ムッシュの読書紀行
人生は旅のようだと言いますが、旅が人生かも知れません。 ぼくは活字中毒気味でもあり、旅はまだまだ続くでしょう。
05 | 2017/06 | 07
S M T W T F S
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -

本棚のほこり⑦
「事実は小説より奇なり」とはよくいわれる。これは奇なる事実が小説となっているということの裏
返しをのべているのだろう。人びとの想像力というのはそれほどおおきなものではないとも言ってい
る。だからといって、奇なるフィクションがないということにはならない。ただそういうことがおき
る統計・確率の話になると、話はかわってくる。人は事象が一般的におこる確率よりも、わが身に起
きうる(ふりかかる)確率のみが知りたいのである。たとえば、タバコが肺がんをひきおこす確率よ
り私がタバコを吸うことによって早晩肺がんになるのかならないのか、に関心があるだけなのだ。そ
んなことは神様(いると仮定して)にしかわからない。そのわからないことを、ああだろうか、こう
なのだろうかと考える、というよりは悩んでいる。悩むのが趣味ということなんだろうな。だから、
答えのでないことで解決してしまう心配をせずいつまでも楽しく悩むのであろう。

N5333菜の花

「ロゴスに訊け」 池田晶子 角川書店 ★★★
二〇〇二年六月発行となっているので、そこらあたりを勘案しながら読んでいただきたい。まず、
『人が自分の言葉に責任を取らない時代である。責任を取る時代があったのかどうか知らないが、今
が責任を取らない時代であることは確かである。
 インターネットによる情報や意見のやり取りの実態にそれは明らかだが、もとをたどれば、テレビ、
新聞、雑誌等、マスコミの権力肥大化に、その原因はあるのだろう。大新聞やテレビ局の名の下に、
人が匿名で語ることのうま味を覚えたからである。いや、テレビはまだ名と顔がさらされるぶん、自
己規制は働くのかもしれないから、やはり元凶は活字メディアの匿名性にあるだろうか。』
ふーん、朝日新聞のことを念頭に書いているのかしらんと思ってしまった。また代理出産をめぐる問
題でこんなことも書いておられるのである。
『子供がほしい、でもできない、そういう人は辛いだろうな、そこまでは同情的に見ていた私は、「
権利」の一語を聞いた途端に、強い嫌悪感を覚えた。こう言ってはかなり語弊があることを承知で言
うのだが、私は、人が「権利」の語を使うたびに、「卑しい」、どうしてもそう感じてしまうのであ
る。なぜ、「私たちは幸せになりたい」と言わず、「私たちには幸せになる権利がある」と言おうと
するのだろうか。』
これはよく聞くことばである。おおむね、権利意識がつよい方がおっしゃられるようである。権利と
義務は表裏一体関係にあると思われるが、義務については知らんぷりのようでもある。たとえば天か
ら与えられた権利とすれば、人間世界ではだれの責任になるのか、とも思う。たぶん、時の政府にで
もなるんでしょうかね。とにかく、自分以外のだれかのせいにしたいようなのだ。そうすることによ
って、やっとほっと一息つけるようだから、どこまでも他律的なひとたちというしかない。
『普通に人は、哲学の文章はわからないと言って、その理由を用語や訳文のせいにする。しかし、本
当の理由はそこにあるのではない。哲学の言葉は、理性という反省の機能により、言わば逆立ちした
言葉であるということを理解していないためだ。どちらかと言えば「感じる文章」としての文学は、
受動の構えでも読めるけれども、哲学の場合はそうはゆかない。徹頭徹尾能動の構えでなければダメ
である。哲学の文章ほど、読む側に「持ち出し」を要求しているものはないのである。
 したがって、小説や物語などを読むのと同じつもりで哲学書を読んでも、さっぱりわからないのは
当然である。あれらは順当に前へ進んでゆく文章だが、哲学の神髄は逆説にある。理性が存在に対す
る逆説だからである。』
ヒトは低きに流れがちなものである。受動的な人生、いいではないですか。それで納得しているので
あれば、ということですが。まあ、すべては社会が悪いのである、とこうなるのかな(笑)。

「テレビの嘘を見破る」 今野勉 新潮新書 ★★★★
筆者はテレビマンユニオンの制作会社に籍をおいている。そんななかで「やらせ」の問題にであい、
その当事者としても新聞記者と対峙した経験からの十年をへてこの本は書かれている。
『私たち制作者や放送批評家は、けっこう日ごろから、番組のノウハウや番組批評や、あるいはまた、
テレビとは何かというメディア論などを話しあったりしています。すぐれた表現論やメディア論も、
たくさん出ています。
 しかし、何か、大事なものが決定的に欠けている、と、私はやらせ事件に対応しているさなかに気
づいたのです。』
「やらせ」とはなにか。歪曲、誇張、すりかえ、虚偽、捏造などさまざまなことが指摘されている。
『ドキュメンタリー番組やニュース番組や情報番組など、事実を伝える番組といえども、映像という
ものには、その撮影の段階で、あるいは編集の段階で、さまざまな「工夫」が施されています。それ
は作り手側からいわせれば、諸事情からの「やむをえない工夫」であったり、「見せるための工夫」
であったりします。
 しかしそれは、視聴者側から見れば「作為」です。』
この「工夫」か「作為」かの視点のちがいはおおきくて、このことをお互いがある程度了解していな
いと、それ以降の議論はなりたたないということは一目瞭然である。自分が番組を作ると想像してみ
れば、すぐに気づくと思われるようなことであったりする。
『私がこのところ感じているのは、文章を使いこなしたり、文章を鑑賞したりできるようになるため
に、子供のころから学校で読み書き(リテラシー)を習うように、映像を使いこなしたり、映像を鑑
賞したりできるように、やはり子供のころから学校で、映像を含めたメディア全般のイロハ(メディ
ア・リテラシー)を教えるべきだ、ということです。』
科学であれば、これこれという条件の下で、ということが厳しくいわれるのである。再現可能な実験
でなければ科学ではない。そこが科学の限界でもある。だから哲学があるし、文学も芸術もある。リ
テラシーは気づかず身につく(学校教育や親のしつけのおかげだ)ものもあれば、そうでないものも
ある。そでないものは自ら学んでいくほかはないのである。巻末の参考資料にはなかったが、興味の
ある方は、こんな本も読まれたら世界の状況も知ることができます。
「メディア・リテラシー―世界の現場から」 菅谷明子著 岩波新書 2000年発行

スポンサーサイト

テーマ:最近読んだ本 - ジャンル:本・雑誌

この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
トラックバックURL
→http://moucheokuno.blog26.fc2.com/tb.php/1387-0ee35118
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

プロフィール

ムッシュ

Author:ムッシュ
島を旅するときが楽しいですね。
遠くに眺めるのも好きです。
楽園なんてないんですけどね。

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カレンダー

05 | 2017/06 | 07
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

カテゴリー