ムッシュの読書紀行
人生は旅のようだと言いますが、旅が人生かも知れません。 ぼくは活字中毒気味でもあり、旅はまだまだ続くでしょう。
06 | 2017/07 | 08
S M T W T F S
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31 - - - - -

「美」とは
若いころに友人と議論したことを思いだす。
なににかぎらず「美しい」とは、なにによるものなのか。
彼は、「美」(の意識)は自分の側にあるのだと。
対象物の側にあるのではなく、感じる自分のほうにあるのだという。
つきつめていうと、私が存在しなければ、「美」は意味を失う。

それはそれで納得(?)もしたが、いまいちしっくりとこない。
もっとなにかちがった観点があるのではないか、と思っていた。

シラーの「美と芸術の理論」(岩波文庫)を読んでもピンとこなかった。
(というか、よく理解できなかったというのが本音)

だが、最近読んだ本のなかに答えをみつけた。


『問いを知らないのに、答えを知っている。
そういうときに、われわれはなにかを感じているらしい。
たとえばそれを「美しい」というのかもしれない。
眼前にある種の規則がみごとに具現されている。
でもそれがいったいなんの規則なのか、規則自体は複雑すぎて、よくわからない。
しかし感性はすでにそれがみごとな「解」であることを、
直截に捉えて、「美しい」というのかもしれないのである。
それをもう少し理屈にするなら、多次元空間の安定平衡点を見ているのかもしれない。
そういうものを見ているとき、脳はおそらく余分なエネルギーを使う必要がない。
つまり「疲れない」はずである。だからこそ美しいものなら、人は「喜んで見ている」のである。』


なるほど、さすがは養老先生である。


『そう思えば、「自然に学ぶ」意味は明白である。
自然は先にそうした解を与えているからである。
でも現代の教育は、その逆を教える。問題解決型の人を育てる、という。
問題がわかっていて、答えを出す。もっぱらその訓練をする。
でも答えは見えているんだが、問題がわからない。
人生ではそれもふつうに起こることである。
「あいつ、なんであんなことをしたんだ」という状況がそうであろう。
やったことはよくわかっているんだけれども、理由がわからない。
解はすでにあるが、問題が不明なのである。そういう場合、当人もわかっていないであろう。
たぶんそれは、「ひとりでにそうなった」からである。つまり無意識である。
無意識ということは、脳を含む身体に任せたということで、
意識はその場合、たんなる傍観者に過ぎない。』

   「養老孟司の大言論Ⅲ 大切なことは言葉にならない」 養老孟司 新潮社刊より


こう説明をうけると、古代ギリシャの黄金分割(黄金比)もわかる気がします(笑)。

N2422イソヒヨドリ(雄)
スポンサーサイト

この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
トラックバックURL
→http://moucheokuno.blog26.fc2.com/tb.php/1265-51e7e931
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

プロフィール

ムッシュ

Author:ムッシュ
島を旅するときが楽しいですね。
遠くに眺めるのも好きです。
楽園なんてないんですけどね。

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カレンダー

06 | 2017/07 | 08
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31 - - - - -

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

カテゴリー