ムッシュの読書紀行
人生は旅のようだと言いますが、旅が人生かも知れません。 ぼくは活字中毒気味でもあり、旅はまだまだ続くでしょう。
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読めない
読むという行為があれば、当然反語としての読めないということがある。
いまは先が読めない時代といわれたりするが、それはいつの世でもそうだったのではなかろうか。
読めないというより、読もうとしない、読むことを端から放棄しているということがありそうだ。
現代は若者が将来に希望がもてない社会だ、なんどといわれたりする。
正社員にもなれず、派遣やアルバイト暮らしのうちに埋没して生きているのだそうだ。
わたしが若かったころにも、定職に就かずバイトでその日暮らししている者もすくなくはなかった。
でもみんな気楽にしており暗さはないが、夢をもって生きているというふうでもなかった。
おなじ境遇でも、受けとめ方はそれぞれでちがってあたりまえである。
それは時代がちがっているからそう生きれたのだといえば、そうだというしかない。

N1678寺町筋

「書物耽溺」 谷沢永一 講談社 ★★★★
日本の書評といえば、まずほめることを良しとし、けなすことは慎重に避けられてきた。
しかし読むほうからいえば、それではちっともおもしろくないのである。
また、通説にしたがったあたりさわりのないものも、まったく有難味がない。
谷沢氏といえば、高島氏とならんで悪口に人気があるのではないかと思う。
(悪口は陰口とはちがって、公言すれば敵をつくることになるから半端な覚悟ではできない)
で、こんな現代仏教界に対する批判に当事者たちはどう反論するのだろうか。
『司馬遼太郎は遺された講演のなかで墓は要らないと拒否したのに続けて、戒名は必要のない
ものであり、慣習であってもおかしなものは捨ててしまったらいい、と否定している。
戒名とは死後に俗名を改めて煩悩を断ち、悟りの彼岸へ到達するための手続きであるという。
なぜ死んでからでなくてはならぬのか。
戒名にそれほどの功徳があるのなら、死ぬのを待たず、おぎゃあと生まれた赤ん坊のすべてに戒名
をつければ、この世のひとり残らずが悟りの境地に達して、社会は極楽浄土に化するではないか。』
と疑問を呈し、こんな書物がありますよと。
『戒名のインチキを明晰に説いたのは、岩本裕の『日本仏教語辞典』(昭和63年)であろう。
戒名とは、我が国で近世以降に行われた風習である。
すなわち日本の僧侶によって遺族からカネをまきあげるために発明された詐術であって他の国にはない。
近世になって誰かが悪知恵を働かせたのであって伝統ではない。
風習にすぎないのであるから、仏教経典の何処を探しても、戒名を合理化するに足る根拠のカケラもない。
すなわち戒名は仏教とはなんの関係もない集金装置である。
仏教の名を借りた幻惑であり詐欺である。』

「超常現象の科学」 リチャード・ワイズマン 木村博江訳 文藝春秋 ★★★★
いつの世のなかにも、常識を超えた現象に人びとの注目はそそがれてきた。
ワイズマンの興味は超常現象が実際に存在するかどうかを調べるよりもほかのところにあった。
人がなぜこうした不思議な体験をするのか、その心理的な理由が知りたい。
そう思うようになったところで、じつはそれは脳の問題なのではないかと。
アメリカで爆発的に流行した(?)スピリチュアリズムに人はなにを見いだしたのか。
『心理学から言うと、スピリチュアリズムの設立はまさに天才的なアイディアだった。
既存の教会は信仰の重要性を訴えて、合理主義の新勢力と戦ったが、
スピリチュアリズムは宗教のあり方そのものを変えた。
科学やテクノロジーにとり憑かれた時代に、スピリチュアリズムは人が
死後も生き続ける証拠をもたらしたばかりか、愛する故人との交信を可能にしたのだ。
ほかの宗教は、死後の命をほとんど約束していない。
かたやスピリチュアリズムは、可能性をたっぷりあたえた。
それが理性と感情の両方に訴える力は絶大であり、
二、三か月のあいだにこの新興宗教はアメリカ全土を席巻した。』
また超能力についても彼はこういっている。
『超能力で人をあざむく原則の最初の四つ
――相手が見たがっているものを見せる、人の虚をつく、自分の影を消す、同じことをくり返さない
――は、自分が披露するトリックのからくりを、客に悟らせないためのものだ。
第五の原則――は、肝心な部分から目をそらさせる――は、
実際に起きたことを客に正しく記憶させないための手段である。
意識しないあいだに、重要なディテールが客の脳裏から消える。
そして客は、自分が何を見たのか、はっきり説明できない状態になるのだ。』
まあ、マジックとおなじですね。超魔術、どう呼んでも問題の本質は変わりません。
興味のある方は実際に本書を読んでください。超能力がすこし身につきますよ(笑)。

「大切なことは言葉にならない」 養老孟司 新潮社 ★★★★★
いままでいろんな人の著書を読んできた。たいていは、ある程度読むとあきるのである。
あきるという言い方が悪いかもしれない。読んでいて、先がみえるというか驚きがなくなってくるのだ。
しかし養老先生のものは、いつもそうかそういうことなのかという角度を感じるのである。
シラーの書く美学理論にはなにか満足できなかったが、こういう文にであうと目がひらかれる。
『問いを知らないのに、答えを知っている。そういうときに、われわれはなにかを感じているらしい。
たとえばそれを「美しい」というのかもしれない。眼前にある種の規則がみごとに具現されている。
でもそれがいったいなんの規則なのか、規則自体は複雑すぎて、よくわからない。
しかし感性はすでにそれがみごとな「解」であることを、
直截に捉えて、「美しい」というのかもしれないのである。
それをもう少し理屈にするなら、多次元空間の安定平衡点を見ているのかもしれない。
そういうものを見ているとき、脳はおそらく余分なエネルギーを使う必要がない。
つまり「疲れない」はずである。だからこそ美しいものなら、人は「喜んで見ている」のである。』
これはすこし理屈が勝っているが、なかなか納得できるものだ。
『努力家というのは、その意味では、要するに才能のない人である。
才能があったら、努力は不要である。
才能がある人が努力をするのは、才能がない部分についてである。
ただしたいていの仕事は単一の才能を発揮しただけではできない。
一種の総合だから、その全てに才能がある人なんていないはずである。
だから仕事のどこかしらは、努力しなくてはならない。』
そういう意味では努力をしない天才とかっていうのは、存在しないのかもしれないですなあ。
(凡人は言い訳ばかりがうまくなる傾向があるように思えてならないのだ)
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遠くに眺めるのも好きです。
楽園なんてないんですけどね。

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