ムッシュの読書紀行
人生は旅のようだと言いますが、旅が人生かも知れません。 ぼくは活字中毒気味でもあり、旅はまだまだ続くでしょう。
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幼虫時代
庭にあるゆずの木に鎮座ましましておりました。
蝶類は柑橘系が好みであると本で知った。
で、ホームセンターで買って一本おかせてもらっています。

しかし、不思議ですねえ。
ここから蝶へと変身してゆくというのは。
自然はやることが大胆であります(笑)。

DSCN8351.jpg

アゲハチョウの仲間でしょうね。
クロアゲハかな。
この眼のような模様がユーモラスです。
なんだか可愛いです。

しばらくおだやかな気持ちですごせます。
鳥に狙われないように願うしかないですね。


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続・引越し準備で読書
ダンボール箱が部屋の片隅に積まれていく。二〇、三〇個と。棚が空になるほどにダンボール箱が増
えるのはあたりまえだ。こちらのがあちらへ。なんだか無駄なことをしているような気になる。エン
トロピーが減少している、のかどうか。やっと終わったかとあたりを見まわす。本棚の後ろに数冊の
本が落ちている。ちいさな本だからか。そのなかに真っ赤な本があった。大学生のときに買った。当
時はそういうブームだったのだ。「毛沢東語録」。あまり読んだ記憶はない。でも、買ったのだ。パ
ラパラとめくる。読む。文化大革命かあ。カンボジアのクメール・ルージュのこともある。国家って
なんだろう。ヒトって進化しないのか。いや進化しているのか。なぜだかそんな感想をいだいた。し
ばらくぼんやりしていたようだ。そろそろ片付けなくちゃなと思って外を見たら、もう陽が沈みかけ
ていた。あたり一面が紅に染まるなかでダンボール箱の影が部屋に長くのびていた。

N8334雨上がりの山

「プライスレス 必ず得する行動経済学の法則」 ウイリアム・バウンドストーン
                     松浦俊輔+小野木明恵訳 青土社 ★★★★

スーツケースの重さというのは持ってみてわかるものだろうか。だれもが自信はないだろう。
『一九世紀の心理(精神)物理学者たちは、人は違いには特に敏感だが、絶対的な値にはそれほど敏
感ではないことを発見した。見た目はそっくりだが、一つは重さが一五キロで、もう一つは一六キロ
の二つのスーツケースがあるとすると、持ち上げてみてどちらが重いかは簡単に判断できる。だが、
秤がないと、二つのスーツケースがそれぞれに飛行機の重量制限二〇キロに収まるかどうかは、なか
なか確信できない。』
人は絶対値を予測することは苦手だ。カーネマンとトヴェルスキーはこういう実験を行った。ルーレ
ットをまわしてランダムに数字が選ばれるところを大学生が見ている。ちょうど65のところに止まっ
たとしよう。そこで次の二つの質問を大学生にする。
 (a) 国連にアフリカ諸国が占める割合は、六五パーセントより高いか低いか?(数字はルーレット
   で出たもの)
 (b) 国連にアフリカ諸国が占める割合は何パーセントか?
この実験はルーレットに仕掛けがあり10か65しかでないように設定されていた。さて結果はルーレッ
トの数字に影響を受けたのだ。ルーレットが10のとき、国連にアフリカ諸国が占める割合は、平均二
五パーセントだった。しかしルーレットの数字が65のときは、割合の平均は四五パーセントになった。
彼らはこれを「係留(アンカリング)と調節」という用語で説明した。初期値(アンカー〔錨〕)が、
未知の数量を推測する際の基準点もしくは出発点の働きをするという理論だ。当初、アンカリングと
いう説は否定された。しかし、その後の心理学者たちの実験の数々はこれを肯定する結果となった。
ならば、人は市場価格がはっきりとしないものの値段はどう判断しているのだろうか。だれもが自分
は賢い選択をしていると信じがちである。だが、ものの値段が高いか安いかはどうして見極めるのか。
高級ブランドのショップにでかけると、店頭に五十万円のバッグが飾ってある。だれもがこれはちょ
っと買えないと判断するが、次に見たバッグが五万円だとこれなら買える、安いわねと感じたりする
のだ。これはアンカリング理論で説明できる。店頭の五十万円のバッグがアンカーとなっているのだ。
『人々は、値段についても同じように無力なところを示している。この極めて重要な事実が、ほとん
ど認識されていない。なぜなら、私たちはメディアが宣伝する値段や市場価格に埋もれて暮らしてい
るからだ。物の値段がどれくらいに「設定されているか」をおぼえているので、物の価値を間違いな
く感知できるような気がしていられる。消費者は目の不自由な人に似ている。よく知っている室内な
ら、どこに家具があるのかをおぼえているので、ちゃんと歩けるのだ。これは視覚の埋め合わせであ
って、視覚が鋭敏だというのとは違う。』
アンカーリング理論のすごいのは、この理論を知っていても、アンカーに影響を受けてしまうことだ。
このことを十分に認識しておく必要がある。
『私たちはみな、理論や常識による首尾一貫した限度価格をもっているつもりでいる。しかし語られ
ていない真実がある。それは、私たちが知っているのは、相対的な評価額にすぎないということだ。
比については賢いが、価格については愚かなのだ。』
いろいろと知って、できるだけ賢い消費者になってください(笑)。

「ベン・ジョンソン戯曲選集(4) 錬金術師」 ベン・ジョンソン
                         大場建治訳 国書刊行会 ★★★★

ベン・ジョンソンは十七世紀のイギリスで劇作家・詩人として活躍した。同時代には有名なウィリア
ム・シェイクスピアがいる。その当時、どちらかというとベン・ジョンソンのほうが評価が高かった。
「錬金術師」は一六一〇年、国王ジェームズ一世を庇護者にいただく国王一座によって上演されてい
る。エリザベス朝という時代的にも、錬金術は一世を風靡していたのだ。ベン・ジョンソンはそれを
風刺してこの戯曲を書いた。そして大成功をおさめたのだ。作品中には次々と錬金術用語がでてくる。
まさに相手を幻惑させるかのように。では、解説の一部を紹介しておこう。
『それは作品全体を貫く統一的な主題――貪欲な人間のおぞましい変身――を描写するためのぬきさ
しならぬメタファーとしてはたらいている。フェイスはサトルに拾われて隊長に変身する。第一幕第
一場、サトルの口にする錬金術用語は、錬金のプロセスと人間の変身とを寸分の狂いもなく重ね合わ
せるための卓抜な技巧である。そしてほかの二人も、サトルは博士に、ドルは貴族の妹に、さらに妖
精の女王へと変身するが、彼らのめまぐるしい変装の連続は、たんなる劇的趣向の域を超えて、人間
の錬金という大きな意味を獲得することになるだろう。その他の人物もそれぞれに卑金属の己が黄金
に変身するものと思いこんで、右往左往の愚行をくりひろげる。しかもその人間の錬金術は、錬金術
自体が人間の貪欲に罠を仕掛けた入念な詐術にほかならなかったように、彼らを黄金の高みに飛翔さ
せるとみせかけて、じつは低く、より低く、ついに動物の次元へと転落させていく。それは、表面的
には詐術を施す側に立っている三人とても同様である。「王さま」のサトルも「大将軍」のフェイス
も「女神さま」のドルも、かずかずの変身をへながら、最後には罪人のようにこそこそと逃げ出さな
くてはならぬ。奴隷のように腰をかがめて主人の許しを乞わなくてはならぬ。ジョンソンのアイロニ
ーは完璧である。動物のイメジャリも、戦争のイメジャリも、人間の貪欲と転落のテーマにグロテス
クに織りこまれて、卑小な人間の現実の絵模様が、活気にあふれた哄笑の舞台から、それこそじわじ
わと観客の前に迫ってきて離れない。』
なるほどね、そういうことですか(笑)。ペストが大流行していたロンドンが舞台の劇である。ちな
みにコールリッジは世界文学における完璧なプロットの三大傑作として、この「錬金術師」を「オイ
ディプス王」「トム・ジョーンズ」と並べて賞賛しているとの由である。


テーマ:最近読んだ本 - ジャンル:本・雑誌

おなじもの
ときどき考える。
「同じ」ってなんだろうな。
たとえば、おなじリンゴ、という場合。
これはリンゴという言葉の上では同一だということだ。
形状から組成から質量からなにからなにまで同一ということではない。
それはそうだ。
この世のなかにまったく同じものなどない。

でも、日常的にこれとあれは同じだという。
ほかにどう言えばいいんだろう。
同じでなくてなんなのだ。
ヒトの特徴は「同じ」という概念をもつことだな。
すべてはそこから発している。

N8341キンモクセイ

「みんな同じなんだから仲良くしないと」
(どこがなにが同じなんだよ、顔や性格だってちがうし)
「順位をつけることはいけない、みんな一番だ」
(じゃあ給料もなにもかも同じにしてくれ)
といわれていた時代もあった。

その後、もっと個性を伸ばそうなんていうことになった。
個性を伸ばしたら、同じでなくなるんじゃない。
(最高に個性的な人は、しばしば病院に収容される)
それはそれでいいのよ。
どういいのかは教えてくれません。

あるいは、同じというのは平等のことだよ。
また、わからなくなった。
世のなか、不平等だらけじゃないか。
だから、社会体制とか教育とかで平等になるようにするんだよ。
ところがいまだに実現する気配さえない。
(まあ、永遠のテーマですね)
実現してしまうと、困る人がでてくるかもしれない(笑)。

「おなじ」といってもいろいろある。
おなじでありたい、おなじであるべき、願いも含まれている。

「世界にひとつだけの花」
ある意味、あたりまえのことだ。
世界にひとつだけでないものがあるとすれば、それは何だろう。
そうか、だから「おなじもの」を考えるんだな。


引越し準備で読書
いままでに引越しはなんどか経験している。まず本をダンボールに詰めこむ作業からはじまる。この
機会にできるだけジャンルをあるいは著者をそろえてと考える。ほこりを払い書名を見る。これはあ
のときあそこで買った、と思いだす。そのころ、あんなことがあったなと懐かしい。ちいさな紙片が
はさんである。付箋がまだなかったころだ。なぜここに紙片がとすこし読んでみる。わからなかった
ら、わからないでいい。ヒトの考えることなんてそういうことだ。そうか、この記述に反応したのだ
なとわかれば、すなおにうれしいしそのときの感慨がよみがえったりする。ただ、そのときもそう感
じたのかどうかよくわからない。そんな気がするという程度だろう。記憶なんてそんなものだ。視野
の片隅の色にはっとする。あの本じゃないのか。やっぱりそうだ。このうれしさは離れ離れになった
恋人に再会するときの喜びに似ているのかどうか、わからないけどジーンとこころ震えるのである。

N7941空をゆく

「南京事件 増補版」 秦郁彦 中公新書 ★★★★
南京事件は、まぼろしだとか大虐殺だと喧々諤々の議論がいまも続いている。
『どうやら「まぼろし」とはゼロではなく、数千人の幅までふくむ概念らしいと推測されてくるが、
「大虐殺」の概念の方もやはり問題がありそうだ。呼称の由来を当たってみると、事件を最初に報道
した英人記者のティンバーリーは“Japanese Terror”(訳語は「日本軍の暴行」)と表現しているが、
一般的には「南京アトローシティ」が使われたらしい。』
では、アトローシティという英語はどんな意味をもつのか。
『英和辞典を調べてみると、「アトローシティ」(atrocity)という英語は広く残虐行為を意味し、
虐殺と同義ではない。虐殺にはmassacreという、より適切な英語があり、西洋史では「セント・バー
ソロミューの虐殺」や、アメリカ独立戦争の発端となった「ボストンの虐殺」(Boston Massacre)が
著名だが、後者で殺されたのはわずか数名である。第二次世界大戦では数百万人のユダヤ人をガス室
に送った「アウシュビッツの虐殺」や数千人のポーランド人青年将校を集団殺害した「カチンの森の
虐殺」が知られている。
 してみると、“虐殺”は、殺された人数の多少よりも、事件全体の性格、とくに組織性・計画性に
関わる概念らしいと見当がつく。』
このように、政治的な立場のちがいによって言葉がえらばれているようだ。しかしどのような言葉で
語られようとも南京事件はあったのである。日本人としてはこころしておかなければならない。では
実際にはどのようなことがあったのか。本書では数々の資料を提示して事件の全貌を明らかにしよう
としている。そのなかに、石川達三の特派員として従軍経験による小説がとりあげられている。もち
ろん当時は検閲制度があり発禁処分を受けている。書名を「生きている兵隊」という。
『「生きている兵隊」は題名どおり、戦場における兵士たちの行動と心理を虚飾なしに描き出してい
る。母親の死体を抱いて泣き叫ぶ娘を「うるさい」と刺し殺した元校正係の平尾一等兵、それを「勿
体ねえことしやがるなあ、ほんとに」とからかい、捕虜の試し斬りの熱中する農村青年の笠原伍長、
ジュズを巻いた手でシャベルをふるい敗残兵をなぐり殺す片山従軍僧、女を射って憲兵に捕まるが、
釈放される医学士の近藤一等兵……いずれも、歴戦の勇者であり、生き残りである。そして平常心を
取り戻せば、平凡な市井の青年たちにすぎない、と作者は暗示していた。
 その彼らを一様に略奪、強姦、放火、殺傷にかりたてた契機が何であったかについて、作者は直接
には答えていないが、十分な補給と納得の行く大義名分を与えられずに転戦苦闘すれば、兵士たちの
心情が夜盗なみのレベルまで荒廃して行くものだ、と訴えているようにもとれる。
 また勇敢、温情の西沢連隊長が、「数千の捕虜をみなごろしにするだけの決断を持っていた」とか、
南京城内の掃討戦で「本当の兵隊だけを処分することは次第に困難になって来た」とか、さりげない
表現ながら、兵士たちの暴行が、軍上層の黙認ないし奨励のもとに成りたっていたことを示唆してい
る。これだけの目配りを利かせた第一級の作品が、軍隊とは無縁だった若い作家によって、しかもわ
ずか一週間の見聞で完成したことに驚嘆するが、「生きている兵隊」を闇に葬った内務省警保局は、
日本軍の非行を国民の目と耳から封じようと、きびしい監視の目を光らせていた。』
南京事件はどういうことだったのかと考える人は是非本書を読んでいただきたい。そして自らが考え
てみるしかないと思う。戦後のアメリカ軍による解放もなにを意味していたのか。マスコミももうい
ちど原点にもどる必要があるのかもしれない。
『敗戦の日まで、国策に沿った報道しかやってこなかったマスコミは、今度は占領政策伝達のための
拡声器に早変りする。用紙不足で粗悪な紙質の二ページ建てがやっとだった新聞は、GHQの指示で
貴重な紙面の半ば近くを東京裁判の報道に費していた。知的飢餓感を満すのに忙しかった国民は、そ
れが政治裁判のために設定されたキャンペーンであることに、さして注意を払わなかった。天皇制の
下で軍閥を核として財閥・官僚・言論人・右翼が協力して侵略戦争を遂行したという構図は、「被害
者」である国民に一種の免罪符を与えたからでもある。
 戦前の日本には民主主義は育たず、軍国主義と封建主義が支配していたと説くE・H・ノーマンの
訳書が爆発的に売れ、戦前期指導者の矮小性をついた丸山真男が学界のヒーローになった。日本の非
軍事化と民主化を占領目的としたアメリカにとって、こうした知的マゾヒズムの潮流は好ましい傾向
であったろう。』
いまなら「戦争は反対だ」ということはたやすい。だが、あの時代の空気のなかにいたら自分はどう
していただろうな、と思うのだ。ものごとは疑問を持つところから始めるしかない。そのためには、
知れることはまず知る。知ってからのこともおおいのではないか。

「義経の東アジア」 小島毅 勉誠出版 ★★★★
義経は平均的日本人にとってはヒーローである。その点については巷間いろいろと意見もある。それ
はそれでいいと小島氏はいうが、義経を日本史のなかだけで語るのが不満だという。それが書名にも
あらわれている。大河ドラマなどでは義経はいかにも正義の味方のように描かれている。そうなのか。
史実ひとつをとってみてもそうではないだろう、という。例えば以下のようなこと。
『武士の間では、騎士同士の一騎打ちで相手の馬を射るのは卑怯な行為とされていた。それと同様に
海戦での船の漕ぎ手は非戦闘員であって、武装もしていなかった。形勢不利と見た義経は、この禁じ
手を部下に命じたのである。平家の水軍は漕ぎ手を失い、波に翻弄されて源氏の船団に包囲されてし
まう。
 漕ぎ手への攻撃が平家の他の非戦闘員たちに与えた心理的影響ははかりしれない。文明的戦争のル
ールさえ知らない――知っていても無視する――恐ろしい野蛮人たち。生きて囚われの身になったら
どんな凌辱を受けるやもしれない。時子をはじめとして多くの女性たちが波間に沈んでいったのも、
当然であろう。』
勝つためには手段を選ばない義経。それとも、戦争のルールを知らない、あるいは知っていても守る
気もない、ということなのだろうか。そういった論点満載で、ふつうの歴史本にはないおもしろさが
本書にはある。「武士道」についてもこうおっしゃる。
『江戸時代の「武士道」とは、戦闘要員としてこそ存在意義を持っていた武士が、江戸幕藩体制とい
う恒久平和のもとで、心ならずも(?)いくさをしないでよくなってしまったがために、戦争実践の
代替物として編み出して自己の存在証明とした理論的産物だった。武士道があったから徳川三百年の
平和が実現したのではない。平和になってしまったから武士道が必要になったのだ。』
こういうところも好きだなあ。武士道はフィクションというかファンタジーなんでしょう。


テーマ:最近読んだ本 - ジャンル:本・雑誌

記憶は反芻する
なんども書いているが、記憶は写真とはちがう。
上書き可能なパソコンデータのようなものだ。
そうだ、化粧にたとえられるかもしれない。
厚化粧、薄化粧、ナチュラル化粧(やや意味不分明)。

地顔(記憶)の上に何層もの化粧がほどこされていく。
いつのまにか別人のようになっていく。
(このあたりのテクニックはすごい)
化粧にも流行があるようで時代とともに変化していく。
古い映画をみるとその様子がよくわかる。

アフリカの部族における戦のためにする化粧は圧巻である。
化粧は興奮と同時進行である。
人格が変化するのだ。
戦闘モードへの儀礼といってもいい。
化粧は戦場に赴くための準備だ。

N8159蓮の葉

顔と記憶は密接に結びついている。
青春時代に会った人とひさしぶりに再会する。
容貌は確実に変化している。
他人からみれば面影が残っているのかどうかもあやしい。
だが、かすかな記憶から同一人だとわかる。

その時点から、目の前にいるあなたは今だけのあなたではない。
眼前のあなたに、青春時代のあなたを重ね見ている。
なんどもなんども重ねて修正してあなたを認識するのだ。

記憶がいつも美しいのはそのためだろうか。


若づくり
若くありたい、肉体的に。
ふーん、でもまあわかる。
若く見せたい。
これがいまいちわからない、理解できない。
そこで「若づくりの意味」について考えてみた。

若さに価値があるということなんだろう。
そういえば、日本人の成人男女は若い異性を求めるらしい。
ロリコンとはまたちがう。
欧米では若いということは未熟を意味することが多い。

N8330秋模様

若さと関連して美容整形に走ったりする。
美容整形は違法薬物に似ている。
依存性が高い。
やればやるほど閾値があがり、歯止めがきかなくなる。
だが、いつか崩壊の時期をむかえる。
ヒトって弱いものだ。

若く(見た目だけでも)ありたいというのは虚栄でもある。
適度な運動をするとか、規則正しい生活をするとかとは無関係である。
人の目をごまかせればいい。
つまり、若いと錯覚させればほぼ目的は達成したといえる。
それなら簡単じゃないかと思うかもしれない。
だが、ある程度持続させられなければ意味はない。
夜目遠目傘の内ではだめらしい。

仮にある時点で若く見せられたとしても長続きはしない。
老化は生きている限り必然である。
それよりも効果的な戦略はないのか。
若さより老いのほうが価値があるとすればいいのではないか。
多くの人がそう感じるようになれば、無駄な努力は不要だ。

だが「亀の甲より年の功」は時代遅れだ。

人生の時間は有限である。
ぜひ有効につかっていただきたい。
しかし、なにを有効と考えるかは人それぞれだ。
なかなかにむずかしい。

アンチエイジング、一大産業になっております。
まあ、おきばりやす。


接骨院で読書
目覚めたら寝違えたのか首が痛い。それはしかたがないのだが、どうにも困った。仕事で車を運転す
るのだが、バックするときに首がまわらないので振り向けない。なるべくバックしないような経路を
考えたがそうばかりはいかない。紹介された接骨院に行くことにした。首に電気のマッサージだと思
うが電極を装着してしばらくじっとしている。その間、本でも読んでいてもらっていいですよと言わ
れた。前に書見台のようなものを用意してくれた。ときおり手をのばしてページをくる。首筋に電気
のインパルスが走るとなんとなく効いている気がした。最後には針の治療もあって、健康保険も適用
ということで二千円前後だったと思う。なんどか通っているうちにいつのまにか首の痛みは消えてい
た。効果があったのだろう。余分にもらって使い切らなかった湿布薬と軟膏が残った。しばらくはこ
れらを見るたびに接骨院でオシログラフの波打つ様子をながめながら治療したことが思いだされた。

8634ホテイアオイ

「裸のフクシマ 原発30km圏内で暮らす」 たくきよしみつ 講談社 ★★★★
天災、人災が起こるとかならずなんらかの今後の対策が声高にさけばれる。東北の震災は津波という
天災に加えて、沿岸部にあった原子力発電所の被害がかさなった。原発の是非はいろいろと論議のあ
るところである。原発をなくして、二酸化炭素の排出を増やす火力発電にするか。それとも併用して
いくか。自然エネルギー関連の太陽光発電とか風力ではベースの電力は担えない。これから先の人類
のことを考えるならば、原子力は捨て去ることはできない。とわたしは考えるのだが、そうではない
という方々も文科系(?)には多い。一種人気取り、言うだけの発言は気なる。是非、しっかりとし
た議論をお願いしたいが無理だろう。それとは別に、こうしたとき思わぬ人の本性を見ることもある。
『郡山のビッグパレット避難所に2ヵ月以上いたまさおさんは、自宅に帰って来るなりこう言った。
「避難所にいれば三食昼寝つきで何もしなくていい。毎日がお祭りみたいなもんだった。身体はなま
るし、このままだとダメになると思って戻ってきた。俺みたいに2ヵ月もあそこにいた怠け者は珍し
いべ」
 そもそも川内村20キロ圏内の線量はほとんどの場所で郡山市より低いのだから、何のために避難し
ているのかわからない。』
仮設住宅へ移るのを拒否し集団避難所から出ようとしない人たちも少なくないという。避難所なら食
費も光熱費も不要だ。おまけに集団避難所にいた人たちには後から補償金や慰謝料が支払われるらし
いと噂も広まっている。だから避難所周辺のパチンコ店は連日避難者で盛況だったのだ。というよう
に政府や地方自治体の対応、救援体制もおおいにかかわってくる。あのとき、あの政権でよかったの
かという疑問はあるが、わたしたちが選んでしまったのだということは胆に銘じる必要がある。では
あるが、実際の現地住人たちはどのように思ってあの時期を暮らしていたのか知るのは大切だ。たく
き氏から観たフクシマであることは言うまでもないが。なかなか興味深い話もたくさんある。

「ナイン・ドラゴンズ」 (上)(下) マイクル・コナリー 古沢嘉通訳 講談社文庫 ★★★
マイクル・コナリーが描く刑事ヒエロニムス(ハリー)・ボッシュ・シリーズの一冊。ロス市警の刑
事であるボッシュは単純な強盗殺人と思われた事件の現場にむかう。だが、その被害者をハリーは知
っていた。かつて一度会ったことのある酒屋の店主で、銃で撃たれて死んでいた。中国生まれの店主
の殺害事件は捜査をはじめてすぐに背後に中国系犯罪組織の存在が浮かびあがってきた。その組織は
「三合会」という。その名は天と地と人との結びつきを象徴する三角形の旗をもっていることによる。
一七世紀に満州族の侵略から生き残った少林寺の五名の僧侶が秘密結社を創設した。もともとは満州
族打倒のためだったが、いつしか犯罪組織に変わっていった。みかじめ料支払いの関するトラブルな
のか。被害者の解剖の結果、興味深い事実がわかった。ゆがんだ銃弾三個と、薬莢一個がでてきた。
この薬莢は死体のなか、食道に引っかかっていたというのだ。
『フォーチュン酒店のカウンターの奥でなにが起こったのか、目星がついた、とボッシュは思った。
発砲犯の銃から排莢された薬莢のひとつが、カウンターの奥で床に倒れ、死にかけているジョン・リ
ーの上あるいはそばに落ちたのだ。』
それを店主は飲みこもうとしたのだ。貴重な証拠になるだろうととっさに判断したのか。捜査をすす
めているうちに、香港に住む娘のマディーが誘拐される。これには三合会がかかわっているのか。急
遽ハリーは香港へと飛ぶ。事件の真相は意外な結末をむかえるが、それは読んでのお楽しみ。ミステ
リ作家というのはいろんなことを考えるものですね。


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旅のおわり
旅の記憶というのは不思議なもので、唐突によみがってきたりする。
忘れていたのではなかったのだ、というようなことも多々ある。
思い違いというのも散々経験してきた。
なぜ思い違いだとわかったのか。
日記というほどのものではないがメモが残っていたりする。
記憶とメモ、どちらが信用できるのか。
そうなんだよな、記憶ってあまりあてにはならないな。
世のなかの争いで記憶を根拠にしているものは、ほぼ疑ってかかるのがいい。
もちろん、意識的であろうが無意識であろうが、記憶は書き換えられる。
おまけに嘘も三度言えば、真実(事実)になるともいう。

それはさておき、頼りにならない記憶をたどってこれを書いている(笑)。
だから、ある意味書かれている出来事はフィクションである。
あるいは妄想の産物といってもそう的外れではない。
ただ、しばしば事実が混じるのが面倒なのだ。

そんななか思いだすのはなんだろうか。
寒い朝にでかけて、手に息を吹きかけながら暖をとった。
列車の窓が内外の温度差のためか、雪の結晶のように白く輝いていた。
聞こえてくるのはレールが線路とこすれてたてる音ばかりだ。
ふうーと吐いた息が白い煙のように一瞬あたりに立ちこめる。
すこしづつ暖房がきいてきてホッとする。
真冬の列車での旅だった。

季節はすぎて、車窓の景色は一変する。
水はぬるみ蓮華の花が田を埋めつくすなかを列車は走る。
ところどころ黒い土のままのところもある。
暖かな風とともに旅すればこころも軽やかになる。
人はなぜ生きるのだろうかと考えることもある。
潮風に乗って飛ぶ海鳥たちの姿がまばゆい。
自由の意味も知らないで旅する春は気楽だった。

旅慣れてくるにしたがって荷物はちいさくなる。
その日の夜に洗濯すれば着替えも必要ない。
もくもくとたちのぼる積乱雲のもと、屹立する針葉樹の森をぬけた。
林道をたどって足元をみつめながら歩くのは嫌いではない。
地面にはちいさな花が咲いているし、蟻たちが石ころを乗り越えていた。
俺はいったいなにをやっているのだろうか。
だれもいない湖では、青緑のさざなみがたっていた。

いつのまにか風はさわやかになっている。
いろんなところで植物には実がなる季節に変化していた。
花から実へと、つまり個体発生は系統発生を繰り返すということなのか。
どこからともなくいいにおいがしてきて食欲をくすぐる。
もうそんな時間になっていたのだ。
暮れてゆく空をながめていると、いろんな記憶がにじんでくる。
あったかくて薫り高いお茶がのみたいなあ、という匂いの記憶なのだった。

過ぎ去ったことは、すべて懐かしいということでもない。
旅の記憶も楽しいことばかりではない。
喧嘩別れのようなことも多々ある。
あとからあのときこうしていたら、と悔やむこともあった。
しかし、時はとまることなくすぎさっていった。
それでも旅していろんな自然、町、人と出会えてよかった。

だけどやはり思う、「サヨナラダケガ人生ダ」なのだ。

N8305女性


旅のこころ
クライド・クラックホーンの著書に「人間の鏡」がある。
アメリカ人だから、人類学ではなく文化人類学である。
他人を見るとき、そこにはある意味自己が投影されているといわれる。
「ひとの振り見て我が振り直せ」ということである。
あなたが誰かを嫌うと、相手もあなたを嫌う。
そのまた逆も真なり、という。
もちろん、なんにでも例外はあるということを忘れてはいけない。

文明と文化はちがう。
なにがちがうのか、案外よくわかっていなかったりする。
エジプト文明、インダス文明などある。
アメリカ文化、ヨーロッパ文化などという使い方をする。
文化には高尚なものという意味はない。
文化は行動様式のことだと社会学で習った記憶がある。
文化は多様で正しいとかはないと、いまでもなぜかよく憶えている。
キモノを着る、下駄をはく、箸をつかう、トイレの後紙でふく、これらすべてが文化である。

横道にそれるが、文化住宅というものがあった。
つまりアパートメント、集合住宅なのだがちょっと高級感をあたえていた。
フランス語ならアパルトマンになる。

ことばはすぐに錆びる。
で、別のもっと活きのいいものに取り替える。
これでしばらくは安泰だ。

そういえば、「旅行」と「旅」ということばがある。
どちらもおなじような意味だと思うが、ニュアンスが異なるらしい。
団体であるいはパックツアーは「旅行」。
ひとりで、あるいは少人数で予定も決めないでするのが「旅」だとか。
だから、「団体旅行」はあるが「団体旅」はない。
「ひとり旅」とはいうが「ひとり旅行」とは言わない。
どちらでもいいと思うが、こだわってもかまわないんじゃないか。
考えているうちに、なにか閃くものがあるかもしれない。

「ひとり旅行」って、なかなかいい感じがする。
これからの時代「ふたり旅」なんてのもあるのかなあと夢想する。
「ことば」は時代とともに変遷する。
移ろいやすいのは人の世の常でもある。

N8009西門紅楼

ひとりとふたり、ヒトはいつも交差する。

  二人デ居タレドマダ淋シ、
  一人ニナツタラナホ淋シ、
  シンジツ二人ハ遣瀬(やるせ)ナシ、
  シンジツ一人ハ堪ヘガタシ。

詩集「白金之獨樂」の最後のほうにある「他ト我」である。
旅をするなかで、ひとり空を山を島をながめているときがある。
するとこの白秋の詩がうかんでくる。
ときどき、この二人と一人がどっちがどうだったかわからなくなる。

わたしの感覚は、一人より二人のほうが遣瀬ないし堪えがたいのではないかという。
それがまたわたしの孤独をきわだたせている。

一人という概念は、二人以上いなければ成り立たない。
つまり、一人しかいなければ「ひとりっきり」なんて意味がないのだ。




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Author:ムッシュ
島を旅するときが楽しいですね。
遠くに眺めるのも好きです。
楽園なんてないんですけどね。

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