう「現実という幻想」にあたるのかもしれない。
そのようなものを何と呼んだらよいであろうか?
 ……
そのようなことをいろいろと考えた末、ぼくはそれをイリュージョン(illusion)と呼ぶことにした。
イリュージョンということばは幻覚、幻影、幻想、錯覚などいろいろな意味あいがあるが、
それらすべてを含みうる可能性を持ち、
さらに世界を認知し構築する手だてともなるという意味も含めて、
イリュージョンという片仮名を使うことにしたい。』
たとえばチョウの見ている世界と、ヒトの見ている世界はちがうだろう。
ヒトから見れば意味のあるものでもチョウには意味がない。もちろん逆の場合もある。
人それぞれでも興味のちがいがあって、あなたにとって意味のあるものでも私は興味がもてない。
ということは日常でもよく経験もすることである。
だから会話がかみあわない、意思の疎通ができないということになる。
それぞれのイリュージョンのもちようがちがうのである。
『草原に木が点々と生えているときに、われわれは全体を見ることができるから、
そこ全体が環境、つまり木の点々と生えた、草原全体を環境とみる。
しかし、チョウにとっては、草原全体がその世界ではない。
アゲハチョウにとっては、草原自体はその世界の中には存在しておらず、
その草原に生えた、日の当たっている木だけが世界である。
モンシロチョウにとっては木は存在していないに等しく、大事なのは日の当たっている草原である。
同じひとつの場所を見たときに、人間とモンシロチョウとアゲハチョウとでは、
世界はまったく違っている。
ひとつの「環境」という言葉でくくってしまってはならないし、
それを客観的環境と呼ぶことは彼らにとっては意味がない。』
ということを忘れているようにみえる環境運動は、わたしにとってはむなしくはかなく思えるのである。

「左足をとりもどすまで」 オリバー・サックス 金沢泰子訳 晶文社 ★★★★
医者もときには患者になることがある。なってみなければわからないことも多々ある。
で実際に左足の大腿四頭筋腱切断というけがをしたときの経験を書いたのが本書である。
(じつはこの本を読むのは二度目である、途中で気がついたがおもしろかったので最後まで読んだ)
ファントム(幻影肢)という症例をご存知でだろうか。
事故などで肢を切断したあとも、あたかもまだ肢があるかのように感じる症例である。
痛んだり、かゆかったりするのだが、さすったり掻いたりしようにも肢は存在しないのである。
これとちょうど反対のことがサックスの身にふりかかった。
医者は問題ないというのだが、そこに自分の肢があるという感覚が、実感がないのである。
そのとき気づく。そんな状態に陥った患者の心中はどうのような絶望感におおわれていただろう。
外科的な治療がすんでも、それで治ったとはいえないのである。
こころが健康な状態をとりもどせなければ、治癒したとはいえないのではないか。
こうした観点は、病状を検査の数字ばかりで判断する医者にはないだろう。
サックスは事故で入院し患者になるという経験をして、はじめてこう述懐する。
『人生の良いことを思い出すのはたやすい。うれしかった時、わくわくした時。
すべてがやさしさと愛につつまれていた時。自分がどんなに気高く、寛大だったか。
不幸に直面しても、どれほど勇敢だったか。
すばらしい思い出は苦もなく思いだすことができるものだが、
自分がどんなに憎むべき人間だったか思い出すのはずっと難しい。』

「ぶらりミクロ散歩」 田中敬一 岩波新書 ★★★
副題には、電子顕微鏡で覗く世界とある。
人はふつうに生活しているときには、わからなかったりすることに興味をもったりする。
宇宙はどうなっているのだろうか、どこまで空間がひろがってゆくのだろうか。
宇宙の果てがあるなら、そのまた向こうはどうなっているのか。
ということは果てはないのか、あるいはメビウスリングのように円環になっているのか。
こういう思考しかできないことが、そもそも限界を示しているのか、などといろいろ考える。
マクロからミクロへということで、興味を反転させるとどうなるかというと、著者のようになる。
じつは、いま見ている光景というのは、見えているようで見えていないこともあるようだ。
空気中には塵、芥、いろんな菌などが浮遊しているのだそうだ。
清潔好きや潔癖症の方などは、それがみえるメガネなどかければ卒倒してしまうだろう。
ということは、知らないですんでいるということも多いのだろうとも思える
でも知ることができるなら知りたい、と考えることもいかしかたがない。
そのようないろんなものの紹介があるのだが、これは秀逸である。
筆者が七転八倒の痛みに苦しめられた尿管結石の写真(もちろん顕微鏡で)がこれだ。

N3982尿管結石

拡大倍率60倍だそうだが、いかにも痛そうである(笑)。

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ベッドで読書
寒いときには、本をもって寝床にもぐりこんでしばしの暖を感じるのがこころよい。
やっと人心地がついたと思えたら、おもむろに本のページをひらく。
このときの姿勢だが、これがなかなかぴたりと決まらないのが寒いときの難点である。
ぐずぐずと横を向いたり、あおむけになって本を高くかかげたりする。
そのうち腕がだるくなってきて、また横向きになって本を読む。
寒くなければ、こんなに苦労しないで読めるのになあと思ったりもする。
しかし、暑ければ暑いで寝返りばかりうってなかなかページはすすまなかったりするのだ。
そのうち知らず知らず眠っていたのか、ゴトンと本の落ちる音で目覚めることになる。
やはり読書は電車にかぎる、と思わずにはいられない今日この頃である。

N3983わが家にあるミティラー画

「シャンタラム」(上)(中)(下) グレゴリー・デイヴィッド・ロバーツ
                         田口俊樹訳 新潮文庫 ★★★★★
リン・シャンタラムと名付けられた男の物語は彼の独白からはじまる。
「シャンタラム」とは「平和を愛する人」「神の平和を愛する人」という意味のマラーティ語である。
『私の人生の物語は長く、込み入っている。私はヘロインの中に理想を見失った革命家であり、犯罪の
中に誠実さをなくした哲学者であり、重警備の刑務所の中で魂を消滅させた詩人だ。さらに、ふたつの
監視塔にはさまれた正面の壁を乗り越え、刑務所を脱獄したことで、わが国の最重要指名手配犯にもな
った。そのあとは幸運を道づれに逃げ、インドへ飛んだ。インドではボンベイ・マフィアの一員になり、
銃の密売人として、密輸業者として、偽造者として働いた。その結果、三つの大陸で投獄され、殴られ、
刺され、飢えに苦しめられることになる。戦争にも行き、敵の銃に向かって走り、そして、生き残った。
まわりでは仲間が次々と死んでいったが、その大半が私などよりはるかにすぐれた男たちだった。私は
そんな彼らを埋葬した。多すぎるほど埋葬した。埋葬し終えると、彼らの人生と物語が失われたことを
嘆き、彼らの物語を私自身の物語に加えた。』
オーストラリア人の主人公がボンベイの空港に着き、底抜けに明るいプラバカルというガイドに出会う。
はあらゆる人種、犯罪などがうずまく街ボンベイで彼の新たな人生がはじまるのである。
本の長さを感じさせないおもしろさがあり、また人生を考えなおすしかない思いにもとらわれる。
彼が最初に知りあったカーラのこんなセリフはどう感じるだろうか。
『「この世の中のどこがまちがっているか、それを知るのはいいことよ」ややあって、カーラは言った。
「でも、それと同じくらい大切なことは、どんなにまちがっていても、絶対に変えられないことがある
という事実を知ること。この世の中にあるわるいことはたいてい最初はそんなに悪くなかったことよ。
誰かがそれを変えようとするまでは」』
なんだかどこかの国でおこっている政治的なことのようにも思えるのである。
ボンベイのマフィアを仕切るアブデル・カーデル・ハーンとの会話もいい。
『「きみはキリスト教徒かね?」
「いや、おれは神を信じちゃいません」
「神を信じるなどというのはとうてい誰にもできないことだ」
とカーデルはまた笑みを浮かべながらもきっぱりと言った。
「われわれは神を知っているか、知らないか、そのどちらかしかない」』
生きているいろんなことに出会い、ときになにが真実なんだと反問することがあっただろう。
そんなとき、こんな言葉を聞いたら、おもわず笑いださずにはいられなかっただろう。
『真実というのはわたしたちみんなが好きなふりをしている、いじめっ子みたいなもの』
もちろん、小説というものは読む人にとってまったくちがったものになることがある。
感じることは、ひとぞれぞれでちがってあたりまえである。
ではひとつ読んでみて、自分なりの読後感にひたってみるのもいいではないですか。

「暮らしの世相史」 加藤秀俊 中公新書 ★★★★
加藤先生をはじめて知ったのは、学生の頃読んだデイヴィッド・リースマン「孤独な群衆」でした。
その本もだれかに貸したきりになっていまは手元にはありませんが、懐かしい本です。
訳者として知ったのですが、それからときおり著作も読んでいました。
PHP文庫の『「東京」の社会学』などおもしろかったですね。
自分なりに加藤先生の社会学シリーズと銘うって、「習俗の社会学」「文芸の社会学」も読みました。
いまでも書棚のどこかにあると思いますが、まだまだお元気でいられるのでしょうか。
『いま「キモノ」と一般にかんがえられているのは正確にいえば「晴れ着」、それも明治以降の新発明
品であって、ルドルフスキーが『キモノ・マインド』で解釈したような「キモノ観」はまちがっている。
男女をとわず、「和装」はデザインも機能もけっして非活動的なものではなかった。そのことは福井貞
子がもう一冊の名著『野良着』でみごとに立証しているとおりである。「和服」ということばは通常「
洋服」と対比され、和装がいかに不便であるかが強調されるけれども、ふだん着としての「和装」は筒
袖にモンペ。そのすがたは「洋服」と原理的におなじなのである。都市生活のなかでも婦人の姉さんか
ぶりでタスキがけ、という和装はかならずしも非活動的なものではなかった。戦争がはじまってから「
モンペ」の着用が奨励され、それに不満をしめす婦人たちもいたが、それは大都市の奥様がたであって、
庶民の「ふだん着」はきわめて活動的にできあがっていたのである。柳田国男が、筒袖に股引ないしモ
ンペという風俗に着目して、そもそも「洋服」とはなんぞや、という大胆な疑問を提出していたことな
ども、このさい思いだしてみてもよいだろう。』
キモノというとつい着流し姿を思い浮かべるのであるが、あれで戦はできませんからね(笑)。
『しかし、だいじなのはこうした「アメリカ化」現象を「戦後」のものとしてとらえるのはまちがいで
ある、ということの認識である。わたしはべつだん、ここで万延元年の遣米使節にはじまる日米交渉史
のおさらいをするつもりはない。だが、手もとにあるおおくの現代史の書物をよんでいると、あたかも
「戦前」が反米軍国主義の時代であり、「戦後」がアメリカ文化の輸入による「民主化」の時代であっ
たかのごとき記述が目につく。わたしのみるところでは、こんな歴史認識は全面的な錯誤である。「戦
前」の日本もアメリカ文化の波に洗われ、大衆文化、生活文化のいたるところにアメリカが顔をのぞか
せていたのである。そのことは荷風はじめ、同時代を生きたおおくの日本人は記述してくれているし、
昭和五年うまれのわたしなどは、おそらくその連続性をかすかに記憶のとどめている世代になるのだろ
う。あとにつづく世代の人びとが「戦前」と「戦後」についてのあやまった断絶史観のよって現代を認
識し、解釈することをわたしはおそれる。』
こんなご指摘もよくよく知っておかないと議論がちぐはぐになってしまいそうです。
こう読んでくると、そうでしたと言わざるを得ないことが多々あると気づくのである。

「騎手の一分」 藤田伸二 講談社現代新書 ★★★
競馬の現役ジョッキーが書いた本ということでけっこう売れているらしい。
図書館の予約でも、ずいぶんと長いことまっていたからそうなんだろうと思う。
読んでいて、『フサイチコンコルドで勝った1966年のダービー』というところでおっと思った。
このレースの馬券、たしか馬連3-13で34.2倍ついたのを的中させたの思いだした。
記録をつけているのでわかるのだが、この年もよく負けたというかはずしたものだった。
ちなみにこの一年間では、回収率67%という記録が残っている。
(いくら馬券に投入したのかは野暮であるから書かないことにしておこう)
しかし、彼が乗っていたという記憶はないから騎手については気にしていなかったのだろうか。
まあどんな世界でも、会社でもいろいろと大変なこと、ローカルルールというようなものはあります。
まずはお体に気をつけて頑張ってください、としか言いようがないですな。

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島を旅するときが楽しいですね。
遠くに眺めるのも好きです。
楽園なんてないんですけどね。

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