ムッシュの読書紀行
人生は旅のようだと言いますが、旅が人生かも知れません。 ぼくは活字中毒気味でもあり、旅はまだまだ続くでしょう。
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擬似ひとり生活
かみさんが日曜日から五日ほど家をあけるという。
これに対して、なんの異存もない。
元気でいってらっしゃい。

「気楽にすごせるわね」
「そんなことはないけど…」
「すこしおかずを作っておくから食べてね」
「うん、ありがとう」
「それから、ゴミの日には捨てておいてね、プラスチックとふつうゴミ」
「メモを書いておいて、忘れるといけないから」
「それといちどくらいは洗濯してね」
「しかたないな、やり方教えといて」
「このボタンを押すの、その前にここに洗剤、ここには柔軟剤ね」
「えっ、憶えられるかな」
「だいじょうぶ、がんばってね」
「うん、頑張る」

なんだか小学生にでもなったような気分だ。
まあ、小学生ならビールや焼酎はのまないだろうけど。

なんとかつつがなく三日目がすぎようとしている。
生活するって、自分ですべてやるとなるとけっこう面倒なこともおおい。
でもひととおりつつがなく(?)終えてほっとひと息。

夜中に読書しながらウヰスキーのロックを飲む。
しばしの休憩、ひさしぶりにサイモン&ガーファンクルを聴く。
なんとなく優雅なひとり者の感じがする、ような、そうでもないような。

N6204ロック


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夏に向かって
いまがいちばん過ごしやすい季節なんだろうなと感じる。
寒くはなく、日中の温度があがっても陰にはいればさわやかだ。
いままでこんなふうに感じたことはなかった。
どちらかというと、そんな季節に中途半端な感じをいだいたものだ。
暑いのか寒いのか、どちらでもいいが極端を好んだ。
やはり若かったのか。

N6192ジキタリス

N6193クレマチス

そういえば最近は春とか秋を感じることがすくなくなった。
冬からいきなりもう夏というような季節の移り変わりだ。
晩夏からあっというまに冬になる。
時間の経つスピードがあがってきたようだ。
もちろん、わたしの感じ方の問題である。

N6189なんだっけ?

ふと目を転じれば、冬枯れていた庭もひときわ青々としてきた。
いろんな花も咲きだしている。
それにつれて虫や蝶、蛾もが飛びかっている。
あたかも突然、未知の小国が出現したかのような光景がひろがっている。

N6179アナベル

生きものたちの天国の扉がひらかれるのだ。

N6177向こうにあるのはレッドベゴニア


メダカに問う
縁側の睡蓮鉢にいるこの初夏に生まれた子メダカをながめていると…。

9128メダカの学校

「おまえはいったいなりになりたいんだ」
と問いかければ、なにを言っているんだと変人扱いされるだろうか。
「メダカはメダカにしかなれないだろう」と。
「せいぜいおおきなメダカになるぐらいしかないだろうね」

なのに、人に対してはおおきくなったらなんになるって訊くのはなぜか。
「ヒトはヒトにしかなれないのに」
まさかガンダムになりたいというのだろうか。
「無理じゃないの」と苦笑いされるが落ちだ。

9129何か?

人には職業選択の自由があるが、メダカにはない。
メダカが職業人になれることはない。
どこの学校へ行きたいといっても、メダカにはメダカの学校しかない。
それもかなりあいまいな情報だ。

仮にメダカの学校に入学したとして、進路は決まっている。
成魚のメダカだ。それしかない。
メダカには出世魚という概念が用意されていないのだ。
これはメダカにとって幸か不幸か。

そんなこんなの妄想が積乱雲のようにうかんできた。

9055睡蓮


激しくなじるヒト
ヒトは、つきつめるとすべてのことに好きか嫌いで反応している、という。

だが、実際にそう思って行動しているかとなると、これは別問題である。
そんなこと思ってもみなかった、とおっしゃる方がおおい。
もっと高尚な動機あるいは理念からでてきている、と考えているようだ。
だから、いろんな理論、主義が生まれてきたのだともいえる。

だって、そんな単純な動物なのヒトって。
そう単純なんですよ、ヒト、とくに男なんて。
常に二点間の最短距離をいこうとするようなものなんですよ。

ならばどうしてそう考えないのか。
それは、単純な奴と思われたくないから、じゃないかな。
コンプレキシカルなほうが高級と思っていたりして。
「オッカムの剃刀」を知らないんでしょう。

それに議論になったりしたとき、大声をだす人がいますよね。
無意識でしょうが(だから本音)、威嚇してるんでしょう。
それで論理が正しい、となるわけでもないんですが。
正しい帰結がないというのか、そういう問題もおおいじゃないですか。
できるだけベストに近づける努力をするのが議論だと思うんです。
だけど形勢は我に不利なり、とでも感じているんでしょう大声をだす人は。
まあ、本人はそれですっきりした気分になれるのかもしれません。
ね、やっぱり単純でしょう。

ある意味、自己本能に正直に生きているってことになりますか。
どこかで中島みゆきが歌にしていそうな気がするなあ。

9126フクシア


なぜ書くのか
このブログを書きはじめる前にも、ときおり思うところを書きつけたしたことはあった。だから文章
を書くのが苦手だと思ってはいない。しかし、書かなければいけないという状況になるとなぜか書く
のが嫌になる。こうなると、すらすらと書けることはほとんどなくなる。まあ、考えを文章にする訓
練を自分に課してこなかったつけがまわってきたということだろう。もっと書くことが楽しいと思え
ればいいのだけれど、これはまずない。では、そこまでしてなぜ書くのか。書くことの意味がわかっ
ているから、というしかない。書くためには、考えなくてはならない(私の場合)。まず共感したこ
と、感銘したことが思いうかぶ。うかばなければ、再読することもある。なんども思いだすことにな
る。反芻しているといってもいい。消化されてどろどろの液状になればもう吸収されたといえるのか
もしれない。ちなみに私は丑年生まれであるが、それが関係するのかどうかは知らない。

9062庭に咲く

「あたらしい哲学入門 なぜ人間は八本足か?」 土屋賢二 文藝春秋 ★★★
現代は科学万能とはいわないまでも、科学が物事の本質への道だと思われているふしがある。科学的
という呪文は水戸黄門さまの印籠のようでもある。しかし科学とは仮説である。だから、ニュートン
はその席をアインシュタインにゆずった。しかし、ニュートンがまったくまちがっていたのか、とい
うとそうではない。アインシュタインがより包括的な理論を提案したというだけのことである。人は
絶対を志向する。二値的な判断を好む。コンピュータはその要求を満たしているだけかもしれない。
もともと、哲学は科学の師であった。では現在の哲学の意義はなにか。いつのまにか、そんなことを
思いながら本書を読んでいた。
有名なゼノンのパラドックスに「飛ぶ矢は飛ばない」というのを知っているでしょう。彼の証明はこ
うです。A点から矢を放つ。その矢が地点に向かって飛んでいる。AからBまで矢が飛んでいる間、
どの瞬間をとっても矢はA点からB点までのどこかにあるはず。ある瞬間をとらえると、この矢は止
まっている。瞬間とは幅のない時間のことだから、その瞬間には矢は止まっているはずだ。時間は瞬
間が無数に集まったものである。瞬間瞬間の矢を集めると運動がでてくるはずなのに、止まっている
ものをいくら寄せ集めても運動はでてこない。たとえばこの机はいま止まっている。こういう机を何
百個集めても、それこそ無限に集めてもそこから運動はでてこない。それとおなじように、どの瞬間
をとってもこの矢は止まっているのだから、それをいくら集めても運動はでてこない。だから、この
矢は飛んでいない。こういう証明でした。現実とは一致しないが、なかなか反証できない。
『これをアリストテレスはどう解決しているのかというと、一定の時間の幅の中でしか「運動」とか
「静止」ということばは使えないのに、ゼノンは幅のない瞬間について「運動している」とか「止ま
っている」ということばを使っていると指摘し、そこから、ゼノンの主張は誤ったことば使いの上に
成り立っている以上、問題はなくなる、と主張して解決したんです。「ある瞬間に矢は止まっている」
という言い方は、「天使は存在しない。では天使はどこにいるか?」という言い方と」同じように意
味がありません。』
なるほど、よくわかるような気がする。そういえば、この手のことは日常茶飯事である。問題のすり
替えは国際政治でもよくある。それってダブルスタンダードでは、というようなこともおおい。
『哲学がことばに関係していて、ことばの誤解を解くことによって問題が消滅するということは、古
代ギリシアから発見されていました。ただ、哲学の歴史の中では、それとは違う考え方もかなり多く
出されました。いろいろな歴史的ないきさつを経て、二十世紀以降は哲学の問題というのは言語的誤
解、言語の誤用から発生していると考える人が多くなってきました。その流れを作った一人がウィト
ゲンシュタインで、哲学の問題は言語の規則を破ることによって発生すると考えたんですね。』
ちょっとウィトゲンシュタインを読んでみようかな。でも、むずかしいんですよ。しかし、避けてい
ては先にすすめませんからね。そのうちに、かならず読んでみます。いつもはユーモアというか逆説
連発の土屋氏であるが、こういう(大学の講義だそうだ)真面目なものも書かれるんですね。しかし、
私としてはあっちのほうが好みです。

「「自分」の壁」 養老孟司 新潮新書 ★★★★★
養老先生の本は、飽きることがない。なぜなんだろう。いつも考えているからだと思う。いつも考え
ている人は少数者である。いつも悩んでいる人は多い。考えることと悩むこと、似て非なるものだと
いえる。悩まず考えるようにしよう、と思ったりしながら本書を読み終えた。今回も、こんなところ
に、うーむとうなずくのであった。
『私は若い頃からよく山に出かけています。多くの場合は虫とりのためです。
 田舎の山には案内板が設置してあります。これも地図の一種です。困るのは、往々にしてその地図
には「現在位置」が示されていないということでした。
 つまり、その山がどんなふうになっていて、どういうふうに道があって、という情報は描かれてい
るのですが、肝心のその地図がどこに立てられているのか、という情報がありません。当然、自分が
どこにいるのかがわからない。これではまったく役に立ちません。
 いくら詳細に山の情報が書かれていても、現在位置の情報がなければ役立たずの地図なのです。
 溶けていく自分
 なぜ地図の話をしているか。生物学的な「自分」とは、この「現在位置の矢印」ではないか、と私
は考えているからです。ほかの人がこういう言い方をしているのを読んだり聞いたりしたことはあり
ませんが、そう考えるとわかりやすいのです。
「自分」「自己」「自我」「自意識」等々、言葉でいうと、ずいぶん大層な感じになりますが、それ
は結局のところ、「今自分はどこにいるのかを示す矢印」くらいのものに過ぎないのではないか。
 そのことは実は脳の研究からもわかっているのです。
 脳の中には、「自己の領域」を決めている部位があります。「空間定位の領野」と呼ばれています。
 なぜそんなことがわかるのか。その部位が壊れた患者さんの症例等を調べた結果、わかってきたの
です。』
もちろん自分しかないという感じはわかるのですが、それでも肥大しすぎだと。
『「自分」とは地図の中の現在位置の矢印程度で、基本的に誰の脳でも備えている機能の一つに過ぎ
ない。とすると、「自己の確立」だの「個性の発揮」だのは、やはりそうたいしたものではない。そ
う考えたほうが自然な気がしてきます。
 もともと日本人は、「自己」とか「個性」をさほど大切なものだとは考えていなかったし、今も本
当はそんなものを必要としていないのではないでしょうか。』
「個性」なんてものはあとからついてくる。個性的でありたいと考えている奴に個性なんかない。い
や、そう考えているところが個性的だ(笑)。「絆」という言葉についてもこう書かれている。
『東日本大震災の後、「絆」という言葉がよく使われ、その大切さが改めて説かれるようになりまし
た。その一方で、そうした風潮への違和感を口にする人もいました。「絆」という言葉はなんとなく
気持ち悪い、偽善的だ。そんな反発をおぼえたようです。
 私はその頃、これをきっかけに絆の大切さを考えるのは結構なことじゃないか、と思ったほうでし
た。たしかにケチをつけようと思えば、いろいろ言えることでしょう。しかし、そういうことはあま
り気にしないようにしています。文句を言えばキリがない。むしろ、そのいい面を考えていけばいい
だろう、と思ったのです。
 絆の問題が、一番わかりやすく表れたのが、親子の関係の変化です。親子関係は、子どもが社会に
出てからの人間関係の基本にもなります。その絆が明らかに薄くなった。
 以前から気になっていたのは、団塊の世代の人々がしばしば、「老後は子どもの世話にはならない」
と言っていることでした。親孝行といった道徳をなくしていけば、当然、そういう考え方になります。
「私は親孝行をしない。よって子どもも私に孝行する必要はない」となるからです。
 でも、体が動かなくなれば他人に迷惑をかけざるをえません。それでいいのです。世の中には元気
でも迷惑な人だって、たくさんいます。他人に迷惑をかけずに亡くなるのが一番いいというのならば、
災害で死んで、遺体も見つからないのが理想だということになってしまう。いくら何でも、それはお
かしいと思うでしょう。
「子どもの世話にならない」という考え方を持つ人は、それを一種の美学だと捉えているのかもしれ
ません。しかし、社会全体がそういう考え方に向かうのは、ちょっと危ない傾向に思えます。それは、
「子どもの世話をしない」ということの裏返しだからです。要は、「人のことなんか知ったこっちゃ
ない」ということです。これは実に人間関係において、手抜きをしているということです。このこと
は、「自分の体は自分だけのもの」という考え方にもつながります。そして自殺も「俺の勝手」にな
ってしまう。』
この論点は人が生きるうえで大切なことだと思います。傲慢にならないように(逆説的ですね)気を
つけていきたいものです。他にもたくさん附箋がついているのですが、これはそれぞれで是非お読み
いただきたいと思います。


テーマ:最近読んだ本 - ジャンル:本・雑誌

眠れる夜
若いころは眠れない夜をすごしたこともある。
ところが、ある時期を境にそうしたことも経験しなくなっていった。
なにがそのきっかけになったのか。
いま考えてみると、心境の変化がおおきかったようだ。

そのころ読んだ本に、澤木興道師のものがあった。
澤木さんはフェルディナン・ド・ソシュールとおなじように自分では著作を残していない。
彼を敬慕する人たちが、師の話されるのを書き記したのである。
ソシュールの「一般言語学講義」のように。

『禅談』(だったかな)のなかで、いまでも強く記憶に残っている話がある。

澤木師にあるときこう聞く者がいた。
「座禅をすると、どうなりますか」
師は間髪いれず、
「なんにもならん」

N6124バケツの水

これをどう受けとめるか。
人それぞれである。
器量が問われるとはこんなところにあるのかも。

それ以来、不眠がなくなった。
不眠症には禅談が効くようだ(たぶん)。

いまではベッドにはいって数秒で寝入っている、という証言もある。

図書館の功罪
最近は本を買うことがめっきりすくなくなってよく図書館のお世話になっている。こうした状況をに
がにがしく思いそう公言している作家がいることも知っている。彼はなにか勘ちがいしているのでは
ないか。彼は著作権保護などというが、自身のことしか考えていないように思える。図書館で読める
ようになると人びとは本を買わなくなる、というのだろう。なんと狭量なことよ。それにちょっと待
て、とも思う。果たして本が売れなくなるのであろうか。それよりもまず読んでもらわないと、読ん
でもらえる習慣をもってもらわないといけないと考えないのか。本は一度読んでそれで終わりとでも
考えているのか。本が好きな人はいい本に出逢ったら手元におきたいと思う。そうではないか。別の
角度からながめてみれば、個人が買わないあるいは買うほどのものではないと判断した本を税金で図
書館がせっせと買ってあげている、と考えたりはしないのだろうか。

9063イチゴ一会

「小鳥来る日」 平松洋子 毎日新聞社 ★★★★
平松さんの本を読むのはこれで二冊目である。同感ですなあ、という感想をいだくことがおおい。こ
うした感覚は読書には必要である。なんだか疲れているようなときは元気がでる。そうだ頑張ろうと
いう気にもなる。やはり仲間はいいものだ(勝手にそう思っている)なんて悦に入る。ではでは、そ
んな彼女の文章をすこしご紹介いたしましょう。
『「旅は『せっかく』でできている」
 だって、かんがえてもみてください。「せっかく」、このひとことさえ持ち出せば、旅先でのすべ
てに片がつく。たとえば……。
 名所旧跡なんかほんとうは興味がないくせに、「せっかく」遠いところまで来たから寄っておくか。
腹が減ってもいないのに、ぶらぶら揺れている「名物だんご」の旗とか「限定!この時期だけ」の貼
り紙を目にして、「せっかく」だからやっぱり食べておこうかな。』
まあ、わからないでもない(笑)。旅先だとなぜかおいしそうに感じるものである。だから、土産で
買うより断然その場で食べるほうがよろしい。やはり場の力をあまくみてはいけない。でないと、買
って帰ったはいいが、こんなはずではなかった、となることがおおい。
『太巻きとか卵焼きとか、切り落とした端を見ると平静を失う。はんぶん崩れかけた太巻きの端っこ
から干瓢やきゅうりの余りがぴょろりとはみ出ていると、もうそれだけで生つばが勝手にじわーっと
湧いてくる。』
そうです。カステラの端っこ。羊羹の端の砂糖が隆起したさまなど、思いだしますね。
『レースというものは、糸を編んでつくった模様、その模様のすきま、ふたつがあってはじめて成立
している。ついつい「そこにある」レース模様にばかり気を取られるけれど、じっさいは「そこにな
い」空間があってこそ。レース模様にとって、すきまは圧倒的な存在感を持っているのだ。』
そうですね。ドーナツも穴があればこそ(最近はないのもありますが)。こういう文章にであうと、
心理学ででてくる「図と地」などが思いうかんできます。ルビンの壺など有名です。では最後に、ミ
ルコさんの「毛のない生活」という一節から。
『辛苦をつづった闘病記なのに、読むほどに清浄な空気がながれこんでき、無類のすがすがしさをお
ぼえた。起きてしまった病気にたいして、むやみにあわてず、つぎに必要なことを選択し、自分の底
力を信じてよい結果が訪れるのを待つ――こうして書けばさらりと聞こえがちだが、苦痛や恐怖や不
安でいっぱいになりながら、それでも「待つ」のは、どんなに重く苦しいことだろう。
 しかし、ミルコさんは「耐える」のではなく、「待つ」。
 ……
 もうひとつ、あらためてだいじなことを教わった。「ない生活」は「ある生活」と表裏一体なのだ。
いまの「ある生活」は、明日の「ない生活」の裏返しにすぎない。病気や別れ、死もまた。それは生
きていくうえで、ごくあたりまえのことなのだ。』

「悪童」 カミラ・レックバリ 富山クラーソン陽子訳 集英社文庫 ★★★★
エリカ&パトリック事件簿のシリーズ第三作である。スウェーデンの地方都市フィエルバッカの漁師
が仕掛けをひきあげるとそこには子どもの死体がひっかかっていた。溺死であった。現場にかけつけ
た刑事パトリックは、その子どもがエリカの友人の娘サーラ・クリンガであることを知りおどろく。
事故死かと思われたが、肺の中からは海水ではなく風呂の水と思われるものがでてきた。殺人事件で
ある。目撃者をさして聞き込みをはじめる。そんななか、クリンガ家は隣人のカイ・ヴィーバリとも
めていることがわかる。また、ヴィーバリ家には引きこもりに近いプログラマーの息子モルガンがい
た。彼はアスペルガー症候群だときいたが、マーティンはどういうことだかよくわからなかった。
『「アスペルガー症候群」マーティンが言った。「どんな症状なのかよく分からないのですが」「ま
あ、知ってる人はあまりいないでしょうね」モルガンが言った。「自閉症の一種ですが、知的レベル
が平均からそれ以上のものを指します。ぼくの知性は高いです。大変高いです」そう付け足したが、
別に自分の発言を強調したいわけではないようだった。「われわれアスペルガー症候群の人間は、他
人の表情を読み取ったり、比喩、皮肉、声のトーンといったものを理解するのが苦手なんです。社会
へ適応しにくい問題を抱えています」』
ミステリは事件の舞台になる社会を映す鏡であることはひろく知られている。終盤になって、殺され
たサーラもアスペルガー症候群だったことが判明する。現代社会がかかえる典型的な病でもある。で
は、モルガンがサーラを殺したのか。どうも、そう考えるのはぴったりとこない。
この事件とは別に時代をさかのぼって語られるストーリーと事件との関連はどこにあるのか。なかな
かにこみいった構成に息つくこともできないミステリである。


テーマ:最近読んだ本 - ジャンル:本・雑誌

映画はめぐる
今回の旅で、岡山県・鳥取県の道の駅は100%制覇したということです。
ずいぶんと巡ったことになり、なにが旅のきっかけになるのかわからないものです。
いろいろと日々考えているのですが、とりあえず道の駅をめざすが結論でしょうか。
理屈はいろいろとつけられますが、それをいうと嫌われるので封印しておきます。
しかし、ときにマグマのように噴出するおそれあり。
「注意一秒、怪我一生」の標語を肝に銘じておきましょう。

以前の国鉄線路が第三セクターにひきつがれています。
そんな若桜鉄道にそって車を走らせる。
「安部」駅にやってきました。
ここはフーテンの寅さんの撮影がおこなわれたところ。
そう思ってながめると、映画のシーンがうかんできそうだが、こなかった。

9067安部駅ホーム

9071男はつらいよ

終点の八頭駅では、結婚式があるようで多くの人が集まってきていました。
SLの近くにセレモニー用の準備がしてありました。
雨も昨夜のうちにとおりすぎていて、まっことよかったですね。

9076智頭駅SL

さて今回の旅の最終地である智頭の宿場町へ。
なかなか風情のある街並みがつづいています。
人もあまり歩いていません。
そんななか、あまり人が訪れそうもない諏訪神社に立ち寄りました。
まったく、だれもいません。
この季節ですが、モミジの一部だけが色づいていました。
社には見事な彫刻がほどこしてありました。
こういうところをパワースポットというのでしょうね。

N6147諏訪神社

N6150モミジ

N6142諏訪神社彫刻

N6146諏訪神社獅子

敷地三千坪という石沢家住宅を見学いたしました。
国登録重要文化財だということです。

N6156石谷家住宅

諏訪酒造をへて、西河克己映画記念館を訪れてみました。
映画のポスターなどなつかしい感じがします。
みんな若かったなあ(笑)、というのがすなおな感想であります。

9106西河克己映画記念館

9110伊豆の踊子

9112伊豆の踊子

やはりときどきは出かけるべき、ですかね。
だが、このときどきというのが曲者です。
その頻度というは、ひと月に一回なのか、三か月、半年、人により感じ方はちがうでしょうね。
そういった感覚というか価値観がちがう人間がいっしょに暮らす。
なかなかむずかしい、ものですね。
それが人生だ、といえばそれはそうなんですが。

倉吉駅、むかしは上井駅
たとえば、 信越線の沓掛駅は昭和31年に中軽井沢駅になった。
(沓掛時次郎はもう有名ではない、という判断だったのだろうか)
山陽本線の玉島駅は、山陽新幹線の開業で昭和50年に新倉敷駅になる。
山陰本線の上井(あげい)駅は昭和47年に倉吉駅になっている。

ここにその当時のイメージというのか、流れを感じる。
時代の感覚といったらいいのか、そうした雰囲気を察っすることができる。

また、日本国内にはいろんな地方に小京都と呼ばれるところがある。
この「小京都」なるもののイメージはいかなるものだろうか。
たいていはいいイメージでつかわれているようなのだ。
逆に、悪いイメージってあるんですかと反問されそうだ。
地元愛がつよければ、小京都なんて侮辱であると感じないのだろうか。
それとも京の都の御威光にすがりたい、という気持ちのあらわれか。

まあ、雰囲気が似ている(?)ということなんでしょうか。
古い町並み保存の常套句でもあるかもしれませんね。

ここ倉吉もそのひとつである。

N6108羽衣伝説

思いだしたが、「日本人ばなれしている」というフレーズもおもしろい。
そのままの意味にとれば、日本人ではないようだということか。
これがどうも褒め言葉でつかわれている。
どうして褒め言葉になるのか、その機序は複雑である。
日本人ではないほうが、日本人的にはランクが上になるという。
それで合点がいくのは、コマーシャルに外人(おもにコーカソイド)が多用される理由だ。
だから純日本人よりハーフ、クウォターがいいということになる。
なるほどね、しかしものごとには必ず反面があることも忘れてはいけない。
閉鎖社会日本などともいわれるから、むずかしいです。
ちやほやされるのは外国外国しているうちだけ、ということもありますから。
外国人が日本人になろうとすると、そこには厳とした境界がある。

N6112わたなべ洋装店

N6110高田酒造

N6116倉吉淀屋

というようなことを考えつつの倉吉の町歩きです。
けっこうこういう地方都市でも外国人観光客がおおいのです。

N6113粋な看板

さて、今夜の宿は「ウェルネス因幡路」というところです。
一泊二食付で10400円(税込)でしたが、
鳥取県の「プレミアム宿泊券とっとりで待っとるけん」が使えました。
この券は、額面10000円だが5000円で買えるのです。
ということで、実質ひとり5400円でした。
ただ、コンビニで獲得するも、並々ならぬ苦難があったそうですが…。
やりますねえ、わが家のかみさんは(笑)。

N6119ウェルネス因幡路


鳥取って、とりとり?
全国にある都道府県のなかでも知名度の低さでは群を抜いているといわれている鳥取県である。
ふとしたとき、漢字は鳥取だけどこれって、とりとりって読むのかと…。
そんな疑問も感じたりしながらも、例によって鳥取を旅してみました。

今回のテーマは得する鳥取であります。
あるいは観光立県をめざす鳥取、もっと知ってほしい鳥取でありましょうか。

N6082道の駅風の家

まず訪れたのは、例によって道の駅めぐりの蒜山高原。
昼食は過去にB-1グランプリに輝いた「蒜山焼きそば」を食べました。
鶏肉(かしわ)のこりこりした食感がいいですね。

N6092ひるぜん焼きそば

N6093第六回B-1グランプリ

今夜の宿泊地は皆生温泉にある「湯快リゾート」であります。
キャンペーンで一泊二食付で7020円(税込)で泊まれました。
おまけにアンケートに答えただけで、ひとり1000円の商品券(米子市内限定)ゲット。
これは宿内売店でのお土産購入にありがたく使わしていただきました。

金曜日でしたが、館内はおおくの宿泊客でにぎわっていました。
まあ、年配者がおおかったのですが、みなさん元気そうです。
しかしなかにはマナーの悪い客もいました。
きっと中国地方からやってきたんじゃないの、なんて憎まれ口がでてきます。

朝方窓からながめると、中高年の方々がスイスイと泳いでおられました。

N6098泳ぐ

この皆生温泉、若いときの出張で来たことがあります。
そのころ、山陰では城崎とならぶくらいに有名な温泉地でした。
界隈にはお座敷ヌードスタジオなるものがたくさんあったと記憶しています。
わたしは若かったし(二十歳のころ)、そんなところには興味がなかった。
それにそんなものに使えるお金もなかったですしね。
いまでも覚えているのは、会社の上司が帰ってきてひとこと。
「大阪の劇場で見たときと、おんなじ女性がでていたわ」
と、なかなか記憶力があるというか、よくわかるものだと感心いたしました。



プロフィール

ムッシュ

Author:ムッシュ
島を旅するときが楽しいですね。
遠くに眺めるのも好きです。
楽園なんてないんですけどね。

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