ムッシュの読書紀行
人生は旅のようだと言いますが、旅が人生かも知れません。 ぼくは活字中毒気味でもあり、旅はまだまだ続くでしょう。
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人生の意味
人生に意味はあるのか。
意味をみだせない人生は、無意味か。
無意味とは、ナンセンスのことだがなんとなくニュアンスが異なる。
意味の意味論(セマンティクス)を考えると、なかなかに興味がつきない。
(オグデン&リチャーズの「意味の意味」という有名な古典もあります)

わたしとしては、人生にとくに意味はない、と思っている。
ただ、人生に意味を見いだしたいと思う方の気もちも分からないではない。
人生に意味がないと思うなんて空しい、と感じていらっしゃるのかなと。

ヒトはなんに対しても意味をみいだす動物である。
「幽霊の正体見たり枯れ尾花」というではないか。
たしか、アメリカでなされた実験だと記憶しているのだが、
人間を無感覚(すべての感覚入力を断つ)状態にすると、幻覚があらわれた。
幻聴とは、自分で作りだした(当然その自覚はない)ものなんだろう。
風の音(空気の流れ)にも、人の声を聞いたりしてしまうではないか。

N8253ちくさ高原


ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にはあらず。
淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。


方丈記の有名な一節だ。
ヒトも水分子とおなじようなものですかね。


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メリットさん
若者に「結婚のメリットはなんですか」という質問を受けたらどう答えるか。
うーん、結婚のメリットかあ。
メリット・デメリット均衡してるよなあ(笑)。
なんでもメリットとかいうな、との意見もありますが。
「結婚していいことはなんですか」と聞きたいんだろう。
そんなこと思ったこともなかったが、考えてみた。

9175メダカ成長

「いいことは、いつも二人でいて楽しいこと」
「悪いことは常に相手がいてうっとうしいこと」
「それって、矛盾してないですか」
「矛盾という言葉がある以上、この世の中に矛盾はある」
「よくわかりません」
「つまり、いいことばかりはないということだな」
「はあー、そうですね」

「家族は企業じゃなくてボランティア団体と考えればいい」
「なるほどねえって、もうひとつ理解できませんが」
「メリット(利潤)の追求ではなくて、相手のためになにができるかを考える」
「わかるけど、むずかしいです」
「そう思える相手なら、一緒に居て楽しいというメリットが感じられるのではないか」
「メリットって、逆から見ればデメリットということもある」

「結婚はゼロサム・ゲームだな」
「それを受けいれることができれば、結婚も可能だな」
「そうだったんですか」
「まあ理屈で考えていくとそうなるということ」
「実際は、いろんな感情やら状況があってなるべくしてなる、みたいな」
「結果として、あれっ結婚してたと気づくんじゃないの」

結婚をメリット、デメリットの視点から考えるのも悪くないと思う。
それだけ冷静にいられるんだからね。
でもそれをいうならば、相手にもメリット、デメリットの視点はある。
どちらか一方だけがメリットを享受できるというのはねえ。
まあ、メリットを経済、物質的側面だけでなく精神にもひろげて考える。
数量化するのはむずかしいけど、気持ちの面も重要だよ。

「結論として、どうなんですか」
「メリットはある。しかしそれがなんであるかは死ぬまでわからないかもしれない」
「もちろんメリットがある以上、デメリットもある」
「しかしデメリットはあくまで視点次第という面もあるからやっかいだ」
「あるメリットもある人にはデメリットと感じられるかもしれない」
「なんだか全然理解できません」
「叫ぶんだなあ、メリットさ~ん、って」
「そうすると、杖をふりつつ現れるんじゃないの」
「でも、そのメリットさんのデメリットもあるんでしょ」

そうだね、切りがないかもしれん。
楽しくいこうぜ。
ハッハッハッ。


お好み焼屋で読書
暑くてたまらない日には、昼下がりの人のすくないころを狙ってお好み焼を食べにいく。おばちゃん
ひとりが切り盛りしているような狭い店だ。焼き台のまわりにぐるっとカウンターがあるだけ。十人
は入れない。いつものように「スジソバモダン」焼きを頼む。このスジはおばちゃんが自分で煮込ん
でいる。というのは向こうにある鍋で確認済みだからだ。おばちゃんが焼きはじめたら、本を読む。
ソースのこげる香ばしいにおいが食欲をそそる。暑い、ビールが飲みたい。しかし、人生には忍耐が
必要ではないか。よりうまく飲むための我慢が。などと考えているといっこうにページがすすまない。
そろそろ焼きあがるころになった。そこで、ビールを注文する。キリンとドライどっち。もちろん、
大瓶のスパードライで。まずはグラスでいっぱいのむ。う~ん、うまい。熱熱のモダン焼きの一片を
ヘラで口にはこぶ。熱い、うまい。すかさずビールをのむ。じんわりと生きている実感をえる。

N8255花と蝶

「損したくないニッポン人」 高橋秀実 講談社現代新書 ★★★★
高橋氏の著作には奥さんがよく登場する。それも対抗勢力として、なかなかの論客なのだ。
『かねがね私は妻に「貧乏くさい」と言われている。貧乏ではなく「貧乏くさい」。貧乏は客観的な
経済状況だが、「貧乏くさい」は生活態度、いうなれば人格である。「くさい」というくらいで、全
身から立ちのぼり、周囲にも影響を及ぼす。貧乏でも貧乏くさくない人はおり、金持ちでも貧乏くさ
い人はいる。貧乏と「貧乏くさい」はまったく別物なのだが、私は貧乏くさいので最悪らしく、そう
なじられるとなおさら損したくなくなってくるのである。』
損したくない人は節約をこころがけるのだろうか。あるいは工夫にかけているのか。おなじようでい
て微妙にちがうこの感覚がひっかっかるのである。ある女性に聞いてみた。
『――「節約」と「工夫」はどう違うんですか?
 彼女はさらりと答えた。
「例えば、パンの耳を揚げてスナックをつくるとします。『節約』の場合は、お金がないから安いパ
ンの耳を利用して揚げスナックをつくる、ということです」
 ――はぁ、それで「工夫」のほうは……。
「『工夫』の場合は、パンを買ったら耳が余っちゃってどうしようかと思って、おいしそうだから揚
げてみたらやっぱりおいしかったぁ! ということです」
 何が違うのだろうか。安いモノを利用するのが節約で、余り物で楽しむのが工夫のような気もする
が、やっていることは同じである。ノリが違うということか。節約のほうは客観的な描写だが、工夫
は誰かに語りかけている。ひとりでやると節約だが、誰かに呼びかけると「工夫」になるのか。前者
のほうは「お金がない」と断言しているので貧乏くさいというより貧乏であり、それを取り繕ってい
る分、後者のほうが貧乏くさいような気もする。』
節約は安くあげるということでもある。では安いものを買う。だがこの安いとはなにによるのだろう。
そこで半額セールを思い浮かべていただきたい。でこの半額はいわゆる定価よりの値引きだ。それと
モノの値段というのもある。定価と値段、おなじようでいてどこか響きはちがうものだ。
『「定価を決めているのは百貨店なんです」
 明快に答えてくれたのは、都内某百貨店に勤務していた土屋信彦さん(仮名)である。今もアドバ
イザーとして百貨店経営にかかわり、この業界の生き字引ともいわれる存在だ。
 ――やっぱり定価ですよね。
 私は思わずうなずいた。割引やらポイントやら一向に定まらない値段の中で、「定価」という響き
にはすがりつきたくなるような安定感がある。
「メーカーはまず百貨店に商品を入れる。その時にメーカー側が仕入れ価格に利益をのせた値段を付
けてきますので、それをそのまま『上代』にするんです」
「上代」とは百貨店が販売する際に付ける値段、すなわち「定価」のこと。ちなみに「下代」は仕入
れ価格を意味するらしい。
 ――交渉とかしないんですか?
「値段についてはほとんどしません。商品を置くか置かないか。どこに置くかという判断だけです」
 ――それで商売としては大丈夫なんでしょうか?
 私がたずねると、土屋さんが微笑んだ。
「商売というより、定価がないとみんな困るでしょ。割引するにしても定価がなければ、どれくらい
の割引なのかわからないでしょ」
 ――そうですよね。
「ですからまず、百貨店が定価を決めて世に出す。その後にメーカー側は量販店に卸して割引を始め
る。百貨店は定価。つまり価格を決めるという役割を担っているんです」』
うーむ、そういうことだったのか。さらに高橋氏は考察をすすめる。
『もしかすると「価格」と「値段」別物だったのではないだろうか。早速『日本国語大辞典』(小学
館 1970年)で調べてみると――、

 ・価格/物の価値を貨幣で表したもの。
 ・値段/売買の相場。

「価格」とは、貨幣で表す価値の「格」で、「値段」のほうは現実の市場取引そのものを意味してい
るのだ。価格は自分で格付けするようなものだが、値段のほうは市場に委ねられることになる。自分
で格付けしようとすると商品に対する自信が問われるが、値段は気楽。「高くすればいいじゃん」と
上げられるし、それで売れなければ「安くすればいいじゃん」と下げればよい。一方、格付けは揺ら
ぐべきではなく、だから価格とはすなわち定価なのである。』
損したくない日本人はどうやら貧乏くさいような気がしてきた。

「真夜中の太陽」 米原万理 中央公論新社 ★★★
米原さんは通訳の仕事上いろんな方と知りあいになる。ときに、なるほどという情報に接することも
ままあるのだ。たとえば、商社の方の養殖魚に対するこんなご意見。
『「御社だって、養殖やってるじゃないですか」
「だから、よーくわかってるのよ。生け簀みたいな狭いところに自然より何倍も密集した形で魚を飼
っていると、運動不足のストレスで必ず感染症が蔓延する。それを防ぐために、配合飼料に抗生物質
を混ぜる。そのせいで、生け簀の魚の四代目五代目になると必ず奇形になる。切り身にしてしまうか
ら、消費者は、そのことを知らないで喜んで買うけれどね。米原さん、買うなら、鰯やサンマみたい
な安い魚がいいよ。養殖しても元とれないから、天然物ばかりだからね」』
そのせいか最近ではヒトは死んでもなかなか腐敗しにくいのだそうだ。食物の中にはいっている防腐
剤やら抗生物質やらなんやらのせいだそうだ。養殖もの恐るべし(笑)。こういう事実が知れ渡ると
養殖ものの価格は高騰するのだろうか。いや、世間はすぐ忘れるのかもしれない。いや、忘れてしま
いたい、のかもしれない。喉元過ぎれば熱さ忘れる。すこし考えればわかることばかりだ。だが、こ
とはそう簡単ではないのである。
『たとえば、先ほどのキリストの産着の切れ端とやらが、万が一紛れもない本物だったとしても、キ
リストの教えを敬う信仰心と、キリストに関係したモノを崇める心とは、本来無関係なはずだ。
 などと偉そうに論ずるわたしとて、モノ信仰から完全に自由であるわけではない。フェラガモの靴、
グッチのバッグというだけで、ふつうの靴やバッグの十倍の値段を、安いと思いこんだりするのだか
ら、ブランド崇拝は原始的な宗教に通じるところがあるのだろう。』
これぞまさしく信じれば救われる(?)、ということなのではないか。キリストに神にブランドにす
がって生きるしかない哀しいヒトという種なのだろうか。種を救いたまえ。


テーマ:最近読んだ本 - ジャンル:本・雑誌

輪廻転生
ガンで入院しているんだと聞いて、見舞いがてら訪問したのが昨年六月だった。
「煙草なんかすっていいのか」
「いいのよ」
「身体によくないんじゃないか」
「すわないで我慢する方が、精神的にも悪いんだよ」
と笑いつつ点滴台をガラガラいわせながら、病院外でうまそうに煙草をふかしていた。

今年になって、いつ東京にくるんだなんていってたから、
どうしてるのかなと訪問したのが三月の末。
元気そうだったが、ずいぶんと痩せたな。
もともとスリムだったが、すこしちいさくなった感じ。

七月十五日、午前十一時に亡くなったと知らせがあった。
安らかであればよかったのだが、と思うばかり。

はじめてMに会ったのは笠岡諸島の真鍋島でだった。
もう四十五年前になるのか。
おたがい大学生で二十歳すぎだったよなあ。
若かった。
彼は綿入れチャンチャンコを着て怪人のように跳梁していた。
あまり話した記憶はない。
だが、たがいの存在は充分すぎるほど意識していた。
都会人とはこういう人のことなんだろうなと。

それからずっとおたがいの道をあるいてきた。
ひさしぶりは、神戸のKさんの個展だった。
その後の打ち上げで三宮の魚臭い居酒屋で飲んだりした。
信州では善光寺、小布施にも行ったよな。
すべてがいまでは懐かしくて、すこし切ない。

いままさに灰となり天に地に還るんだな。
会えてよかったと思ってるよ、Mちゃん。
合掌。

9168献花


ワイシャツのボタン
夏のノーネクタイもすっかり定着した。
エアコンの温度設定も高いままだ。
すべてはエコおよび経費節減のためなのだ。

で、シャツのボタンはどこからとめるか。
暑がりのわたしとしては、第二ボタンまではずしたい。
でもそれでは、中途半端なアクションスターのようだ。
ならば、すべてとめてみるとどうだ。
真面目すぎる優等生みたいでこれも堅苦しい。

ということで第一ボタンのみはずすというところに落ち着く。
結果、みんなおなじスタイルになってしまうじゃないか。
そこのところが、生物多様性に逆行していると思わないこともない。
ちょっぴり、不満だ。

なにか革新的なスタイルはないだろうか。

N8241クリオメ


汀で読書
これからどうしようか。もう、昼はすぎている。おもわず顔を覆った手をうとましいと感じた。どう
するのがいいのか分からない。メシを喰うという気分でもなかった。ふらりとしたとき、陸揚げされ
ている船縁に手をついた。どこかから流れてくる煙にむせた。海辺でなにかを燃やしているようだ。
振りかえったときに目についた商店まで歩いていった。缶ビールとアンパンを買った。お金を払いな
がら、なんだよこの選択はと自分を笑った。笑うとすこし気持ちが楽になる。店番のおばさんに目礼
をしてからまた波がよせているところまできた。砂の上に座って遠くをながめる。空はまぶしくて、
あかるくて別世界にいるような気がした。どうせなら、もっとちがう世界にいこうと手持ちの本をひ
らいた。文字は飛びこんでくるが、まるきり意味がわからない。これって日本語だよな。それはわか
る。だが、なにが書かれているのかまったく理解できない。しかたなく、ビールをぐびっと飲んだ。

N8242フクシア

「晴れた日に永遠が…」 中野翠 毎日新聞社 ★★★
図書館でパラパラとめくっていたら、大瀧詠一の写真が見えた。そう、あれは大晦日だった。突然の
訃報におどろきとなんともいえない気持ちになったことを思いだす。1Kのアパートでひとり暮らし
ていたころのこと。休日には、駅前で買ってきた焼き鳥と缶ビールで昼下がりをすごす。寝転んで天
井を見ながら彼のFM番組を聴いていた。あの声が好きだった。ときどき語られる音楽論がまたよか
った。変に肩ひじ張らないで、しかし論理的だ。ちまたの音楽評論家とはどこかちがっていた。まあ、
同じ年代ということもあるのかもしれない。いまでいう音楽オタクなのだが、芯が通っている。残念
としかいいようがない。そんなことを、読みながら思い返していた。いまでもときどきCMで楽曲が
流れてくると、なつかしいというよりもの哀しい。で、中野翠さんである。こんなことを書く彼女が
好きなんだな。ひねくれとはちがう、と思いますよ。
『私は旧人類。新聞が好きですね。あらためて新聞のよさを考えることもないけれど、新聞のいいと
ころは、私には全然理解できず、興味もないこともいっぱい載っているところですね。
 政界の話、経済界の話、株式欄などほとんど興味がない(最も興味のあるのは社会面、いわゆる三
面記事である)。新聞を広げると、「こんなにも私には興味のないことが世間においては重大事とい
うことになっているんだなあ。私と世間との間にはこんなにもギャップというかズレというかがある
んだなあ。“私”とは何と小さな偏った関心のもとに生きている人間なのだろう」ということが実感
として迫って来る。』
なにかで新聞の文章を模範にするとかなんとか書いてあるのを見ておどろいた。新聞というのはそう
いうものではないでしょう。ああ、こういうズレが世間と私との間にあると中野さんの本を読んでい
て実感することしかりでありました。

「足利義満 消された日本国王」 小島毅 光文社新書 ★★★★
わたしは今まで歴史というのにあまり興味がなかった。読んでいてもおもしろいと思えないのだ。し
かし小島氏の本はちがった。ふむふむと、なんなく読みすすめることができるのである。
『かつて東アジア世界で日本が日本として生きていくために、まさしく「この国のかたち」のために
活躍した一人の偉大な政治家がいた。三島も司馬もまったく評価してくれない人物だが。
 そう、本書は「日本国王」足利義満への鎮魂曲である。彼は消された日本国王なのだ。』
こんなことを言う人はいままでいなかった、と思う。確か、小島氏を紹介していたのは高島俊男さん
だったが、さすがだ。
『義満が明の皇帝から「日本国王」の称号を得たことは、学校の歴史教科書にも載っている。しかし
ながら、それが何を意味するかをご存じの読者はそう多くないのではなかろうか。本書の主題は、ま
さにここにある。そこで、まずは、義満がこの称号を得るにいたる経緯を簡単に紹介しておこう。
 応永八(一四〇一)年五月十三日、義満は祖阿(そあ)なる僧侶を正使、博多の承認肥富(こいず
み)を副使とする使節団を明に派遣した。明の年号では建文三年にあたる。彼らに託した親書では「
日本准三宮道義」と名乗った。道義は義満の出家後の名である。
 相手の呼称は「大明皇帝陛下」。しかも「上書」という表現を用いている。明らかに臣下が君主に
奉呈する書簡の表現であった。』
これが皇国史観の立場からは気に入らないのだろう。だから義満は逆臣ということになっている。
『夜郎自大という成語は、漢のときにいまの雲南省あたりにあった夜郎という小国の王が、「漢とい
う国とわが夜郎はどちらが大きいか?」と訊ねた故事に由来する。「夜郎、みずからを大とす」。日
本の歴史認識は『日本書紀』以来ずっと夜郎自大であった。蒙古襲来のときもそうだったし、「この
あいだの戦争」のときもそうだった。千五百年の歴史のなかで、謙虚に彼我の実力を比較し、為政者
として最も的確な判断をした点で、われらが足利義満の右に出る者はいない。政治が力の論理で動く
以上、好むと好まざるにかかわらず、為政者はそう選択せざるをえないのである。勢いのよい正論は、
しばしば国を滅ぼす。』
いろいろと勉強になりますね。脇道にそれますが、こんな話もおもしろかったですね。
『そもそも、「幕府」というのは、軍隊の司令官(将軍)が遠征先では幕を張った本陣において指揮
をとったことに由来する漢語である。本書でこれから紹介していくように、東アジア文明圏で生きて
いた当時の公家や僧侶が、武家政権のことをちょっときどって中国風に表現してみただけの用語であ
って、武士たちの自称でもなければ、正規の法制上の名称でもない。室町時代には「公方」という名
称も使われたが、これも正式のものではない。』
なるほどね、そういうことでしたか。山陽、山陰ついては、ちょっと目からウロコでしたね。
『ここでまた余談だが、今川氏は東海道を押さえていたというと、いかにも天下統一に最も近い家柄
というイメージにになるが、これは徳川氏(もと松平氏)が三河出身であることと、近代になって太
平洋側を本州の表側とする地理感覚が生まれたためであって、ペリー来航による「開国」まで、太平
洋側はむしろ裏側であった。表は大陸に面した日本海側だったのである。
 博多・敦賀・直江津。日本海側の港は、大陸に向かって開かれた表玄関であった。建武新政の瓦解
後、新田義貞が足利尊氏に逐われて越前(いまの福井県)に逃れたのは、辺鄙な地方に落ち延びたわ
けではなく、交通の要衝を押さえ、経済的な利点を得るためであった。』
こういうことも学校の授業では教えてくれませんでした。うーん、なかなかおもしろい。


テーマ:最近読んだ本 - ジャンル:本・雑誌

暇と自由
「暇だわ」
とつぶやく女がいる。

「貧乏暇なしだー」
と叫んでいる男もいる。

「暇とはなんぞや」
と哲学する御仁。

N8240藍山

人生とは暇を積み上げたものなのか。
なにか意義がなければいけない、との強迫観念があるのか。
のんびり暮らしても、あくせくしても一生はいっしょだ。

なにかをする予定がない時間。
なにをしてもいい時間。
これらを自由時間という。

なにをしても、しなくても自由だ。

暇があるから自由、というわけでもなさそうだな。


スキャンダルとゴシップ
「スキャンダルに巻きこまれてちゃって」
「いやいや、それってゴシップやろ」
「えっ、どこがちがうの?」
「知らんと使っとんのかいな」

ことばの使い方がまちがっています。
それはスキャンダルとは言いません、ゴシップです。
自己評価高すぎです。

スキャンダルは、社会的にも問題となる汚職事件や政財界などの醜聞、不祥事のこと。
ときに、一国の政治体制をゆるがすぐらいの衝撃があったりします。
それに比してゴシップとは、芸能界の噂話のことなどをさします。

芸能週刊誌が扱うのはたいていゴシップですね。
だれが不倫したとか、離婚しそうだとか。
ある意味どうでもいいことだし、そんな個人的な問題が中心です。
しかし、そのどうでもいい問題に興味をいだく人々が多いから週刊誌が成り立つんですがね。
(一部、興味のある方々向けのものですね)

「スキャンダルのほうが高級なのか」
「そう思うだろ。だから、逆手にとってゴシップ程度のことをね」
「注目を集めるためにスキャンダルと」
「読んだら、ゴシップやんか、となる」

N8094磯辺にて


日陰で読書
暑いときには読書なんてできないだろう。読書の秋というぐらいだから夏は向かないのかな。と思い
がちだが事実は意外や意外、夏の読書量がおおいことを記録は示している。さすがに炎天下ではでき
ないだろうが。そういえば、木陰などで本を読むの図、などいう絵も見たような気がする。さわやか
な風が吹きぬけるガーデンで籐椅子なんかにすわり読書する。イメージとしては充分わかるのだが、
実際問題としてあるのかな。かえって眠くなって午睡をむさぼってしまうのではと考えてしまう。だ
がまてよ、中学のときだっただろうか、思いだした。校舎の陰で教科書をひらいている女生徒がいた。
大きさからいってあれは音楽だったのではないか。すこし口ずさんでもいるようだった。ぼくはしば
らくながめていたのだが、彼女が急にこちらを見て笑いながら手をふった。どぎまぎして顔もすこし
赤くなった。そんなぼくのすぐそばを、別の女生徒が声をあげ手をふりながら駆けぬけていった。

N8197テトラポッド

「いつも彼らはどこかに」 小川洋子 新潮社 ★★★
雑誌「新潮」に掲載された短篇が八つ。そのなかで「ビーバーの小枝」というのが印象に残った。
『私と青年Jの父親は、二十年近くにわたり、作家と翻訳家という関係にあった。結局、一度も会う
機会はなかったが、翻訳家は常に私の小説を気に掛け、新作が出るたび熱心に読み込み、粘り強く翻
訳を続けてくれた。私たちの間には、二人の名前が表紙に印刷された本が全部で十一冊残された。』
そんな翻訳家がいた地へ小川さんはでかけていく。迎えたのは青年Jとその恋人であった。生前翻訳
家が暮らしていた家で青年Jと恋人は暮らしている。翻訳家とときおり手紙の他にプレゼントを贈り
あった。そんな大げさではない品々だったという。
『中でも最も忘れがたいのは、記念すべき翻訳本が完成したお祝いに彼がプレゼントしてくれた、ビ
ーバーの頭の骨だった。』
日本人の感覚からすれば、動物の骨、しかも頭蓋骨をプレゼントにと思うかもしれない。しかし、筆
者はいい意味で忘れがたいと書いている。わたしも実物を見たわけではないが、いいなあと感じる。
ありふれた出来あいの品物ではなく、彼の住居近く自然のなかにあったもの。翻訳家は書く。
『二か月ほど前、森を散歩している途中に見つけました。死んで随分時間が経ち、綺麗に白骨化して
います。キツネか何かがくわえて来たのでしょう。頭以外の部分は見当たらず、ただこの頭蓋骨だけ
が朝もやの漂う森の奥で、ひっそりと落ち葉の中に埋もれていました。野生動物の骨を見つけるのは
さほど珍しいことではありませんが、ちょうどその日の早朝、あなたの小説を翻訳し終えたところだ
ったという偶然から、つい手に取り、家へ持って帰ってしまったのです。』
もちろん、きちんと骨は専用の薬品で消毒されている。だが、こういうものを気持ち悪いと思う方も
おられる。しかし、考えてみればすべての生物は死ぬ。その姿が神々しいと感じることもある。どう
感じるかはその人の人生観を映すのだと思う。こういう姿勢の小川さんだから、いろんなすばらしい
小説が書けるのだとも考えるのである。

「原爆投下 黙殺された極秘情報」 松木秀文 夜久恭裕 NHK出版 ★★★
ウランの核分裂反応が爆弾に利用できることは当時、ドイツ、イギリス、アメリカ、そして日本でも
知られ検討されていた。アメリカはドイツに開発されることをなんとしても避けたいと巨額の資金を
つぎこんだ。有名なマンハッタン計画で、二〇億ドルといわれている。日本は大きく見積もって五〇
〇万ドル程度だった。わずかアメリカの〇・二五パーセントである。当時この研究を仁科博士のもと
に従事していた木越さんは「原爆開発に成功するなら世界一の工業力を誇るアメリカしかないだろう」
と思っていたという。そしてアメリカは実験に成功する。実験だだけではなく実戦でどのように使う
かが、原爆使用に関する暫定委員会で決定される。その内容は以下のようなものだ。
『「原子爆弾は、できるだけ速やかに日本に対して使用されるべきであり、それは労働者の住宅に囲
まれた軍需工場に対して使用されるべきである。その際、原子爆弾についてなんらの警告も行っては
ならない」』
ドイツ、イタリアではなく日本でなければならない、というところが哀しい。コーカソイドとモンゴ
ロイドのちがいはおおきいのである。ではどこに、という問題がある。
『五月一〇日に開かれた目標選定委員会では、京都、広島、横浜、小倉が原爆の攻撃目標としてリス
トアップされた。なかでも京都と広島は、特に“有望”な目標とされた。その基準は、大きな都市で
あり、これまでの空襲によって被害を受けていないというもので、人類が初めて実戦で使用する原子
爆弾がもたらす破壊の効果を正確に把握することを目的としていた。』
だから逆に、これらの候補地はそれまで意図的に空襲を受けていないということだ。京都ではなく広
島だったというのは歴史の偶然である。
『さらに広島では、空襲に備えて「建物疎開」が始められた。建物疎開とは、空襲を受けた際に延焼
を防ぐために市内の構造物を撤去して防火地帯を設ける作業のことである。この作業に動員されたの
は、広島市内の、いまでいう中学生以上の生徒たちだった。広島市側は、空襲の可能性があるのに生
徒を危険にさらして建物疎開の作業を行わせることはできないと訴えたが、結局、空襲への備えを急
ぐ陸軍の意向で市内二万人近い生徒が動員されたといわれている。そして、八月六日のあの瞬間も、
多くの生徒たちが炎天下、建物疎開の作業をしていた。それが結果として、原爆の被害をより一層大
きなものとしてしまうのである。』
そして広島が謎の爆撃機によって空襲を受けるのではないかという情報は察知されていた。だが、軍
上部にまではなぜかそれが伝わっていなかったのだ。


テーマ:最近読んだ本 - ジャンル:本・雑誌

記憶の意味
記憶をなくすと自分というものもなくなってしまう。
想像してみればいい。
自分が誰だかわからないのだ。
もしかすると、誰かであるということすら考えられない。

「あれっ、なにも思いだせない」
「いままで、なにをやっていたのだろう」
「うーん、わからない」
「ここはどこなんだ」
「どうしてここにいるんだろう」
「わたしって、だれなんだ」
「だれか、わたしのことを知らないか」
「絶海の孤島にひとり生きているような感じがする」
「群衆のなかにいるのに、ひとりぼっちだ」

記憶とはアイデンティティのことだといってもいい。

個人は、だれかが誰誰くんなどと呼んでくれることにより存在する。
絶海の孤島にひとりでいるなら、自分という概念は不要だ。
たぶん、鳥や魚が仲間だという認識に達するかもしれない。
(ペットは自分が人の仲間だと思っているのではないか)

なぜこんなことを考えるかというと、
ある朝起きたときにそんな感覚を経験したことがあったからだ。
とてもうろたえるというか、混乱したことを思いだす。

ある種の宗教体験にそのようなことがあると読んだことがある。
記憶がなくなると自己というものが希釈されていくだろう。
自己拡散というのか、自己と他者のというより宇宙との境界がなくなっていく。
一体になるといったほうがいいのだろうか。
つまりは死という概念もそこには成立しないのだろう。
だから多幸感にみたされるのだという。
(逆説としての死はあると思うのだが)

N8228あじさい等




プロフィール

ムッシュ

Author:ムッシュ
島を旅するときが楽しいですね。
遠くに眺めるのも好きです。
楽園なんてないんですけどね。

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