ムッシュの読書紀行
人生は旅のようだと言いますが、旅が人生かも知れません。 ぼくは活字中毒気味でもあり、旅はまだまだ続くでしょう。
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本棚のほこり④
旅にでるときにはかならず数冊の本をもっていった。そのころは鈍行列車にゆられながら、本を読ん
でいた。そしてビールなどをのんだ。眠くなれば本をおいて眠り、めざめてまた続きを読んだ。とき
どきはまわりの人びとをながめたりもしたが、いつも本の世界のなかにいたような気がする。現実が
うとましいというか、逃避していたというほうがあたっているかもしれない。旅先の食堂や居酒屋で
飲むのもひとりがよかった。さみしくないかと訊かれれば、まあさみしいんだろうなと他人事だった。
そんなことはあたりまえで、ヒトって産まれたときからさみしいんじゃないかと逆に反問した。なん
とも皮肉屋っぽい言い草だったが、それがおれらしいと思えたものだ。で、ほんとうのところはどう
よ。とさらっと言われたときには、すこし考えてから、わからないんだよ自分でもとつぶやいた。本
を旅行にもっていくのはいまでも習慣になっているが、ライナスのブランケットのようなものだ。

N5318元旦のメジロ

「黒い笑い」 シャーウッド・アンダソン 斎藤光訳 八潮出版社 ★★★★
アンダソンはアメリカの作家である。といっても二十世紀の初頭から中ごろあたりに活躍した。マー
ク・トゥエインの後継であり、のちのフォークナーやヘミングウェイらに影響をあたえたといわれて
いる。あまり日本では有名ではないが(ほとんど無名か)、読んでみるとそこはかとない情趣を感じ
るだろう。彼の代表作は「ワインズバーグ・オハイオ」だが、本作もなかなかいいと思う。
ブルース・ダドリー(主人公)はもともとはジョン・スタックトンという名でシカゴで新聞記者をし
ていた。妻のバーニスは社交的でいつかは作家になるべく活動していた。そんな彼女がいやになった
というわけではないのだが、彼はふらりと家をでていまはインディアナ州オールド・ハーバーの町工
場で働いている。あるとき、工場長の妻アリーンが夫を迎えに来るために車でやってくるのにでくわ
した。一瞬のことであったが、ふたりは運命の出会いをおたがいに感じた。さて、ここから物語はど
う展開してゆくのかは読んでいただくしかない。しかし、人生における恋愛というのは結局のところ
なんなんだろう。作家はいつもそんなことを考えながら生きているのだろうか。
『恋愛から逃れようとするのは、それが本当の恋愛ではない時だけなのだ。非常に老練な人たち――
人生の達人――は、恋愛など全然信じていない、といったふりをする。恋愛を信じている作家、恋愛
を作品の背景にしている人たちは、いつも妙に愚かしい連中である。彼らは、恋愛を書こうとして、
恋愛を台なしにしてしまう。頭のいい者には、そんな恋愛はごめんなのだ。年をとったオールド・ミ
スには結構面白いだろうし、疲れた女事務員が、夕方、会社からの帰りに、地下鉄や高架鉄道で読む
にはいいかもしれない。三文小説のなかに、おしこんでおかなければならないようなことだ。それを、
実生活のなかに持ちこもうとするなら――とんでもないことになる。』

「身体巡礼 ドイツ・オーストリア・チェコ編」 養老孟司 新潮社 ★★★★★
養老先生のことだから、単なる紀行文ではないと思っていたのだが、いきなりこうである。
『帰ってきたら、なんだか眠りが浅い。妙な夢を見て目が覚める。数日続いたので、秘書にそういっ
たら、「ヘンなものを連れてきたんじゃないでしょうね」といわれた。「なるほど、そうか」と納得
したら、翌日から治ってしまった。ただの時差じゃないか。そういう見方もあるが、なにかが憑いて
きたという可能性もないではない。その後、一緒に取材に出かけた新潮社の足立さんが、お祓いをし
てもらったという話を聞いた。心理的には間違いなくなにかを連れて帰ってきたのである。人とはそ
ういうもので、だから宗教ないしそれに近いもろもろが、世間に存在するのだと思う。』
人とはそういうものだと思えるかどうかで、まあなにかが決まるような気がする今日この頃である。
中欧を旅してみての印象をこうつづっている。
『それにしても中欧には大きな教会が多い。教会と劇場とが、街を代表する巨大建造物なのである。
これを私は「真っ赤な嘘」と書いたことがある。両者ともに、中で行われることがいわば「真っ赤な
嘘」なのだが、逆にその中では人々は安心して、仮構の世界に浸りきる。私は宗教を嘘だととして馬
鹿にしているのではない。教会の中でも、劇場の中でも、人々は真の自分の気持に触れる。だから心
から泣いたり、笑ったりする。それには舞台装置が必要で、食うや食わずの人たちが働いて、立派な
建造物を作るのである。建造物が立派であるほど、強い仮構が生きる。その外側にある、いわゆる「
現実」の世界が真の世界かというなら、それもまた別種の仮構の世界に過ぎないかもしれないが。
 脳から見れば、それは当然というしかない。すべての「現実」は、人に意識が構築するからである。
脳が多少とも壊れた人を観察したら、それはじつによく納得できる。人の意識が脳機能の後追いであ
ることは、すでに証明されているといっていい。のどが渇いたから水を飲むのではない。脳が水を飲
むほうに動き出してから、われわれは水が飲みたいと思うので、たぶんわれわれにできることは、意
識的に水を飲まないと「決める」ことによって、それを「止める」ことだけである。だから道徳律は
つねに「殺すな」「盗むな」と禁止の形をとる。
 でもさらに考えれば、それも不思議ではないか。なぜなら意識がそれを禁止できるということは、
脳機能という物理化学現象を(それが物理化学現象としての話だが)、意識というわけのわからない
ものが左右することを認めることになるからである。目に見えず、測定不能な自分の意識が、目に見
えて、測定可能な自分の行動を左右するなら、それは「念力」というしかないではないか。まったく
「唯物的に」脳を解明しようとするなら、科学はその機構を説明しなければならない。われわれに心
身二元論を軽蔑する権利があるのだろうか。
 現代社会は、世界が理性的に解明され得るという、錯覚を与え続けている。デカルトはそんなこと
はいわないであろう。彼が提案した理性はあくまで方法であって、結論ではない。だから『方法序説』
なのである。車を正しく運転していれば、どこかに行くことはできる。しかしどこに行くのか、目的
地に関する保証などない。車がきちんと動いているんだから、目的地にかならず着くはずだというの
は、信仰に過ぎない。もちろん私は信仰を馬鹿にしているのでもない。科学的であろうとなかろうと、
人間はなにかの信仰を持つしかないのである。』
宗教と信仰を現代は科学と技術におきかえただけで、なにもかわってはいないとも思えるのである。
いまでも科学は仮説だというと、そんなことはない真実ではないかという人がおおいのにそれは現さ
れている。神は実在するというのと、いったいどこがちがうのだろうか。科学は証明されていると反
論されるかもしれないが、まず前提があって、その条件のもとでのことだということを忘れてはいな
いだろうか。まあ、宗教をとろうが科学をとろうがたいした違いはないと思うようなってきた。
『歳をとるに連れて、自他の関係がむろん違ってくる。若いときは、どうしても自分が大きく、他人
が小さい。でもなにが「大きく」、なにが「小さい」のだろうか。
 自分がしだいに小さくなって、最後に無くなる。つまり死ぬ。漱石が則天去私をいったのは晩年、
といっても四十代、ということは、漱石はずいぶん大人だったんだなあ、と思う。漱石はずっと自己
にこだわった人だけれど、中年にはもう去私というほどに、自分が縮んだのかもしれない。』
政治家連中のなかには大人になり切れない人がおおいことだな、と思わずにいられない昨今の状況に
なんだか苦笑いでもうかべるしかないではないか。

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島を旅するときが楽しいですね。
遠くに眺めるのも好きです。
楽園なんてないんですけどね。

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