ムッシュの読書紀行
人生は旅のようだと言いますが、旅が人生かも知れません。 ぼくは活字中毒気味でもあり、旅はまだまだ続くでしょう。
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公園のベンチで読書
そのころの記憶はおおむね苦い味といってもいい。比喩ではなくて、思い出すとかならず口のなかに
苦さをともなった唾液が分泌される。時間の経過も支離滅裂である。どこかで飲んでいたことはわか
るのだが、その後どうなったのかさっぱり記憶にない。酔っぱらっていたからだろうか。それもある
のだろうが、それだけではない気がしてならない。思いだしたくないものは思いだしたくはないがゆ
えに思いださなくてはならない、と強迫的に考える。だれかと飲んでいたのか。ひとりではない気が
する。ひとりなら思いだせないはずがない。そのだれかが問題なのだろう。あるいはだれかの影とい
う可能性がないでもない。考えに考えている自分をいつか俯瞰していることに気づく。これはどうい
うことだろうかとしばし黙考する。光を感じ振りかえったがなにも見えなかった。長い間息を止めて
いたようだ。いつしか公園のベンチにすわって深呼吸していた。横には伏せたままの文庫本があった。

N9443ストロベリームーン

「アガーフィアの森」 ワシーリー・ベスコフ 河野万里子訳 新潮社 ★★★★
これはシベリアの針葉樹林帯(タイガ)の山中深くで四十年以上にもわたって完全に世間とは隔絶し
て暮らす人たちのことを書いた本である。もちろん自給自足で電気もガスもない生活だ。火は火打ち
石で、明かりといえば松明である。だが未開民族というのではない。あえて人里離れた地に暮らして
いるのだ。ルイコフ一家五人は、自分たちは「真のキリスト教徒」であることを選びそのために森に
身をひそめて暮らしている家族なのだとはっきりと述べた。彼らははるか昔にピョートル大帝の宗教
改革に反旗をひるがえし、それからおよそ三百年、自分たちの信仰を守るためにひたすら逃げ、隠れ
続けながら生きた家族の末裔なのだった。信仰の力というのは底知れないと感じさせられる。宗教的
な対立が戦争へとつながったという歴史は枚挙にいとまがない。そこまでのなんともふつうでは考え
られない力を人々に与える。本書に登場する方たちのなかにもそれらの力を感じることができる。し
かし想像もしてみてほしい。自分であったなら、このようなことができただろうか。わが身に引き寄
せて考えるとき、そのすごさが実感できるのだ。彼らが発見されたときの年齢は、ルポ・オシポヴィ
チ・ルイコフ老人八十歳、長男サヴィン五十六歳、ナターリア四十六歳、ドミートリー四十歳、末っ
子のアガーフィアは三十七歳になるという。一九七八年のことである。
『ルイコフ家の人間は、誰一人、自分たちのことを「逃亡者」と言いはしない。当事者たちは使わな
いことばなのかもしれないし、年月とともにすでに消えたことばなのかもしれない。だが彼らの一家
の歴史こそ、逃亡の歴史そのものではないか。世俗の生活を拒否し、あらゆる権力を拒み、法律も書
類も栄養も否定した。新しい時代の、この「俗世」のならわしすべてを、拒絶した。』
このことばが忘れられない。だれかがなにかを手伝おうと申し出ても、こう答えるのだ。
『「それは、わたしたちには禁じられていることです……」』
それでも素朴な人たちでもある。かわいらしささえ感じるアガーフィアなのだ。古い小屋と新たな小
屋との引っ越しに際しては、こんな忍耐強い働きもみせるのだ。
『小屋と小屋との往復が始まる。深い森の中、片道十キロの道のりだ。行きに十キロ、帰りにまた十
キロ。じゃがいもか雑穀の粉でいっぱいのバケツを、両手にひとつずつ下げてである。中身は、乾燥
させた食糧や食器類や衣類であることもあった。徒歩で、四時間。「最初は何もなしで歩いていたけ
ど、雪が深くなってからは、スキーをはいたわ」』
なにに祈ればいいのかはさだかではないが、祈りたいと思う。元気であってほしいとだれもが思った
ことだろう。だから国中からいろんな支援が寄せられ続けているのだ。

「本屋さんで待ちあわせ」 三浦しをん 大和書房 ★★★
はじめに本書は一応「書評集」である、と筆者が述べている。ただ彼女はこうも書いている。
『私は本を紹介する際に、ひとつの方針を立てている。「ピンとこなかったものについては、最初か
ら黙して語らない(つまり、取りあげてああだこうだ言わない)だ。』
こういう姿勢は素人ならわからないでもない。小説家の場合も似たようなものなのかもしれない。同
業者の悪口は言いたくないということになるのだろうか。まあ、言われたくもないのだろう。だが、
これは一部の読者の期待を裏切ることになる。書評なんてものは、褒め殺しがいちばんピンとこない。
読んでもつまらない。本が好きで、悪口を言うのが好きなら鬼に金棒なのになあ、などと部外者は気
楽に考えるのだ。
『また、たとえ私にはピンとこなかったとしても、その本や漫画を好きなかたが当然おられるのだか
ら、わざわざネガティブな感想を表明して、該当の書籍やそれを好きなひとたちを否定する必要も権
利もないと考えるからでもある。
 ひとによっていろんな読みかたができるから、本や漫画はおもしろい。』
これはちょっと一般の読者をみくびっているのかなあ、と思う。ネガティブな感想の表明がその本を
否定するとは考えすぎではないか。その後に、「ひとによっていろんな読みかたができるから、本や
漫画はおもしろい。」と自分で書いているではないですか。そんなに気にしなくてもいいと考えるの
はやはり部外者だからか。そういえば、辛口の批評家に作家はすくない。そういう狭い世界に住むの
は、ある意味いごこちがいいのかなあなどとも考えるのだ。だから、同業者が作品を選ぶ「芥川賞」
「直木賞」にはあまり興味がわかない。ともあれ、通読して何冊か読んでみようかな、というものが
ありました。こうやって読書がつながっていくのは、ありがたいものです。最後に、井上荒野さん(
好きな作家です)の「潤一」の評にこういう文があった。
『私は、「なにかを捨てたかわりに、別のなにかを得ることができた」という考え方があまり好きで
はない。それは一見、とても潔い選択であり、「そうまでしてでも、本気で得たいものがあったのだ」
という強固な意志表明であるようだが、実は、非常に単純で傲慢な思考回路だと思うからだ。なにか
を捨てればなにかを得られるほど、物事は簡単にできてはいない。』
「なにかを捨てたかわりに、別のなにかを得ることができた」というのは、自分自身に対する言い訳
なのだ。そうでもしないと苦しいのだ。人はそれほど簡単には考えていない、と思うけどなあ。

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島を旅するときが楽しいですね。
遠くに眺めるのも好きです。
楽園なんてないんですけどね。

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