ムッシュの読書紀行
人生は旅のようだと言いますが、旅が人生かも知れません。 ぼくは活字中毒気味でもあり、旅はまだまだ続くでしょう。
03 | 2015/04 | 05
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紀伊半島道の駅紀行 中篇
道の駅ばかりではない。
こんなところもたずねてみた。

尾鷲市にある「土井竹林」である。
もうずいぶん前のことになる。
NHKのテレビドラマの舞台になったとかで有名だった。
江戸時代に地元素封家の土井家が薩摩から移植したという孟宗竹の竹林である。
ホームセンターの広い駐車場の脇にある道をすすんでいく。
だが、訪れる人もなく朽ちていく感じがするのが残念だ。
世間とは隔絶しているかのようにトンネルのむこうにあった。
なかなかに趣のあるところではないですか。

N5897隧道越しに

N5902土井竹林

N5899竹林

次に行ったのが、「熊野の鬼ケ城 附 獅子巖」(くまののおにがじょう つけたり ししいわ)。
志摩半島から続くリアス式海岸の最南端になりもちろん国指定の天然記念物である。
加えて、世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の一部でもある。
ということでこちらは外国からの観光客なども多い。
暑いくらいの陽気で、潮風が気持ちがいいが足元をみると足がすくむ。

N5919鬼ケ城

N5924鬼ケ城

N5932鬼ケ城

N5937潮

流紋岩質軽石凝灰岩に形成された海食地形ということだ。
熊野酸性火成岩類に属し、巨大な花崗斑岩の岩体周縁に位置している。
二十歳のころだったか輪行(サイクリング)でやってきた。
そのときの記憶はとんとないが名前ぐらいはおぼえていた。
それがいまでは、すっかり観光地化しているのであった。

最後にやってきたのが「橋杭岩」である。
中新世中期の初期(約1400万年前)に熊野層群に貫入した石英斑岩の岩脈だそうだ。
紀伊半島の隆起陸化によって地表に現れ,それに伴って侵食され今の形になった。
だが人びとはそうではなくて、弘法大師伝説をつくりそれが残っている。

N5969橋杭岩

この前にも道の駅ができていた。
ここも観光客がおおかったですね。

海岸におりて、潮がひいたところにできた潮だまりをみる。
小魚が泳いでおり、この水たまりが彼らの宇宙ということになるのか。
なんて思いながらしばらくながめていた。

N5966潮だまり

本日も八箇所めぐりました。
道の駅 紀伊長島マンボウ(三重県北牟婁郡紀北町)
道の駅 海山(三重県北牟婁郡紀北町)
道の駅 熊野きのくに(三重県熊野市飛鳥町)
道の駅 パーク七里御浜(三重県南牟婁郡御浜町)
道の駅 紀宝町ウミガメ公園(三重県南牟婁郡紀宝町)
道の駅 なち(和歌山県東牟婁郡那智勝浦町)
道の駅 虫喰岩(和歌山県東牟婁郡古座川町)
道の駅 くしもと橋杭岩(和歌山県東牟婁郡串本町)

N5963道の駅くしもと橋杭岩


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紀伊半島道の駅紀行 前篇
このところ出かける理由はこんなことがよくある。

「どこか道の駅でも行ってみる?」
「いいんじゃない、行こうよ」
「ちょうどキャンペーン価格の宿があるし」
「なんだか地球はわれらを中心にしてまわるが如し、だな」
「では、いざ計画をば立てん」

N5845道の駅あやま

ということでプランを練りに練って、宿泊地は志摩と串本に決定する。
さて、いくつ訪問できるでしょうか。
もちろん、それに附随して観光もしようという算段である。

しかし、こうしていろんな道の駅を訪れているとふと思う。
「道の駅」っていったいどういうものなんだ。
ということで、ちょっと調べてみた。

道の駅は平成5年4月に登録がはじまって最初は103箇所でスタートしたという。
平成25年7月現在では、1004箇所まで増えている。
いまもいろんなところで計画、建設中である。
ただ、だれでもが作れるかというとそうではない。
市町村またはそれに代わりうる公的な団体でないと設置はできない。
そして市町村長から国土交通省に申請して登録されるという流れになる。
こうしてやっと「道の駅」の呼称とあのマークが使用できるということだ。

N5856道の駅美杉

もちろん設置基準というか登録の要件はある。
24時間利用可能な駐車場・トイレ、情報提供施設、地域振興施設を備えていること。
この終日駐車場・トイレが利用できる施設のメリットはおおきい。
だから、道の駅をオートキャンプ場として利用する車の旅が最近ふえてきているとか。

N5851御杖村の「つえみちゃん」

「道の駅」から「未知の駅」をさがして「満ちの益」になれば、てなもんだ。

N5862道の駅茶倉駅

本日、おとずれた道の駅は以下のとおり。
道の駅 あやま(三重県伊賀市)
道の駅 いが(三重県伊賀市柘植町)
道の駅 伊勢本街道御杖(奈良県宇陀郡御杖村)
道の駅 美杉(三重県津市美杉町)
道の駅 茶倉駅(三重県松阪市飯南町)
道の駅 飯高駅(三重県松阪市飯高町)
道の駅 奥伊勢おおだい(三重県多気郡大台町)
道の駅 奥伊勢木つつ木館(三重県度会郡大紀町)

N5859杉木立

絵本嫌い
あの人はどうしているのかなと思いだすとき、決まってうかんでくる絵本がある。「しろいうさぎと
くろいうさぎ」だ。幼稚園の先生になるために通信教育をうけているの、と話していた。とてもいい
絵本だよと言っていた。素直じゃないオレはちらりと表紙をながめて、なんとなく直感した。人種差
別についての本なのかなあと。それに絵が気にいらなかった。読んだのかも知れないがまったくスト
ーリーを憶えていない。そんなオレの雰囲気を察知したのか、こんどは「100万回生きたねこ」を
すすめてきた。絵本はまず絵が気にいらなければ読まない。それと動物を擬人化して読まそうとする
のは好きじゃない。読んだと思うけど、なんの感慨もわかなかった。比較行動学の本でも読むほうが
よっぽどおもしろい、というようなことを言ったかもしれない。いま考えてみれば、オレってミラー
ニューロン不全症候群なのかなあ、って思いいたるのである。

N5799ミモザ

「買えない味」 平松洋子 筑摩書房 ★★★★
巻末の著者紹介の欄に、フードジャーナリストと書いてある。うーん、なんとなくわかったようなわ
からないような。まあ、それはそれとして、なかなか文章がお上手である。短い文でありながら、起
承転結もしっかりしている。落ちというのか、最後のひねりも効いている。いくつかご紹介しよう。
『けれども、きれいにすっからかんになった大皿に漂うのは、祭りのあとのわびしさである。』(大
皿 お祭り気分の立役者)
『棚の一隅に、何種類ものプレイスマットが重ねて置いてある。その中に紺色の木綿の布が三枚。小
学生の頃、娘が家庭科の時間にちくちく自分で縫った赤い縁取りの手づくりである。』(プレイスマ
ット テーブルの不可侵領域)
『自分ひとりの昼ごはんをのせトレイ代わりに使ったそのお盆に、翌日はお客のために丁寧に淹れた
緑茶をのせたりする。すると、昨日と今日では、手もとはまるで違う顔つきだ。お盆というものは、
なんとまあ不思議な板であることよ。』(木のお盆 敬語口調のお役立ち道具)
思ったより伝わりにくいですね。本文のほうも是非お読みください。
料理の話では、テレビなどでは特にそうだが、高級な食材をこれみよがしにとか、調理の技巧がどう
たらとか、そんな話には食傷気味である。もっと基本的な、だれもがなるほどということが知りたい。
わたしなど料理や味にあまり興味のない者にも読めるのが本書である。どんなところか、たとえば。
『れんこんは皮をむかない。にんじん、さつまいも、じゃがいも、だいこん、たいていむかない。ご
ぼうは皮つきのままタワシでごしごし擦る。』
頭のなかでは皮と実(?)のあいだに栄養分がおおいということは知っているのだが、長年の習慣と
いうものはおそろしい。こうして指摘していただいて、そうだよな、と。
『ある昼下がり、ひとりで冷ごはんを食べていたら、ごはんの味が違う。炊いて蒸らしたばかりの熱
いおいしさにはまるきり遠いが、しかし、それまで知らなかった味わい、ついぞ気づかなかったおい
しさが冷やごはんにはそなわっていたのである。』
これを人間関係にもあてはめてみたら、などとつい考えてしまった。いい文章、含蓄のある文という
のはそういうことなのかなあ。すべては、つながっているのだ。

「やわらかな遺伝子」 マット・リドレー 中村桂子・斎藤隆央訳 紀伊國屋書店 ★★★★
ヒトは「生まれ」か「育ち」かという古くて新しい議論はいまでも続いている。この問題をリドレー
ならどう考えるのか。いろんな研究、論文を読みすすめながら彼は仮説をたててみるのである。遺伝
子はヒトの設計図なのか。ヒトゲノムはそれをあきらかにしたのか。こうした議論の歴史を彼は十二
人の男たちが繰りひろげた人間の本性についての二〇世紀に広く認められた主要な理論からみていこ
うという。まずチャールズ・ダーウィン、そして彼のいとこのフランシス・ゴールトン、アメリカ人
のウィリアム・ジェームズ、植物学者のヒューゴー・ド・フリース、ロシア人のイヴァン・パブロフ、
行動主義のジョン・ブローダス・ワトソン、ドイツ人エーミール・クレペリンとジグムント・フロイ
ト。さらには、社会学を切り開いたフランス人エミール・デュルケーム、ドイツ系アメリカ人のフラ
ンツ・ボアズ、スイス人のジャン・ピアジェとオーストリア人のコンラート・ローレンツである。
『彼らは皆正しかったのである。つねに正しかったわけではないし、全面的に正しかったわけでもな
い。それに、モラルの点で正しかったとも言えない。ほぼ全員が、自分の考えをやたらに誇示し、他
人の考えを批判しすぎたからだ。奇妙にこじつけた「科学的」政策を意図的にあるいは偶然に生み出
し、消えない悪評を残した人物もひとりふたりはいる。それでも彼らは皆、真理の萌芽を秘めた独自
のアイデアを提供したという意味で正しかった。だれもが、一個一個レンガを積み上げて壁を作った
のである。』
彼らの積みあげたレンガとはどういうものだったのか。
『人間の本性は、実のところ、ダーウィンのいう普遍的特性と、ゴールトンのいう遺伝と、ジェーム
ズのいう本能と、ド・フリースのいう遺伝子と、パブロフのいう反射と、ワトソンのいう連合と、ク
レペリンのいう経過と、フロイトのいう形成期の経験と、ボアズのいう文化と、デュルケームのいう
分業と、ピアジェのいう発達と、ローレンツのいう刷り込みとが組み合わさったものなのだ。』
これらの詳しいところは本書を読んでいただくしかない。そうなのだが、彼の知見はするどい。
『ずいぶん皮肉な話だが、社会が平等になるほど、先天的な要因が重要になる。だれもが同じ食料を
手に入れられる世界では、背丈や体重の遺伝性が高くなる。一方、一部の人が贅沢に暮らし、ほかの
人が飢えているような世界では、体重の遺伝性は低くなる。同様に、だれもが同じ教育を受けられる
世界では、最高の仕事は、生得的な才能が最も高い人のものになる。これがつまり、実力社会という
言葉の意味するところなのである。』
そこのところをマルクスは読みまちがえた、のかもしれない。
『遺伝子は、情け容赦のない小さな決定者で、繰り返し同じメッセージを生み出している。しかし、
プロモーターが外部からの命令によってスイッチのオン・オフをしているのだから、遺伝子の活動が
最初から決まっているとは言えない。むしろ、遺伝子は環境から情報を引き出す装置なのだ。あなた
の脳内で発現する遺伝子のパターンは、多くの場合、時々刻々と、体外の事象に直接あるいは間接的
に反応して変化している。遺伝子は経験のメカニズムなのである。』
ということで、「生まれ」か「育ち」という二値的な判断は痛み分けということでしょうか(笑)。

テーマ:最近読んだ本 - ジャンル:本・雑誌

本棚のほこり完
とりあえず本棚の整理も一段落した。済んでしまえば、なんのことはなかった。そう感じるのだが、
なんとなく淋しい気がするのもたしかだ。すっきりした本棚をながめてみてもなんの感慨もわいては
こない。それでも個々の本についてはいろんな光景がうかんでくる。なけなしのお金を胸にハムレッ
トのように「買うべきか買わざるべきか」それとも呑んでしまおうか。と悩んだこともあった。本を
読むということは、逆に本を書く人もいるんだと気づくことでもある。いろいろと読んでいると、こ
んなものが本になるのかとおどろくこともままある。だが世のなかには、とてもじゃないがこんな見
識、洞察には至れない、と打ちのめされるような本もある。すこし経てば、そういうすべてをふくめ
て僥倖なのだと感じるのだ。百花繚乱のさまをしめす本たちの森を逍遥できる喜びをかみしめる。こ
れも健康体であればこそ。そのためにこそ節制しなければ、と思う今日このごろである。

N5824来しかたを見る

「人間とヘビ」 ラナ&デズモンド・モリス 小原秀雄監修 藤野邦夫訳 ★★★★
この本が書かれたのは1965年。翻訳がされたのが2006年ということであるから、モリスの著
作としてはずいぶんと忘れられていた(?)ということがいえるだろう。ヘビというとあまり一般受
けはしないとは想像できるが、こうして翻訳されたことはモリスのファンとしてはうれしい。
『本書は先史時代から現代までの歴史を通じて、人間とヘビの関係を考えようとする。人間とヘビの
関係はじつに不思議で、ときにひどく奇妙である。』
ヘビはどこでも嫌われものであったのかというと、そうでもないようなのだ。
『ギリシアの初期の神々は多種多様なヘビ神だった。ゼウスの前身でさえ、かつてはヘビの姿で崇拝
された。かれはゼウス・メイリキオスとして、巨大なひげのあるヘビの姿で描かれた。』
では、宗教においてはどうであったのか。
『創世記三章の文章には、ヘビがヘビ以外のなにかであることを示す記述はまったくない。古い時代
にはもっとも微妙で謎めいた、賢明な動物だと思われていた。それではどうして、ヘビは悪魔の道具
や変装した悪魔自身と見られるようになったのだろうか。ヘビはユダヤ人から見れば、エジプト人や
敵対する民族に崇拝されていたので、悪魔にふさわしい象徴だったのだ。』
だがヘビには実用的な意味もあったのである。
『古代エジプトの農夫が穀物畑にコブラがいることを喜んだと主張した。コブラは実った穀物を食べ
るネズミを退治すると同時に、周辺の野蛮な侵入者を抑止できたからだった。ネズミ類は人間の食料
の深刻な簒奪者であり、病原菌のキャリアである。かつて家にヘビを飼う習慣が広がったのは、健全
な経済的考慮の影響だったかもしれない。今日でさえ、ボルネオの中国人はネズミから食料品をまも
るために、倉庫や船倉にニシキヘビを飼っている。』
ヘビは爬虫類に属する。爬虫類といえば恐竜を想像する方がおられるのかもしれない。
『今日、生きのこった爬虫類は、カメ目(ウミガメ、淡水ガメ、テラピン)、ワニ目(クロコダイル
とアリゲーター)、ムカシトカゲ目(ニュージーランドのムカシトカゲのみ)、有鱗目(トカゲとヘ
ビ)という四つの大きな集団に属している。これらのなかで、もっとも遅く進化した有鱗目のヘビ亜
目は、白亜紀(一億三〇〇〇万年前)のはじめ以降まで姿を見せることはなかった。これは遠い昔の
ことのように思えるかもしれないが、ほかの爬虫類はその一億二〇〇〇万年前に実在していたし、爬
虫類の勢力の主体は凋落しはじめていたのである。ヘビはほかのほとんどの爬虫類と違い、哺乳類と
鳥類が勢いをますにつれて繁栄した。ヘビの世界規模の飛躍は、基礎的な獲物のげっ歯類のおなじよ
うな世界規模の広がりに依存していたように思われるので、これは偶然ではなかったのだ。』
ヘビとヒトが共存できるようになればいい。しかし、サルはヘビを怖がるのも事実である。

「人間通」 谷沢永一 新潮社 ★★★
谷沢さんはもっと謹厳実直な(失礼!)方なのかと思っていたが、そうではなく、なにごとも真実を
追求する、つきつめて考える、理の当然を述べる人であったのだ。
『若き日の山本周五郎は五幕の喜劇を書こうとしていた。それは共産主義のドグマに挑んだ主題で、
最小限度にでも頭脳と胃袋と生殖器の能力が均一でなければ、公平なる分配はあり得ない、との判断
を主題とする構想であった。人間においては生殖器の能力が均一ではないのだとの主張は非常に重大
な提唱である。現実の問題として人間の容貌も体力も智力も食慾も人それぞれによって幾段階にも相
違する。ここまでの事実は誰でも完全に容認する。それだのに性慾の甚だしい個人差だけは決して素
直に認めようとしない。この思えば不思議な拘わりが人間世界に無限の紛擾を巻きおこしている。』
人には基本的な欲望というのものがある。なにかがアンタッチャブルということはない。違っていれ
ば、違っているのではないかと思えば、言えばいいのである。それが議論というものだ。あうんの呼
吸というものもあるが、過ぎたるは及ばざるが如し、である。
『性に放縦な他人を情熱的に責める閑があったら、自分も進んで好き勝手に振る舞えばよいのだ。い
っそ千人斬りを志すのもまた壮大ではないか。その甲斐性がないのを自覚するゆえに他人が羨ましく
て仕方がないのだ。嫉妬が悪徳であることは誰でも知っている。嫉妬は抑制しなければならぬと諸人
は心得ている。ところが他者の性的放銃を弾劾するときだけは嫉妬が野放しになるのが通例である。
それほど男も女も性的放埓への憧れが根強く、それを為し得ない為し得なかった自己束縛についての
怨念が心の底に蟠っているのであろう。嫉妬という情念をどこかで思い切り発散したいと誰もが念じ
ているのかもしれない。』
そういうことはありがちだ。痛いところをつかれると声高に反論したりして。
『権威とは一般者が仰ぎ見て押し立てるから虹の如く中空に出現する虚構である。権威とは何か。権
威とは権威ある存在であろうとする者が魔術の杖を振るって意図的に練りあげることができる程度の
生易しい拵え物ではない。権威を認めたい権威を賛仰したい権威に寄り掛かりたい権威への信頼に安
住したい出来れば繋がりたい権威を利用したい、こういう素朴な願いが広く瀰漫しているからこそ世
に権威なる不思議な幻が横行する。』
政治もおなじようなところがある。批判しながらも選んだのは批判者である、というような。
最後に、もうひとつ。ことばの意味というのはなんとなく思っていることとはちがうことがある。
『源頼朝がはじめて幕府政権を樹立した。幕府とは将軍が軍旅の際に置く陣営を意味するのみである。
律令すなわち国家法の定める政治機関ではない。幕府とは法体系が認めていない私設の権力組織であ
る。明治維新とは私権力を潰して公権力を復活させる改革であった。しかるに昭和五年から終戦まで
陸軍が私権力を行使したのである。陸軍省は三宅坂にあったのでこれを三宅坂幕府と呼ぼう。』
こういわれてみると、明治維新もちがったふうにみえてくるだろうか。

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ラベンダーマン再び
あの男にまた会った。
乗りかえの電車にすわって、いつものように本を読んでいた。
発車の合図のベルの音とともに横にどんすんとすわる気配。
視界をかすめるようなラベンダーカラーでわかった。

今回はすこし本を読みながらも観察をこころみる。
右の真横だから、息づかいがきこえそうなものだがそれはない。
席にはすこし浅くすわっている。
いつでも動けるぞ、というように。

電車がすこしゆれたとき気づいたのだが、左の耳にちいさなイヤリングがゆれていた。
う~ん、なかなかおしゃれじゃないか。
否、これはそういうことではないのだろう。
彼にとってまじない(呪術といってもおなじ)の意味があるのかもかもしれない。
うす汚れたラベンダー色のコートも。

8129グラジオラス


ハレツアー九州 石仏で惜別篇
朝になって昨夜雨が降っていたことを知る。
雨女、雨男の参加で、マイナスとマイナスはプラスになった。
ということをご報告いたします(笑)。

朝からO君が腕をふるっての朝食をいただく。
やはり大分県まできたらここでしょう、ということで出発とあいなる。
若いころに駅から歩いて行った記憶がかすかに残っている。
何十年ぶりかの臼杵石仏へ、すっかり観光地化していたが、あたりまえのこと。
立派ななんというのか覆いというか建物ができていた。
信仰というものを考えさせられるのである。
人と宗教、むかし読んだバートランド・ラッセルの本のことなどうかんでくる。
人に宗教は必要なのか。必要でないとしたら、なぜいま宗教があるのか。
それとは関係なく、なんとはなしに荘厳な気分も感じるのである。
ときに謙虚になることも必要、ということなのだろうか。
これらの石仏を彫った人たちの思いというのはなんなのだろうかとしばし考える。

N5757臼杵石仏

N5780臼杵

空は蒼く、ほんとうにいい天気だ。

N5778臼杵石仏

N5777臼杵石仏

別府へもどって「とり天」を食べよう、ということで昼食になる。
前にも来たことがあるのだが、午後一時をまわっているのに多くの人がつぎつぎに来る。
なかなかの人気店であることが知れる。
すっかり満腹になって、別れの時間が迫ってきた。

わたしはよくは知らないが、カトレアさんというところへ行く。
女性たちが中心になってなにやら醤油を購入していた(有名らしい)。
かなりご高齢の店主(?)の方などに見送られて恐縮する。
なにやらおみやげらしきものもいただいた模様である。
こういうことがあると、旅とは人との出会いだという言葉をおもいだす。

N5785フジヨシ醤油

今回の旅でわかったのだが、なにかひとつエピソードがあると一時間は話が続く。
ああでもない、いやこうじゃないか、いやいやこういうことじゃないの、などなど。
広い視野(?)からの意見がきけて、いや~勉強になりますわ。
というようなことも気心が知れているからである。
なかなかそのような交友関係をきくことはない、と思いいたるのだった。
すばらしき友をもてた人生のめぐりあわせに感謝しなければいけないなと、思うのだ。

O君はもちろんのこと、今回もいっぱいお世話になりました。
やっぱりいいな真鍋のともだちは、といまさらながらに実感する。

みなさんできうるかぎりお元気で、またいつかどこかで会いましょう。

N5635じゃあ元気で

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ハレツアー九州 人生行きつ戻りつ篇
地元であるということで車の先導はO君にまかせる。
しかし、なぜか道路わきにある道の駅を素通りするではないか。
と思ったら、Uターンして早朝の道の駅に立ち寄り。
こんなユニークな建物がありました。
開店前ながらお願いしてスタンプも押せました。

N5696道の駅小国ゆう・ステーション

高千穂峡へ向かう途中のこのあたりときおり阿蘇山の噴煙がみえる。
じゃあ、阿蘇の大観峰に立ち寄るのだろうと思っていたらなんと通過するではないか。
いやいや、メンバーになかには行っていない人もいるということでUターン。
阿蘇は活火山だということがよくわかりました。

N5698阿蘇の噴煙

N5704大観峰

そこからも、一路高千穂目指しているはずだが、時折Uターンなどあり。
先頭を交代することになったのだが、なぜ通過したのか。
実はO君、スマホをナビ代わりに使っていたのだが電波が受信できない場所ではアウト。
やはり車のナビゲーションシステムが必要なのではないか(こちらは衛星だからね)。
ということがあったり、道の駅を避けている(?)のは意図的なんだろうかとか。
それぞれの車中では論議沸騰したことのようである。

さて高千穂峡の道の駅に無事到着いたしました。
ここでY先生とはお別れです。またお会いしましょう、お元気で。

N5719高千穂峡

大混雑の高千穂峡、ボートは二時間待ちとのことで断念する。
何十年ぶりかで再訪したのだが、以前の記憶はすっかりなくしておりました。
しかしなうての観光地、外国からのお客さんんも多かったです。
天岩戸神社にも立ち寄りソフトクリームも食べ、いざ高速道路を別府めざして北上。

N5729天岩戸

いい天気だったし、汗もかいたので夕食前に温泉へ。
O君ご推薦の駅近くの温泉「不老泉」(市民用?)へ。
なんと入浴料は100円、でありますから石鹸等は持参ということでした。
まあ、一般の銭湯と考えればわかりやすいのでしょうか。
風呂場にはいって、すこし違和感を感じた。
それは、みなさん湯船のわきに座って体や頭を洗っている。
もちろん湯船のお湯をすくってかけている。
そういう人もいるのかと思っていたが、なぜか蛇口は水が出るものだけしかなかった。
湯船の湯で頭も身体も流す、というのが別府流なのだそうだ(あとからレクチャーいただいた)。
しかし100円で別府の温泉につかれるのだから、市民はしあわせである。

N5743不老泉

今夜は「チョロ松」で宴会というか、夕食をいただく。
いまやちょっとした有名店ということで、ほぼ満席でありました(予約してました)。

N5748チョロ松

すこし座敷がせまかったのではあるが、そこは気にしないわれらである。
向かいからながめれば、メジロのようにならんでさえずっているのである。
まさしく目白押し状態なのでありました。
飲んで笑って、食べて笑って、しゃべって笑っての夕食でありました。

夜の街をゆらゆらと歩いてO氏宅にもどって、またも飲み会の夜は更けてゆく。

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ハレツアー九州 春爛漫ならんや篇
今回は自家用車とレンタカー二台での移動ということになった。
われわれの旅にはかならずなんらかの事件が起こる。

とりあえずどの車にだれが乗るかをくじで決める。
レンタカーの運転者は交代すればいいだろう。
ということだったのだが、走りだしてY氏がなぜか別府の友人宅に免許証を忘れてきたというのだ。
これはいったいぜんたいどういうことなのか。
さっそくに詮議がおこなわれること必定である。
きっと彼は運転したくなかった、だからわざと忘れたと言っているのだろう。
いやいやそこまではないだろう、がしかし深層心理にはあったのかもしれないな。
なかなか巧妙な忌避行動というべきか、云々。
どんなささいなことであろうとも、流さないでいちどは検証するわれらである。

春本番を感じさせるあたたかな天候のなか、お寺をいくつかまわる。
もうすぐ桜も満開になるのであろう。

N5662富貴寺

N5664石仏

やがて宇佐駅で後発組をむかえる。
時間のないこともあり近くのファミレスで早めの昼食をとることにする。
なんとこんなところでもハプニングがおこるのだ。
個人的な名誉もありブログでは詳述できない。
こうしたエピソードは伝説となって語りつがれていくのだろう。

さて本日のメインイベント、宇佐神宮参拝である。
地元のO君が宇佐神宮の神社としての位はたいしたものなのだよと。
調べてみると、およそ以下のようなことがわかった。
宇佐神宮は全国に四万社あまりある八幡様の総本宮である。
八幡大神(応神天皇)・比売大神・神功皇后をご祭神とし、神亀2年(725年)に創建された。
皇室も伊勢の神宮につぐ第二の宗廟(そうびょう)として御崇敬になられている。
そして一般の人々にも鎮守の神として古来より広く親しまれてきました。
ということだそうだ。広大な敷地がその勢力をしのばせるのである。

N5675宇佐神宮

N5676龍

すこし寄り道などしながらも、一路今夜の宿(玖珠にある別荘、美人の湯)へ。
途中食材など購入しつつ、Y先生ともぶじ合流できた。

N5686宇佐のマチュピチュ

しかししかしなんと、のちのち語りつがれるであろう温泉事件が勃発したのであった。
ある意味、関係のない人からはどうでもいいようなことでもある。
そこで知った。
わらわれはこんなことひとつで一時間は座がにぎわうのである。
おそるべし、真鍋の仲間たちというべきか。


テーマ:真鍋島の愉快な仲間 - ジャンル:旅行

ハレツアー九州 旅は道連れ篇
「また九州に行きたいね」
「お願いしていい?」と女性陣がたずねると、
「いいよ、まかしなさい」と言ったかどうかは忘れたが、了解の返事があった。
だれか行くものこの指とまれという呼びかけにたちまち十人あまりが手をあげた。
かくして四度目になる九州の旅、あるいは珍道中のはじまりである。

わたしたちは「道の駅全国制覇同好会(?)」の有志と中津からのスタートとなった。
他のメンバーは三々五々別府を中心にあつまってくる。
あくまでも個々人の自主性を尊重するのがわれらのあつまりである。

中津藩といえば福沢諭吉で有名だが、そんなことは気にしなくてよろしい。
着々と「道の駅」を踏破してゆくのである。
余談だが、「道の駅なかつ」で食べた鳥のからあげがうまかった。
おなじ「からあげ」といってもどうしてこうも味がちがうのだろうか、不思議だ。
九州では鳥料理は必須である。

N5612道の駅なかつ

スマホ画面にある道の駅の数々が訪問することによってピンの色が変ってゆく。
陣取りゲームでエリアが拡大してゆくかのようでこころよいのだろうか。
お伊勢参りや西国巡礼などというのと本質的にかわりはないと思う。
旅行にでかけるのには、なにか立派な理由があるとこころが軽くなるのだ。
(なかには信仰心あつい方がおられるのは理解しています。あくまで一般論として)
(まずは最初にこのようなスタンプラリーを考案した方の慧眼におそれいる)
(当時の経済活性化策であったのかどうか…)
なにはともあれ、旅することは楽しいものだ。

N5614豊後高田

国東半島を走っていると粟島神社なるところにやってきた。
菜の花畑や青い空におよぐ鯉のぼり、なんだか晴々とするのである。

N5624菜の花と鯉のぼり

杵築の城下町をあるいてみれば、いにしえにもどったような気分にもなれる。
たまには旅にでるのもいいものだ。
(いつも行っているじゃない、との声もきこえてくるのだが)

N5641杵築城下

N5650杵築の坂

夕方には別府に前泊組があつまって、祝杯をあげるのであった。
なんの祝杯って、ひさかたの邂逅をよろこんでのことに決まっているではありませんか。
といったらば、一月にも会ったよねっていう輩あり。
時間なんて感じるこころでいかようにも解釈されうるのである。
ひさかたのなんて枕詞としてご理解いただきたい
飲んだり食べたり笑ったり、にぎやかな別府の夜は更けてゆくのであった。

テーマ:真鍋島の愉快な仲間 - ジャンル:旅行



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島を旅するときが楽しいですね。
遠くに眺めるのも好きです。
楽園なんてないんですけどね。

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