ムッシュの読書紀行
人生は旅のようだと言いますが、旅が人生かも知れません。 ぼくは活字中毒気味でもあり、旅はまだまだ続くでしょう。
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ドクショシュウカン
なぜか秋になると、読書をしましょうという運動がどこからともなくはじまる。
枯れ葉の舞う窓辺でロッキングチェアーにゆられながら、というイメージであろうか。
(これってミス・マープルの世界じゃないか、というなかれ)
読書週間といわれても、ふだんちっとも本を読まない者にとってははなはだ迷惑である。
一週間のうちに○冊読まなければ、牢屋に収監するぞと強制(矯正)でもしなければ無理かもしれん。
しかしこういったことは、すべからく自発的な衝動からなされなければ効果はうすい。
自発的というなら、催眠療法がいいのではないかという方は偏った本の読みすぎのきらいがある。
読みたいと思わせるような本があれば、おおくの人は本を手にとるようになるのである。
一冊読めばこれはおもしろいとあとは連鎖反応のごとし、まさに読書習慣が身につくのである。

N3180コスモスとツマグロヒョウモン

「世界の翻訳家たち」 辻由美 新評論 ★★★★
『「翻訳は歴史のなかでもっとも古い職業のひとつ」、
私がアルルやパリで出会った翻訳家たちはよくそう言っていた。
異なる言語をもつ人たちのあいだのコミュニケーションの必要はたしかに太古の昔からあった。』
そしていろんな国の翻訳者たいにインタビューする。
平安時代の日記を翻訳するフランシーヌ・エライユさんはこんなことをもらす。
『日本人にとって、日本の古典はそう接近しやすいものではない。
私たちが現在使っている言葉とはまるで違う言葉で書かれているので、ふつうの人にはなかなか読めない。
外国語に翻訳されたもののほうがずっとわかりやすかったりする。
これが翻訳というものの面白いところだ。』
なぜ翻訳するのかという問いには、
『なぜ翻訳するかといえば、たぶん、よりふかく理解するためでしょうね。
たとえば、ある制度の名称のような日本史の用語を前にしたとき、
もしそれをフランス語に翻訳せずに日本語のままとらえたとすれば、
その語の意味についてほんとうによく考えたのかどうか、きっと自分でも確信がもてないでしょう。
それに、私が日本の歴史について書くのは、もちろん日本語ではなく、フランス語の本なのですから。』
ちょっと耳が痛くなる人が日本にはおおくいそうな気がするのである。
ユリア・タルディ=マルクースさんはこんなことをおっしゃる。
『スイス育ちなので、子どものときから私はある程度までドイツ語・フランス語のバイリンガルでした。
けれど真の意味でのバイリンガルという人は、おそらくいないでしょう。
その人があるがままの姿に帰着される言語は、どちらかの言語でしょうね。
精神分析をうけていたとき、フランス語でなら、プライベートなこととか、
だれそれに惚れているとか、恋愛の体験とか、でれでれとなんでも言ってしまいます。
ところが、分析医に「それをドイツ語で話してごらん」と言われたとき、
そんなこと、恥ずかしくて、とてもしゃべれなかった。
ドイツ語で話すときについてまわる恥ずかしさが、フランス語だと消えてしまうのですね。
ドイツ語だとバカが言えなくなる。
母語はやっぱり母語なのですね。その言葉で、考えること、書くこと、読むことを学んだのですから。』
いろんな国のいろんな書物が読めるしあわせに感謝してもしきれないですね。

「完本・紙つぶて」 谷沢永一 文藝春秋 ★★★★
「つぶて」は投げる小石の意味だが、文章でやっているというので「紙つぶて」という。
もちろん、敵や盗賊などに投げつけるわけだが、同様にいろんな本にむかって投げつけるのだ。
谷沢氏の本書でいろんな興味深い事実を知り、そこからまた考えるということになる。
『與謝野晶子の詩「君死にたまふことなかれ」は、
トルストイの論説の用語を拾い集めて綴った作品だった。
木村毅が『トルストイ展カタログ』(昭和四十一年十一月)に寄せた論文
「日本におけるトルストイ」で初めて指摘して人々を驚かせて以来の定説だ。
トルストイの有名な非戦論がロンドンの『タイムズ』紙に出たのが明治三十七年六月、
そして早くも八月七日付『平民新聞』に、幸徳秋水と堺枯川が巧みな翻訳で紹介、
昌子はそれを読んで作詞し、九月の『明星』に発表した。』
こういうことは、だれもなかなか教えてはくれません。
『昌子は鉄幹と結ばれるため老舗を誇る家を飛び出し、親を捨てた不幸者だという自責の念が強く、
自分の代わりに家を継ぎ親に仕えてくれることを末の弟に熱烈に期待していた。
問題の詩には、社会や国家が視野になく、
「旧家」「家を守り」「母のしら髪」など、「親」と「家」の心配だけだ。
商家の倫理と意識を純粋にうたい上げた詩を、素直に鑑賞せず、
何でも反戦思想にこじつけた戦後思潮を反省すべきだろう。』
いまでも八月になると、この詩が反戦思想との思いこみで紹介されテレビ番組がつくられている。

「政治的に正しいおとぎ話」 ジェームズ・フィン・ガーナー
     デーブ・スペクター 田口佐紀子訳 ディーエイチシー ★★★

アメリカにはPC(Politically Correct)「政治的に正しい表現」がある。
差別や偏見にもとづくものや、少数派・少数民族に不快感を与える表現を制限しようという運動だ。
PC派は、グリム兄弟やアンデルセンの童話が「差別だらけだ」と攻撃してきたのです。
そこで、ガーナーはあえて名作童話を過剰なPCで書きかえることにしてみた。
皇帝の新しい服(日本では、はだかの王様ですね)のなかの仕立て屋は、
『陛下が、陛下の領土にいてほしい、とお考えになるような人たち、
つまり、政治的に正しく、道徳的にまっとうで、知的にシャープ、文化的に広い心をもっていて、
そのうえ、タバコも吸わなければ、酒も飲まない。
性差別的なジョークには笑わず、テレビは見すぎず、カントリー・ミュージックも聞かないし、
バーベキューもやらない、そういう人たちにしか見えない布なのです。』と答える。
白雪姫もこう説明される。
『「白雪」というニックネームがついていましたが、この表現には、白い色こそ感じのいい魅力的な
色で、黒い色は感じが悪く魅力的ではない、と連想させてしまう差別的な考えがひそんでいます。
白雪姫はごく幼い時期から、こうした有色人種差別的な考えかたのネタにされていたわけです。
彼女がそれを知らなかったのは、幸運でした。』
ただそれだけで問題は解決しないということは、だれもがうすうすは分かっている。
ではあるが、この問題を考えてみたいという人にはおすすめできます。
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遠くに眺めるのも好きです。
楽園なんてないんですけどね。

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