ムッシュの読書紀行
人生は旅のようだと言いますが、旅が人生かも知れません。 ぼくは活字中毒気味でもあり、旅はまだまだ続くでしょう。
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屋台で読書
残業で遅くなったときにときおり行く屋台があった。常連ということではないが、おやじさんはぼく
のことを憶えてくれているようだった。いつもおでんを三品、大根、じゃがいもとタマゴが定番だ。
熱いのをフウフウいいながら食べているぼくをあたたかく見守っていてくれる感じだ。お酒は熱燗を
一杯だけと決めていた。飲みすぎると帰りの電車で乗り過ごしてしまうからだ。長椅子の隅で、他の
酔客の話をなんとなく聞いているのが好きだった。あるときどうしても続きが読みたい本があった。
すこし読んでいてもいいですかと聞いた。「ああ」と軽く頷くだけだ。無愛想というのでもないが、
口数はすくない。ときおり風のぐあいで電車の音がきこえてくることがある。そんなとき、おやじさ
んは空をあおぐようにしてなにかを懐かしむような顔になる。若いときは旅などしていたのかな。そ
う思って見ていたら眼があった。黙ってごぼう天をぼくの皿にごろんと入れて、にやりと笑った。

N8664メジロとモミジ

「日本の大問題」 養老孟司・藻谷浩介 中央公論新社 ★★★★
対談集ですが、付箋を貼るのは養老先生の発言ばかりだと後で気がつく。いろいろと気づかない観点
を理系の立場から話していただけるのがありがたいです。いつもすごいと思う。
『いまは何でも言葉ではっきりさせないといけない世の中です。子どもにも、自分の意見をはっきり
言いなさい、と教えますが、言葉は意識の氷山の一角にすぎません。脳科学者なら誰でも「意識され
ているのは、脳で処理される情報のごく一部だ」と知っています。これは客観的な事実です。
 いまの世の中に蔓延している、何でも言葉にしなければいけない、どんなことでも言葉になるはず
だという思い込みは間違っています。特にメディア関係の人は情報化、つまり言語化、映像化しなけ
れば商売になりませんから、何でも情報化できるということを暗黙の前提にしています。そうして作
られた「情報」が、フィクションでしかないことに気づき、疲れているメディア関係者もかなりいる
はずです。
 その意味するところが言葉にならない「修行」は、いまや死語になりました。現代では、座禅をし
ている人を見ても「何をやっているのだろう?」と思うだけではないでしょうか。しかし、他人の感
想などどうでもいいことであって、大切なのは本人の思いです。どういう意味があるかわからないこ
とでも、一つだけ確かなことがあります。その意味のわからない行為が、それをしている当人を育て
ているということです。大切なことは、「何の役に立つかはわからないけれども、とにかくやり続け
てみる」ということです。(養老)』
なにかの役に立つという研究から新発見があらわれたことはない。ふとした偶然の産物であったとこ
れまでの歴史が教えてくれる。ことばを操る能力だけで子どもを評価していないか。むずかしい問題
である。世のなかはそういう能力でランク付けしていることは周知の事実だ。あとは運動能力でしょ
うか。ほかにもいろいろあるんじゃないかと思いますけどね。最近アレルギーの子どもが多いですが、
こんなことを知っていましたか。
『最近、アレルギーが増えてきた理由は、腸内細菌を含めて人間を構成している細菌叢が変化したた
めということになっています。細菌叢は実にいろいろな影響を人体に及ぼします。多くの人は、薬は
直接人体に作用すると考えていますが、たとえば、痩せ薬の効果は人によってまったく違います。そ
れは、薬が腸内細菌叢を変化させることで人体に影響を与えるからです。腸内細菌叢の構成や状態は
人によって千差万別なのです。
 腸内細菌叢も一つの生態系ですから、壊れるというよりは、変化していると言ったほうがいい。歴
史的・伝統的に続いてきた、細菌叢の「落ち着き」があったのですが、いろいろな要因で違うものに
変わっていった。その原因の一つが抗生物質です。(養老)』
抗生物質の問題はこれだけではない。実に深刻な問題が隠されているんです。
『もう一つやっかいな問題があって、抗生物質を家畜にも使っているのをご存知ですか。家畜の飼料
に抗生物質を入れていますが、それは家畜が病気にならないようにするためでなく、抗生物質を与え
ると、家畜が二〇パーセントくらい太るからなのです。つまり、ある種の栄養剤として使っています。
このことで、家畜の細菌叢を変えてしまっています。弱い細菌はどんどんやられてしまいますから。
(養老)』
ヒトはヒトだけで生きているんじゃない。生物多様性とかいわれるけど、どこまでわかっていってい
るのかはなはだ疑問です。といいつつヒトはなかなか環境順応性にも優れているので、これが吉とで
るか凶とでるか。放射能とおなじで時間との相関関係もあるのでむずかしい。しかし、知ることは重
要です。知った上でのことか。知らされずになっているのか。そこがジャーナリズムの責務なんだと
は思いますが、どうも日本はそこが頼りないようです。

「脳神経学者の語る40の死後のものがたり」
         デイビッド・イーグルマン 竹内薫+竹内さなみ訳 筑摩書房 ★★★

『最近の英米の科学書では、科学的な事実の紹介の前に短いフィクションを載せるのが流行っている。
ショートショートみたいな雰囲気で読者の(科学に対する)苦手意識や恐怖心を取り去って、それか
ら本番の話に入るのだ。いわば「つかみ」である。だが、本書のように「つかみ」だけのものは見た
ことがない。』
信頼する竹内薫さんのおっしゃることだから間違いないとは思うのだが、少し不安である。だがユー
モアがあるというのは救いである。神様は死後の世界で、すべての人々を善人であろうが悪人であろ
うが、全員残らず天国に収容するということに決めたのだ。これで神様はほっと一息ついた。だが。
『まず、共産主義者たち。あの人たちったら、完璧に平等な社会を目指してきたくせに、いざ達成さ
れると、喜ぶどころか、途方に暮れちゃったんだ。なにしろ、共産主義者にとっては『神さま』なん
て存在すら完全に否定してる相手でしょ。その『神さま』の力で理想郷が実現されちゃったんだもん、
ガックリよね。
 それから権力者たち。あの人たちのプライドもズタズタ。なにしろ、他人を蹴落としても上に這い
上がるんだっていうヤル気を刺激するものがなんにもない「真の平等」システムなんだから。しかも、
左翼の連中と一緒に永久に閉じこめられちゃうなんて、そりゃ、ムカつくわな。
 ほかには、保守派の人たち。ふつうにムクれちゃうでしょ。さんざん蔑んできた貧乏人がいないな
んてねぇ。
 リベラルな人たちだってシラケちゃったわよ。自分たちが鼓舞して救い出してやるはずの、虐げら
れ耐え忍んでいる人がいなくなっちゃったんだもの。
 最後に神さま。カノジョは毎晩、自室のベッドの端に腰を下ろして、シクシク泣いているのよ。
 だって、てんでバラバラな人間たちの、たった一つ一致した意見が、これだもの――。
「平等な世界なんかクソくらえ! こんなの天国じゃねえ、地獄だ!」』
まあ、皮肉屋の神経科学者の言いそうなことだこと。読んでのちに思うことは、事実は小説よりおも
しろい。ということは、フィクションはしばしば事実よりもおもしろくない。


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夢みるとき
だれでも毎日夢をみているんだよと話していた。
そしたら、わたしは夢はみないとおっしゃる方がいた。
そうなんですか。
どうしてそう思われるんですか。
だって、見ないから見ないと言ってるの。
でもね、普通は目覚めると忘れてしまうらしいですよ。
そんな経験もないですか。
ないわよ、夢なんていいことないし。
(えっ、みてるんじゃないの)
(まあ、そういうことにしておきましょう)

こういう方は自意識万能である。
わたしが認識しないものは存在しないも同様だ。
ある意味、唯我論といえるかもしれない。
カエサルの言う、「人はみな自分の見たいものしか見ない」に似ている。

慣れてくると夢のなかで、あっ、いま夢を見ているんだなとわかることがある。
だから白黒かカラーかは意識していると記憶することができる。
どちらの場合もある。
さらに夢の続きを見ることもできたことがある。

ただそれがすべて夢だったのでは、という疑問は残る。
そこが人生は夢幻のごときものという所以なのだ。

夢みない人生なんて、あるのだろうか。

N8674ツリー


夢のなかへ
夢といえば、井上陽水の歌が聞こえてくる。
♪ 夢のなかへ行ってみたいと思いませんか、というフレーズが印象的だ。
夢はだれでも毎日のように見ているというのが通説だ。
しかし、ほとんど目覚めたときあるいはしばらくすると忘れてしまうのだという。

記憶に残る夢はすくない。
だがひさしぶりに刻印されるかのような夢を見た。

若いころの仲間たちと集まっていた。
なんだか銭湯にいるような気がする。

そのうちみんなはいなくなって、彼女とふたりになった。
なぜか路面電車のホームに立っていたが、はやくどこかへ行かないとと気が焦った。
ふたりきりになったし腕を組みたいが、誰かにみつかると嫌だなあと思いふみとどまる。

さてどこへ向かえばいいものか。
どうも東京の銀座あたりのようだが、下町のようでもある。
どっちへ行けばいいか彼女に聞くが知らないという。
東京に住んでいるだろうにどうしてなんだと疑問に感じた。

しかたがないないなあ。
そのとき、通りの向こうのガラス窓にふたりが映っていた。
それを写真に撮ろうとするが、なんどやってもなぜかシャッターがおりない。

そうこうしているうちにカメラフリークらしき女が近寄ってきた。
これはコンデジだから、そんな専門的な話はできないというのになおも近寄ってくる。
ふたりのあいだに割り込んで邪魔をしようというかのようだ。
とにかく写真を撮ろう。
ああ、シャッターがおりないと格闘しているうちに目が覚めた。

もっと夢のなかにいたかった。
で、彼女って誰なんだ。
それがわからないのだった。

夢って理不尽でもある。

N8651サンタ


ジャングルジムで読書
鉄パイプにもたれながら陽をあびて本を読む。熱が体の奥まで伝わっていくような気がする。熱は分
子の運動だという。「ヒトっていくつぐらいまで生きられるんですか」「生物学的には、まあ百二十
年ぐらいが限度らしいよ」「そうなんですか」「長生きしたいのか」「いえ、そうじゃないですけど」
「死なないとなったら、困るよな」「なにが問題なんですか」「だって、あふれてしまうじゃないか」
「そうですよね、次から次から生まれるだけで死ななけりゃね」「うまいことなってるんだよ」「次
世代のためですもんね」「それが死ぬ意義ってのか」「そこまでは思わないですけど」「バッタなん
て増えすぎると共食いするからな」「そうなんですか」「戦争なんて、ある意味共食いの機能を担っ
てるのかと思っちゃうよ」「人口増の圧力を抜く弁なんですかね」「まあ死があるから生きる意味が
あるんだろうな」「死がないと、しがない人生です」読書は答えを得るものではない、のだろう。

N8669茨木童子

「にっぽん音吉漂流記」 春名徹 中公文庫 ★★★
天保三年、旧暦十月十一日(一八三二年十一月三日)に千五百石積の尾張回船・宝順丸は江戸をめざ
して鳥羽港を出帆した。遠州灘で風雨にながされ、帆や舵を失い漂流すること実に十四ヵ月のおよび
陸地に漂着したときには十四人の乗組員のうち三人だけが生き残っていた。このなかの最年少の音吉
はわずか十四歳にすぎなかった。この漂流が彼の運命を変えたのである。日本人で漂流者といえば、
ジョン万次郎やジョセフ彦が代表的で歴史に名をとどめている。音吉は彼らよりも一世代早く漂流し
たため、帰国の途をとざされてしまったのだ。では、この時代どこの国でも漂流はあったのか。
『漂流譚を系統的に蒐集・分析した川合彦充氏によると、同時代の欧米船には長期漂流の記録は見当
らず、大型和船の漂流は近世の日本の漂流問題の特質とみなし得るという。江戸時代中期以降の海難
が多かったことの前提はまず、経済規模の拡大にともなって国内輸送が増加し、結果として経済効率
のよい海運が隆盛をきわめたことがある。それに加えて和船の構造と航海術に由来する技術水準の限
界があげられよう。しかし、技術をそのように制約したものは結局のところ、海外渡航を禁じた鎖国
という制度による政治的なものにほかならない。』
考えてみれば、それ以前には倭寇らが暴れまわっていた時代があり、その後朱印船での海外交易が盛
んなころを思い起こせばよい。で、漂着後音吉体たち三人の仲間はどうなったのか。アメリカ太平洋
岸に漂着してのち、アメリカからマカオに送られ英国官吏であり伝道師のギュツラフにひきとられる。
そこで聖書の日本語訳に協力しつつ英語を習得するのである。一八三六年、米国船モリソン号乗り込
み江戸へ向かう。しかし、鎖国政策をとる江戸幕府によって浦賀で砲撃にあい退去することになる。
ふたたび、英国軍艦マリナー号に通訳アトウとして浦賀にやってくる。しかし上陸は許可されなかっ
た。ついに音吉は日本の地を踏むことができないままに去るのである。これが一八四九年のこと。そ
の後ペリーが浦賀に来航したのが一八五四年だから、運命の皮肉というしかない。音吉はその後住ん
でいた上海を離れ、妻の故郷であるシンガポールに移住して晩年をすごすことになる。

「絵具屋の女房」 丸谷才一 文藝春秋 ★★★★
丸谷さんが亡くなってもう四年あまりになるのか。いろいろなことを学ばせてもらったと思う。いろ
んな本の紹介もいただいた。もちろん著書を通じてである。エセーが好きだなあ。博識だし視点がユ
ニークというのか、それに評論もいい。なんでも褒めないのがさらにいい。提灯記事なんか書くわけ
がない。と考えてくると、惜しい人が亡くなったんだといまさらながらに思うのだ。さて、今回はな
にをご紹介しようか。
『何かで読んだのだけれど、イギリス人の得意とする領域は三つあって、それは製薬、陸上の中距離、
そしてスパイの三つなのださうだ。言ふまでもなく三つ目のところで笑はせる趣向だが、かなり真実
を衝いてゐる。』
ひとつめの製薬会社だが、上位五十社のうち四十八社がロンドンおよびイングランド南部に本拠地を
置くという。陸上の中距離といえばいちばん辛いというかきつい距離だ。東京オリンピックのとき、
女子八百メートルの優勝はイギリスのアン・パッカーで美人でしたね。優勝した瞬間におなじ陸上競
技選手の婚約者がでてきたのにはガッカリでした(笑)。そしてスパイといえば007ですよね。そ
れからこれは注目の文章です。いまや皇位継承問題でゆれる日本ですから。
『日本は養子の多い国ださうである。諸外国に比較して、すでに成人した者を養子にすることが多い
とのことで、具体的に数字をあげての話ではなかつたけれど、何となく信用できる気がする。ヨーロ
ッパの小説では、大人になつてからの養子といふのに出会はないからな。』
この大人になってからの養子というのが諸外国とのちがいですね。ここから問題は続くのです。
『養子制度といふのは、実は親子でないものを形式面において親子とするもので、いはば擬制であり
ます。この擬制はいろんな具合に用ゐられた。
 代表的なものは末期養子とか急養子とか呼ばれるもので、これは、武士階級ではあとつぎがないと
絶家になるきまりなので、当主が頓死するとそれを伏せて、養子を取つたことにし、家の存続をはか
るものである。この末期養子が大問題になるのは大名の家の場合でした。何しろ影響するところが大
きいから。江戸初期、この大あわての養子縁組は認められないといふ幕府の方針であつたが、この結
果、数多くの藩がつぶれて、浪人がふえ、社会不安が生じた。そこで由井正雪の乱の後、幕府が反省
して、当主が五十歳以下の場合は許すことになつた。これはまあ、穏当な処置でせうね。
 日本に養子が多いのは、家中心の考へ方が根強いせいと思はれてゐるやうである。これは一応その
通りで、別に反対する気はない。しかし、家中心といふのは近因で、もう一つ、遠因が控へてゐると
思ふ。それは古代的な女系家族の伝統です。
 柳田國男によると、民法制定以前は長女相続の風習が広くおこなはれてゐたといふし、長女に主婦
権が認められてゐたといふ。これなんか母系制の名残りがいかにも濃厚でありますが、母系制でゆく
以上、言ふまでもなく夫は入り婿となる。そしてこの入り婿を母系制衰微以後の目で見ると、婿養子
といふことになるのですね。わたしが言ひたいのは、長女相続と家の存続とがいつしょになつたあげ
く、養子がむやみに多い国日本といふ現象が生じた、といふことであります。
 さて、ここから話が斬新なことになりますよ。
 わたしは、この女系制といふものを視野に入れて考へると、明治および大正の両帝が養子であつた
(!)ことの意味が解ける、と思ふのである。』
女系国家日本というのは河合隼雄氏がよく論じていたものです。この問題を詳しく知りたい方は是非
本書をお読みいただきたい、と思うのであります。


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封建的な社会
ときにテレビのドラマなどでも「封建的よね」とか「封建的な考え」といったセリフを聞く。
注意して聞いていると、たいていは「古い」「旧弊な」という意味だとわかる。
そこで思うのだが、なぜわざわざ封建的ということばを使うのだろう。
単に古いっていえばいいだけではないか。

それとも、もしかして封建的の意味を誤解しているのだろうか。
封建制は社会科の授業で習ったおぼえがある。
そのときは右から左だった。

ヨーロッパ中世において、
国王が諸侯にその領地支配を認める代わりに忠誠を誓わせ従わせる制度のことだ。
もちろんそれに伴う貢納・軍事奉仕等の義務は負う。
その後近世になり、絶対王政の中央集権制へと移行していった。

だから封建制と中央集権はおなじではない。
封建制のほうが諸侯に権限を与えて統治させるわけだからどちらかというと地方分権だ。
もちろん現代の地方分権とはちがう。

安易な「それって封建的」発言には、ときに苦笑するしかない。

N8545色づく葉


哀れな女
ある本を読んでいたら、マリー・ローランサンの詩がでてきた。
わりとよく知られているフレーズだが彼女のものとは知らなかった。
絵は特徴があるから見たことがある。
日本では竹久夢二の画風が似てるようで、まったくそうではない。
まあ、実はどちらもあまり好きではない。

ところで、その詩というものだ。
「鎮静剤」という題で訳は堀口大學による。


退屈な女より もっと哀れなのは 悲しい女です。

悲しい女より もっと哀れなのは 不幸な女です。

不幸な女より もっと哀れなのは 病気の女です。

病気の女より もっと哀れなのは 捨てられた女です。

捨てられた女より もっと哀れなのは よるべない女です。

よるべない女より もっと哀れなのは 追われた女です。

追われた女より もっと哀れなのは 死んだ女です。

死んだ女より もっと哀れなのは 忘れられた女です。

N8636ルミナリエにて

鎮静剤かあ。
嘆き落ちこむ女よ落ち着きなさい、というかのようだ。
この女を男に入れ替えるとどうなんだ。
うーん、もっと情けなくなるな。

ほろ酔いのときなどに思いだしそうだ。


ハチ公前で読書
渋谷で待ち合わせするならどこがわかる、という。なんとなくハチ公前、と答えた。それぐらいしか
知らなかった。やってくると思いのほか人が多い。これで捜せるかなあと不安だった。時計を見たら、
まだ三〇分もあった。しかたなく、立ったまま本を読んでいた。すれちがう人たちがぶつかりそうで
まともに読めない。あきらめて、ぼんやりしてた。そろそろ夕暮れで、空が色をかえはじめていた。
東京でも夕焼けがあるんだ。そりゃあそうだよな。なんだか可笑しくてひとり笑っていた。ふと気づ
くと、こちらに近づくヒールの音が聞こえた。顔をあげると、すこし離れたところで立ちどまってこ
ちらを見ている。なぜ止まるんだ。わからないのだろうか。ここだよというように手をあげた。まだ、
じっと見つめている。「ムッシュよね」ゆっくりと近づいてきながら微笑んだ。「ひさしぶり、東京
で会うと別人みたいね」おたがいにもうあのころには決して戻れないとわかる瞬間だった。

N8613ルミナリエの夜

「スキン・コレクター」 ジェフリー・ディーヴァー 池田真紀子訳 文藝春秋 ★★★★
事故で脊髄を損傷して車椅子生活になった科学捜査官リンカーン・ライム・シリーズ11作目になる。
ライムは天才的犯罪者であるウォッチメイカーが獄中で死亡したとの知らせを受ける。ほんとうにウ
ォッチメイカーは死んだのか。ときを同じくして腹部になぞの文字が彫られた女性の死体が発見され
る。犯人は刺青に墨のかわりに毒物を注入して殺害するという異様なものだった。強姦された形跡は
ない。しかし皮膚をなでた形跡がある。現場で発見されたわずかな証拠物件のなかに書籍の紙片と思
われるものがあった。捜査の結果、ニューヨークで起きライムが解決した「ボーン・コレクター」事
件に関する本の切れ端であることが判明する。犯人は模倣犯なのだろうか。骨の代わりに皮膚に執着
する「スキン・コレクター」なのだろうか。そうこうするうちに第二の殺人事件が起こる。またも腹
部に文字のタトゥが刻まれていた。つぎつぎと被害者に彫られるタトゥの文字はなにを意味している
のか。さらに被害者は増えていく。
『ボーン・コレクターを手本にしているようだが、もし本当にそうだとするなら、復讐に関するメッ
セージである可能性がもっとも高いだろう。だが、何の復讐だ? “the second”、“forty”、そし
て今回の“14th”。それらは犯人が報復したいと考えている不当な行為の何を物語っているのか。』
事件現場に共通するのは地下ということ。しかし、ニューヨークにはこんなに地下道が縦横に張りめ
ぐらされているとは知らなかった。終盤になってなんどもあらわれるどんでん返しがディーヴァーの
真骨頂である。もちろんそこに至るまでにさまざまな伏線が張られているのだ。なにげなく読んでい
ると見過ごしてしまいそうなことが後で重要だったのだと気づく。二重三重に擬装されていた衝撃の
真相におどろくことまちがいなしである。さすがというほかない。しかし、読みすすんでいるとなぜ
か「マクスウェルの悪魔」がうかんでくるのはなぜだろうか。

「漢字と日本語」 高島俊男 講談社現代新書 ★★★★
だれでも知っているが漢字はもともと中国から来た文字である。だから発音も中国式であり、それが
音(呉音、漢音、唐音などありますが)といわれるもの。その文字の意味に日本語の読みをあてたの
が訓ということになっている。しかし最近では外来語が日本語のなかに占める割合もおおくなってき
ている。ではどこまでが外来語かというと、案外あいまいだと高島さんはおっしゃる。
『たとえばリモコンは外来語か。リモートコントロールはまちがいなく外来語である。けれども「リ
モコン」はそれを日本人がチョン切ってつないで作ったもので、外から来た語ではない。日本製であ
る。』
うーん、チョン切っただけのものも多いです。テレビとかネガとかアニメとかいろいろあります。
『つまり外来語とは、その形で外から来た語、ではない。素材や部品が外から来ていれば外来語であ
る。ジャムパンは、ジャムが英語、パンがポルトガル語だが、外来語である。テーマソングは、テー
マがドイツ語、ソングが英語だが、外来語である。部品はどこのでもいいのだ。』
ますます判断がむずかしくなってきた。じゃあ、日本語の範疇にはいるのは、ということだ。
『「それは外来語ではなく日本語です」といった言い方があるが、それは本来おかしい。外来語は日
本語の一部分なのだから――。しかし言いたいことはわかる。まあ外来語は、言ってみれば日本語と
いうクラスのなかの転校生、といったところかな。』
外来語かどうかわかりづらいのもけっこうある。カタカナ書き必ずしも外来語ではない。
『たとえば、インチキ、ルンペン、ポンコツなどは通常カタカナ書きの語だが、どうか。皆さんどう
お思いになります?
 はい、ルンペンとテンプラが外来語のようですね。』
おなじ漢字をつかう中国でも外来語はあるし、日本語からのものが多い。ただし、という。
『中国の日本からの外来語は、その肝腎の音を無視する。字(もちろん漢字)と意味だけ取り入れる。
 たとえば積極(的)はポジティブを訳した日本語である。これをそのまま取り入れた。ただしそれ
を日本人がセッキョク(テキ)と言っていることは全く問題にしない。チチと言う。――なお毎度申
すことだが中国語の発音をカタカナで書くことは不可能なので、このチチというのは至極いいかげん
です。チーチーでもジジでもジジーでもけっこう。ともかく「積極」の字を自分たちの音で言う。』
さらにこういうこともあるからますます複雑である。
『たとえば英語シビリゼーションが入ってくると、周易(易経)に「見龍在田、天下文明」とあるの
を取って「文明」と訳した。だから「文明」は、外見は漢字語だが実質は西洋語である。それがのち
に中国に入ると日本から来た新語としてあつかわれて、たとえば洋式の結婚を「文明結婚」、といっ
たふうに使われる。故に、「文明」は日本語、と言えばその通りだし、根は中国語、と言えばそれは
そうにちがいないのである。』
なるほどね。なにごともそう単純ではない、ということです。


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暗黙のルール
暗黙ということは成文化されないということだ。
いわば、まあ常識のようなもの。

しかし住む国や文化がちがえば、当然のようにその内容も変わる。
だから多民族国家ならば、成文化した掟が必要になる。
そこで必要なのが法だ。

だがなんでも法に定めなければいけないということでもない。
常識とかタブーという暗黙のルールがある。
暗黙とは、わざわざ言わなくてもわかるだろうということだ。
なんでも法律に基づいてということではない。

逆に法律がなくても諍いがない世界のほうが住みよいだろうとは思う。
だから当然、法律にふれなければなにをしてもいいということにはならない。
常識やタブーがあるのはなぜだと思っているのか。
世間のなかでもまれてできあがった生き方なのだろう。

ときにそれも変化してくる。
だが日々議会で法律や条令が定められていく現代社会ってなんだろうな。
進歩しているというよりは、無駄にエネルギーを消費して退歩しているんじゃないかと思う。

N8607皇帝ダリア


プライドのない人
なんとなく考えていてふと気づいた。
プライドが高い人は言い訳しない。
きりっとして、やさしく微笑んでいるだけだ。
あまり遭遇することもない。

逆にプライドなき人にはよく出くわす。
おかしいぐらいに出あう。
なんというのか言い草はどれも似ている。

「おれって、プライド高いから」
(はあ~、なに言ってるの)
(プライドの意味も知らずに脳天気なやつ)

女性にもいるんですね、これが。
「わたしのプライドが許さないのよ」
(おれのプライドが許してやるよ(笑))
(それはプライドとは言わない)
(見栄とか虚栄とかと言い習わしているものです)

9191一輪の花

そこで考えた。
日本語でいうプライドとは英語の正反対の意味なんだということか。
それで納得がいくことがおおい。
そうか、そうだったのか。
やっと腑に落ちた。

だから賢者は言うのだ。
「プライドを捨てろ」と。
なるほどなあ、素の自分にもどって一から始めなさいということだな。
あ~あ、なんだかフライドポテト食べたい。


ガード下で読書
ガタンゴトンと電車の通過音が響く。ときおりタクシーのヘッドライトの灯かりがあたりをかすめて
いく。フラフラと歩いてゆく酔客もとおる。駅の改札口はすぐそこだ。錆止めだけをほどこした鉄骨
に背をあずけて本を読んでいた。ときどき改札方向に目をやる。待ち人来たらず、かあ。しかたがな
い。なにか急用でもできたのだろう。どこかでいっぱいやって帰るか。線路沿いに歩いていくと何軒
かガード下に飲み屋がある。道路にはみだしたテーブルに座ってビールをたのんだ。煙とともに焼鳥
のにおいが漂ってくる。「どうして待っていてくれなかったの」「もう、来ないかと思ったんだよ」
「いい若者がこんなところで飲んでいていいの」「夢も希望もないよ」「なに、言ってるのよ」はじ
めて彼女の顔を見た。「人間の可能性は無限だ。同様に、人間の不可能性も無限だ。ってジンメルが
言ってる」「じゃあ可能性に賭ければいいじゃない。お姐さん、わたしにもビール」「参りました」

N8539晩秋

「紅茶を注文する方法」 土屋賢二 文藝春秋 ★★★
なんだか精神的に疲れたように感じるとき、土屋氏の本を読む。ものごとの考え方感じ方は人それぞ
れである。読んで痛感しつつ、なんだか疲れがとれるようだ。良い悪いではない。一言断っておく。
一過性の肥満という文章があった。これなどなかなか含蓄に富んでいるのではないか。
『多くの女は肥満を恐れている。日本の行く末やプロ野球の将来よりも恐れている。
 それほど肥満を恐れているにもかかわらず、多くの女は、多少太っていても明るく暮らしており、
深刻に悩む様子がない。彼女たちの食べ方を見ても、肥満を望んでいるとしか思えない。』
彼女らはこれを一過性のものだと考えているのではないか、と土屋氏は考察する。
『どんなものでも、一時的なものだと考えると救いになることが多い。たとえば歯医者での痛みは、
一時的なものだと思うから我慢できるが、もしその痛みが永遠に続くと思ったら、どんなに軽い痛み
でも耐えられないだろう。受験勉強も合格するまでの一時的な苦労だと考えるから耐えられるのだし、
妻の小言もいつかはやむと思うから我慢して聞くふりをしていられるのだ(だが、小言をいわなくな
る日は永遠にこないだろう)。』
前提あるいは条件などを追加するあるいは変更すると、答えは劇的に変化するのだ。哲学とはこうい
うものではないか(?)。愛が分からない、と土屋氏は書く。
『愛することがどういうことかを女がどこから割り出しているのか、謎というしかない。
 これまでの血のにじむような経験で知りえたかぎりでは、愛するとは次のことである。
 ハンドバッグは買うが男物のカバンは買わない、どんな料理を出されても明瞭な声で「おいしい」
と賛嘆しつつ一口残さず食べる(スーパーの総菜売り場で買ったものは賛嘆しない)、虎屋の羊羹は
全部相手に譲る、何か頼まれたときは嫌な顔を見せない、催促されても嫌な顔を見せない、再度催促
されたときは、病気など、納得してもらえる理由を用意している、数十年前の約束や相手の誕生日な
どを忘れない、相手の名前を忘れない、お茶をいれてくれとか新聞をとってくれなど頼まない(とく
に相手が睡眠中であったり、熱を出していたりするとき)、服や髪型が変わったらすぐに気づく、相
手が別人と入れ替わったらすぐ気づく、相手が食べるものの中に、賞味期限切れのものや床に落とし
たものをこっそり混ぜたりしない、危険な場所へ先に行かせるようなことをしない、などだ。』
なかなか哲学も役に立つ、と思われるのではないでしょうか。考察は続く。
『店の近くを歩きながら考えた。「中年女も一人なら静かだ。静寂をいくら集めても音は生じない。
ゆえに中年女が何人集まっても静かだ」という推論は明らかに誤りだ。これは「壁そのものは部屋で
はない。天井も床も部屋ではない。部屋でないものを集めても部屋は生じない」というのと同じ合成
の誤謬を犯している。
 わたしの研究では、中年女の騒がしさは、人数の三乗に比例するのである。むしろ、「中年女が集
まると騒がしい。ゆえに一人でも騒がしい」という分解の論理のほうが正しい。』
いかがでしょうか。納得されましたでしょうか。怒ってはいけません。最後に。
『よく「一人寝の淋しさ」といわれますが、ふとんの中にはダニが何万匹もおり、身体の中には何万
という細菌が住んでいます。あなたは一人で生きているわけではないのです。』
こうした土屋氏の文章がおもしろいと思えたら、あなたはもう哲学者である。

「旅行者の朝食」 米原万里 文藝春秋 ★★★
書名からわかるように食べ物であり料理の話だ。なんとなく知っているようなことが案外そうではな
かったということをこういう本から知る。エッセイってある意味小論文というか試論である。でない
ような駄文は読む気がしない。エッセイストといえばヴォルテールとかソローとか日本なら鴨長明、
内田百閒あたりが思いうかぶ。米原さんなら並んでおかしくないと思うんですが。
『フランス料理では、前菜→スープ→メインディッシュ→チーズ→デザートという順番に従って一皿
ずつ料理が運ばれてくる。『新ラルース料理大事典』(同朋社出版)で「セルヴィス」の項を引くと、
こういう給仕のやり方をロシア式サービスとしている。十九世紀初めぐらいまでは、フランス式サー
ビスというのが主流で、全ての料理をいっぺんにテーブルに盛っていたらしい。客は好きなものを各
自勝手に取って食べれば良かったから、いちいちボーイに料理を注文する必要がなかった。』
へーそうなんだ。知らなかったですね。食べ物についてはフランスが標準かと思っていました。次に
あげるようなことの連想も働いていたんでしょうね。
『イギリスには三百の宗教と三種類のソースがある
 フランスには三つの宗教と三百種類のソースがある』
米原さんは父親譲りの大食いだったらしいが、意見は率直だ。神戸に来たときのこと、これには我が
意を得たりである。ほかにはいろいろおいしいものに出会ったようですが。
『店のはす向かいの行列に並んで、「老祥記」の作りたて豚まんじゅうを食べる。列を制御するおば
さんが不愛想なので、彼女が売り疲れるほど評判なのだなとかなり期待は高まったが、並ぶほどの価
値はなかった。でも三個の豚まん、残すわけにいかず、平らげる。』
行列は不思議な作用を及ぼすようだ。だが味は自分で判断しなければいけない。といいつつも味の好
みは人それぞれである。しかしながら同感ですなあ(笑)。


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遠くに眺めるのも好きです。
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