ムッシュの読書紀行
人生は旅のようだと言いますが、旅が人生かも知れません。 ぼくは活字中毒気味でもあり、旅はまだまだ続くでしょう。
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展望台で読書
小高い丘のにあるコンクリート造の建物だった。旅先のことだったし地名は憶えていない。二階建て
で、一階が土産物売場になっている。螺旋階段をあがっていくと展望台になっていた。ベンチが置い
てあるだけでガランとしていた。おおきな窓からははるかな山々がながめられた。そのむこうに海が
あるようだが、かすんでいた。だれもいないので、リュックからパンと本を取りだした。空腹ではな
かったがパンをかじった。三口ほどで食べつくした。やはり空腹だったのかと思うとすこし可笑しく
もあった。ふいに、なぜ旅をしているのだろうと自問した。どこからも答えはかえってこなかった。
読みかけの本のなかにもその答えを示唆するような箇所はみつからなかった。片肘ついてぼんやりし
ているとき、黒い鳥がギーと鳴き声をあげながら眼の前を飛んでいった。虫を追いかけているのだろ
うか。それにくらべれば、食べるものがあるだけまだマシか。さて、これからどこへ行こうか。

N8598鳶

「ホッブズ リヴァイアサンの哲学者」 田中浩 岩波新書 ★★★
書名にもあるように名前と著書は有名で多くの人が知っている。では、その中身はというとこれがは
なはだ心許ないのである。リヴァイアサンは聖書にでてくる怪物だ、というくらいしか知らない。
『ボッブスは、国家の基本単位を「人間」におき――『リヴァイアサン』の口絵は、無数の人間から
国家が形成されているさまが描かれ、その「代表者」(主権者)の右手には剣、左手には牧杖が振り
かざされ、聖俗両面において人民を守っている姿が描かれているのに注目せよ――、国家の第一義的
な役割は「生命の安全」を守ることとされた。またホッブスは、当時そうした国家の役割を妨害して
いた最大の敵である「カトリック教会」と「教皇」を痛烈に批判して「国家を宗教(の脅威)から解
放」する大偉業をやってのけた。』
彼は「リヴァイアサン」の序文にこのように書いているという。
『こんにち、あまりにも大きな「権力」を欲する人たち(王党派)とあまりにも大きな「自由」を欲
する人たち(議会派)がおり、自分はこの両派のあいだをすり抜けて――これはひじょうに困難なこ
とだがといいながら――「人間の生命の安全と平和」のためには「権力はなぜひとつでなければなら
ないか」ということを述べているのだ』
人間が平和で安全に生きるためには社会はどうあるべきかを一貫して考えてきた。時代によってその
思想、主義は変遷してきたが、ホッブスの考えは近代民主主義の端緒でもある。
『ホッブスは、キリスト者にとって必要不可欠な信仰は「イエスは救い主である」ということであり、
そのことを「根本的なるもの」と呼び、それ以外のすべての教えは副次的なものとして上部構造と呼
んでいる。徹底した共和主義者ハリントンは、主著『オシアナ』(一六五六年)において「政治構造」
を「上部構造」、「土地所有関係」を「下部構造」と呼び、一六世紀から一七世紀にかけて大土地所
有者層から中産者層(独立自営農民層(ヨーマン層))へと土地所有関係が変化したので、「上部構
造」(政治形態)もそれに見あって「モナーキー」(一人支配)から「デモクラシー」へ変化したと
述べ、革命によって絶対王政が打倒されてデモクラシーになったことを正当化している。そしてこの
「上部構造」(政治構造・イデオロギー)と「下部構造」(経済構造)をめぐる問題――下部構造が
変化すれば上部構造も変化する――は、のちに共産主義の祖マルクスの「革命論」の中核理論となっ
た。』
いろんな思想はその淵源をどこかにもつ。まったくのオリジナルというものはないと考えたほうがよ
さそうだ。逆にすべてが独創的な考えならば、人々に理解されることもないだろう。天才と狂気はま
さに紙一重。それはある種の症状として記録されるだけかもしれない。

「「本当のこと」を伝えない日本の新聞」 マーティン・ファクラー 双葉新書 ★★★★
著者はニューヨーク・タイムズ東京支局長である。彼が日本で取材するようになって最も驚いたこと
は「記者クラブ」の存在だった。世界でも稀に見るこの組織は、英語圏では「kisya kurabu」と呼ば
れ、翻訳語が存在しない。現在では、その閉鎖性がネットメディアとの軋轢が問題化している。
『記者の連合体を「記者クラブ」と呼ぶと同時に、彼らが常駐する詰め所そのものが「記者クラブ」
と呼ばれる。この詰め所には記者クラブ加盟社以外の記者は原則的に入ることはできず、当局から配
られるプレスリリースなどは加盟社が独占する。記者クラブ主催の会見には、幹事社の許可が下りな
い限り外部の記者が参加することはできない。』
記者クラブのいい面もある。抜け駆けができないことだ。みんな横並びの記事になる。このあたりテ
レビの報道番組と似ている(あたりまえだな)。
『町役場の職員が、人口1万7000人の南三陸町で約1万人もの住民が行方不明になっていると説
明している。遺体がいまだ続々と見つかるなか、記者が細かい数字にこだわっていることが不思議に
思えた。
「今日は何人の遺体が見つかりましたか。数字は××7人で正しいですか」
「××8人ですか」
 それらが自らの使命であるかのように1ケタの数字に神経質にこだわり、彼らは非常に細かいやり
取りをずっと続けていた。
 私は佐藤町長がどうやって津波を生き延びたのかを知りたかったのだが、誰もそういう個人的な体
験について質問しようとしない。そこで日本人記者の質問が尽きたあたりで、
「町長さんは津波が来た当時どこにいましたか?」と尋ねてみた。
 すると佐藤町長は、目を真っ赤にして涙を流しながらこう語り始めたのだ。
「まるで地獄の光景を見ているようでした。あんなことが起きるとは、誰も想像していなかったはず
です」』
日本人の記者はみな優等生だったのだろう。個人情報うんぬんといわれるともう委縮する。なにが個
人情報なんだ、というような感情をもったことはないのだと思う。いわれればわかるがいわれない日
本のいまの状況なのだ。ここは外圧を受けるしかないか(苦笑)。以下も同様のことだ。
『ニューヨーク・タイムズは、佐々木康さんや深田志穂さんをはじめとするプロのカメラマンと一緒
に被災地取材に入り、震災被害のすさまじさや被災者の悲しみを伝える多くの写真を掲載した。その
なかには、被災地のさまざまな現場で撮影した遺体の写真も含まれている。日本の新聞やテレビは、
遺体の写真を一切報道しようとしなかった。だが、「1万人死亡」と数字を見せられただけでは、現
場で本当は何が起きているか読者に伝わらない。私たちは、遺体の写真を報道することに大きな意味
があると考えた。』
このことの良い悪いではなく、意味をもっと考えることが大切だと思う。多くの日本人はその議論を
聞いてみたいと思っている。記者は傲慢になってはいけない。間違いを恐れてはいけない。委縮して
いてジャーナリズムが貫けるのか。間違ったらとるべき態度は決まっているだろう。人は必ずといっ
ていいほど間違いを犯すものなのだから。
『新聞にとって、最大の財産とは信頼性だ。一度失った信頼は、簡単に取り戻せない。ニューヨーク・
タイムズはこれらの危機を乗り越えるため、自らの過ちを徹底検証して読者に公開した。まだこの一
件の“傷”は癒えてはいない。だが、身を切る覚悟で臨んだ検証記事により、幸いにも読者はニュー
ヨーク・タイムズを見限ることはなかった。』
人なりなんなりを判断するときには、まちがいを犯したということではなくその後の対応をみるとい
うのが常識だ。また、批判は自ずと自身にも向けられてしかるべきだ、と考えないでなにが批判でき
るというのだろうか。

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島を旅するときが楽しいですね。
遠くに眺めるのも好きです。
楽園なんてないんですけどね。

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