ムッシュの読書紀行
人生は旅のようだと言いますが、旅が人生かも知れません。 ぼくは活字中毒気味でもあり、旅はまだまだ続くでしょう。
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本棚のほこり⑥
あるとき「ムッシュは高機能自閉症だね」と言われた。そうかもしれない、と妙に納得した。まわり
からは外向的・社交的と思われがちである。しかし、その実態は…。ということで、どちらかという
とひとりでいることになにも問題がないどころか落ちついた気分でいられる。酒をのむのだって、カ
ウンターの隅でひとりのんでいるのが好きっだったりする。まあ、いわせてもらえば、だれだってい
ろんな要素をもっているものなのなんだよ。だから占いのたぐいが人気があるのさ。たいていの性格
・特徴などは思いあたるというか、その気になれるものなのだ。まあ自分で暗示をかけて定位してい
るといえなくもないな。人は見たいものしか見ない。そうありたい性格だけを自分に適用する、とで
もいえばわかりやすいかな。どっちにしたって、どうということはないさ。でもどこかに属している
という安心感は必要ということ。と、わけ知り顔の男が言うのを、のみながら聞いていた。

N5331雪にけむる

「月夜にランタン」 斎藤美奈子 筑摩書房 ★★★
斎藤さんは本を読んで評論するのが仕事、であるからなかなかたいへんだなとは思う。趣味がこうじ
て仕事になると、あたりまえだがもう趣味ではない。当然まんねりだとか限界だとかを感じることが、
まあ斎藤さんにかぎってはないのかなあ、と一読者は気楽に思うのである。政治とマスコミ(テレビ
)といえば現代の表舞台になるのだろうか。なら批評しなければということであろう。
『脅威を煽って、団結を訴える。世界中の政治家が繰り返し使ってきた手だ。環境問題がどうでもい
いとは私だって思っていない。しかし、だからといって『不都合な真実』が「真実」であるというこ
とにはならないのだ。仮にこの本が「ひとつの事実」を示しているとしても、科学的には「別の事実」
もある。両方を知らなければ議論ははじまらないだろう。踊っちゃダメなのよ何ごとも。』
事実と真実、ここでもいろいろと考えなくてはならないですね。科学は真実というよりも仮説だとい
ことを忘れている人が多すぎるのである。まあ、なにか絶対的なものがほしいのでしょうね。
『小田嶋はいう。<具体的に言うと、この五年のあいだに、テレビの世界では、ドラマが衰弱し、ス
ポーツ中継が弱体化し、落語が駆逐され、芸能ジャーナリズムが死滅し、その一方で、オカルトが息
を吹き返し、業界コネが幅をきかせ、番宣がはびこるようになり、現場では、いじめとやらせとパク
リが横行するバラエティーの地獄が現出するようになっていた>。』
本書の刊行は二〇一〇年ですから、ああそのころからそうだったんだ、ということですね。テレビだ
けのことだと安易に思ってはいけません。世のなかの縮図、鏡でもあるんですからねえ。

「アウトロー」 (上)(下) リー・チャイルド 小林宏明訳 講談社文庫 ★★★★
元軍人ジャック・リーチャーが登場するシリーズもので、トム・クルーズが演じて映画にもなった。
見ていないのでなんともいえないのだが、原作ではリーチャーは身長約195センチ、体重約113
キロという大男だ。しかし雰囲気は似ているのかもしれない。
ダウンタウンに突如六発の銃声が鳴り響いて五人が殺された。ライフルの狙撃によるものだった。無
差別の殺人。犯人はどこだ。しかし、六時間後には容疑者は特定され逮捕された。しかし彼は黙秘し、
しゃべった言葉は「ジャック・リーチャーを呼んでくれ」だけだった。しかしジャック・リーチャー
とは誰なのかどこにいるのか。だれもわからなかった。そのころマイアミでたまたま事件のニュース
を知ったリーチャーは、すぐさまインディアナへと向かった。容疑者とはリーチャーが軍にいたころ
ある事件でかかわったことがあった。特別優秀ではないが普通レベルの腕前に狙撃手だった。その彼
がどうしてこんなことをしたのだろうか。ほんとうに彼が犯人なのか。本書冒頭へもどってみよう。
『帽子は目深に引きさげられていた。レインコートのボタンはいちばん上までとめてある。サングラ
スをかけていた。ヴァンの窓は暗く着色されていたし、空は曇っていたのに。そして彼は、手袋をし
ていた。冬は三ヵ月まえにすぎ、寒くなどなかったのに。』
犯人である狙撃手の描写である。なにげなく読んでいると気づかないかもしれない。ここに伏線があ
ったのだ。ミステリとはそういうものであるから、なかなか読むのに骨が折れる(笑)。


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本棚のほこり⑤
整理をしていて気づいたのだが、あるべき本がない。それで思いだした。知りあいに貸したのだった。
というよりも、この本を読むべきだとなかば押しつけたのだ、たぶん。十冊あったと思う。紙袋にい
れて、ずっしりとした感触があった。いま思うと、きっと困ったことだろうとは想像するのだが、し
かたなしに受けとったのだろう。書名リストを作っていたのだが、なくしてしまったようだ。
 「孤独な群衆」デイヴィッド・リースマン著 加藤秀俊訳 みすず書房
 「ソロモンの指環」コンラート・ローレンツ著 日高敏隆訳 早川書房
 「人イヌにあう」 コンラート・ローレンツ著 小原秀雄訳 至誠堂
 「旅の重さ」素九鬼子著 筑摩書房
 「男性と女性」 上 下 マーガレット・ミード著 田中寿美子・加藤秀俊訳 東京創元社
ここまではなんとか思いだしたつもりだ。だがあとの四冊はなんだったのか、おりにふれ考える。

7146あの日あの時

「お言葉ですが… 別巻5 漢字の慣用音って何だろう?」 高島俊男 連合出版 ★★★
高島さんの著書を読んで、いつもそうなのか、そういうことなのかと学ばせてもらっている。もちろ
ん人だからどんな人であろうともまちがうことはある。その指摘に対しては相手が有名な研究者であ
ろうが市井の人であろうが、対応にかわりがないところも好きな点である。ずけずけ言うの裏側には
謙虚さがなければただのクレーマーであろう。いましばらく、ご高説を承りたいものだ。本書でも、
なんとなく知ったような気になっていることにこうなんですよとご指導いただいた。
『ここで注意を要するのは、奈良時代ごろまでの日本語のハ行音の語頭子音はpだということです。』
おなじ言葉と思っていても、発音は変化しているのだ。
『母は昔パパだった、というのは多分どなたもごぞんじの常識ですね。』
しかしママというのはどうも、なぜおかあさんという美しい(?)日本語があるのにねえ(笑)。ど
うも日本人は米国に対して属国意識があるのかしらん。
『文章は必ず漢語で書きました。しかし女は漢語を教えられないのだから文章を書くことができませ
ん。しかし女だって文章を書きたい。それでやがて貴族階級の女は自分たちがふだんしゃべっている
言葉、日本語で文章を書くようになりました。やがてその中から、清少納言の枕草子とか紫式部の源
氏物語とかのすぐれた作品もできました。しかし書いた人の名前も分かりません。清少納言はお父さ
んが清原という姓の少納言であったということで当人の名前は分かりません。平安時代から江戸時代
まで、日本人は、中国人のまねをして、姓のうちの一字だけで言うのが習慣でした。片苗字といいま
す。平とか源とかは初めから片苗字を名乗ったものです。だから清原という姓の人は清と称したので
す。高島なら高と言ったわけです。
 紫式部は源氏物語に紫の上という人物が出てきますから作者が紫というアダ名で呼ばれたのです。
式部はお父さんが式部省につとめていたからです。』
この前半部分は知っていた。しかし、古文の先生は昔の姓名のことなど教えてくれなかった。清少納
言や紫式部って正式な名前ではなかったんですね。うーん、知らなかった。知らないことが多すぎて、
ますます読書に意欲が燃えてきました。最後に、
『なお日本には『論語』が儒家の経典の最高位のもの、と誤解している人が多い。そうではない。儒
家の経典のうち最も貴いものは、孔子が整えて後世にのこした書物である。すなわち孔子手づからの
書物である。孔子は「述べて作らず」(古より伝えられて来たものを祖述し、自分で創作はしない)
の人であるから、孔子が自分の思想を直接自分で書いたものはない。それまでに伝えられてきたあま
たの典籍のなかから、これぞ、というものを選定して、形を整え、後世にのこしたものである。これ
を「経(けい)」(世界の縦糸)と言う。布を織る際にまず最初に織機にピンと張るのは縦糸である
から、世界を秩序づけるものを「経」(縦糸)と呼んだのである。
 経は五つある。『易』『書』『詩』『礼』『春秋』である。「五経(ごけい)」と呼ぶ。
『論語』は孔子の死後の人が作った書であって、もちろん孔子自身の手を通っていない。中国では、
孔子の手を通っているかいないかで、はっきり書物のランクがちがう。昔の中国では、書物にはそれ
ぞれキチンとしたランクがあったのである。
 孔子の手を通っている「五経」(五つの経書)が最高である。第二ランクに位置するのが、孔子の
手を通っていないが孔子の思想を伝えている『孝経(こうきょう)』と『論語』(この順序)、その
あとが『孟子』と『爾雅(じが)』(この順序)である。『論語』までの七つを呼ぶ時は「七経(し
ちけい)」、『爾雅』までの九つを呼ぶ時は「九経(きゅうけい)」と言う。』

「異郷 E・ヘミングウェイ短編集」 E・ヘミングウェイ 山本光伸訳 柏艪舎 ★★★★
ヘミングウェイ、何冊か読んだ。「武器よさらば」とか「老人と海」、ずいぶんと若いころだったと
思う。とりたてた印象にない。巻末の年表をみて、ピュリツァー賞とノーベル賞をとっていることを
知った。そうなのか、というぐらいである。だからといって、どうということもない。この短編集を
読んで、表題作の「異郷」ではなく、「汽車の旅」とその続編ともいえる「ポーター」がよかった。
ジミーとその父は住み慣れた土地を離れ、シカゴへと旅立つ。その道中の出来事がたんたんとした筆
致でえがかれてる。大人であろうと子どもであろうと人生のエピソードは容赦がない。子ども向けだ
からという愚にもつかない理由で暴力的な描写を嫌う人たちがいたりする。でも、実際の人生はそん
なことに頓着しないだろうし、隔離された世界で生きれるわけもない。そこはかとない哀しさという
のか、乾いたヘミングウェイの眼がこころにしみこんでいく。
列車のなかで小男と大柄な囚人がそれぞれ刑事に手錠でつながれて護送されているのに遭遇した。囚
人らはジミーに話しかけたりしたが少年は答えなかった。食堂車でひともんちゃくあって、その隙に
小男はナイフを失敬した。刑事はそれに気づかなかったが、父親は見ていた。トイレにいったときに
小男は脱走を試みる。そのあとにトイレに行ったジミーは、ドアの下から血が流れてくるのを見て父
の元へ走った。トイレには気絶した刑事が横たわっていて、小男は森へと逃げてしまった。
『「父さんは怖くなかった?」
「ああ」と父は答えた。「血はどんなふうに見えた?」
ぼくは少し考えてから、「どろりとして、ぬるぬるした感じだった」
「血は水よりも濃し、だ」父は言った。「一人前になった人間が最初に出くわす格言がそれさ」
「それって違うんじゃない」ぼくは父に言った。「だって家族のことを言ってるんだもの」
「いやそうじゃない」父は譲らなかった。「文字通りの意味なんだ。あれにはいつも驚かされる。最
初にその事実に気づいたときのことは今でも覚えているがね」
「いつだったの?」
「靴の中が血でいっぱいだった。とても暖かくてとろりとしていてね。鴨撃ちに行ってゴム長の中で
水がいっぱいになるのと似ているが、もっと暖かくて、もっとどろりとして、もっとぬるぬるしてい
るんだな」」
「それって、いつのこと?」
「なあに、ずっと昔のことさ」そう父は言った。』


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本棚のほこり④
旅にでるときにはかならず数冊の本をもっていった。そのころは鈍行列車にゆられながら、本を読ん
でいた。そしてビールなどをのんだ。眠くなれば本をおいて眠り、めざめてまた続きを読んだ。とき
どきはまわりの人びとをながめたりもしたが、いつも本の世界のなかにいたような気がする。現実が
うとましいというか、逃避していたというほうがあたっているかもしれない。旅先の食堂や居酒屋で
飲むのもひとりがよかった。さみしくないかと訊かれれば、まあさみしいんだろうなと他人事だった。
そんなことはあたりまえで、ヒトって産まれたときからさみしいんじゃないかと逆に反問した。なん
とも皮肉屋っぽい言い草だったが、それがおれらしいと思えたものだ。で、ほんとうのところはどう
よ。とさらっと言われたときには、すこし考えてから、わからないんだよ自分でもとつぶやいた。本
を旅行にもっていくのはいまでも習慣になっているが、ライナスのブランケットのようなものだ。

N5318元旦のメジロ

「黒い笑い」 シャーウッド・アンダソン 斎藤光訳 八潮出版社 ★★★★
アンダソンはアメリカの作家である。といっても二十世紀の初頭から中ごろあたりに活躍した。マー
ク・トゥエインの後継であり、のちのフォークナーやヘミングウェイらに影響をあたえたといわれて
いる。あまり日本では有名ではないが(ほとんど無名か)、読んでみるとそこはかとない情趣を感じ
るだろう。彼の代表作は「ワインズバーグ・オハイオ」だが、本作もなかなかいいと思う。
ブルース・ダドリー(主人公)はもともとはジョン・スタックトンという名でシカゴで新聞記者をし
ていた。妻のバーニスは社交的でいつかは作家になるべく活動していた。そんな彼女がいやになった
というわけではないのだが、彼はふらりと家をでていまはインディアナ州オールド・ハーバーの町工
場で働いている。あるとき、工場長の妻アリーンが夫を迎えに来るために車でやってくるのにでくわ
した。一瞬のことであったが、ふたりは運命の出会いをおたがいに感じた。さて、ここから物語はど
う展開してゆくのかは読んでいただくしかない。しかし、人生における恋愛というのは結局のところ
なんなんだろう。作家はいつもそんなことを考えながら生きているのだろうか。
『恋愛から逃れようとするのは、それが本当の恋愛ではない時だけなのだ。非常に老練な人たち――
人生の達人――は、恋愛など全然信じていない、といったふりをする。恋愛を信じている作家、恋愛
を作品の背景にしている人たちは、いつも妙に愚かしい連中である。彼らは、恋愛を書こうとして、
恋愛を台なしにしてしまう。頭のいい者には、そんな恋愛はごめんなのだ。年をとったオールド・ミ
スには結構面白いだろうし、疲れた女事務員が、夕方、会社からの帰りに、地下鉄や高架鉄道で読む
にはいいかもしれない。三文小説のなかに、おしこんでおかなければならないようなことだ。それを、
実生活のなかに持ちこもうとするなら――とんでもないことになる。』

「身体巡礼 ドイツ・オーストリア・チェコ編」 養老孟司 新潮社 ★★★★★
養老先生のことだから、単なる紀行文ではないと思っていたのだが、いきなりこうである。
『帰ってきたら、なんだか眠りが浅い。妙な夢を見て目が覚める。数日続いたので、秘書にそういっ
たら、「ヘンなものを連れてきたんじゃないでしょうね」といわれた。「なるほど、そうか」と納得
したら、翌日から治ってしまった。ただの時差じゃないか。そういう見方もあるが、なにかが憑いて
きたという可能性もないではない。その後、一緒に取材に出かけた新潮社の足立さんが、お祓いをし
てもらったという話を聞いた。心理的には間違いなくなにかを連れて帰ってきたのである。人とはそ
ういうもので、だから宗教ないしそれに近いもろもろが、世間に存在するのだと思う。』
人とはそういうものだと思えるかどうかで、まあなにかが決まるような気がする今日この頃である。
中欧を旅してみての印象をこうつづっている。
『それにしても中欧には大きな教会が多い。教会と劇場とが、街を代表する巨大建造物なのである。
これを私は「真っ赤な嘘」と書いたことがある。両者ともに、中で行われることがいわば「真っ赤な
嘘」なのだが、逆にその中では人々は安心して、仮構の世界に浸りきる。私は宗教を嘘だととして馬
鹿にしているのではない。教会の中でも、劇場の中でも、人々は真の自分の気持に触れる。だから心
から泣いたり、笑ったりする。それには舞台装置が必要で、食うや食わずの人たちが働いて、立派な
建造物を作るのである。建造物が立派であるほど、強い仮構が生きる。その外側にある、いわゆる「
現実」の世界が真の世界かというなら、それもまた別種の仮構の世界に過ぎないかもしれないが。
 脳から見れば、それは当然というしかない。すべての「現実」は、人に意識が構築するからである。
脳が多少とも壊れた人を観察したら、それはじつによく納得できる。人の意識が脳機能の後追いであ
ることは、すでに証明されているといっていい。のどが渇いたから水を飲むのではない。脳が水を飲
むほうに動き出してから、われわれは水が飲みたいと思うので、たぶんわれわれにできることは、意
識的に水を飲まないと「決める」ことによって、それを「止める」ことだけである。だから道徳律は
つねに「殺すな」「盗むな」と禁止の形をとる。
 でもさらに考えれば、それも不思議ではないか。なぜなら意識がそれを禁止できるということは、
脳機能という物理化学現象を(それが物理化学現象としての話だが)、意識というわけのわからない
ものが左右することを認めることになるからである。目に見えず、測定不能な自分の意識が、目に見
えて、測定可能な自分の行動を左右するなら、それは「念力」というしかないではないか。まったく
「唯物的に」脳を解明しようとするなら、科学はその機構を説明しなければならない。われわれに心
身二元論を軽蔑する権利があるのだろうか。
 現代社会は、世界が理性的に解明され得るという、錯覚を与え続けている。デカルトはそんなこと
はいわないであろう。彼が提案した理性はあくまで方法であって、結論ではない。だから『方法序説』
なのである。車を正しく運転していれば、どこかに行くことはできる。しかしどこに行くのか、目的
地に関する保証などない。車がきちんと動いているんだから、目的地にかならず着くはずだというの
は、信仰に過ぎない。もちろん私は信仰を馬鹿にしているのでもない。科学的であろうとなかろうと、
人間はなにかの信仰を持つしかないのである。』
宗教と信仰を現代は科学と技術におきかえただけで、なにもかわってはいないとも思えるのである。
いまでも科学は仮説だというと、そんなことはない真実ではないかという人がおおいのにそれは現さ
れている。神は実在するというのと、いったいどこがちがうのだろうか。科学は証明されていると反
論されるかもしれないが、まず前提があって、その条件のもとでのことだということを忘れてはいな
いだろうか。まあ、宗教をとろうが科学をとろうがたいした違いはないと思うようなってきた。
『歳をとるに連れて、自他の関係がむろん違ってくる。若いときは、どうしても自分が大きく、他人
が小さい。でもなにが「大きく」、なにが「小さい」のだろうか。
 自分がしだいに小さくなって、最後に無くなる。つまり死ぬ。漱石が則天去私をいったのは晩年、
といっても四十代、ということは、漱石はずいぶん大人だったんだなあ、と思う。漱石はずっと自己
にこだわった人だけれど、中年にはもう去私というほどに、自分が縮んだのかもしれない。』
政治家連中のなかには大人になり切れない人がおおいことだな、と思わずにいられない昨今の状況に
なんだか苦笑いでもうかべるしかないではないか。


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オンリーワン
ときどき、オンリーワンになりたいなどという発言を聞く。
たぶんこの歌詞だな。
♪ナンバーワンにならなくてもいい
 もともと特別なオンリーワン♪

よく読んでごらん、と言いたい。
もともと(特別かどうかは知らないけど)オンリーワンなんだ、と。
身も蓋もない言いかたをすれば、なるもならないもオンリーワンなんだから。
逆に、オンリーワンでなかったら見分けがつかない(笑)。
あなたはクローンか、ってことになってしまう。

だが、そういうことをいいたのじゃないことはわかっている。
個性的でありたい、というのとおなじ意識構造なんだろうと思う。
個性的であろうとすることの無意味さがわかっていない。
個性的な事象とか、物があるわけではない。
個性的なというのは第三者の評価だということだ。
人の口に戸は立てられない、というではないか。
コントロールできないことは一目瞭然である。

なんというのか、方向がまちがっているのではないか。
自分を探すなどという犬の尾っぽを追いかけるようなことしてどうするの。
自分に向いた道なんてあるわけがない。
なにかを一生懸命やっているうちにわかってくるものじゃないかな。
はっきりいって、あなたのことなどだれも(大自然も含めて)気にしてないんだから。
でもねえ、どこかで気にしているヒトはいるかもしれない。
言い訳ばかり言ってるヒマなんかないんじゃないの。

と夢のなかで説教したりしていて、おどろいて目が覚めた。

N5308若いふたり


本棚のほこり③
そのころはみんな金がなかった。それでも本は読みたい。読んだ本は手元におきたい。高価な本は買
えない。だから本といえば、文庫や新書のことだった。文庫なら岩波、角川、新潮ぐらいしかなかっ
たと思う。新書は岩波、中公新書、講談社現代新書だったかなあ。岩波の科学ものはレベルが高い。
有名な学者の講演会の記録とか、書き下ろしなんかもあって読んで興奮した(変な意味じゃなく)。
いまでも憶えているのは、「人間はどこまで動物か」アドルフ・ポルトマン著。理系の学生なら必読
書だったと思う。もちろん文系であろうとも。彼のいう「生理的早産説」は衝撃的だった。あかんぼ
うのいろんな能力を考えると、ヒトは一年はやく産まれてしまっているというのだ。馬や鹿はうまれ
てすぐ自力で歩きまわれるのに、人間のあかんぼうはまったく無防備の状態で産まれてくる。では、
なぜそうなっていると考えられるのか。というような論の展開にわくわくさせられたものだった。

N5242富士山2014

「男は邪魔!「性差」をめぐる探究」 高橋秀実 光文社新書 ★★★★
世のなかには基本的に男と女しかいない。この性差をもういちど考えてみたのが本書である。しかし、
高橋氏の著作にはいつも笑わせてもらい、最後にはほんのちょっぴり哀しさも感じるのである。男と
女、この永遠のテーマ(だって男と女しかいない)にどうメスを入れるのか。だけど、ひさびさにこ
ころの底から笑わせていただきました。高橋氏おそるべき、というべきか。
『早い話、男はひとりよがりなのだ。ひとりよがりがひとりよがりを競るように社会をつくってきた
からいつまでも問題が解決しない。
 だから日本は埒が明かないのだ。
 全部、男が悪いのだ。
 そうだよね、と妻に話しかけると、彼女がこう言った。
「それって、いつも私が言ってることじゃないの」
 私は思わず「えっ?」と驚いた。
「自分の考えだと思っていたの?」
 ――あれっ、そうだっけ?
 私は首を傾げ、しばらく宙を仰ぎみた。言われてみれば確かにそんな気がする。常日頃、妻は「あ
なたは……」と怒り始め、途中で「大体、男っていうのは……」と主語が切り替わる。前半部分はう
なずきながら聞き流しているが、後半部分が知らずのうちに刷り込まれてしまったのだろうか。後半
部分は寝てしまうこともしばしばあるので、寝ているうちに睡眠学習していたということか。
「前々からずーっと言ってる。あなたは私の話を聞いていないのよ」
 ――いや、それは違う。
 私は反論した。彼女の言うことが正しいとするなら、私は聞いているはずである。聞いているから
こそ自分の考えのように思えたりするのだ。
「そうやってなんでも遠回りする。単純なことをわざわざ複雑にして言う。複雑化して問題化するの
よ、男は」』
いきなりこうきたか、いつも言われているようで頭がいたい、ような気がする(笑)。男と女といえ
ば、高橋氏はボーヴォワールの勘違いという節でこんなインタビューを書いている。
『――「男なんだから、○○しなさい」とか言ったりしませんでした?
 私はあらためて岸本さんにたずねた。バカといえども、バカはバカなりのジェンダー教育というも
のがあるだろうと思ったのである。
「言いましたね。そうそう、言う」
 彼女が微笑む。
 ――例えば?
「男の子は泣くもんじゃない、男の子はそんなことで泣かないの、とか」
 ――男は泣くべきではないということですね。
 これはフェミニズムでよくいわれる「男らしさ」のひとつだ。
「いや、そうじゃないんです。ただ泣きやませるためについ言っちゃうだけなんです」
 ――女の子だったら?
「『いつまでも泣いていちゃダメ』ですね。女の子なんだから泣くなとは言いませんね」
 男女に対して別の言い方をするので、ジェンダーといえばジェンダーである。しかし考えてみれば、
男の子には泣きやむ理由が与えられるが、女の子はただ泣くなと強要される。彼女たちは「なんで?」
と訊きたくなるだろうが、それをじっと噛みしめなくてはいけないのだ。つまり、泣いてはいけない
のが「男らしさ」で、泣くことが許されるのが「女らしさ」などではなく、行為について内省を迫ら
れるのが女の子で、責任を性別に転嫁できるのが男の子ということなのではないだろうか。』
さすがするどい高橋氏である。女同士のあいだでももちろん対立はあるのである。
『――へりくだる女?
「『自分は何もできませんから』とか言う女。自信なさげに振舞う女。あるいは萎縮した態度を見せ
る女。控えめがいいと思っているのかもしれないけれど、開き直っているのと同じでしょ。そういう
女に限って、こっちがアドバイスすると『そうじゃない』とか言ったりする。本当の狙いは別の所に
あるわけ。実は強欲なのよ。でもひとりじゃできないから、人に依存する」
 カエルもへりくだっているようでいきなりジャンプしたりする。「へりくだる」の語源は「縁へ下
る」ともいわれるくらいで、カエルは縁にへばりついており、どこに向かってジャンプするのか読め
ない気味悪さがある。
 ――かしずく女はいいわけ?
 念のために確認すると、彼女は即答した。
「『かしずく』というのは、もともと頭を下げるっていう意味でしょ。それは敬意を払うということ。
感謝の気持ちの表れなんだと思う」
 ――しかし、かしずく女は家父長制の象徴ではないかと……。
 私が言いかけると彼女は遮った。
「家父長制は表向きの話でしょ。いってみれば机上の空論だから」
 いわゆる「家父長制」や「男女平等」などは理念であって生理的ではないようである。いずれにし
ても、生理的に嫌いなのはほとんど女性のようなのだ。
「そういう女がテリトリーを侵すのよ」
 ――テリトリー?
「ウイルスみたいに蔓延している。顔に泥を塗られる感じ」
 縄張り争いということか。女の敵は女ということか。
 ――それで、男は……。
 私が言いかけると彼女は鼻で笑った。
「もともと男は蚊帳の外。はっきり言ってどうでもいいのよ」
 男は圏外ということか。生理的には、男はどうでもいい存在のようなのである。』
男は問題外なのである。そして結論(?)。
『男に足りないのは妄想と共感。
 昔から男は共感できないバカなのである。妄想して共感する。共感するために妄想する。女性たち
は共感するためにフェミニズムという妄想を生み出したのかもしれず、私はそこに論理的なねじれで
はなく、「哀れ」を感じ取るべきだった。』
是非ご一読を、というしかありません。

「五番目の女」 上 下 ヘニング・マンケル 柳沢由実子訳 創元社文庫 ★★★★
スウェーデンを代表するミステリ作家、ヘニング・マンケルのヴァランダー・シリーズの第六作。彼
はこのシリーズでスウェーデン社会がかかえる問題を題材にしている。小さな港町イースタで花屋に
不審者が侵入したがなにも盗まれていないという事件がおこった。その花屋の主人は行方がつかめな
い。続いて、元自動車販売業者の裕福な老人が、竹槍が仕掛けられた濠で刺殺されているのが発見さ
れた。この二件は別件かと思われたが、やがて事件に共通の特徴が見つかった。事件は連続殺人の様
相をおびてくるのだった。どういう犯人なのだろうか、ヴァランダーは考える。
『ホルゲ・エリクソンが串刺しにされた竹槍の仕掛け罠を思い出した。ユスタ・ルーンフェルトがく
くりつけられていた木。そこで首を絞められて死んでいたのだ。そしてこんどは、生きたまま袋に詰
められて湖に投げ捨てられ、溺れ死んだ男だ。
 動機は復讐にちがいない。ほかの動機はあり得ない。だが、犯行は完全に常軌を逸している。犯人
はなにに復讐しようとしているのか? なにが背景にあるのか? ただ殺すだけでは済まず、殺され
る者たちにこれから起きようとしていることを認識させる執拗さ。』
この事件とは別に、地域の人々にあいだで地域自警団決起のニュースが伝えられる。彼らが勝手に動
きだせば、社会の秩序はどうなってしまうのか、という問題でも頭を悩ませることになる。殺人事件
といえども地域社会の動きとはまったく無関係ということはないのである。スウェーデンだけでなく
デンマーク、ドイツやイタリアでもたびたび問題になってもいるのだ。でこの「五番目の女」とはだ
れのことなのか。なにを意味するのか。それは本書を読めばおいおいわかってくるのである。


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Author:ムッシュ
島を旅するときが楽しいですね。
遠くに眺めるのも好きです。
楽園なんてないんですけどね。

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