ムッシュの読書紀行
人生は旅のようだと言いますが、旅が人生かも知れません。 ぼくは活字中毒気味でもあり、旅はまだまだ続くでしょう。
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なかよし三人組
朝、駅への道すがら中学生が登校していく姿をみる。
女子三人がじゃれるように笑いあいながら歩いていく。
車道をはさんで反対側からながめる。

なんだかやけに楽しそうではないか。
こちらまでなにやらこころウキウキする。

ふと思う。
こういう場合、どうしていつも三人なのだ。
確かにふたりだとなんとなく息苦しい。
四人になると二組に分裂してしまうこともある。

トリオはデュオにくらべて奥行きが増すと思う。
だが三人だとおたがいの位置関係を忖度しないといけない。
人間関係のトレーニングになるわけだ。
トライアングルは微妙なこともあるだろう。
いわゆる三角関係だ。
バランスがむずかしいが、そこを乗り越えていくんだ。

高校生のころ読んだ本にあった。
「仲良きことは美しき哉」(笑)。

N8363色づく


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ことばの裏側
多くの人は、ことばは意味を伝えるものだと思っている。
では、ことばにはかならず意味があるのか。
あるでしょう、とおっしゃる。
(無意味も意味のうちと言えなくもない)
その意味ってことばひとつに、ひとつですか。
うーん、そうでもないかな、と思うでしょ。

まったく正反対のことを意味する場合がある。
たとえば、
「けっこうです」
必要ないです、いりませんという場合。
いいですね、グッドという場合。
書くとおなじだが、話すとまったく逆もある。
(文脈、場によって変化する)

書き言葉と話し言葉はおなじだと考えてはいけない。
というより、なぜおなじだと思えるのか。
よくよく考えると不思議だな。
そんな疑問もたいていの人にはピンとこないらしい。

視覚言語と音声言語との対応は恣意的なものだ。
「(現実の)猫」が「ネコ(という発音)」である必然性はない。

N8388消防信号

ことばはコミュニケーションの手段だ、という。
話しているとき、ことばだけでコミュニケーションをとっているのか。
そうではない。
身振り手振り、イントネーション、表情などいろいろつかっている。
眼を閉じると、全然感覚がちがっているのがわかる。

恋人同士がだまって見つめあっているとき。
おばあさんが縁側でネコをなでているとき。
こどもがイヌといっしょに走り回っているとき。

なにが起こっているのだろうか。
コミュニケーションは成立していないのだろうか。
そんなとき、ことばってなんだろうなと考えるのだ。

「そんなこと考えてなんになるの」
「なんにもなりませんが、それがなにか(笑)」
(なんでもなにかのため、っていう思考がどうよ、と思うのであります)


大教室で読書
大学の一般教養の授業はそれこそ大教室でおこなわれる。いちばん遠くの席からは教授の姿もちいさ
くしか見えない。おとなしく静かにしていればたいていの先生はなにも言わない。それをいいことに
自分の読みたい本をその席で読んでいることがよくあった。ときどき授業の話も聞く。やっぱり興味
がもてないや。また手元の本にもどってゆっくりと感情移入の世界にはいりこんでいく。読みながら
もあれこれ考えているのだ。バイトのこと奨学金の支給日まであと幾日あるのかとか。そろそろ、ど
こかに行きたいな。旅の資金はなんとかなるのだろうか。不思議と勉強のことは考えなかったように
思う。日々生きること、読書することが人生における勉強ではないかと、強弁的に理屈づける。そう
考えることの姑息さを知りながらもそうせざるを得ない自分に嫌気がさす。旅は逃避ではない、とは
言えない。学校からも社会からも自由からさえも逃避したくなる自己を意識し続ける日々だった。

N8394ひこうき雲

「靖国史観」 小島毅 ちくま新書 ★★★★
中国と韓国がいつも政治的にとりあげてくる靖国問題とはなんだろうか。これを小島教授に解説して
いただこう。まずはこうだ。
『「靖国神社の思想的根拠は(神道というよりは)儒教にある」。これが私の学説である。』
えっと思われる方は案外多いのではないか。では、どういうことなんでしょうか。
『私は靖国問題とはすぐれて国内的な問題だと考えている。このことがどこまできちんと認識されて
いるのか心許ないが、靖国神社は「日本国のために心ならずも戦場で散った人たちを追悼する施設」
なのではない。あくまでも「天皇のためにみずから進んで死んでいった戦士を顕彰する施設」なので
ある。ここには「朝敵」は祭られないので、戊辰戦争や西南戦争の「賊軍」側の戦死者は対象になら
ないのだ。「英霊」とは「官軍」の従軍者にかぎられるのである。』
これでまた、えっと思うのだ。そうなんですか。ほんとうにという思いが残る。では、順に小島氏の
学説をとどっていこう。まずそのまえに、戦時中によくでてくるキーワードに「国体」ということば
がある。笑い話のようだが、大学入試にこの手の問題がでてくると相当程度に国民体育大会のことと
いう答えがでてくる。もちろんそうではない。国体とは「日本に神代から続く不変の政治秩序」のこ
とである。戦時中なら常識である。共産党が作り上げた左翼用語なら「天皇制」がこれに相当するの
だが、これはなにを意味しているのか。この思想的起源は水戸藩の国家的プロジェクトである「大日
本史」に端を発する。この編纂は百年以上にもわたった。その編纂にもかかわった会沢正志斎が「新
論」で国体の本義を述べている。
『したがって、彼の国体論のなかで肝心なのは、その政治体制が天皇を頂点にいただいているか否か
という狭義の政治的次元ではない。天皇が君臨していようとも、彼が勝手に振る舞うならば、それは
国体に反する行為なのだ。
 国体とは、単に天皇を君主として仰ぐ体制ではない。
 そうではなく、「天祖の神勅」を奉じる天皇を君主として仰ぐ体制なのである。「三種の神器」の
象徴性・重要性はここにある。正しい戦争は、そうした「神の命を受けたもうた」天皇の軍隊が、ま
つろわぬ敵どもをなぎ倒していくことをいう。
 それは宗教的熱狂に駆られた狂信的な集団を意味するわけではない。あくまでも祭祀にもとづいて
神の意向と威光のもとに戦う軍隊である。』
なんだかわれわれがなんとなく理解していたものとはちがう気がする。じゃあ祭られている英霊って
どいうことになるのだろうか。
『靖国に祭られる英霊とは、天皇の名のもとに戦った(ことになっている)陣没者や天皇のために政
治的に犠牲になった人たちのことである。
 「天皇のため」であって「日本国のため」ではない。
 たしかに明治以降、天皇は日本の元首であり、彼のために戦うことが日本のために戦うことである
と一般的に認識されていた。少なくとも政府見解がそうであった。しかし、それは政府側の政治的立
場にすぎない。
 たとえは極端なほうがわかりやすい。これはどうだろうか。
「天皇制国家」を打倒して人民のために国を作ろうと考え、そのために戦って獄死・刑死した人がい
るとする。(「いるとする」どころではない。明治末年、大逆事件の幸徳秋水に始まって、昭和二十
年、敗戦直後の三木清の獄死にいたるまで、その例に事欠かない。)この人は主観的には「日本国の
ために(悪い政府と)戦った」のではなかろうか?
 もちろん、彼らは靖国の英霊にはなっていない。なぜか。天皇に逆らったからである。
 同じ理屈で、いまでは誰もが肯定的に語る明治「維新」の大立者が、戦死(厳密には自刃)したに
もかかわらず、英霊になっていない。西郷隆盛である。彼は西南戦争の賊軍だからだ。』
うーん、これって中韓は理解してないというか、無視していますよね。
『古今東西、君主や種族のために戦死した者を顕彰・慰撫する祭祀や施設は数多い。一般論としては
靖国その範疇に属す。なにも特殊な存在ではない。
 だが、哲学的・社会人類学的にではなく、歴史的に考察した場合、靖国神社とは、以上述べきたっ
た水戸学的死生観・倫理観によって誕生した施設だということが許されよう。
 靖国問題を真摯に語る者のあいだではすでに常識化していることだが、日本古来の風習から自然発
生的に生まれ育ってきた信仰形態では、断じてない。それを神道と呼ぶのは現在の宗教教理として自
由だが、歴史学的には間違いである。靖国は特殊なのだ。』
靖国神社はもちろん国営ではないし、単なる宗教法人でもあるんですがね。
『討幕派諸藩だけではない。佐幕派の会津藩出身者であろうとも、西南戦争や日清戦争で天皇のため
に戦えば英霊になれた。彼らもまた「日本人」だからだ。
 その後、「日本人」はさらに拡大する。琉球・台湾や朝鮮半島で生まれ育った、エスニック的には
ヤマトの属さない人々も、ロシアや中国・アメリカ相手に戦死すれば立派な英霊である。天皇の錦の
御旗のもとに集う者はすべて「日本人」なのだ。
 だが、ヤマトに生まれ育っても、「維新」という御大業に逆らった者たちのように、天皇に反抗し
た連中は英霊になれない。
 それでもあなたは「この神社にはお国のために戦った人たちが祭られている」という主張に同意し
ますか?』
こういうこともいま一度考えてみるのもいいかもしれない。もちろん小島氏の論だということを忘れ
てはいません。しかし、小島教授の話はおもしろいですね。眠気さめます、はい。

「人間はどこまでチンパンジーか?」 ジャレド・ダイアモンド
                   長谷川真理子・長谷川寿一訳 新曜社 ★★★

まず原題を紹介しておこう。「THE THIRD CHIMPANZEE」これでは売れない、と判断したのかどうか。
なんとも陳腐な日本語書名になった。出版社の方もなかなか大変である。ヒトとチンパンジー(いま
ではピグミーチンパンジーとコモンチンパンジーが知られている)のDNAを比較すると98.4パ
ーセントはおなじだ。おまけに血液の赤い色をもたらしているタンパク質のヘモグロビンは287の
単位からなるがまったくおなじだ。だったらヒトは三番目のチンパンジーといえるのではないか、と
いうところからこの題名がついている。だがこの1.6パーセントの違いがちいさいとみるか、それ
が決定的だと考えるかで立場は変わる。しかしダーウィンがいったように、すべての生命は同根だと
考えれば気にすることはない。いやいや、そう考えることはできない。人は神が作りたもうた、とい
う人たちだっているわけだから。というようなことを考えていると、では生命っていったいなんだと
いうことにもなってくる。
『バクテリアから人間に至る階梯のどこかで、私たちは、殺しが殺人に、肉食が食人になる線を引か
ねばなりません。普通は、それは人間と他のすべての動物との間に引かれています。しかし、世の中
には菜食主義の人間もたくさんいて、そういう人たちは動物を食べるのを好みません(しかし植物は
喜んで食べますが)。また、まだまだ少数ですがだんだん増えている動物の権利の運動にかかわって
いる人たちは、医学の実験に動物を使うこと、少なくともある種の動物を使うことに反対しています。
この運動はとくに犬、猫、霊長類に対する医学実験を糾弾していますが、ネズミにたいしてはそれほ
どでもなく、昆虫やバクテリアに対する実験には何も言っていません。』
人の認識は分けることだ。違いをつけていくといってもいい。クジラは駄目だが牛はいい、というよ
うに。この問題はなかなかむずかしい。そういうことを考えるのに本書はいろんな視点を与えてくれ
る。それから先は自分で考えるしかない。もうひとつの問題提起は新鮮だった。第10章 農業がも
たらした明と暗、がなかなかに考えさせられる。
『とくに最近の発見によると、私たちがよりよい生活へと踏み出す決定的な一歩であったとされてい
る農業(と家畜の使用)が、実際は、向上への記念碑であると同時に諸悪の始まりの記念碑でもあっ
たことがわかってきました。農業の始まりとともに食料生産量が増え、食料の貯蔵が可能になっただ
けではなく、社会的性的に大きな不平等、疫病、専制政治など、現代の人類を悩ませている諸々の悪
も始まったのです。』
狩猟採集生活から農業に移行したことによって生活が安定し寿命ものび余暇ができ芸術も生み出され
たと思っていませんか、と著者はいう。その反証的事実がつぎつぎに紹介される。
『ブッシュマンの1日の平均食物摂取量は2140キロカロリー、タンパク質93グラムで、小柄で
すがよく活動する人たちにとっての1日の必要量をはるかに越えています。狩猟採集民は健康で病気
もほとんどせず、多様性のある食事を楽しみ、少ない種類の作物に依存している農民を定期的に襲う
飢饉の心配もありません。食用植物85種を利用しているブッシュマンにとって、飢えて死ぬことは考
えられないことですが、1840年代のアイルランドでは、主要作物であるジャガイモがやられると
100万人の農民とその家族が飢えて死んだのでした。』
農業のツケは栄養失調、飢饉、伝染病などいろいろな面であらわれている。まあ、明と暗ですから、
決していいことばかりではなかった。ここに書ききれませんので、このあたりの詳しいことは実際に
読んでいただきたい。かなりの分量ですが、読み応えありますよ。


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丹波焼陶器まつり
以前は「立杭焼」といっていたはずなんだが。
やはり丹波のほうが名のとおりがいいんでしょうか。
丹波立杭焼との言い方もあるようです。

天気もよさそうだし、ひさしぶりに行ってみよう。
開催の時間はネット情報上にはっきりとは書いてなかった。
まあ9時半ごろに着けばいいかと思っていたが、これがおおはずれ。
すでに会場近辺の駐車場は満車、満車のオンパレード。

「だから早く行かなきゃって言ったのに」
(えっ、着る服がないとかぐずぐずしてたと思うけど)
「ちっともひとの言うこと聞かないから」
(申し訳ありませんでしたね)
「わかってるの」
「ごめんなさい」
(バトルは続くよどこまでも)
とまあ簡潔に書けば以上のようなことがあり。

ぐるっと迂回してはずれの工場敷地の指定駐車場にやっと停める。
そういえば、もう六年前にきたときもここに停めたのでした。

運よくやってきた無料巡回バスでメイン会場へ移動します。
着くなり、えっと思った。
ここから別会場への巡回バス待ちがすでに長蛇の列なのだ。

まあとにかく会場内の窯元のテントを見て歩く。
すでに気温が上昇してきて暑いくらいの陽気になってきた。
「カネト窯」でなかなかいい感じのコーヒーカップを見つけた。
都会的でシンプルな色使いがいい。

N8397丹波焼のコーヒーカップ

陶の郷への巡回バスに乗りこむのに小一時間ちかく待った。
昼近かったが、来訪者の車はどんどんやってくる。

こちらの会場もたくさんの人手でにぎやかでした。
広場のお店で買ったもので食事をすませる。
さて、ぶらぶらと窯元めぐり。
みなさん、たくさんの袋をさげておられる。
用意周到者はリュック背負いである。
なんだか戦後の買出し風景のようにもみえる。

N8383観光大使

N8390カネト窯

かみさんもなにやかやと皿や器を買っていましたね。
コーヒーを飲んでひとやすみ。
最後に丹波の黒豆の枝豆を買う。
枝つきの一キログラムで800円なり。
これがうまいのである。
あ~、はやく帰ってビールとともに食べるのが楽しみです。

とにもかくにも、おだやかな秋の一日でありました。


タイカンの差
すっかり秋模様になって人々の装いも変わってきた。
日によっては薄手のコートがほしいと思うような気候になった。
朝の電車で寒くなったなあとポケットに手をつっこんでいた。
ところが着いたホームには半袖Tシャツの男性がいた。
しかも中年だ。
ちょっと意外な気がするが、元気そうでいいと思う。

駅から職場へむかう途中で小学生の集団にであった。
どうやら遠足にでも行くのだろう。
見ると、彼らの半数ほどはTシャツだった。
やはりこどもは元気溌剌なのだ。
新陳代謝が活発で体内に熱エネルギーがあふれている。
だから、スリムなんだろうな。

N8395すすき

体感もそれぞれであり、さまざまなのだ。

人の価値観も同様である。
なにを人生の指標とするかも千差万別。
なにが正しくて、なにが誤りかはむずかしい問題だ。
すべてに正解というものがないのだということはいくども経験してきた。
また、それが理解できない人たちのいることも知った。
このようなことって文化・教育・環境からくるものなのだろうか。
案外、体感の違いからくるのかもしれない。

住む地方によって気候・温度には相当な差がある。
あたたかいと寛容で、寒いと厳しくものごとを考えるなんてこともあるのか。
さあて、耐寒力の差がでてくるのか。


実験室で読書
大学は文学部の教育学科にすすんだ。その前に三年とすこし社会人として電気関係のいまでいうコン
サルタント会社に勤めていた。教育学科には教育学と心理学の二コースがあった。わたしは心理学を
専修した。学科には実験室とよばれている部屋があった。建前的には心理学の実験室である。学園紛
争さなかのころ休講もおおかった。高校のように自分たちのクラス(部屋)がないから、行くところ
に困ったが、教育学科には実験室があったのだ。狭い部屋におおきな机と卒業生から贈られたという
水屋があった。そこにコーヒーカップとインスタントコーヒーが誰知らずいつも備えられていた。ク
ラブの部室のようでもある。片隅ではアジビラだろうか、ガリ版をカリカリ切っている連中がいる。
雑然とした空気がこれが大学というものなのだと感じさせた。いや、そう思ったのだ。教わるより自
分で考える道をこれからは歩いていかなければならない、そんなことを思っていたのだろうか。

N8362秋の空

「戦争と検閲 石川達三を読み直す」 河原理子 岩波新書 ★★★
石川達三は無名のころ、同人誌に載った「蒼氓」で一九三五年の第一回芥川賞に選ばれた。高見順や
太宰治らの候補を押さえてのものだった。その彼が中央公論の特派員として中国に渡った。自ら志願
してのことだった。一九三七年、「南京陥落」を日本では提灯行列で祝っていたころだ。年が明けて、
上海や南京で日本兵らを取材し、帰国後一気に書き上げたのが「生きている兵隊」という長編小説だ。
後に「筆禍事件」として知られるように発禁処分を受けたのだ。彼は当時の政府による検閲をどう思
っていたのか。読売新聞(一九三七年九月二十一日付夕刊)の「伏字作家の弁」で以下のように書い
ている。
『作家たち評論家たちにとっては目下伏字との戦いだ。
 しかし、伏字は何も物を書く人たちばかりの話ではない。世はいまやあげて伏字時代であるのだ。
 事変に関する新聞記事はまるまるに続くまるまるで事変写真の説明などは「○○方面に進む○○軍」
では何のことかさっぱり分らない。そしてこの伏字が今は一種凄愴な感じを与えて一つの効果をさえ
もたらして来た。
 わからないことは気にかかる。気にかかるというのは一つの魅力だ。』
筆者はこの文章をあげ、「検閲に異議をはさんでおらず、後世の人間としては少々疑問を感じる」と
書いているが、それは少々酷であるような気がする。その時代のなかにあって、しかも検閲のある新
聞になんと書けばいいというのだろうか。それよりも慧眼だとさえわたしなどは思う。そして敗戦を
経て連合国総司令部(GHQ/SCAP)による占領政策で、新聞紙法、国家総動員法などの制限法
令は廃止を日本政府に命じる。高見順はそのとき「生まれて初めての自由!」なんどと興奮して日記
に書いている。しかし三日で夢から醒める。「十月三日 東洋経済新報が没収になった。 これでい
くらか先日の「恥かしさ」が帳消しの感あり。アメリカが我々に与えてくれた「言論の自由」は、ア
メリカに対しては通用しないということもわかった。」(『敗戦日記』)
『××や○○や空白を残すことを、GHQは許さなかった。新聞や出版物の検閲をしているというこ
と自体が一般の人には伏せられていた。言論表現の自由を掲げているのだから、検閲の痕跡を紙面に
残してはならないのだ。力の痕跡を残した戦前の検閲よりずっと巧妙な、“見えない検閲”だった。』
いま現在の日本には検閲制度というのはない。しかし、テレビやマスコミの自主規制という名の行為
はどう考えればいいのか。まだまだジャーナリズムが育っていないのかな、と思ったりする。

「不明解日本語辞典」 高橋秀実 新潮社 ★★★★
高橋氏は当初「ヘンな日本語」をテーマにする予定だったとか。だが、いろいろと考えているうちに
あることに思いあたった。「言葉には意味がある」という思い込みだ。だがよくよく考えてみると、
「言葉には意味がある」ではなく「言葉は意味をなす」のではないか。言葉を発することで意味を「
なす」のだと。その思考の軌跡が本書なのかもしれない。まず、【いま】とは。
『何事も疑い始めるとキリがないのだが、私が「生きている」ことだけは間違いないだろう。生きて
いるからこうして原稿を書いているわけで、読む人も生きているから読んでいる。そう考えると「生
きている」はすべての前提になっているわけだが、この「生き」はもともと「いき(息)」に由来す
るらしい。「生きている」は「息している」。昨今、生きる意味がわからない、などと悩む人も多い
らしいが、「生きる」が「息する」ならその意味は説明するまでもなく、深呼吸すれば味わえるので
ある。』
現代は生きるということをむずかしく考えすぎる傾向がある。ある意味、しあわせな時代なのだ。高
橋氏はこんなことばかりを考えているわけではない。【ちょっと】などよくつかう言葉だ。
『「ちょっと」はちょっと難しい……。
 どうにも意味を確定できず、私は溜め息をついた。そこでなにげなく明治時代の和英辞典『和英語
林集成』(J・C・ヘボン著 講談社学術文庫 1980年)を手に取ってみたところ、「ちょっと」は
こう訳されていた。

 a moment

 そうだったのか、と私は合点がいった。「ちょっと」とは、いうなれば「pause」。言葉というより
「一拍置く」という合図だったのではないだろうか。「ちょっとこわい先生」「ちょっと困る」など
も、一拍置いて「こわい」「困る」と言うから、さらりと「こわい」「困る」と言うより解釈の幅が
広がって不安になる。「ちょっと話がある」「ちょっと遅刻する」もわざわざ一拍置いて宣言するく
らいだから、長時間に及ぶ。命令文もきっとそうだ。「ちょっと」と一拍置いて命令すれば、当然命
令も厳しくなる。駐車場に車を誘導する際に「ちょっと右」などと言うが、右にハンドルを切る際、
「少し右」と指示されてそのままハンドルを切るより、一拍置いてハンドルを右に切ったほうが、落
ち着いて停車できるのだ。
 私たちは常に一拍置きたいのではないだろうか。』
なかなかに含蓄のある考察だと思う。思考が自由だ。【普通】も日常よくつかう。わたしなども根が
ひねくれているからか、つい「普通ってなに」と反問してしまう。
『言葉に鋭敏なはずの芥川賞作家、田中慎弥さんも『週刊朝日』(2012年3月2日号)のインタビュー
でこう答えていた。

  結婚ですか? 命懸けで小説を書いているのに、そんな普通の人生でいいのでしょうか。

 普通って何だ?
 私は問い詰めたくなる。結婚生活だって命懸けである。女性が出産するのも文字通り命懸けで、そ
のおかげであなたも今そこにいるのではないか。もしかして「普通」とは「興味がない」ということ
を含意しているのか。興味がないなら興味がないと正確に表現すべきで、文学者ならそのくらいの謙
虚さは持つべきだろう、普通。
 あっ、「普通」って言っちゃった。
 私はひとり苦笑いをした。「普通」を否定しようとすると、なぜか「普通」に戻ってしまうのであ
る。そういえば、近代批評の礎を築いたとされる小林秀雄も講演などでよく「普通」を批判していた。
「文士というのは口が達者なだけだ、というのが世人普通の考え方であります」(「文学と自分」/
『無常という事』角川文庫 昭和29年)などと。普通はそうだが、考えたり語ったりしてみるとそう
ではないことがわかるはずだという論旨なのだが、そうではないというのが熟考における「普通」だ
と訴えているようで、やはり「普通」に戻っている。察するに「普通」の反対は特殊で、特殊なまま
では人に伝わらないので、同意を得るべく別の「普通」に着地してしまうのだろうか。いずれにせよ
「普通」には意味を超えたブーメラン効果のような作用が潜んでおり、その対義語もやはり「普通」
のような気がするのである。』
哲学的ななかにもユーモアが潜む。高橋氏の文章にはまさに、故桂枝雀がよくいっていた「緊張と弛
緩」がある。だからいつも電車のなかで読みながら笑ってしまって困っているのだ。


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秋の空
暑さがすっかりどこかへ去ってしまったようだ。
そういえばもう十月である。
神無月といったりする向きもある。

近頃は四季のうちで夏が一番存在感がある。
五月ころからもう暑さがつのってきて、九月いっぱいまで続く。
日本は温帯だといわれていたが、亜熱帯ではないかと思わせるほどだ。
だが、秋は実りの季節だ。
今年の作柄はどうなんでしょうか。

秋の日はつるべ落とし。
空をながめていたらいつのまにか夕暮れがちかづいてきていた。
夜になったら、やっぱり芋焼酎の湯割りですな。

空には上弦の月が出ておりました。

8367下弦の月


朝の儀式
駅のベンチに腰掛けて向かいのホームをなんとはなしにながめる。
壁の鏡に対面してみだしなみに余念がない女性がいた。
髪をさわり、襟元を正し、なにかつぶやいているようだが立ち去る。
かと思いきや、きびすを返してまた鏡の前にもどってくる。
未練断ち切れずといった面持ちだ。

ふと思う。
これは身だしなみなどではない。
朝の儀式なのだ。
そういえば、いつもおなじ女性じゃないか。

想像する。

これから職場にへ行く覚悟をもつのだ。
落ち着いてがんばれ自分、と鏡にいっている。
よしと頷いて、でもまたちょっと迷ってもどる。
弱気になっちゃだめだ。
だいじょうぶ、きっと今日一日がんばれる。

ある種のイニシエーションなのかもしれない。

考えすぎだろうか。

N8353フウセンカズラ

 朝の駅で ふと鏡に映る自分を見た
 疲れているよな 自信なんかないんだ
 人はなんのために生きるのか
 だれかを愛することがあるのか

 窓のそとを 鳥が飛ぶのを見た
 渡り鳥だな どこまで行くのかは知らない
 人はだれのために生きるのか
 だれかを愛することがあるのか

 暗い夜空に ひとすじの流れ星を見た
 祈ればいいんだ 願いが叶うという
 人はなにを生きるのか
 だれかを愛することがあるのか


なんて歌詞を書いてみた(笑)。


居酒屋で読書
いまでもそうだが、いつも一冊は本を持っている。時間が空けばいつでも読書できる体制になってい
る。案外ほんのすこしの時間のほうが読めるものなのだ。逆に時間がありすぎると読めなかったりす
るのだ、わたしの場合は。ガールフレンドといっぱいやっているときに彼女が洗面所にでもいけば、
文庫本などひらいて読んだりする。もどってきて、「なにを読んでいるの」とたいてい聞く。「いや
ねえ、こんなところで本なんか読んで」とは言わない。言うような彼女だと長続きしない。というか
そんなに何十人ともつきあった経験はない(笑)。で、なんの本かだ。「オリバー・サックス」とい
うと、「わたしはハロルド・クローアンズが好き」「ところで、きみは?」「いまは茨木のり子よ」
「おれは石垣りんのほうが好きだ」「そんな感じがする、あなたは」と言って、ふたりで笑ったりす
る。そんな彼女がいれば理想的なんだが、理想だからいまだに実現も経験もしていないのである。

N8355実りの秋

「インフォームド・コンセント 消えた同意書」 ハロルド・L・クローアンズ
                          鴻巣友幸子訳 白揚社 ★★★

ハロルド・L・クローアンズはシカゴの大学で神経学・薬学教授をつとめる神経内科医である。そん
な彼がミステリ仕立ての小説を書く。これで二冊目になるということだが、すでにベストセラー作家
の地位を築いている。書名にあるインフォームド・コンセントだが、アメリカで生まれた考え方で、
「十分な説明を受けた上での同意」と言われている。医師と患者の関係のなかで、医師は治療法や薬
の内容について、患者に十分な説明を施し患者の同意を得たうえでそれを実行するという考え方だ。
もちろん、これはアメリカでの医療訴訟が非常に多いということがあるからだ。患者に十分な説明を
せずに治療なり手術をおこない結果が悪かった場合、訴訟に持ち込まれ敗訴することが多かった。そ
うした事態を避けるため、アメリカでは医師が患者にしつこいほど治療内容や薬について説明を施し、
同意を得るというのが一般化するようになった。こういう背景があっての本書だが、近年は日本でも
そういうことに注意がそそがれている。それを主題にしたミステリを現役の神経内科医が書くという
のはどういう意味があるのだろうか。彼は神経内科医の診療技術はいかにして学びとられるかという
ことを書きたかったと語っている。しかしそれでもこのようなユーモアも文中にこめている。
『「ひとまず、アーテンの投与をはじめるというのはどうでしょう」
「なぜ、アーテンを?」
「効くからですよ」
「それはそうだろうが、どうして効くとわかる?」
 どちらもその答えは出せなかったので、ポールはふたりにあとで調べるようにといって、論文をふ
たつほど紹介してやった。ひとつは、ロンドンのディヴィッド・マーズデンによる論文。もうひとつ
は、タナー、ゲッツ、およびクローアンズによるもの。両方とも、≪ニューロロジー≫誌に発表され
たものだった。前者のほうが優れていたが、ポールは後者のほうが論旨がきれいにまとまっていると
考えていた。』
ハロルド・L・クローアンズはなかなかちゃめっけのある人物であるらしい。でも小説より臨床記録
的読み物のほうが、わたしは好きである。

「人間って何ですか?」 夢枕獏 他 集英社新書 ★★★★
作家の夢枕獏氏が各界最先端の方々との対談集。その分野は、本書によれば脳研究者、宇宙物理学者、
考古学者、生物学者、宗教学者、海洋生物学者、幹細胞生物学者、そして芸人であり映画監督の方。
まずは池谷裕二さんの発言をみてみよう。
『クリエイティビティとかイマジネーションの力は、記憶力と比較的反比例するとよく言われていま
す。なぜかと言うと、記憶力がむちゃくちゃいい人は想像する必要がないからです。』
これ教育者の方はよく憶えていて、アドバイスにつかってください(笑)。さて、私とは。
『私は、生物学者として精神と物質の不可分性を謳う一元論の立場をとる必要がありますから、それ
に従ってお答えしたいと思いますが、一方で、“私”というのは物なのかと言われると微妙です。例
えば、車のスピードというのは物なのかという質問と似ていると思います。車が動いている状態に付
随してくる状態がスピードですよね。“私”とは、おそらく「速さ」に似た概念だと思います。車を
分解していってもスピードという概念はどこにも出てこない。それと同じことで、脳が神経活動して
いる状態のことを“私”、あるいは心だと言えるのではないでしょうか。』
ことばにすると実体があるような気になるものだ。池谷氏がいうように脳が神経活動している状態の
ことが「私」だとすると、来世に生まれ変わるというのはかなりの確率でむずかしくなるかな、と思
ったりする。そして宇宙について、エントロピーが増大、つまり無秩序へ向かっているというが。
『無秩序な世の中に向かうには、渦という秩序を部分的に作った方が全体としては速いですよと。
 そこで生命とは何かという問いに戻りましょう」。答えは、多分それなんですよ。生命は渦です。
宇宙はビッグバン以降、全体のエントロピーがどんどん増大しているのだけれども、もっと速く無
秩序にするには、局所的に生命のような秩序を作っておいた方が、宇宙が速く老化するんです。』
『私たち生命は宇宙を効果的に老化させるために存在している。』
これには夢枕さんも大興奮であったが、池谷氏の話はいつもおもしろい。もうひとつ最後にビートた
けし氏の禅宗の坊さんのような発言でおしまいにしましょう。そうだよな、と私も思います。
『基本的には、人は生まれてきて死ぬだけなのだと思うんですが、身体があるからそういうわけにも
いきません。酒を飲めばうまいし、快楽だってある。生きている間にはいろんなことがあって、それ
なら無理やり欲望を追いかける必要もないけど、無理に避ける必要もないだろうと思いました。どう
したって歳はとるし、どうせくたばることには間違いないから。』


テーマ:最近読んだ本 - ジャンル:本・雑誌

花と虫
女性はおおむね花が好きなような気がする。
いろとりどりに咲く花はきれいだなあと思うしこころもなごむ。
ご家庭の庭やベランダで花を育てる方もおおい。
しかし花は好きだが虫は嫌いだと多くの女性はいう。

花はなぜ美しいかというと虫をおびきよせるためだ。
おまけに蜜というご褒美もあり準備万端でまつ。
理科の授業で習ったように、やってきた蜂などの虫に受粉を媒介してもらう。
そして実がなり種子ができ次世代へとバトンが継がれる。
ギブ・アンド・テイクというわけだ。

DSCN8348.jpg

理屈ではわかっている。
でも虫は嫌いだし嫌なのとおっしゃる。
なぜなんでしょうと問うと。
毛むくじゃらだったりして気持ちが悪いという。
(これって人にするとセクハラ発言?)
それにブンブン飛ぶし刺したりするから怖いでしょ。
(虫のほうが脅威を感じていると思うけど)

虫とヒトを比較するとヒトが圧倒的におおきい。
小さいものは大きいものを恐れる。
だが、なぜ巨大な女性がちいさな虫をおそれるのか。
それがよくわからない。
ヒトにアプリオリのものなのか。
たとえば、サルがヘビを恐れるように。

だって嫌いなものは嫌いだと。
同語反復で説明になっていないのでは。
世のなかのすべてが説明できるものではないでしょ。
仰せのとおりです。

願わくば、虫は無視してください。




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島を旅するときが楽しいですね。
遠くに眺めるのも好きです。
楽園なんてないんですけどね。

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