ムッシュの読書紀行
人生は旅のようだと言いますが、旅が人生かも知れません。 ぼくは活字中毒気味でもあり、旅はまだまだ続くでしょう。
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こたつで読書
いまのように部屋を暖めるということがなかった。部屋の真ん中にやぐら炬燵がでんとある。寒い寒
いと言いながら、本をもってこたつにはいる。背中がさむいので綿入れのちゃんちゃんこを着てる。
冬の定番といえばみかんだ。食べ方には個性がでる。わたしはいつもきれいに皮をむいてスジもこす
るようにとってこたつ上にならべていく。一直線に並べなくてはならない。すべてきれいにならべ終
わったら、はじめて食べてよし。ひとりならこれでいい。しかし他人とおなじだとそうもいかない。
だから、みかんを食べてもいつもどおりではないから落ち着かない。食べた気がしない。ルーティン
がちがうからだ。ごろんと仰向けになって高く本を掲げる。読んでいるうちに眠くなってくる。これ
はいかんと思って、天井をながめる。シミのような模様がひろがっている。それが人のようにも動物
のようにも見えてくる。バタンと本を落とした音でめがさめる。いつのまにか眠っていたようだ。

N8687島猫

「塀の中の懲りない面々」 安部譲二 文藝春秋 ★★★★
いっときテレビなどにも出ておられましたね。その頃、ベストセラーになったのが本書です。ふと読
んでみようかなと思いついたのです。なかなか素朴さが感じられる文章で好感がもてました。この「
塀の中」というのはもちろん刑務所のことなのですが、いまではふつうに通用する言い回しです。こ
の本が初出なのかもしれません。ふつうとはちがうエピソードなどに興味がわきます。
『警察の留置所は小学校、未決の拘置所が中学校、そして初犯刑務所は高等学校で、再犯刑務所は大
学だ、というのは、昔からよく耳にした暗黒街のざれ言です。
 長く語り伝えられた言葉には、ざれ言にも、それなりの真理が秘められていました。
 懲役も、この大学まで進めば、もうそれからは、その専門分野でズーッと生きて行くことになりま
す。』
ひと言に更正するというが、現実はなかなかむずかしいことなのでしょう。しかし刑務所に入る犯罪
者ばかりが悪人ということになるかというと、世のなかそう単純ではない。
『健康保険をくすねる医者や、助成金を懐に入れる私学の理事長なんか、代議士先生と同じで、お上
の金を盗るから無事なので、民間の街の金を盗ると、それがどうでもいいような種類の金でも、検事
や裁判官は途端にエンジンがかかって、驚くほどマメで気前のいい仕事をするのだそうです。』
十四歳でぐれ、十六歳で家を出て、渋谷の安藤昇の児分の舎弟になったという安部さんである。府中
刑務所にはいろんな犯罪者がいて、ニセ医者もいた。だが彼は腕がよかったという。あるとき見学者
の一団がやってきて作業中の彼を見るなり、こう問いかけた。
『「ア、貴方はもしや西畑先生……。大学の外科の医局におられた」
 と叫ぶように言ったのです。ドク・西畑は手を止めて、ちょっと老眼鏡をずらすと、
「ああ、それは兄でしょう。先日下手な内科にかかって死にました」
 ウムを言わさぬ慣れた台詞でした。』
しかし刑務所生活は楽ではない。
『刑務所の冬は地獄です。
 これまでの長い無頼な暮しで、それはさんざんな目に会い続けた私ですが、冬の刑務所ほどの非道
い辛さは、覚えがないのです。
 府中刑務所の舎房には、暖房はおろか火の気もないので、工場で働かされる日はともかく、免業の
日曜日や祝日だと一日中閉じ込められたままですから、お陽様まで免業なんてことになれば、懲役た
ちはもう冷蔵庫の中に入れられてしまったのと同じでした。
 舎房の中の熱源は、懲役たちの体温だけという、これは原始の世界だったのです。』
現在の刑務所はどうなっているのでしょうかね。

「辞書の仕事」 増井元 岩波新書 ★★★★
ふだんなにげなく辞書をひく。そして人は辞書はどのようにして作られているのか、というようなこ
とをあまり考えない。だが、ときに考えることもある。そんなとき本書にであった。辞書というより
言葉に興味がある。どうしてこういった言葉が生まれてきたのか。言葉の意味はどのようにして時代
とともに変遷していくのか。若いころに見坊豪紀さんの「ことばのくずかご」という本が好きで、よ
く読んでいた。いまの書棚にそのシリーズ本が五冊ある。そして本書の冒頭のほうにこう書かれてい
た。すこし長いし孫引きになりますが、ご紹介しましょう。
『辞書を作る仕事にたずさわっていた期間、辞書をどのようなものとして考えるかについて、いつも
私の念頭にあったのは見坊豪紀さんの辞書観でした。見坊先生に直接お目にかかったことは一度もあ
りませんでしたが、先生が語られ書かれた、辞書に対する熱い思いは、辞書作りにかかわる者が知ら
ずに済ますことができるものではありません。その数々の示唆に富む考察の中で、私にとってもっと
も直截的で分かりやすいのは、「辞書“かがみ”論」という先生の一貫した辞書論です。それを、先
生が編集主幹をされた『三省堂国語辞典』第三版(一九八二年刊)の序文から引いてみましょう。
  辞書は“かがみ”である――これは、著者の変わらぬ信条であります。
  辞書は、ことばを写す“鏡”であります。同時に、
  辞書はことばを正す“鑑”であります。
  “鏡”と“鑑”の両面のどちらに重きを置くか、どう取り合わせるか、それは辞書の性格によっ
  さまざまでありましょう。ただ、時代のことばと連動する性格を持つ小型国語辞書としては、こ
  とばの変化した部分については“鏡”としてすばやく写し出すべきだと考えます。“鑑”として
  どう扱うかは、写し出したものを処理する段階で判断すべき問題でありましょう。
  そのことばを見出しに立てる、ということがまず大切です。』
ことばの意味は変化するものである。その契機が誤用とか書き違いということもある。そこでいつも
思いだすことばがある。「あたりまえ」。これは漢語ならば当然ということ。トウゼンを聞いて、当
前と書く。これを読み下せば、当たり前となる。さて、ことばはむずかしい。
『ことばについて、こうなくてはならぬという一つだけの正解がないと同時に、絶対的な間違いとい
うことも非常に少ないものです。ことばはそんなやわなものではない。ある制約がありながらも、そ
の中で自由にできる余地のことを、「遊び」とか「はば」とか言うことがあります。ことばには「は
ば」があるのです。』
これを困難なことと感じるか、おもしろいと考えるかで人生の道は分岐するでしょう。増井氏は後者
を選んだということになる。
『国語辞典の担当になって間もない頃、日本語学が専門の友人に教えてもらったことがあります。こ
とばの意味には二通りあって、一つは文脈によって生じる意味、もう一つは文脈に依存しない、場面
から自由な意味で、辞典に記述されるべき意味とは後者の自由な意味の方だ、ということです。』
ことばをことばで説明するという仕事は、そう簡単ではないということが実感できる。また辞書のサ
イズの問題も興味深かった。読んで「目が点になる」ことがあるかもしれませんよ。

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島を旅するときが楽しいですね。
遠くに眺めるのも好きです。
楽園なんてないんですけどね。

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