ムッシュの読書紀行
人生は旅のようだと言いますが、旅が人生かも知れません。 ぼくは活字中毒気味でもあり、旅はまだまだ続くでしょう。
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津和野・出雲紀行 前編
あれは学園紛争がまだあったころだったから、もうかれこれ四十年以上も前のこと。
大学の春休みに山陰を旅した。
旅といえば、ひとりで行くものであった。
(そういう時代だったのかもしれない)
ほとんど当時の光景など思いだせない。
津和野も山上からながめた景色を思いだすぐらいだ。
どうしてかというと、スケッチをしたからなのだ。
眼下にひろがる津和野の町を流れる川とそれを縫うように列車が走っていた。
その画集もどこかに消えてしまった。

N7020津和野

当時から、津和野といえば小京都だった。
出身で有名な方といえば、安野光雅なんだが…。
あの絵好きだったんだがなあ(と過去形で書いてしまう)。

さて、ときは今。
大寒波襲来だが予約をしてあるし出かけようということになった。
残雪のなかを津和野へと向けてひた走る。

宿に着いてひと段落、ゆっくりと温泉につかる。
からだの芯からじーんと温まる。
至福のときである。
やはり冬の温泉はいい。

N7012わた屋

N7017わた屋玄関

料理もおいしい(炊事当番をまぬがれたかみさんは上機嫌だ)。
番頭さん(マネージャーさんかな)が特別に歌ってくれた(要望しました)。
素朴な節回しの津和野の音頭(?)が低くひびくのであった。
お酒もうまいしねえ、つい飲みすぎる。
あとはゆっくりと眠るのみである。

N7014殿様座卓

起きて、ひさしぶりに朝湯につかった。
あまり好きではないのだが、たまにはいいか。
窓の外に十字架がみえる。
そうだ津和野にも隠れキリシタンの話があったのを思いだした。

N7021教会の十字架

掘割の鯉も見ないし、津和野城址や稲荷神社にものぼらなかった。
だがなぜか満足したのである。
旅とはそういうものかもしれない。

だが、道の駅ははずせない(笑)。

N7002道の駅うり坊の郷

N7009道の駅津和野温泉なごみの里


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菓子工場で読書
チョコレートファクトリーではない。長期のアルバイトだったと思う。出勤すると作業用の服に着替
える。今日はどこどこの作業場と指示される。いろんな機械がある通路をくねくね歩いて本日の現場
へいく。機械の銘板をみる。ドイツ製だ。高価なんだよ、とチーフにいわれる。ここはキャンディの
製造、包装までの工程。慣れない作業だからあっというまに昼休みの合図がなる。おおきな食堂へい
き、定食ともう一品きつねうどんの食券を買う。若かったのだな。肉体労働のあとの食事は格別であ
る。バレーボールなどやる連中を横目に、ロッカー室にもどる。本を手に片隅のベンチに腰をおろす。
読みながら、こんなことをしていていいのかと自問する。しかし、働かざる者食うべからず。そうな
のだ、とりあえず食うぐらいは稼がなくては。それから後のことは、どうする。そこが問題なのだが、
生来ののんきな気性からか特に不安になるような気配には、いっこうにならなかった。

N7003雪化粧

「インディアスの破壊についての簡潔な報告」 ラス・カサス 染田秀藤訳 岩波文庫 ★★★
わたしなら大量虐殺というと、ナチスのユダヤ人虐殺とスターリンの粛清を思い起こす。しかし、本
書に書かれているスペイン人によるインディオの殺戮はそれに勝るとも劣らない。コロンブスが新大
陸を発見して以来、おおくのインディオの生命が奪われた。これは厳然たる歴史的事実である。ただ
その死者数については異論もある。ラス・カサスは書いていないが、インディオに免疫性のなかった
ヨローッパ伝来の天然痘、麻疹、チフス、インフルエンザなどの疫病の流行がインディオの人口激減
の最大要因であったのも事実だ。それを差し引いても多くのインディオが征服戦争の犠牲者になった
ことに変わりはない。では、なぜそんなことができたのか。学者セブールベダの議論はこうだ。
『セブールベダがスペイン人によるインディアス征服を正当化するために挙げた理由は以下の四つで
ある。(一)インディオはアリストテレスのいう「先天的奴隷」、つまり、生まれながらにして理性を
欠き、愚鈍であるゆえに、理性を具えた人(スペイン人)に従うべき「自然奴隷」である、(二)インデ
ィオは偶像崇拝や人身犠牲など、自然に反する罪を犯している、(三)圧政的支配(人身犠牲など)から
弱者(供犠となる人びと)を救う、そして(四)インディオをキリスト教世界へ導きいれるのはスペイン
国王がローマ教皇から授かった使命(義務)であり、その目的を達成するために軍事力を行使するのは
やむを得ない。』
だがインディオはスペイン人たちをどう見ていたのか。捉えられたキューバ島のカシーケ(首長)の
アトゥエイと修道士との会話は次にようなものであるという。
『修道士はアトゥエイに、「もし私の話を信じるなら、栄光に満ち溢れ、永遠の安らぎが得られる天
国へ召されるが、信じなければ、地獄に落ち、未来永劫に罰を受け、苦しむことになる」と語った。
カシーケはしばらく考えてから、「キリスト教徒も天国へ行くのですか」と尋ねた。聖職者は頷いて
答えた。「ええ、善良なキリスト教徒であれば」と。すると、アトゥエイは言下に言いはなった。「
天国などには行きたくない。いっそのこと地獄へ落ちたい。キリスト教徒がいるようなところへ行き
たくもないし、二度とあんな残酷な連中の顔を見たくもない」と。』
こんな記述もある。
『じつに稀有なことだが、インディオが正当な理由と神の正義にもとづいて、時にキリスト教徒を数
名、手にかけることがあった。すると、キリスト教徒はそれを口実に、インディオがキリスト教徒の
生命をひとつ奪うごとに、その仕返しに一〇〇人のインディオを殺すべしという掟を定めたのである。』

「プルーストとイカ」 メアリアン・ウルフ 小松淳子訳 インターシフト ★★★★
副題に、読書は脳をどのように変えるのか?とある。アプローチの仕方はいろいろとあるだろうが、
筆者はディスレクシア(読字障害)に注目する。ことばのもつ音と書かれた文字には本来なんの関係
もない。恣意的である。だがそれを習わなければ字を読むことができないし、理解もむずかしくなる。
ディスレクシアとは読字習得に苦戦する脳をもつ人たちのことである。有名な人たちでいえば、トー
マス・エジソン、レオナルド・ダ・ヴィンチ、アルベルト・アインシュタインがディスレクシアだと
言われている。知能はすべて文字を通して測れるものなのか。口頭試問でも可能なのか。知能テスト
の限界はこのあたりにあるのかもしれない、と私は思う。
『ディスレクシアは、脳がそもそも、文字を読むように配線されてはいなかったことを示す最もよい、
最もわかりやすい証拠である。私はディスレクシアを、脳の編成がまったく異なったものになりうる
ことを日々の進化のなかで思い出させてくれるものだと考えている。文字を読むには不向きでも、建
築物や芸術作品の創造やパターン認識に不可欠な編成もある。パターン認識の舞台が古代の戦場であ
ろうと、解剖のスライドの上だろうと、変わりはない。』
この障害は案外気づかれにくく、単に知能の発達遅滞とまちがわれることもおおい。
『どんな形のディスレクシアを抱えている子どもも、“頭が悪い”わけでも“強情”なわけでもあり
ません。もちろん、“やる気がない”わけでもない。三つとも、最もよく使われる謂れのない表現で
す。しかし、彼らは、自分自身も含めて、大勢の人々に何度となく、誤って、こう決めつけられてい
ます。』
そもそも脳は言語に対応しているのか、という問題もある。
『先祖代々の読み手の脳はそれぞれに、シンボルとしての文字を読むために複数の脳領域を接続する
術を学ばねばならなかった。現代の子どももみな、同じことを学ばなければならない。世界中の幼い
読字初心者たちが、読むために必要な視覚システム、言語システム、運動システムすべてを連結する
方法を学習しなければならないのである。これらのシステム自体は、古くからある脳の構造物を利用
せざるを得ない。そこで、それらの構造物の特殊化された領域は、順応し、無理やり働き、自動化す
るまで練習を積まなければならないことになる。』
ヒトはことばを獲得したことによって得たもの、失ったものがあるのだろう。それと幸せははたして
どうリンクしているのかと考えだすと、スパイラルのなかに落ちこんでいく。


テーマ:最近読んだ本 - ジャンル:本・雑誌

化粧はマナー
女性は、化粧することは社会生活上のマナーなのだとよくおっしゃる。
そうなんですかね、まあそうかも。
いやあ~そうかなあ、などとぼんやり考えていた。

さて、朝の電車内でのよくある光景。

若い女性がすこし揺れる車内で化粧に余念がない。
なかなかうまいもんだし、器用ですねえ。
時間配分もぴったりだしね。

ふと、疑問がわいた。

化粧することはマナーなんだ。
だがその化粧を電車の中ですることはマナーにかなうのか。

この逆説的状況。
思わず笑いそうになった。
口をおさえた、セーフ。

N6467ルミネセンス


人は変われるか、変われないか
ヒトは悩む動物である。
こんなわたしですけど、変われるでしょうか。
というような相談をなげかけられることが、若いころにあった。
そのころは未熟であったのか、うまく答えられなかった。

世間でよくいわれるのは、人の性向は変わらないというもの。
たしかにそうだというよりも、変われない面はある。
同じ失敗を繰り返すというのもそういうことなんだろう。

だが、ものごとに絶対はないともいう。
つまり、人は変われるのである。
だれもかれもがとは言っていない。

あなたは変われると思いますよ。
だって変わろうとしているじゃないですか。
それがすでに変わりはじめている兆候なんですよ。

それを聞いて安心する人もいる。

でもあの人なんて全然変わらないじゃないですか、と反論される方がいる。

だれもが変われない、あるいはだれもが変われるということじゃない。
変われない人もいるし、変われる人もいるということ。
それじゃあ、結局はなにも言っていないのとおなじことではないですか?
そう、そういうことなんですよ。
ことわざには、正反対のことがたくさんありますよね。
いろんなバリエーションがある、と言ってもいいかと思います。
わかるでしょう。

それでなにが問題かというと、では自分にとってはどうなのか。
ここに戻ってくる。
つまりは、自己の問題を一般論で論じようとすることが齟齬のはじまり。

話の次元をごっちゃにしていたために通じなかった。
これは無意識にであったりするが、よくつかわれる議論での常套手段でもある。

で結局、自分は変われると思えば変われるんです。
その時点ですでに変わっていっている。
変わらない人は、変わる必要性を感じていないんです。
現状でなにが問題なんだ、と胸のうちで思っているんでしょう。

変われないように見えたとしても。
安心してください、あなたは変われますよ(笑)。

まあ、変わりたくないと思っても変わっていってますから。
鏡を見ればそれがよくわかる、でしょう。

N6953風見鶏


メジロ来る
この季節になるとやってくる。
それがわかっているので、みかんを用意する。
どこからともなく鳴き声が聞こえる。

N6984メジロ来訪

そんなときいつもこの俳句が思いおこされる。

目白鳴く祖父窓ぎわに長く立つ

伊藤園のお~いお茶新俳句大賞、中学生の部で堂々大賞に輝く。
静岡県、望月希有子さんの作品、当時十四歳。
もう十三年前だから、すてきなこころ優しい大人になっていることだろう。

N6981ミカンとメジロ

さて春はどのあたりまで来ているのかしらん。



免疫力アップ新年会
時をはるかにさかのぼること数十年。
瀬戸内海のまんなかあたり、ふるくは五里五里島とよばれたという。
本州からも四国からも約二〇キロメートルの位置にある島でのこと。
島のおじさんが若者が泊まれる宿(ユースホステル)をはじめる。

彼の慧眼は、この島にはなにもないということを知っていたこと。
だれもが名所・旧跡を求めているのではないのだ。
若者がもとめるものは物質的なものではない、と看破していた。
もっとなにか、言葉ではあらわせないもどかしさのなかにあるのだと。

だから迷うことはなかった。
しかし経済的な苦難はあったし理解者はすくなかった、と聞いた。
そんなことでくじける彼ら夫婦ではなかった。

そんななにもない(じつは、もっとすばらしいものがあると知る)島。
だからこそ年間一万人という全国各地からの若者をひきよせた。

そんなしあわせの島でぼくたちは出会った。
そのころはたぶん美男美女(?)だった者たち十六名の新年会なのだ。

N6950すし

N6949寿司

料理は女がとか、いや男がとかは言わない。
インスピレーションをもつ者がやるものだと思う。
しかし料理する、できる人はすばらしい。
今回の一番人気は、鯛の骨蒸しだ。
もちろん鯛が新鮮でいいものでなければならない。
(三宮の魚屋さんありがとうございます。今後もよろしく)
刺身もいいけど、これは群を抜いていましたね。

N6951レンコン

N6955鯛

食べるほどに飲むほどにボルテージはあがる。
定番の笑い話でもりあがる。
ボイラーを壊したの誰だ、に続く実は…、という話がゆかいだ。

昔から知っているからといって、なんでもお見通しとはならない。
話の端々にそんな経緯があったのかということも多々ある。
いまだから話せるということもある。
すべてが笑いに変換されてゆく。

笑い声のたえない新年会でありました。
ああ、いい仲間にめぐりあえた。
帰路つくづく思いかみしめるのではありませんか。

また会いましょう。
われら、来るもの拒まず、去るものは追わずがモットー。
人生は人の数だけある。
おなじ軌跡をえがくことはないが、どこかで交わっている。
そんな感慨をおぼえる新年会でもありました。

まずは健康に留意されますことを。

N6947酒各種


テーマ:真鍋島の愉快な仲間 - ジャンル:旅行

能登半島紀行 出会いの巻
旅の魅力は出会いにあると思う。
若いころなら、やはり女性とということになるのだろうか。
ゆきずりの恋、などと映画・小説などではよくえがかれもした。
実際のところはそんなにあるわけではない。
しかし、まったくなかったというわけではない。
後々に考えると、そういうことだったのかということもある。

人情の機微にふれる、というような言い方もある。
見知らぬ土地で思わぬ親切にふれると、こころがあたたかくなったり、しみいる感覚をおぼえる。
いつまでも記憶の底に沈殿していて、ときおり浮かんでくるのである。
どうしているのかなあ、あの人は(女性とはかぎらない)などと。

どちらかというとハッピーエンドでないことのほうが多い。
なんども失恋したということは、裏を返せばいくども恋をしたということだ。
いちど限りで結ばれるのがいいのか。
それとも、なんども失恋するのがいいのか。
そりゃあ、やっぱり何度もうまくいくのがいいですよね、なんてのは駄目。
風情がないじゃないか。
お話しなんだから、ロマンチックにいこうよ。
実利本位(?)は嫌われます、よねえ。

おもわぬ気候との遭遇もある。
海をなにげなしにながめたら、とおくに虹がでている。
(なにかいいことがありそうだ、と楽観的に思う)

N6851虹

晴れていたと思ったら、急に空が暗くなって雨がというようなこともおおい。
(今回も禄剛崎灯台へ向かっているときがそうだった)
そういう経験のほうがよく憶えているものである。
だから、天気が悪かったと嘆くことはないではないか、と自分をなぐさめる。

N6869禄剛崎灯台

あるいは、突如として吹雪かれることもある。
(これも今回の旅であった)

N68561除雪車

N6909吹雪く

N6919山に雪

おもわぬ物との出会いというのもあるかもしれない。
偶然にみつけた器など記念になるんじゃないの。
(なんの記念?)
(まあ、そういう堅いことは抜きにして)

N6900九谷陶芸村

全部ひっくるめての旅の出会いではなかろうか、と思うのだ。
だから、次回はなにがあるのか楽しみだ、ということでなかなか終わらないのが旅である。


能登半島紀行 温泉の意味の巻
日本列島の地下深くを火山帯が貫いている。
言い方を変えれば、火山帯の噴火により日本列島がうまれた。
だから、日本各地いたるところで温泉が湧きでる。
どこでもある程度掘れば温泉がでるらしい。
このある程度が経済的に問題になるのだが、そういうことだ。

N6876能登の海

北陸の温泉地、三か所を旅してきた(三泊四日)。
和倉温泉、粟津温泉ともうひとつ名もなき源泉かけ流しの温泉(笑)。

年の瀬もちかいころだが意外に泊り客はおおい。
ちいさな子ども連れが目についた。
三世代、親・子・孫という組み合わせもちらほらいる。

N6882千枚田

ところで、温泉の効用とはなにか。
神経痛やらリュウマチスに効くというようなこととは別にだ。

まず温泉に浸かると、気分がやわらぐ。
血行がよくなるということによるのだろう。
これは重要なことだ。
くわえて、のんびりとした景色などながめながら食事をいただく。
すこしはお酒も飲みましょうか。
しばし浮世のことは忘れてリラックス、という塩梅か。

リラックスはストレスと対極にあると思われがちだがそうではないと思う。
こころの持ちようひとつということもあるんじゃないか。
どちらかが善で片方が悪ということでもないだろう。
すべて世のなかのこととおなじでバランスの問題である、と吾輩は認識する。

N6877塩釜

温泉にどっぷりひたっていると、なにかが溶けだしていくような気がする。
あるいはなにかが化学反応して分解していくというようなことかもしれない。
もしかしたら、あらたななにかがわが身に侵入してきている。
ではなくて、そう思わせるなにかが温泉にはある。
体内に侵入するウィルスに対抗して身体が発熱するように。
温泉の熱は手助けしてくれているのではないか。
などと考えすぎて湯あたりしないようにするのが肝心だ。

N6868禄剛崎

もうすこし旅を続けますか。


能登半島紀行 旅依存症の巻
まずは、あけましておめでとうございます。
本年もよろしくおつきあいください(笑)。

N6931門松

さて、しばらく旅にでていないと禁断症状がでてくる。
そんなことが若いときにはあった、ような気がするのだ。
だからか、バイトで収入があったり、奨学金が支給されたりすると旅にでた。
(本来の奨学金の使い方ではない、との自覚はあった)
(しかし、もらってしまえばこちらのもの、逆に律するのはいかがなものか)
(ものごとの因果とは不思議なもので、なにがどうつながるのか分かったものではない)
(めぐり巡って、社会のお役に立つようなことになればいい、そう考えていた)
(ということで、その金で酒をのんだりもしていた)
(もちろん、本も買いましたよ)

だが、なぜ旅にでるのかという説明にはなっていない。
旅とはなんだろう。
日常ではないもの、だがそれが常態になれば…。
民俗学でいうハレとケに較べられるかもしれない。
気分的には、日常からの脱出、あるいは逃避だろうか。
しかし帰るところがあるのが、難点だ。
あまっちょろい気がする。
毅然としていない、そういうのが気にいらない。
そんなことを考えたりしながら旅をしていた。

N6838中能登町

「べつになんでもいいんじゃないの」
「定義するほどのものでもないだろう」
「それより、旅にでてなにを得るか、なんでは」
「また元に戻ってんじゃないのか」
「いろいろ考えないの、ただ旅をいくのみ」
「いままでとちがった人、景色、風情、ものたち、食いもの、などなど」
「それがぼくたちを呼んでいるのさ、青年よ旅にでろって」
「そういうもんですかねえ」

N6846日本一の七輪

ターニングポイントになりうるもの。
それが旅なんだと、だれかが言ってた。
とにかく旅でてしまえば、あとはなるようになるもんだ。

そんな旅をしていたんですかね、若いころは。
というようなこと考えながらの能登半島紀行でした。

N6896ベコ




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ムッシュ

Author:ムッシュ
島を旅するときが楽しいですね。
遠くに眺めるのも好きです。
楽園なんてないんですけどね。

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