ムッシュの読書紀行
人生は旅のようだと言いますが、旅が人生かも知れません。 ぼくは活字中毒気味でもあり、旅はまだまだ続くでしょう。
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ジャングルジムで読書
鉄パイプにもたれながら陽をあびて本を読む。熱が体の奥まで伝わっていくような気がする。熱は分
子の運動だという。「ヒトっていくつぐらいまで生きられるんですか」「生物学的には、まあ百二十
年ぐらいが限度らしいよ」「そうなんですか」「長生きしたいのか」「いえ、そうじゃないですけど」
「死なないとなったら、困るよな」「なにが問題なんですか」「だって、あふれてしまうじゃないか」
「そうですよね、次から次から生まれるだけで死ななけりゃね」「うまいことなってるんだよ」「次
世代のためですもんね」「それが死ぬ意義ってのか」「そこまでは思わないですけど」「バッタなん
て増えすぎると共食いするからな」「そうなんですか」「戦争なんて、ある意味共食いの機能を担っ
てるのかと思っちゃうよ」「人口増の圧力を抜く弁なんですかね」「まあ死があるから生きる意味が
あるんだろうな」「死がないと、しがない人生です」読書は答えを得るものではない、のだろう。

N8669茨木童子

「にっぽん音吉漂流記」 春名徹 中公文庫 ★★★
天保三年、旧暦十月十一日(一八三二年十一月三日)に千五百石積の尾張回船・宝順丸は江戸をめざ
して鳥羽港を出帆した。遠州灘で風雨にながされ、帆や舵を失い漂流すること実に十四ヵ月のおよび
陸地に漂着したときには十四人の乗組員のうち三人だけが生き残っていた。このなかの最年少の音吉
はわずか十四歳にすぎなかった。この漂流が彼の運命を変えたのである。日本人で漂流者といえば、
ジョン万次郎やジョセフ彦が代表的で歴史に名をとどめている。音吉は彼らよりも一世代早く漂流し
たため、帰国の途をとざされてしまったのだ。では、この時代どこの国でも漂流はあったのか。
『漂流譚を系統的に蒐集・分析した川合彦充氏によると、同時代の欧米船には長期漂流の記録は見当
らず、大型和船の漂流は近世の日本の漂流問題の特質とみなし得るという。江戸時代中期以降の海難
が多かったことの前提はまず、経済規模の拡大にともなって国内輸送が増加し、結果として経済効率
のよい海運が隆盛をきわめたことがある。それに加えて和船の構造と航海術に由来する技術水準の限
界があげられよう。しかし、技術をそのように制約したものは結局のところ、海外渡航を禁じた鎖国
という制度による政治的なものにほかならない。』
考えてみれば、それ以前には倭寇らが暴れまわっていた時代があり、その後朱印船での海外交易が盛
んなころを思い起こせばよい。で、漂着後音吉体たち三人の仲間はどうなったのか。アメリカ太平洋
岸に漂着してのち、アメリカからマカオに送られ英国官吏であり伝道師のギュツラフにひきとられる。
そこで聖書の日本語訳に協力しつつ英語を習得するのである。一八三六年、米国船モリソン号乗り込
み江戸へ向かう。しかし、鎖国政策をとる江戸幕府によって浦賀で砲撃にあい退去することになる。
ふたたび、英国軍艦マリナー号に通訳アトウとして浦賀にやってくる。しかし上陸は許可されなかっ
た。ついに音吉は日本の地を踏むことができないままに去るのである。これが一八四九年のこと。そ
の後ペリーが浦賀に来航したのが一八五四年だから、運命の皮肉というしかない。音吉はその後住ん
でいた上海を離れ、妻の故郷であるシンガポールに移住して晩年をすごすことになる。

「絵具屋の女房」 丸谷才一 文藝春秋 ★★★★
丸谷さんが亡くなってもう四年あまりになるのか。いろいろなことを学ばせてもらったと思う。いろ
んな本の紹介もいただいた。もちろん著書を通じてである。エセーが好きだなあ。博識だし視点がユ
ニークというのか、それに評論もいい。なんでも褒めないのがさらにいい。提灯記事なんか書くわけ
がない。と考えてくると、惜しい人が亡くなったんだといまさらながらに思うのだ。さて、今回はな
にをご紹介しようか。
『何かで読んだのだけれど、イギリス人の得意とする領域は三つあって、それは製薬、陸上の中距離、
そしてスパイの三つなのださうだ。言ふまでもなく三つ目のところで笑はせる趣向だが、かなり真実
を衝いてゐる。』
ひとつめの製薬会社だが、上位五十社のうち四十八社がロンドンおよびイングランド南部に本拠地を
置くという。陸上の中距離といえばいちばん辛いというかきつい距離だ。東京オリンピックのとき、
女子八百メートルの優勝はイギリスのアン・パッカーで美人でしたね。優勝した瞬間におなじ陸上競
技選手の婚約者がでてきたのにはガッカリでした(笑)。そしてスパイといえば007ですよね。そ
れからこれは注目の文章です。いまや皇位継承問題でゆれる日本ですから。
『日本は養子の多い国ださうである。諸外国に比較して、すでに成人した者を養子にすることが多い
とのことで、具体的に数字をあげての話ではなかつたけれど、何となく信用できる気がする。ヨーロ
ッパの小説では、大人になつてからの養子といふのに出会はないからな。』
この大人になってからの養子というのが諸外国とのちがいですね。ここから問題は続くのです。
『養子制度といふのは、実は親子でないものを形式面において親子とするもので、いはば擬制であり
ます。この擬制はいろんな具合に用ゐられた。
 代表的なものは末期養子とか急養子とか呼ばれるもので、これは、武士階級ではあとつぎがないと
絶家になるきまりなので、当主が頓死するとそれを伏せて、養子を取つたことにし、家の存続をはか
るものである。この末期養子が大問題になるのは大名の家の場合でした。何しろ影響するところが大
きいから。江戸初期、この大あわての養子縁組は認められないといふ幕府の方針であつたが、この結
果、数多くの藩がつぶれて、浪人がふえ、社会不安が生じた。そこで由井正雪の乱の後、幕府が反省
して、当主が五十歳以下の場合は許すことになつた。これはまあ、穏当な処置でせうね。
 日本に養子が多いのは、家中心の考へ方が根強いせいと思はれてゐるやうである。これは一応その
通りで、別に反対する気はない。しかし、家中心といふのは近因で、もう一つ、遠因が控へてゐると
思ふ。それは古代的な女系家族の伝統です。
 柳田國男によると、民法制定以前は長女相続の風習が広くおこなはれてゐたといふし、長女に主婦
権が認められてゐたといふ。これなんか母系制の名残りがいかにも濃厚でありますが、母系制でゆく
以上、言ふまでもなく夫は入り婿となる。そしてこの入り婿を母系制衰微以後の目で見ると、婿養子
といふことになるのですね。わたしが言ひたいのは、長女相続と家の存続とがいつしょになつたあげ
く、養子がむやみに多い国日本といふ現象が生じた、といふことであります。
 さて、ここから話が斬新なことになりますよ。
 わたしは、この女系制といふものを視野に入れて考へると、明治および大正の両帝が養子であつた
(!)ことの意味が解ける、と思ふのである。』
女系国家日本というのは河合隼雄氏がよく論じていたものです。この問題を詳しく知りたい方は是非
本書をお読みいただきたい、と思うのであります。

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島を旅するときが楽しいですね。
遠くに眺めるのも好きです。
楽園なんてないんですけどね。

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