ムッシュの読書紀行
人生は旅のようだと言いますが、旅が人生かも知れません。 ぼくは活字中毒気味でもあり、旅はまだまだ続くでしょう。
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尾道友愛山荘ものがたり(45)
 <最終話>旅の終わり その五(完)

 ヒトの思考は低きに流れるようになっている。
別のいい方をすれば、省エネ指向ということなのだ。
無駄なものはどしどし切り捨ててすすんでいく。使えるものはとことん使う。
行きあたりばったりながら、合理的性をどこまでも追及していく。
まちがっているかどうかなど考えている暇はないことにも対処しなければならない。
多少の失敗、不具合は盛りこみ済みのところがあるように思う。
だからではないが、一度の失敗に拘泥していないで前をむいて生きていくしかない。
また、ヒトが考えることなどたかが知れていると知らなければならない。
決意・信念などというが、たやすく崩れるものだし、ゆるぎやすいのである。
物理学に有名な相対性理論というものがあるが、考えも相対性にゆれうごくのだ。
高尚なことを考えていたはずなのだが、風邪でもひけばころっと変わってしまう。
医者から余命宣告をうけてもゆるぎないという人がどれほどいるだろうか。
考えなど百八十度反転してしまうことなどめずらしくはない。
自分の利害しか考えていないような政治家がいう「ぶれない姿勢」などを信じてはいけない。
そう知ったうえで生きていくしかないのだ。

 光と影、熱気と冷気にさらされた青春だったように思う。
いろんな人に出会って、いろんな経験をして、いろんな思いのなかですごした。
すべての始まりは終わることが前提だといえなくもない。
終わることが始まりへとつながっていくということもあるだろう。
人生は出会いと別れの繰り返し、と歌謡曲にもあるではないか。
別れをおそれて出会いを避けるのは本末転倒である、という人もいる。
失敗をおそれて挑戦をしないということとおなじではないか、というのである。
アンビバレントな感情はだれにもあるのである。
試行錯誤の連続であったとしても、それはそれでいいではないか。
明日は明日の風が吹く、悪くはないかもしれない。
すべてを知ろうとすることは無謀かもしれないが、知らぬふりも大人げない。
知りたくないことも知ってしまうということもよくあるのだ。
そんなことより、これからどうして生きようかと考えながら天を仰いでいた。

 向島からの帰りの船に乗ったのはぼくたちだけだった。
対岸までのほんのすこしの時間、船べりから海面をながめてすごした。
だれもなにも言わずに海風に吹かれるにまかせた。
どこからかきこえてくる汽笛が別れの合図だと思った。
ぽんと飛び降りてふりかえると、向島のドックに建つ巨大なクレーンがみえた。
未来に立ちはだかるのか招いているのか、判断はつかなかった。

 駅前のスーパーマーケットの店頭にはときおりおばさんが乾物などを売っている。
今日はいなかったが、サヨリの干物は安くてうまかった。
デベラも人気があってお土産にと買って帰る旅行者もおおかった。
あぶった肴でいっぱいやるというのがなんともいえない楽しみでもあった。
花見のころはよく食べたし、買いにもここまででかけてきていた。
土地にはその土地ならではの食べものがあり、それが文化でもあるのだった。
懐かしさの感情は写真などの視覚記憶だけでよびおこされるものではなかった。
味覚や匂い、そのとき流れていた歌などとともに喚起される。
なにかはなにかにつながり、ネットワークをつくっているようなのだ。
いつかはそれらがほつれてバラバラになったりしてしまうだろうか。

 土堂小学校の脇をすぎて尾道城の下までのぼってきていた。
石造りの階段に腰をおろして、眼下にひろがる景色をまばゆくながめた。
セミの声はするのだが、うるさいとは感じなかった。

「なんども見た景色やなあ」
「そうね、なんどものぼってきた道よね」
「走って下ったことありますよ。駅まで十分で行けましたね」
「若かったんやなあ」
「いまでも若いじゃない」
「そうでもないかな」
「なんかなつかしい気分になるのはどういうことなんやろ」
「そうねえ、ここにいるのにね」
「どうしてか分かりませんけど、たしかにそんな気持ちになります」
「やっぱり、そうなのかなあ」
「どういうこと」
「教えてくださいよ」
「予感があるからじゃないかな」
「別れの、ってこと」
「いつかはくるんですよね」
「そう、かならずくる」
「いやよねえ、でもしかたがないのよね」
「宿命なんだ」
「形あるものがいつかは壊れるように、出逢ったものたちはかならず別れる」
「それがさだめの浮世なれ、かしら」
「別れない場合もあるのではないですか」
「まあ、例外のない法則はないというからな。しかし最後は別れなければならない」
「でも別れたら、また会えるということもいえる?」
「そうですよね」
「そうや、途中経過のなかではという限定付き」
「ムッシュ、ちょっと意地悪よねえ」
「身も蓋もないないです」
「そういうなよ。そう思ったほうがいいだろ」
「最低ラインを想定しておくのね」
「そうか、でも淋しいです」
「またどこかで会えるよね」
「会いたいですね」
「会えるんじゃないの、たぶん」
「たぶんは余計よ」
「そのときはどうなってるかな」
「さあ、もういいおやじ、もしかしたら爺さんかも」
「やだあ、わたしもおばさんになってるってこと。会いたくないかも」
「それより会ってお互い分かるか不安です」
「わかるさ、それは保証する」

 ヒトの細胞は日々入れ替わっているという。
一年もすればすっかり元の細胞はなくなって新しくなっている。
でも、ぼくはぼくであって、あなたはあなただ、なんとも不思議なことである。
記憶のなかと現実の乖離はどうなっているのだろうか。
たぶん、ヒトの記憶は眼の前のヒトのはるかむこうをみているのだろう。
現在の網膜上の投影画像が、過去の記憶とリンクをしているのだ。
つまり、現前するあなたのむこうに以前出会ったあなたを見ているのである。
視るとは単純な網膜上の刺激の再現ではない。
そこに意味がなければ視えていることはならない。
どこかでまたいつか、あなたというクオリアに出遭えるかもしれない。

ヒロミちゃんとセンちゃん

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遠くに眺めるのも好きです。
楽園なんてないんですけどね。

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