ムッシュの読書紀行
人生は旅のようだと言いますが、旅が人生かも知れません。 ぼくは活字中毒気味でもあり、旅はまだまだ続くでしょう。
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点と線
松本清張を思いだすかも知れないがそうではない。
ユークリッドの原論にでてくる幾何学用語のことだ。
その定義とは以下のようなものだ。

1.点は部分をもたないものである。
2.線とは幅のない長さである。
3.線の端は点である。
4.直線とはその上にある点について一様な線である。
5.面は長さと幅のみをもつものである。

分かるような分からないような微妙な感がのこる。
点は部分を持たないって、つまり面積はゼロということ、か。
面積がゼロで、位置がある。
線も同様に面積ゼロで、長さのみがある。
うーむ。
座標上のことなら納得できるような気がする。
そうか、数学的なことのみに限定して考えればいいのだな。
つまり数学用語としての定義なわけだ。

ちがうか?!

(笑)

N7528アセビ


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フィクションか実話か
ブログなど書いていると、これって実話ですかと訊かれたりする。
フィクションの部分もあるし、実話に基づくところもある。
それにどちらかにきっちりと区別できるものではないしなあ、と思う。

そこらあたりを説明すると、いや、だからどっちなのと再質問がくる。
えっ、だからご説明申し上げたようなことなのですが。
もしかして、自分で考えるということを放棄しているのですか。
こういう方に哲学はむかない、かな。
というより哲学なんてことを考えなくても生きていけるたくましいひとなのだ。
(あるいは、そういう哲学の持ち主なんだな)
であるから、ある種尊敬の意味もこめてこう答えることにしている。

「まったくのフィクションですよ」
「まあ、妄想といってもいいですけど、はっはっは」

N7458エレベータ内

だが、こだわる方はたしかにそこそこ存在する。
白黒つけたいというやむにやまれぬ気持ちがあるのだろうか。
わたしなどつい、どちらでもいいけどなどと思うほうだ。
それより話の中身そのものだろ、と突っこみたくなる。

書きながらふと考えてみると、フィクションか実話か、われながら判然としない。
そこで思うのは、水とお湯の境ってあるのだろうかと。
水とお湯というそれぞれの概念はある(日本語には)。
英語だとお湯はホットウォーター、か。
すこしニュアンスにちがいがあるな。

思考および言語は分けることから始まるといわれる。
分けられるものと分けられないもの。
思考のなかでは、すべて分けることができる。
で、現実にもどって、どこからが水でどこからがお湯なのと。
うーん、連続しているんだな。

冷たい熱いは、主観的なものでしょ。
客観化するなら、温度で表しなさいよ、と。
そういうことなのかなあ、まあ一理はある。

ものを書くということは、書き手の視点からのものである。
(たとえば客観的な歴史などというものは存在しない)
(仮に存在したとしても、それを歴史とはよばない)
(歴史とは、ある歴史家が書いたものでしかない)
あるいは、バイアスがかかっているといってもいい。
(このあたり不確定性原理を思いうかべるんだな)
だから、究極的にはすべてフィクションなのだ。

というようなことで、よろしいでしょうか。


お寺で読書
宗教寺院といってもいろいろある。そのなかでもわりあい寛容なのは仏教のお寺である。その寺は本
堂で昼寝ができる、といわれるぐらいだった。ある夏の日のことだった。わたしも若かったせいもあ
るだろうが、その噂を信じてだれもいない本堂にあがりこんだ。しばらくはおとなしく座っていた。
そのうちてもちぶさたで本を読みはじめた。疲れを感じてごろんと横になった。そのまま本を読み続
けた。風の音がさわさわと耳をすぎる。気持ちがよくなってきて、いつのまにか眠ってしまっていた
のだろう。チーンと鐘の音がして目が覚めた。和尚さんがやってきたのかと思ったがだれもいない。
まだ夢でもみているのかと膝をつねってみたが痛かった。まだ眠いとまたひっくりかえった。そのと
き天井に絵が描かれているのに気がついた。白い猫だろうか。眠り猫か。よおく見ようとじっと目を
こらすと、にゃあと鳴いた。うわっと驚いたら、横でいつのまにか三毛猫が頭をすり寄せていた。

N7339オブジェ

「限界点」 ジェフリー・ディーヴァー 土屋昇訳 文藝春秋 ★★★★
ひさしぶりリンカーン・ライムのシリーズではないミステリである。主人公のコルティは、アメリカ
の連邦機関(戦略警護部)の警護官だ。つまりボディーガードである。FBIなどと同様に、さまざ
まな公的機関の要請で命を狙われている人物を警護するのが仕事だ。今回コルティは凄腕の「調べ屋」
ヘンリー・ラヴィングに狙われるワシントンDCの刑事一家を警護することになった。この「調べ屋」
とは「消し屋」(殺し屋)とはちがって、ターゲットを拉致し拷問によって必要な情報を引き出し、
そのうえで殺害するプロのこと。かつてコルティの師であったファロウはラヴィングの巧妙な罠にか
かって拷問され殺された因縁がある。一家は刑事のライアン・ケスラーと妻のジョアン、そしてハイ
スクールに通う娘のアマンダ、それにジョアンの妹のマーリーの四人。そこでコルティは一家を夫妻
と妹の三人と、娘を別々にすることにした。で、なぜ狙われているのかを調べていくなかでどうもこ
れといった関連が見いだせない。はたして狙われているのはライアンなのか。それとも妻のジョアン
なのか。それとも狙いは他にあるのか。そこにFBIや連邦検事などからんで事態は進行していく。
警護官の役割とはなにか。コルティにとってそれははっきりしている。
『依頼人を物理的、肉体的に生かすのが私の役目であって、自己の魂と心を守るのは依頼人自身がす
ることなのだ。』
だが、現実はそうすっぱりと割り切れないこともある。人と人とのふれあいのなかでいろんな感情が
生まれ、消え、またよみがえったりするのである。ディーヴァーお得意のどんでん返しというか、こ
れでもかこうもあるぞとの反転するストーリーはさすがというほかはないのである。そこらあたりの
醍醐味は読んでみて感じるしか方法がない。

「世界の日本人ジョーク集」 早坂隆 中公新書ラクレ ★★★
ジョークは誇張されたものがおおいが真実を語っているともいう。著者があとがきでこう書いている。
『イギリスの哲学者フランシス・ベーコンの「学問の進歩」(岩波文庫)より、こんな言葉を。
「冗談は、しばしば真実を伝える手段として役立つ」』
それでは本文からいくつかご紹介いたしましょう。
『ソ連時代のある工場での話。
 イワノフはいつも始業時刻の一〇分後に来るので、とうとうKGBによって逮捕されてしまった。
容疑は「怠慢」であった。
 同僚のアレクセイはいつも始業時刻の一〇分前に来るのだが、ある日、KGBによって逮捕されて
しまった。容疑は「西側のスパイ」であった。
 サーシャはいつも始業時刻ピッタリに来るのだが、ある日、KGBによって逮捕されてしまった。
容疑は、「日本製の時計を持っているに違いない」であった。』
日本はハイテクの国なのである。
『失業中のトムの一日
 アメリカ人のトムは現在、失業中の身である。
 朝七時に時計(日本製)のアラームが鳴る。コーヒーメーカー(台湾製)がゴボゴボいっているあ
いだに、彼は顔を洗いタオル(中国製)で拭く。電気カミソリ(香港製)できれいに髭も剃る。
 朝食をフライパン(中国製)で作ったあと、電卓(日本製)で今日はいくら使えるかを計算する。
 腕時計(台湾製)をラジオ(韓国製)の時報で合わせ、クルマ(ドイツ製)に乗り込み、仕事を探
しにいく。
 しかし、今日もいい仕事は見つからず、失意と共に帰宅する。彼はサンダル(ブラジル製)に履き
替え、ワイン(フランス製)をグラスに注ぎ、豆料理(メキシコ製)をつまみながら、テレビ(イン
ドネシア製)をつけて考える。
「どうしてアメリカにはこうも仕事がないのだろうか……」』
いま気がついたが、台湾製の腕時計はまだ電波時計の機能がついていない。だから日本製ではない。
つまり失業中のトムには高くてそこまでのものは買えない、ということなのだろう。たまにはこうい
うジョーク集を読んで斜めから日本を世界をながめてみるのもいいでしょう。


テーマ:最近読んだ本 - ジャンル:本・雑誌

春になれば
暖かい陽ざしが気持ちよいのだろう。
睡蓮鉢のはじっこのほう、水面近く。
このあたりが水温がいちばん高くなるのだろう。
メダカが日向ぼっこをしているかのようだ。
水温もあがってきて動きも活発になってくる。
当然のことながら食欲も旺盛になってくる。
寒いころはほとんど食べなかったし、食べないでもよかった。
それがどうだ。
エサをまくと、あっというまに集まってくる。

N7486日向ぼっこ

N7494エサに集う

もうすこししたら産卵の季節になるだろう。
いろいろと忙しいぞ。
つい、にんまりとしてしまう。

ミカンに集うメジロもそろそろあまりやってこなくなる。
ことらはちと寂しい、か。

N7500メジロ

しかし、生物の存在って不思議なことだ。
もちろん、ヒトも含めてのことなのだが。


歩きながら読書
読書に最適な場所はといえば、まず電車のなかと答える。かすかな振動と静かな車内が読書意欲をか
きたてる、とわたしは感じるわけだ。短い通勤時間のなかでは切りのよいところで駅に着くとはかぎ
らない。では、どうするのか。そのまま読み続ければいいのでは、と考える。もちろん周囲には気を
くばりつつ歩きながら読書を続けるのである。ホームで終わればいいのだがエスカレータまで、ある
いは改札口までということもある。しかしながら、あまり頭にははいらない。結局またすこし戻って
読みはじめることになることがおおい。だがもし、歩きながら読書を続けていて美人とぶつかったり
したらどうなるんだろうと妄想する。わたしの落とした本を拾いながらにっこりと微笑む美女の口か
らもれるのは、おだいじにという不可解なもの。えっ、どういう意味なんだろう。変人認定されたの
だろうか。がっくりと肩をおとしてまた本を読むのであった、というオチがいいところだ。

N7428沈丁花

「つながり進化論」 小川克彦 中公新書 ★★★
副題に、ネット世代はなぜリア充を求めるのか、とある。「リア充」とは、リアルの生活が充実して
いることだそうだ。こんなことばが生まれるということは、逆にリアルでない世界の比重が暮らしの
なかで増えていることを示しているのだろう。ネットの世界のそもそもの始まりは電話である。電話
とはもともとは「家の電話」を意味していた。それが「家族の電話」になり、「自分の電話」へと変
化していった。家、家族をへて連絡をとりあっていたのがいつのまにか直接つながるようになった。
家の電話なら、まずでた人に挨拶し用件を話さなければならない。それが面倒というか、ひとつの関
門でもあった。携帯電話になってそれがなくなった。つまり、ひとつ社会的な接触の機会が減ったの
だ。これがいいことなのか、まずいことなのか。本書のなかで、西垣通氏が述べていることが引用さ
れている。孫引きになるが以下にあげてみよう。
『まず、脳で喜怒哀楽を感じ、その結果として身体反応がおきるのではない。まず、身体反応が発生
して、それを脳が「経験」するのだ。』
むかしからいわれていた「悲しいから泣くのではない、泣くから悲しいのだ」ということである。現
代においては主流の考え(実験でも確かめられている)だが、そこがわかっていないと変な方向に教
育などむかってしまう。頭は身体の一部であるということがわかっていないと困る。身体を鍛えると
いうことは頭を健康に保つことつながるのだろう。そういう意味ではイギリス人のパブリックスクー
ル出身者などは幼いころから実践されているようだ。あたまでっかち、などなりようがない、のかな。
ネットばかりの弊害がいわれて久しいが、その対策に首をひねることが多い。
『メールでもネットコミュニティでも、最初は「おはよう」や「こんにちは」の挨拶から始まる。い
つも一緒の仲間のつながりはもちろん、見ず知らずの偶然のつながりでも同じだ。ケータイメールの
つながりには返信しないといけないと思うのに、リアルでは返礼もしないことが多い。』
これが小川先生の学生たちに対する感想である。ネットのつきあいは気楽でいいと思っていたものが、
面とむかっていないので文章だけからしか判断できない。そのことによる齟齬が増えてきているので
はないか。ヒトはそもそもそのようには進化してきていない。そこらへんのバランスを考えるときに
きているのだろう。

「動物感覚」 テンプル・グライディン キャサリン・ジョンソン
                  中尾ゆかり訳 NHK出版 ★★★★

本書は自閉症の動物学者が自分の目で動物を観察し、自閉症であるから知り得たことを動物学者の立
場から述べた点が非常にユニークである。自閉症あるいは統合失調症などは程度の差こそあれだれも
がその資質をもっているといってもそう的外れではないだろう。では動物と人間はどこがちがうのか。
『動物と人間の情動の大きなちがいは、動物には人間のような心の葛藤がないことだ。動物は相反す
る感情をもたない。動物同士や人間と愛憎関係にならない。これは人間が動物をかわいがる理由のひ
とつといえる。動物は忠実だ。人を好きになったら、とことん好きだ。外見や収入など気にしない。
 これは自閉症をもつ人と動物のもうひとつの接点になっている。自閉症の人の感情もほぼ単純だ。
だから、ふつうの人は私たちを純真だという。自閉症の人の気持ちは、動物の気持ちと同じように率
直で赤裸々だ。自分の気持ちをかくさないし、気持がゆれ動かない。同じひとりの人間に愛情と憎し
みを抱くなんて、どんな気がするのか私には想像すらできない。』
こんな話はどうだろうか。人間がオオカミを飼いならして犬に変えたという話はよく聞く。だが、オ
オカミのほうが人間を飼いならしたとしたらどうだろう。人間はオオカミとともに進化したのだ。
『オーストラリアの考古学者のチームはあらゆる証拠を調べて、原始人はオオカミと仲間だった時代
に、オオカミのように行動して考えることを学んだと確信している。オオカミは集団で狩りをし、人
間はしていなかった。オオカミには複雑な社会構造があり、人間にはなかった。オオカミには同性の
非血縁者のあいだで誠実な友情があり、人間にはなかった。これは、今日のほかのどの霊長類の種に
も同性の非血縁者のあいだで友情が見られないことから判断できる(チンパンジーは親子関係が中心
だ)。オオカミはなわばり意識がきわめて強く、人間は――これまた、今日のほかのどの霊長類にも
ないことから判断すると――おそらくなわばり意識は弱かった。』
これだけの根拠ではすこし弱い気がするが、次の文章は説得力があるのではないか。
『新しい発見でいちばんの驚きは、たぶん、役に立つ新しい習性をたくさん私たちに教えただけでは
なかったということだ。おそらく、私たちの頭の構造も変えた。化石を見ると、種は飼いならされる
とかならず脳が小さくなっていることがわかる。馬の脳は一六パーセント、豚の脳は三四パーセント
も、そして犬の脳は一〇から三〇パーセント小さくなった。こうなったのは、おそらく、動物は人間
に世話をされるようになると、生活するために使う脳のさまざまな機能がもはや必要ではなくなるか
らだ。どんな機能を失ったのかわからないが、どの家畜も野生の動物とくらべて、恐怖と不安が減少
したことはわかっている。
 今では、人間が飼い犬を正式に埋葬するようになった一万年前から、人間の脳も小さくなってきた
ことが考古学でわかっている。犬の脳と同じように一〇パーセント小さくなった。興味深いのは、脳
のどの部分が小さくなったか、だ。家畜はどの種も、前頭葉がある前脳と、左右の脳をつなぐ脳梁が
小さくなった。ところが人間では、情動と知覚情報をつかさどる中脳と、嗅覚をつかさどる嗅球が小
さくなり、一方、脳梁と前脳の大きさはほとんど変わっていない。犬と人間の脳は専門化されたのだ。
人間は仕事の計画と組織化を引き受け、犬は知覚の仕事を引き受けた。犬と人間はともに進化して、
よき伴侶、よき仲間、よき友達になったのだ。』
なかなかの説得力だが、ほかにも解釈の仕方はあるように感じられる。しかし興味深いし卓見だ。


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続続・早春の阿波、讃岐をいく
さて最終日、朝からどんよりとしています。
香川県はガソリンが安いですね、目についたスタンドで給油。
現金で払ってレシートをみると、一リットル当たり96円になっていました。
そうじて四国は安いのだが、なぜか愛媛県だけは高いという印象がある。
どうしてかはわからない。
(愛媛県人、寛容なのか)

さて瀬戸大橋の近く、「香川県立せとうち東山魁夷美術館」にやってきた。
館内には女性の姿がおおい。
なぜかは知らない。
作風が女性っぽいという方がおれれるが、そうだろうか。
なにをもってそういうのか、これもわからない。
彼が描くモチーフとして白馬が有名だがなにを表しているのか。
単純に考えれば、ひとのこころだろう。
だが、どうして白いのか。
逆説的デフォルメなのかと疑う。
無垢ではいられないひと、だから白で描く。
しかもスレンダーな馬である。
ああ、ひさしぶりに絵を観たという気分だ。

N7417絵葉書

N7359東山魁夷せとうち美術館

N7361ファサード

こんなところに行きたいとかみさんがいう。
「ベランダ」という名称である。
なかなか見つけられずにやっと行けたのが感激感を増す。
なにがどう精神に作用するかわからないものである。

N7400巣箱百景

入館料というのかな、700円で飲み物(カフェ・オレを所望)とケーキがつく。
だが、このカフェ・オレがうまかった、おまけにたっぷりあったし。
女性はこういうところがなぜか好きなようだ。
どうしてなのか、わたしにはわからない。
(わかろうとする気もないでしょう、と。たしかにそういう面はある)

N7393海をながめる

しかし、海が見えるテラスはいいね。
カラフルな巣箱なんか、いい感じじゃないですか。
(無理やりに言ってない? めっそうもないです)

N7394ベランダより

N7392巣箱

なんだかわからないことだらけの旅でありました。
人生もおなじで、わからないことがおおいほど、ミステリアスではないか。
またどこかへ、ミステリー・ツアーと洒落こみましょう。


続・早春の阿波、讃岐をいく
目覚めると、そこは異国の地(阿波の国)であった。
春めいて暖かい空気を感じる。

まずは「道の駅 第九の里」なるところに行く。
日本で最初に第九(ヴェートーベンの)が演奏されたのが鳴門だそうだ。
いい天気である。

桜がもう咲いている。
地元のラジオ放送で知ったが、早咲きの「蜂須賀桜」というのだそうだ。
(ここは阿波の国、蜂須賀家の領内)
桜花の蜜を求めてメジロがたくさんやってくる。
甘いものが好きなんだよなあ。
なんだかあたたかい気分になる。
地球上に生きるものたちの不思議なんだよなあ。
いつまでもながめていたいがそうもいかない。

N7288桜にメジロ

N7277道の駅第九の里

ついでやってきたのは、美馬市脇町の街並み。
「うだつがあがる」とか「うだつがあがらない」という「うだつ」の町。
これが「うだつ」、隣家との防火壁の役割をはたしている。
財力の誇示でもありました。
金がない輩は「うだつ」があげられない、ということです。

N7305うだつ

藍問屋で栄えたという。
偶然に花嫁さんにも遭遇しました。
これからの人生なにがあるかわかりません。
どんなことであれ楽しいと感じられるような暮らしでありますように。

N7317花嫁さん

N7314生け花

春めくなかのドライブ、車では暑いくらい。
自然を満喫しつつ、最後には人工物で今日は終了。

これがでかいと感じるか、ちっちゃいと思うかは、なにによるのか。
自己認識でしょうね。
ヒトならでかいと感じるし、神ならたぶんちっぽけなものよと。
相対的なものなんですね。
相対性は相性と似ていますね、字面が。
だからかな、相性なんて相対的なものということになります(笑)。

N7334瀬戸大橋の橋脚

N7337瀬戸大橋


早春の阿波、讃岐をいく
ときどき想うのだが、なにが旅へと誘うのか。
のんびりと温泉につかって、ゆっくりしたいなあ。
たまには家事から解放されておいしいものでも食べたいわよね。
などなどあるが、やはりヒトのもつ好奇心のなせるわざではないかと。

なにか日常にはないものに出会うという予感がする。
それがなにかはわからないのだが、そんな期待感が脳裏に舞い降りてくる。
きっかけはなんでもいいのだ。
理由づけが必要なら、どうにでもつけられるというものだ。
では、道の駅(未知の駅でもある)めぐりでいいではないか。
発見は対象物に存するのではない。
わたしのこころのあり様のなかに厳として存在するのである。
とかなんとかご託をならべていると。
こちらの胸のうちを見透かしたかのように「さあ、行くわよ」とかみさんがおっしゃる。

淡路島から鳴門を経て、さっそく最初の道の駅でこんなものを発見、というかゲットした。
姿勢がよくなるという木製のパソコンチェアである。
木工の盛んな町なのかどうか確かめはしなかった。
ただ、これは安いと思う(2000円)。
売場の人に聞くと、入荷するとすぐに売れるのだという。
人気ですよ、と。
えーい、車だし買ってしまえ(笑)。

N7416パソコンチェア

この季節だとだれも来ない「大轟の滝」に行く。
ほんとうにだれもいない。
しかし、紅葉の季節などにぎわうのだろうなと思う。
なかなかいい。

N7253大轟の滝

これが旅の醍醐味だ(ほんまかいな)。

N7270鳴門大橋


無意識だから
よく無意識にしていたことだから、などと言い訳する。
これって免罪符として使っているのかなあ、という印象をうける。
ときに、苦しいときの神頼みならぬオールマイティーな説明用語のようだ。

意識には表面意識と無意識がある。
あるいは顕在意識と潜在意識といういいかたもあって、使われ方はいろいろである。
さらにユングが提唱した集合的無意識なんていう概念もあって、むずかしい。

無意識と聞いてすぐ思いうかべるのは、自律神経だ。
自己コントロールできないとされている心臓とか内臓の機能調節をうけもつ。
自律神経と対比をなすのが体性神経で、運動機能などはこれによる。

だが、無意識は自己コントロール外にあるのだろうか。

N7094運転席

でよく考えるのが夢のことである。
夢のなかでの経験はなんだろうかということ。
意識して夢をみることはできないという。
はたして、そうなのだろうか。
わたし自身の経験からいえば、夢の続きを見ることができた。
目覚めて夢を見ていたのだと知り、すぐにまた眠りについてそこで夢の続きを見たのだ。
そのとき夢の続きを見てやろうと意識したことは記憶している。
(その夢の内容は覚えていないのだが)
これって意識してということになる、のかな。
これら一連がひとつの夢であったという可能性は否定できないのだが。

しかし、意識しているあるいは無意識にであっても行為の主体は自分である。
選挙違反ではないが、無意識についても連帯責任が適用されるだろう。
よく考えると、この無意識だというのはいつも自己申告なのだ。
客観的な数値なり判定ではない。
せいぜい状況証拠的なものをあげるしかない。

証明不能な言い訳ではないか、とさえ思う。
故意であったのかそうではなかったのか、というのに限りなく似ている。


一筆書き乗車の旅
旅行好きというか、鉄道好きの方はご存知であろう。
JRには運賃計算の特例というのがある。
もちろん知っていた。

このように規定されています。
『大都市近郊区間内のみを普通乗車券または回数乗車券でご利用になる場合は、実際にご乗車になる
経路にかかわらず、最も安くなる経路で計算した運賃で乗車することができます。』
ただし、乗車券は当日のみ有効、途中下車はもちろん不可、同じ駅を二度通過してはならない。
これを守りつつ電車の旅をおこなうのである。まあ、暇人専用でしょうか(笑)。

遊びなくして、なにが人生ならんや。

だが、いままでに実行したことはなかった。
それが今回やってみようということになった。
その意図はなにかはさておいて出発進行。
JR大阪駅に12時に集合した一行八人なり。

N7232大阪駅

大阪から新大阪まで160円の切符購入。

当初は、大阪→天王寺→和歌山→高田→桜井→京都→新大阪の工程を計画。
これだと総移動距離が258.1km単純運賃計算で4450円。
ちょっと時間もかかりすぎるということで急遽変更。
実際は、大阪→天王寺→奈良→京都→新大阪になる。
これでも、総移動距離が128.9km単純運賃計算で1930円だ。

N7234天王寺

N7235奈良

N7236京都

無事車中での会談は終了し、福島で打ち上げあり。
みなさま、おつかれさまでした。




プロフィール

ムッシュ

Author:ムッシュ
島を旅するときが楽しいですね。
遠くに眺めるのも好きです。
楽園なんてないんですけどね。

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