ムッシュの読書紀行
人生は旅のようだと言いますが、旅が人生かも知れません。 ぼくは活字中毒気味でもあり、旅はまだまだ続くでしょう。
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ディスコで読書
あるとき友人からひまかと電話があった。ひまだよと答えた。ディスコの仕事しないか。想像もつか
なくてなにをするんだよと聞いた。サラまわしだね。なにそれ。ごめん、レコードをかけるってこと。
なんとなく理解できたことは、ディスコでレコードをかけてさえいればそこのお酒は自由に飲んでも
いいという条件だ。だいじょうぶなのかと言うと、酒屋の経営だから問題なし。よし、のった。とい
うことで栂池スキー場まででかけた。ディスコは地下にあった。やってくるのはスキー客の若者ばか
り。最初はうるさいと思っていたディスコ音楽も耳が慣れてくる。もっとボリュームを上げようかと
思ったら最大なんてこともあった。飲み放題だといわれた酒もそんなに飲めるものではない。レコー
ドの入れ替えもあるし、酔っ払うわけにはいかない。いまでも憶えているのは「ジンギスカン」とい
う曲だ。読書でもできるかと思ったが、まったくあてが外れたディスコ勤務の一週間であったのだ。

N8843雪と樹木

「生徒たちには言えないこと 教師の矜持とは何か?」 諏訪哲二 中公新書ラクレ ★★★★
いまの日本ではだれもが学齢に達すると学校へ行く。学校はなにを子どもたちに教えるのか。長年教
師をしてきた筆者は、学校は「真実」を教える場ではないという。これはなにを意味するのか。
『学校では近代社会において公認されていることしか教えられない。人間は合理的であり、理性的で
なければならないと教える。だから、いつも自己の信じる「真実」を語りたい人は教師には成らない
ほうがいい。学校で語る「真実」は「建前」に包んで教えるしかない。あるいは、どんなに自己の信
じる「真実」を語っても、学校という場では「建前」として受け止められる。』
「真実」は「こうある」であり、「建前」というと「こうあるべき」ということだ。「こうありなさ
いよ」というのが教育である。「こうあるすがた」を子どもたちに語っても子どもたちはどうすれば
いいのか混乱を起こすだけかもしれない、と彼はいう。「真実」と「建前」の話をこう書いている。
『たとえば、「人間は平等である」という考えは現在日本では自明のこととされている。私が子ども
の頃である昭和二十年代には、平等といえば男女平等の「建前」のことであり、いま以上に男女差別
は厳然と残っていた。この考えは近代の中核を成すし、キンキラキンの絶対の「真実」であるように
も思われるが、世界や日本の「現実」を見渡せば、事実を表してている「現実」ではありえない。差
別や格差や抑圧や虐待などがあらゆるところに存在し、近代の「建前」ではあるが、「現実」や「真
実」でないことは明白である。』
教師と学者はどう違うのかというところでこうも書いている。
『どこかで「教師は学者の成り損ないだ」と述べていた評論家がいたが、そんなことはない。教師は
学者の研究したこと(「真理」「真実」)を薄めて生徒に伝えるのではない。生徒の「現実」に合う
ように、学校の「現実」に沿うように「建前」化して教えるのである。』
先生は大変な職業だと思う。しかし大変だからこそと考える方たちもいるのだろう。大変だからとい
って投げだしていてはなにもできない、という気持ちで頑張っておられるのだろう。しかし、いい教
師とはどのような先生のことをいうのでしょう。
『観察力のすぐれた人、あるいは、とてつもなく善良な人がいい教師とは限らない。私は昔から「い
い人、必ずしもいい教師ならず」と言っている。善意の人は生徒に学校生活という枠をかぶせること
が苦手で、かえって、生徒を不安定にさせてしまうことも多い。学校の教師と生徒という公的な「建
前」的なものとして向き合っているのに、どこかで一対一の人間関係の「真実」にいるような錯覚を
するからである。これはどんな教師も陥り易い落とし穴である。』
これはふつうの会社員でもある。取引関係ではどうしても主従的な関係になることがある。とくに大
企業ともなればその力はおおきい。しかしそれは企業の力であって、その担当者の実力ではないこと
が多々ある。だが自分の実力と勘違いする輩がいて退職後も引きずって嫌われ嗤われることがある。
教育などは物理学や化学とちがって、なにが正しいか実験することができない。実験の条件を整える
ことすら困難であるだろう。実験的授業は可能だろうが、あくまで実験的で普遍にはならない。
『現在行われている教育を否定することで、本当の教育であることが保証されるわけではない。本当
の教育など誰にもわからない。本当の教育を考えること自体がひとつの症状であり、ましてや本当の
教育がわかっていると考えるということはひとつの病状である。』
それでも現場では日々教育が行われているわけであり、試行錯誤、ケースバイケースなのでしょう。
謙虚でありながら自信にもみちた態度が必要で、真面目な教師ほど病みそうな気がしてくる。おまけ
に学校教育と経済活動をごっちゃにしてクレームをつけてくる親などいて察するに余りあるのだ。

「健康の味」 南伸坊 白水社 ★★★★
健康は幸福とおなじで、健康なときや幸福なときには考えないものらしい。しかし、年をとってくる
と必然的(?)にいろんなところに不具合、損なわれ感がでてくるものである。
『健康の味は、健康の時には味わえず、
 健康の損なわれた時にはじめて味わえる。』
という逆説的なものなのである。そこで病院にいったり、健康法を試したり、種々行動したりしなか
ったりすることになった次第を伸坊流の文章で読ませてくれるわけだ。そうだよな、と思いつつ気楽
に、あるときは真剣に読みすすめる。
『現在のいわゆる解熱消炎鎮痛剤は、どんどん強力なものが開発されていて、驚くほど作用が強いの
だそうだ。この抗炎症薬を、長期間連用すると、体がいちじるしく冷えてしまうらしい。
 なぜかというと、こういった薬は血流をとめることで消炎しているからなのだそうだ。解熱消炎鎮
痛は、すべて同じ働きで解決する。つまり血流をとめることで消炎し、血流をとめることで解熱し、
血流をとめることで解熱しているのだった。
 炎症が起こるのも、発熱するのも、痛みを感じるのも、実はからだが治癒反応を起こしているのだ
が、消炎鎮痛剤というのは患者の不快をとりのぞくことに主眼を置いているのであって、そもそもの
原因である病気のおおもとをとりのぞくようには働かず、結果かえって治癒のジャマをしている、と
いうのだった。』
こういうことを知るのはおもしろい。伸坊氏もそう感じ薬をやめたのだった。それにストレスもいけ
ないよなあ、などと考えるのだった。
『病気に不安やストレスや気のせいは、ものすごくイケナイ。と私は思う。医学は、本来なら、いつ
のまにか治ってしまったような病気を、細かく調べ上げたり、正確に数値を出したり、悲観的な予測
をたてたりすることで、確実な、立派な病気へと推し進めていると私は思う。
 病気になるのは、自分の責任である。それで病気を治すのも、自分の力である。』
そのためにもいろいろと知らなければならない。そこも自己責任だ。冷水浴や冷水摩擦などをやる。
効いていると思えば効いているようだし、効いていないといえば効いていないのかなあと頼りない。
また、ねじり体操なる「ウエストをしぼって腹筋を鍛える体操」もはじめる始末だ。しかし「ガン疑
惑」などあり、やせているのはガンのせいかもと思うとイヤになってやめてしまう。世のなかはダイ
エットばやりだが、こんなダイエットもありますよと推奨(?)してくれている。
『「クヨクヨダイエット」というのは、私の先生の赤瀬川源平さんが提唱しているダイエット法であ
る。まだ本にはなっていない。
 みんな、やせたいというけれども、やせるのなんてカンタンだ。クヨクヨ悩めばいいので、クヨク
ヨするだけで、食事はいつも通り、体操なんかしなくたって、やせられる。というダイエット法であ
る。』
これはいいかもしれない(笑)。しかし、知らず知らずのうちに実践しているなんてことがあるかも
しれませんよ。若い人には、失恋ダイエットもいいんじゃないかな。やせるは気から、っていうから。

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島を旅するときが楽しいですね。
遠くに眺めるのも好きです。
楽園なんてないんですけどね。

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