ムッシュの読書紀行
人生は旅のようだと言いますが、旅が人生かも知れません。 ぼくは活字中毒気味でもあり、旅はまだまだ続くでしょう。
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実験室で読書
大学は文学部の教育学科にすすんだ。その前に三年とすこし社会人として電気関係のいまでいうコン
サルタント会社に勤めていた。教育学科には教育学と心理学の二コースがあった。わたしは心理学を
専修した。学科には実験室とよばれている部屋があった。建前的には心理学の実験室である。学園紛
争さなかのころ休講もおおかった。高校のように自分たちのクラス(部屋)がないから、行くところ
に困ったが、教育学科には実験室があったのだ。狭い部屋におおきな机と卒業生から贈られたという
水屋があった。そこにコーヒーカップとインスタントコーヒーが誰知らずいつも備えられていた。ク
ラブの部室のようでもある。片隅ではアジビラだろうか、ガリ版をカリカリ切っている連中がいる。
雑然とした空気がこれが大学というものなのだと感じさせた。いや、そう思ったのだ。教わるより自
分で考える道をこれからは歩いていかなければならない、そんなことを思っていたのだろうか。

N8362秋の空

「戦争と検閲 石川達三を読み直す」 河原理子 岩波新書 ★★★
石川達三は無名のころ、同人誌に載った「蒼氓」で一九三五年の第一回芥川賞に選ばれた。高見順や
太宰治らの候補を押さえてのものだった。その彼が中央公論の特派員として中国に渡った。自ら志願
してのことだった。一九三七年、「南京陥落」を日本では提灯行列で祝っていたころだ。年が明けて、
上海や南京で日本兵らを取材し、帰国後一気に書き上げたのが「生きている兵隊」という長編小説だ。
後に「筆禍事件」として知られるように発禁処分を受けたのだ。彼は当時の政府による検閲をどう思
っていたのか。読売新聞(一九三七年九月二十一日付夕刊)の「伏字作家の弁」で以下のように書い
ている。
『作家たち評論家たちにとっては目下伏字との戦いだ。
 しかし、伏字は何も物を書く人たちばかりの話ではない。世はいまやあげて伏字時代であるのだ。
 事変に関する新聞記事はまるまるに続くまるまるで事変写真の説明などは「○○方面に進む○○軍」
では何のことかさっぱり分らない。そしてこの伏字が今は一種凄愴な感じを与えて一つの効果をさえ
もたらして来た。
 わからないことは気にかかる。気にかかるというのは一つの魅力だ。』
筆者はこの文章をあげ、「検閲に異議をはさんでおらず、後世の人間としては少々疑問を感じる」と
書いているが、それは少々酷であるような気がする。その時代のなかにあって、しかも検閲のある新
聞になんと書けばいいというのだろうか。それよりも慧眼だとさえわたしなどは思う。そして敗戦を
経て連合国総司令部(GHQ/SCAP)による占領政策で、新聞紙法、国家総動員法などの制限法
令は廃止を日本政府に命じる。高見順はそのとき「生まれて初めての自由!」なんどと興奮して日記
に書いている。しかし三日で夢から醒める。「十月三日 東洋経済新報が没収になった。 これでい
くらか先日の「恥かしさ」が帳消しの感あり。アメリカが我々に与えてくれた「言論の自由」は、ア
メリカに対しては通用しないということもわかった。」(『敗戦日記』)
『××や○○や空白を残すことを、GHQは許さなかった。新聞や出版物の検閲をしているというこ
と自体が一般の人には伏せられていた。言論表現の自由を掲げているのだから、検閲の痕跡を紙面に
残してはならないのだ。力の痕跡を残した戦前の検閲よりずっと巧妙な、“見えない検閲”だった。』
いま現在の日本には検閲制度というのはない。しかし、テレビやマスコミの自主規制という名の行為
はどう考えればいいのか。まだまだジャーナリズムが育っていないのかな、と思ったりする。

「不明解日本語辞典」 高橋秀実 新潮社 ★★★★
高橋氏は当初「ヘンな日本語」をテーマにする予定だったとか。だが、いろいろと考えているうちに
あることに思いあたった。「言葉には意味がある」という思い込みだ。だがよくよく考えてみると、
「言葉には意味がある」ではなく「言葉は意味をなす」のではないか。言葉を発することで意味を「
なす」のだと。その思考の軌跡が本書なのかもしれない。まず、【いま】とは。
『何事も疑い始めるとキリがないのだが、私が「生きている」ことだけは間違いないだろう。生きて
いるからこうして原稿を書いているわけで、読む人も生きているから読んでいる。そう考えると「生
きている」はすべての前提になっているわけだが、この「生き」はもともと「いき(息)」に由来す
るらしい。「生きている」は「息している」。昨今、生きる意味がわからない、などと悩む人も多い
らしいが、「生きる」が「息する」ならその意味は説明するまでもなく、深呼吸すれば味わえるので
ある。』
現代は生きるということをむずかしく考えすぎる傾向がある。ある意味、しあわせな時代なのだ。高
橋氏はこんなことばかりを考えているわけではない。【ちょっと】などよくつかう言葉だ。
『「ちょっと」はちょっと難しい……。
 どうにも意味を確定できず、私は溜め息をついた。そこでなにげなく明治時代の和英辞典『和英語
林集成』(J・C・ヘボン著 講談社学術文庫 1980年)を手に取ってみたところ、「ちょっと」は
こう訳されていた。

 a moment

 そうだったのか、と私は合点がいった。「ちょっと」とは、いうなれば「pause」。言葉というより
「一拍置く」という合図だったのではないだろうか。「ちょっとこわい先生」「ちょっと困る」など
も、一拍置いて「こわい」「困る」と言うから、さらりと「こわい」「困る」と言うより解釈の幅が
広がって不安になる。「ちょっと話がある」「ちょっと遅刻する」もわざわざ一拍置いて宣言するく
らいだから、長時間に及ぶ。命令文もきっとそうだ。「ちょっと」と一拍置いて命令すれば、当然命
令も厳しくなる。駐車場に車を誘導する際に「ちょっと右」などと言うが、右にハンドルを切る際、
「少し右」と指示されてそのままハンドルを切るより、一拍置いてハンドルを右に切ったほうが、落
ち着いて停車できるのだ。
 私たちは常に一拍置きたいのではないだろうか。』
なかなかに含蓄のある考察だと思う。思考が自由だ。【普通】も日常よくつかう。わたしなども根が
ひねくれているからか、つい「普通ってなに」と反問してしまう。
『言葉に鋭敏なはずの芥川賞作家、田中慎弥さんも『週刊朝日』(2012年3月2日号)のインタビュー
でこう答えていた。

  結婚ですか? 命懸けで小説を書いているのに、そんな普通の人生でいいのでしょうか。

 普通って何だ?
 私は問い詰めたくなる。結婚生活だって命懸けである。女性が出産するのも文字通り命懸けで、そ
のおかげであなたも今そこにいるのではないか。もしかして「普通」とは「興味がない」ということ
を含意しているのか。興味がないなら興味がないと正確に表現すべきで、文学者ならそのくらいの謙
虚さは持つべきだろう、普通。
 あっ、「普通」って言っちゃった。
 私はひとり苦笑いをした。「普通」を否定しようとすると、なぜか「普通」に戻ってしまうのであ
る。そういえば、近代批評の礎を築いたとされる小林秀雄も講演などでよく「普通」を批判していた。
「文士というのは口が達者なだけだ、というのが世人普通の考え方であります」(「文学と自分」/
『無常という事』角川文庫 昭和29年)などと。普通はそうだが、考えたり語ったりしてみるとそう
ではないことがわかるはずだという論旨なのだが、そうではないというのが熟考における「普通」だ
と訴えているようで、やはり「普通」に戻っている。察するに「普通」の反対は特殊で、特殊なまま
では人に伝わらないので、同意を得るべく別の「普通」に着地してしまうのだろうか。いずれにせよ
「普通」には意味を超えたブーメラン効果のような作用が潜んでおり、その対義語もやはり「普通」
のような気がするのである。』
哲学的ななかにもユーモアが潜む。高橋氏の文章にはまさに、故桂枝雀がよくいっていた「緊張と弛
緩」がある。だからいつも電車のなかで読みながら笑ってしまって困っているのだ。

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遠くに眺めるのも好きです。
楽園なんてないんですけどね。

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